yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

大越国特別報告  四鎮に心を込めて御礼の条

2007-01-29 23:37:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
心を込めて
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 とても素晴らしい知らせが先ほど飛び込んできました。

 私達の大事な大事な仲間の最新の治療が成功したという知らせです。

 AE さんは私と20歳違いの女性です。

 元K新聞の記者で、私が乙訓時代は何度も何度も取材を受けました。支局に夜中まで 残って記事を書いている姿を何度も見かけました。そんな彼女が、長年の夢を叶えるために退職し、鍼灸医の資格を取るため専門学校に通い、無事国家試験に合格して開業したのはわずか5年程前のことでした。

 そんな彼女と親しくなったのはもちろん取材を通してでありますが、実は彼女の大学時代の恩師が、私達の尊敬する同志社女子大学の朧谷寿先生だったのです。いつの間にか先生を囲む楽しい会『10年会』ができたのです。この3人に加えて、私の宿敵?!山田博士、そしていつも登場するSM博士5人がたまたま10歳ずつ年齢が離れていることが判明し(順番はご想像にお任せいたします)、会の名称となり、春や夏、秋に冬とたいてい四季折々にいろいろなところでとりとめのない話をわいわいやってきたのです。

 そんな折に衝撃が走りました。

 彼女がこれまで世界中で完治例のない(大半が数年以内に亡くなる)悪性の多発性骨髄腫に罹っていることが判ったのです。

 そんな馬鹿な!みんなが思ったことは一番若いあなたがどうして?という思いでした。代わってあげられることなら代わりたい。心からそう思いました。彼女の屈託のない笑顔は何人にも代え難いからです。

 にもかかわらず、彼女は、もちろん相当の葛藤を経て、今ある命を大切にし、一生懸命生きようと決めたのです。そして、ここが彼女のすごいところ。

 自分の命だから、治療は納得するものを受けよう!もちろん鍼灸医というお医者さんでもあるのですから、医療の知識は十分あるのです。治療方法を自ら勉強し、一つ一つの治療の説明を納得するまで聞き、さらに治療の最中にまで改善方法を考え、病気の進行を食い止めたのです。

 その中でも一番のヒットは点滴の冷たさから身を守る方法です。冷たい点滴掖が、弱った身体をさらに弱らせ、体力をなくし、死を早めると考えた彼女は、点滴が身体に入る手前の腕にタオルで巻いたホカロンを当て、暖めて入れたのです。この方法は直ぐに病院中に広まったそうです。(その後私の家族が倒れ、同じ処置を医者に内緒でしたことがあり、無事の生還に繋がりました。皆さんも是非参考にしてください)

 しかし、油断大敵、一時本当に元気になり、再び私達と時々会い、四季を楽しんでいたのですが、昨年再び病状が悪化し、残されたもう一つの処置をすることになったのです。

 それが成功!!したのです。

 まだ無菌室にいます。春が来ないと出てこれません。でも、でも、一時は・・・・


(東鎮・白馬寺の白馬。必ず明るいお日様が上がってきますように!)

 だから!私は絶対に神社仏閣でお祈りもお賽銭も上げないのですが、彼女のためには世界中の神様にお祈りをしてきました。

 先日のハノイでは、都の四隅を護り、悪霊の入るのを防いだ四鎮を回ったことは前回報告しましたが、その折り、必ず、何の神様か知らないのですが、ヴェトナム通貨ドンでお賽銭をあげて回ったのです。

 その御利益があったのです!!

 でもまだ油断はできません。ご協力をお願いします。

 皆さん、ハノイに行ったら心を込めて!(ここが大切ですよ、お金の問題ではありません!!)四鎮へ参ってください。AEさんが世界最初の生還者となるよう!お願いします。


(四鎮の一つ真武観・北鎮の仏像?の側に置かれていた薩摩の壺。おじさんがわざわざこれは日本のものだと教えに来てくれました。もちろんここでもお賽銭を上げてお祈りしました。)

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大越国報告-3  四鎮を訪ねるの条

2007-01-22 17:25:27 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 新年が明け、日常が戻ってくると共に多くの授業や教育活動、そして例年のセンター試験監督、そしてそして、卒業論文の最後の指導?(今頃あがいてどうなるんやと言いたいが)とあい続き、先週はヘトヘトでした。山田博士は既にこうした職務から解放されたようで、おそらくこれから連日の美食巡りが報告されることでしょう(でも忘れちゃいけませんよ!!A書店の原稿締め切りは過ぎていますからね!!最近どんどん若い方からの原稿が届いています。当ブログ愛読者?の中にもたくさんの関係者がいるやに聞いております。個別催促は当方自身の忙しさから月末までしませんが、2月に入ると矢のような催促電話をかけまくることを宣言しておきますから、皆様お覚悟の程を!・・・巷では夏までは?等という戯けた噂を流している人がいるそうですが、トンデモハップン!!メ、メ、滅相もございません!)


(ハノイの15世紀古地図に見える南郊殿)
 とマー、少し威圧的に始めましたが、当人は至ってしょぼくれております。とにかく先週はヴェトナムとの間で資料をやりとりするのに四苦八苦、結局全ての資料がうまく届かず、全部徒労!!ホント情けなかった。疲れ百倍!どななってんのや!と原因不明に悩んでいたら、先ほどメール到来。

 研究所の電気系統の故障で電気が使えなんだとか・・・ヤメテー!!もっとはよいうてよ!なんてったて私はヴェトナム語なんてからきしできませんからね(済みません、不正確でした。外国語全て)、そんな人間が中学生以下英語で作文することの苦痛!もう一度中学へ行き直したいわ、と思いながらの悪戦苦闘の作文。その全てが徒労ですもんね。

 でもいいことも一つ。このブログをご覧になったらしいハノイ在住の日本人の方からメールを頂いた。先週の土曜には紹介した南郊殿の現場にご夫婦で行ってみるとか、こういうのは嬉しい限りですよね。うまくご覧になれたかしら?もちろんレストランからの眺めを推奨しておきましたが。

 さてそんな疲れた体に鞭打って?大事な大事な仕事に少々疲れたので、ちょっとコーヒーブレイク、と言うことで四鎮をご紹介します。タンロン王京四方を護る施設のことです。古代でいえば玄武(北)、朱雀(南)、青龍(東)、白虎(西)の四神ということなのでしょうが、ハノイでは古くからの由来がよく分かっていませんので、こうした中国の思想と結びつくものは残念ながら認められませんでした。遡れても18世紀でしょうかね。黎朝末年から阮朝初期くらいまではたどれそうですが・・・。あ、言い忘れてました、もちろん一人で行ったのではなくて、南以外は西村昌也さんのご案内です。有り難うございました。


(北鎮といわれる真武観です)

 まず北鎮・真武観です。太湖の南岸に位置しています。ここだけは以前にも前を通ったことがあるのですが、中に入ってじっくり見たのは初めてでした。位置的にはとてもいい場所にあると思います。なぜなら、私はタンロン宮殿の北側に広がる太湖こそ禁野・禁苑の一部ではないかと考えているからです。先に紹介したホアンジュウ18番通り遺跡(いわゆるタンロン宮殿跡)のA・B区の間に広がる運河は北から入ってきますが、その先は太湖と繋がっていると考えられます。太湖周辺(特に西側)には古代寺院の存在も指摘されており、大越国にとってとても重要な場所として認識されていたのではないでしょうか。その護りとして置かれたのが真武祠だとしても不思議はありません。「真武祠」は「鎮武祠」の転化ではないかとも思うのですが、内部の解説は違っていました。


(名前の通り東の門の推定地にあるのが東門寺です。東橋寺とも言います。)
 ついで東鎮・白馬寺です。日本での白馬節会は中国の故事「正月七日春青陽に青馬を見ると邪気を払うことができる」によっていると言われます。大越国においてもそうだったのでしょうか。タンロン宮殿の真東に白馬寺は位置しています。ちなみに白馬寺の直ぐ近くには東門寺というお寺があります。これはタンロン宮殿の東門に当たる所からこの名が付いたと言われており、宮城域を復元する上で重要なお寺ですが、いつ寺ができたのか、何のためにこの地にできたのかについてはよく分かっていません。

(東鎮とされる白馬寺です。)
 西鎮はハノイ動物園の一角に動物園に囲われるようにしてたたずんでいます。案内してくれた西村さんは羅城の一部がこちらに回ってくるのではないかと仰っていましたが、ここにも小さな湖が広がっていました。ハノイ市内のあちこちには紅河の旧河道に由来すると思われる湖があちこちにありますから偶然かも知れませんが、社稷壇や南郊殿の南にも湖があり、中国でも明代初め、南京や北京にあった大祀殿(天地壇)には南に海(池?)が置かれたそうですから、全く無視する必要はないでしょう。頭の片隅に留めておいてもいい地形だと思いました。
 

(西鎮は子供達の歓声一杯のハノイ動物園の中に遺っていました。)

 さて、ここまで回ってタイムアップ。南鎮は翌日一人で回る羽目になってしまいました。地図と所在地だけ書いてもらって、タクシーの運転手にこれを見せて行ってもらうことにしました。もちろん言葉が通じませんから、万が一とんでもないところに行かれたらもうアウト!です。しかし、何とかその直ぐ近くまで到達し、広い道のど真ん中で車をおろされて、ガラガラを引きながらおそるそる南鎮に入りました。どのお寺(祠)もそうですが、外観はあまり変わり映えがしません。ただ共通していることはどのお寺にいらっしゃる年配の方(坊さん?)はたいてい漢字が読めるみたいだということです。私を日本人と知ってか知らずか、南鎮でも生け垣のカットをしていた方がわざわざ私を石碑の所まで案内してくださり、これを読めと言ってくれました。本当にヴェトナムや朝鮮が漢字を捨てたのは残念でなりません(と同時にいまの日本の若者がどんどん漢字離れしていることに危機感を持ちます)。
 

(南鎮は社稷壇の東普通に歩いても20分くらいの所にありました。)

 南鎮前の道が実は例の社稷壇に向かう道路だったのです。道路工事中でとてもガラガラを引きながら歩けませんでしたので、やむなくタクシーに乗ってタンロンの調査事務所へ向かいました。少し心残りでした。
 こうした四鎮の見学を通して感じたことはやはりこれらの施設がかつてのタンロン王京の京域と深い関係性をもっているのではないかということでした。あるいは、タンロンの京域は、中国江南の諸都市の様に、水上交通を主としたものかも知れません。水陸両面から京域の復元に迫らなければいけないのかも知れませんね。


(フエの南郊殿での祭り。)

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号外  京都新聞夕刊2007年1月6日土曜日7面 追想

2007-01-13 22:58:56 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨年末に京都新聞の佐分利記者から電話があり、高橋美久二さんのお亡くなりになったことを是非「追想」欄で取り上げたいので、話を聞かせてくれないかという。

 もちろんこちらからお願いしたいくらいのことなのでお話しをさせていただいた。
 京都の自宅で4時間くらいお話ししただろうか。
 まだまだお伝えしたいことは一杯一杯あったのだけれど、文字になるのはそのほんの一部。佐分利さんには申し訳なかったのだが、ついいろんな思い出を話することになった。もちろんその会話の中で思い出したことなどを先の「思い出」の中でも書いた。

 その取材記事の載った新聞が今日私の手元に届いた。



(飾られていた遺影もこの写真だった。亡くなる前に自ら出してこられた写真だという。8年前だからまだまだ若々しい元気な高橋さんだ。)

 開けてみてびっくり、四人の追想者が高橋さんと白川静、灰谷健次郎、柳田聖山。これが追想の記事ではなくて何かの受賞の記事ならとてもうれしいのだが、それでもちょっぴり拍手してしまった。
 
 もちろん寂しい! でも嬉しかった。


(追想欄の白川静、灰谷健次郎の記事)

 僕たちの高橋さんの偉大さを判ってくれた人がいたことが!!とてもとても!!

 有り難う佐分利さん。京都新聞の皆さん。

 このにこやかな、すがすがしいお顔がみれないなんて、もちろん悔しい!寂しい!!まだ信じられない。


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大越国報告-2  南郊殿を訪ねるの条

2007-01-12 01:36:03 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 12月30日には1490年作成(黎朝期)ハノイ地図にも明記されている南郊殿跡を訪ねました。往きは案内してくれた西野さんと一緒にタクシーでしたので、車を降りてびっくり!突然、大阪や名古屋のツインタワーのような(さすがにあそこまで高くはないんですけれど)、ビルの前でした。彼女によるとハノイ一の「高級」百貨店の入っているビルだということです(ちなみにこの百貨店に入っているスーパーでいつもの生春巻きの皮になるライスぺーパーを大量に買い込みました)。


(こんな近代的ビルの真横が現場なんです。)

 このツインタワーの乗っている方形の建物が百貨店。そこから現場を見るとこんな感じです。


(昼食を食べたレストランからは現場がばっちり見えます。左手の空き地をこれから発掘するそうです。うまくいけば天地壇の痕跡が全て見えるはずなのですが・・・)

 南北も判らないままに周辺の様子を撮りまくった後、現場に着きました。広大な更地の南側に工事現場が見えます。
 「まさか?」と思ったその場所こそ南郊殿の発掘調査現場でした。現場を案内してくださった陶磁器がご専門という「陳」先生によると、この発掘調査はそれまで所在していた国営工場が廃止になり、その跡地に先ほどのツインタワーと同じような高層ビルを建てることになりその事前調査なのだという。


(調査はまだまだこんな感じで、断面観察が主なようでした。)

 既存の工場の基礎を撤去し、新たなビルの基礎工事が始まったところでストップをかけ、大急ぎで調査を始めたところなのだという。30余年前の私自身の日常がよみがえってきました。
 基礎を撤去したところでは、今回発見された南郊殿の遺構面よりさらに1mほど下げられた断面を見ることができ、説明によるとこの地域での確認が初めての李朝期以前の地層だということでした。部分的にさらに下を掘ったところでは灰青色の粘湿土が出るらしく、ハノイ全体の地層に共通する紅河の氾濫堆積に起因する地層が堆積しているようでした。


(北西部から発見された瓦だまりです。なぜこの位置から瓦が出るのかが大いに問題です。天地壇には斎宮や祈年殿のような施設が伴う可能性があります。フエには南西部に斎宮が設けられていました。もし天地壇が現場の北に隠れているとするとこの瓦だまりは斎宮のものということになります。実に興味深いところです。)

 さてそうした調査?状況の中で圧巻だったのは北西隅で行われていた拡張部の調査でした。大量の平・丸瓦に混じって軒瓦や鴟尾の破片がぎっしり堆積していました。厚さ20cm近くにわたって堆積している瓦類の大半は李朝期のものだといいます。後で詳しく伺うと、陳朝期の資料も混じっているということなので建物倒壊の厳密な次期は陳朝期なのかも知れません(この辺の正確な変遷の判らないところがヴェトナムの発掘調査の大いなる問題なのですが、今は問わないことにしておきます)。調査対象地全体で20000㎡くらいはあるらしいのですが、その約3分の1が工事基礎の断面観察調査なのです。現在調査中の現場ではこの北西部と中央部北端で見つかった磚溜まり(担当者は「階段」と説明する)が目につく程度で、他には特に際だった期壇上の遺構などはなさそうでした。陳先生もこれから始まるであろう北側の調査区から南郊殿の中枢施設が見つかるのではないかと仰っていました。


(階段とも言われる磚の検出状況です。その当否は別にしてかなり残りが良さそうですから、北側に予想できる天地壇にも大いに期待が持てます。)

 さてその「階段」なのですが、根拠はないようなので「」付きです。そろそろ天壇(天地壇)が出てきてもいい場所だからそのように推測しているだけのようなのですが、かなり大型の典型的な李朝期の磚が写真のように乱雑に転がっていました。階段かどうかは別にして、少なくともこの辺りから「基壇」と関係のある遺構が出始めているらしいということだけは明らかになりました。

 この南郊殿が天壇と地壇の機能を併せ持つ天地壇なのか、天壇だけなのか、今の調査状況では全く明らかではありません。もちろんこの南郊殿が撤去された後、大越国の首都はフエに移動しますから、フエの南郊壇が参考になります。


(フエの南郊殿は宮城の南西部に設けられている。これは明らかに中国・朝鮮の南郊殿と異なっている。それにしても立派な天地壇だった。)


 一昨年の冬に訪れたフエの状況は写真の通りで、明らかに地壇と考えられる方形の壇の上に円壇が築かれています。フエは天地壇ということになります。先日行われたばかりの東アジア宮都研究に関する科学研究費の研究会で発表された山形大学の新宮先生のご報告によりますと、中国でも明清時代には天壇と地壇は一緒になったり独立したり紆余曲折があるようでした。同様にして李氏朝鮮においても、久留米大学の桑野先生のご報告によると、同様の変遷があるようで、大越国においても、フエがそうだからといって、今回のものも天地壇だと決めつけるのは問題がありそうでした。むしろ発掘調査の結果どちらなのかがはっきりすることで、中国や朝鮮のあり方がどの程度大越国に影響しているかを考えることができるようでした。日本では光仁・桓武・文徳という限られた王朝だけが採用した天壇(天地壇)の儀式がヴェトナムにおいてどの程度本格的に取り入れられたのか、その場合、中国や朝鮮の状況とどれだけ異なるのかといったことがこれからの発掘調査の進展で判ると思うと、とてもワクワクしました。是非正確な遺構面の確認と、各時期毎の遺構の正確な資料化を心がけていただきたいものです。

 現場を一通り見終わったところで、先ほどの北西部の瓦だまりから出ている瓦類を見せていただくことができました。お話しによると南郊殿の資材はタンロン宮殿にも運ばれているらしく、向こうでも同様の資料が確認されているようです。この事実は文献史料の記載と合うということですが、何に記載されているのかは聞き漏らしました。それはともかくとして、瓦の製作技法など丹念な考古学的検討が行われれば、両遺跡間の先後関係も明確になり、文献が正しいのかどうかも証明できます。これまた現場の方々の今後に期待するところです。


(午後からは南郊殿の周りをこうして歩き回り辻辻で測量を実施しました。続きは次回。)

 約3時間にわたり丁寧にご説明を受けた後、先の百貨店の一部にある食堂に入り全体の写真を撮り、ついでに昼食をして半日が終わりました。午後からは自分の足で南郊殿周辺の地形を確認し、簡易GPSで辻辻を測量しながらハノイの町を身体で覚える調査の開始です。その成果は次回にまた。

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大越国報告-1  社稷壇を歩くの条

2007-01-05 12:19:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
  新年明けましておめでとうございます今年もよろしくお願い申し上げます


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 年末に突然思い立ってベトナムに行って参りました。ハノイで見学した社稷壇と南郊殿はいずれも工事に伴う事前調査であり、いつまで見ることができるか不明ということで、やむなく新年を跨いで飛んでいきました。


(「社稷径」(Ngo(径) Xa(社) Dan(壇))の名の残る細い道を、現在幅50mに拡張する工事中なんです。それにしても背後の道のもうもうたる砂塵?排ガス!たまりませんね。)

 わずか5日足らずの滞在でしたが、とても充実した日を過ごすことができました。社稷壇や南郊殿もさることながら、急な旅立ちで通訳の手配もままならず、丸二日分は一人で初めて自分の足でハノイ市内を歩き回ることになってしまい、そのお陰でようやくタンロン王城を実感するという副産物を手に入れることができました。それにしてもハノイの交通事情は中国の比ではありません。なぜならば、バイクが多すぎるのです。バイクには排ガス規制がかかっていないのではないでしょうか。一日中ものすごい排ガスなんです。女性のバイカーはみんなマスクをしています(何故男性がしないのかは判りません)。晴れの日も曇りと変わらぬくらい町がよどんでいるのです。それ以上に旅行者にとっての問題は、みんながバイクに乗るので、歩行者がいないのです。その結果どうなるか?歩道がバイクの駐車場と化すのです。だから、歩道を歩くにはバイクとバイクの間をすりむけていかなければならないし、場合によってはほとんど歩く余地がないため、車道を歩く羽目になるのです。これは大いに危険!!
 そしてもうひとつの問題が、車道を横断するのがきわめてむつかしいということです。中国ならばだれかが路を横断しています。ですからそれについていけばいいのです。斜め後方に金魚の糞のようにしてくっついていけば何とか道が渡れることを最近知りました。ところがなんです。よほどの老人を除けばみんなバイクに乗っているものですから、横断する人が滅多にいないのです。一人で信号のない大きな交差点を渡ったときの恐怖感!皆さんは止めた方がいいですよ。きっとバイクに轢かれます!!!ハノイの町は歩いてなんとか土地勘を得ることができたのですが、それはなかなかのスリリングな旅でした。


(ハノイ中心部の地図。持ち歩いたためぼろぼろになってしまいました。上が北ですが、緑になっているところが王宮の中心部です。右(東)が東門寺のある大商店街、そして黄色の部分が南の住宅や新興商店街です。この中に社稷壇と南郊殿があります。)

 社稷壇や南郊殿の発掘調査に伴う資料はまだ十分には揃っていませんので、その解釈についても今少しの時間が必要かと思います。しかしせっかくの最新情報ですから、とりあえずここにスナップ写真でご紹介しておくことにします。もちろんヴェトナム社会科学院考古研究所からも快く情報の公開を認めてもらっています。ただ彼らとてまだ十分な発掘調査資料を整理し切れていない段階です。不正確な資料提示は誤解を招くといけませんので、とりあえず今回は発掘風景や周辺の歴史的、地理的環境を中心に私の思いついた事柄を書いておこうと思います。いずれ、何処かの雑誌にカラー写真付きで、もう少し掘り下げてきちんと書くことも約束してきました。それまでのダイジェスト版です。お許し下さい。

 まず歴史地理学的にこの発掘調査区は以前から社稷壇と南郊殿のあるところと考えられていたそうです。例えば、社稷壇ですが、今回の発掘調査地の直ぐ南を通る細い道路(路地?)の名称が「Ngo(径) Xa(社) Dan(壇)」(正確なベトナム語表記は各母音のところに発音に関する記号が付きますが、手元にヴェトナム語のソフトがありませんのでそれは略します)です。いってみれば社稷壇通りとでもいうのでしょうか、そのものずばりの名前が残っているのです。さらに地図によれば、道の南には「社壇湖」という小さな湖(池)があります。調査開始前にはぎっしり家が建っていたらしく、その立ち退きに日本のODAが使われ、幅50m近い道路の建設が始まることになったようです(しかし今のハノイでは、道をどんなに広げてもバイクの洪水は収まりません。路面電車などの公共交通網を整備する方が先決ではないかと思うのですが・・・)。立ち退きがなければ社稷壇は掘れなかったし、だからといって掘った暁には破壊されるし、どっちがいいのか、なかなか難しいところです(私はもちろんある理由で「今」掘るべきではないと思っています)。
 また、『大越史記全書』を調べていくと(まだ始めたばかりですが)、李朝の初め、1048年に「長廣門」外に社稷壇を立てたとあるのが初見のようです。社稷壇の北側を通っている道が「羅城通」と呼ばれ、羅城の推定地とされていますので、「長廣門」は羅城に取り付いていた門なのでしょうか。もしそうだとすると大越国の社稷壇は羅場外に位置したことになります。周辺に「長廣門」(ヴェトナム語でTruong quang mon)に通ずる道路名でもないかと拙い資料で調べてみましたが、残念ながら見つけることはできませんでした。もっとたくさんの地図資料が何処かにあるはずだし、私の知らない石碑資料が「中文研」で収集されているそうなので、その辺りで調べると出てくるかも知れませんね。今すぐ誰かがやれば先駆者になれるのになー。
 

(現場の向こうには既にこのような大きなクレーン車やブルドーザーが入り遺跡下5mほどが下げられ、基盤工事が進んでいます。まるで早く調査して出ていけ!といわんばかりの居丈高な状況です。橋脚工事を進める久留倍遺跡のようです。寂しい!!)

 発掘調査された遺構は社稷壇内の中軸「道路」であるとされています。その根拠があまり明確ではないので「」付きなのですが、簡単な磁石やGPSで道路状遺構を測るとだいたい北方向を指しているようなので、周辺の地形に社稷壇に規制された道路痕跡でもないかと地図を見るのですが。残念ながら、先の社稷壇通りを除いて認めることはできませんでした(時間と通行の都合でこの周辺は歩けませんでした)。目をさらに北に移すと、社稷壇の北には現在のホーチミン廟があります。タンロン王宮の四至がまだ明確ではないのですが、社稷壇はおおよそ宮城の西辺の南に位置するということになるのでしょうか。後日ご紹介する南郊殿が王宮の東門の南に位置していることとそれなりに関連している可能性が考えられます。但し南北の位置関係では、南郊殿の方がやや南に位置しているようです。

 さて、発掘現場で少し気になったのが、断片的に残されている長胴の壺類でした。例によって、堀方がとばされているものが多く、その掘削位置や正確な位置関係が判らないのですが、中に一つ、断面に残されたものが考察の材料として使えそうです。李朝期だといわれる壺が正位置で立って残されていました、よく観察すると、断面に堀方が認められます。平面上にも明瞭に認められ、直径1.5mくらいの穴に置かれているようです、担当者の話を総合すると、他にも数点あったらしく、調査地内に残されている断片的情報を総合して考えると、調査地内のあちこちに壺を埋納する遺構があったことが推定できます。
 言うまでもなく社稷壇は五穀の豊穣を祈る儀礼の場です。実施にどのように儀礼が展開されたのか今のところ『大越史記全書』には詳しく出てきませんので知るよしもありません。中国を含めて社稷壇を本格的に発掘調査した例は知られていないと思われますので、他の事例から推測することも難しそうです。初めての発掘調査だけにより慎重にこうした情報が集められるべきなのですが、なかなか異国の地では・・・。悲しい!!


(今も奈文研の協力で現地で発掘調査技術の指導を兼ねた再調査などが行われているようです。しかし問題はどうも受け手側にあるように思われます。こちらでどんなに一生懸命掘っ立て柱の堀方の説明をしても、鼻から聞こうとしないんですもの!変なプライドを捨てて真摯に耳を傾ける誠実さが不可欠ではないんですかね、学問には!ま、もっとも日本にも似たような状況がないわけではありませんがね・・・。)


 少なくとも壺の中の土壌分析だけは慎重にしてみてはどうですか、と現場担当者にはお願いしておいた。五穀のどれかがまとまって入っていることがあればとても面白いと思っています。あるいは壺の器表面に墨書や刻書で五穀の名前が刻んであるかも知れないからそれも是非注意してみて欲しいとお願いしておきました。

 夕刻からは発掘の無事を祈る儀式を行うのでということで、15時過ぎには現場から出て国立民俗博物館を見学しました。ところが予想外にここの展示は面白く、堪能することができました。また時間があれば番外編でご紹介することにしましょう。初日早々実に充実した一日でしたが、とても残念なのはこの遺跡が破壊されることを前提に調査されていることです。考古学院も、担当者も、もちろん行政の皆さんはみんな、保存は難しいと判断なさっているようです。私だってこの現場に立たされたなら、残したいのは山々なのだが、なかなか難しいなーと思うに違いありません。で得も世界初の調査なんです!!タンロン王宮・社稷壇・南郊殿・文廟などをまとめて世界遺産にすればハノイというあまり文化の香りの知られていない町をよみがえらせることができると思うんですよね。今回の旅でも驚いたのは年末から正月の便にもかかわらず飛行機は満席なんです。巷ではヴェトナムブームだとも言われています。この観光客を歴史遺産にもつなげることができれば、もっと増えるし、リピーターが出てくると思うのです。外人の観光客も、過去の歴史からか、フランス人などの欧米系を中心にとても多いし、ヴェトナムの方々もフランス語のできる方が多いのです。なればこそ、この歴史遺産を何とか!残すために私達のできることはないのか、是非考えてみようではありませんか。

 新年早々長くなりました。久しぶりに素晴らしい遺跡を見て興奮したせいでしょう。今年もこうしたできるだけ生の情報をどんどん出していければと念じております。どうぞよろしくお願いいたします。

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