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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/1e/ca533859d37641371a0f879fdb2b443c.jpg)
(常磐線で上野から磐城を経て原ノ町へ。2時間くらいで磐城についた。)
2月17/18日の二日間にわたって開催された第33回古代城柵官衙遺跡検討会に行ってきました。今回は現南相馬市の原町での開催でした。
相変わらずのバタバタで、直前までいろんな仕事をこなして、そろそろタクシーを呼ばなければ、といつものタクシー会社に電話するが誰も出ない。それはそうかも知れない。土曜日の朝5時半から出てくる運転手も数少ないに違いない(もっともこのタクシー会社殿様商売で、たいての時、まともに出たことがない)。準備不足は否めないのだが、そこで焦った。どうしよう?とにかく駅方面へ行ってみようということになり、急いで身支度を調えて、バス停へ向かう。しかしバスの出発時刻は電車の出発後しかないことが判明。
「エッツ!?」
ここでもう半分は諦めていた。但しこれに乗れないと相当遅刻するはず。困った!
仕方ない、がむしゃらに早朝の国道23号線の信号のないところを横断しながら、最寄りの江戸橋へ急いだ。あと五分くらいで駅という所で一人の若者が早足で駅方面に駆けていった。予定の特急はあと10分足らずで津駅を出る。もうとても間に合うはずはない。
「しかし、ちょっと待てよ、ひょっとして・・・」
若者を追うようにして沢山の荷物を抱えながら小走りに駅に向かった。既にポケットの中でとりあえずの小銭は握りしめていた。
奇跡が起こった(大袈裟な!)
勘は当たっていた。ナンと近鉄の嫌らしい商売のお陰で、特急の直前を走る急行があったのだ。それも遮断機が下り、目の前を電車が入構するそれを見ながら遮断機が上がると同時にホームへ走るという何ともスリリングな行動で、電車に飛び乗った。中で車掌さんから名古屋までの切符に買い換えると共に「この電車、次の白子で特急を待ちますか?」と聞く。
「OK!!」
そんなこんなで何とか予定の新幹線に乗り、東京から上野、上野からスーパーひたちに乗って原ノ町へ。会場にはいると一本目の報告が始まったところだった。開会の市長の挨拶を聞かなくて良い幸運?に恵まれたのだ。
相変わらずの手際の良い進行でどんどん報告が続く。多賀城跡、早風遺跡(東山官衙遺跡を取り囲むようにして見つかった大規模な土塁跡)、壇の越遺跡、南小林遺跡、秋田城・・・。
特に興味深かったのは早風遺跡の土塁の構築方法だった。8世紀後半に賀美郡衙跡とされる東山官衙遺跡を囲むようにして土塁のあることが判明した。その追跡調査の詳細な結果報告である。実に要領のいい発表はいつもながら感心させられる。見習いたいものだ。
場所によって二重に構築された城壁は低いところから5m近くにも及ぶという。但しよく分からなかったのはその城壁の構築方法である。土塁そのものは断ち割った部分があるので部分的によく分かったのだが、その土塁を構築する基底部の方法が知りたかったのだ。もちろん、鈴鹿関との関係で日本の土木技術の変遷に最近大変興味があるからである。
短い発表時間でそんなことまで触れる余裕があるはずもないから後の質問時間に尋ねようと思って準備をしていたのだが、ここでとんでもない質問者が登場!よく分からない意味のことをダラダラと質問し、とうとう質問時間はタイムアップ。アーア。仕方がない、懇親会で聞くことにしようか、と張り切っていたのだが、酔いが回ったせいか、発表者を捜し当てられず、二次会で周りの人に聞いたのだが、当人はおらず、結局不明。残念。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/94/4715ae6ebed15b678f3e53fdf8b8b90c.jpg)
(この夏井川下流右岸の小丘陵の上にあるのが根岸遺跡、その下にあるのが夏井廃寺である。)
さて、二日目は陸奥国南部(現福島県浜通地方の古代城柵官衙遺跡の変遷とその歴史的意味についての大変興味深い報告。今回のメインテーマである。特に根岸遺跡は先に脱稿した原稿でも度々使わさせてもらったもの、一語一語聞き漏らすまいと集中する。いわき市教育文化事業団の猪狩さんの報告はとても丁寧で、判りやすい。東北弁の素朴な(失礼!!)口調も、今泉さんを思い出させる(ご本人も前にいらっしゃったのだが)親しみのあるものだった。
報告でもやはり、鎌田さんの全国全面立評と評衙建設とのずれ、の歴史的背景については明確にはされなかった。本当は午後の討論で、今泉さんがコメントなさるので(そのレジュメは大変興味深い内容だっtだけに)聞きたかったのだが、東京での所用のために断念。いずれご本人からご教示を賜ることにしよう。
とても充実した二日間を過ごして久しぶりに京都へ、戻った時にはほとんど日が変わる直前だった。
さて、常磐線を北上しながら、車中、締め切りの過ぎた原稿を必死でパソコンに打ち込んでいる内に、アッと言う間に1時間余が過ぎた。疲れた目をふと窓外に向けると、そこは『常陸国風土記』の多珂評、石城評分評の地だった。言うまでもなく、鎌田元一さんの立証された全国全面立評の根拠とされた地であった。窓外を眺める内に鎌田さんの声が甦り、涙で薄曇りの窓外が益々煙ることになってしまった。今度はもう一度じっくりこの地を歩いてみようと思った瞬間でもあった。
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(常磐線で上野から磐城を経て原ノ町へ。2時間くらいで磐城についた。)
2月17/18日の二日間にわたって開催された第33回古代城柵官衙遺跡検討会に行ってきました。今回は現南相馬市の原町での開催でした。
相変わらずのバタバタで、直前までいろんな仕事をこなして、そろそろタクシーを呼ばなければ、といつものタクシー会社に電話するが誰も出ない。それはそうかも知れない。土曜日の朝5時半から出てくる運転手も数少ないに違いない(もっともこのタクシー会社殿様商売で、たいての時、まともに出たことがない)。準備不足は否めないのだが、そこで焦った。どうしよう?とにかく駅方面へ行ってみようということになり、急いで身支度を調えて、バス停へ向かう。しかしバスの出発時刻は電車の出発後しかないことが判明。
「エッツ!?」
ここでもう半分は諦めていた。但しこれに乗れないと相当遅刻するはず。困った!
仕方ない、がむしゃらに早朝の国道23号線の信号のないところを横断しながら、最寄りの江戸橋へ急いだ。あと五分くらいで駅という所で一人の若者が早足で駅方面に駆けていった。予定の特急はあと10分足らずで津駅を出る。もうとても間に合うはずはない。
「しかし、ちょっと待てよ、ひょっとして・・・」
若者を追うようにして沢山の荷物を抱えながら小走りに駅に向かった。既にポケットの中でとりあえずの小銭は握りしめていた。
奇跡が起こった(大袈裟な!)
勘は当たっていた。ナンと近鉄の嫌らしい商売のお陰で、特急の直前を走る急行があったのだ。それも遮断機が下り、目の前を電車が入構するそれを見ながら遮断機が上がると同時にホームへ走るという何ともスリリングな行動で、電車に飛び乗った。中で車掌さんから名古屋までの切符に買い換えると共に「この電車、次の白子で特急を待ちますか?」と聞く。
「OK!!」
そんなこんなで何とか予定の新幹線に乗り、東京から上野、上野からスーパーひたちに乗って原ノ町へ。会場にはいると一本目の報告が始まったところだった。開会の市長の挨拶を聞かなくて良い幸運?に恵まれたのだ。
相変わらずの手際の良い進行でどんどん報告が続く。多賀城跡、早風遺跡(東山官衙遺跡を取り囲むようにして見つかった大規模な土塁跡)、壇の越遺跡、南小林遺跡、秋田城・・・。
特に興味深かったのは早風遺跡の土塁の構築方法だった。8世紀後半に賀美郡衙跡とされる東山官衙遺跡を囲むようにして土塁のあることが判明した。その追跡調査の詳細な結果報告である。実に要領のいい発表はいつもながら感心させられる。見習いたいものだ。
場所によって二重に構築された城壁は低いところから5m近くにも及ぶという。但しよく分からなかったのはその城壁の構築方法である。土塁そのものは断ち割った部分があるので部分的によく分かったのだが、その土塁を構築する基底部の方法が知りたかったのだ。もちろん、鈴鹿関との関係で日本の土木技術の変遷に最近大変興味があるからである。
短い発表時間でそんなことまで触れる余裕があるはずもないから後の質問時間に尋ねようと思って準備をしていたのだが、ここでとんでもない質問者が登場!よく分からない意味のことをダラダラと質問し、とうとう質問時間はタイムアップ。アーア。仕方がない、懇親会で聞くことにしようか、と張り切っていたのだが、酔いが回ったせいか、発表者を捜し当てられず、二次会で周りの人に聞いたのだが、当人はおらず、結局不明。残念。
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(この夏井川下流右岸の小丘陵の上にあるのが根岸遺跡、その下にあるのが夏井廃寺である。)
さて、二日目は陸奥国南部(現福島県浜通地方の古代城柵官衙遺跡の変遷とその歴史的意味についての大変興味深い報告。今回のメインテーマである。特に根岸遺跡は先に脱稿した原稿でも度々使わさせてもらったもの、一語一語聞き漏らすまいと集中する。いわき市教育文化事業団の猪狩さんの報告はとても丁寧で、判りやすい。東北弁の素朴な(失礼!!)口調も、今泉さんを思い出させる(ご本人も前にいらっしゃったのだが)親しみのあるものだった。
報告でもやはり、鎌田さんの全国全面立評と評衙建設とのずれ、の歴史的背景については明確にはされなかった。本当は午後の討論で、今泉さんがコメントなさるので(そのレジュメは大変興味深い内容だっtだけに)聞きたかったのだが、東京での所用のために断念。いずれご本人からご教示を賜ることにしよう。
とても充実した二日間を過ごして久しぶりに京都へ、戻った時にはほとんど日が変わる直前だった。
さて、常磐線を北上しながら、車中、締め切りの過ぎた原稿を必死でパソコンに打ち込んでいる内に、アッと言う間に1時間余が過ぎた。疲れた目をふと窓外に向けると、そこは『常陸国風土記』の多珂評、石城評分評の地だった。言うまでもなく、鎌田元一さんの立証された全国全面立評の根拠とされた地であった。窓外を眺める内に鎌田さんの声が甦り、涙で薄曇りの窓外が益々煙ることになってしまった。今度はもう一度じっくりこの地を歩いてみようと思った瞬間でもあった。
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