yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

古代城柵官衙遺跡検討会報告  常磐線を北上の条

2007-02-20 23:47:52 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(常磐線で上野から磐城を経て原ノ町へ。2時間くらいで磐城についた。)

 2月17/18日の二日間にわたって開催された第33回古代城柵官衙遺跡検討会に行ってきました。今回は現南相馬市の原町での開催でした。

 相変わらずのバタバタで、直前までいろんな仕事をこなして、そろそろタクシーを呼ばなければ、といつものタクシー会社に電話するが誰も出ない。それはそうかも知れない。土曜日の朝5時半から出てくる運転手も数少ないに違いない(もっともこのタクシー会社殿様商売で、たいての時、まともに出たことがない)。準備不足は否めないのだが、そこで焦った。どうしよう?とにかく駅方面へ行ってみようということになり、急いで身支度を調えて、バス停へ向かう。しかしバスの出発時刻は電車の出発後しかないことが判明。
「エッツ!?」
ここでもう半分は諦めていた。但しこれに乗れないと相当遅刻するはず。困った!
仕方ない、がむしゃらに早朝の国道23号線の信号のないところを横断しながら、最寄りの江戸橋へ急いだ。あと五分くらいで駅という所で一人の若者が早足で駅方面に駆けていった。予定の特急はあと10分足らずで津駅を出る。もうとても間に合うはずはない。
「しかし、ちょっと待てよ、ひょっとして・・・」
若者を追うようにして沢山の荷物を抱えながら小走りに駅に向かった。既にポケットの中でとりあえずの小銭は握りしめていた。

 奇跡が起こった(大袈裟な!)

 勘は当たっていた。ナンと近鉄の嫌らしい商売のお陰で、特急の直前を走る急行があったのだ。それも遮断機が下り、目の前を電車が入構するそれを見ながら遮断機が上がると同時にホームへ走るという何ともスリリングな行動で、電車に飛び乗った。中で車掌さんから名古屋までの切符に買い換えると共に「この電車、次の白子で特急を待ちますか?」と聞く。

 「OK!!」

 そんなこんなで何とか予定の新幹線に乗り、東京から上野、上野からスーパーひたちに乗って原ノ町へ。会場にはいると一本目の報告が始まったところだった。開会の市長の挨拶を聞かなくて良い幸運?に恵まれたのだ。

 相変わらずの手際の良い進行でどんどん報告が続く。多賀城跡、早風遺跡(東山官衙遺跡を取り囲むようにして見つかった大規模な土塁跡)、壇の越遺跡、南小林遺跡、秋田城・・・。

 特に興味深かったのは早風遺跡の土塁の構築方法だった。8世紀後半に賀美郡衙跡とされる東山官衙遺跡を囲むようにして土塁のあることが判明した。その追跡調査の詳細な結果報告である。実に要領のいい発表はいつもながら感心させられる。見習いたいものだ。
 場所によって二重に構築された城壁は低いところから5m近くにも及ぶという。但しよく分からなかったのはその城壁の構築方法である。土塁そのものは断ち割った部分があるので部分的によく分かったのだが、その土塁を構築する基底部の方法が知りたかったのだ。もちろん、鈴鹿関との関係で日本の土木技術の変遷に最近大変興味があるからである。
 短い発表時間でそんなことまで触れる余裕があるはずもないから後の質問時間に尋ねようと思って準備をしていたのだが、ここでとんでもない質問者が登場!よく分からない意味のことをダラダラと質問し、とうとう質問時間はタイムアップ。アーア。仕方がない、懇親会で聞くことにしようか、と張り切っていたのだが、酔いが回ったせいか、発表者を捜し当てられず、二次会で周りの人に聞いたのだが、当人はおらず、結局不明。残念。


(この夏井川下流右岸の小丘陵の上にあるのが根岸遺跡、その下にあるのが夏井廃寺である。)

 さて、二日目は陸奥国南部(現福島県浜通地方の古代城柵官衙遺跡の変遷とその歴史的意味についての大変興味深い報告。今回のメインテーマである。特に根岸遺跡は先に脱稿した原稿でも度々使わさせてもらったもの、一語一語聞き漏らすまいと集中する。いわき市教育文化事業団の猪狩さんの報告はとても丁寧で、判りやすい。東北弁の素朴な(失礼!!)口調も、今泉さんを思い出させる(ご本人も前にいらっしゃったのだが)親しみのあるものだった。

 報告でもやはり、鎌田さんの全国全面立評と評衙建設とのずれ、の歴史的背景については明確にはされなかった。本当は午後の討論で、今泉さんがコメントなさるので(そのレジュメは大変興味深い内容だっtだけに)聞きたかったのだが、東京での所用のために断念。いずれご本人からご教示を賜ることにしよう。

 とても充実した二日間を過ごして久しぶりに京都へ、戻った時にはほとんど日が変わる直前だった。

 さて、常磐線を北上しながら、車中、締め切りの過ぎた原稿を必死でパソコンに打ち込んでいる内に、アッと言う間に1時間余が過ぎた。疲れた目をふと窓外に向けると、そこは『常陸国風土記』の多珂評、石城評分評の地だった。言うまでもなく、鎌田元一さんの立証された全国全面立評の根拠とされた地であった。窓外を眺める内に鎌田さんの声が甦り、涙で薄曇りの窓外が益々煙ることになってしまった。今度はもう一度じっくりこの地を歩いてみようと思った瞬間でもあった。

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壬申の乱ウオーク-6  大海人皇子を凌ぐ200人で名張を歩くの条

2007-02-13 19:40:54 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(豪華三岐バスにて名張へ。)

 昨日は第6回目の壬申の乱ウオークでした。今回は初めて672年6月24日甲申初日の条を歩くことになりました。大海人皇子が吉野を出て、榛原にあった宇陀郡家を経て名張へ入りますが、名張に入ったその地が赤目付近だと言われます。赤目というのはあの有名な赤目四十八滝のあるところで、大和から伊賀に入る最初の地域です。参加者の多くの方がこれまで、四日市や鈴鹿。関の方々ですから、予め四日市方面の方用にバスをチャーターすることになりました。もちろんこれらの準備はすべて久留倍遺跡を考える会の皆さんの段取りです(本当に感謝します!!)。




(本当にびっくりしました!!大げさではなく赤目駅が占領されていました。すごかった!考える会の皆さんの準備には本当に頭が下がります。有り難うございました。)

 果たしてバス代を払ってまでどれだのに皆さんが参加してくれるのか、とても心配でした。しかし、それらは全て杞憂でした。あっという間にバスの予約は一杯になり、断るのに一苦労したということなのです。補助席も入れて六十人。超満員のバスに乗っていざ出発でず。

 私は当初赤目駅に集合するつもりだったのですが、バスの中で解説しろ!という強い要望で、朝早く起きて四日市まで行き、バスに乗り込むことになりました。

 所要時間約二時間。最初は軽く話して後は寝ていようかと思っていたのですが、なかなか、そうはいきませんでした。後ろから熱気が伝わってくるのです。話し続けてまだ話したりないくらいで駅に着きました。

 ととところが、駅は異様な光景でした。人が溢れているのです。手伝いに来てくれた学生が必死で資料の配付をしています。バスで着いた連中もしばらく声も出ず、立ちすくんで茫然自失。直ぐに行動ができませんでした。

 ざっと二百人!!この人々をどの様に誘導しようか?直ぐにそのことが不安となってよぎりました。

 そんなところへ、本日の案内人名張市教育委員会の門田さんが登場!大きな拍手でお迎えして、とにかく出発です。

 本日のコースは
 JR富田駅7:30 → 近鉄四日市駅8:00 → バス内説明 → 近鉄赤目口駅10:00 → 丈六寺10:15 → 東海道を行く 隠郡家跡? → 11:00宇流富志彌神社 → 11:30 積田神社 → 11:45夏見廃寺 → 12:15 名張藤堂家邸跡 → 12:30近 鉄名張駅 (一旦解散) 
 14:30 近鉄名張駅集合 → 15:00 名張弥勒寺 → 17:00 近鉄四日市駅 → JR富田駅解散 

こんな欲張ったコース。とても全行程は無理!阿吽の呼吸で少しは端折りながら、皆さんを追い立てるようにまずは丈六寺へ。


(丈六寺の由来については詳細不明だが、平安時代に斎王好子内親王帰京の際この地に一泊したとの記録があるという。)


 とにかく駅前を空けないといけなかったので今日のコースの解説も兼ねて本日の『日本書紀』の段を解説。門田さんは丁寧に斎王上洛の道の由来を説明。
 
 直線道として残っている幅2メートルほどの道をながーい帯になって進行。

 さてこの先どうなることやら・・・。


(まるでデモ行進のような長蛇の列が名張赤目を占拠した。)

 丈六寺(常勒寺)から斎王上洛の道とされる田んぼの真ん中の細い道を行くと途中に道に面して墓があったり、相楽神社が忽然と姿を現す。門田さんによればこれも古道の証拠だという。





(観音遺跡遠望。ほ場整備事業に伴う発掘調査で奈良時代の正方位を向く遺構群が出土したことから名張郡衙の有力比低地となっている。但し、これを『日本書紀』に記載された郡家と関連づけることにはもう少し手続きが必要だろう。同所に頻出する「○○郡家」や「△△駅家」「××関」などの表現は潤色の可能性が高く、そのまま用いるのは危険だと思っている。)


(さらに大集団の移動は続く)

壬申の乱ではこの辺りは既に日が暮れて真っ暗闇、途中民家の垣を壊してたいまつとしたというから少々荒っぽい話である。この名張(当時は隠の字を当てていた)郡家を焼いて一行の力を見せつけ、大海人皇子一行への合流を促すが、誰も加わろうとはしなかったという。


(真夜中にさしかかったのがこの名張川(横河)だった。すると夜空に真っ黒な30㍍ばかりの雲が出てくる。皇子はこれを見て筮竹を取って占い、「天下が二分され、自らが天下を取るだろう」と予言して軍を進めるという前半のクライマックスが演出されている場所である。・・・ということは24日深夜は月が出た明るい夜だったのだろう。)


(宇流富志禰神社は名張川を渡って直ぐの小さな丘の上にある。元のご神体は川の中にあった巨岩だというから水の神様であろう。)

列は進みこちらもいよいよ本日のクライマックス夏見廃寺まで後もう一息である。



(約8㎞二時間余のウオーキングはポカポカ陽気の名張赤目から夏見への旅であった。さすがに疲れたのか夏見廃寺では講堂の基壇に座り込んで皆さん動こうとしなかった。お疲れ様!!)

次回は5月12日(土)吉野へバスでの大移動をした後、鳴滝遺跡など吉野離宮周辺を散策する。桜が散った新緑の吉野はとても魅力的だろう。それにしてもまたたくさん応募があったらどうしよう・・・。でも誰も参加してくれなかっても困るしなー。複雑!

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近況報告  心身共に辛かった!の条

2007-02-10 23:36:52 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 しばらくブログを書く気にもならなかったのです。それくらいこの1週間はとても辛い日々が続きました。
 折角前回、私の友人の順調な回復をお伝えし、ベトナムハノイの四鎮のお陰と感謝したばかりなのに、その直後に鎌田元一さんの訃報が届いたのです。
 鎌田先生と呼ぶべき学恩多き方なのですが、前職でお付き合いするときに、
「先生はやめて!」、と言うことで、「鎌田さん」「山中さん」になったのです。

 鎌田さんとの出会いは『長岡京木簡二』の刊行過程においてでした。毎日、毎日、新幹線下のプレハブに通ってもらって、左京第八〇一八次や左京第二〇八次の木簡の釈読に当たってもらったのです。もちろんそれらの木簡の大半は、長岡京木簡研究の第一人者清水みきさんが既に読み尽くしていたのですが、二人ともとても慎重で、もう一度二人の目で一字一字確認し合いながら釈文を確定していくのです。向日市は貧乏で、とても赤外線テレビを買うお金などなかったのですが、京都産業大学の井上満郎先生のご厚意で、旧型とはいえ赤外線テレビをお借りすることができ、それも駆使しながら、何度も何度も水につけては二人であちこちの大部な辞書をひっくり返しては文字を探していくのです。
 それはたとえどんなに細かくなったいわゆる削り屑といわれるものにおいてでもそうなのです。どんなに頑張っても、どんなに素晴らしい科学兵器が開発されても、まず文字として読めることなどないだろう、と思われるものまで、二人でいつまでも見ているのです。そして疲れるとタバコ!!当時向日市のプレハブは既に禁煙!!だったのですが、鎌田さんだけは特例でした。
 ヘビースモーカーだった私にはその禁断の煙の魅力は、いやと言うほど判るのです。しかし、当時胃潰瘍を患っておられた鎌田さんですから、タバコはやめた方がいいんじゃないですか、と親しくなった勢いで言うのですが、全くの馬耳東風・・・煙に巻いてしまうのです。
「だってなー、医者に聞いてみるんや、山中君な、そしたらな、医者もな、自分も吸うもんやからやな、止めろとは言わへんのや」
胃の手術をした後もこんな調子だった。コンだけうまそうに吸うんやからこの人に言うても仕方ないな、そう思わざるを得なかった。でも、今になって思えば、この配慮があだになってしまった。

 三年程前だったろうか、誰かがこっそり耳打ちするのです。
 「・・・・!!」
肺に病魔ができたと聞いて、とてもとても心配だった。でも一時お元気で、授業もなさっておられると聞き、割と早期に発見されたのかな、といい方に思いこもうとした。しかし、伝わる話は高橋美久二さんと同じで決していいものではなかった。そのうち、あらゆる公職を降りられ、闘病に専念されたと聞き、それなりの覚悟はなさったのだなと思った。
 亡くなるつい数日前にも、京都大学に通う私の元教え子に情報を聞いたところ、一〇月まではお休みだったがまた授業されてる見たいという話を聞き少しホッとしていた矢先だった。
 
 今回は通夜、葬儀ともに参列することができた。あちこちに親しい顔が並んでいる。北海道から九州まで、まさに日本の古代史研究の一線の顔が次々と目の前を横切っていく。最近はこんな所でばかり会いますね、という声があちこちでする。私はどうしたわけか、生唾と冷や汗ばかりでて、じっと座っていることもままならなかった。ひどい風邪に罹って、二日ばかり寝込んでしまった。
 
 にもかかわらず次々と仕事の山が押し寄せて,来る。そんな悲惨な一週間が過ぎ、少しゆとりがでてきた。短い原稿も二三出すことができた。
 しかし、あの食い入るような鎌田さんの目にもう会うことがないのだと思うと深い深い寂しさだけがこみ上げて,くる。高橋さん、鎌田さんが早く逝ってしまわれた分、せめて安藤さんには永く永く生きてもらいたい。もう二度とお別れの涙は流したくない!

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