yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

長岡京歴史散歩の幟旗が出来上がってきました!の条

2015-05-29 23:09:08 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


卒業生のデザインになる幟旗が届きました。
早速つけてみました。
なかなかユニークな幟です。土曜にはこれを持って歩くのですが、幟は5本あるのですが、そんなに来てくれるかな?幟の方が目立ったりしたら恥ずかしいな。(笑)

資料もできましたよ。中身はセンター発行のものを利用しただけですが、やはり一人でやるのは大変!(笑)
ホッチキスどめが終わったのが、今朝の2時!
あー眠い!
そしてたった今、幟専用の袋ができました。用いた生地は長岡京遷都1200年を記念して作った風呂敷です。世の中に二つとありません!





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いよいよ明日「長岡京歴史散歩」第1回開催!お誘いの条!

2015-05-29 00:00:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 いよいよ長岡京歴史散歩の歴史的な第一歩(大袈裟な!!(笑))が歩を進めることになりました。

 明日5月30日13時西向日駅西口出発!!


 記念すべき第1回は長岡宮の中心部を歩きます。

「長岡京歴史散歩」


 第1回 大極殿周辺を歩いて長岡京の魅力を探る

 第1回は長岡宮城の中枢部を歩きます。何度も行かれた方がおありかも知れませんが、近年の向日市による整備はとてもよく、きめ細かく進められており、少し行かないうちに景色が一変しております。また発掘調査の進展によって、宮城の中枢施設の配置にも諸説が出されています。にもかかわらず、中山修一先生が提示された基本構造が無理なく理解できるものであることも実証されつつあります。そんな中枢部をゆっくり歩いてみようと思っております。

 2015年5月30日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅西口集合

〈主な予定コース〉

 西向日駅 → 朝堂院南門・門闕跡→西第四堂→西第三堂→嶋院(向陽小学校)→長岡宮西大垣(向日神社境内一帯)→ 向日神社 → 元稲荷古墳 → 朝堂院北西官衙 → 西宮(前期内裏) → 大極殿・朝堂院 → 西向日駅解散

 こんなチラシを作りました。お金がありませんのでパソコンで打って自宅のプリンターで印刷した簡単なものです。

 幟旗も作りました。私の教え子がデザインしてくれました。モデルは四日市でやって来た「壬申の乱ウオーク」です。果たして気に入っていただけますかね。

長岡京歴史散歩幟一応長岡京をイメージしています。




 1 開催の趣旨
  近年、長岡京跡の発掘調査はめざましく、日々新しい成果が生み出され、1200年前の都の姿が手に取るように明らかになって来ています。しかし残念なことに発掘調査終了後は埋め戻され、住宅や工場、公共施設に変わってしまい現地を確認することが困難になっています。そこで、資料を手に取りながら、現地を巡り、往時の姿に思いをはせていただこうと考えています。また、時には長岡京や創始者である桓武天皇及びその関係者の縁の地にも足を運びます。春と秋の季候のいいときに長岡京跡を歩きながら往時を偲んでみませんか。

 2 開催要項
・ 解説 山中 章(三重大学名誉教授)もしお手伝いしてやろうという方がおられましたら是非お願いいたします。
・ 年4回 5月・9月・11月・3月の第4土曜日13時~17時実施予定。
  もちろん、機会があれば発掘中の現場なども見学したく思っておりますが、しばらくは調査済みの所を回ってみます。
・ 申し込み不要 参加費 無料
・ 連絡先 山中 章携帯電話 09091173424
・ メール yaa1948@gmail.com
・ 山中章のブログ「yaaさんの宮都研究」に1ヶ月前に詳細を掲載

3 2015年度開催予定 
• 第1回:大極殿周辺を歩いて長岡京の魅力を探る
2015年5月30日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅西口集合
〈主な予定コース〉 朝堂院南門→西第四堂→西第三堂→嶋院→長岡宮西大垣→向日神社→元稲荷古墳→朝堂院北西官衙→西宮(前期内裏)→大極殿・朝堂院→西向日駅
• 第2回 西市から長岡京の画期に触れる
2015年9月26日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西山天王山駅集合
〈主な予定コース〉  
• 第3回 桓武天皇のルーツを探る-1 百済王氏と山部親王
2015年11月28日(土)12時45分京阪電車 交野線宮之阪駅集合16時解散
〈主な予定コース〉 百済王神社→百済寺跡→禁野本町遺跡
• 第4回 東宮(後期内裏)周辺を歩いて長岡京の変化を感じる
2016年3月26日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅東口集合
〈主な予定コース〉 朝堂院東第四堂→築地跡→東宮(後期内裏)→春宮→宮城東大垣→南院→西向日駅

4 その他
 ・ ボランテアのお願い

もちろん第1回が無理でもこれから定期的に開催しますので一度は参加してみて下さい。10年しかない不思議な都ですが、その実態が手に取るように伝わってきます。

 長岡京歴史散歩、おもしろそうだな、是非参加してみようと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

こんにちは「あきら君人形」と申します。これから皆さんをご案内しますので宜しくお願いします。
 (これもある授業で学生が作ってくれました。可愛がってやって下さい。)

「久留倍官衙遺跡を考える会総会」講演会報告の条

2015-05-26 15:00:12 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 久留部官衙遺跡を考える会は設立して11年目を迎えます。既にここで何度もご紹介していますように、市民の会による行事としては驚異的な内容と頻度で、様々な活動を実施してこられました。私も名ばかりの顧問として毎年の総会には出席し、少しお手伝いをさせていただいております。
 今年はいろいろな行事との関係で少し遅くなりましたが、5月23日に大矢知地区市民センターで開催されました。11回目になりますので、そろそろネタが尽き叟なのですが、今回は「聖武・光仁・桓武三代の斎王」と題して、次の様な内容でお話しをしました。今回は新しい参加者が増え、50名余の多くの方が聞きに来て下さいました。感謝!!です。相変わらず資料が多すぎて、最後が尻切れトンボになったのが恥ずかしい限りです。



(久留部官衙遺跡を考える会事務局長大泉義明さん撮影 以下の写真もお同じ)

 
  聖武・光仁・桓武三代の斎王
   山中 章

 はじめに~伊勢斎王制度の成立~

 天武二(六七三)年、初めての斎王・大来(伯)皇女が選任された。以後、南北朝に廃絶するまで伊勢国多気郡の一角には伊勢斎宮が置かれたとされる。初代斎王・大来(伯)皇女の用いた初期斎宮の厳密な位置は不明だが、現史跡指定地の西部が有力視されてきた。ところが続く持統朝に斎王が任命された形跡はなく、文武朝の当耆皇女の時初めて「斎宮」の名称が認められる。文武朝下で短期間に相次いで斎王が任命されるが、その斎宮所在地もまた未だに不明とされている。
 文武朝には『大宝律令』が制定され、斎宮司が設置され、律令の整備と共に斎宮制度も体制が確立した時期である。斎王の相次ぐ任命もそうした制度的確立に伴うものとも考えられるが、その背景を解き明かした研究は未だにない。元明朝に正史は斎王の任命を記さないにも関わらず、『一代要記』に記された二人の斎王を認定するのが一般的である。当該期二属する土師器の出土もまた不明瞭のままである。
ところで、斎宮を行政的に管轄する組織が斎宮寮であるが、大宝元年に設置されたにも関わらず令外の官であり、当初は「斎宮司」であった。「斎宮寮」となるのは「斎宮寮之印」が定められる元正朝のことされ、当該期にも新たな動きが予想できるが、この斎宮寮の位置も定かではない。
斎王の名が再度見えるのが、異例の長期滞在をした聖武朝の井上斎王の時代であった。『政治要略』は後の「初斎院」や「野宮」に相当する施設の設置を伝え、初めてト定から群行に至る伊勢斎王の「形」が示され、その後のモデルとなる。しかしやはり、井上斎王の伊勢斎宮設置場所もまた明らかではない。
『延喜式』によると、早くから確立していたかに見える伊勢斎王制度だが、聖武の跡を継いだ孝謙朝以下、淳仁・-称徳朝の斎王についてはいずれも女王または出自不明の人物ばかりで、その実態はほとんど明らかになっていない。
古代王権にとって、斎王制度が必ずしも常置の不可欠の制度とはみなされていなかったのである。
この様に、通説では遅くとも大来(伯)皇女の斎王任命でもって斎王制度が確立したかの如く説かれる斎王制度だが、文献史料、考古資料のいずれも、必ずしも十分な根拠を示しているのではないのである。少なくとも八世紀後半段階までの斎宮制度については再検討する余地がある。
状況が一変するのが光仁・桓武朝における史跡東南部への明確な設計図に基づく斎宮寮以下の行政組織の設置と斎王常置の空間としての内院施設の建設であった。その造営は宮都建設者の手になる本格的で精度の高い極めて計画的なものであった。はじめて文献史料における斎王の任命と伊勢斎宮における施設や使用生活品の実態が一致したのである。
ところで斎宮には、六・九・十二月の斎王伊勢奉祭に際し、宿泊や休憩、食事をとる施設として離宮院のあることが知られている。離宮院についても、延暦一六(七九七)年、度会郡沼木郷高河原から湯田郷宇羽西(現離宮院跡地)へと移転され、御厨(大神宮司政庁)が神宮から離れるという大きな変化がある。さらに、天長元(八二四)年、即位間もない淳和天皇の詔によって、氏子斎王の斎宮は離宮院へ移転されることとなる。以後15年間、三代の斎王が離宮院を斎宮として用いるが、仁明朝の斎王である久子斎王の承和六(’八三九)年、大火によって焼失し、再び多気郡の地へ戻された。

 今回は珍しく黒板に板書しました。実はこれ、赤塚次郎さんからのアドバイスなのです。
 「この頃の講演会の聴衆は耳が肥えている。非常に熱心な方が多く、特に勉強したい方は大学の授業風に黒板に必要なことを核ととても喜ばれる。」これを実践しました。果たして効果は??

 


 Ⅰ 文献史料にみる古代王権と伊勢斎王
 (1) 天武朝の斎王~大来(伯)皇女~
1. 『日本書紀』天武二(673)年四月十四日条 「欲遣侍大来皇女于天照大神宮而令居初瀬斎宮是先潔身稍近神之所也。」
 これについては『扶桑略紀』も同年同月同日のこととして「以大来皇女献伊勢神宮始為斎宮。」と記し、大来(伯)皇女がまず初瀬斎宮に入って潔斎し、その上で伊勢神宮に天照大神を祭るために遣わされたことが知られる。後の野宮での潔斎に相当するのであろうか。これだけでは大来(伯)皇女がどの様にして伊勢神宮に遣えたのかは判らない。

(2) 文武朝の斎王~当耆皇女・田形内親王~
 次の持統天皇の時に斎王の派遣は認められない。文武天皇の時、当耆皇女が遣わされ、初めて「伊勢斎宮」の呼称が用いられた。 
2. 『続日本紀』文武二(698)年九月十日条 (以下いずれも『続日本紀』) 「丁夘。遣當耆皇女侍于伊勢齋宮。」
3. 慶雲三(706)年八月二九日条「庚子遣三品田形内親王。侍或伊勢大神宮。」
 文武朝には短期間に相次いで斎王が派遣されるがその理由は明らかではない。
4. 大宝元(701)年二月十六日条 「己未。遣泉内親王侍於伊勢齋宮。」
 しかし、次の太政官符にみるように、令外の官として設置された斎宮司が、この時点で斎宮寮に格上げされており、文武朝に斎宮の位置づけが上昇したことが判る。このことに対応するかの如く、斎宮跡史跡指定地内で初めて当該期の考古資料が確認され、伊勢斎宮がこの地に置かれた可能性が指摘できた。
5. 同年八月四日条 「甲辰。太政官處分。(中略)。又齋宮司准寮。屬官准長上焉。」
 にもかかわらず、次の元明朝には確実な斎王任命を確認することができない。

(3) 元正朝の斎王~久勢女王~
 元正朝に任命された久勢女王の時初めて百官が京城外にまで見送っている。翌年には「斎宮寮之印」が定められ、斎宮や斎王の体制の整えられていくことが確認できる。
6. 養老元(717)年四月六日条 「夏四月乙亥。庚午朔。遣久勢女王侍于伊勢太神宮。從官賜祿各有差。是日發入。百官送至京城外而還。以從五位下猪名眞人法麻呂。爲齋宮頭。」
7. 養老二(718)年八月一三日条「秋八月甲戌。壬戌朔。齋宮寮公文。始用印焉。」

Ⅱ 大来(伯)皇女・大津皇子姉弟の悲劇

 初代斎王大来(伯)皇女はどのようにして誕生したのか、その歴史的背景を探る。
 大伯皇女は母太田の皇女が百済出兵のために九州へ移動中の船の中で生まれたといわれる。太田皇女の父は天智天皇で同母の妹が鵜野讃良良皇女(後の持統天皇)である。姉妹共に大海人皇子に嫁ぎ、太田皇女は大伯皇女と大津皇子を生み、鵜野讃良良皇女は草壁皇子を生んだ。しかし大田皇女は大津に都が遷される天智六年(667)に死去し、姉弟は後ろ盾を失う。壬申の乱勝者の側にありながら、不幸な人生を歩んだ姉弟が背負った宿命であった。
  大田皇女の血統を排除する第一弾は斎王制度の創出にあった。未婚の皇族女性を天照大神に奉仕させるという皇祖神の奉祭のための新しい制度は、有力皇女の婚 姻の阻止という側面を有していた。第二弾は大津皇子呪詛事件のでっち上げによる皇子の殺害である。その首謀者は鵜野讃良良皇女であろう。こうした陰謀の臭 いを感じたのか姉弟は密かに伊勢の地で会ったという。

1 大伯皇女と大津皇子
 (1) 『萬葉集』の大伯皇女と大津皇子:大伯皇女(斉明天皇7(661)年1月8日- 大宝元(701)年12月27日)
  ① 巻第2 105~106番(大津皇子がひそかに伊勢神宮に下向してきた時に詠んだ歌)
  藤原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代大津皇子の、伊勢の神宮に竊ひ下りて上来ります時に、大伯皇女のよみませる御歌二首
  ・ わが背子を大和に遣るとさ夜深けて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし
  (吾勢祜乎 倭邊遣登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之)
  ・ 二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ
    (二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武)
  ② 同163~164番(大津皇子薨去後、退下・帰京途上で詠んだ歌)
  藤原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代大津皇子の薨しし後、大来皇女の伊勢の斎宮より上京りたまへる時、よみませる御歌二首
  ・ 神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに
    (神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓)
  ・ 見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに
    (欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓)
  ④ 同165~166番(大津皇子を二上山に移葬したときの歌)
  大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りまつれる時、大来皇女の哀傷みてよみませる御歌二首
  ・ うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む
    (宇都曾見乃 人尓有吾哉 從明日者 二上山乎 弟世登吾將見
  ・ 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといはなくに
    (礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓)

Ⅲ 井上内親王親子孫の悲劇


(1) 聖武朝の斎王~井上内親王~
1. 養老五(721)年九月十一日条「九月乙夘。天皇御内安殿。遣使供幣帛於伊勢太神宮。以皇太子女井上王爲齋内親王。」
 久勢女王に次いで任命されるのが井上内親王である。皇太子の娘でありながら斎王となる、前後に例を見ない斎王である。
そのト定から潔斎、群行に至る経緯が『政事要略』巻二四に詳しく述べられており、後のモデルとなったらしい。それによると、
①天皇内安殿出御
②舎人任命
③中臣・忌部の伊勢大神宮奉幣
④渡会神宮へ奉幣
⑤斎王任命
⑥北池辺新造宮へ移動
⑦移動の儀を右大臣長屋王が先導
⑧参議以上、侍従、孫王が前に烈立
⑨内侍が女嬬数十人を率いてこれに従う
⑩乳母や少女子十人余が輿を連ねて従う
⑪中臣と忌部が輿の前に従う
⑫輿を担ぐ大舎人は左右に6人ずつで、青の褶を着ける
⑬王二人ずつを前・後輿の長とする
⑭さらに内舎人8人ずつを、前後に並ばせる
⑮さらに宮城門と宮門の間に左右の衛士を立たしめる
 ⑯さらに群行前には斎宮寮の体制も整えられ、官人121人が追補されている
2. 神亀四(727)年八月二十三日条「八月壬戌。庚子朔。補齋宮寮官人一百廿一人。」
3. 同年九月三日条「九月壬申。庚午朔。遣井上内親王。侍於伊勢大神宮焉。」

 

(2) 光仁朝の斎王~酒人内親王~
1. 宝亀元(770)年十一月六日条「(中略) 又以井上内親王定皇后〈止〉宣天皇御命衆聞食宣。」授從四位下諱四品。從五位下桑原王。鴨王。神王並從四位下。酒人内親王三品。」
2. 宝亀二(771)年十一月十八日条「遣鍛冶正從五位下氣太王造齋宮於伊勢國。」
3. 宝亀三年三月二日条「皇后井上内親王坐巫蠱廢。(第五十三詔略)」
4. 宝亀三年五月二十七日条「廢皇太子他戸王爲庶人。(第五十四詔略) 故是以天之日嗣止定比儲賜部流皇太子位仁謀反大逆人之子乎治賜部例婆卿等百官人等天下百姓能念良麻久毛恥志賀多自氣奈志。」
5. 宝亀三(772)年十一月十三日条「己丑(13日)以酒人内親王爲伊勢齋。權居春日齋宮。」
6. 宝亀四年正月二日条「山部親王立太子
7. 宝亀四年三月五日条藤原鷹取、紀古佐美を伊勢国の守・介に任命
8. 宝亀四(773)年十月十九日条「大和国宇智郡幽閉」
9. 宝亀五年八月三日条「遣使秡淨天下諸國。以齋内親王將向伊勢也。」
10. 宝亀五年九月三日条「伊勢群行」
11. 宝亀六(775)年四月二十七日条「井上内親王。他戸王並卒」
12. 宝亀九(778)年三月二十七日条「大祓。遣使奉幣於伊勢大神宮及天下諸神。以皇太子不平也。又於畿内諸界祭疫神。」
13. 天長六年(829)八月丁卯二十日条「二品酒人内親王薨。広仁天皇(光仁天皇)之皇女也。母贈吉野皇后也。容貌□麗、柔質窈窕。幼配斎宮、年長而還。俄叙三品、桓武納之掖庭、寵幸方盛、生皇子朝原内親王。為性□傲、情操不修、天皇不禁、任其所欲。婬行弥増、不能自制。弘仁年中、優其衰慕、特授二品。常於東大寺、行万灯之会、以為身後之資、緇徒普之。薨時年七十六。(朝日本「優其衰暮」)」

(3)桓武朝の斎王・朝原内親王と井上内親王の血統
1. 天応元(781)年十月戊戌十三日条「授正四位上藤原朝臣家依從三位。无位朝原首眞糸女外從五位下。」
朝原内親王の乳母か?
2. 延暦四(785)年八月廿四日条「天皇行幸平城宮。先是。朝原内親王齋居平城。至是齋期既竟。將向伊勢神宮。故車駕親臨發入。」
朝原内親王の伊勢下向に際し、桓武が平城旧京へ見送りに出かけた。
3. 延暦十五(796)年七月九日条「幸南院。賜五位已上物有差。無品朝原内親王授三品。(下略)」
朝原内親王が伊勢斎王の職を終えて帰京したか。
4. 延暦十五年十二月十四日条「巡幸京中。便御三品朝原内親王第。賜五位以上物。」
5. 延暦十六(797)年二月十八日条「朝原内親王獻物。賜五位已上綿。」
6. 延暦十六年六月七日条「三品朝原内親王、献白雀。御監及家司等賜物有差。初見者伊勢直藤麻呂、獲者菅生朝臣魚麻呂、叙位一階。」
7. 延暦十七(798)年九月十九日条「越後国田地二百五十町、賜三品朝原内親王。」
8. 弘仁三(812)年五月十六日条「妃二品朝原内親王辞職。許之。」
9. 弘仁八(817)年四月六日条「賜二品朝原親王度六人。」
10. 弘仁八(817)年四月廿五日条「甲寅。二品朝原内親王薨。遣使監護喪事。親王者、皇統弥照天皇第二之女也。母曰酒人内親王。年卅九。」

(4) 布施内親王と伊勢国
1. 延暦十六(797)年四月十八日条「以布勢内親王、為伊勢大神宮斎。」
斎王布勢内親王卜上
2. 延暦一六年八月二十一日「野宮」
3. 延暦一八(799)年八月二五日条「伊勢神宮封幣使派遣」
4. 延暦一八年九月三日条「伊勢群行。」
5. 延暦二五(806)年三月一七日条「桓武天皇崩御」
6. 大同三(808)年十月七日条「遊獵北野。布勢内親王奉献。飮宴極日。有司奏樂。賜五位以上衣被。」
7. 弘仁三(812)年八月辛卯六日条「无品布勢内親王薨。詔贈四品。遣從五位下弟村王。從五位下文室眞人末嗣等。監護喪事。親王者。皇統彌照天皇第五女也。母丸朝臣氏。親王資性婉順。貞操殊勵。」延暦十六年爲伊勢齋。
8. 弘仁三(812)年十一月二七日条「贈四品布勢内親王墾田七百七十二町施入東西二寺。」
嵯峨天皇による布勢内親王の遺領七七二町の東西二寺への施入。
9. 弘仁四(823)年九月卅日条「故布勢内親王家直銭一万貫、充修理諸寺料。親王遺命也。
10. 天長三(826)年七月二十六日条「摂津国垂水庄公田一町八段。賜斎院司。

おわりに

1. 斎王制度に隠されたもう一つの目的
2. 政争に翻弄された斎王達
3. 伊勢斎王から賀茂斎王へ


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「長岡京歴史散歩」出発の条

2015-05-25 14:31:43 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 いよいよ長岡京歴史散歩の歴史的な第一歩(大袈裟な!!(笑))が歩を進めることになりました。

 以前にはお知らせしましたが、ここのところブログの更新を怠っていたのですっかりこの広報を忘れておりました。

 記念すべき第1回は長岡宮の中心部を歩きます。

「長岡京歴史散歩」


 第1回 大極殿周辺を歩いて長岡京の魅力を探る

 第1回は長岡宮城の中枢部を歩きます。何度も行かれた方がおありかも知れませんが、近年の向日市による整備はとてもよく、きめ細かく進められており、少し行かないうちに景色が一変しております。また発掘調査の進展によって、宮城の中枢施設の配置にも諸説が出されています。にもかかわらず、中山修一先生が提示された基本構造が無理なく理解できるものであることも実証されつつあります。そんな中枢部をゆっくり歩いてみようと思っております。

 2015年5月30日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅西口集合

〈主な予定コース〉

 西向日駅 → 朝堂院南門・門闕跡→西第四堂→西第三堂→嶋院(向陽小学校)→長岡宮西大垣(向日神社境内一帯)→ 向日神社 → 元稲荷古墳 → 朝堂院北西官衙 → 西宮(前期内裏) → 大極殿・朝堂院 → 西向日駅解散

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 1 開催の趣旨
  近年、長岡京跡の発掘調査はめざましく、日々新しい成果が生み出され、1200年前の都の姿が手に取るように明らかになって来ています。しかし残念なことに発掘調査終了後は埋め戻され、住宅や工場、公共施設に変わってしまい現地を確認することが困難になっています。そこで、資料を手に取りながら、現地を巡り、往時の姿に思いをはせていただこうと考えています。また、時には長岡京や創始者である桓武天皇及びその関係者の縁の地にも足を運びます。春と秋の季候のいいときに長岡京跡を歩きながら往時を偲んでみませんか。

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・ 年4回 5月・9月・11月・3月の第4土曜日13時~17時実施予定。
  もちろん、機会があれば発掘中の現場なども見学したく思っておりますが、しばらくは調査済みの所を回ってみます。
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3 2015年度開催予定 
• 第1回:大極殿周辺を歩いて長岡京の魅力を探る
2015年5月30日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅西口集合
〈主な予定コース〉 朝堂院南門→西第四堂→西第三堂→嶋院→長岡宮西大垣→向日神社→元稲荷古墳→朝堂院北西官衙→西宮(前期内裏)→大極殿・朝堂院→西向日駅
• 第2回 西市から長岡京の画期に触れる
2015年9月26日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西山天王山駅集合
〈主な予定コース〉  
• 第3回 桓武天皇のルーツを探る-1 百済王氏と山部親王
2015年11月28日(土)12時45分京阪電車 交野線宮之阪駅集合16時解散
〈主な予定コース〉 百済王神社→百済寺跡→禁野本町遺跡
• 第4回 東宮(後期内裏)周辺を歩いて長岡京の変化を感じる
2016年3月26日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅東口集合
〈主な予定コース〉 朝堂院東第四堂→築地跡→東宮(後期内裏)→春宮→宮城東大垣→南院→西向日駅

4 その他
 ・ ボランテアのお願い

もちろん第1回が無理でもこれから定期的に開催しますので一度は参加してみて下さい。10年しかない不思議な都ですが、その実態が手に取るように伝わってきます。

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第34回壬申の乱ウオーク~和珥部臣君手のふるさと池田町を訪ねて~の条

2015-05-22 16:44:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 長らくのご無沙汰です。度々長期休暇を頂き申し訳ありません。

 一旦最新の注射が効き、痛みも消えて、これで快方に向かうのかな、と思ったその後、再び痛みが再発し、検査をするとCRP(C-リアクティブ・プロテイン)がせっかく0,5にまで下がっていたのが再び2,0まで上昇していたのです。

 暫く様子を見ましたが改善の兆候が見られないので、注射をエンブレルからオレンシアに変えることにしました。
変えてから1ヶ月が経つのですが、なかなか痛みからは解放されません。お医者さん曰く、

「あんたのは頑固やなー」です。

いろいろ試さないと仕方ないな。しばらくはオレンシアをやって、様子を見ましょうということになりました。ただ、この頃困ることは痛みの根本が治らないもので、仕方なく痛み止めを胃薬と共に飲むのですが、その副作用で、胃が痛くなることです。これだけ痛いのは久しぶりです。なかなか一筋縄ではいかない病のようです。

 さて、前置きはこのくらいにして、壬申の乱ウオークです。

 今回は岐阜県揖斐郡池田町と大野町の古墳群を回りました。

 壬申の乱ウオークは第32・33・34と連続して壬申の乱を大海人皇子方の勝利に導く大きな役割をした三人の地方豪族、村國男依、身毛君廣、和珥部臣君手の故郷を訪ねてきました。それぞれ木曽川、長良川、揖斐川の中流域を掌握した地方の小豪族ですが、それぞれの出身地には特長有る遺跡が遺されているのです。揖斐川流域に遺された和珥部臣一族の墓域と推定されるのが願成寺西墳之越古墳群です。
 111基からなる群集墳で、1基を除き6世紀後半から7世紀前半に築造された古墳群だとされます。







 この地域は9世紀前半承和四(847)年までは南の安八郡に含まれていたことが知られています。壬申の乱が始まる二日前の6月22日、大海人皇子は三人に対し密命を発し、安八磨郡にあった湯沐邑の「令-うながし-」多臣品治に対し郡の兵を発して「不破道」を塞ぐよう連絡させます。

 『日本書紀』天武元年条
 天武天皇元年(六七二)六月壬午《22日》詔村國連男依。和珥部臣君手。身毛君廣曰。今聞。近江朝庭之臣等。爲朕謀害。是以汝等三人急往美濃國。告安八磨郡湯沐令多臣品治。宣示機要。而先發當郡兵。仍經國司等差發諸軍。急塞不破道。朕今發路。

 その一人が和珥部臣君手です。和珥部臣一族が根拠地としていたことを傍証する資料に揖斐川右岸中流域の郷名があります。
 北から、小島郷、伊福郷、春日郷、壬生郷、池田郷、額田郷です。額田部や春日部は和珥氏の一族であり、壬生郷は壬生部、伊福郷は伊福部との関係が推定でき、皇族との深い関係を持つ地方中小豪族の存在が考えられます。壬申の乱に際し三人が向かった先が安八磨郡の湯沐邑にいた多臣品治であることは先にみたとおりですが、当時安八磨評には後の池田郡域が含まれていました。和珥氏と皇族の配下にあった在地豪族の営んだ墓域こそ願成寺西墳之越古墳群であったと考えてはどうかというのが今の有力な説なのです。

 お昼ご飯を西国33番札所の谷汲山華厳寺の門前で済ませ、次に向かったのが揖斐川の左岸に展開する前期から中期の前方後円墳群で構成される国史跡野古墳群でした。

不動塚古墳を南から



不動塚古墳での説明



登越古墳を後円部後方から望む




 野古墳群は願成寺西墳之越古墳群より150年余り古い時期に築造が開始された古墳群で、古墳時代中期に揖斐川左岸上流域一帯を支配した豪族の墓域と考えられています。登越古墳が最も大きく、全長83,3mを測り、他に、モタレ古墳、不動塚古墳、南屋敷西古墳、南出口古墳、乾屋敷古墳などの前方後円墳が密集して築造された美濃地域でも例のない古墳群です。特に南口古墳からは中国からもたらされた鍍金七乳線彫式獣帯鏡が出土しており、ヤマト王権との深い関係が推定できます。

 こうした前期・中期からのヤマト王権との深い関係が基礎となって願成寺西墳之越古墳群の形成が促されたのかも知れません。

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