yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

レバノンレポート-3 水辺の城塞シドンでの遺跡巡りの条

2009-02-27 00:00:00 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
時差惚けも治まらぬうちにしばらく百済へ行ってきます。それにしても都市形成にとって軸線となる道路がいかに重要か実感しました。
人気ブログランキングへ







136 スークにて 山盛りの蜜柑 いきいきと
(すーくにて やまもりのみかん いきいきと)
20090222 1週間が過ぎ日曜日がやってきた。テイールの北30キロほどのところにあるシドン方面の遺跡巡りに出かけた。その帰り、シドンの伝統的市場を見学した。肉、魚、野菜に果物あらゆる物資が豊かに山積みされていた。とても戦争の国とは思えなかった。
ほとんど迷路状態の市場の中をレバノン考古総局調査官の一人ナーデル氏が、スイスイと案内してくれる。現在町並みの環境整備が進行中で、世界遺産のこの建物群が少しリフレッシュして(あまり趣を変えないようにしながら)整えられつつある。その一角にある伝統的なアラビア式浴場の一角には古式に則ったオリーブオイルによる石鹸が製造販売されている。お土産に買って帰るとご婦人方には好評だと聞いた。1個200円くらいで日本の5分の1だとか。




137  岸壁に 打ち寄す白波 シドン城
(がんぺきに うちよすはくは しどんじょう)
20090222 シドン港に浮かぶお城はまさに幻想的な光景を醸し出していた。激しい波が打ち寄せ,城内には海がもたらす砂が堆積していた。圧巻の風景だった。古くからあった城を十字軍の時代に再利用して建設したのだとか言う。レバノンの諸都市が地中海と切っても切れない関係にあることを実感させる遺跡だった。










138  テルプラータ 眼下に迫る 春波の音
(てるぷらーた がんかにせまる しゅんはのね)
20090222 海岸縁の小さなテルに設けられた小さな村の跡に出かけた。打ち寄せる波の音を聞きながら当時の彼らの暮らしに思いを馳せた。私は漁村ではないかと思ったのだが、当時の最小行政単位の「都市」だという。





139  オリーブの 絞りし跡に 春雨寒
(おりーぶの しぼりしあとに しゅんうかん)
20090222 シドンからさらに北へ数十キロ、山間の丘に設けられた寺院の一角には葡萄酒やオリーブオイルを製造する工場が附属していた。葡萄を曳く臼やそれを貯蔵する地下倉庫、丘の斜面を縫う道路、とても興味深い遺跡だった。





  




レバノンレポート-2 突然の回線不通のためドバイ空港から駄句集をアップの条

2009-02-24 07:33:09 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 電話線が断裂してメールが不通になりました。今帰国途中のドバイからです。あと9時間で日本です。そして先程帰りました!! 

人気ブログランキングへ




117  アルバスに 春一番を 知る旅人
  (あるばすに はるいちばんを しるたびと)
20090216 レバノンテイールアルバスサイトにて

(AL-Bass Siteはビザンチン時代にローマ時代のCity Siteの一角を墓域にしたもののようです。もちろんそれ以前の墓域も広がっているようですが、今保存、公開されているところはこれが主流のようです。この様な地下式の副室を持つ施設や石棺を埋めたものなど様々なものがあるそうです。)



118  石棺と 送葬の隙間 蓮華草
(せっかんと そうそうのすきま れんげそう)
20090217 レバノンテイールシテイーサイトにて

(この様に石棺が折り重なるようにして置かれています。残念なことにそのほとんどが盗掘され無残にも割られていました。人間の物欲のすさまじさを知ることができます。)



119  若草に 兵共が 怒声跡
(わかくさに つわものどもが どせいあと)
20090217 レバノンアルバスサイト戦車場の観覧席に座りながら1800年前の戦車競技の喧噪を思い起こしながら

(ヒッポドームと呼ばれた戦車競技場です。一周500m余の巨大な空間を取り巻くように観客席が設けられていました。2万人の収容ができたとのことです。)


120  階段に 響く怒声や いま草下
(かいだんに ひびくどせいや いまそうか)
20090217 レバノンアルバスサイト戦車場の観覧席に座りながら1800年前の戦車競技の喧噪を思い起こしながら,今は静かなたたずまいにイスラエルとの戦禍も忘れて。



121  青戦車 若草を蹴る 夢の先 
(あおせんしゃ わかくさをける ゆめのさき)
20090216 レバノンアルバスサイト戦車場ブルーチームのクラブハウスにいながら、1800年前の戦車競技の喧噪を思い起こす。

(案内してくれたレバノンテイールの碑文を研究している広島大学大学院のOH君の立っているところは一説にはBlueチームのトイレだったとか・・・?)



(彼の解説によるとここにはBlueチームの雄姿が称えられているとか・・・)



(これはTyrのCityに入るときの一つの入口記念門跡です。この先に続く石畳みが真っ直ぐ港に建設されたCity Siteまで続いていたと考えられます。)



(道に沿ってずっと山際からひいてこられた水道が設けられています。もちろんこれはそのまま港まで続きます。)



122  浴場と ローマン人と 春一番 
(よくじょうと ろーまんじんと はるいちばん)
20090217 レバノンテイールシテイーサイトにて,壮大な二階建ての浴場に入っている自分を想像しながら。



123  北斎の 荒波の先 コラム列 
(ほくさいの あらなみのさき こらむれつ)
20090217 レバノンテイールシテイーサイトに向かう途中浜辺からサイトを見ながら押し寄せる冬の荒波を眺めながら

124  地中海 寄する寒波 シテイー港
(ちちゅうかい よするかんなみ していーこう)
20090217 レバノンテイールシテイーサイトに押し寄せる地中海の冬の荒波を見ながら。



125  早春の 地中海を釣る テイール人
(そうしゅんの ちちゅうかいをつる ていーるびと)
20090217 レバノンテイールシテイーサイトに向かう途中浜辺で小魚を釣る老人を見ながら。

126  春風に テイール海人舟 ゆらゆらと
(しゅんぷうに ていーるあまぶね ゆらゆらと)
20090219 シテイーサイトの一角クルセダーサイトからシドン港に向かう途中湾の先で小舟が魚を釣りながら行き交うのを見て

127  春波が 恋人達の 囁きに
(はるなみが こいびとたちの ささやきに)
20090219 テイール湾を眺めながら、寄せるざわざわと来る波音が、その先の恋人達の語らいに聞こえて




128  崩れ落つ コラム列にも 若草の香
(くずれおつ こらむれつにも わかくさのか)
20090219 クルセダーサイトの散乱するコラム群を見ながら)



129  若草の 先行くシドン 湾小舟
(わかくさの さきゆくしどん わんこぶね)
20090219 シテイーサイトの一角クルセダーサイトからシドン港に向かう途中湾の先で小舟が魚を釣りながら行き交うのを見て



130  白波立つ テイール湾に 珈琲の香
(はくはたつ ていーるわんに こーひーのか)
20090220 昨夜来の雨の影響か、今朝のテイール湾は激しい白波に浜辺は波しぶきで煙るくらいだった。その波を眺めながら久しぶりに本格珈琲を味わう。

131  UN兵 陽春の安息 珈琲の香
(UNへい ようしゅんのあんそく こーひーのか)
20090220 喫茶店で珈琲を楽しんでいると十余人の国連兵が夕方の休息だろうかまとまって入ってきた。テーブルを集めると談笑しだした。いつまでも銃声が聞こえないことを祈るばかりだ。




132  暖春の 多国籍兵に 一杯の香
(だんしゅんの たこくせきへいに いっぱいのか)
20090220 

133  久方の 珈琲の香に 春を知る
(ひさかたの こーひーのかに はるをしる)
20090220

134  春雷を 爆撃の音と 目覚む朝 
(しゅんらいを ばくげきのねと めざむあさ)
20090221 激しい雷がイスラエルの爆撃かと驚いて目覚めたテイールの朝に。実は

135  春眠を 破りし激音 緊張の朝
 (しゅんみんをやぶりしげきおん きんちょうのあさ)

この日の朝方、国境近くの難民キャンプ地らしいところからロケット砲が発射され、これに報復するためにイスラエルの潜水艦が接岸し、レバノン内部に侵入したとか・・・あな、恐ろしや!!



 春雨去り 内戦の跡 ベイルート 

第13回壬申の乱ウオーク出発~伊勢国府周辺を歩く~の条

2009-02-17 14:06:34 | 久留倍遺跡を考える会
 早春の 伊勢路を歩く 久留倍人 

 前日の豪雨がウソのように止んで、爽やかなまるで5月のような陽気に誘われて白鳥塚→伊勢国府→能褒野王塚→保子里古墳群→大鹿三宅神社遺跡を巡る旅を行いました。

 取り急ぎ、写真集をアップしておきます。ここテイールがこんなに素晴らしいローマ時代の遺跡の残る町とは不勉強で知りませんでした。これからシテイーサイトに出かけます。詳しくはまた今夜。



 (加佐登神社に9時集合!雨上がりにも関わらず沢山の車部隊も含めて130人の沢山の人が集まりました。有り難うございました。最高齢90歳の方がとてもお元気で驚きました。)



(白鳥塚に登りました。皆さん景観に圧倒されていました。)


(ほぼ360度見渡せます。景観的にはとても素晴らしい場所です。)



(伊勢国府はこれから整備と言うことでまだまだ古い看板しかありませんでしたが、皆さんその大きさに圧倒されていました。その後国府地を20分あまり歩きました。)


(保子里古墳1号墳。少し荒れていますが、ここから数多くの金銅製品が出ていると言うことで、皆さんも感心していました。鈴鹿川右岸に展開する後期古墳群は注目ですね。)


それではこれから朝ご飯。その後シテイーサイトへ出かけます。

 アルバスの 戦車場に 氷雨降る  

レバノンレポート-1 Byblos都市遺跡に行ってきましたの条

2009-02-16 04:44:15 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
徹夜→壬申の乱ウオーク→関空23時発→ドバイ経由→Beirut10時着・・強行軍でした!疲れた!

人気ブログランキングへ



 (ドバイがこんな所にあることすら知りませんでした。反省!!)
 激動の二日間?が過ぎようとしています。現在レバノン時間21時50分日本とは時差が7時間ありますから明け方の4時50分でしょうか。

 超ハードな二日間が過ぎ、新たな一日を始めたところです。素晴らしい、フェニキア時代からの遺跡・Byblosやドックリバーの碑文群を見てきました。

 その写真は明日以降に公開しますが、とりあえず、無事着いたことをお知らせしておきます。


 (そして、ドバイ空港の広いこと、広いこと、延々20分以上も歩きました!!ツー、疲れた!免税店を横目にただひたすら乗り継ぎゲートへ。)



(そしてやっとベイルートへ。この海にある島がキプロスだそうです。ただ今16日朝7時6分、これからTylの遺跡を見学に回ります。Byblosの写真は今夜。乞うご期待!!)


(ドックリバーはエジプトやギリシャ・ローマ、果てはイギリス・フランスのアラブへの進出拠点だったそうです。川の右岸にはローマ時代の水道跡が崖際に真っ直ぐ残っています。)


(こんな紀元前からの石碑文群がこの石灰質の山肌にぎっしり)


(ここが川の河口部。ここからさらに北へ車で30分ほど。そこにフェニキア時代以降の港町Byblosがありました。)

 ビブロスと 冬の雷鳴 聖池に


第13回壬申の乱ウオーク開催―伊勢国府を歩く―の条

2009-02-14 03:16:50 | 久留倍遺跡を考える会

こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ「風邪の身の 癒える間もなく 伊勢路旅」壬申の乱ウオークはもう13回になります。飛び入り歓迎!!まだバスに余裕がありますよ。 

 神様は私に休養という言葉を与えて下さらなかったみたいです。少しでも治りそうなら直ぐに仕事がやってきます。でも私には嫌な仕事ではありません。市民の皆さんと語り合いながら歩くこの会はとても楽しみです。但し今日は終わったら直ぐに大阪へ行かなければなりません。本当に忙しいんです。

 2009年02月14日(土)9:00~16:00

 主催 久留倍遺跡を考える会・三重大学人文学部考古学研究室・伊勢湾・熊野地域研究センター
 後援 鈴鹿市考古博物館・亀山市歴史博物館

  壬申の乱ウオーク-13

    天武元年六月~鈴鹿国府周辺を歩く~
   

 本日のコース

 JR富田駅 8:00 四日市駅西口 8:30 バスで行きます!2500円/1人 弁当をご持参下さい。さっきから大雨が降っていますので、雨具はなるべく大きめをご用意下さい。
 
 鈴鹿市加佐登神社9:10集合 白鳥塚古墳 10:20 → 10:40 伊勢国府跡 11:30 《徒歩30分》 → 12:10 昼食・能褒野王塚 13:40 → 14:00 保子里古墳群(双円墳)15:00→ 16:00 近鉄四日市駅

 配付参考資料引用原典

 1『日本書紀 下』(中央公論社1987年)「天智即位前紀~壬申の乱」記事
 2『日本の古代遺跡 52 三重』(保育社 1996年)
 3『鈴鹿市史 第一巻』(鈴鹿市 1980年)
 4『前方後円墳集成 中部編』山川出版社1992年
 5『県史跡白鳥塚古墳(1号墳)第2次発掘調査現地説明会資料』鈴鹿市考古博物館2005年7月30日
 6『鈴鹿市考古博物館年報』(鈴鹿市考古博物館2007年)
 7『伊勢国府跡1・3』(鈴鹿市教育委員会 1999・2001年)
 8『鈴鹿市考古博物館年報第2・7号』(鈴鹿市考古博物館2001・2006年)
 9『埋蔵文化財発掘調査概報基盤整備促進事業(担い手育成型)国府南部地区に伴う埋蔵文化財発掘調査天王山西遺跡・三宅神社遺跡・梅田遺跡』鈴鹿市教育委員会・鈴鹿市考古博物館2001年
 10その他

 本日の見所
 ・能褒野王塚古墳と倭武伝承
 ・白鳥塚古墳
 ・伊勢国府の偉容とその変遷
 ・三宅神社遺跡と大鹿三宅氏


次回(第14回)予定 2009年5月9日(土) 9:10~12:30 養老の路 養老鉄道養老駅集合

こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

終わって直ぐに関空から西の方へ10時間ほど飛んでいきます。詳しい情報は帰国後に。うまく行けば現地から生中継致します。期待せずに待っていて下さい。さて私はどこへ行くのでしょうか? 

鈴鹿関スライドショーの条

2009-02-13 00:00:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
やはり鬼の霍乱に過ぎなかったようです。鬼は強い!!今日の夜から急に楽になってきました。 
人気ブログランキングへ


 しかし、まだいろいろアップするほどの余裕はないので、この間の写真をスライドショーにしてご紹介しておきます。

 今日は写真だけを昨日の記事と合わせながら見て下さい。

 鈴鹿関スライドショー

鬼の霍乱・どこまでも不肖の息子の条

2009-02-12 00:31:03 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 「一周忌 果たせぬ息子 床にあり」 

 昨日から急激に体調がおかしくなり、今日は歩くのもやっとという状態。藪医者はインフルエンザじゃないというのですが、発熱、悪寒、関節の痛み、体のだるさ、嘔吐の繰り返し、どう見てもインフルエンザ。朝からずっと寝てました。お蔭で少し楽になりました。というより、ずっと寝ているととても足腰が痛くて、寝てられないので、姿勢の変換も兼ねて少しパソコンを眺めてます。

 実は昨日は母の1周忌でした。親戚の皆さんにお集まり頂いたのに肝心の施主がダウン。久しぶりに会える従姉妹もいて、とても楽しみにしていたのですが、津からの移動の電車の中で吐くばかり。といっても出るものがないので、胃液ばかり。そのまま医者に直行してドクターストップ。情けない、相変わらずの不肖の息子ぶりを発揮した一日でした。何も食べず、何も飲まず、ただひたすら寝ていたのがよかったのか、先程から少し元気になり、バナナとミカンを食べました。

 その勢いで、ブログを書くことに。といってもしんどいので、他に作った文章からカットアンドペーストで今回の鈴鹿関の成果のまとめをアップしておきます。

 鬼の霍乱といえば、このブログのランキングがさっき見ると2番目。最初は見落としていて、アーまた定位置か・・・、と思いきやそんなところに。ま、滅多にないことなので、病身を押して少し続きを・・。といっても大したことはありませんが。

 しばらくアップできないかも知れないので。

  鈴鹿関第2次発掘調査成果のまとめ

 ① 西城壁の南延長部が確認でき、北西部の角から700m以上の規模があることが
確定したこと。
 ② これはこれまでに発見、調査された不破関の北面城壁460.5m、東面城壁
432.3mを遙かに凌ぐ、日本最大の関であることが実証されたこと。
 ③ その最大の城壁が、鈴鹿川が形成した崖面を実に効率よく利用し、崖際に構
築されたために、人々の目線では7m以上の巨大な城壁に見えるように造られたこと。
 ④ 崖際に造られたことが幸いして、崩壊した築地塀の瓦が崖下に大量に落ち込
み、それらが現在も残る崖際に良好な状態で残されている可能性が強く、既にほ場整備によって破壊されてしまった本調査地のさらに南側についても、この崖面追っ
かけることによって、その存在を確認できること。
 ⑤ 本調査によって築地塀の崩落した土の中から須恵器が1点が出土し、その年代が八世紀末から九世紀初頭に収まる土器であることが判明したこと。これによって、文献史料によって、延暦八(789)年に停止された三関(鈴鹿関)が早けれ
ばその10年後以内には崩壊し始めていたこと。
 ⑥ 本調査地での城壁の存在が確実になったことによって、城山の南側の鈴鹿川
の間の河岸段丘の小さな平坦地が何かに利用されていたことが確実になったこと。土地条件からして、その利用者は関の中枢部を担った高級官僚ではなく、関の機能を支えた下級官人(仕丁や兵士を含む)が利用した空間であるだろうこと。関の機能からして、その利用者は兵士である可能性が極めて高いこと。
 ⑦ 本調査によって、注目が集まるのが直ぐ横にある城山の存在であり、その機
能が益々問題になること。城山を意図的に関に取り込んだことが判明し、そこから来る要因としては、軍事的機能と見せる効果が推定できること。
 ⑧ 鈴鹿関の中枢部の配置可能空間が限定されてきており、江戸時代の関宿を核
とした街道沿いより北に求めざるを得ないこと。

ということで、山椒は小粒でピリリと辛い!小さな現場ですが、とてもいい成果を出すことができました。Yさん、Fさん有り難うございました。今日からうちの学生がお邪魔しますが、よろしくご指導下さい。


 「崖に立ち 鈴鹿颪に 絶えた壁」皆さんで亀山市教育委員会に現場の公開を求める大きな声を寄せて下さい! 

亀山市教育委員会まちなみ・文化財室 住所:〒519-0195 三重県亀山市本丸町577番地 電話:TEL(0595)84-5078  電子メール:shakyou@city.kameyama.mie.jp

鈴鹿関西城壁の発掘調査現場に再度行ってきましたの条

2009-02-10 23:59:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 寒風に 城壁聳ゆ 凛として 

 今日も三人の研究者の方を御案内してきました。驚いたことに先の記者の方や教育委員会の幹部の方に出迎えられました。

 話しを総合すると、ようやく市でもこの調査地を公開する気になってきたみたいですね。よしよし!というところですが・・・・。ちょっと決断が遅すぎるように気もしますが、ま、それぞれ市にも事情があるのでしょうから、公開が決まっただけでもよしとしましょう。

 そんなことですから、とうとうあの新聞記者の方も折角の記事が一斉発表になるようです。ま、私はその方が元々いいわけですから、結果的には全てうまくこちらの作戦通りうまくいったということでしょうか。終わりよければ全てよし。

 私たちが行く前に八賀晋先生もご覧になり、「お墨付き」を頂いたとのこと、現場の皆さんもこれで一安心のようでした(笑)。
 少しご見解と異なるのは築地の位置が崖際によりすぎているのではないかということのようですが(直接伺ったのではないので正確なところは知りませんが)、私はむしろこれまでの調査成果から見ても、築地の雨落ち溝は崖下が兼ねていたのではないかと思っています。つまりきちんとした雨落ち溝は造らず、崖下(恐らくそこは鈴鹿川の河川敷だったのではないかと考えています。)に落としていたのではないでしょうか。

 また、添え柱についてもその後の調査でいくつかのピットが確認できたものの、まだ「これ」という相手が見付かっていません。時間は随分とできたようですので、これからじっくり探すといいのでしょう。

 なお、築地両側に落ちている瓦だまりの最下層から8世紀末の須恵器杯が出土しました。三関が789年、延暦8年に廃止されたことは前にも記しましたが、それからさほど時間が経つ前に崩壊が始まったのかも知れません。考古資料として初めて鈴鹿関の崩壊の時期を探る手がかりが得られたのです。これもとても大事な資料です。

 今回もまた御案内頂いたFNさん有り難うござい9ました。皆さんとても喜んで帰られました。12日からは三重大学と亀山市歴史博物館が協力して、今回の成果の三次元測量に入ります。本当は市教委がやるべきことなのでしょうが、ま、私たちが協力させてもらえるというのはむしろ有り難いことです。これからもどんどん三重大学考古学研究室のノウハウを使ってくださいね。

 
行者岩 枯れ野の先に 大和道
 








第12回考古学研究会東海例会熱気の下終了の条

2009-02-09 00:39:49 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

国分寺が熱いことが判りました!!と同時に、新しい研究視点が見付かりました!有り難うございました!!

     東海地方における国分寺の造営

13:00~13:05 開会挨拶 中井正幸氏(大垣市教育委員会)
13:05~13:15 趣旨説明 梶原義実(名古屋大学)
13:15~13:45 尾張:北條献示氏(稲沢市教育委員会)
13:45~14:15 三河:前田清彦氏(豊川市教育委員会)
14:15~14:30 休憩
14:30~15:00 伊勢:藤原秀樹氏(鈴鹿市考古博物館)
15:00~15:30 美濃:高田康成氏(大垣市教育委員会)
15:30~16:00 遠江:安藤寛氏(磐田市教育委員会)
16:00~16:15 休憩
16:15~17:25 シンポジウム
         司会:梶原義実(名古屋大学)
         コメンテーター:山路直充氏(市川市考古博物館)
17:25~17:30 閉会挨拶 山中 章(三重大学)



(123頁+α こんな立派な資料集がたったの1500円です!!間もなく完売!ご希望の方は下記名古屋大学梶原研究室まで。)

資料代:1500円
お申し込み先:〒464-8601名古屋市千種区不老町
名古屋大学大学院文学研究科 考古学研究室
E-mail: kajiwara@lit.nagoya-u.ac.jp


(こんな特別付録も頂きました!!更に更に当日の山路直充さんのコメントレジュメもあります)


(いつも思うのですが、こんなに充実した報告が30分では短すぎると思うのです。やはり最低40分は欲しいですよね。)

 参加者100名。東は群馬県や神奈川県からもお出でいただきました。有り難うございました。
 また上記資料集は東海地方の国分寺研究の最新の成果が一目で見られるとてもいい資料集です。是非ともお買い上げ下さい。

 今回の研究テーマでもっとも私が注目したのは、国分寺の中心伽藍の周辺に展開する諸施設のあり方でした。山路さんがまとめのコメントで奇しくも指摘された「都の研究をやっているだけでは日本の歴史を読み解くことはできない!地方の遺跡を丁寧に研究することこそその道を開くことになるのだ」という発言は、全くその通りだと思います。と同時に、これまでの国分寺研究や国府研究が伽藍中心部や政庁中枢部の研究に重点が置かれていたのに対し、今後は伽藍周辺部に展開する諸施設を総合的に研究し、地方の寺院経営のあり方を国分寺という全国に建設された寺院を核にして考えるというのはとても重要なことだと思いました。

実は都の研究も、宮城中枢部の研究にばかり固執していては本当の意味での王権中枢の研究にはならないという批判にも通ずるところであります。考古学的な京内の研究が遅れている平城京や平安京の現状が、先の山路氏の指摘のような発言を生み出す元にもなっているように思います。

そして、研究会で注目したのは、立地問題でした。これまであまり国分寺の立地は問題にされてきませんでした。それはわずかに国分尼寺や国府との位置関係に注目が集まる程度でした。しかし、今回の報告を聞いていて、当時の地方支配を担っていた人々が、「国分寺をどこに建設したか」に着目すれば、地方の国分寺造営の理解度、王権の意図と地方の受容の態度を推し量ることが可能になることを知りました。

 国分寺もまた、明確に「見せる!」を意識していたと思われます。

 これに関してはより幅広く地方の各種交通関係施設の立地を素材に、今度の四年生の一人がこれから分析にかかると思われます。来年の今頃いい卒論が出てくることがとても楽しみです。
 今回もとても充実した研究会でした。各地で考古学研究会の例会が開かれていますが、十分それらのレベルに負けない内容だったと自負しております。特に関東から論客を招いての研究会は、比較的おとなしい東海地方の古代史研究者に大きな刺激となったに違いありません。是非一度関東に乗り込んで論争したいものですね。

次回第13回は岐阜県の担当で2009年8月1日(土)名古屋大学で。
次々回第14回は三重県の穂積さんが中心になって2010年2月6日(土)三重大学で「伊勢神宮の考古学」(仮題)でお送り致します。ご期待下さい!!

こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ
学問は論理と論理の闘いであって、感情による権力闘争ではない!このことを肝に銘じた一日でもありました。

今日もう一度鈴鹿関にいろいろな人を御案内して意見を聞いてみます。また最新の3D復原に携わってくれている情報科学芸術大学院大学のS君にも来てもらって、現地調査をしてもらいます。それにしてもまだあの新聞社は記事を書かないみたいですなー、二度と協力すまい!!

京町家平安宮宴 付録考古学研究会東海例会第12回開催の条

2009-02-07 00:00:00 | yaasan随想
10年会の新年宴会を新しいメンバー京町家平安宮の代表YEさんのお家で開催しました。

人気ブログランキングへ


既に簡単な紹介はしていますが、この町屋がとても素晴らしいので、一帯を再度ご紹介致します。

下のスライドショウ(カーソルを当ててクリックすると始まります)もご堪能下さい。

京町家平安宮の宴をスライドショーで紹介。


山中油店の屋敷の一角に立っている史跡案内板にはこの様に説明がある。

 一本御書所は,平安宮(内裏)の東側,侍従所の南にあった施設。役割については,(1)世間に流布する書籍をそれぞれ「一本」(一部)ずつ書き写して保管していた,(2)「一本書」(1冊しかない稀覯本)を納めさせ保管していたという2つの説があり,「一本」の解釈によって意見が分かれている。10世紀半ばから記録に見えはじめ,平治の乱(1159 年)の際に後白河院が押し込められた場所としても知られる。なお御書所・内御書所とは別の組織である。この石標は,一本御書所の跡を示すものである。
 なおこの石標はKA126平安宮内裏綾綺殿跡,KA127平安宮内裏弘徽殿跡,KA133平安宮内承香殿跡,KA134聚楽第南外濠跡,KA135平安宮内裏宜陽殿跡,KA136平安宮内裏昭陽舎跡,KA141平安宮大蔵省跡,NA154平安宮西限藻壁門跡,GA007山崎院跡とともに,平成18年から20年にかけて全京都建設協同組合創立五十周年記念事業として建立された10基の石標のひとつである。
所在地 上京区下立売通智恵光院西入北側
位置座標 北緯35度01分00.7秒/東経135度44分56.2秒(日本測地系)
建立年 平成17年
建立者 全京都建設協同組合
寸 法 高124×幅20×奥行20cm
碑 文
[南]
平安宮一本御書所跡
[西]
(株)野原工務店 (有)小林設計工務 (株)竹内工務店
寄贈 谷口工務店 (有)京都カンリ (株)ストロベリーセブン

(URL:http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka125.html)

スライドショーの後は本日13時から開催の考古学研究会東海例会の再度の宣伝です。

ちょっと一息。

 実は鈴鹿関は現説も、報道発表もしないというので、最新情報をある新聞社にだけ教えてあげて案内してあげたのに、一向に記事にする気配がない!関西なら飛びつくような記事なのにね!行政もマスコミもみんな後ろ向きで悲しい!!遺跡が可哀相! 


 先に報告しましたとおり、現在伊勢国分寺も発掘調査中です(ここでも北東部から築地塀に囲われた一角が出ています→ところがこの築地塀を築地塀ではないと言って帰った「えらいさん」がいらっしゃって、担当者は怒り狂っているとか・・・。ホントイヤですね、学問と権力は無縁なはずなのに。もっとも批判と悪口を混同する輩もイヤですけれどね。

 以下御案内

第12回考古学研究会東海例会
        「東海地方における国分寺の造営」「東海地方における国分寺の造営」

『新修国分寺の研究』で、各国の調査研究現状が総括されてから10年以上が経ちますが、その間に、とくに東海地方につきましては、尾張・三河・遠江・伊勢で大規模な調査がおこなわれ、また美濃においてもこのたび報告書が刊行されるなど、全国的にみてもめざましい調査所見が得られてきております。これを期に、いちどそれらの所見を総括し、また各国の事例、全国的な研究成果等と付き合わせて検討することで、今後の国分寺の調査研究に大きく資することができると考えております。
本例会では東海地方の国分寺調査の最新成果を総合し、他地域の実例などとも比較しつつ議論を深めることで、国分寺造営の実態に迫り、さらにそれを今後の調査研究にフィードバックしていくことを目的といたします。

 日時 2009年2月7日(土) 13:00~17:30
    名古屋大学大学院文学研究科 237講義室
   (地下鉄名城線 名古屋大学駅下車すぐ)

13:00~13:05 開会挨拶 山中 章氏(三重大学)
   13:05~13:15 趣旨説明 梶原義実(名古屋大学)
   13:15~13:45 尾張:北條献示氏(稲沢市教育委員会)
13:45~14:15 三河:前田清彦氏(豊川市教育委員会)
14:15~14:30 休憩
14:30~15:00 伊勢:藤原秀樹氏(鈴鹿市考古博物館)
15:00~15:30 美濃:高田康成氏(大垣市教育委員会)
15:30~16:00 遠江:安藤寛氏(磐田市教育委員会)
16:00~16:15 休憩
16:15~17:25 シンポジウム
         司会:梶原義実(名古屋大学)
         コメンテーター:山路直充氏(市川市考古博物館)
17:25~17:30 閉会挨拶 中井正幸氏(大垣市教育委員会)

資料代:実費(1000円程度)


懇親会 18:00~ 名古屋大学生協フレンドリィ南部
    会費:3,500円

問い合わせ先:〒464-8601名古屋市千種区不老町
名古屋大学大学院文学研究科 考古学研究室
E-mail: kajiwara@lit.nagoya-u.ac.jp


 明日は午前中に大垣で鈴鹿関のVR表現についてのご相談です。そして月曜日にはもう一度鈴鹿関へ行きます。他の新聞社の人でも呼んでいこうかしら!もしこのブログを見たマスコミの方、是非月曜日の12時半に関駅へ来て下さいね。案内しますよ。

圧倒!衝撃!!感動!!!付録ー山田博士お誕生日お目でとうの条

2009-02-03 23:41:12 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ
 50歳おめでとう!!山田邦和博士めでたく半世紀を活きられました。皆さんでお誕生日メールを送ってあげて下さい。 


 (そんなことはどうでもいいんです(笑)。この憂いのないお顔!羨ましい。50歳直前の博士のお姿です。大根嫌い教の元教祖様です。全国に信者教会員0それにしてもやはり10歳の年の差は隠しようもないですな~)



 約束通り鈴鹿関第2次発掘調査現場に行ってきました!!

 大感激でした!!



 ホント、これほど見事に予想が当たるとちょっぴり自信が戻ってきますね。
 
 間違いなく北西角で見付かった西城壁の南延長部も、崖っぷちに見事な土塁を築いて築造されていました。これを築地ではないという「専門家」???がいるらしく、ホント信じられませんでした。



 まるで長岡京朝堂南東部の築地を見ているようでした。そして、この崖は真っ直ぐ南北に延びて、北へは城山の西裾をかすめて第1次調査地へ、南へは三重県がほ場整備の際に発見しておきながらぶっ壊した観音沖遺跡へ、さらに恐らく鈴鹿川川岸へ!!現在でもこの段丘崖は見事に確認できます。



 そして驚く勿、その絶対的な証拠が出てきました(もちろん私はこれが出なくてもそう確信していましたが、疑う人もいたようなのでこれなら確実だと言えましょう)。築地及びその基底土塁を載せている段丘崖の崖下に大量に奈良時代の丸・平瓦が堆積していたのです。




 延暦8(789)年に鈴鹿関は停止されますが、それ以降のどこかで築地が崩壊していったのでしょう。まず屋根瓦が落ちたことを示すように一番底には大量に瓦が折り重なっていました。そしてその後築地が崩壊していったことを示すように、土砂に若干の瓦を含みながら崖が埋まっていったのです。



 更に更に!!添え柱跡が見付かりました!!!柱芯芯で2.4m(内々で2.1m)ですから築地の基底幅は偶然でしょうが、長岡宮築地跡と同じでした。これによって、『延喜式』の規定が8世紀まで遡りうるとしたら築地の高さは4mを優に超すことになります。






 崖下がかつての道路面でしょうから、道路を通行していた人からは7m以上の高さに見えたに違いありません。第1次調査の城壁と比べればその半分以下ですからさすがに見劣りはしますが、7m以上の城壁が延々700m以上にわたって続く景観は壮観です。


(向こうに見える茶色の壁の家の屋根の高さくらいまで城壁はあったはずです)

 さて、これで鈴鹿関の西城壁が確定しました。残る南北の城壁がどこに、どこまで続いているのかが次なる課題です。それらはいずれこの後も続く調査によって見付かることでしょうが、今回の調査によって、鈴鹿関はこれまで発見されたいずれの関跡よりも広大であることが確定しました。また、先に紹介しました中国古代の関所・武関の地形にも極めてよく似て、川や山をうまく利用した軍事的色彩の強い関所であることがより明確になりました。


(これまでにもこの様に推定してきましたが、この図の「観音沖遺跡」とある直ぐ北(上)が今回の調査地です。)

 そしてもう一つ見えてきたのが、今回の築地によって囲繞されている鈴鹿川と城山に挟まれた平坦面の機能です。私は昨年の東海例会でも申しましたが、この地は川に近接しており、役所を配置するにはあまりに不適切な空間だと思っています。それにもかかわらずわざわざ築地塀で囲繞しています。劣悪な環境にも耐えられる兵士達の駐屯空間または軍事訓練などを行う空間ではなかったでしょうか。

 
「感動の 西城壁に 氷雨落つ」
「旅人の 雪笠の先 迫る壁」
「崖下に 落ちし瓦に 氷雨露」
「崩れ落つ 鈴鹿の関に 細雪」  



(久しぶりに現場に行くとこんな標識が立っていた)


(久しぶりに登った北西城壁上の岩の上から第2次調査地方面(白い建物の向こう)を見る)

日本文化の破綻は近いか?の条

2009-02-02 23:31:16 | yaasan随想

こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

明日は現在発掘調査中の鈴鹿関西城壁の現場を見学に行きます。そのレポートをお楽しみに!とてもいい成果が出てますよ!! 

 先頃ショッキングなお便りを頂いた。
 長くいろいろな出版でお世話になった編集者のお一人が退職されるというご挨拶状である。

 女性の編集者がお辞めになるのはそれぞれ事情がよくあるので珍しくはないが、よく読むとそんな問題では無かった。

 日本の中でも有数の人文系書籍を扱っておられる出版社が経営的に極めて厳しくなったので、全企画の見直しと編集体制の再編に取り掛かったというのである。

 私が深く関わっている出版物もその対象となり、一時は「中止」の選択肢もあったという。何とか担当編集者の執念と説得で編集継続が決まったものの、担当編集者は専属からフリーとなったというのである。要するに正規職員としての立場を解除(解雇)されたと同じであろう。現在、世界中で厳しい雇用状況となり、契約制度を作り出した日米では、社員の解雇の嵐が吹きまくっている。ところが、出版業界ではとうとう正規職員のそれが始まったらしいのである。

 しかし一般の不況と出版業界のそれとは少し違うように思える。

 根本原因は若者が専門書(だけはないかも知れないが)を読まないことだ。もちろん読まない以上買いもしない。私が大学に来て11年が経とうとしているが、この間、学生が自ら率先して専門書を買ったというのは最初の3年程だけだ。それでもその後数年の学生は大学に所蔵されている専門書に目を通し、論文を書こうとしていた。しかし、近年は概説書を読む(見る)ばかりで、一向に専門書に手を付けようとしない。酷いのになると『考古学研究』という雑誌の存在すら知らないで卒業する始末である。
「そんな学生を卒業させるからいけないのだ!」とご指摘の方もいらっしゃるでしょうが、そうなると「アカハラ」だの「パワハラ」だの訳のわからない「疑惑」が飛んでくることにもなるのがこれまた訳のわからなくなっている大学の現実だ。

 つい先日、恒例のゼミ選択会議が開かれた。2年生が新年度からのゼミを決める会議である。我が校ではほぼ希望通りに選択することができる。その結果、最も沢山の学生が希望したゼミには12人もの学生が集まった。ところがその「研究」テーマが「結婚」「フリーター」「ホームレス」「晩婚」「若者」と言うから寂しくなる。もちろんこうしたテーマだってきちんとしたデーターを集めればいい研究成果が出るはずなのだが・・・、とてもそんなことは望めそうにもない雰囲気だ。これなら専門書なんているわけがないなと納得してしまう。要するに大学は勉強するところではなく親しい人間とのみ仲良く過ごす所と化しているのである。

 これでは専門書は売れない!!

 そして、教える側もこの方が面倒がなくていいから益々自分だけの世界に没頭することになる。

 毎年毎年こんなことばかり嘆いているような気がするが、今年の嘆きはさらに深刻だ。その影響を老舗の専門書店がかぶっているからだ。こんなことで日本に文化なんてものが形成できるのだろうか?

 とても悲しい!

こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ
本棚は 邪魔だという 新入生

卒業時 譲る本ない 学生と 

 もっとも私たちが死んだとき、膨大な書籍が遺族にとって紙くず同然だということはこの間イヤというほど思い知らされている。