第17回壬申の乱ウオークin石占頓宮&榎撫駅探訪の巻
17回になりました。毎年欠かさず4回やっていますので、5年目に入ったと言うことですね。目標は50回なんですが命がもつかしら(笑)。
毎回参加して下さる市民のみなさん。何とこの中に89歳の方が!どの方か判りますか?とてもお若い。61歳で老け込んでいては笑われる。
今回は聖武天皇が740年11月24日に宿泊した朝明頓宮から、翌日に入った桑名郡石占頓宮に至るコースを見学し、歩きました。
石占頓宮の場所は未だに判ってはいませんが、この間の探訪でおおよその見当がついてきました。今回も訪れる予定になっている「尾津」神社!この名称の由来は東海道伊勢国北端の「榎撫(えなつ)駅」ではないかと考えられています。聖武天皇の伊勢行幸は、基本的に国郡レベルの地方官衙が利用されていることが判明してきました。榎撫駅家はまさにそうした施設の一部だったのではないでしょうか。
この榎撫駅家の推定地である多度町戸津(現桑名市)の北にあるのが柚井遺跡です。1928年、私が生まれる20年も前に、この柚井の一角で行われていた耕地整理事業の際に大量の遺物が露出していることが地元の郷土史家伊東富太郎のところへもたらされました。その後同じ郷土史家鈴木敏雄や林魁一なども加わって多くの遺物が採集され、断面図や遺物の出土位置の記録、写真撮影などが行われました。この中に墨書のある木簡が2点(木簡状木製品が1点)あったのです。
日本で初めて発見された木簡の出土地、柚井遺跡に近い宇賀神社から多度神社までを歩きました。
発見場所は当時の三重県桑名郡多度町一番割ですが、書かれている内容は
「v櫻樹郷□頭守部穎代籾一石□五百□v」(皇學館大学史料編纂所『皇學館大学史料編纂所蔵 鈴木敏雄氏遺稿・旧蔵資料目録』(1991年)岡田登解説)等、かつての美濃国石津郡櫻樹郷から守部が穎稲籾1石を送ってきた荷に付けられていた荷札木簡です。石津郡櫻樹郷とは現在の大垣市上石津町付近と推定されますから小河川から揖斐川に出て舟運で籾を運んできたものでしょうか。柚井遺跡の南には戸津という地名もあり、榎撫駅の名称などからこの辺りに揖斐川の港(津が置かれていたことが判りますから、まさに水陸交通の要所だったのです。さらに興味深いのはこの地は伊勢国と美濃国の国境にも近いと言うことです。駅家設置のあり方とも一致します。しかし、出土した資料の大半は平安時代前半の灰釉陶器や須恵器、祭司遺物などです。いったいなぜ櫻樹郷から1石もの籾が送られてきたのでしょうか。そんな様々な疑問、課題のある遺跡一帯を歩くことができました。
駅前は早くから沢山の人で埋まっていました。多度神社の祭礼以外でこんなに人が集まるのは初めて?!
現在は桑名市になってしまいましたが、この旧多度町は自然の残るとてもいい町です。和種のタンポポが沢山咲いていました。
当日は前日の大雨が嘘のように止み、晴れ上がった最高のウオーキング日和で、200人近い方々が参加して下さいました。
私達は江戸橋7:15分発の急行に乗り桑名へ、8時04分発の養老鉄道で多度駅に向かいました。到着した多度駅には既に50人ばかりの参加者が待っておられました。
まず最初に多度駅の踏切を渡って直ぐの尾津神社へ。尾津神社は二つあり、こちらの方が地形的には「尾津」という名前に相応しい位置にある。
当日の主な見学地は 尾津神社(1)→かしらこ塚→尾津神社(2)ヤマトタケル歌碑→宇賀神社(柚井遺跡説明)→柚井城跡→多度神宮神宮寺跡→愛宕中世墓群→多度大社→多度駅でした。
戸津という地名は当然榎撫駅から来ているのだろう。この辺りは近世まで三川の旧河口部に当たり、これを渡るための渡しの置かれたところであった。
かしらこ塚へ伊勢平氏ゆかりの地だという。
二つ目の尾津神社へ。こちらこそ「戸津」神社とでも言うべき位置にある。
ご案内は桑名市教育委員会の石神教親氏で、細い路地を通り抜け、神社の横の地道を抜け、次々と最短距離で、御案内頂きました。お陰で200m近く延びた列が実にスムーズに進み、予定通り終えることができました。大感謝です。
この二つ目の尾津神社には当地方に伝承しているヤマトタケル伝承からその歌碑が置かれている。
尾津神社から宇賀神社へ移動途中に見える多度山の美しい姿。見ほれてしまった。なるほど「神坐山」だと納得した。
細い路地を進んで宇賀神社へ。200m近い長い人並みが続いた。
宇賀神社というのは桑名の市街の方にもあるそうだ。ちなみにいなべ(旧大安町)にもあるのだが、どんな関係なのだろうか?)。
宇賀神社本殿の横には三基の古墳が眠る。
宇賀神社の境内の北からは柚井遺跡の方向に開けた様子がよく判る。左の樹木の方向が柚井遺跡。右に広がるのが三川の土手。
柚井城跡を見学した後、山道を登って多度神社へ。行列は延々と続いた。
会終了後、会の役員の方の車に乗せて頂き、今回のウオーキングでは少し離れすぎているために歩かなかった柚井遺跡の現地に参ることができました。お陰で柚井遺跡の立地をしっかり目に焼き付けることができました。
私個人はその後さらに希望者と共に養老まで足を運び、美泉と滝を見学し、夕方帰津しました。とても充実した一日でした。取り急ぎ今回はその前半部分を報告します。
日本最初の木簡出土地柚井遺跡、行ってみたいなと思ったらこいつをポチッと押して下さいね→
17回になりました。毎年欠かさず4回やっていますので、5年目に入ったと言うことですね。目標は50回なんですが命がもつかしら(笑)。
毎回参加して下さる市民のみなさん。何とこの中に89歳の方が!どの方か判りますか?とてもお若い。61歳で老け込んでいては笑われる。
今回は聖武天皇が740年11月24日に宿泊した朝明頓宮から、翌日に入った桑名郡石占頓宮に至るコースを見学し、歩きました。
石占頓宮の場所は未だに判ってはいませんが、この間の探訪でおおよその見当がついてきました。今回も訪れる予定になっている「尾津」神社!この名称の由来は東海道伊勢国北端の「榎撫(えなつ)駅」ではないかと考えられています。聖武天皇の伊勢行幸は、基本的に国郡レベルの地方官衙が利用されていることが判明してきました。榎撫駅家はまさにそうした施設の一部だったのではないでしょうか。
この榎撫駅家の推定地である多度町戸津(現桑名市)の北にあるのが柚井遺跡です。1928年、私が生まれる20年も前に、この柚井の一角で行われていた耕地整理事業の際に大量の遺物が露出していることが地元の郷土史家伊東富太郎のところへもたらされました。その後同じ郷土史家鈴木敏雄や林魁一なども加わって多くの遺物が採集され、断面図や遺物の出土位置の記録、写真撮影などが行われました。この中に墨書のある木簡が2点(木簡状木製品が1点)あったのです。
日本で初めて発見された木簡の出土地、柚井遺跡に近い宇賀神社から多度神社までを歩きました。
発見場所は当時の三重県桑名郡多度町一番割ですが、書かれている内容は
「v櫻樹郷□頭守部穎代籾一石□五百□v」(皇學館大学史料編纂所『皇學館大学史料編纂所蔵 鈴木敏雄氏遺稿・旧蔵資料目録』(1991年)岡田登解説)等、かつての美濃国石津郡櫻樹郷から守部が穎稲籾1石を送ってきた荷に付けられていた荷札木簡です。石津郡櫻樹郷とは現在の大垣市上石津町付近と推定されますから小河川から揖斐川に出て舟運で籾を運んできたものでしょうか。柚井遺跡の南には戸津という地名もあり、榎撫駅の名称などからこの辺りに揖斐川の港(津が置かれていたことが判りますから、まさに水陸交通の要所だったのです。さらに興味深いのはこの地は伊勢国と美濃国の国境にも近いと言うことです。駅家設置のあり方とも一致します。しかし、出土した資料の大半は平安時代前半の灰釉陶器や須恵器、祭司遺物などです。いったいなぜ櫻樹郷から1石もの籾が送られてきたのでしょうか。そんな様々な疑問、課題のある遺跡一帯を歩くことができました。
駅前は早くから沢山の人で埋まっていました。多度神社の祭礼以外でこんなに人が集まるのは初めて?!
現在は桑名市になってしまいましたが、この旧多度町は自然の残るとてもいい町です。和種のタンポポが沢山咲いていました。
当日は前日の大雨が嘘のように止み、晴れ上がった最高のウオーキング日和で、200人近い方々が参加して下さいました。
私達は江戸橋7:15分発の急行に乗り桑名へ、8時04分発の養老鉄道で多度駅に向かいました。到着した多度駅には既に50人ばかりの参加者が待っておられました。
まず最初に多度駅の踏切を渡って直ぐの尾津神社へ。尾津神社は二つあり、こちらの方が地形的には「尾津」という名前に相応しい位置にある。
当日の主な見学地は 尾津神社(1)→かしらこ塚→尾津神社(2)ヤマトタケル歌碑→宇賀神社(柚井遺跡説明)→柚井城跡→多度神宮神宮寺跡→愛宕中世墓群→多度大社→多度駅でした。
戸津という地名は当然榎撫駅から来ているのだろう。この辺りは近世まで三川の旧河口部に当たり、これを渡るための渡しの置かれたところであった。
かしらこ塚へ伊勢平氏ゆかりの地だという。
二つ目の尾津神社へ。こちらこそ「戸津」神社とでも言うべき位置にある。
ご案内は桑名市教育委員会の石神教親氏で、細い路地を通り抜け、神社の横の地道を抜け、次々と最短距離で、御案内頂きました。お陰で200m近く延びた列が実にスムーズに進み、予定通り終えることができました。大感謝です。
この二つ目の尾津神社には当地方に伝承しているヤマトタケル伝承からその歌碑が置かれている。
尾津神社から宇賀神社へ移動途中に見える多度山の美しい姿。見ほれてしまった。なるほど「神坐山」だと納得した。
細い路地を進んで宇賀神社へ。200m近い長い人並みが続いた。
宇賀神社というのは桑名の市街の方にもあるそうだ。ちなみにいなべ(旧大安町)にもあるのだが、どんな関係なのだろうか?)。
宇賀神社本殿の横には三基の古墳が眠る。
宇賀神社の境内の北からは柚井遺跡の方向に開けた様子がよく判る。左の樹木の方向が柚井遺跡。右に広がるのが三川の土手。
柚井城跡を見学した後、山道を登って多度神社へ。行列は延々と続いた。
会終了後、会の役員の方の車に乗せて頂き、今回のウオーキングでは少し離れすぎているために歩かなかった柚井遺跡の現地に参ることができました。お陰で柚井遺跡の立地をしっかり目に焼き付けることができました。
私個人はその後さらに希望者と共に養老まで足を運び、美泉と滝を見学し、夕方帰津しました。とても充実した一日でした。取り急ぎ今回はその前半部分を報告します。
日本最初の木簡出土地柚井遺跡、行ってみたいなと思ったらこいつをポチッと押して下さいね→