yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

第3回久留倍遺跡まつり開催!せんと君がやってくるの条

2010-10-28 04:40:11 | 久留倍遺跡を考える会
 第3回久留倍遺跡まつり及び第19回壬申の乱ウオークが開催されます。

 2010年11月13日(土)です。



 ポスターもできあがりました。



 午前の部のウオークのコースです。

 集合場所は三岐鉄道大矢知駅8時半集合9時出発です。


 せんと君がやってくることも確定しました。

 講演会の先生方の原稿の印刷にもかかりました。

 後は当日雨が降らないことを祈るだけです。

 午後の講演は13時から16時半までで、森浩一先生・馬場基先生と私です。森浩一先生には初めてお願いすることができました。主に聖武天皇や斎王などの頓宮と伊勢についてお話し頂きます。とても楽しみです。
 馬場先生には木簡と『萬葉集』について伊勢の歌を核にしてお話し頂きます。私は最近取り組んでいる斎王をテーマに、初代斎王である大来皇女とその弟である大津皇子についてお話しします。

 たくさんの方の入場をお待ちしています。もちろん入場は無料ですが、資料集を500円で販売する予定です。
 

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「斎宮・離宮院変遷と伊勢太神宮」報告の条

2010-10-27 02:46:17 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 明日28日は伊勢湾・熊野地域研究センターの研究会の日です。
 今年はみなさんとても熱心で、夏休み中の8月を除き毎月きちんと、それも内容のとても濃い報告を頂いています。

 今回はちょっと報告者が落ちますが、ま、我慢して聞きに行ってやろうと思われる方はどうぞ、お越し下さい。もちろん参加自由です。

 この後も11・12月と多方面の先生方の報告があります。また、現在、1月の報告者の募集も致しております。伊勢湾・熊野地域に関することでしたら、どんな分野でも結構です。自薦、他薦にてお知らせ下さい。

伊勢湾・熊野地域研究センター
第6回研究会(10月28日)開催案内



              記

日時  2010年10月28日(木)18:30~20:30
場所  伊勢湾・熊野地域研究センター室(共通教育4号館5階 2号館のエレベーターで5階までお上がり下さい)

報告者  山中 章(三重大学人文学部) 「斎宮・離宮院変遷と伊勢太神宮」

要旨
 国史跡斎宮跡は現在三重県多気郡明和町一帯に140ヘクタールの広大な敷地をもって保存されています。近年の研究では初代斎王が天武天皇によって撰ばれた大来皇女であることが有力になってきていますが、伊勢での滞在地は未だに明らかにはなっていません。通説では史跡斎宮跡の西部一帯だとしますが、その根拠 は明確ではありません。最初の伊勢斎宮の設置場所はどこだったのでしょうか。『続日本紀』文武2(698)年の記事によるとこの年「遷多氣大神宮于度會郡」と「多氣大神宮」なるものが度会郡へ遷されたとあります。そもそも伊勢太神宮はどこにあったのでしょうか。
 7世紀末に斎宮は現史跡指定地に置かれた可能性を示す考古資料が出て参りますが、「多氣大神宮」とはどの様な関係だったのでしょうか。この頃度会郡に遷された「太神宮」とはどの様な関係だったのでしょうか。また、斎王が天照大神奉祭のために伊勢太神宮に赴く際に利用した施設が離宮院だとされますが、初期の離宮院はどこにあったのでしょうか。なぜ延暦16(797)年に外宮に近い山田原の地から旧小俣町内の現史跡指定地へ遷されたのでしょうか。当たり前のように思っている伊勢神宮を巡る様々な事象の多くが未解決のままです。その背景には王権と伊勢太神宮との複雑な問題があったのではないでしょうか。その要因を主に考古資料を使って離宮院の変遷過程から検討します。

 伊勢湾・熊野地域研究センターでは充実したスタッフの下、毎月1回の研究会を開催しています。地域のみなさん、学生の参加も自由です。
 今後の予定は以下の通りです。幅広い分野から多数お集まり頂き、真摯な議論が展開できればと思っております。学生や院生の参加も歓迎します。

予告

第7回  11月24日(水) 吉丸雄哉「草双紙の中の阿漕伝説」
第8回  12月8日(水) 森正人「昭和の旅行と日本社会―誌『旅』から見えるもの―」



伊勢湾・熊野地域研究センター
連絡先 yaa1948@gmail.com

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 赤目より 曽爾の丘へと ススキの香

 大仏の 宝剣の報せ 秋盛り

 紅葉舞う 大仏の足下 陰陽剣

 陰陽剣 光明が願い 野分け立つ
 
 

秋の縁 息子の娘 笑み絶えず の条

2010-10-25 22:56:46 | yaasan随想
 この週末は科研費の申請書類に追われまくった。

 最後の最後になって動きがおかしくなり、折角打ったものが消えてしまい今日の夕方はパニック状態だったのだ。実は今は心を落ち着けているだけで、内心まだ不安でイライラしているのである。

 そんな折、明後日1歳になる息子の娘がどうしたわけか遊びにやってくるのである。一時はめったに帰らないお父さんのお父さんにびっくりして、暫くじっくり観察してから相手になってくれていたのが、この頃は、私の書斎の机が気に入ったらしく、戸が開いていると直ぐにやってきて、膝の上に乗せろとせがむのである。もちろんまだ喋らないから、アーとか、ウーとか言うだけなのだが、これがここのところ、何となく言葉風に聞こえるのである。

 さらに数日前からホンの数歩だけだが歩くようになり、目標物がはっきりしていると5~6歩は歩くのである。その目標が我が机の上のパソコンにあるらしく、そちら方面を指さして『ア-。アー』と言われると、これは遊んでやらないわけには行かないのである。

 最近は、布団にジャンプするのが楽しいらしく、特に少しだけ押し入れの戸に頭が当たってゴツンと言う音がするのが気に入っているらしく、大笑いしては何度もこれを繰り返すのである。

 こんな時期、どこの誰にでもあるはずなのだが、最近はあまりに悲しいニュースが多すぎる。その原因は気がついたら母や父になっていると言うことである。15や16で母親になってどうして育てていくというのか、そもそもその母親自身に社会で生きる能力がまだ十分の備わっていないというのに、である。

 一体いつからこんな社会になってしまったのだろうか。もちろん私はどこぞの国の超保守主義の連中のように言うつもりはないのだが、少なくとも日本でも、私たちが学生の頃にそんな問題は起こらなかった。みんなが社会的常識を持っていた。それが今、犬猫よりも酷い事態である。それもどうも氷山の一角らしい。

 そこで、こんな企画が我が大学で進行中である。

 河野美代子さん講演会「性と生を考える」

 2010年11月25日(木)三重大学メデイアホール13:00~14:30




 河野美代子さんと言えば、「さらば悲しみの性」のベストセラーの著者である。数十万部と言うからすごい!!

 実はその河野さんが私の知っている医学部の先輩と同一人物であると知ったのはつい最近のことである。もちろん私は旧姓でしか知らないから余計である。

 その彼女のブログは「広島ブログ」の1・2位を常に争う大評判のブログなのだが、そこには診療に訪れる、訪れざるを得ない若者(実は若者だけの問題でないことも語られているのだが)「現実」が赤裸々に紹介されている。そしてその現実を変えるために彼女は毎週、木曜日と土曜日に全国へ講演に飛び回っているのである。

河野さんのブログ

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/


是非一度覗いてみて下さい。最近の記事には「デートDV」の詳しい解説があります。

 そのブログを読んで、「内の学生にも聞かせるべきではないか!」という思いがこみ上げ、あちこちにお願いをし、お手伝いをしてもらって、ようやくこぎ着けたのがこの講演会なのです。



 このチラシは私の手作りの試作品なのですが、何とか大学主催の講演会としてもらったのですが、動きが鈍いので、やむなく、取りあえずチラシやポスターで参加を呼びかけようと言うことにしたのです。

 幸いなことに人文学部の別の学科にこうしたことをテーマに研究している大学院生がいて、その学生と力を合わせてビラ撒きやらポスター貼りをすることになりそうです。

 「山中先生考古学の先生ですよね??」

とその他学科の先生から何度も確認されました。別に考古学が社会問題に関わって悪い法律はないはずなのですが、どうも考古学者というのは社会から離れて「ロマン」を追いかけている夢見る人物とでも思われているみたいですね。悲しいことです!!

 今日で一ヶ月を切りました。超超多忙な河野さんにわざわざ津まで来てもらうのです。たくさんの学生に聞いてもらわねば!!

 ア、そうそう。ヘボ監督がコーチに詰め腹切らして、自分はのうのうと来期も続投!!最低の管理職ですよね。こんな上司にだけは付きたくない!!

 ただ嬉しいニュースが一つ!川相が二軍監督として帰ってくると言うではありませんか。清水も二軍のバッティングコーチだとか。後は二岡の復帰を待つだけですな。
 岡崎ヘッドなんて最低の人選ですから、原の命も後わずか!!となれば川相監督という私の夢が実現するかも!!この際、二軍戦の中継でもしてくれないかな!?川相よ、間違っても二軍でいい選手を育てて直ぐに一軍にあげるなよ!じっくりじっくり育ててあなたが監督の時に華開かせばいいからな。

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東大寺二月堂修二会への松明調進行事と赤目の条

2010-10-24 02:57:16 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 金曜日は名張市の赤目公民館で「東大寺と聖武天皇」と題した講演をした。テーマは地元からの強い希望で決まっていたものです。その理由はと尋ねてみると、講演を行う赤目、特に一ノ井地区の人々は750年あまりの長きにわたって東大寺二月堂のお水取り(修二会)に松明を調進してきた地区だからだそうなのです。

 ああ、そうなんだ!!フト懐かしい光景が脳裏に甦りました。

 今から43年前の3月、受験が一通り終わり、とてもとても疲れた私は突然思い立って京都山科の実家から自転車を走らせて奈良に向かったのでした。別にお水取りが見たかったのではないと思います。ただ寒風の中を思い切り走らせて、また失敗するかも知れない受験のことを忘れたかったに違いありません。

 最終日の3月12日の深夜、それは勇壮な松明の火の粉と共に消え去り、後にはとてもとても物静かな暗闇が残りました。帰る術のない私は、二月堂の一角の小さな部屋で、信者さんに紛れて膝を抱きながら仮眠したのを今でも鮮明に覚えています。あの僧侶が火中に投じていたのがこの赤目から出された松明だったとは。驚きでした。急いでその様子を調べてみました。

 松明と言ってもあの派手に建物を駆け巡る松明ではなく、練行衆達が法要を営みながら火中に投ずる檜片を調達しているそうですが、私がとても興味を抱いたのはその会のHPに紹介された現在、過去の調進ルートなのです。もちろん古代からこのルートなのかどうかは不明ですが、少なくともこのルートを辿ると東大寺に着くことが出来るのです。そのルートとはこうです。

赤目→安部田→笠間峠→小原→小倉→針ヶ別所→一台峠→上杣ノ川→田原→鉢伏峠→鹿野園

とても興味深いのは東大寺への最短コースを辿っていることです。そして、途中に出てくる「針ヶ別所」や「小原」「杣の川」などは聖武天皇が天平12年に東国行幸に出かけたルートと重なる可能性があることなのです。

 これまでの一般的なルートの解釈は

平城京→??→都祁山道?→都祁・堀越→??→??→名張→阿保→川口

だったのです。要するに?の部分は不明なのです。都祁の堀越頓宮は都祁 水分神社の近くにそれとなく推定地があるのですが、それ以外は全く判っていません。ですからこのルートについては様々な説が出されています。

 一つは都祁から南下して宇陀川流域へ至り、これを東行して名張に入るというものです。しかし、私は以前、故金子裕之さんに連れて行ってもらった毛原廃寺がとても気になるのです。これも一般的にはこの寺は東大寺の杣(建築用の木材を調達する山:板蠅杣と名付けられている)との関係でできたと言われるのですが、それにしてはあまりに立派なのです。

 私の仮説は、平城京→中ッ道を南下→都祁山道を登り→都祁・堀越頓宮へ→小倉→毛原→岩屋→薦生→名張→阿保→川口なのです。つまり毛原廃寺は聖武によってその行幸ルートであったが故に建立された寺だと考えるのです。

 ついでに言っておきますと、この薦生は私の教え子MYの実家なのです。藤原朝成が有した薦生牧で知られ、この牧の境界を巡る争いが契機となって東大寺黒田庄が刮目され、その後の庄域拡大の遠因となったというのです。おそらく松明調進はこの黒田庄に属した赤目地域の「税」として納められたものなのでしょう。

 ところで、この地域は現在は赤目四十八滝で著名ですが、私たち考古学が忘れてはならないのは、琴平山古墳が築造されたことです。伊賀最初の横穴式石室を持つ古墳であり、金銅製の剣菱形杏葉をはじめとする6世紀初頭の貴重な文化遺産が出土しています。それまでほとんど大和との関係を伊賀の中で唯一有していなかった名張地域が初めて脚光を浴びることになったのです。おそらくそれまでは美旗古墳群から伊勢に入るルートが用いられていたのだと思われます。ところがこれ以降、後の伊勢本街道を使ったルートが開発されるのです。このルートを用いれば、南伊勢に最短距離で入ることが出来ます。その伊勢側の地(飯野郡や多気郡)に後の東寺の大荘園・大国荘が出来るのも偶然ではありません。

 名張は一郡が6世紀の新王権の配下に入ったのかも知れません。それ故、後に東大寺が入り、官道の設置を巡り地元と様々争いがあり、最終的には争いに勝利した東大寺が名張郡全体を支配するようになるのではないでしょうか。

 この様なことを話して久しぶりに京都の家に帰り、、お風呂に入りぐっすり寝ました。そして、今日は私の予想通りあのヘボ監督の率いるチームは、今日もまたえこ贔屓選手亀井をまたまた大事なところで代打に使い、もちろん確実にフォアボールで出塁できたところをええカッコしようと刷るばかりに凡退し得点機を逃し、さらにさらに私があれだけもう潰れているから二軍へ落とせと言った久保を折角同点にした九回の裏に登板させサヨナラ負け!!と言う恥さらしの采配ミスを繰り返したのであります。どうして今のあのチームに対し、「ヘボ監督辞めろ!」の大合唱が起こらないのか、とても不思議です。

 私一人で叫びます!!ヘボ監督原を一刻も早くクビにしろ!!でないと私の老後の楽しみが益々消えていく!!

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 赤目より 松明の列 今紅葉

 我が家では 落合胴上げ 誰も見ず

 松明の 檜林に 団栗が

 松明と 重ねて紅葉 聖武達

 紅に 染まる横山 赤目滝 
 




 

まだまだ籠城は続く、そして粗食も続くの条

2010-10-20 02:05:29 | yaasan随想
 チリの人々がいかに大変な70日間であったかが、とてもよく判るこのところの籠城生活である。

 今夜はカレーである。実は昨夜から基本方針は決まっていたのである。そして用意万端ご飯も炊いたのである。ところが、どうも米の量を間違えたらしく、炊きあがってみたら、えらくべとついた部分と、芯があってとても食べられない部分が混じって炊きあがったのである。

 やむなく芯のある部分を除き、ラップに包んで水を入れチンしたのである。すると何とか食べられる状態に戻ったのである。これらを冷凍して、そして今日は解凍してカレーをかけて食べたのである。

 

 オー、何と豪華なカレーライス!!

 ワカメ一杯の味噌汁まで付いているではないか。そそその右上にあるのは何だ?赤貝の缶詰!オウ、これはさらに豪華であるぞ。

 と言うことで今夜も王様気分での夕食を食べて頑張っているのである。明日は昼間は授業と会議で一杯だから今夜、何とか準備しないといけないのである。

 難しい科研の書類を作成しながら、一方で金曜日の講演資料を作り、そして、その合間に授業の準備をし、さらにさらに原稿を書く。こんな事聖徳太子でも出来るはずがないのである。依って、どれも中途半端で進まず、ウジウジしているのである。

 アッ、そういえば私の予言が見事当たってロッテが勝ちましたね。日本シリーズまで時間があるので、ゆっくり休んで、中日打倒に向け頑張って下さいね。巷では3位どうしが進出なんて馬鹿な予想をしてますが、それはあり得ない。おそらく四連勝、一勝位させてくれるかも知れませんが、ま、こてんぱーにやられて終わりでしょうね。

 そんなこと気にしている暇はないので、とにかくこの地獄を抜けねば。

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チリ落盤事故を思いながらの夕食の条

2010-10-18 22:21:56 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


 この高いという噂のサンマ!!

 ナナナント贅沢なおかず!!

 そうなんです。今夜の私は今や高級魚と化した秋刀魚なのであります。羨ましいでしょう!ウワハッハ

 
 何とバランスのとれたいい食事!??素晴らしい。COP10の会場で売り出したいくらいの粗食。

 
 ご飯は冷凍おにぎり。炊きたてを冷凍しておくとチンしてもとても美味しいのだ。

 

 そしてたっぷりワカメの味噌汁。日本人ならなくてはならないスープである。しめて120円。ちょっと高かったかな。そうだ!贅沢すぎる。チリの人々を思い起こせ!彼らはこの缶詰を33人でスプーン一杯ずつ分けながら17日間を耐えたのだ。
 それをたった一人でそれも二度目の食事として摂るなんぞ許せない!!

 ごめんなさい地球の裏側のみなさん。日本人の飽食をお許し下さい。せめて秋刀魚缶は2食に分けて、ご飯もこれは多すぎる!!

 はい、籠城1週間となるとちょっと壊れてきましたかネ。ストレスがたまるんです。ごめんなさい。みなさんはさらに70日でしたものね。1/10で文句を言うな!!ですよね。そろそろくたびれてきたのですが、まだまだ「仕事」が山積みです。イヤ、どんどん増え続けるのです。そんなところへまた難題が!

 昼過ぎになって、突然学生がやってきて泣きそうな顔で言う。

「授業の採り方を間違えたから卒業できないかも知れない!!のです先生どうしたらいいでしょうか」

「ハッ???あれだけ4月に確認したやないか、これが最後やからきちんとチェックして、さらに学務にも確認してもらえと。」

「ええ歳して何言うてんね!」と、怒鳴りたいところだったのです。彼とは1年生の頃からの腐れ縁で、授業に出ないからきっと面倒になるわ、と判っていたが、行くところがないというので、やむなく引き取ったのである。にもかかわらず、2年生の頃からさらに授業に出ず、バイトばかりしているもので、何回も何回も電話し、メールして、このままでは卒業できないからちゃんと授業に出ろ!!と口が酸っぱくなるくらい指導してきたのです。なのにこのザマです。はっきり言ってもう知らんワ!です。

 別にもう私にこれ以上の責任はないと思うのです。でも泣きついてくるから聞いてやらないわけには行きません。大体こういう奴に限ってこうなんです。きっと誰かがいつか助けてくれると思っているんでしょうね。イヤきっと、これまでは助けてくれていたんでしょうね。でももう知りません。私も堪忍袋の緒が切れました。もう勝手にしろです。

 そんなことで腹を立てていたものですから、すっかり食事のことを忘れてました。そして写真のような食事の準備??をしながら、そっとネットのニュースを見ると、嬉しいではありませんか、ロッテが逆転して勝って、タイに持ち込んだとあるではありませんか。さすが西村監督ですね。同じように先発ピッチャーが不振で、これ以上投げさせると傷口を広げるだけだと見抜いたのでしょうね。きっと2番手も考えていたのでしょうね。
すぱっと二回で交代させて、見事その後を0点に抑えさせ、そしてじっくり攻撃して逆転!素晴らしい!

 どこかのヘボ監督が慌てふためいて次から次へとヘボを出したのとは大違い!そこでフッと空腹に気づいて、今夜の夕食と相成った訳であります。ごちそうさまでした。とても美味しかったです。神様に感謝!!

 ところでついでに野球談義。ネット新聞によると、昨日のヘボ監督の采配を、自ら「強いスクラムの結果」だと自己評価したとありました。ホント、自分の犯したミスを客観化できない指揮官なんて速く首にして欲しい、のです。

 どこかの監督の真似をして、裏をかいて内海の代わりに朝井を出したつもりが大失態!!相手がもっともっとヘボ監督だから助かった(よう阪神ファンもあんなヘボ監督で我慢するね)が、へタすりゃ一回で終わっていたのかも。さらに恥の上塗り。次から次へとドジを繕うために出したピッチャーが滓ばかり。シーズン中ですら役に立たない金食い虫だから二軍にいたMICHAELまで出して、どうぞ阪神さん勝って下さい!と言ってやっているのに、相手の2倍ヘボな監督のお蔭で運良く逆転。終わりよければ全てよしとなったが、これが西村や落合ならそうはいかない。

 ホント、今シーズンはこのヘボ監督のむちゃくちゃな投手起用でどれだけ多くの勝利をフイにしたことか。どれだけ先発ピッチャーのプライドを傷つけ、中継ぎピッチャーの体力を失わせ(久保はその典型)じり貧に陥らせたことか。新聞を読むと、「逆転又は同点可能と思ってたから、久保とクルーンを温存した」と言ったとか。既に壊れているこの二人を一軍に置いておくことすら間違っているのに、まだ出すつもりだったとか、信じられん~~~。ヘボの二乗である(さっさと3人とも二軍に、イヤ久保以外は国外へ追放しろ~~!!)。

 と言うわけで、唯一の楽しみの野球の結果もイライラの原因。何とかして欲しい。ま、明日はロッテが勝って、明後日からは中日に頑張ってもらって、三連勝(四連勝)ですんなり中日さんに日本シリーズに出てもらって、そしてロッテが四連勝して日本一になる!!こんなストーリー通りになって、私のイライラを納めて欲しいものだ(もちろんその先には原監督クビ!!の朗報が・・・)。

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 秋刀魚缶 飽食のわれ 渇一つ

 秋刀魚缶 地球の裏を 思いやり

 伝統の 巨人阪神 枯れ紅葉

   
 企良


木槿塚 訪う人もなく 鰯雲  企良  の条

2010-10-17 04:00:59 | yaasan随想
 こんな駄句を作ったら俳句の師より早速の批評があり、

 「訪う人もなく」は「訪う人もなし」の方がいいよと言うことでした。

さすが師ですね。

 ということで、

 木槿塚 訪う人もなし 鰯雲 企良


となおさせて頂きます。

 駄句に解説は不要とは思いますが、伊勢市立郷土資料館の宣伝にもなりますので、少しこの背景を説明させていただきます。

 前回も紹介しましたように、郷土資料館に常勤の正規の職員は配置されておらず、バイトの女性がいらっしゃるだけなのですが、この方が丁寧な方で私たちにまで紅茶を出して下さるという。有り難いことでした。美味しかったです。

 紅茶を頂きながら、玄関先の説明板などを読んでいてフト目に留まったのがこれです。



 ウン?木槿塚? こりゃ何じゃ?そもそもこの字は何と読むのか?

そこで目を解説にやると[むくげづか」であることが判明。さらにこの地には松尾芭蕉がやってきて、先のような一句を残しているという。

 
道のへのむくげは馬にくわれけり  芭蕉


 芭蕉と書いてあるから、ふーんと思うが、知らない俳人なら「ちょっとユーモラスだが、ただ情景を詠んだだけジャン!!」などと生意気に思ったのである。これくらいなら私にも読めるぞ!と意気込んで詠んだのが表題の句。ま、これが限界です。(笑)

 そこでさらに思ったのが、こんな歴史的な「遺産」が一郭にあるのに、入館者3人ではあまりに悲しい。到底この宝物を知る人はいないだろうな、ということだった。

 そもそも、この敷地は「国史跡 旧豊宮崎文庫跡地」なのだそうだ。
さて、その豊宮崎文庫とはいかなるものか、無学な私は急遽調べることに。すると県史編さん室のHPに詳しい紹介記事が掲載されていた。
(http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=76)

 それによると、豊宮崎文庫は慶安元年(1648年)、私が生まれるちょうど300年前、「外宮権禰宜で国学者でもある出口延佳(のぶよし)らの呼びかけで建てられた」のだという。「それまで伊勢神宮には内宮に「文殿(ふどの)」、外宮に「神庫(しんこ)」という建物があり、書籍などが収められ学問の場でもあったのですが、禰宜以下の者には利用が許されていなかったので」、出口等が広く利用できる「図書館」としてこの文庫を設立したというのです。来館者には大塩平八郎や本居宣長など多数の学者達が訪れたというのです。残念なことに建物は明治11(1878)年に失火によって焼失したが、書籍は難を逃れ、現在は神宮文庫に大半が収められているという。いわば図書館の元祖として国史跡として保存されているのだ。同じような機能のものが伊勢神宮の宇治橋の手前に置かれた林崎文庫で、これもまた国史跡だそうだ。

 そんな由緒ある敷地に建っていながら、だあれもそんなことに気付かない。もったいない!

 そこで「伊勢市立郷土資料館〈仮想〉大改修計画」なるものを考えてみた。伊勢市のお偉いさんが見てたらなんとか検討してみてくれないかな~(無理だろうね!。(笑)

「伊勢市立郷土資料館〈仮想〉大改修計画」(案)

1 館名の改正
  伊勢市立郷土資料館→ 伊勢外宮横なんでも博物館
 付近の最も有名な施設は外宮である。この名前を最大限に活かすべきであろう。民俗、文献、考古と一通りの資料は揃っている。自信を持って「博物館」と名乗るべきであろう。


2 入館料
  現行 100円 
  改正 無料
 これで100円は高すぎる。1日3人しか来ない施設の入館料100円を徴収するためにバイト(おそらく1日5000円くらい?)を払うのは馬鹿げている。→いかにもお役所的発想である。

3 施設再整備
  改修費を出来るだけ少なくし、なおかつこのださい雰囲気を変えるための改修工事を実施。予算:30,000千円
 ①施設改修
  ・ 屋根・壁面改修
 漏水防止を兼ねた三角屋根を敷設し、ソーラーパネルで覆い、博物館の電気代を全て賄う。この工事と並行して壁面(及び屋根も)真っ白に塗り替える。
  ・トイレ改修
 トイレを外人さんも使えるように洋式にする。
  ・講座室整備
 資料室を改装してミニ講座室とする

 ②サイン整備
伊勢市・宇治山田駅からの「サイン」をしっかりと、大規模に再整備する。


4 職員構成
 ①館長
 しばらくは無給の非常勤で構わないので、大学を退官された先生を館長に据える。館長には定期的に講演を担当してもらい、これには一定の講演料を支払う

 ②常勤職員
 文化財担当職員を当施設に常駐させ、日常業務もこの施設で行う。

 ③ボランテアガイド
 市民から募って、ボランテアガイドを養成し、日常的案内業務を委託する。
 
 ④連携協力者
 三重大学人文学部伊勢湾・熊野地域研究センターと連携し、四季毎の講演会を担当頂く。講演料は参加者のカンパで賄う。(1口500円で講演が面白いと感じれば一口以上のカンパを依頼し、その半分を講師交通費などに使用する)

5 事業
1)企画展(県内博物館連携展示)
2)四季講演会
  三重大学人文学部伊勢湾・熊野地域研究センター教官実施
3)旧豊宮崎文庫大花見会
  毎年4月第一土日実施
  文庫に関する講演会
4)木槿塚句会
  四季第二土日を句会とする。
5)伊勢おかげ参りウオーク
  二ヶ月に1回第3土曜日に実施。
  1回4㌔前後で伊勢関係史跡・文化施設を巡る。年1回はグルメを入れる。
6)古文書会
 古文書の勉強会
7)夏休み子供探検会
 夏休みに子供達と歴史遺産を探検する会を開催

6 その他
 ① HPの立ち上げ
 ② ツイッターを利用した伊勢歴史・文化情報を定期発信
 ③ 博物館グッズ開発販売
 ④ 博物館学実習の受け入れ


 他にもやりたいことは山ほどあるが、取りあえず軌道に乗せるまではこれくらいのメニューを用意してやれば、10000人の入場者は下らないと思うのである。特に講演会を定期化させることによって、リピーターを獲得し、彼らに博物館ボランテアとしての機能も担って頂くべきだと思うのである。
 ま、大した新鮮さはないかも知れないが、博物館学芸員が一人ででも頑張れる内容だと思う。

 
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伊勢市昼河古墳群出土土器調査の条

2010-10-15 23:12:11 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 今日は一人の大学院生の研究テーマである横穴式木室墓の研究の指導で、伊勢市郷土資料館へ行ってきました。

 この古墳群は、全国でも珍しい横穴式石室を木で造った古墳数基が小さな丘の上に営まれている群集墳なのです。

 残念ながら、担当者の懸命の願いにもかかわらず、公共事業によりすっかり姿を消してしまったのですが、今なら直ぐに国史跡になったはずの遺跡です。この古墳からはたくさんの須恵器が副装品として出土しているのですが、その多くが火を受けているというのです。そこでその土器を見せてもらいにいったわけです。

 横穴式木室墓というのは遠江から発生したといわれているのですが、その半数ちかくが「火化」といって最終段階に木室に火が放たれるというのです。その思想的背景については仏教との関係や須恵器工人との関係などが指摘されていますが、まだ確定はしていません。

 「火化」の背景を知るために、それらのどの時期のものが、どの様な状態で火を受けているのかについて、須恵器の状態を調査に行ったのです。もちろん報告書には書いてあるのですが、これまで現物を十分観察していなかったらしいので、この際全部見ておこうということになったのであります。

 その結果判ったことは、極めて強い火を受けて変色しているものからほとんど見分けのつかないものまで、出土古墳、出土位置によって随分異なることが判りました。また、昼河古墳群では副装品の中で一番新しい時期に当たる7世紀後半の須恵器が火を受けていますので、遅いものでこの時期に、早いもので7世紀前半に「火化」されているらしいことが判って来ました。古墳群に横穴式木室が導入されるのが、6世紀末のようですから、一応今のところ、徐々に「火化」が進行していったように見えます。ただ、横穴式木室墓ではもっと早い6世紀後半には「火化」が始まっていますので、なぜ昼河古墳群では遅れるのか、興味深い課題も見付かりました。

 ところで、郷土資料館には一階に民俗資料や文献史料が、二階に考古資料が展示されているのですが、私たちが居た半日で入館したのは私たち二人と1階の調査に来ていた研究煮らしい人一人、そして、二階にまで上がってこられた一般の方お一人がいらっしゃるだけでした。

 以前にも来たことのある学生の話によるとその時も一日居て自分も入れて3人だったとか。帰り際にアルバイトだという事務の方に伺うと年間の入館者は1000人くらいかな?ということでした。そしていつもは自分達バイトの者だけで、団体の入館者(小学校などからの事前申し込み)があるときは市の教育委員会の方が見えるとか。

 置いてある資料はとっても面白い資料なんですよ。展示ケースも立派だし。結局市の姿勢が問題なんでしょうね。いくら財政難だといっても、役所には人が余っているはずです。そんな部局から人を割いて、きちんとした学芸員を置けば、入館者は必ず増えるものです。

 伊勢神宮には何十万人もの人が来られるわけですから、そのうちの1%の方が立ち寄られても年間数千人にはなるはずです。本当にもったいない!!

 そんなことを思って帰路についた私の携帯に嬉しい知らせが!!

 ある市役所の文化財担当の試験を受けていた学生がまだ一次試験だけれど第一関門を突破しました!というのである。

 私の見立てでは「当然!!」だったのだが、本人としてはそれなりに必死だったようである。もちろんこれから面接などの第二関門が待ち受けているわけで、まだまだ油断は出来ないが、少し気が楽になった。これからまた、面接の特訓である。これにはこの間多くの成功者を輩出しているので、少々自信がある。1ヶ月後くらいに朗報が伝えられるに違いない。

 とても元気がよくて、勉強熱心で、今やっている卒論でもとてもいい論文が出来そうな学生である。本当なら大学院でもう少し鍛えたいのだが、今でも十分即戦力として使える、内のエースである。きっと採用してくれればその市は大いに文化行政が進展するに違いない。発掘だけではなく広く文化行政を積極的にやるよう既に厳しい指導をしている。

 採用されればボランテアで講演などにも行くからと言ってある。最終結果が待ち遠しい。そしてその市での講演会が楽しみだ。

 ここ数年は考古学には結構求人のあるのが現実である。我が研究室の学生も専門職として公務員に採用される人間が増えている。

 それ以外の民間や一般公務員も今年はほぼ全員就職が内定した。それもそれぞれしっかりした企業や市役所へ。万歳!!である。

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 道のへのむくげは馬にくわれけり  芭蕉

 木槿塚 訪う人もなく 鰯雲   企良
(むくげづか とうひともなく いわしぐも)

 秋晴れに 美濃路に向かい あっぱれと  企良  

 荼毘に付す 昼河の丘に 枯れ葉舞う   企良




 

丸一日ボーッとしての条

2010-10-11 12:10:09 | yaasan随想
 昨日10月10日は全く何もしませんでした。しんどくて出来なかったこともありますが、朝一度起きたのですが、結局昼過ぎまで寝て、大急ぎでロッテ対西部をみていました。

 私は西武は大嫌いだし、ソフトバンクも日ハムも、楽天も嫌いです(オリックスなんてどうでもいいし)ので、のこるはロッテだけです。ロッテはこの会社のチョコレートが大好きで、特にバッカスチョコの大ファンです。もっともこのチョコは普通には売っていません。なので大抵はミルクチョコかクランクチョコを食べます。もう一つ大好物があります。ロッテの「雪見だいふく」です。ご存じの方はおわかりでしょ。一度食べたら止められない。今も書いているだけでヨダレが出る。あのお餅のねっとりした中にアイスが入っている。これ、韓国に行っても普通に売っているのでいつも買うのであります。

 またまた脱線。だから??パリーグではロッテが大好きなのであります。
 セリーグはもちろん言うまでもなく62歳なのに63年間ジャイアンツファン!!阪神大嫌いファンであります。その理由は知る人ぞ知る。深い深い恨みの歴史があるからなのですが今日は止めときます。

 ただし、今の巨人は大嫌いです!!原が監督をしている間は広島ファンであります。このええカッコしいーの無能力監督だけは許せません。今年のむちゃくちゃな投手起用。てめーの感情にまかせてやる投手起用。星野仙一以下の投手起用無能力監督です。こんなのみたこともない。そもそもが子飼いの人間しか起用しない。先ごろ亡くなった大沢さんとは真反対。とんでもないええカッコシーのどうしようもない監督がやっている間はアンチ巨人ファンなのであります。なぜ四位にならなかったのか、悔しいです。四位にでもなれば来年優勝できないでしょうから再来年には辞めさせられるはずです。だから四位になれ四位になれと祈っていたのですが・・・。それでもあの最終戦の信じられない投手起用。ま、一昨日の渡辺久信も同じでしたがね。ま、彼も大した監督ではなさそうですね。そんなことはどうでもいい。

 というわけで昨日はテレビの前にかじりついてひたすらロッテを応援していた。応援のしがいがあって、2試合連続の逆転勝ち。この調子で日本シリーズに出るでしょうね。そこで中日をコテンパにやっつけて貰いたいものです。とにかく原が巨人の監督に居座る内は広島を応援し、広島ロッテの対戦を待っているのであります。

 やりましたね。今江君頑張ってね。

そんなこんなで一日ボーッとしていたので、少しは楽になるはずが、どうも風邪が治らないらしく、頭は痛いし、鼻はズルズル。今朝ももう一つすっきりしないので息子の息子と娘の保育園の運動会を見てきました。まだ11ヶ月の息子の娘もお母さんと一緒に出たのですが、初めての経験で泣き出してしまったとか(何せたくさんの父兄で見えないのであります。放送で、「あれ、みのりちゃん泣いてしまった!泣かないでホラ」と励まされている声が聞こえて泣いたことが判るくらいなのであります)。

 でもお母さんと一緒に戻ってきたときにはすっきり。普通にしてたので一安心。

 そんなこんなで一通り見て退散。息子や娘の運動会には行ったこともないのに、息子の息子や息子の娘の運動会はこれで3回目かな?!(笑)おじいちゃん馬鹿でありました。

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超過酷な一週間がやっと終わりました!!の条

2010-10-09 21:01:02 | yaasan随想
 本当に本当にきつかったです。やはりそろそろ仕事を減らさないと、急死しそうです(笑)。別に死ぬのは怖くないのですが、急死といのはね、ちょっと準備がしたいので・・・。

 だからちょっとこれからは仕事を減らして・・・、と一応思っている私です。

 新学期は10月1日から始まったのですが、私の授業は10月5日からでした。だからついその前に「ま、大丈夫だろう」と思って講演会を入れたのが悪かった。

 特に堪えたのが初日2日のダブル講演会。話しの方はそれなりに満足できたし、特に午後の部は疲れ切って、ヘトヘトで伊賀上野まで行った割には好評で、終了後のお便りも、お世辞半分としても、みなさんの評判が伝わってくるようなものだった。
 
 これに油断して、京都の家に帰ってホッ、としたのがいけなかった。

 火曜日の朝7時に家を出て、津に着いてから今日、さっき京都に帰ってくるまで、あまり意識がないのである。それくらいフル回転したのである。

 火曜日は演習ばかりの授業だから特にこちらが用意するものはないのだが、報告者は夏休みの充実した中味を伝えてくれるからどうしてもこちらも熱くなってしまう。気がつくと19時を過ぎていた。

 ところがそこから四年生の卒論の事前演習組がいろいろ相談に。夏休みを利用して現地に赴き資料を調査し、データーを作ったまではいいが、ちょっと、そのデーターがうまく取れていなかった。悪戦苦闘するも、どうもすっきりしない。とても頑張っているだけに何とかいい方向に持っていこうとこちらも必死で考えるのだが、悲しいかな、こちらはその現物を見ていないから(せいぜいデジカメの写真から判断するだけなので)なかなか気の利いたコメントが出来ない。ホント後少しのところなのだが、手が届かないのである。

 こういうのも意外と疲れるのである。

 翌日は水曜日、いつもの年なら後期は講義はしないのだが、なぜか今年は演習系を止めて講義に。これがまたいけなかった。実は珍しいことに資料は夏休み始めの頃にもう出来ていたのである。これもまたいけなかった。出来ていたから安心していたら、いざ始める段になるとどうもしっくり来ない。

 用意した資料は「339万年前の動物の骨に鋭い刃物痕!!既に石器を使っていたのでは・・・80万年あまり、道具を使う歴史が遡る」というニュースであった。これを素材に授業をスタートさせようとしたのである。

 これは教養の授業で、いろんな最新の考古学のニュースを基に、考古学とは何かを伝える授業である。人類の初めと授業の始まり、丁度いいと考えたのであろう。確かに専門の出だしとしてはぴったりなのだが、日本史も世界史もろくに習っていない今の一年生、それも理系の学生もかなりいるこのクラスで、この素材はちと難しすぎると気付いた。そこで大慌てで少し資料を追加。これに手間がかかってしまって、睡眠不足!!そのまま一コマ目の授業へ。もちろん授業はとてもうまくいって(自画自賛!)、午後は溜まっている原稿を、と意気込んでいたのだが、この疲れが出て、うつらうつら。全く進まなかった。

 ろくな状態でないところへ電話が。

 発信者をみて「ヤバ!!」会議出席の可否を問うものだ。内心「サボりたいな~」と思っていたが、声を聞くとそういうわけにも行かず、少し遅刻することを条件に出席することに。

 原稿は進まないは、翌る日の授業の準備は中途半端だは、・・・会議には出なければならないは・・。踏んだり蹴ったりとなった。

 さて、木曜の授業は朝から二つ連続で講義をこなすと直ぐに電車に飛び乗って某市へ。会議はあまり私には関係の少ない議題なので、ついうつらうつら(予想通り)。会議終了後の追加会議がメイン。そこで原稿提出の最終確認!!。

 「ハイ、スミマセン!!、ハイ、ゴメンナサイ、ハイワカリマシタ」

小さく、小さくなってひたすらお詫びして決められた締め切りを胸に刻んで再び大学へ。これまた少し遅れることを一緒に授業を担当している先生にお断りして大急ぎで教室へ。意外と早く着いたのでみなさんびっくり。

 四年生の卒論の中間チェックの授業の3回目である。夏休みを経てきているので、真面目にやっている人間は夏休み前とは見違える内容で報告していく。我が考古の学生は、例のうまく資料が出来ていない学生である。徹夜状態で資料を準備していたことはよく知っていて、とても心配したのだが、残念ながら予想は外れず、「再調査!」ということに。今度は私も一緒に某県まで出かけないといけなくなりそうである。

 この演習、いつも長くなるのだがこの日はさらに長く、1時間半もオーバーして終了。一息する暇もなく、大学院生の演習開始。その頃になると流石に腹も減ってきた。なにせこの日は駅の立ち喰いそばを一杯食べただけだからちょっときつかった。

 院の演習は『続日本紀』を読むこと。今は宝亀3年の段である。他戸井上親子が巫蠱(ふこ)の罪で廃后、廃太子され、いよいよ桓武の登場というもっとも面白いところなのだ。

 のめり込みすぎてこの授業が終わったのが21時半!!大急ぎでご飯を食べにいって、翌日の講演会のパワーポイントの準備。つい時間があると凝りに凝ったパワ-ポイントが。

 よく8日は関ヶ原まで行かないといけないので、朝5時半起床。寝たのが午前3時半だからこれまた寝不足。

 朝一の特急に飛び乗って、と思っていたら意外と早く津駅に着いたのでついいやしくも朝ご飯のパンを買うことにした。これが大失敗。朝早すぎたせいかパンがほとんど無い!!止めときゃいいのに、その少ないパンをとって電車へ。急いで食べたので、異変に気付かず。最後の一口でなんだか嫌な味のすることに気付いたのだが、「まさか??」とそのまま食べて名古屋経由関ヶ原へ。どうもこのあたりからお腹がグルグル言い出した。

 「やば!」

 講演最中になったらどないしょ、ということで、開宴直前にトイレへ。心配があたって、一時間もするとちょっと微妙。何とか持ちこたえて終了。挨拶もそぞろにトイレへ。こんな状態で電車に乗ると冷や汗たらたらなのに、何とクーラーがついている。寒!!

 これで完全に風邪を引いてしまった。お腹はグルグル、喉は痛いは熱はあるは、最低の状態で今朝の講演会へ。

 小さな部屋なのにマイクを使って、か細い声を補うという体たらく。それでも何とか、終わってホッと。本当はこの三連休、三重で原稿三昧のつもりが、この体調では無理!!

 思い切って京都へ帰ることに。今夜はぐっすり寝ます。ではみなさんお休みなさい。みなさんもあまり無理をしないでね。

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今朝の大和路車窓の駄句の条

2010-10-06 00:49:03 | yaasan随想
 今日から私の新学期である。2時間目から実技演習が始まる。朝7:22の特急に乗って伊勢へ向かう。その車中では原稿を打つのだが、時々頭を休めて駄句を書き留めた。



 大和路の 黄金の絨毯 我が大地

盾列の 墓守たちに 黄金の実

菅原の 大王が池に 黄金映ゆ

東塔の 扉へ注ぐ 稲穂かな

畝傍山 ほんのり霞の 薄化粧

茶臼山 秋霞に 浮かびおり

纒向の 水面かがやく 実りかな

箸墓の 黄金に浮かぶ 女王が夢

赤目口 琴平山に 秋霞

馬塚の 草刈る丘に 柿一つ

秋霞  天平の君 伊勢に騎馬

阿保坂で 秋雨に乱る 騎馬の列

関宮 毬栗コロリ 大王(きみ)が夢

一志から 黄金の原を 駆け上がり

秋霞 浮かぶ城壁 加太越え


  企良


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J'étais fatigué! J'ésuis fatigué! の条

2010-10-05 01:18:57 | yaasan随想
 J'étais fatigué! J'é suis fatigué!

 しんどいです!

 肉体的にも、精神的にも。

 肉体的にも無理をしているのです。でも努力が報われないから余計に疲れるのです。

 こんな思い、久しぶりかも知れません。

 得てして同時にやってくるものなのでしょうね。

 肉体が衰え、精神に張りが無くなると能力にも限界がでてきます。元々大した能力でない人間が、努力をして何とか人並みの能力まで持ってきた(つもりな)のですが、今夏の猛烈な暑さが肉体を傷つけ、そこに追い打ちをかけるような悲しい人間不信。

 簡単に裏切られ、崩される信頼関係。

 そうなんだ、そんなに軽薄なものなんだ。どれだけ一生懸命対応しても、あっという間に個に帰してしまい、へとも思わない若者達。

 そんなに人間は、非社会的存在であり続けることができるのだろうか。

 そういえば誰かが報告してたな。

 「老人を犯罪から守るためには社会的関係の構築が大事だ」と。

 そんなことみんな判っているよ!でももう今の人間は、社会的存在である前に、個が最優先される。

 だから平気で我が子を殺すし、平気で信頼を裏切る。

 でも、齢を重ねて、孤立した老人が、犯罪のターゲットになり、孤独死する。

 そんな日本に誰がした?イヤきっとみんなが無意識のうちに求めたのだろうな。

 「干渉されたくない!」「ほっといてくれ」「一人で生きていくから」

 そんな人間達に、若者に何を教えるというのだ?過去など見向きもしない若者に、人間に、歴史がどんな重みを持つのだろうか。ましてや千年も、万年も昔の歴史が・・・。

 まだ2年以上もこんな虚しいことをやり続けないといけないのだろうか?

 いやいや、真剣に学び、築かれた人間関係をとても大事にしている若者も、ホラ、そこにいるではないか。

 そうなんだ!

 でもそんな若者が、社会から疎外されて、未来に展望を持てなくなっている。とても心配なのだ。

 でも、一人でもそんな若者がいれば、真剣に教え、信頼関係を作り、励まし合うことが必要なんだよね。

 だから後二年少しを、やっぱり全力で生きていく以外に道はないんだよね。人間としての当たり前の信頼関係を捨て去る奴なんか放っておけばいいんだよな。

 限界はとっくに来ているのだが、それを乗り越える何かをエネルギーにもう一踏ん張りしてみるか・・・。
 J'étais fatigué! J'é suis fatigué!

 あーしんど!!

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 虫の声 もう一踏ん張り せよと言う

 秋風が 魂と一緒に すり抜けて

 読書せぬ 若者達に 何伝う


1日二本の講演会の条

2010-10-03 21:59:40 | yaasan随想
 昨日10月2日は午前と午後の二本の講演をする羽目になってしまった。

 今回は私の落ち度ではなく、どうしてもこの日にして欲しいという午後の依頼者の声を無視できず、やむなく引き受けたのだが、やはりきつかった。

 それも前日の夜にパワーポイントやら、次週の講演の資料やらを用意していたら、突然4年生が泣きついてきて、今度の四日市久留倍遺跡まつりの横断幕がうまくできないんですという。

 この大型のプリンターはどうも他のソフトとの相性が悪くいつも何かトラブルを起こす。今回は二行に打ったタイトルの上の行は印刷できるのに下の行が出てこないという奴だ。これまでにはなかったことだ。ただし、その事に8mにも及ぶ横断幕の大半が刷り上がったところで気付いたのである。

 インク代、印字の特殊な用紙代、これ、相当な額なのだが・・・。

 しかしこれがどう扱ってもうまくいかない、こっちは資料を作らないといけないので焦るは、段々イライラしてきた。

 結局昨夜は諦めて後日やり直すことに。

 そんなこんなでとうとう徹夜状態で講演会場に。どうも寝ぼけていたのか、眼鏡を忘れるという信じられないハプニング。たまたまみなさんにして頂くアンケートがあったのでそれをやっていてもらう内に眼鏡を取りに帰る(午前は大学での講演だったのでよかった)。

 そんなこんなでバタバタと話しに入ったのでどうもうまく進まない。以外と前段の話しに時間をとられ、結局は当初の予定の半分も資料と使わないうちに終わりの時間が。前夜にプリンターが使えなかったためにパワーポイントの印字もできず。きっと判りにくかったに違いない。ごめんなさい。来週は今回の分も取り戻ししっかり話しますので。

 午後からは終わって直ぐに近鉄特急に飛び乗って、伊賀神戸へ、そこで初めての伊賀鉄道線に乗り換え、伊賀路をとことこ各駅停車で上野市まで。駅から歩いて5分のところにある上野高校同窓会主催の講演会へ。

 15分前に着いて大慌てでパソコンの準備を。

 100人の会場がびっしり満員。こちらは電車の中で居眠りしながら話す段取りを考えていたのでなかなか快調に話すことができた。資料も手頃な量だったので、10分前におおよその終わりのストーリーを思い描きながら話をまとめていくことに。

 終わったとたんに疲れがどっと出た。

 来週は大学での講演会の第二回目。テーマは東海道の駅家。

 果たしてどうなる事やら。

 何事ももっと早く準備することですよね。文化の秋、しっかり話すようにと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 黄金色 絨毯の中ゆく 伊賀鉄道

 運動会  懐かしの音 伊賀の里

 大海人の 皇子らも急ぐ 黄金の道

 晩秋の 伊賀路を急ぐ 聖武等が

 城之越の 水辺に舞落つ 枯れ一葉

  秋風に 炎夏のTyre 遙かなり


  




第5回伊勢湾熊野研究会開催&「26」歳の宴の条

2010-10-01 19:07:58 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は夏休み最後の日。伊勢湾熊野地域研究センターでは藤谷 彰氏(三重県史編さん室)による「伊勢商人の流通システムと文化ネットワーク」と題した報告がありました。

 江戸大伝馬町を中心に木綿問屋として進出した伊勢商人達。江戸の経営は番頭達に任せ主は伊勢で悠々の生活。といわれた伊勢商人達が伊勢の日常世界においてどの様な実生活を繰り広げたのか。大店の主の日記に記された日々を通して彼らの文化を垣間見んとしたものであった。

 残念ながら日記の追跡がまだ始まったばかりで、今回の調査では十分なネットワークを見ることはできなかったが、お茶や歌の世界にそのヒントがありそうなことが告げられた。

 みなさんの興味を引いたのは、伊勢商人達の資産と当時の藩の資産を比較した資料で、安永年間の川喜田家(今の百五銀行の祖)が25000両、同時期の亀山藩の年貢収入が17000両であることから、長谷川本店の142000両は41万7400石相当だという試算であった。

 いかに当時の伊勢背商人が莫大な資産を持っていたかを示す興味深い試算であった。

 質疑の中で,他の史料から伊勢商人の幅広い文化ネットワーク、とりわけ長谷川家の千家との付き合いの深さが紹介され、そうした繋がりもまた、商売に利用されていたことが示された。

 私からは、大伝馬町という立地の意味を問うたところ、参加者から「東京時代MAP」 でもって、当時の江戸の町屋が詳しく紹介され、今度東京に行くときにはこれを持って歩くことにした。次回は私からの斎宮と離宮院の変遷に関する報告である。もし興味をお持ちの方はご参加下さい。

 さて、研究会の後、納涼大宴会を開催するとお知らせしておいたのだが、連絡が遅く、大半の先生がたが帰られて寂しかったのだが、その最後に驚くべきセレモニーが。

 ハッツ??



 こんな物がでてきたのだ。何じゃこれ?

 「おめでとうございます!!26歳??62歳!!今日は先生のお誕生会なのです。少し遅くなりましたがみんなで用意しました。」

 といってでてきたのがこれ。 



 去年は中国安陽で思いがけずも地元の先生からケーキをプレゼントされ、今年は学生達からのこれである。とてもとても嬉しかった。



 実はこのハンカチもネクタイも、いずれも埴輪をプリントした東博のグッズなのだが、これもみなさんから頂いた。感謝、感激雨あられ



 ケーキを作ってくれたのはこの二人。一つはフルーツ一杯のスポンジケーキ。もう一つはタルトなしのレアーチーズケーキ。とってもとっても美味しかった。ぼくがレアーチーズケーキの下に敷くタルトは嫌い!!と知ってての快挙??!である。うれしかった!

 

 卒業生達も駆けつけてくれて、1時過ぎまで大いに盛り上がったのであった。




 今朝になって学生から、昨日渡すのを忘れてました。来られなかったNA先輩からのプレゼントですと言ってこんな物を頂いた。中味は何でしょうかね?

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 伊勢湾・熊野地域研究センター  第6回研究会(10月28日)開催案内

 第6回研究会を下記要領で開催致しますので、ご参加頂きますよう御案内申し上げます。

           記

日時  2010年10月28日(木)18:30~20:30
場所  伊勢湾・熊野地域研究センター室(共通教育4号館5階 2号館のエレベーターで5階までお上がり下さい)

報告者  山中 章(三重大学人文学部) 「斎宮・離宮院変遷と伊勢太神宮」

 要旨
 国史跡斎宮跡は現在三重県多気郡明和町一帯に140ヘクタールの広大な敷地をもって保存されています。近年の研究では初代斎王が天武天皇によって撰ばれた大来皇女であることが有力になってきていますが、伊勢での滞在地は未だに明らかにはなっていません。通説では史跡斎宮跡の西部一帯だとしますが、その根拠 は明確ではありません。最初の伊勢斎宮の設置場所はどこだったのでしょうか。『続日本紀』文武2(698)年の記事によるとこの年「遷多氣大神宮于度會郡」と「多氣大神宮」なるものが度会郡へ遷されたとあります。そもそも伊勢太神宮はどこにあったのでしょうか。
7世紀末に斎宮は現史跡指定地に置かれた可能性を示す考古資料が出て参りますが、「多氣大神宮」とはどの様な関係だったのでしょうか。この頃度会郡に遷された「太神宮」とはどの様な関係だったのでしょうか。また、斎王が天照大神奉祭のために伊勢太神宮に赴く際に利用した施設が離宮院だとされますが、初期の離宮院はどこにあったのでしょうか。なぜ延暦16(797)年に外宮に近い山田原の地から旧小俣町内の現史跡指定地へ遷されたのでしょうか。あたり前のように思っている伊勢神宮を巡る様々な事象の多くが未解決のままです。その背景には王権と伊勢太神宮との複雑な問題があったのではないでしょうか。その要因を主に考古資料を使って離宮院の変遷過程から検討します。

 伊勢湾・熊野地域研究センターでは充実したスタッフの下、毎月1回の研究会を開催しています。地域のみなさん、学生の参加も自由です。
今後の予定は以下の通りです。幅広い分野から多数お集まり頂き、真摯な議論が展開できればと思っております。学生や院生の参加も歓迎します。

 予告

第7回  11月24日(水) 吉丸雄哉「草双紙の中の阿漕伝説」

第8回  12月8日(水) 森正人「昭和の旅行と日本社会―誌『旅』から見えるもの―」


  伊勢湾・熊野地域研究センター 連絡先 yaa1948@gmail.com


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