yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

おごる平家(トヨタ・小沢)は久しからずやの条

2010-02-22 20:45:47 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 平家物語の次の出だしの部分は余りに有名ですが、その言を待つまでもなく、権力というのは決して長続きしないのだと言うことをこの頃つくづくと思います。

「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

 あれだけの一人勝ちを謳歌していたトヨタの混乱ぶりを見ていると、その感を強くします。そして今、新たな権力の座について、権力を謳歌できると思っていた民主党が、小沢という権力の源泉を断ち切れないために謳歌する間もなく権力の座から滑り落ちそうな状況になっています。いずれも、

 奢り!!

が原因でしょう。

 実は最近我が家では車の買い換え問題が起こり、子どもたちがいろいろ知恵を絞ってどれにするか相談していたようです。

 私は軽自動車で十分だと主張したのですが、却下され、結局ハイブリッドカーを買うことになったようです。そこで当然デーラーは決まります。

 これも当然のこととして、先ず近くのトヨタの販売店に行ったそうです。そこでの状況がこの間のトヨタの狼狽ぶりを象徴するようなものだったと言います。

 私の連れあいがトヨタの店を訪れたそうです。汚いカローラの古くさい自動車で60近いおばあさんが一人で行ったのですから、ある面無理もないのかも知れませんが、だーれも出てこなかったそうです。さらに!カウンターに暇そうな社員がいたのですが、

 「アノー・・・」と言っても反応がなく、めんどくさそうに
 「何ですか?」と言われたそうです。

車の販売店に来る客というのは基本的に車を買いに来たはずなのですが、仮に修理だとしても丁寧に対応するのが営業の原則でしょう。もうこの頃は放っておいても客が来るからでしょうかね、買いそうに見えない客の相手をするのが面倒だったのでしょうね。

 怒り心頭に達した彼女はすぐさまそこを立ち去り、次なるデーラーホンダに向かったそうです。

 車で入るなりすぐさま社員が出迎え、高齢の貫禄のありそうな社員がお茶を出す。何とその人物がこの販売店の所長だったようです。懇切丁寧に説明をし、何とか売ろうとする。もうこの時点で彼女の心は決まったようです。

 「二度とトヨタなんかに行くもんか!!」と。

アメリカでの暴走事故が起きた時、トヨタは特殊な事例として片付けていた節があります。

 「うちの車に限ってそんなことがあるはずがない!!客の乗り方が悪いんだろう!!」

 こんな感じでしょうかね。いつの頃からか、トヨタの車に構造的欠陥が生ずるなんてことはあり得ない!!と思い込んでいたんでしょうね。

 HV車と言うだけで客は勝手によって来るという販売店の奢り。

 トヨタという名前だけで安全が保証されていると過信した奢り。

 利益を優先する余り、管理の行き届かない海外へどんどん進出し、安い労働力で安価な製品を大量に生産する。国内では季節労働者を大量に利用し、契約社員によって調整し、いかに効率的に車を作り、売るか、ばかりを考えてきたトヨタ。

 そして民主党も、たった一度の選挙で圧勝したからといって、自民党と代わらない手法で政をやっていて国民が怒らないと思っている傲慢さ。だからといって自民党政治に戻りたいなどと誰も思わない。ならどうなるか?感情的な、扇動を基礎とする黒いどろどろした闇の世界が表に出てこようとしている。再びファシズムがこの日本を覆っても不思議のない状況が今生まれつつある。 

 一日も早く小沢一郎が政界を去ることを祈るばかりです。

 奢りは怖い!!

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長岡宮内裏脇殿に甲!!の条

2010-02-20 09:44:42 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
長岡宮後期内裏(東宮)南東脇殿跡から甲の小礼発見!!



 長岡宮内裏脇殿から大量の小礼が発見されたことを伝える2010年2月19日朝日新聞朝刊の紙面

 2010年2月19日の関西地方の新聞各紙は、オリンピック中であるにもかかわらず、1面紙面中央にカラーで大々的に長岡宮内裏脇殿跡から確認された甲の部品の一つである小札を「天皇御物発見!」として伝えた。

 昨年年6~8月に内裏内郭南東部で実施された発掘調査ではそれまでの仮説を覆す東西棟の脇殿発見のニュースが伝えられ私も早速現地を確認に行ったことがある。今回はその遺跡の資料を整理中に錆びた鉄製品をX線にかけると小さな穴が空いており、小札であると判明したというのである。小札自体はさほど珍しいものではなく、それなりの古墳を調査すると出土することがある。ところが今回出た遺跡は長岡宮である。それも、内裏の中心施設紫宸殿の南東に置かれた脇殿(平安時代では春興殿)の建物を解体した跡の基壇整地の一つから出たと言うから驚きである。

 春興殿という施設に武具が納められていたことはこれまでにも研究があり、9世紀後半に二度ほどこの施設に甲のあることを示す史料があるのである。だから漠然と奈良時代の内裏にも同様の機能があったと考えられてきたが、実は確証はなかったのである。それが考古学の発掘調査という生の資料でもって確認出来たと言うから驚きなのである。それも史料を80年以上遡る長岡京期に既に収められていたことが実証できたのである。内裏に納められていた諸物資(図書や兵器などが納められていた)は基本的に天皇の御物である。そんなものが地下から出ることはほとんどない。そこで大騒ぎになったのである。私も担当者である財団法人向日市埋蔵文化財センターの梅本康広さんに誘われて事前に資料を拝見することができ、意見を交わしながらその意義を考えてみた。

1 平安時代の文献史料でしか判らなかった内裏の利用実態が初めて明らかになったこと。

 今回の資料は、昨年夏の調査で明らかになった内裏内郭南東部の脇殿、平安時代には春興殿と呼ばれた施設の廃都時の基壇化粧石抜き取り跡から発見されています。この施設は『日本三代実録』貞観13年〔871年〕や 元慶8年〔884年〕の記載により、桂甲を保管していたことが知られていましたが、それ以前については全く知られていませんでした。それが今回の小札の発見によって記録を80年以上遡る長岡京期に既にこの施設に甲が収められていたことが判ったわけです。資料に示された事項が考古学で実証されることはなかなかありません。それも史料に示された時期を80年以上遡ることができるのは長岡京や平城京などの都城遺跡ならではの醍醐味でしょう。先ずこれでもって「事実」が進展しました。

 日本古代の内裏内郭には延暦12(793)年段階に既に甲が納められていた!

という事実です。果たしてこれがいつまで遡るかについてはこれから慎重に検討していかなければなりません。

2 納められていた甲に用いられていた小札は8種類以上有り、最古の型式は6世紀末~7世紀中頃まで使用されたものであること。中には最高級品と地方生産品が含まれていること。

 古代武器を専門的に研究されている栃木県埋蔵文化財センターの津野仁さん達が実際にこれらの資料を分析されて、多種多様な桂甲があることを明らかにされました(間もなく出る調査報告書に御高論が掲載されるそうです。乞うご期待!!)。津野さん達の検討によれば、小札は8タイプあり、6世紀末以降8世紀後葉までの4時期のものが認められるというのです。東大寺須弥壇築造時に埋納されていたものと同型式のものから、一部綴じ付け組紐を残すもの、やや幅広の地方で生産された可能性が高い甲も含まれているといいます。これらをどう解釈するかが問われます。
 国家の最高位の甲である可能性が高い甲が内裏の脇殿に納められていたとしたら、それは天皇用の品であると考えるのが一般的です。もちろん内裏警護の兵士の使用した物である可能性も考えなければなりません。しかし、その多くが、200年近く経過した伝世品を含んでいるとなると、兵士にはとても役に立ちません。200年間の最高級の甲となると、7世紀以降の歴代の天皇(男帝だけだと、舒明、孝徳、天智、天武、文武、聖武、(淳仁)、光仁、女帝の場合はどうなんでしょうね。これも今後の検討課題です。)の物だとなります。こうした歴代天皇が、軍事権の象徴としての甲を所有し、それらが伝世されてきたとしても不思議ではないでしょう。

3 内裏内郭脇殿に兵器や図書を入れるようになったのがいつからなのかについてのヒントを得たこと。
 
 これまで平安時代の文献史料から漠然と内裏内郭脇殿には累代図書や兵器が入れられていたと勝手に考えていましたが、そう言いきれる資料がないことから、可能性の一つとして、桓武天皇が創出した新しい収納方法であったとすることも考えなければなりません。
 その理由の一つとして、平城宮の内裏脇殿や後期難波宮の脇殿の様子が必ずしも明確ではないことがあげられます。なぜ長岡宮内裏内郭脇殿の一つが東西棟であったのかをもう一度真剣に考えてみないといけないのです。長岡宮の内裏は西宮から東宮へ移されたことが知られています(この西宮を宮城の西端にそれまでの内裏とは全く異なる構造の遺構群に比定する暴論が一部でもてはやされているそうですが、とんでもない話しです。正都の変遷をきちんと理解すればあり得ない「お話し」です。)。その西宮から既に脇殿が東西棟だったとする向きもあるらしいのですが、難波宮から移築した前期長岡宮の宮城構造からはあり得ません。少なくとも今与えられている資料から確実に言えることは、後期内裏(東宮)の脇殿は、文献史料に伝えられる平安宮内裏と違って、東西棟であったということだけです。直前の西宮にも、それの原型となった後期難波宮にも脇殿は確認できない可能性が高いのですから、「東宮になって初めて東西棟の脇殿が成立し、そこに甲(兵器)が入れられていた」という事実から議論を始めないといけないのです。もちろん東宮は平城宮の内裏を移築した可能性が高いわけですから、桓武天皇が用いた平城宮の内裏の脇殿がどんな構造であったのか、その施設には甲が入っていたのかいなかったのかが問題になります。少なくとも後者の問題は既に発掘調査が終わっており兵器の有無は判らないとしか言いようがありません。前者の問題に付いては既に報告書があり、南北棟の脇殿とされていますから、この「事実」からすると、東宮は、平城宮の施設をそのままは移さなかったと言うことになります。つまり、長岡宮内裏の東西棟は東宮において初めて採用された構造であると言うことになります。
 初めての東西棟の脇殿に甲が納められていたことが知られ、いつ変わったのかは明かではありませんが(長岡宮東院の脇殿が南北棟なので、この時点で南北棟に変えることが決まっていたのかも知れないが)、平安時代に脇殿を南北棟とし、その一つに兵器を入れることは継承された。この事実から解釈を加えなければなりません。
 私は、脇殿に甲が納められるようになった契機と脇殿が東西棟になった(脇殿が新たな目的で成立した?)ことは連動していたと考えます。なぜ?

 今回の成果によって初めて歴代の天皇の甲が伝世されていた可能性が高まりました。なぜ歴代の天皇の甲を伝世しなければならなかったのでしょうか。軍事権の象徴としての歴代天皇の甲を伝世することによって、皇位継承の正当性を担保する、祭祀権の象徴が三種の神器であり、軍事権の象徴が甲であったとするならば、いずれも王権の継承を保証する物的証拠だと言うことになります。正当な皇位継承権を最も訴えたかったのは桓武天皇ではないでしょうか。彼が斎宮の壮麗化を果たし、内親王を次々と斎王に入れたのもその正当性を内外に示すためだったでしょう。曾祖父天智天皇を顕彰するのも、当時の感覚からする「卑母」という出自から来る問題を覆い隠すために他ありません。
 従来内兵庫に管理されていた歴代天皇の兵器を持ち出し、側に置くことによって、自らの天皇権の正当性を示そうとしたとは言えないでしょうか。
 出自に問題を抱え、あらゆる方法を使ってその正当性を主張してきた桓武にとって、軍事権の象徴とも言える甲を内裏に持ち出し、正月に公開することによって、臣下や人民に視覚的にそれを示そうとしたのではないかとも考えられます。

4 ではなぜ基壇石抜き取り跡から出土したのでしょうか。

 先ず甲(小札)の保存状態を分析してみる必要性があります。
 200年近く経過した鎧甲は当然厳重な管理下にあったとしても錆び、劣化します。特に小札と小札を綴じ合わせる紐(実戦用は革紐、威儀具の場合は絹の組紐)は劣化して切れていったと思われます。そうして本体から外れた小札が結構な数、殿内にはあったのではないでしょうか。そうした破損品を廃都時に脇殿の抜き取り穴に埋め、何らかの目的を達しようとしたと考えられないでしょうか(小札が廃棄されたのではなく、基壇の凝灰岩抜き取り坑に埋納されていたことは梅本さんの執念とも言える丁寧な調査によって明らかになりました。素晴らしい!!)。
 甲類は飛鳥寺塔心礎に入れられ、東大寺須弥壇の地鎮具としても納められていることが知られています。甲の持つ防御性に期待してのことでしょう。
 長岡京は後半期に入り、早良親王の怨霊や桂川の洪水、疫病の流行に悩まされます。現代では考えられない無駄ではありますが、こうした状況を打開するために遷都を決断した桓武にとって、長岡京の鎮めは大きな課題であったに違いありません。歴代天皇の用いた甲の一部を用いて長岡京の怨霊を鎮め、新都平安京の繁栄を願う。そんな意味を持ったのがこの小札類ではないでしょうか。もちろん、正当性を示す歴代の甲をそんなに粗末に扱ったのか?一部にしろ埋めてしまえばその効果がなくなるのではないか?等々まだまだ解決しなければならない課題は多くあります。

 200年余もの間伝世することによって破損を免れなかった甲の断片を寧ろ積極的に利用することによって、破損品をさらに効率よく利用することを目論んだのではないかと考えるのです。もちろんこの仮説には今のところ大きな根拠はありません。

5 内裏保存の問題

 そうした課題を解決できる唯一の方法が長岡宮内裏地区の全面的保存です。
 長岡宮内裏は随分以前から史跡指定の必要性が訴えられてきました。しかし、一部内郭築地回廊だけが指定され、肝心な紫宸殿やその附属施設は未指定のままです。残念ながら平安宮内裏は後世の破壊が激しく全体像を明らかにすることは不可能に近い状態です。しかし、これまで文献史料があるためにそれで初期の状態も十分に理解できると勘違いされてきました。しかし、今回の成果をみても判る通り、直前の長岡京では随分新しい設計(方針)が採用されています。時代のやや新しい文献史料を鵜呑みにはできないのです。しかし平安京の遺跡は残っていません。ならば何が必要か?

 明かです!!

 遺存状態の大変いい長岡京の諸施設を全面的に保存し、計画的に発掘調査する体制をとること!これこそが今求められていることではないでしょうか。今回の成果はそうした対策の緊急な必要性をさらに訴えるものだと言いきれます。本成果を踏まえて、内裏全体の保存と計画的な調査を実施することによって、上記の現段階での課題を解決することができるはずです。

 なお、今回発見された小札類は向日市文化資料館で早速公開展示されています(4月25日まで)。是非ご見学下さい。そして長岡宮内裏の全面的保存に大きな声を上げて下さい!!

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 長岡宮内裏全面を国史跡に!!

専門書の編集の条

2010-02-17 19:59:06 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 私はこれまでに専門的な書籍の編集を六度担当したことがある。
中でも著名な先生の古希や喜寿のお祝いの論文集は4冊刊行することができた。 
『中山修一先生古希記念論集 長岡京古文化論叢』(同朋舎出版 1986年)
『中山修一先生喜寿記念論集 長岡京古文化論叢Ⅱ』(三星出版 1992年)
『八賀晋先生古希記念論集 かにかくに』(三星出版 2004年)と、実質的に「朧谷壽先生古稀記念論集」であった『平安京とその時代』(思文閣出版 2009年)の4冊である。他の2冊は商業出版物や研究報告の編集である。

これらの中で編集作業で最も気を遣い、様々な意味で勉強になったのが『中山脩一先生古稀記念論集』であった。初めての編集作業を指揮して下さったのは故高橋美久二さんだった。高橋さんの陣頭指揮の下,私は若者達の原稿催促と書式の遵守などの事務係に徹した。
 
 しかし、高橋さんの「た」の字もこの論集には現れてこない。まさに高橋美久二という最高の編集者が黒衣に徹して編集したお蔭で、初めての長岡京に関する専門書が世に出たのである。

 樋口隆康先生の序文、岸俊男・上田正昭両先生を筆頭に、足利健亮先生、鬼頭清明さん、今泉隆雄さん、都出比呂志さん、金田章裕さん等々学会を挙げての蒼々たるメンバーの方が執筆下さった。長岡京をテーマにした大論集が仕上がった。
 『論集』の人選から執筆交渉,原稿の催促など諸先生方との交渉事はすべて高橋美久二さんがなさったのである。私の役割はそれ以外の行政担当者に原稿を催促すること、事務的校正をすること、事務的諸雑務をこなすことであった。何もかも初めての経験だったが、本の発行にはどれだけエネルギーが必要かを一から教えてもらうことができた。さらに、その当時同朋社の腕利きの編集者であった泉谷さんにお会い出来たのも有り難かった。プロの編集者の眼で、タイトルの位置取り、文字の大きさ、補註の置き方等々とても親切にお教えいただいた。そのご尽力のお蔭で立派な箱入りの分厚い本ができあがったのである。言うまでもなく、その時の感動は何とも言いがたいものがあった。
 今日では考えられない20,000円の論集は1000冊印刷され、見事に完売した。
私自身はその頃集めていた長岡京域の建物遺構を集成しただけのつまらない文章しか発表できなかったのだが、そんな文章を高橋さんは眼をつぶって出して下さった。しかしこのお蔭で、私はその後の長岡京のみならず平城京、平安京の京内の遺構について様々なアイデアを出すことが可能になったし、その後の様々な先生方の論集の編集に役立てることができたのである。言ってみればこれが今の私の基礎をなしてくれたのである。

 ところでこの編集という作業、楽なようで決して楽ではない。
何が楽ではないかというと、一番は執筆者の人選である。誰に何を書いてもらうのか。もちろん出版社がある場合には出版社の意向が先ず第一にある。ない場合でも、「○○先生△△論集」等のように人選が限定されている場合もある。先ず誰がどの内容を書いて頂くのに相応しいかが最初の難関である。たくさんの候補がいらっしゃる場合は楽なのだが、ほとんど限られている場合にはその方の最新の論文の内容と重ならないか、新たな研究成果をお出しいただくことが可能なのかが問題になる。こうして内部で決まった候補者に引き続き交渉をするのである。大体はご了解頂くのだが、稀に、「忙しいから」とか、「もう書いたから」「あの人の方が相応しいから」とか申されてお断りになることがある。
何とか候補が決まると後はしばらく暇になるようにみえる。というか何もすることがない。しかし、実はこの間にしなければならないことが大変重要な編集者の仕事になる。

 「催促」  「督促」  「確認」
である。これを怠ると折角の人選がフイになることがある。私は編集者の仕事で一番大事な仕事はこれだと考えている。

 今でも印象深いのが『中山修一先生喜寿記念論集 長岡京古文化論叢Ⅱ』の編集であった。この時には私が実質的な総編集責任者だったから何でも思い通りにできた。巻頭言は京大で中山先生とご学友と言うことで門脇禎二先生にお願いできた。執筆者は少し若返ったが、しかし、新たに井上秀雄・熱田公・佐藤宗諄先生等々の数え切れないくらいの大先生方にご執筆頂くことができた。

 こうして始まった編集作業であるが、最後の最後に難題が一つ。
 この論集には古稀記念にも書いて頂いていた故鎌田元一先生に執筆をお願いしていた。鎌田先生の原稿を載せるのは至難の業だと言うことを当時の私はよく知らなかったのである。なにせ前回は高橋さんが難しいところは調整下さっていたのでそのご苦労を余り感じていなかったのである。しかし、いざ、編集を始めてみると、なかなか原稿が来ない。当時はメールなどと言う便利なものはまだ一般化していなかったので、それとなくお便りをしたり、電話をかけたりするのだが、だからといってそんなに度々するわけにも行かない。このタイミングが実に微妙なのだ。下手をすると先生方は「迷惑をかけられないから!」と簡単に降りられてしまう。「論集」に出さなくともご自分の著書などで十分発表の機会をお持ちだからである。そんなことになろうものならせっかっくの論集の価値が激減してしまう。

 「いえいえ、まだ十分に時間はありますので、少し校正の回数は減らさせていただきますが・・・、是非お願いします!」と何となく督促するのである。

 そんな裏事情を知ってか知らずか、執筆者の中にはそれを見越してなかなか書かないのが出てくるのである。そこで、そういう人達にはいえ、もう「KM先生もお出しになりましたし・・・」等と大嘘を抜かすのである。

 「エッツ!?KMさんがもう出したのですか?」

こうしてじわじわと期間内に収まるよう頑張ってもらうわけだ。

 あるいは、嘘八百総動員してその気になっていただくこともある。しかし、年齢構成が私と同じのものであれば

「脅迫」

するのである。

 「○月○日までに書かないならもう落とすからな!」
「中山先生の喜寿がいつやと思うてんね、1992年7月19日や!この日には永井路子さんにも来て頂いて本を献呈するんや!そこまで決まっているというのにもし間に合わなかったらどうなるかわかってんにゃろな!!」

 ま、ほとんどヤクザのカツアゲである。(笑)

 ところが、鎌田先生にそう言う訳にはいかない。時間は刻々と迫ってくる。周りにはもう諦めたらと言う意見を言う奴もいる。
 「うるさい!!最後の最後まで待つんや!ぎりぎりまで最善を尽くしてそれで駄目やったら編集者の責任や。おれをなじってくれたらええわ。」

 こんな調子だから殺気立っていたに違いない。もちろん他に数人いらっしゃった先生方には、すべての原稿が揃ったかのように装って、「お願い」を繰り返していたのだ。

 もう駄目かと思った年度末に近いある日、ついに来た!!長岡京古文化論叢は何と鎌田元一先生の御高論を2編も載せることができた画期的な書籍になったのである。論文集の刊行で一番の想い出であった。

 ところで年始めに無事刊行できた『朧谷壽先生古稀記念論集 平安京とその時代』。実は私と朧谷先生の共同編集と言うことになっているが、実際は山田邦和さんと清水みきさんの3人の編集で、実務の大半は山田博士がご苦労なさったのである。
 「編集の名前に私を入れるのは困るので朧谷先生お一人の編集にして下さい!」と強くお願いしたのだが、なぜかかたくなに認めて下さらなかった。ならばせめて三人の編集にして下さい。そうも申しあげたのだがこれも却下。お二人には本当に申し訳ないことになってしまった。

 この間お世話になった方々に本論集を献本すると、中には「編集の苦労」を慰労して下さる方もいらっしゃる。私は名ばかりの編集者で,そう言われると、山田博士に本当に申し訳ない気がしてならないのだ。
 もうこれで○○先生□□論集の編集をすることはないと思うのだが、今回もまた別の意味で印象に残る『論集』ができた。


 とにかく、なかなか興味深い論文が載る論集なので、是非読んで頂きたい。

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心からご冥福をお祈りするの条

2010-02-14 11:00:44 | 久留倍遺跡を考える会
 昨日(2月13日(土))は第16回久留倍官衙遺跡を考える会主催の壬申の乱ウオークだった。

 前日までの暖かい雨天とは打って変わって、快晴だがとても寒い朝だった。
 にもかかわらず近鉄北勢線在良駅前には100人ものたくさんの市民の方がお集まりになった。今回のウオークは在良駅の直ぐ西北にある額田廃寺を「見学」することだった。

 とは言っても額田廃寺は今や跡形もなくなり、その伽藍のあったところさえどこなのか判らなくなっている。昭和38年の発掘というから今から47年も前のことである。まだまだ文化財保護行政が確立していなかった当時、三重県の指定になっていた遺跡であるにもかかわらず開発申請が出され、限られた予算で発掘調査を実施したものの、転売に転売を重ね、申請時の目的も変えられて住宅開発され、完全に遺跡が削平されるという悲しい運命をたどった遺跡である。

 それも研究が進めば進むほどこの遺跡の価値は計り知れず大きく、おそらく三重県最古の寺院跡と言っても過言ではないものだと言うことがわかってきたのである(古くは7世紀前半と言われていたが、流石にそこまでは古くはなさそうである)。特に注目されるのが飛鳥の川原寺と同笵(一部笵を改刻)の瓦が出土することである。山崎信二さんの研究によれば全国に多数存在する川原寺系といわれる瓦、しかし、あくまで「系」であって、川原寺の瓦ではない。その他○○系といわれる瓦も含めてその基となる寺院に用いられた笵で作られる瓦が用いられることはほとんどないというのである。もしその様なことがあればその寺院はよほどの意味を持った寺院だというのである。

 三重県桑名市に所在する額田廃寺はまさにその希有な例なのである。

 私は壬申の乱においてなぜ大海人皇子が桑名を拠点に選んだのか?その第一の背景がこのことにあると考えている。

 桑名郡というのは伊勢国最北端に所在する郡である。『倭名抄』によれば伊勢国の筆頭に記されている。さらにその郷構成を見てみると、野代、桑名、額田、尾津、熊口の5郷しかない下郡なのである。古代の行政では郡は所管する郷の数によって5等級にランク分けされていたが、桑名郡は下から2番目のとても小さな郡なのである。

 どうしてこのような小さな郡が重視されたのか?もちろん三川合流地帯の直ぐ南に位置し、伊勢湾北西部の沿岸部にも位置し、陸路では東海道の伊勢湾への到達点であり、揖斐川沿いに美濃国養老郡・不破郡へ至ることができる水陸海交通の結節点であるからである。そんな交通の要所であるから大和王権は早くから注目していたのではなかろうか。あるいは王権の直轄領があったのかも知れない。だから王権の手によって、或いはその影響を受けた豪族が額田廃寺を建立したのではなかろうか。

 そんな桑名の地を歩いたのだが、後半は桑名の「歴史の案内人」の方々に近世桑名の魅力をたっぷり語って頂いた。

 感謝!!


 ところで、このウオークを始める前に参加者の方から悲しい話を聞いた。

 第1回の時から毎回参加して頂いていた秋元アキラさんが亡くなったという報せだった。秋元さんとは名張の夏目廃寺などを歩いた時に親しくなって、お話しするようになった。特にお名前が「アキラ」なのでお互いにより親しみを感じていたのだ。詳しいお歳などは存じ上げないが70歳代の女性である。

 物静かだが、歴史にはとても詳しく、いろいろな質問をされて、こちらがたじたじすることもあった。そんなあるウオークでの別れ際に

 「私は癌になってしまってもう余り歩けなくなりました。これが最後だと思います。いろいろ有り難うございました。」と。

 何と申しあげていいのか判らなかったが、そこにはすがすがしい秋元さんのお顔があって、そんなお顔になるのに「ウオーク」が少しは役に立っていたのかな、と思いお別れした。ところがそれから半年後の昨年の第2回久留倍まつりでの講演会に和服姿でお出でになったのだ。私自身は会場準備などでバタバタしていたので知らなかったのだが、加藤謙吉さんの講演が終わり、片付けをしている時に突然和服姿の女性が現れ、「ご挨拶なさるのだ。私の知っている秋元さんはもちろん「歩く」時だけなのでその違いが一瞬理解できなかったのだ。

 鶯色の和服がとてもお似合いで、

 「もうこれへんかと思うてたんですが、今日これがあると知って参りました。どうも有り難うございました。」

 何とお答えすればいいのか、何とか「また来年もやりますから是非来て下さいね。」と申しあげるのが精一杯だった。きっと最後の気力を振り絞ってお出でになったに違いない。それから1ヶ月ほどしてお亡くなりになったという。

 いつまでもいつまでも心に残る方だった。

 心からご冥福をお祈りしたい。向こうで「ウオーク」しましょうね!!ありがとうございました。

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第14回東海例会と大学院入試の条

2010-02-08 02:15:36 | 三重大学考古学研究室情報
 2月6日は標記の行事が重なり大変な一日だった。

 そもそもが例年の大学院の試験はもう少し後に実施されており、開催日の決まっている東海例会とブッキングすることはなかったのだ。ところが、文科省の圧力らしいのだが、大学院定員を厳守しろ、と言うことで、今年から定員をオーバーして採れなくなったのだ。旧帝大などでは定員が充足せず困っていると聞くのに、そちらの未充足は棚に上げて、地方国立大学にのみ圧力をかけて学生の研究意欲を割こうという姑息なやり方には本当にむかつくのだが、国家権力の圧力にはとても弱い現在の大学当局は「ハイ、ハイ」と直ぐに従ってしまうのだ。そのせいで9月入試はなし!、2月入試が早まったというわけだ。

 しかし、例年なら我が研究室の学生は進学希望でも、大抵私の研究分野の者がいないので、よその大学院(京大、名古屋大、奈良女、南山)に放り出すのだが、今年は珍しく4人も古代をテーマに卒論を書き、内二人の卒論がなかなかよく頑張ったので、折角だからもう少し勉強してみないか?と提案すると、進学したい!というのだ。当初はこれで久しぶりに指導できる学生ができて喜んでいたのだが、上記のような事態がその後判明し、困り切っていたのだ。たった4人の定員に同じ専攻の者が二人はいるには相当の成績をあげてもらわなければならない。卒論が終わってホッとする間もなく、直ぐに大学院入試の勉強に取り掛からせた。しかしこの二人はなかなか根性がある。

 「若い女の子が三日もお風呂に入らないのはどうかと思う。」などと言いながら泊まり込んで勉強を続けたのだ。でも流石に最終日には感極まったのか、なみだをながしながらやるもんだから、はやいめにかえったら?と慰める始末。それでも試験当日の朝まで頑張って、流石に風呂に入り身支度をして出てきた。

 その成果が出るか否か、審判結果は10日でないと出ない。後は祈るばかりである。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!アーメン!!」

 さてこのためにとばっちりを食らったのが考古学研究会東海例会。特に病み上がりの三重県埋蔵文化財センターの竹内英昭さんだった。急遽司会を替わってもらう羽目になってしまった。なかなかまとめにくい4人お方方の発表をとてもうまくまとめて頂いた。感謝、感謝!!である。

 それにしても大雪で事前にお出でになると予約なさっていた方も来られなかったというのに、50人もの参加者で一杯だった。討論に参加いただくことはできなかったが、皆さんとても熱心に聞いていただいた。これも感謝である。東海例会が着実に根付いてきた証拠であろうか。

 その後6時から懇親会。いつものパセオの心のこもったとても美味しい料理を頂き、二時間、ばっちり大いに飲んだくれた。さらに、当日泊まられる方がいらっしゃったので、お誘いして、超グルメで有名な三重県のHHさん行きつけの大門の「くじらせんもんのお店」に繰り出し、日本酒をしこたま飲んだ。

 どうもその辺りから記憶が定かでないのである。お店を出て、皆さんと別れて歩いて帰る途中でローソンに寄り、ビールとおつまみを買い、帰って直ぐにお風呂に入ったはずなのだ。お風呂上がりにビールを1本空け、2本目を開けたところまでは覚えているのだが、どうもそのまま炬燵の中で寝入ってしまったらしいのだ。朝方付けっぱなしのテレビの音で眼を覚ますのだが、頭が痛く、また寝てしまい、ようやく10時に目覚めて急いで近鉄を予約し京都に帰ってきた。寝不足のせいか今日は一日中ボーッツとしていた。

 さて次回第15回の東海例会は8月1日(日)に静岡大学で開催することになった。

 テーマは、

「東海地方における古墳出現期の諸相-辻畑古墳出現の背景を考える-」

の予定です。この日の日程を空けておいて下さいね。

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明日!2月6日は考古学研究会東海例会の日の条

2010-02-05 10:00:51 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
考古学研究会東海例会<第14回例会>

テーマ「東海における古墳時代祭祀・信仰の諸問題」

1.趣旨
 物質資料を扱う考古学からカミや祭祀、信仰といった人間の心に内在する問題にアプローチすることは難しく、「祭祀」をめぐる考古学的事象の解釈は研究者間でも意見が分かれることが多い。しかし、研究をより有意にするには、様々な機会を捉えて議論しあい、個々の解釈に至った過程を検証しあって、問題点をより明確化していく手続きが求められる。
 さて、東海には、文献からその成立にヤマト王権との関係が説かれる伊勢や熱田などの古社や、特徴ある祭祀遺跡が存在する。今回の例会では、古墳時代における信仰や祭祀の問題を考えるために、東海の代表的な古墳時代祭祀遺跡や古社、古墳などを手掛りに、「カミ」の性格や祭祀と葬送の関係性、あるいは古社の成立背景など祭祀を取り巻く様々な問題を顕在化させて、今後の祭祀研究に寄与するための方法論を吟味していきたい。

2.期日 
  2010年2月6日(土)12時45分~17時30分

3.場所
  三重大学 共通教育 1号館 4階 419号教室 

4.報告内容

 12:45~13:00   開会と趣旨説明 山中 章(三重大学)
 13:00~13:40  「東海東部における古墳時代祭祀の諸様相」
田村隆太郎(静岡県教育委員会)  
 13:40~14:20  「伊勢をめぐるふたつの信仰~アザカとイセ~」
穂積裕昌(三重県教育委員会)
 14:20~14:30  休憩
 14:30~15:10  「「古墳」と石製祭器からみた儀礼行為」
中井正幸(大垣市教育委員会)
 15:10~15:50  「住まう神と古代地域プロジェクト-愛知・新風土記の再構築をめざして覚書2010-」
赤塚次郎(愛知県埋蔵文化財センター)
 15:50~16:00   会場設営・休憩
16:00~17:30   座談会(各発表者と竹内英昭・三重県埋蔵文化財センター)    
 17:30~17:45   次回案内と閉会
 18:00~      懇親会 生協翠陵会館二階 パセオ

問い合わせ先
   〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 
      Tel/Fax 059-231-9148
           三重大学人文学部 考古学研究室
            E-mail:yaa@human.mie-u.ac.jp

 熱心な議論を展開したく思っています。期待して下さい。

案内地図 
共通教育1号館の4階です。地図の共通教育棟④の数字のある左の建物が1号館です。正面玄関を入って右手にエレベーターがありますのでこれで4階まで上がって下さい。



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三重大学への交通案内

1 近鉄またはJRで津駅下車→津駅前からバスで
●津駅前バスのりば「4番」から三交バスで、「白塚駅前」(06系統)、「太陽の街」(40系統)、「三重病院」(51系統)、「椋本(むくもと)」(52系統)、「豊里ネオポリス」(52系統)、「三行(みゆき)」(53系統)行きで、「大学前」下車。
(同乗り場にて「大学病院前」行きも乗車可能。)

2 近鉄またはJRで津駅下車→津駅からタクシーで「三重大学正門」と指示 約10分

3 近鉄で江戸橋下車(急行停車駅)
● 近鉄江戸橋駅(三重大学前)から徒歩で約15分

4 飛行機で中部国際空港から
● 中部国際空港(セントレア)から津エアポートラインで津なぎさまちへ40分
 (1) 「津なぎさまち」から三交バスで「津駅前」まで約15分
 (2) 「津なぎさまち」からタクシーで津駅まで約10分

5 所在地・連絡先
  〒514-8507 三重県津市栗真町屋町1577
  TEL 059-232-1211(代表)

心のこもった結婚祝いの条

2010-02-02 23:06:22 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 先の結婚式では同級生の学生達四人が揃ってお祝いにに駆けつけた。
 卒業以来のTS君も来てくれたのはいいが、運悪く私の横に席を置かれたために終始「意地悪」く詰問される羽目に!?可哀相なくらいだった(お前がやったんだろうが・・ゴメン)

 その彼ら他考古学研究室のみんなが贈ったレターカードをとっても素敵に編集してアルバムにし、お嫁さんとなったOYさんにわたした。

 余りによかったので1頁ずつ写真に撮った。もう本物は彼女の手に渡ったので誰も見ることができない。そこで写真で紹介しようと思う。

 1 表紙



 2 中扉



 3 昨年夏に結婚したYM君の二次会に集まった研究室の女性達



 4 私=一昨年の還暦集会にて



 上から写すな!と言ったのに・・・。やはり隠せないな!

 5 先を越されてしまった先輩方・・・・・?






















 6 同級生そして後輩から













 7 おわり



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菰野町の講演会を大急ぎで終えて名古屋で結婚式の条

2010-02-01 21:30:17 | 三重大学考古学研究室情報

 主役!!余りに可愛すぎるので横からぼかした写真しかお見せできません!悪しからず。

 味噌の国のガバリ族酋長結婚おめでとう!!

 実は2人の出会いと私と少し関係があるのです。
 三重大学では中国の江蘇大学と学術交流をしています。2人が3年生と院生の時、大学で現地での環境をテーマにした研究発表の募集があったのです。私は彼女にいい機会だから卒論でやる予定の「日本の古代トイレと都の環境」について応募しろ!と申したのです。直ぐに応募したのですが、担当の方で英語能力についてイチャモンがついたのです。
曰く

「大学院相当の英語能力がなければ連れて行かない!」

と。そこで私は怒りに震えて文句を言いに行ったのです。
「それなら大学院生しか募集しなければいいではないか。そんなことどこに書いてあるんだ!環境」がテーマであるといういことしか書いていないではないか。内の学生だけがはねられる理由が不透明だ!本当に英語能力に問題があるというなら、全員集めて模擬発表させればいいではないか!!」
こんな調子だった。どうも何か事前にあったようなのだ。内の学生が予想外に応募していったので予算にでも問題があったのかも知れない。英語でもちらつかせれば引き下がるとでも思われたのだろう。事実彼女は「もう辞めます!」と弱気になっていたのだ。

 そんなこんなで交渉に行くと拍子抜けに、「判りました」という。それ以上ことを荒げても仕方ないので、結果よければ全てよし!と言うことで無事彼女は中国へ一週間ほど旅することができたのだ。

 ナナナント、その時に一緒に行っていた工学部の院生が結婚相手だというのである。人生判らんものである。

だから私が!キューピットなのである!!! 大笑い!!



 彼女の同級生達が全員集まったので記念撮影。



 ところで結婚式に駆けつけるまでが実に大変だったのである。

 1月30日はとても忙しい土曜日だった。
 ほぼ徹夜状態で海外調査の準備と講演会のレジュメの印刷をし、お昼に久留倍遺跡を考える会の方々と今後の活動についての打ち合わせのためにパルミタ美術館へ出かけ、午後二時からは菰野町よもやま歴史教室で講演会、そして少し早く出させてもらって17時からの卒業生の結婚式のために名古屋へ、湯の山線菰野駅発16時の電車に飛び乗った。結婚式はとてもとても華やかで、予想通りとても美しい花嫁さんでうっとり。その余韻を楽しむように参加した同級生達との二次会を名古屋の繁華街で22:30まで一緒して、ギリギリ最終の新幹線にこれまた飛び乗って、京都へ。二次会でも話題になった乗り越ししそうなくらい爆睡していたが何とか京都の手前で目が覚めて、無事帰京。帰って久しぶりのお風呂(エエッツ何日ぶり??内緒!!)にゆっくり入っていたもので、途中で眠たくって水没しそうだった(笑)。

 そんなこんなで昨日の日曜日は昼まで爆睡。その後は例によって、息子の息子に捕まって、いろいろな冒険物語を創作?させられた。もう一日居てもよかったのだが、海外調査の準備がとても複雑怪奇で眼が回りそうなので一日早く津へ戻った。

 さて講演会だが、

「聖武天皇と鈴鹿山脈~大仏建立を支えた鈴鹿の資源~」と題してこんな話しをした。
「天平15(743)年10月15日、聖武天皇は紫香楽宮での大仏造立の詔を発す。翌年11月には紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の「骨柱」を立て準備に取り掛かる。しかしなぜか紫香楽での造立を断念し、天平17年8月、今の東大寺の地で造立を再開する。天平19年には鋳造が開始されるが、仕上げが未完成のまま天平勝宝4(752)年4月9日、大仏開眼供養会が盛大に開催される。聖武太上天皇の病気により早められたという。大仏鍍金に用いられたのが陸奥国の金と伊勢国の水銀であった。銅と錫の合金である大仏は、金と水銀を混ぜ合わせアマルガム状にして表面に塗り、その後熱で水銀を蒸発させて鍍金したという。古代伊勢国の重金属資源の役割について考えたい。」

 もちろん言うまでもなく盧舎那仏鋳造には長門国長登の銅が不可欠であり、それまで全く産出することがなかった金(gold)がなければならなかった。百済王氏敬福によって陸奥国小田郡から金の産出が報告された時には朝廷をあげての大喜びであった。しかし得られた金も水銀がなければ仏像を光らすことができない。そこで手配されたのが縄文人ですら知っていた伊勢の水銀であった。さらに建立にはもう1人伊勢(伊賀?)に立役者がいた。大仏殿を建立した大工・猪名部百世である。彼の手によって、当時全国二位の高さだった大仏殿の建物の建立が可能になったのであった(ちなみに一位は出雲大社の本殿)。脇役ではあるが伊勢の力なくして大仏様は完成しなかったのである。

 これだけならばある程度の聴衆はご存知である可能性がある(事実講演後の質問コーナーでは「先生はいわなかったが、伊勢の水銀は中央構造線の地層から出るものである!」との指摘を受けた。もちろん知ってはいたが敢えて難しい言葉は出さなかっただけなのだが・・・)。そこで少し知られていない地元の情報を!

 それは二年前の学生が卒論で調べる中で知ることとなった治田銅山についてである(2007年4月5日記事参照)。菰野町の直ぐ近く、かつての北勢町にあったのが江戸初期に開発された治田銀山であった。この銀山についてはいなべ市の分布調査で歩くことができ現地に赴いたことがあるが、その折りに気付いたことが「水銀」なのである。
ちょっと歩くと地表面に水銀を含んだ鉱石を拾うことができるのである。
「これだ!!」と手を打った。
以前から勢和村の水銀についてはもちろん知っているのだが、はたしてこの地だけの水銀で、あの膨大な(660貫、約2.5トンとも言われる)もの大仏の水銀がまかなえたのだろうかという疑問である。
 私は鈴鹿山脈の裾沿いに点々と残る「丹」地名は見逃すべきではないと考えているからだ。
 身近なところでは、三重大学の所在する地がかつては「鬼が塩屋」と呼ばれていたのである。「鬼」は間違いなく「小丹」である。なぜか?実はかつて大学の直ぐ南東部の志登茂川の左岸には「小丹神社」が所在していたことが知られているのだ。今は2キロほど西の丘の上にあるのだが、元々は志登茂川の河口部にあったのだ。もちろん神社の位置ほど当てにならないものはないので、「間違いない!」というのは言い過ぎなのだが、
・・・。
 ではなぜ「小丹」と水銀が関係あるのか?
 今でも丹塗りの箸という言葉があるが、「小丹=おに」とはまさにこの丹を指すと考えるのである。ではなぜ志登茂川の河口部に丹と関係する神社が?
 私は、志登茂川の上流部(おそらく鈴鹿山脈の裾野)にかって丹を生産する場があったと推定するのである。この丹が川船で港まで運んでこられ、積み替えられて他国に運ばれた。そんな場=港に水銀の無事を祈って立てられたのが小丹神社ではないかと考えたのである。

 小丹神社をさらに北に進むと猪名部川の支流に「丹生川上」という地名が残り、その地こそ新町と呼ばれた江戸時代に治田鉱山の銀や銅を仕分けし管理した地でもあった。そして「丹生川上」の地を縦断して流れるのが治田鉱山から流れてくる「青川」である。

 「青川」の青は治田鉱山の銅に由来するものと私は思うが、まさに私が水銀を含む鉱石を見たのはこの青川の上流、治田鉱山(後の銅山)から流れ下ってくる川の直ぐ近くだったのである。

 日本の鉱物資源は中央構造線沿いに多く分布するのだが、中央構造線から北に延びる鈴鹿山脈の北端からこうした鉱物資源が大量に出るというのは刮目すべきであろう。ちなみに治田銀山の銀は江戸時代初期の開発当初、徳川家康の孫娘、豊臣秀頼に嫁いだ後、大阪夏の陣で坂崎出羽守に助け出されたと言う逸話もある千姫に化粧料として与えられていたものである。その後銀が生産されなくなると銅に変わり、江戸前半期には大量の生産量を誇っており、幕末まで細々と生産が続けられた。

 千姫に与えられた頃には石見銀山に匹敵する程の生産量を誇った大銀山であるのが治田銀山である。その採掘鉱床はとても長い間歩からなっていることが知られる。
 12世紀の説話集『今昔物語』によれば、伊勢の水銀を採掘するために飯高郡の郡司に徴発された男が仲間と採掘のために10丈余もの坑道に入ったところで落盤にあって閉じ込められたが日頃信心していた地蔵によって助け出される話しがあるが、当時の水銀採掘が水銀床に沿って横へ横へと掘り進むものであったことが判る。治田銅山の銅生産と酷似し、その山に水銀鉱石が分布しているのである。

 大仏の水銀は鈴鹿山脈全体から生産された!
これが私の仮説=妄想なのである。何とか証明するために発掘してみたいのだが・・・。

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