yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

The Antonine Wall報告-2 ヴェトナム・イギリス帰国報告の条

2008-03-31 04:02:49 | 歴史・考古情報《西欧》-1 英国 
大英帝国、とっくに落ち目なんだがなーと思ったらよろしくお願いします。


(bearsdenの風呂)


 1ヶ月半に及ぶヴェトナムタンロン遺跡での発掘調査及び出土文字資料の調査・研究とヴァーチャルリアリテイー構築のための基礎研究、そして、イギリスでのThe Antonine Wallを探索を終えて、先ほど日本に帰って参りました。

 やはり、異国での1ヶ月半というのは肉体的にも精神的にも結構厳しいものがあります。特に間に予想外の不幸が重なり、後半はブログも書けなくなりました。申し訳ありません。


(Hillfortの城壁基礎村の墓地の中に残されていた)
 まずは、皆様方から頂いた母への厚いお言葉、本来ならコメントのお一人お一人にお返ししなければならないところなのですが、なかなか手が動きませんでした。お許し下さい。


(barhillのfort都城壁)
 3月9日、母のお骨を拾って、そっと最後の旅をさせてやりました。彼女の愛したアジアと行ったことのなかったヨーロッパです。これで西方へ旅立つことができるでしょう。

 一体どこから総括すればいいのか、書かなければならないことが余りに多すぎて、困ってしまいます。


(小雨に煙るfort)
 まずは、最後の最後に起こったトラブルからお話ししましょう。

 イギリスヒースロー空港に新しく第5ターもなるビルが完成し、ブリテイッシュエアウエーズの専用ターミナルとなったこと、そしてそのターミナルが運用開始の3月27日から大トラブルに見舞われたことはあるいは日本でもニュースになったらしくご存じの方もいらっしゃるかも知れません。
 実はこのトラブルの主要因はバッグの配送システムが故障しているためのものでした。飛行機に乗られたことのある方ならどなたでも経験されている、手荷物以外の荷物に付けるあの鉢巻きのようなタグがあります。これを読み取る装置が不具合を起こしているようなのです。開始から3日も経っているのですからとっくに直っているかと思いきや、悪い予感が当たりました。日本到着直前になって、機長から変なメッセージが流れ出したのです。


(barhillの城壁跡)


(道なき道を分け入って、ドロドロになりながらとてもよく残っている城壁を調べました。)

 「・・・・baggages・・・」を繰り返すのです。同行のWさんが聞き取ってくれて、ナナナント、この飛行機(ジャンボ)の荷物の大半が搭載できていないというのです。乗せたのはたったの11個!!
 「エエッツ!」機内は騒然!
 ほぼ満席の乗客の荷物ですから、恐らく500余りがイギリスに残っているというのです。余りにお粗末なBAの対応に、乗客も開いた口が塞がらない!


(とてもよく残っており、かつ整備の行き届いたroughfort)


(右がThe Antonine Wallつまり内側、人の立っているところが侵入を防ぐために掘られた堀。つまり左側が外になる。)


(有名な落とし穴)
 「帰って来れただけでもいいか!」という日本人らしい諦めの声も聞かれる始末。

 そんなこんなで、お土産はお預け。久しぶりに学生達にお土産を買った(イギリスの物価は超高いので大した物は変えなかったが・・・)のに、それらも全部バッグの中!(但し奇跡的に?息子の息子に買った土産の一部はリュックの中に入っていて無事到着!! ところがその息子の息子はお嫁さんの実家へ遊びに行っていて不渡り (笑)

 いかにもイギリスらしいエピソード??に巻き込まれてなんとか帰ってきました。

 さらに帰宅後メールを見てびっくり!

 鈴鹿関の発掘調査を担って下っていた亀山市教育委員会のMさんが小学校へ異動になったと。

 「エエッツ!!」

 ただ絶句するのみでした。ショックです。


(callenderhouseでは結婚式が行われていた。)
 そのショックを和らげるために、とにかくすごかったThe Antonine Wallを紹介します。
 The Antonine Wallはとてもよく残っていました!!ほとんど残っていないなんて大嘘!!詳しくは後日ごアップするとして、取り急ぎ今夜はその残り具合のいいところの証拠写真をざっと紹介しておきます。ご堪能下さい。


(callenderhouseの前に広がる公園内にはThe Antonine Wallがとてもよく残されている。)
The Antonine Wall行ってみたくなったでしょう!!誰かツアーを組みません! 


The Antonine Wall報告-1  ただ今イングランド時間3月28日21:35の条

2008-03-29 06:42:44 | 歴史・考古情報《西欧》-1 英国 
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The Antonine Wallの探索を終えてただ今エジンバラからキングスクロスへ向けての列車の中です。間もなくキングスクロス駅です。

とても充実した5日間でした。

帰国してから詳しい報告をしますが、とてもとても素晴らしい遺跡を東西60kmにわたって見学することが出来ました。

感動しました!

とにかく想像以上によく残っていることがわかりました。

その写真は帰国後に掲載します。ご期待下さい。

イギリスに滞在中にとてもくだらない電話が入りそのために私の精神はいらつきましたが、それ以上素晴らしい遺跡を見ることができてとても嬉しく思いました。

こんな遺跡に連れて行ってもらった山口大学のH 先生、W先生に感謝です。

これからホテルに入ります。また後で。

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タンロン通信-17 帰国-講演-アントニヌスウオールの条

2008-03-24 07:04:03 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
よく頑張ったねと思ったらよろしく

321早朝ハノイから無事帰国しました。一ヶ月はとても長く、一次隊の学生は様々な問題から疲労困憊、限界に達していました。とてもよく頑張ってくれました。その総括はいずれするとして、22日には津へ、約束のM市のWさんと会い、その後大急ぎでレジュメ造り、23日は午前I市のMさんと分布調査について協議、午後鈴鹿市で講演「鈴鹿関と伊勢国府」、夜卒業生たちとお別れの宴。いつもなら我が家に集まってやるのだが、24日早朝にロンドンに向かうので津駅前で宴。
嬉しかったのは講演会が一杯だったこと、卒業生が聞きに来てくれたことだった。
終わるまで気付かなかったのだが、その人離反こう講演でも話した中国の東龍山漢墓の調査メンバー。今はそれが縁でマスターした中国語を活かした仕事をしている。駅まで送ってくれた。
そんなわけでこれからスコットランドのアントニヌスウオールへ行ってきます。イギリスはホテルの環境がよくないのでまた暫く書き込めないかも…
また帰国後にレポートします。お楽しみに!
行ってきまーす。只今モノレールの中。

アントニヌスウオールも楽しみ!と思ったらよろしく

タンロン通信-16  関口報告「Heritage Historical Reality」の条

2008-03-17 01:24:03 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
「Virtual Heritage Historical Reality」成功するといいねと思ったらよろしくお願いします。  


(一昨日の調査で取り上げた板材。二箇所から釘が見付かった)
第2次調査隊のメンバーとして参加いただいている岐阜県立情報科学芸術大学院大学の関口先生による「Virtual Heritage Historical Reality」に関する報告がタンロン王城遺跡ホアンジウ18番通りの事務所で行われた。

現場責任者のブイミンチーさんを始め、タンロンで働く若い研究者の卵達15人余りが集まり、熱心に先生の昼飯大塚古墳での実例や千葉県での町並み復原、そして今回の現場であるD3区での写真による3D復原の一端が丁寧に判りやすく説明された。

出席者の中にはヴェトナム側で実際にコンピューターを専門的に扱っている若き調査員や写真を担当する技師なども出席し熱心な討論が行われた。
特にヴェトナム社会主義共和国側からは若き調査員の日本への研修のための派遣が求められ、協力が要請された。

今回のGISを用いた東アジア都市・王城遺跡形成史の比較研究の3本柱の一つが関口先生のプロジェクトであるので、先生の了解さえ得られれば実現できるのではないかとへ返事しておいた。

当方の目的としては関口先生の開発されたGPSとGISを用いたタンロン遺跡の埋め戻し後の遺跡内のウオークスルーを目指しているだけに、是非とも実現させたい人間交流である。但し、ヴェトナム側は本遺跡の現地保存を頑固に求めており、その一部でも埋め戻してこうしたプロジェクトの成果が活かせられればと思う次第である。

また報告終了後に、関口先生よりフォトショップを用いた写真の合成についてご教示を受けた。何故こんなことをもっと早く知っておかなかったのか、後悔しきりであった。早速D2区での写真合成のための撮影を行った。


(文字磚の整理方法)

なお、D3区の調査は様々な解釈の違いもあり、なかなか進まない。多くの課題が夏に持ちこされそうなのだが、果たして夏に誰が参加してくれるのだろうか。日本の今の大学生や院生の問題意識ではとてもついて行けそうにない「厳しい」現実がヴェトナムにはたくさん横たわっている。

明日からはいよいよ文字磚の分析を今回のメンバーのお二人の先生方にお願いしている。D2区の現場からは釈読できていない「尺□作」という陰刻の文字磚も見付かっており、その解読が待たれる。ヴェトナム側の御配慮に厚く感謝しつつ、せめて文字磚の研究面で、いい成果を出せればと思っている。
もちろん私も既に分析を開始している「江西軍」や「永寧場」などの大量にある文字磚以外についてもさらに研究を加え、①押印の背景・機能、②複数スタンプの意味、③押印の変遷などについて詳細に分析してみたい。

泣いても笑っても後4日、19日には現場の封鎖が行われる。果たして夏までどれだけ持つのか、極めて心配な状況であるが、仕方あるまい。それよりも何とかトータルステーションでのデーターをせめてD3区については終了させ、関口先生のプロジェクトのモデル構築に寄与して帰りたいと思っている。

文字磚の分析大いに期待したいですね


タンロン通信-15  風邪でダウンの条

2008-03-16 09:57:56 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
風邪ひきさんとは・・・/

日本から帰る間際に風邪を引いたらしく、ハノイに着いてから寒気がし、大急ぎで薬を大量に飲んだのだが、改善せず、13/14/15日は最悪だった。

ところが、13日の夜には日本から第2次調査隊が到着する。その受け入れの準備もしなければならない。第2次メンバーの滞在中の行動も相談しなければならない。

そんなこんなで、またまたバタバタのスケジュールの中、鼻をぐしゅんぐしゅんいわせながら、寒気でぞくぞくしながら調査と案内をこなしてきた。

今朝になってようやく身体の方は何とかなりそうなのだが、現場ではいろいろな混乱があって、これから収束に向かわなければならないのだが、難題ばかりが残ってきそうな雰囲気である。とにかくこれからまた現場に行くのだが、何とか生きていることだけをお知らせして、この間の詳しい情報は今夜アップすることにする。

後少し、頑張れよ!と思ったらよろしくね

タンロン通信-14  充実したリスタートの条

2008-03-12 22:13:00 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
無事再開できてよかったねと思ったらよろしくお願いします。


(もうこれで何度目のハノイドイモイ空港だろうか。いつも残念に思うのは夜中で、上空からハノイ市内を見られないことだ)

昨夜遅くにハノイに着いた。
いつもより30分も早い到着で、その上迎えのタクシーがこれまた速く、ホテルに着いたら23時だった。

そこで意外な事実が。コメントを頂いていたnoriさんとナナナントホテルで出会ったのだ。偶然学生達が数日前にお会いし、雑談をしたとかで、昨夜遅くに私が到着することは判っていたらしい。

急な帰国で、本当なら10日頃にお会いしたいと仰っていたのが、連絡が付かなくなり、諦めていたのだが、実にグッドタイミングでお会いすることができた。もう夜も更けていたが1時間余り歓談し、南寧からの友誼関越えのこと、鉄の伝播のこと等々様々なことを教えてもらった。今日ヴェトナム側と交渉してもらい、明日午後現場を見てもらうことができた。ご迷惑をお掛けすることがなくほっとした。


(Nさん達のお陰でとても丁寧に地層分類がなされていた。後はこれに添って上層を剥ぐだけである。)

5日ぶりの現場だったが随分地層の掌握がきめ細かくなされ、いよいよ埋没土層を掘るのを待つばかりとなっていた。南に隣接する国会議事堂建設予定地での緊急発掘調査の方もスタートしたとかで、調査の嘱託職員も半減しており、大事なこれからの調査に少々不安の残る現実も突きつけられた。


(新たに落ち込みも何カ所か確認できる。)
しかし、やる予定のことはやらなければならない。朝から早速西壁の地層分類に応じて昆虫化石採取のための土砂採取を行った。また、懸案だった文字磚の分析にもようやく取り掛かることができた。但し、膨大な資料なので、とても今日半日では済まなかった。明日は一日中調査し、明後日の第二次部隊が来るまでにある程度の見通しを付けておかなければならない。

とりあえず今日は「永寧場」とある15世紀前半の製作と考えられる薄型長方形磚の同一文字群におけるスタンプの違いや成形技法の違いについて一定程度の認識を整理することができた。特に興味深かったのはスタンプの枠の形である。およそ幅2cm、長さ5~6cmを呈しているのだが、上端は左右をカットした隅丸方形になっており、下端はそのままで、まるでくびれのない題箋状木簡のような形をしていて興味深かった。

スタンプの原版には、陰刻と陽刻があるが、原版陰刻が圧倒的に多く、数種類に分けることができそうである。しかし、アッと言う真に時間が過ぎ、結局「永寧場」の分類だけで半日が終わった。


(文字磚は限られているが、同じ文字でもスタンプの違いが随所に認められ、製作工程を考える上でとても興味深い資料群である。)

明日もこの続きをやることになる。さらにこれまでできなかったA・B区での昆虫探しについても明日早朝から手を付けることができることになった。楽しみである。

文字磚面白そうだねと思ったらよろしく




タンロン通信-13  これからハノイへ戻りますの条

2008-03-11 12:14:52 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
無事葬儀を済ませ、今後の予定も決めてこれからハノイへ戻ります。
今回の件ではあちこちにご迷惑をお掛けいたしました。
ハノイに残された学生諸君は悪戦苦闘しているようです。本当に申し訳ありませんでした。

また山田博士をはじめ心温まるお言葉、お参りを頂き厚く御礼申し上げます。

年老いた母の死ですから、もっと淡々と済ませれば良かったのだと思います。しかし、母には本当に苦労をかけましたので、つい涙が出てしまい、絶句してしまいました。お恥ずかしい限りです。

少し気が抜けてしまいましたが、もう一度気力を振り絞って、残されたタンロンの発掘調査に全身全霊を傾けたく思います。また明日からの通信をお楽しみ下さい。

重ねて御礼申し上げます。

後一踏ん張りと思ったら応援下さい。

母・山中夏美への追悼文

2008-03-09 10:58:35 | yaasan随想
 旧姓大橋夏美は1924年、完成間近の甲子園球場と同じ大正13年、甲子の年に広島県呉市に生まれました。父は小学校の校長先生でとても厳格で、厳しい人でした(私が小学校の頃勉強を見てもらっていたのですが、直ぐに怒鳴る怖い怖いおじいさんでした)。母もまた気丈で優しい人だと聞きますが、戦時中に満員列車から落ちたのが原因で、夏美が女学校の頃に亡くなったと聞きます。呉高等女学校の頃の写真が残っていますが、洋風の顔つきは、今風のとても綺麗な顔立ちをしています(残念ながら私にはそんないいところはどこも受け継がれませんでした)。高等女学校の頃は彼女の絶頂期だったのでしょう、その頃の友人とは亡くなる直前まであちこちへ旅に出かけていました。
 戦後、一家が京都に移住したことが彼女の運命を変えてしまいます。なれそめは知りませんが、恐らく誰かの紹介でお見合いでもしたのてしょう(父も父の姉もヒロシマとは縁が深かったのです)。傾き掛けた友禅屋の次男坊だった父・昌次郎と結婚します。1男2女をもうけて順風満帆だったはずの人生ですが、しばらくすると父のお人好し?がたたって共同事業などに失敗したことが原因で家計は傾き、それを支えるためでしょうか、丁度私が幼稚園に行く頃から資格を持っていた幼稚園の先生をするようになります。
 今も本籍としておいてある壬生高樋町の家から毎日、上の妹と手を繋ぎながら中新道を北上して神泉苑幼稚園に通ったことを鮮明に覚えています。幼稚園では西向日町にお住まいだった同僚の橋本先生に頼んで私に字を習わすなど、英才教育??に燃えていました(その甲斐なく私は凡人にしか育ちませんでした)。幼稚園では教員の立場を利用して?!私をいつも学芸会や音楽会の主役に抜擢し、とても得意げでした。職員旅行に長崎まで一緒に連れて行ってもらったこと、先生方と琵琶湖に泳ぎに行ったこと、幼稚園帰りに教え子の店を買い物して回りニコニコ堂?で蛸せんべいを買ってもらったことなど楽しい思い出がいっぱい詰まった幼稚園児代でした。母もはつらつとしていました。
 その後職を転々とする父の家計を補うため、いろいろな内職をするようになります。今でもよく判らないのが小さな自動車会社の店先で冷や素麺とかき氷の店をやっていたことです。山科に転居する頃には私も内職の手伝いをよくやらされました。その頃はやり出したブラザーの毛糸編み機でセーターなどを編むアルバイトが得意でした。家事の合間にやるもので、「あと4回往復しときなさい!」等とよくやらされました。任天堂の百人一首の裏紙貼りの内職は一箱(100枚)が確か1円だったと思います。ビーズ編みの袋作りも母の得意技で、これは結構分のいい内職だと言っていました。そんな母の支えで2浪もして大学に行ったのに「不良」だった私は学校も行かず「走り回って」いました。大学時代の友人は京都に憧れて度々私の家に泊まりに来ましたが、彼らの世話(と言っても大したことはしませんが)をするのも彼女の仕事でした。そんな母を襲った最大の苦難は父の死でした。まだ49歳。ようやく仕事も落ち着き、会社の要職にまでいた一家の大黒柱を失い、再び彼女が家計を支えなければならなくなりました。二人の大学生とまだ当時小学生だった下の妹二人の養育が彼女の大事な任務となりました。
 伯母の経営するお好み焼き屋さんでの深夜労働が主でしたが、ちょっとした体調不良を訴えたのが誤診され、必要もない手術をされて以後彼女を薬漬けにし、体調の維持を難しくします(恐らくそれが死因でしょう)。しかしそんなことはおくびにも出さず、平気な顔をして働き続けました。「不良」の私を無事卒業させ、二人の妹も学校を出させて就職させ、孫ができた60歳頃になるとようやく仕事から解放されました。 その頃からはまったのが中国旅行でした。年金をこつこつ貯めて、時には年に二三度、少なくとも毎年のようにあちこちに行っていました。
 敦厚も、龍門も、長安も、南京も、そしてカンボジアのアンコールワットも私より早く、いえ、私は敦厚もアンコールワットも行ったことがありません、彼女は訪れ、自慢げに写真を見せてくれました。ある時には一緒に行った若者と友達になり、帰国後も遊びに行ったり、電話があったり、私には受け継がれていない生来の明るさであちこちに友人の輪を作っていきました。そのうち引率、案内の先生とも「お友達」になり、私の「秘密」をべらべら話すようになり、帝塚山学院大学にいらっしゃったN先生などは、
「山中君な、お母さんから全部聞いたで!(笑)、・・・」
と脅される??(笑)羽目に。
 そんな彼女を再び襲ったのが上の妹(長女・菊子)の死でした。父と同じ49歳での死でした。30年勤めた幼稚園を退職し、これから夫婦で遊び回るんだ!と言っていた矢先、胃に癌が発見されたのが手遅れで、1年足らずの闘病でなくなったのです。最も頼りにしていた娘の死は彼女の希望をさらに小さくしたのでしょう。80歳が近づく頃になると外国へは出かけなくなり、「かんぽの宿」巡りが趣味?となりました。伯母や女学校の友人、元近所の友人などと度々彦根の簡保に行っていました。
「簡保で何してるんや」と聞いても、
「ウーン、別に・・・」
となにやら要領の得ない返事をするのみ、ただ泊まって食事をするだけのようですが、それが彼女の心の安らぎになったのでしょう。とにかくよく行っていました。
そんな彼女も、骨粗鬆症とかで、足腰が弱ってくるとさすがにその楽しみにも行けなくなり、特に昨年その有数の仲間だった伯母が亡くなると、病院がよいだけが「楽しみ」となりました。下血や吐血を繰り返していましたが、そのため食事が細くなり、結局これが体力の消耗を早めたのでしょう。昨年10月22日に吐血し、病院に入った頃は普通だったのですが、1週間後に発熱したのがきっかけで、病院のベッドで点滴付けになってしまい、話しかけても、夢でも見てたのか、
「アー、今な、阪急の階段を上がってきたんや・・・」などと
夢と現実が判らなくなってきていました。点滴だけでは体力が付かないということで今年に入り胃に穴を開けて食事らしいものをさせようとしたのですが、結局それも功を奏さなかったのでしょうね、わたしがヴェトナムに発ってしばらくした先週頃から急に発熱をし、血圧が下がり、余りよくないという連絡があり、いつ何時・・・、という覚悟はできていたのですが、3月6日、13:33息を引き取ったという電話が入ったのでした。83歳と7ヶ月、長いようですが、苦労の多かった分を差し引くと、楽しかった時間は限りなく短かったのではないかと思います。まさに私達のために捧げた人生でした。彼女なくして私の今はあり得ませんでした。並の言葉しか発せませんが、感謝!以外の何ものでもありません。信じてもいないあの世ですが、せめて彼女にだけはそれがあって、本当に極楽で楽しく過ごしてもらえればと思います。
 有り難う!お母さん。
 
母に感謝を込めて

タンロン通信-12  突然京都に帰ってきましたの条

2008-03-08 14:21:41 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
9~10世紀楽しみだねと思ったらよろしくお願いします。


(単に廃棄の状況で土器がこの位置にかたまっているだけだと思うのですが、いろいろ意見もありますので、念のため土器溜まりとして取り上げることにしました。)
 3月6日(第14日目)からは上層からの落ち込み遺物の除去という局面に入りました。
どこまで上層からの廃棄遺物が入っているのか、どこからが下層の遺物なのか、下層の遺物と上層の遺物との間にある層がどの時期に属するのか、層の色、質がよく似ている部分があるので、注意深く作業員に掘らせないといけない。


(こんな掘り込み跡も検出し始めました。まだ時期も機能も構造も判りませんが・・・・)
 日本の調査で、長く同じ作業員を使っていると作業員の個性が判っているので、作業に応じて配置を考えるのだが、初めてのヴェトナムではなかなかそうもいかない。今朝も早速ある上層からの遺物の堆積を掘らせていると少し目を離している隙に、印の範囲を勝手に穴のように掘ってしまわれてびっくりした。同じようなタイプは日本の作業員さんにもいるので、予想はしておかなければならなかったっことであるが、事態が起こってみて改めてそんなことを確認した次第である。

 また、作業員さんは「綺麗」に掘ろうとする傾向がある。ラインを引くと真っ直ぐ落とす人、斜めに揃える人、いろいろだが、とにかく綺麗にしたがる。日本語ならこの土だけ掘れとか言えるのだが、なかなか細かな指示ができないところ外国の調査の難しいところだ。
 そこで、昨日から方君に先生になってもらってヴェトナム語基本発掘用語を習っているのだが、この老化した頭ではなかなか直ぐには単語が思い出せない。それでも方君に教えてもらった基本単語は結構通じて、作業が次第にスムーズに進み出した。


(これも入っている遺物は最上部の埋め立て地のものと同じなのですが、一応変な格好をしていますので、実測もしておきました。)
基本的には東側に確認できる赤みがかった粘土質の土が「地山」と考えられ、これを切って西側から南東側にかけて池状の湿地帯が広がっているようだ。この池状の広がりに入っている遺物がいつの時代かが問題だが、若干人によって言うことが異なる。そもそも入っている遺物の大半が瓦であるから、これで微妙な時期の判断は日本でも難しい。9世紀だと安南都護府の時代だし、10世紀だとその廃止後、李朝が成立し、ハノイのこの地・タンロンに都を定める前の可能性が高い。

さらにこの黒い腐食物を大量に含んだ層の上に磚で造った溝があり、黒を切った直径1.5m近い掘削の跡も認められる。また、調査前から確認できる北側のD2区から伸びてきている礎石建物の基礎地業の痕跡が7基確認できている。これらと黒の地層の上面にある遺構群との関係もこれからの大いなる問題である。

検出状況の図面を取り、写真を撮り、いよいよ10世紀代の遺構を検出するための作業開始という時点になって、突然私の携帯が鳴った。

「(日本時間)13:33に息を引き取った」という。

 昨年の暮れに体調を崩し、入院していた母の様態が急変し、亡くなったのだ。出発前には以前より少しは力が出てきて、場合によったら家に連れ帰って、看護しようかと言っていただけに、驚いた。

 ひょっとしたらその可能性もあるかと思いながら、しかし、正式な文書を交わした調査を延期することもできず、2月22日から始めた今回の調査であるが、残念な結果になってしまった。急遽飛行機の手配をお願いし、深夜の飛行機が直ぐに取れたので、慌ただしく今後の調査の打ち合わせをし、この日の作業を片付け、学生達に今後の作業の段取りを指示し、再入国の11日までの段取りをNさんご夫妻にお願いして3月6日23:30分発3月7日5:30関空着の飛行機で日本に帰ってきた。ヴェトナム側からは直ぐにお二人の責任者チンさんとチーさんがお悔やみに訪れて下さり、こちらこそご迷惑をお掛けすることになり申し訳ないと深くお詫び申して帰国させていただくことにした。

 母は食べ物の関係でヨーロッパには行ったことがないが、東アジア、特に中国やカンボジアには度々出かけて、私の知らない世界も見聞きしてきた。私とは違う明るく図々しい性格?から直ぐに見知らぬ人と友人になり、特に若者とはとても親しく旅行したようだ。
 そんな母に、出発前にも聞いているのか聞いていないのか判らないのだが、「ヴェトナムに行ってくるからな」、と言ってきた。大好きなアジアに息子が行くのだから、死に目に会えなくても
「現場、が大事だから!頑張れ!」と言ってくれたとおもう。

 そんなわけで、9日に葬儀を済ませて、11日に帰るまでタンロン通信はしばらくお休みにさせていただきます。ごめんなさい。

 残った学生達がNさんの指示で作業はしており、その日誌を適宜

 http://eastasiagis.cocolog-nifty.com/

に載せてくれていますので、しばらくはそちらで様子を感じてください。
母のエネルギーをもらって、また元気にハノイに戻りますので、しばらくご容赦下さい。


(ホテルの花も新しいものに変わっていました。ヴェトナムの人々はとても花が好きで、あちこちでお花を売っていますし、いろんなところに花がいつも生けられています。)

タンロン通信-11  遺構掘削開始の条

2008-03-06 09:03:24 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
期待に胸が膨らみますね、と思ったらよろしくお願いします。


(いつもはこんな所で昼飯なんですよ)
博士のご帰国を合わせるかのように遺構の掘削が始まった。

とは言っても上からの埋没土砂の残存物の除去が主な作業だが、ようやく15~16世紀といわれる当該地域の破壊の跡を除くことができ、その下に残存している遺構や遺物を調べることが可能になってきたのである。

既に10世紀の遺構面が明確になりつつあり、この時期、つまり遷都以前のハノイ中心部の利用の実態が判るかも知れないという小さな期待がでてきたところである。

そんな中、通訳もしてくれているN氏ご夫妻が忙しく、一々簡単なことで手を煩わせることもできないので、嘱託職員に片言の英語で、ヴェトナム語での作業員への指示に関する言葉を習った。

「ここをほってください」
「ここは削ってください」
「つづけて」
「OK」
「だめ」


(私のヴェトナム語の先生方君)

ま、こんな程度ですが、少し通じると嬉しいもので、作業員のおばちゃん達とも仲良くなりつつあります。

学生達の図面作成も順調で、とても助かります。ヴェトナム側の嘱託職員も基本的にとても器用なので、図面の作成なども何の問題もなさそうです。後は時間とお金です!(笑)

さーこれを理解していただくのも結構大変なことなんですよね。

今回はできるところまでやれればそれでいいとは思っています。少し見通しも着いてきました。

(とても素敵なデナーでした!こんなサラダでまずは前菜!!フッフッフ)

そこで、山田博士が帰ったので、たまにはいい夕食もしようと、Nご夫妻に紹介していただいて、近くの西洋レストラン?ワインバー?洋風居酒屋??に行ってパスタを堪能しました。とても雰囲気のあるお店で、博士が見たら羨ましがる、怒るに違いない!とみんなで言いながらとても楽しく2時間の食事を楽しみました。


(山田博士の無事のご帰国を祝ってワインで乾杯!!)


たまにはレストランもいいよねと思ったらよろしくね


タンロン通信-10  危険な写真と敬天殿探訪の条

2008-03-05 08:19:08 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
ヤグラが欲しいねと思ったらよろしくお願いします。


(高さ2m、急ごしらえの脚立??にまたがって撮った全景写真。南からD3区全景。)


(北側の平面から撮ったD3区全景。)

ようやく現場のガリかけが終わり、平面写真が撮れる状態になった。夕方まで待つと全体に暗くなり過ぎるので、仕方なく南中時に写真を撮ることにした。

だがここで問題が!

写真撮影用の台がない!!

実は前回の調査前の写真も隣の敷地との塀に登って写したものだが、今回はもう少しアップの写真が欲しい。日本で言うところの[ヤグラ]がないのである。そこで、現場にあった梯子二つを組み合わせて逆「V」 字形に組み、頂点をロープで結んで脚立状にしてそこへ登れと言う。

だれが?

博士が!!

仕方なくそこへ登ってふらつく足で写真を撮ったのがこれ。


(益々よく判らなくなってきたこの遺構。皆さんは古いと言うんだけれどね・・・。)


(今回の研究で山田鉢と名付けられた?須恵質円筒形土器の廃棄状況(ちなみに博士の分類のⅢb式)。)


(現場にずっと前からある謎の木質群。)
何とか細部写真も撮って、終わったのが13時。最後の昼飯に出かける。いつもの大衆食堂。その後、念願の敬天殿に入り、一昨日見学した端門と合わせてようやくタンロン王城の中枢部を博士一行に見学いただくことができた。ところがこの建物の前にあるはずの測量用の原点がない?そこで大捜査網が敷かれたのだが、結局猫の子一匹でず。


(絨毯までめくって探したのだが・・・・)
最後の記念写真をホーチミン廟を背に撮影して山田博士の初めてのヴェトナム紀行が終わった。詳しくは博士のブログをお楽しみ下さい。ハノイはここのところとても暑く。初夏の陽気です。寒い日本へ帰って、風邪などお召しになりませんよう。ではまた夏に!!


(なぜか桃とコスモスが同時に咲く敬天殿でした)


(ホーチミン廟そのものへは誰も行ったことがない!この非国民目!)

敬天殿も整備できればいいのにねと思ったらよろしくね

タンロン通信-9  涙涙のお別れの条

2008-03-04 10:00:01 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
山田博士有り難うと思ったらよろしくお願いします。


(第1回研修会)
昨夜第11日目(3月3日)はお世話になった山田博士の送別会であった。

現場の若者達6人とブイミンチーさん、そして私達6人にNさん一家17人でサイゴンで大当たりし、ハノイでも大流行のヨーロッパ風のビヤホールに行った。

突然始まった宴は、若者の熱気とチーさんのながーい御高説、そして度重なる乾杯によって、延々11時半まで続いた。ヴェトナム側の私達に対する熱い思いを聞きながら身の引き締まる思いだった。

それにしても今日も、山田博士と現場で既検出の遺構群の年代の評価を巡っていろいろ議論をしながら思ったことだが、これだけの現場、どんな天才でも、とても一人の人間では分析しきれない!!ということだった。

どんどん資料を公開したくさんの研究者に資料を提供しいろいろな議論を巻き起こすことがいかに大切かを感じた。そうした意味では私達に現場を開放し発掘調査の機会を与えて下さったヴェトナム社会科学院には感謝の思いで一杯である。

その思いに答えるべく昨日は山田博士の研究成果を現場の嘱託職員の若者達に聞いてもらい質疑応答をした。とても熱心に聞いてもらい、鋭い質問も出るなど、第1回目としてはとてもいい結果を得ることができた。これも一重に短期間に須恵質円筒型土器の編年を組み立てた博士のお陰!何から何までお世話になりました。感謝!!多謝!

今日第12日目は現場の平面写真を撮って、1/100の図面作成が待っている。

昨夜は一体何杯ビールを飲んだのかよく覚えていない。帰って直ぐにパソコンを開いたところまでは覚えているのだが・・・。朝5時まで熟睡した。そんなボーッとした頭で出発だ!


(お疲れ様でした博士!)
学問はみんなでやるもんですよねと思ったらよろしくね

タンロン通信-8  pumpが来た!CoLoa城へ行った!の条

2008-03-03 08:46:55 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
CoLoa城すごいねと思ったらよろしくお願いします。


(こんな宮式のポンプに呆れかえっておられる山田博士)
調査地の現在の海抜はおよそ9m、黎朝期の大攪乱(池の設置?)によって発掘調査地の現在の遺構面が海抜6m前後である。だから、天候次第で現場の水位は直ぐに上下する。このために水中ポンプが欠かせないのである。調査区の北端には以前に開けられた巨大な水溜穴があり、そこには巨大なエンジン式の水中ポンプが備え付けてある。

ところがその位置が余り適切ではないので、調査地の南端の水がどうしてもはけないのである。そこでなけなしのお金をはたいて二万円(日本円)もする水中ポンプを買う羽目になった。これで益々皆さんの食事は粗食になるはずだ。ところがこの電動式の水中ポンプが旧式で、呼び水を入れてやらないと動かない!その呼び水を入れるポンプの位置が高いところにあるものだから一回一回呼び水が抜ける。そこで一々ホースの先をはずして呼び水を入れるのである。とても面倒な代物が来てしまった。


(CoLoa城に来たぞ!現地のお寺に設けられた説明板でヒエップさん達から説明を受ける。)
さて今日第10日目(3月2日)は待望のCoLoa城の見学であった。朝担当者の社会科学院のTrinh Hoang Hiepさんとイリノイ大学の調査研究者NamKimさんに迎えに来てもらって、現場に向かった。
私はこれで4度目なので、その後の進展を見ようと思ってやってきた。いつもの通り陳朝の建立になるという寺に入り、ここから見学をスタートさせる。つまりここが三重に囲われた城の一番内側の内城である。18世紀に造られたという城壁を利用したというロストル式の窯址や昨年の発掘調査によって、青銅製品の鋳造現場を見つけたという調査跡を見た後(隣では三日三晩飲み、踊り、歌い明かすという結婚式の音楽がにぎやかに流れていた)、お決まりの中城、外城と見て回っていよいよ発掘調査現場である。


(内城の城壁が見事に残る。これを利用してその後ロストル窯が造られたのである。)


(18世紀の瓦や磚を焼いたという窯址。今回が一番綺麗になっている。どうしてかと訝っていると大量の見学者が押し寄せた。そのうえ町の入口では門番がいてお金を取っている。つまり見学料を取る以上綺麗にしなければ、と掃除をしたみたいである。これで皆さんが喜んでくれるなら、遺跡の価値もあがるしいいことかな、と思う)


(結婚式のテント)

(外城の城壁)


(中城の城壁を断ち割って進むイリノイ大学の大規模な発掘調査。現場を主催するナムさんからはこれを現地保存し公開したいのだがどうだろうと聞かれ、「無理だ!日本でも失敗している!」と答えた。その代わり日本ではどこでもやっていることだが、剥ぎ取り転写をして博物館に展示すればいいのではないかと答えておいた)
現場では予めシートをめくってくれていた今回は両側の城壁を見ることができた。そこで新たに明確になったことは第2段階目の城壁築造工程で一度真っ白な粘土を貼り付けていることであった。これで高さ2m幅25mほどの城壁がまずできる。その後、余り細かくは土砂を入れず一気に盛り上げる作業が行われていた。かつて東龍山漢墓の墳丘築造工程でも見たようにこの城壁も築造のある段階で何か儀式でもやったのだろうかと思わせた。見学者一同その城壁の巨大さに圧倒されていた。当日のミーチングでは誰が何故この様な巨大な城壁を持つ城を紀元前2~3世紀に造ったのかが話題になったが、発掘調査が進まないとその疑問に答えは出ないだろう。


(いよいよ平面精査!)
CoLoa城を堪能し、近くのレストランで食事をして、現場に戻った。

午後からの現場は平面のガリかけである。ようやく現場作業がスムースに進み始めたと言うところであろうか。既に今日の作業によって、現場の破壊状況が克明に判るようになった。
特に李朝期の建物の基礎地形だと言われる遺構の破壊状況はその進行過程を克明に教えてくれる材料となりそうである。明日はこれらの写真を撮って、いよいよ15~16世紀の破壊面の掘削作業である。
また現場の嘱託職員の一部を使って東断面の実測作業も行った。彼らの技能に問題はないのであるが、何でもかんでも細かく取ろうとするところに現場の全体像を教えられていない問題がありそうである。
日本の学生部隊はいよいよトータルステーションで実測準備にかかるのだが、ここでもまたトラブルが!結局半日を費やしてようやくトラバースが組み終わり、夕刻になって基準点を移設することができた。

夜のミーチングでは、山田博士2週間の滞在成果をまとめたヴェトナムタンロン王城出土須恵質円筒形土器の最新の研究成果が発表され(博士のブログに詳細が掲載される)、学生達は最新の土器研究の成果を教えてもらう。それにしてもこんな成果をたった1週間でまとめるなんてさすがは山田博士!本当に今回第一次部隊に加わってもらってこれほど助かったことはない。


(嘱託職員の実測)
どこぞの先生は全てがご自分の研究成果だと言わんばかりであるが、私達はこうしてグループ(他に、昆虫研究、瓦研究、文字資料研究、3D復原研究など多彩なメンバーに加わってもらっている)で、いろいろな側面からタンロンだけではなくベトナム全体の考古学の研究にお役に立てればと思っている。早くも山田博士には博士の原点である須恵器研究の成果を活かした成果をまとめてもらえそうである。感謝!!

一人で研究はできませんものね!!資料は独占してはいけません!!どんどん公開しましょうね!!!

学問は公平に!資料はどんどん公開して、みんなで議論して進めるものだよね!と思ったらよろしく

タンロン通信-7 生中継の条

2008-03-01 15:40:24 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
便利だが怖い世界ですよねよろしくお願いします  。

ただ今日本とスカイプで繋がっています。
今報告しているのは中世史のK さんです。
僕がヴェトナムに行っている間にしか卒論発表会が開催できないことが判り、何とか卒論発表会に参加できない物かと知恵を絞って、スカイプを使うことになったからである。世の中とても便利になったものである。まさに世界中を結んだテレビ会議である。


(テレビ画面に映る日本卒論発表会。昨日予告したサプライズはこれでした。)
これが無料でできるのだから恐ろしい。

もっともそうだから四六時中仕事をさせられることになるのであるが・・・。

でもさっきは卒業生のSさんやKさん、Aさんが次々と画面に現れて挨拶をしてくれた。とても嬉しかった。ゴメンね皆さん!遠いところから来てくれたのに。私がいなくて。

でもSさんもかつては中国に3ヶ月いた部隊だし、今日も来ているY君も同じだ。みんなそれぞれ元気に仕事をしているのを聞くととても嬉しい。特に彼らの目標だった考古学や中国語を活かした仕事をしているのは素晴らしい!!

さてこれから考古学三番目のKさんの発表が始まる。古代出雲と大和王権の関係を青き遺跡の考察から迫ろうとするものだ。果たしてうまく発表できるかな??

そろそろお腹が空いてきた。お昼もなしで頑張っているこちらなのだ。向こうはもう昼が済んでいるが、こちらはまさに今が昼飯時間。早く届かないかなー

というわけで臨時ハノイー津テレビ卒論発表会の実況中継でした。

スカイプで卒論発表会とはすごいと思ったらよろしくね




タンロン通信-6 全員集合の条

2008-03-01 08:51:56 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
全員集合できて良かったねと思ったらよろしくお願いします。


(ここのところの世界中の温暖化現象はもちろんベトナムにも押し寄せているらしく、今頃の時期は乾期で、この様な雨期のような雨の降り方はしないというのです。とにかく寒いのやら暖かいのやらよく判らない今日この頃です。)
 昨夜来の豪雨が午前中残り、現場は水浸し!でもその中を作業員の方も嘱託職員の方も黙々と作業を進めてくれます。

 今日第8日目(2月29日!そうだ、今年は閏年なのだ)。朝、全員の元気な姿を確認することができてホッとしました。

 早速学生達には現場の現状図面として1/100平面図を取ってもらいました。途中、初めての学生もいるので余りに要領が悪いので、山田博士から厳しい指導が入りました。

 東壁の精査が終わったのが14時過ぎ、直ぐに写真を撮りたかったのですが、ナナナント、午後から急に晴れだしたのです。それも急に陽が差してきて壁には樹木の影がまだらにできてしまい、結局のところ写真は終了間際の17時頃になってしまいました。


(もしこの層が全域に広がっているのだとするとこれまで古いと言ってきた遺構全てが新しくなる危険性もあり、調査計画自体の変更も余儀なくされます。)
 今日のサプライズは、終わりだと思っていた地層のさらに下から大量の遺物が出土してきたことです。それも、どうも時期が新しい!まだ確認はできていないのですが、下手をするとその地層が全体に延びているかも知れないのです。大問題です!
 但し、現場全体の地山面までの層序確認が完全にできない状況なので、まだ結論は出せません。しかしその最悪のシナリオも予想しつつ調査を進めなくてはならなくなりました。
 それにしてもこれだけの大規模な掘削を何故15~16世紀にやったのかその解明も大きな問題となってきました。


(東壁は以前の調査の掘削によって何カ所もで崩落していてこの土砂の除去にとても時間がかかりました。それでも何とか綺麗に地層の対応関係を明らかにすることができました。ほぼ西壁と同じ状況のようです。)

 明日から早くも3月です。そろそろ山田博士にも周辺の遺跡を見てもらわなければなりません。先日は博士のブログにもある通り、一人で国立博物館等、市内の遺跡をみて回ってもらいました。
 驚くべきことに、博士は白タクからぼった喰ったのです。

 そのシーンを再現するとこうです。

 東門付近の見学を終えてタクシーに乗ろうとした博士は、何気なく手を挙げた。1台のタクシーが寄ってきてドアーを開けた。

 「・・・・・!ムニャムニャ」
 「○△◎□●・・・」

動き出したタクシーを何気なく見るとメーターがない!
驚いた博士は
 「ストップ!ストップ!」と大声で車を止め、メーターがないから降りると言って飛び降りた。慌てた運転手はよほど金に困っていたのか、20000ドン(約120円)紙幣を見せてこれで行くから乗れと言う。
 ほんまかいな?と思いつつ、そこは関西人!安い物には目がくらむ!!恐る恐る乗り直し、ホテルに向かう。

 ホテルに着くや、20000ドン紙幣を投げるように手渡してタクシーを降りる。普通なら市街地から65000ドンはするタクシー代をこの様にして逆ぼったくりをして利用してこられたのである。さすが、博士のくそ度胸には恐れ入り申した事件であった。

 そんな博士も間もなくご帰国である。3月2日にようやくCoLoa城に見学に行っていただけそうである。本当にお世話になりました。多謝!!帰ってから病気になられませんように、今から「お祈り申」しておきます(怪しい笑)。


(2月29日の昼ご飯。現場事務所でフランスパン1/3個!アー悲しい!!)
 サーこれから今日はどんなサプライズがあるか、皆さん明日の報告をお楽しみに・・・・フフフ!?

山田博士ってすごいね、と思ったら平安京閑話もよろしく