yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

近況報告  素敵な「仲間」達の条

2006-03-30 08:39:16 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 昨日は予定通り朝から晩まで私のところに所属する学生達1人1人と話をした。3年生から院生までの11人。途中来客もあり、終わったのは夜の9時。

 でも終わった時には爽快な気分になった。学生達がこんなにも真剣にこの一ヶ月の激動を受け止めてくれていたのだと。

 本当に苦しい2・3月だった。限られた人数で、雨の日も風の日も、時には吹雪の中で、後何カ所と絶望的な気分で残った土地の広大なことに思い責務を感じさせられながら、ただひたすら大地に落ちている小さなかけらを求めてを歩く。「現場」が終わると夜は整理。休みもなく毎日毎日これを繰り返す。精神的にも肉体的にも極限に近づいていた。

 こんなはずではなかったのだが、予定というのは狂うものだ。誰のせいでもない。いろんな事が悪い時には重なるものだ。病に倒れるもの、試験を受けに行くもの、クラブの行事に出かけるもの、そして予想外の大雪・・・等々。そのいずれをも想定しておかなかった私の「想定外」が第一の原因であるのだが、そんな人ごとではなく、自らの問題として、自らに必要なものとして、この事態を自らの問題として対応してくれていたことを知った。

 確かに「今時の学生達」の気質は私にはよく分からない。その大きな流れが個人主義にあるだろうという見当はつくのだが、しかしこの言葉でも言い表せない何か独自なものがあるような気がしてならなかった。その一部が今回の話の中で少し見えたような気がした。もちろんこれが全ての学生に通用するとも思えない。学生気質などと言っても、これまでだって、バラバラがったに違いなく、所詮大まかな雰囲気的な用語に過ぎない。私達の時代だっていろんな奴はいた。

 「分布調査でどんなことを思った?」という私からの問に対して、「自分たちの歩いた古墳が前方後円墳ではないかと思いついて、先生にその旨伝えた時、「そうではないか」と推定の正しさを認めてもらった時はとてもうれしかったです」「先輩が苦しんでいる中で私がこれを全うして助けることができてとても良かったです。勉強にもなりました。初めての経験です。」「日が経つに従っていろんなものを見つけることができ、次第に分布の楽しみ方が分かって、とても勉強になりました。」こんな答えが次々と返ってきた。もちろん教師の前で問われて批判したり、真正直に不満をぶつける人間はいないのかも知れない。そんな答えで安心していられるものか、と言う批判もあるかも知れない。しかし昨日の私はそんな事をみじんも感じなかった。そんな批判は失礼だ!とさえ思った。

 学生達はきちんと人間的に成長していたのだ。ある面それは「個人主義」のお陰かも知れない。もしこれまでの私達のような集団を重視する考え方だったとしたら、不満ばかりが溜まって、とっくの昔に集団は壊滅していたかも知れない。先ず自分にとってこの事態は何なのかを考える。その上で自分にとってこの集団の解体が何を意味するのかを考える、そしてどちらも必要なものだという結論に至れば両方を維持するための行動を取る、そんな思考回路なのだろうか(これは私の勝手な推測ですからもちろん大間違いかも知れない)。

 だからといって、まさに「個人主義」的に個人だけを中心に集団に与える影響を考えずに行動した仲間を認めるわけではない。明確に彼らの「個人主義」を批判し、彼らに対して堂々と問題点を指摘し、反省を求める。求められた学生もその指摘を真摯に受け止め、素直に謝罪する。後はその個人の行動が言葉の真偽を証明する。

 なるほどこうして集団としてのわだかまりを減らし集団を維持していくのか!何となく合点がいった気がした。つまらない集団主義に陥っていた私には実に新鮮に見えた。こんな「仲間」と一緒に考古学を勉強できる私は幸せだとやっと気づいた。

 「今頃?」と皮肉が飛んできそうだ。ごめんなさい。

 だからこんな素敵な学生達としっかり考古学するために、明後日からの新年度の新しい個別カリキュラムで一緒に勉強していくことにする。

 大学院に進学する者、進学はしたいが、家庭の事情でどうなるか分からない者、でもこの勉強は続けたいと思っている者、就職するが考古学は好きな者、考古学が好きかどうか実際のところよく分からないが、でもここで勉強したい者等々、まさに千差万別。こんな学生達をたった一つの袋で一緒にして「今時の学生」としてとらえ、教えよう、勉強しようと思っていたのが間違いだった。いろんな袋を用意することはなかなか言うは易し、行うは堅しだ。4月からどれだけ答えられるか、真剣勝負の開始である。

 失格教師の再出発の9年目が間もなく始まる。


(そんなこんなで、あちこちに約束したいろいろな原稿の「最後通告の日」が次々と過ぎていった。愛想を尽かしてお断りの出版社まで出てきてしまいそうだ。本当にごめんなさい。これからとにかく一つ一つ進めていきますから!本当に。きっとこれを密かに読んでおられる出版社の方へ)

山田博士の平安京閑話もよろしく。




分布調査報告-4  新発見の「古墳」その後の条

2006-03-29 06:31:15 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 昨日は雨が降ったり止んだり、わけの分からない天候の中、山の中や竹藪の中をはいずり回り、古墳の確認やら遺跡の確認を行った。


(円墳状の高まり部分。松名新田の一角から見つかった遺跡)


 いなべ市の文化財にお詳しい太田先生のご案内で、「新発見の古墳」を訪れた。いなべ市最古の前方後円墳というふれこみもあったらしいので、少し緊張して現地に赴いた。確かに後円部とされるところは半円形状に2m前後の高まりをなしている。葺石と称されるものも、斜面に散乱している。

「なるほど確かに・・・」と一瞬うなずいた。
 ところが「墳丘」上にあがって驚いた。えらく平らな面が真っ直ぐに広がっているのである。くびれ部らしいものも見あたらない。
 「???・・・」
 「埴輪でも落ちていないか丹念に探して!」と同行した学生達に求める。

 しかし出てくるのは小断片化した中・近世以降の土師質の土器片だけである。
「!!」直ぐ近くにはため池もある。城郭の一部かしら?或いは古墳が削平されてお城に転用されたのかも・・・、等々いろんなことが頭を駆けめぐる。くびれ部の可能性のある部分は道路造成時に埋没してしまっており、今では確認のしようもない。

 結局、古墳の可能性のある高まりとしか判断できず、遺物が拾えるのだから遺跡であることは間違いなく、古墳の可能性のある「要注意遺跡」と判断して現地を離れた。


(興味深い平古古墳群の位置と構造。2号墳の現状。)

 太田先生にはその後平古古墳群もご案内頂いた。行ってみて驚いた。直径15m前後の円墳なのだが、二基残っているいずれもきちんとした石室を持っているのである。1号墳がわずかに両側に袖条の痕跡を残す胴張り式の横穴式石室。2号墳が長方形の玄室に羨道部のつく両袖式の横穴式石室であった。いずれも以前の測量調査(なんと三重大学がかつてやったらしい。恥ずかしながら知らなかった。測量図がどこにあるのか探さなけりゃ)の時よりも自然破壊が進行しているという。困ったもんだ。


(平古一号墳は典型的な伊勢地域北部の胴張り式の横穴式石室である。奥壁に大きな「鏡石」を置く点も共通する。今年の夏に開催する考古学研究会東海例会三重県大会のテーマは「横穴式石室」この古墳の資料も是非利用したいものです。)

 平古という地区はもうすぐ多度町に至る三重県最北端に近い一角の山塊縁辺部である。先にみた岡古墳といい、なかなか立派な古墳が点在している。よく地図を見てみると平古は多度へ抜ける街道沿いに、岡は桑名へ抜ける街道沿いにある。特に岡古墳群からの眺望は素晴らしく、員弁郡全域が見渡せると言っても過言ではない。


(岡三号墳の現状。残念なことにこの奥にあったはずの玄室は無惨にも破壊され後円部中央には巨大な穴が開いたままである。6世紀前半の東向きの前方後円墳の後円部に南に開口する石室を持つ典型的な古墳である。員弁郡域最初の横穴式石室であろう。)


 壬申の乱において、当初大海人皇子一行は鈴鹿、不破の二関確保の後、桑名に入って一段落した。その後前線基地を不破関に移すが、不破関への最短コースもまた現365線ルートである。ようやく員弁郡の位置付けが明確になってきた。分布調査の最大の利点は調査域の地理が頭の中に映像として綺麗に残り、その地域の歴史を三次元的に記憶することができる点であろう。

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分布調査報告-3  「新発見の古墳」?の条

2006-03-28 07:51:22 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
昨夜は約束の時間通りに津に到着し、駅前のこましな小料理屋さん(津駅前にこんな店があるんや、とびっくり)で8時過ぎまで楽しいお酒を飲んだ。

話によるとこのメンバーが揃って飲むことは初めてらしい。いつも側にいてよく話しているからそんなこととは知らなかった。今回の口実は同僚の一人が一年間研究のために台湾へ出かけるから、その送別会として同僚二人を誘って開いたものだ。

大学の授業のこと、地域での地道な研究のこと、学生を連れての調査等々、日頃お互いに話をしていることだが、酒の席でないと聞けない裏話、楽しいエピソードを交わしている内にあっという間に時間になって、お開きとなった。1年後、楽しい台湾話の聞けることを期待してお別れした。

大学に戻ると分布調査に出かけていた学生達が私の帰りを待っていたらしく、今日拾ってきた土器の種類を尋ねに来る。

「オー、これは凄いなー、須恵器の甕やなー」
「アー、これははずれ、「古くない」瓦」等々、いつものような俄鑑定が進む。

特に昨日は大当たりだったらしく、B5サイズのビニール袋一杯になった場所のものなど買い物袋一杯に土器が詰まっていた。

分布調査はこれまでにも報告したようになかなか進まなかった。3月中旬に入って、いよいよ時間がなくなってきた頃に気がついたことがあった。余りに学生の顔つきに覇気がないのである。疲れきっているといっても言いすぎではない。
「これはまずい!」と内心思った。
少々時間がかかって、歩く範囲が減ってもいいから、分布調査の楽しみ方を話しながら進めよう、と方針変換した。先に見つけた幢管支柱のこともあちこちを回りながら話をすると次の日から報告内容ががらっと変わった。あそこにもありましたよ、この村では幢管支柱だけが残っているので、近くのおばあさんに聞くと神社は遠くへ移ったのだが何故かこれだけは残ったと教えてくれました、等々。一挙にいなべ市中の幢管支柱の分布図ができあがった。幢管支柱そのものもあちこちに残っているという。それこそこれを素材に誰か卒論に挑戦してくれると面白いのだが・・・。

 ようやく学生達の顔色が変わってきた。学生同士でする会話の中味も「今日こそ須恵器を拾うんや」とか「古墳が見つかるといいな」とか分布調査らしくなってきた。

 もっと早くからこういうように接すればよかったと反省した。これまでにも何年もやってきた分布調査だし、先輩の学生からきっとその極意が継承されているものだと高をくくっていた私が間違っていた。それに気づいて、新ゼミ生を中心にできるだけ私と一緒に歩き、山での遺跡の見つけ方、平地での遺物の拾い方、その種類などの見分け方を話すことにしたのだ。そうこうしている内に学生の歩き方が変わってきたのである。
 学生の変化に合わせて学生の教育をどのようにするかはなかなか難しい問題である。1年間、FD委員なるものを担当し、様々な新しい教育方法を知り、少しずつそれを実践しているのだが、まだまだ手探り状態である。これといった方向性は見いだせていないのだが、やはり国立大学のいいところは少ない学生をマンツーマンに近く指導できるというところであろう。もちろんこれまでもそうした教育は実践してきたつもりなのだが、どうも学生気質の変化に十分対応できず、空回りしてきたような気がする。分布調査は古くて新しい方向性を教えてくれた。

 そこで、というわけではないのだが、分布調査の過程で、もう一度きめの細かいマンツーマン指導をやろうということになったのである。学生の顔つきの変化を見ていると少しは光が見えてきたようにも思えるのである。
 明日と明後日には二日間をかけて一人一人の学生とじっくり話をし、今興味を持っていること、人生のこと、将来のこと、今の日常生活のことなどを聞いてみることにしたのもこれがきっかけである。集団生活をあまり強制せず、しかし、集団での発掘調査がなければできない考古学という学問を、どのように学生と進めていくのか、なかなかの難題であるが、マンツーマンを原点に再構築しようというのである。うまくいったかどうかは1年後のこのブログで紹介することになろう。

 実は地方国立大学の教育の原点が少人数教育にあることを、昨日の楽しい宴の会話の中で再認識することができたのである。
 他の三人の先生方も、教育の熱心さでは引けをとらない。もちろん御自身の研究もピカ一である。その教育の基本方針が、マンツーマンの古文書指導、現地踏査、少人数の史料購読にあることを再確認できた。T先生は青森、秋田まで学生を引き連れて史料調査に出かけ、ついでに猛吹雪の三内丸山遺跡も訪れたという。そして、秋田では寂れた酒場で、青森では生きのいい魚をつまみに楽しい酒を飲む。その中から興味を引き出して、少しでもその世界に定着できるよう訓練し、方向性を示してみせる。これを実践するのは大変である。全員にできることではない。しかし、少なくともこうした経験を積んだ学生はその瞬間を生涯忘れることはないだろう。食いついてくる学生がいる限り、忘れてはならない「教育」の原点だと痛感した。

(こんな大前方後円墳が10年前に見つかったのだ。長柄桜山2号墳である。)


 今朝もこれから分布調査である。今日は三つに分かれて歩く。私の回るところは「新発見」かも知れない古墳や遺跡の確認である。先の歴博の共同研究で歩いた長柄桜山古墳群は現存する神奈川県最大の前方後円墳である。しかしこれが発見されたのはわずか10年ほど前のことだという。今は周りの雑木林も間引かれて、行けば直ぐに前方後円墳であることは素人でも分かる。しかし地元の歴史愛好家の方が土器を拾ってこられて初めて分かった古墳なのだという。特に丘陵の先端部に築造された2号墳は相模湾が見渡せる絶好の位置に設けられている。
 さすがにそんな大発見はないだろうが、学生にもこんなエピソードを話しながら、出かけてみようと思う。久しぶりにワクワクして調査に出かけることができる。


(長柄桜山2号墳から相模湾を見る)

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近況報告 初めてのエッジの条

2006-03-27 16:31:19 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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2カ月ほど前からエッジなる携帯電話?をもっている。超小型パソコンと携帯電話が一体化したツールである。

eメールがどこででもられるし、出すことも可能なことが気に入って、以前の携帯をやめてこれにしたものである。またおもちゃ?とみんなにからかわれている。確かにこれ迄にも、ザウルスだの、モバイルだのと、結局うまく使いこなせなかったのだからこう言われても仕方ないが、今回は少し趣が違う。
 何せイギリスに持っていってちゃんと無線ランがつながり、メールすることができたのである。小さくはあるがキーボードも付いていて。今それをまるでゲームでも操るように操作している。
 さてこの三日間、予告通り、神奈川県東部で研究会の諸報告に浸りきっていた。詳しくは大学に戻ってからおつたえするとして、一昨日は神奈川県(相模国)を代表する前期古墳をみた。海老名市の秋葉山と逗子の長柄桜山古墳群である。いずれも研究会のテーマに絡むもので、翌日の和田晴吾さんの発表と深くかかわって、現地をみんなと訪れたものである。

ただし私には、海老名市の西を流れる相模川の縁辺部に展開する横穴群が大変気になった。市の温故館にはその資料が展示してあり、私たちのためにわざわざ開けていただいたお蔭で、その出土遺物を拝見することができた。さらに幸いなことに海老名市史史料編をいただくことができ、帰ってから勉強することにする。 

今日は歴博で別の仕事をして、ついでに手に入れたかった伊豆長岡の大北横穴の報告書をコピーして、三日間の関東の旅を終えたところ。間もなく津。

これから久しぶりに同僚と楽しい?酒。
あ、そうそう、関東滞在中に山田博士から松坂牛で一杯のお誘いがあったのに行けず。残念!居ない時を狙ってお膝元で講演するんだもんね、困ったもんです。

アー、やっとここまで書くうちに桑名に着いた。昔なら江戸からここまで十日ほどかかったかな。
 

近況報告 学位記授与式の後の宴の条

2006-03-25 08:04:13 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(ランキングのセンテンスを上に持っていっただけでえらくアクセスポイントが増えました。びっくりしました。と同時に妙なコメントもついてきました。私「馬鹿」だそうです。かも知れませんね。)

学位記授与式の後の謝恩会は予想通り寂しいものだった。おまけに驚いたのはいつもはコース毎に行っているものが3コース??合同で行われたらしいのである。今時の学生はこうした経緯もちゃんとは説明してくれない。始まったのも30分遅れ、だらだらと進み、突然花束贈呈。なんとなく儀式が終わり、何となく宴も終わりそうなので退散。(確実に日本の文化と伝統は崩れて行ってますね。別に権威ぶって、謝恩会を盛大にせえとか、儀式をきちんとしなさい言っているつもりはないのだけれど、人間には一応けじめというのが必要だと思うのですがね・・・。もちろん私自身も卒業式には出なかったし、謝恩会なんて誰が行くもんかと出もしなかった。但しそこには一応の「意志」が込められていたんですがね。)

二時間ほどの宴が終わって、うちの卒業生と飲みに出かけることに。いつもなら我が家で内の奥さんを呼んで、手料理で夜遅くまで大宴会をするのだが、今年はまだ術後一年も経っていないので、あまり無理をさせるわけにも行かず、中止。

で、どうする?と数日前に聞いておいたのだが、何の音沙汰もなし、仕方なくその日になって、「お別れ会」をするけれど来たい人は連絡して、とメールするが、二人を除いて連絡なし。

卒業生の一人で、留学のために一年遅れていた学生は是非行きたいというので、合わせて3人、ま、卒業生だけでゆっくり飲むか、と夕方から出かけることに。ところが待ち合わせ予定場所に行くと10人余の人がいた。「なんじゃこれ?」今日日こんなもんですから驚きもせず、淡々と「じゃコンだけ入れる場所探して?」と学生に頼むが、所詮無理!だって、小さな小さな津に恐らく5000人以上の学生が宴会しているはずだもん。大昔から予約しとかんとね・・・。

そこで大英断?四日市まで電車に乗っていくことに。30分ほど電車に乗って出かけてみたがこれが大失敗。何せ昨日は年度末の金曜日。サラリーマンひしめく四日市はあちこちで送別会。わーえらいこっちゃ!四日市の学生に聞くもこれ以上知らんという。仕方なく駅前のいつも行くビヤホールを覗くとがらんとしてる。やった!と中にはいると「予約ですか」と。

12人、何とかして!と店長に懇願すると、なんと粋な、いろんな机を合わせてくれて狭いがテーブル完成。飯も食っていない学生は直ぐにピザばかり頼む(なんと最後も焼きそば頼んでいたな・・・)。

卒業生も合流して和やかな宴は結局10時過ぎまで続いた。帰って直ぐベットにバタンキュウ!窓が白々としているのに驚いて飛び起きた。そう、これから神奈川県の海老名まで行かなければ。大急ぎで行き方を調べると9時頃の電車に乗ればいいと判明。中途半端に時間が残ったのでブログに挑戦。山田博士のお宅の大騒動を手に汗しながら読んで、ちょっと心が落ち着いて書き始めたのでした(ホント、よかったですね!彼等は山田家のお子さん達ですもの。確かに犬の散歩はこの時期まだ寒いので一歩を踏み出すのに勇気がいるのですよ)。

今年の卒業式についてはいろいろあったが、ま、3人を送ることができたからこれでよかったかな・・・・。でも来年は自分たちで準備してよね!それともう少しましな謝恩会をして欲しいもんですな(伝統の継承もある時は大事ですよ)。

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(ご協力有り難うございました。でも山田博士の「平安京閑話」もよろしくお願いしますよ。なんてったて私達は双子の兄弟?ア、違った!厳格な親子だった!!なんですから。)


近況報告 学位記授与式の条

2006-03-24 12:22:46 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 今日は全国の地方国立大学の学位記授与式=卒業式の日です。
三重は快晴で卒業式にはもってこいの天気になりました。

 本当なら今頃式に出ているのですが、今年はあまり出る気になれませんでしたので部屋の片づけの合間を縫って書き込みをしています。

 最近いろいろ大学教育に関して考えさせられることがあって、その影響です。

 たまたま先ほど一昨年の卒業生と昨年の卒業生が部屋を尋ねてきてくれました。彼女たちの卒業論文や在学中の活動についてはいろんなことが思い出され、話にも花が咲きました。

 でも今年は大変憂鬱です。別に卒論が不出来だとか卒業生がどうのだのといった個別の問題ではないのです。跡を継ぐべき在校生達の「卒業」に対する考え方のずれが私を憂鬱にさせているのです。

 これまでは専門に行かなくても少なくとも卒業論文は一生懸命書こうとしたし、発掘調査や分布調査は元気に活き活きと出ていたのです。でも、最近は半分義務で出てくれているだけで、自ら喜んで発掘したり、分布調査に行くわけではないようなのです。もちろん一生懸命やってくれている学生もたくさんいるし、喜んで積極的にやる学生もいるのです。

 でもどこかが違ってきているのです。つまり、仮に普通に就職する学生でもこれまでは少なくとも大学4年間は何かを研究して出ようという意欲があり、まずこれが中心だったのです。ところがここのところそうではなくなってきています。

 大学は幅広い教養を得るところで、何よりも大事なのは就職の時に必要な「大卒」の資格だというのです。その中味は何でもいいらしいのです。ようするに単位さえ取れば、卒論は通してくれる先生のところで出したいというのです。卒論も単位なのですが、最早彼等には、就職さえ決まれば、当然卒業させてもらえるものだと決めているようです。そして実際のところ、多くの教官がそうしています。就職の決まっている学生を卒論で落とすなどということはまずありません。だから学生を少々脅そうがびくともしません。

 実際のところ卒業論文の質はまさに千差万別。どうしてこんなのが通るのかと目を疑いたくなるようなものもあります。

 そんな卒業式に感激などありません。なぜなら当然の過程だからです。だから行く気になれないのです。
この後「謝恩会」なるものがあります。しかし年々いい加減になってきています。そもそも学生は謝恩などしていません。もちろん当然のこととして学位記をもらったと思っているからです。人も集まりません。いつぞやは学生よりも先生の方が多かったという笑えない事態がありました。

 式には出ても、そして、クラブのパーテーには出ても謝恩会には出ません。そんな風潮がどんどん拡大しています。恐らく今年もそうでしょう。もちろん謝恩してもらうほどのことをしたかと問われれば、胸を張って言えるわけではありませんから、それはそれで仕方のないことです。でも・・・。

 間もなく式が終わります。一応後輩達は「出待ち」をしています。でもいつもならやる追い出しコンパの企画はありません。それでは余りに卒業生がかわいそうと、私が一応段取りをしましたが、在校生が何人来るか不明のままです。

 そんな大学ですから、急速に教育への情熱が冷めつつあるのです。こんなことなら私立大学へ移って、マスプロ教育をし、浅く広く、考古学を教えている方が気が楽です。やる気のある子がいたらそれはそれで対応する、そんな生き方の方が気が楽です。

 来年度からやる気のある子だけを対象に考古学を真面目に教え、そうでない子にはあまり過度な期待はしないようにしようと思っています。だから、自らの研究を犠牲にしてやってきた発掘調査も分布調査ももう止めようと思います。やる気のない学生とやってもしんどいだけですし、だからといって発掘調査は人間がいないとできませんので。

 そんな憂鬱な今日一日です。

ランキング登録最近のランキングに対する意図的な操作には「世論」形成に対する不気味な動きを感じさせます。読者の皆さんで普通にランキングを運営できるようご協力下さい。



雑感其の二  だから自由と公開

2006-03-23 06:04:26 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 誤解のないように追記しておきますが、昨日不愉快だったのは、自分の意見が載らなかったからではありませんからね。それを決めるのも報道の自由ですから。私がイヤだったのは、報道の方法を行政権力が指示したことなのです。裏でこそこそ、行政の思惑によって動かされたことなのです。
 つまり非公開を盾に、其の情報を握っている組織が、情報を入手した人や組織を自らのさじ加減で許可したり規制したりしたことを問題にしているのです。一種のインサイダー取引(自分にとって利益が得られる特定の人にだけ有利な情報を与えて便宜を図る)のようにも感じられます。誰が発見したかも含めて(たとえそれが職務上知り得た情報であっても)どんどん公開すればいいと思います。現にこの三〇年間、どれだけ多くの「発掘調査技師」が新聞各紙の「ひと」欄に登場したことでしょう。職務上発見したことだって、その人の能力がなければ、発見できなかったのだから!但し誤解しないでほしいのは、発見したのはその人の能力でも、発見された資料は共通の財産=共有すべき資料だということです。時々、資料を抱え込んで、特定の研究者、仲間にしか見せないという馬鹿げた行為に走る人がいます。ねつ造の温床はここにあります。これは大問題です。
 今回の鈴鹿関にしても、第1発見者のMさんには何度も早く文章にして公表しなさい、と申し上げました。でなければ「行政」が変な守秘義務や「仕事上の発見」などを持ち出して、あなたの成果をとってしまうから、とも。そんな雰囲気が既に形成されつつありました。これは余りにかわいそう!またまた鳶にあぶらげ・・・、こういう気がしたので記者に話題を提供したのです。それがNHKの記者だったのは、担当を遠く離れた三重大学まで情報を求めてこられたからなのです。記者クラブにふんぞり返って、御上の垂れ流す情報を取捨選択して記事を書く記者も多くなったと聞きます。まさに権力の思う壺です。そんな記者ではないからこそ、情報を提供するのです。この人ならきちんと書いてくれる!!
 よく職務上知り得た秘密とか言いますが、世の中、学生時代を卒業すればたいていどこかの組織に所属しますよね、私だって、三重大学から給料をもらって、国家から研究費をもらって研究しています。だから研究成果は全て職務上の秘密です。だからといって、その成果を公表するのに一々学長にお伺いはたてません。イヤ、今日では寧ろどんどん外に出せと言っています。土塁の発見だって、行政が利用するのではなく、どんどん公表して(できれば直ぐにでも学術論文のとして発表して)情報を関心を持つ人々と共有すべきだと思うのです。但し、第1発見者や発想の提供者は間違いなくその人の能力と成果なのですから、きちんと評価すべきだと思うのです。


(最初に発見された土塁。この右手に谷があり、谷を挟んでさらに向こうに土塁が伸びている。この地は東海道だけではなく大和街道をも塞ぐ絶好の位置であると私は考えた。)

 私(達)はできるだけ新しい情報はこうしたブログを使ったり、口コミを用いたり、会う他人毎に話したりして提供します。もちろんそうした情報は不正確です。しかし、全国津々浦々にある情報はなかなか発見できません。これまでは、情報保持者が全国に「報道」する能力も持っていませんでした。ところが今日、インターネットという強力な武器を世界中の「市民」が手に入れました。自ら報道記者になって、記事を書くことができるのです。こんな素晴らしいことはありません。新聞記者も知らない、だから知らされない情報をこうしたサイトを使って伝えることができるのです。但しあくまで「入り口=玄関口」です。もちろん、学術論文に使えるわけがありません。後は正確な情報を利用しようとする人自身が集めればいいだけです。但し、情報の発見者は直ちに利用可能な情報に整理して公表しなければなりません。埋蔵文化財の世界では「報告書」という奴です。其の公表された資料をみんなが共有して研究し、見解を述べあるのが学問だと思います。これは責務です!!責務を果たすという前提の下に私は「発見者」を称えるべきだと思います。途中段階であってもどんどん資料は公開すべきだと思います。
にもかかわらず、最近、私達の書くブログに圧力をかける人がいます。「まだ公表していないのに」と。
 資料は正確な方がいいに決まっています。でもそんなことを言えば、遺物の整理も十分でないのに、現地説明会なんてできるわけがありません。それをするのは、生の情報を見てもらって、考える材料を提供したいからではないでしょうか。インターネットの情報も同じです。別に資料を横取りするとかいった類のものではありません。できるだけ多くの研究者に情報を提供し時間があれば、実物を見に行ってほしいからです。
 圧力をかけることによって何がなされるのか、情報の「操作」です。とにかくこれだけは許せません。
 ブログを書くには相当のエネルギーがいります。こんな暇があったら原稿を書いてよ!と思ってらっしゃる出版社の方も多いに違いありません。でもこれも研究の一環なのです。お許し下さい。
 最近まだ時差ぼけが続いているらしく、九時頃眠くなって、夜中に目が覚めます。原稿を書くにはいい時間です。でも今日もまた1行しかすすみませんでした。ごめんなさい。これからまた魔の分布調査です。特に今日は山登りです。早く終わりたいなあ!!そして早く原稿を書き終えたい!!

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雑感 報道の自由と文化財情報

2006-03-22 21:54:29 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


 今日は朝からとてもイヤな日でした。
 今朝のNHKの朝のニュースで旧関町の分布調査で鈴鹿関の西の城壁が見つかったという情報が流れたそうです。取材をした記者からのメールで早朝に知っていたのですが、不愉快なので見ませんでした。
 この情報は現亀山市の鈴鹿関探求に向けての準備状況を広く知らしめると共に、現在進行中の『亀山市史』の精力的な調査状況を宣伝するために私が提供したものです。第1発見者は現在三重県から亀山市へ出向中のM氏です。彼の案内で現地を見た私は間違いないと太鼓判を押しました。但しこの延長線が必ず谷の向こうにあるはずだからそちらを調査しましょうと申し上げて、後日学生達と共に現地を歩きました。予想通り、谷を隔てた反対側に同様の施設が見つかりました。それどころか、さらにその付近を探索すると、丁度谷を封鎖するような形で土塁状の高まりのあることが判明しました。これらはあくまで亀山市の行う分布調査の一環として、三重大学が協力して行った調査の中で見つかったものでした。
 当然これらの遺跡の評価が問題になりますが、当面は大学の他の調査があるので、詳細は今後に残して再度探索することにしました。しかしこれまで八賀晋氏などの調査で、発見されたと言われている土塁とは明らかに性質を異にし、瓦という遺物を伴う上に、谷を挟んで両側に全く同じ構造物があるという点等、人為的な古代の構造物であることは明白でした。『亀山市史』で鈴鹿関の調査を一大目標としている私には極めて貴重な情報でした。
 しかし、残念なことに『市史』の活動はさほどよく知られていません。亀山市歴史資料館の方々の古文書調査が主流であるため、どうしても地味にならざるを得ないからです。もちろん派手ならいいのではありませんが、せっかくの全国区の話題を隅に追いやることもないはずです。そこで、記者にそのことを話すと大喜びで現地に取材に入りました。M氏への取材も終え、その歴史的な意義をどう考えるのか、私の考えを取材に来る直前にキャンセルになりました。
電話での説明によると、行政から注文がつき、コメントは八賀晋氏からとるようにとの『強い要望』があり、今後の取材の不利益も考えて、『指示』に従いますという。報道側がどのような判断をするかはこちらが指示できるものではないと考えているので、私は「ハイ分かりました」とだけ申しました。
 その取材の結果が今日のニュースだったようです。
 私の口が開いてふさがらなかったのは、その後の担当者の対応でした。
「突然でしたので、報道各社に鈴鹿関の発見についての資料を提供しました。」というのである。それは明らかに問題のある文章でした。分布調査の結果鈴鹿関の一部が発見されたというのです。ところが、分布調査にもかかわらず今回の事業では、恐らく全国でも初めてだと思いますが、「指導委員会」が作られているのです。その委員会には何の音沙汰もなく、その後の調査成果の説明もなく、突然、報道関係に情報が流されたのです。
 もちろん私はそもそも分布調査に「指導委員会」なんてものはいらない!と強く主張しました。しかし、何故か三重県の主導で、委員会が作られ、初会合には文化庁まで出席しました。大事な遺跡、鈴鹿関がある地域だから亀山市に任せておけないそうです。そこまでして作った「委員会」に連絡もなく、唐突に報道関係に資料が提供されたのです。所詮委員会なんてどうでも良かったのです。恐れたのは他の報道機関からの「抗議」だったのでしょう。結局のところ、著名な遺跡の情報を県がまず掌握し、自らに有利に働くよう操作して情報を流そうとしたとしか考えられません。
 極めて悪質な行政権力による情報制御です。そしてまた、これに従った記者も、報道関係者としてはどれだけ報道の自由を考えてもらっているのか、少し不安になります。
ところで、報道の自由については昨秋に苦い経験をしました。
長岡宮朝堂院南門に付随する門闕の発見に関する報道です。
大発見にもかかわらず、行政の圧力と埋蔵文化財センター技師の能力によって、情報はほとんど外に流れませんでした。小さな民間の宅地開発による原因者負担の事前調査で始まっただけに、保存など誰も考えていませんでした。そこで私達はまず地元京都新聞に情報提供すべきと考え、親しい記者と現地を訪れました。当初さほどか関心のなかった記者も、しだいにこちらの説明に耳を傾け、最後にはその価値の高さに感動して帰社しました。
 ここからが問題です。記者はどうしても大きないい記事を書きたいという願いから、上司と相談し、本社を説得し、一面にカラーですっぱ抜くことにしました。私としては、きっかけ作りのつもりだったのですが、薬が効きすぎたのか、予想外の展開になってしまいました。延々二時間以上、記者の上司と話をし、何とかすっぱ抜きは思いとどまってくれないかと頼みました。
 その理由は簡単です。近年の傾向として、一社がすっぱ抜くと他社はよほどの内容でない限り追随しないからです。大きく全国紙が肩を揃えて一面に大々的にカラーで放送する、こんな光景をイメージしていた私達に激震が走りました。友人でもある記者の上司は
「これだけの内容ならうちがすっぱぬいても大丈夫」と主張します。
「私は報道が限られることによって遺跡が破壊されることを最も恐れるのです」と申しました。
「もちろん私もそう思っています。」こんなやりとりを経てこれ以上の要請は報道に関する干渉であるとも考え、説得を諦めました。その代わり直ぐに他社の友人に電話し、この間の事情を説明し、後を追ってほしいと懇願しました。今から考えればみんなみんな「干渉」です。しかし、遺跡を守りたいという信念だけ変わりませんでした。きっとそのことを理解してくれたのでしょう。次々と記事を書いてくれ、結果、遺跡は遺ることになりました。
記者の上司の指摘する通りでした。今から思うと恥ずかしくなります。実に失礼な言動をしたものだと。そしてよくも喧嘩にならなかったものだと。きっとそこにはお互いにフェアーな気持ちしかなかったからだと思います。私利私欲の欠片も持たず、ただひたすら、遺跡を残したい一心から、とった行動だったからではないでしょうか。
やはりどんな形のものであれ、報道に対して、報道側が真摯な態度である以上、絶対に干渉してはならないと実感したものでした。

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近況報告  山田博士との再会の条

2006-03-21 19:36:39 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
昨日は京都でK大学のT先生にお会いするため分布調査はお休みさせていただいた。
来年実施する歴博での「桓武の野望と挫折」(仮題)展の中で長岡京の展示には欠かせない部分の監修をお願いするためである。

会議にはもちろん山田博士にも出ていただき、後押しをお願いした。大変快く、いや、寧ろすぐさまいろんなアドバイスを頂いて、大変有意義な二時間だった。

なんと会議が終わって直ぐにお二人で次の会議に出かけられるという。相変わらずのお忙しい先生方である。

さてさて、問題はこの会議の中でのことである。実は会議の裏にはR博のNさんの強烈な原稿の催促があったのである。何せこの日のためにわざわざ東京からお出でになったのである。その席での原稿の催促はとてもとても身の引き締まる思いで承らざるを得ないのである。

催促の相手は私だけではない。山山ズ?共に標的なのである。ア、そうか!ちょっとこれで攻撃の手が和らぐかな、と思いきや、山田博士のとんでもない裏切り行為が発覚したのである。

なんと博士曰わく、
「テーマを少し変えさせていただけないでしょうか?それならお約束の日までに書けるのですが・・・」
(「エエッツ、なななんやて・・・、この裏切り者メ!!」とつぶやけども口に出すわけにも行かず。)
「いいですよ、ちょっとくらい!原稿を頂けるのなら。有り難うございます。後はyamana・・さん、お願いしますね!!!」
「ハハー・・・・」

もちろん書かない私が悪いんですよ、でもねー・・・・どうしてあんなに忙しいのにあんなに次々と書けるんだろう?

というわけで、私は会議が終わって直ぐに家に帰り進まない原稿に向かったわけであります。
きっとお二人は会議終了後、京都駅に戻ってきて、優雅な酒宴に興じられたことだろうな・・・・。
アー、暫くお酒の顔も見たことない・・・。いつになったら酒宴が開けることやら。

というわけで、昨日はただ会議と原稿、そして今日は朝6時京都スタートで、眠たい目をこすりこすり分布調査のため名神をぶっ飛ばしていなべ市へ・・・。先ほどなんとか平地部の調査をほぼ終了させ、おおかたの目処を付けて帰ってきたところ。明日は虚しい教授会。早く終わることだけが祈り。

それにしても久しぶりに会ったのに山田博士の冷たいこと!今度会った時には、次の原稿の催促でもしよう!!(そんなのあったっけ)

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London Report 3 ヨルビックバイキングセンターの条

2006-03-19 19:34:35 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今回の旅の第一の目的がイギリスの博物館事情の視察であることは既に述べた。その中でも大英博物館と並んで楽しみにしていたのがヨルビックバイキングセンターであった。


(ヨルビックヴァイキングセンター前にたくさんの日本人学生が列をなしていた。それほど一般にも有名だとは知らなかった)

 お亡くなりになった佐原真さんの紹介でも有名だが、私は親友から一度は見なければならない博物館として心にたたき込まれていたので、何が何でも見に行くことにしていた。
 但し、本当は展示館としてのバイキングセンターよりも考古学資源センターに行きたかったのだが、残念ながら間に入ってくれるはずの人とコンタクトが取れず、おまけにヨークに入ったのが土曜と日曜だったこともあり、伺うことができなかった。残念!
 さて、バイキングセンターに入るとまず驚かされるのがタイムマシーンに乗って地下探検に進む装置である。もちろん子供だましの装置で、現代から過去へと男女二人のキャラクターが少しずつ古代へと進むたびにタイムマシーンが振動するのである。でも初めての子供達には不思議なイメージを与えるらしく、最初お騒ぎしていた子供も次第に過去へと吸い込まれていく。そうこうしている内にバイキングの時代に到達。特殊なタイムカプセル仕立ての電動カートに乗って、10世紀のバイキングの遺跡に向かう。全てが発掘調査の成果に基づいて復原されていると言うが、その根拠はどこにも示されていない。でも、子供達にはそんなことはどうでも好いことかも知れない。
 日本語ガイドも付いたカートからの説明を聞きながら、次第に過去の町の中に入っていくとあちこちに復原されている人形達が動き、ご挨拶をしてくれる。想像以上に手の込んだ復原である。僕の期待はトイレ!枝を編んだ囲みの中でおじさんが一人唸っている。もっと強烈な臭いがするのかと思いきやさほどでもなくがっかり!?それにしてもこの当時のバイキングはトイレをこんな風に隠していたのだろうか??そこが大いに疑問だった。


(これぞヨルビックの真骨頂!臭いのする空間?!どんな臭いって?これ何か分かる??!)

 あちこちの町並みを移動するうちにあっという間に再びタイムトンネルに入り、その先には1970年代の発掘現場である。これだけの装置にしては少しがっかり!何故か?
見せるだけだから。もうこの種の展示方法も老朽化しているのかな?!私ならあちこちでカートを自動停車させ、クイズを出して答えが合ったら別の世界へ進めるように考えるがな・・・・。
 とにかくあっという間の見学であった。期待通りというのか、想像通りというのか、ほぼ予想通りの展示施設であった。その後の遺物展示コーナーが、暗いのが困りもの。私のように目の悪い者には展示解説が極めて見にくく苦痛だった。そうそう、思い出した。イギリスの展示品のキャプションは番号方式で統一されている。遺物の横に番号が付され、ケースの一番手前にまとめて解説がある。これだと確かに遺物は見やすくなっている。難しいことをきちんと知りたい人は番号をたどって解説を読んで下さい、という感じである。少し面倒だが、これもいいかも。でも、もう一工夫ほしいような・・・。


(バイキングおじさん?の作るコインコーナー。大人の方が熱心だった)

 展示施設は期待はずれ、出てきて入ったミュージアムショップも今ひとつ。今回のイギリス訪問で、ミュージアムショップがましだったのはロンドン博くらいだが、それでも物足りなかった。今のところ世界の博物館を訪ねて(大袈裟かな?全部でせいぜい10カ国しか行っていないのに)これは!というミュージアムショップに出会ったことがない。私のイメージならもっとおもしろアイデアを出してあげるのに。

出てくるともちろん学生達はもういなかった。何かのツアーででも来ていたのかしら。その後ヨーク市内の遺跡巡り。ニューカッスルに行った後にもう一度ヨークに戻り汽車に乗るまでの半日間をヨーク城の城壁巡りに費やした。これはなかなかのもので、別にご紹介することにする。


(ヨークシャー博物館の秘密の部屋?に置いてあったイギリスの壺G??やはり酒器だという)

是非ヨークに行かれる人はまずヨークシャー博物館に行って、旧石器から近代までのヨークの歴史の流れを遺物でたどってからヨルビックに行かれることをお薦めする。とにかくヨークシャー博物館は人がいないし、展示も古風で、ほとんど昔の「県立博物館」といった感じなのだが、資料は豊富!!
なお、もちろん、ヨーク市内はとてもこじんまりしていて綺麗!これだけの観光客がいるのにどうしてこんなに綺麗なのか不思議!!


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(ヨークからニューカッスルへの車中で検札に来た粋な車掌さん。イギリス人てどこでもそうだけれど、なかなかウイットに富んでいることが判明。意外だった。)

分布調査報告-2 徒労感の増す毎日の条

2006-03-19 17:55:21 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 昨日の午前中は、一昨日歩き残した旧員弁町の南端の石仏(いしぼとけ)を中心に、午後は中部にあたる上笠田(かみかさだ)を中心に歩いた。
 しかし一番ありそうなところに悉く公共施設が新築されているのだ。どの施設も建築前に発掘調査をしたという記録も記憶もない。以前から、石仏では遺物が比較的多く出ると「員弁町史」などに記録されているのである。ところがなんと、その地点には立派な中学校が直ぐ近くから移転されて建設されているのである。移転なのだから、発掘調査または試掘調査をしてからの建設は十分可能だったはずである。法律上は遺跡として周知されていなかったのかも知れない。しかし、自らの手で編纂した「町史」が遺跡の可能性を指摘している場所である。どうして発掘調査を実施して、自分たちの町に新しい財産を殖やそうとしなかったのだろうか。どうして県は指導しなかったのだろうか。

 実際のところ、今回わずかに残された周辺の畑を歩いても数片の須恵器が拾えるのである。明らかにここは奈良時代以前に人々が生活を営んだ場所であるに違いない。いや、場合によっては、員弁郡の中心地がこの辺りにあった可能性も十分に考えられる(なんとこの直ぐ近くにはいなべ市役所の庁舎が美しい姿を見せている)。
 実はその前日も、、御園地区を歩いたのだが、その中心部に真新しい高等学校が建っていたのである。ここでもやはりわずかな畑地から若干の古代の土器が拾えた。きっと大規模な遺跡だったに違いない。場合によっては伊勢神宮の伊勢国支配の一拠点が分かったかも知れないのである。
 一体これはどういうことなのだろうか?合併したのはつい最近のことだからそれ以前の問題であろう。つまり旧員弁町の時代に文化財保護行政は全くなされていなかったとしか言いようがないのである。もちろんいうまでもなく文化財担当者は0であった。合併後に旧大安町の職員が広大な新いなべ市全体の文化財行政を一人で任され、詳細分布調査をやれと言うことで実施しているのが現在の状況である。
 しかし、分布調査をやろうにも大半の農地はほ場整備が終わり、有力な遺跡候補地には公共施設が建っている。これでは遺跡がかわいそう!!せめて県が積極的に指導し、県から職員を派遣して発掘調査を実施していれば、こんな惨状にはならなかったと思うのだが・・・。悲しい!!

 そんな中、学生達が一生懸命歩いても一日に拾える遺物の量は知れている。ただひたすら地面を見ながら歩くのは実にきつい作業である。おまけに昨日は午後から雨が降ってきた。年末の大雪で作業が遅れ気味だから、本来なら冬の雨の中での分布調査は身体をこわすから中止なのだが、長靴を準備して歩いたのだ。しかしこれがまたなかなかの重労働である。片手に傘を持ちながら、柔らかい水田の土を踏みしめながら、小さな破片も見逃すまいと下を見ながら歩く。体中が緊張しているのだろう、次第にあちこちが硬直してくるのがわかる。軟らかい土から長靴の足を抜こうとすると結構な力がかかる。これを繰り返すのだから、低い階段を何度も上がり下りしているような状況になる。終わった時には足腰どころか体中に疲労感が充満する。
 分布調査を始めてから3週間、学生達の疲労もピークに近づいている。せめて珍しい遺物でも拾えればまだ元気の出しようもあるのだが・・・。なんとなく徒労感が身体に押し寄せてくる。
 
 ここでも地方自治体が埋蔵文化財の発掘調査を主導する問題点があるように思う。県下の全市町村に専門職員が複数いる自治体もあれば、三重県のように市においてすら一人もいないに等しい自治体がある(形の上ではいることになっているのだが・・・)。こんなことになる前にどうして国も、県も対策をとってこなかったのだろうか。分からない。
 日本の埋蔵文化財行政は都道府県によって極めて不均衡な状況にあることは十分承知していたつもりであったが、今回の分布調査を通じて、その是正がもう不可能なところにまで来ている、つまり手遅れだと言うことを思い知った。果たしてこの危機感が全国の考古学関係者及び「発掘調査技師」にあるのだろうか。恐ろしいことだ。

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London Report-2 ロンドンウオール尋ね歩きの条

2006-03-18 06:34:09 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今回のイギリスでの調査の目的の第二は歴史遺産の活用状況を調査することであった。予定した見学地はロンドン城城壁(ロンドン塔を含む)、ストーンヘンジ、ヨルビックヴァイキングセンター・ヨーク城及びヨーク城内、ハドリアヌス長城及び関連施設である。


(ロンドン博物館周辺に集中して遺る城壁のコーナー部)

 日本において埋蔵文化財の調査が行政主導でなされていることは周知の事実であろう。しかし、調査によって様々な歴史事象が解明されながら、大半の遺跡は調査後直ぐに破壊され、再び目にすることはない。こうして破壊された遺跡はここ30年ほどで一挙にその数を増し、100万カ所を超えるに違いない。極めてゆゆしき問題でありながら、あまり俎上に載ることはない。
 しかし、中には関係多方面の努力によって史跡指定されるなどして遺される遺跡も年間十数件はある。史跡指定後直ぐに史跡整備に入る例も相当数になり、それなりに「史跡公園」の数も質量共に充実しつつあるというのが現実である。ところが、問題は整備後の活用である。もちろん整備方法そのものにも大いに問題がある(文化庁ご指定の特定業者による金太郎飴式整備こそ大いなる問題であるが、これについてはまた別に触れることにする)。
これら保存後の遺跡の整備・維持・活用がイギリスではいかに進められているのかに、大いに興味があったのである。特に遺跡の発掘調査の跡が地下保存され、その一角が立体的に復原され、見学可能だというヨルビックヴァイキングセンターには是非とも行ってみたかったのである。ヨークでの状況は後日報告することにして、今回は日程通り、まずロンドン城の城壁を尋ね歩いてみよう。


(まさにビルの谷間に遺る城壁)

 ロンドン城の城壁は様々な解説書によると市内各所に残されているという。どこから手を付けようか迷ったあげく迷い込んだ?のが先のロンドン博物館である。博物館の窓の一つから遺跡を眺望できるように工夫されており(そもそもロンドン博物館自体がこの遺跡をモチーフにしてデザインされていることを後で知った。)、博物館がロンドン城城壁のガイダンス施設としても機能していることがわかる。
 ただ少し残念だったのは、私達が博物館の横の城壁を訪れている間、見学する人はわずか一組の老夫婦だけだったことである。博物館に喧噪をもたらした子供達の一群も(まだ難しいと判断されたのか)、遺跡には出てこなかった。


(市内のど真ん中から発見された寺院跡は住友ビルの前に移築されていた)


 城壁は断片的にビルの谷間を縫うように点在していた。詳細は不明だが、ロンドン博物館付近に残されていた城壁は、城壁に取り付く施設が内部に向かって伸びているようだが、直ぐ横を通る道路はかさ上げされ、建物の二階付近を通っていた。遺跡の保存の処置のためなのか、たまたまなのか、誰に聞くこともできなかったが、少なくともある部分では城壁を真上から眺めることができた。言ってみれば、江戸城や大阪城の城壁や大名屋敷の城壁が残っていれば、それをビルの谷間に遺したような感じである。もちろん各所に遺跡の説明板がおかれている。行き交うサラリーマンはもう日常のことで見慣れたのか、私達が一生懸命メモを取っていると、不思議そうな目で眺めていく。

 圧巻はロンドン塔付近に至る城壁であった。ロンドンの旧地形が良く頭に入っていないせいでその遺構があるときは地上に、ある時はビルの地階に、そしてある時はビルの中に遺されていることをなかなか立体的に頭の中に描けないのであるが、城壁が立体的に遺存している部分はとにかくビルの間であろうが中であろうが遺そうという姿勢のようだ。そのうちの一つがどこのビルの中なのかなかなかわからず尋ね歩いた。ようやく見つけたのだが、今はセキュレタリ-の関係で見せられないという。残念だった。城壁は基底部分が石材を使っているが、その上部は煉瓦である。ロンドン博物館付近での説明によると前者の上に継ぎ足したようで、時期差があるようである。残念ながら石材使用部分はほとんど残っておらず、その本来の姿を見ることはできない。
 城壁の所々には円柱状に伸びる二階建ての空間が取り付いている。もちろん二階の床はもうないのだが、恐らく城壁を守る櫓のような機能を持っていたのであろう。縦長の十字形をした矢狭間が各所に空いており、日本の近世城郭と同じ機能を持っていたことがわかる。


(残念ながらロンドン塔には入時間切れで入れなかった。)

 驚いたのはどこも塵一つ落ちていない美しい状態で管理されており、日本の保存例のように現地表面より下に遺跡が遺されると、日常生活者が次々とゴミを投げ込むのとは大きな違いがあった。見学者がほとんどいないのはあまりこれがガイドブックに載っていないのと、歩くには相当な時間と地理的知識がいるからだろう。しかし見方を変えればこれらがほとんど現在のビル群に溶け合っているともいえる。現代とイギリス中世社会が一体化しているとも言えよう。日本人観光者がロンドン塔を除いていないのは言うまでもない。残念である。

(闇に浮かぶロンドンブリッジとテムズ川。朝から歩きづめで疲れたが、満足感で一杯だった。)



(残念ながらこのビルの地階に遺されているという城壁は見ることができなかった。)


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分布調査報告ー1 幢管支柱発見!の条

2006-03-17 05:45:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
暫くイギリスネタで行こうと思ったのだけれど、思いがけず、ここのところ昼間はずっと歩いている分布調査で楽しい発見をしたので紹介してみようと思う。


(いなべ市北金井にある村社金井神社。ポールの高さは12mくらいある)


昨年末からいなべ市の詳細分布調査を市教委の依頼で行っている。
私の最初の教え子が市教委で文化財担当として仕事をしている。そんな関係で、合併して遺跡地図すら整備されていない市の各所の詳細分布調査をしなければならなくなり、私のところへ頼み込んできたのである。彼女が採用された最初の行政は旧大安町で、大安町は私にとって最初の三重県での発掘調査の地であっただけに断ることなどもちろんあり得なかった。


(明治9年建立とある支柱の一本)

いろいろな意味で大変思い出の多い町である。その後に古墳時代後期にまで研究領域を広げてくれた宇賀新田古墳群の存在、古墳の調査を通じて知り合った大安町長日沖氏のこと(現いなべ市長)、調査に参加したたくさんの学生のこと、台風の中遺跡直ぐ横の集会所に一人泊まったこと等々・・・。

そんな町が周辺の町と合併しできたのがいなべ市である。言うまでもなくここが、伊勢国員弁郡の旧郡の大半を含む新行政区画であるからである。どうしてひらがなにしたのか、実際はよく知らないが、恐らく旧町に員弁町があったからだろう。ほぼ旧郡を丸抱えする新市は広大な面積を占めている。その全てが正確な遺跡地図を持っていないのである。その中をたった4年で調査して遺跡地図を作ろうというのだから所詮無理がある。現に、同時並行して進められている三重県亀山市の旧関町域はそこだけで同じように詳細分布調査をしているのである。おまけに、亀山市へは、分布調査担当として県から職員まで派遣されている。にもかかわらず、いなべ市に対する県の指導は、三重大学に頼らず自分でやれ!である。行政の不平等この上ない。しかしこのような極めて恣意的な「指導」のまかり通るのが現在の行政主導型埋蔵文化財行政の現実である。


(支柱受けの「礎盤」はほら、浮いていて、石がかましてあるるでしょう)


(わかってもらえます?このように石の軸と軸受けになっているんです)

それはさておき、厳しいスケジュールの中、数少ない三重大学の精鋭?達が寒風吹きすさぶ鈴鹿山脈の麓で連日歩き回っている。まさに雨の日も、土日もなく毎日である。何故こんなことになったのか。実は今年の異常な大雪が原因なのである。元々ここは豪雪地帯であった。しかし近年の暖冬によりほとんど雪が積もることはなくなっていた。ところがである・・・。

雨なら分布調査はできなくはない。しかし雪ではどうしようもない。そのしわ寄せが今になって表れたのである(三重県の遺跡に興味のある学生さんいません?)。

前置きが長くなった。
一昨日から学生達と歩きながら面白いことに気付いた。いなべ市にあるどこの神社も必ず立派な幢管支柱が立っているのである。それも全て同じ企画の高さ12m前後のスチール製のポールを本来の幢管支柱の石柱を補強して立てられているのである。神社自身は村社などいずれも小さなものばかりなのだが(ただしいずれも伊勢神宮の御厨との関係を主張している)、幢管支柱はよく整っている。おまけに、どうも現在に至るまで石柱を使って幡を挙げ続けていたらしいのである。

特に驚いたのが今日訪れた村社金井神社であった。相変わらず、新しく立て替えられて、常置されている幢管支柱は村中から実によく見える(だから分布に散った学生達の集合場所にもなる:なるほど!!伊勢神宮の威厳を村中に示すために立てさせたのだ!納得)。ところが境内に入ってみると何故かもう一組の幢管支柱がある。こちらの方はもう使わなくなったのか(どうも平行して立っていないから目的が違うのか・・・)新しいスチール製のものはなかった。これがラッキーだったのだ。この郡内にある幢管支柱がどうも同じ構造をしているらしいことはわかっていたのだが、何せ今のポールを固定するために金属の頑丈な金具が取り付けられていて細部がよく見えなかったのである。ところがこれにはそれがなかったために実に良く構造を確かめることができた。

一番驚いたのが、ポールを固定する下部の石材の構造であった。最新のもので固定された支柱は下部が全て破壊され、コンクリートで固められていたため見ることができなかったのだが、これは実によく観察することが出来た。

何故かこの石は両側の支柱に挟まれて地面より若干浮いているのである。その下には石が挟み込まれていて、さらにこれを支えている。なぜ?よく見てびっくりした。両側が単に支柱に差し込まれて固定されているのではなく、回転するようになっているのだ。だから長年の使用ですり減って突起がはずれそうになっている。
つまり、幢管を立てる際、まずこの支柱受けを回転させて穴が地面と平行になるようにし、そこにポールを差し込んだうえでポールをみんなで引っ張り、立てるのである。

たまたま農作業をなさっていた初老の村人の話によると昔は立てるのが大変やったと仰っていた。
「何せ、昔はあれよりももっと高かったもんな」という。エエッツ今でも12mは優にあるのに、これより高いの?ホンマ?と思った。

ところがさらに驚いたことにその木製の支柱がちゃんと保管されていたのである。神社の横を歩いて気付いた。なんか長い屋根の構造物がある。何だろうと思って近づくとまさに支柱だったのだ。根本になる太い部分は、まさに先の石の穴にはめ込むために一段補足削り出されていた。図ってみてもっと驚いた。23mもあるのだ。柱の重量だけでも相当のものである。村人の話がよくわかった。こんなの民俗資料として国の重要文化財に指定できないものかしら!とまで思った。いろんな調査をしていて、偶然自分の興味のある資料(と関連する資料)を見つけた時の喜びはこの上ない。至極の時を過ごさせてもらった。


(そしてこれが問題の支柱。長さの雰囲気をどのように写真にしようかと苦労したんですがね・・・)

長岡宮大極殿の前で発見された宝幢跡については吉川真司さんの詳細な研究がある。両側の支柱は常置で、中央の幡を取り付ける柱だけが正月前に準備され、立てられたという。考古学的にも、支柱の堀方は何度も掘り返した痕跡を見せない。でも、古代でも9mを小砂が伊橋等をどうやって立てたのだろう?こんな疑問がつきまとっていた。昨日のこの設備を見て納得した。もちろん古代の幢管は木製であろうが、下部に金井神社例と同じように回転する木製の「礎盤」が付けられ、これに同じように幡を飾り付けた上で柱を引っ張り上げるとすると何とかなるに違いない。
「でもそんな頑丈な回転物を古代の技術で造り得ただろうか」構造物に対する新たな課題も見つかった。

実に有意義な「分布調査」であった。貴重な資料として報告書に記述しておこうと思うのだが、果たして国や県は認めるかな?

最後に一言苦言を。こんな素晴らしい民俗資料があり、その意味をそれなりに幢管支柱については一家言持っている(つもりの)人間が語っているのに、学生達は何の興味も示さないのである。図を採ろうとも、写真を撮ろうとも、しないのである。支柱が見つかって、メジャーを持ってこいと言っても「分布とどう関係あるの?」というような顔で、車から降りてこようともしない。やっと来ても、どこを測るのかも分からないらしい。私の教育が悪いのだろうが、寂しい限りである。分布調査は地面に落ちているものを拾うだけではないのだとあれだけ言っているのに・・・(実は長くブログを中断していた背景の一つがここにもある。教育と研究。特に今の若者に果たしてどれだけ厳しい学問研究のための基礎教育ができるのか・・・、果たして自分が本当にこの職業に向いているのか・・・、等々。空回りしてバタバタしている自分に疲れる!!)。

ロンドンレポートはまた明日。その予告編を写真で・・・「ロンドンウオール尋ね歩きの条」


(実はイギリスにおける文化遺産の保存と活用の実態調査が渡英のもう一つの大きな目的なんです・・・・)

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London Report -1 ロンドン博物館の喧噪~子供でにぎわう博物館~

2006-03-16 06:31:19 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
本当に慌ただしい出発だった。

2月24日まで三重大学久留倍遺跡第2次発掘調査現場で調査をしていた。何とか前半部の調査を終わらせ、直ぐに仙台に飛んだ。この間旅行手続きを現場で進め、イギリスでのホテルも決まり行けそうな雰囲気になった。仙台では二日間にわたり第27回城柵官衙遺跡検討会に出席し、二日目には若干のコメンテーターの役割もこなし、直ぐに山口に向かった(ところがここで事件!シンポジウムが延びたために予定の汽車に乗れなかったのである。どうしよう!「飛行機で行けるでしょう、福岡まで飛んで、山口に戻ればいいじゃないですか」こんな妙案を出してくれたのがR博のNさん。お陰で夜の23時には山口のホテルに滑り込むことができた。)。

そして27日が研究会。終わって直ぐに京都に帰り、京都の研究者仲間でやっている『延喜式』研究会に出席。NJ大学のYさんの修論報告を聞く(すごく面白い内容”早くどっかへ書きなさいよ、と激励。ここで紹介したいくらい!)。終わって直ぐ家に帰って着替えだけバックに詰め込んで準備完了!??明くる朝大阪空港から成田へ・・・・。

2月28日午後12時過ぎ成田を発った飛行機は12時間頃ロンドンへ。9時間の時差だからイギリスはまだ28日の昼の三時頃、ロンドンヒースロー空港に着いた。初めてのイギリスへの旅の第1歩である。


(羨ましい子供達、大英博物館で寝そべってお勉強!いいな、うちの学生もこんなことができたらもう少しましなのに・・・?)

イギリスの第一印象は意外なものだった。

「町がとても綺麗」ということだった。
約1週間ロンドン、ソールズベリー、ヨーク、ニューカッスルとイギリスの中・南部を中心に回ったが、都会も、農村も、港町も、鄙びた遺跡の周りもどこに行ってもゴミが落ちていないのだ。全く想定外の印象だった。アメリカとえらい違いだ!!

今回の旅の第一の目的は大英博物館を中心とした博物館の活用状況を見て回ることにあった。

いうまでもなく大英博物館は世界一の博物館である。特にエジプトやローマ・ギリシャの遺品のすごさはこの博物館をおいて他にないだろう。訪れた日も世界中の人々が朝一番から開場を待ちわびて広いエントランスに溢れていた。若い日本の学生達の姿もあちこちで見受けることができた。そして期待通り!先生に引き連れられた小学生の大群が押し寄せたのである。

大英博物館は無料である。だから子供達を何度でもつれてくることができる。日本の博物館が中途半端に有料で、結局子供達を閉め出しているのとは大違いだ(例え10円でも100人連れてくれば1000円だ。学校の先生がポケットマネーを出すわけにも行かない。どうしてこんな馬鹿げたシステムなんだろう、日本は?)。

すごい広さだからとても一日では見ることができないよ、と言われていた。その通り!1日では見ることができなかった。これも噂通りであった。

但し、少し事前の印象と違ったのは、物はすごいが、博物館としては極めてオーソドックスな展示手法をとっていて、今時のカラフルな説明板やイラスト等を交えた解説はほとんどなかった点だ。とにかく世界中の一級品を集めてあるのだから「黙って物を見ろ!」という感じであった。そしてその多くが海外からの「戦利品」である。どこか違うよな!と心でつぶやいた。

しかし、世界一のその歴史遺産を小学生の時期から何回も見に来ることができるロンドンの子供達は幸せという以外にない。
学校で渡されたらしい数枚の質問用紙やスケッチブックを片手に、鉛筆を持った子供達がそこら中でメモを取りまくっている。なんと!あのギリシャのパルテノン神殿を復原した展示の前で、子供達が寝そべってスケッチを描いているのである。これには参った!もちろん怖そうな警備員さんも、先生も誰も文句など言いはしない(そしてもちろん博物館は極めて綺麗なのだ)。

本当に噂通りだった!!感激した。

翌日は少しゆとりがあったので、ホテルの近くのロンドン博物館から市内を縦横に巡る城壁(ロンドンウオール)を見て回ることにした。ロンドン博物館の存在は恥ずかしながら、ガイドブックでホテルの周りの地図を見て博物館とあるから行ってみようか
「それにしてもロンドン博物館とは大きな名前を付けて・・・」という程度の期待度だった。


(ロンドン博物館は子供達でごった返していた。学芸員もあちこちで話しに夢中だった。)


あまり大した期待もしないでミュージアムの扉を開いたのだが、これがとんでもない間違いだった。ガイドブックが信用できないことはもちろん承知しているつもりなのだが、これはまさにその典型だった。この頃観光学部なる学部ができて、観光を学問にしようという動きがある。三重大学もその攻撃にさらされている。それはそれで、別に構わないのだが、どうして日本の観光業者は金太郎飴なのだろうか?結局ここでも商品リサーチが全くできていないのだと思った。こんないい博物館を紹介しないなんて、くそ食らえ!ダ(もっとも日本の無気力な学生なんかに来てほしくはないけれど)。

ロンドンに行ったらBritish MuseamとLondon Museam!!これを忘れないでほしい。


(こんなに活き活きとした子供達の素顔が日本ではなかなか見られない。)
もちろんガイドブック頼りの日本人観光客は0だった。

ロンドンの歴史を旧石器時代から現代まで時間の流れ通りにきちんと展示しているのだが、随所にジオラマなどの様々な工夫がなされている。まさに現代的な博物館であった(ミュージアムショップも充実していて、大英博物館よりよっぽどいい本やグッズがあった。これだけでもおすすめ!!)。

これにやはり学校からやってきた子供の「大群」(すごかった)が食いつくのである。

一番の人気は天秤ばかりの復原コーナーであったが、よく観察すると、展示方法だけが要因で子供達が関心を持っているのではないらしい。子供達自身が熱心なのだ。1・2年生としか思えない小さな子供が、先生に一生懸命質問をしている。先生も子供達の目線で、地べたに座り込んで一緒にスケッチしながら話をしている。決して教えるという感じではない。

そして最も強烈な印象を与えたのが学芸員だった。

学芸員とはこういうものだ!と見せつけられた。まさにプロの学芸員だった。
日本の博物館の学芸員は関心を持つ分野への研究には熱心だが、実は展示や、普及活動は片手間という人が多いように思う(もちろんそうでない人もたくさんいることはよく知ってますよ、だから怒らないでね)。学校に盛んに連絡を取って、資料館・博物館へ足を運んでもらうように努力している姿は十分理解しているつもりです。

でもどこか違う!どこが?

子供達と解けあって一緒に学ぼうとする姿勢だ。

ところがロンドン博物館の学芸員は子供達にいかにロンドンの歴史をわかりやすく伝えるかに集中していた。ある場面では語り部となり、服装までその当時の姿にし、登場人物になりきり、子供達をストーリーの中に引き込んでいく。子供達も完全に学芸員が醸し出す昔の世界に浸りきっている。一緒に声を上げ、質問には次々と手を挙げ、笑い、泣き、後ろで見ている引率の先生方間満足げだ。

こんな学芸員がいるからこそ、子供達の立場に立った展示ができるのだと理解した。

日本の博物館改革のヒントを得た大収穫の旅の始まりだった。


(ロンドン博物館の直ぐ横(博物館の一室からもそれを見ることができる)にはロンドン城の城壁の一部が残されている。私達は城壁を伝ってロンドン市内を歩き回った。あの有名なウオール街はまさにこの城壁のまっただ中にあるのだ!)



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近況報告   「yaaさんの宮都研究」出発!の条

2006-03-13 05:13:49 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
丁度1ヶ月がたちました。別にこの日をねらっていたわけでもなく、気付いたらこの日だったというだけです。実際のところ丁度4週間が経ちましたと記すべきところでしょうから。

やっと重圧から放たれつつあるように思います。
正直、もうこのまま消えようかな、とも思いました。
そんな暇があるのなら書くべきことがたくさんあるじゃないか!と自問自答しました。
一方で、「学問」は書くことでもあるのだから、論文が書けなくても毎日書いていないと腐る!という危惧もありました。

(第1日目はあこがれの大英博物館)

しかし何よりも様々な重圧が重く重く私の肩に、頭に、心にのしかかっていました。
これを軽くするには少しずつふりほどいていかなければ・・・とも思いました。
ですから、10日ほどのイギリス調査も止めようか、と強く思いました(本当は9日から出かける予定だった韓国慶州の調査は残念ながらきゃんせるしました)。
 実際キャンセルの打診を共同調査の友人にしました。

 もちろん友人は私が重圧から逃げたいからそのようなことを言い出したとは知りません。
 ですから、猛反対しました。いろいろなところに影響が出るからそれだけは勘弁してくれといいました。
 そりゃそうですよね。年度末間近のもう航空チケットも届いているというのに・・・・
 キャンセルはないですよね。でも実際行きたくありませんでした。イギリスへ。

 どうでも良くなっていました。

 あなたの研究にどれだけの意味があるの?と何度も自問自答しました。
 それ以上に周囲の様々な方々にご迷惑をおかけしているではないですか!
 こんな声が聞こえてきました。やっぱり・・・・

 でも友人はそんなことお構いなしに「ダメ!!」の一点張り。元々出発の二日前に言うことではありませんから、憂鬱な気持ちのまま、準備に取りかかりました。

 取りかかるとさらに憂鬱になりました。

 友人曰わく「まだ○○さんと連絡が取れないの」
 「エエッツ!?・・・・」絶句しました。
 「山中さん、アメリカ行ったことがあるんでしょう!大丈夫よ!!」
 「(そんなアホな)私が行ったアメリカは日本史研究者のまっただ中、みんな日本語が日本人よりうまい!?ホンマに私英語なんてできまへんしね!・・・」
 そんなことお構いなしに
 「ホテルどうしましょう?」

 そそそう言えば・・・。みんな彼の友人のイギリス人に頼むつもりだったから、泊まるところもない・・・。
 それから二日間いつも頼む旅行社と大騒動。でもさすがはプロ、あっという間に最善の方法を採ってくれた。


(二日目はあこがれのストーンヘンジ)

①ホテルは彼の勘で日本の旅行社がよく使う三つ星程度のホテルを日本で予約していく(予約チケット?見たいのものをくれました。これをホテルに見せれば大丈夫やから!と教えてくれました。)。
②朝ご飯はホテルのバイキング!
③旅程を聞いていると(これも出発直前に決定)丁度いい「Brit Rail」チケットで4日間有効というのがあるからこれを持っていくといいですよ、という。イギリス国内の旧国鉄(要するに鉄道)は乗り放題で便利だからというのが理由。
④ロンドンは地下鉄が発達しています。ガイドブックも買っておきましたから、これを見ながら地下鉄を利用して下さい。
⑤食事はまずいし、高いけれど、お金さえあれば後は何とかなるでしょう。何せ英語の国やから!???


(4日目はヨークへ)

 この処置はまさに最善!!だった。

 ヒースロー空港に降り立つとおそるおそる地下鉄のチケット売り場へ・・・。日本人らしき観光客(夫婦)がチケットを買っているので見よう見まねで切符購入に挑戦。

 日本とは全く違うゾーン式の運賃表だが、一応売り場に行き先毎に値段も書いてある。
 換えたばかりの紙幣やらコインやらを用いてなんとか購入。

 行き先はキングスクロス(後で知ったのだがどうもここはハリーポッターの出発駅らしい。 註 私はイギリスの小説は嫌いでほとんど読まない!特にハリーは面倒で嫌い!!もちろん映画も見ない)・・・・・不安の旅の始まりでした。

 珍道中の詳細は追々紹介するとして、結論として、このイギリス旅行が私を軽くしてくれました!
 旅行の中程にわかった、千葉のR博のH教授からの帰国直後に絶対原稿を出せ!という厳しいお達しに驚き、ナナナントイギリスで徹夜まがいの少睡眠で、明かりがあると寝られないという友人(お金がないので少しでも安くあげようと旅行は友人といつも同じ部屋でした)に気遣って、時にはバスタオルを頭にかぶってパソコンに向かいました。もちろん帰路の飛行機は12時間という貴重な時間ですから、ここでもパチパチ・・・。

 そんな訳のわからない旅が軽くしてくれました。そして帰国後に届いたメールのある一言が私を救ってくれました。

 で、今日に至りました。前から表紙を自分で作りたいと思っていたので、有料のサイトに入りました。そしてタイトルももう少し気楽な、片意地張らないものにしようと変えてみました。

 どちらも、も一つ気に入ってはいないのですが、マ、暫くこれで行きます。

 イギリスから帰ったのが8日、10日の朝がH氏の原稿締め切り時間。そして11日が卒論発表会。12日が山梨の帝京大学文化財研究所でのフォーラムで発表。終了後直ぐに三重に戻ろうと急いだのが悪くて、暑い暑い東京八王子で汽車を降りた時にジャンバーを社内に忘れ、忘れ物預かり所へ駆け込み、何とか手続きをして津へ、大学に戻って明日の分布調査の心の準備をしている内に未だに続く時差ぼけのために仮眠。今は目がランラン、間もなく員弁へ車で学生を連れて出発。夜には仙台から来られる今泉さんと久しぶりに奈良で宴会。14日は飛鳥の最新の発掘現場を林部さんの案内で今泉さんと一緒に見学。これまでならこうしたものが全て肩に重くのしかかっていたが、ようやく楽しみに感じられるようになってきた。


(最後がニューカッスルのハドリアヌス長城の東端の城塞跡 この美しい空と遺跡が心を洗ってくれた!!)


有り難う、イギリス!

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