yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

超多忙!駄句で綴る1週間の条

2008-11-29 08:57:15 | yaasan随想
 志摩の海女 藻塩焼く絶ゆ 道の壁 
(しまのあま もしおやくたゆ みちのかべ)
 




 11月28日午前、久留倍官衙遺跡の学術調査現場を見学して、目の前に聳え立つ道路の高架橋に、かつて眼前に広がった伊勢の海の消えたことを悲しんで詠みました。20081128


 ○ 高架橋 伊勢の荒波 打ち消して  
  (こうかきょう いせのあらなみ うちけして)

 同じく、久留倍遺跡の現地指導に出席して圧倒する高架橋に委員の皆さんが声を失って。20081128

 
 (遺跡には似合わないコンクリートの巨大建造物が林立していた。)
 
 ○ 菊の香の 漂う空に 蘇り
  (きくのかの ただようそらに よみがえり)

 11月19日は妹の誕生日である。生きていたら58歳になる。今頃は今年逝った母と楽しい会話を交わしているに違いない。20081119


 ○ 新嘗の 日に蘇り 涙する
  (にひなめの ひによみがえり なみだする)

 206年11月23日私の大恩人である高橋美久二さんが亡くなられた。11月23日を迎える度に高橋さんの知力溢れた研究指導、調査指導が甦ってくる。その構想力、あの計画性、そしてその全ての前提になっている能力。どれも63歳で失うにはあまりに早すぎたお命である。20081124


(東寺御影堂。ここも子供の頃の遊び場の一つでした。なにせ転勤、転職の大好き???な私の父は度々家を移り変わりました。なにせ小学校4年生までで私の記憶するだけで10回は替わったのですから。小学校も5校転校しました!その一つがこの東寺の直ぐ近くの南大内小学校でした。)

 ○ 新嘗の 香りに目覚む 美まし国 
  (にひなめの かほりにめざむ うましくに )

 11月は私にとっての忌み月でもある。学恩篤き高橋美久二さんが亡くなられて早二年。ここのところの多忙でお参りにも参れず。お許し下さい。20081123


 ○ 五重の塔 葉落つる枝に 凛として
  (ごえのとう はおつるえに りんとして)

 山口大学の橋本義則さんの科研で本年度は日本の宮都を探訪している。わずか1週間前には紅葉に染まっていた東寺の五重塔は、葉の落ちたイチョウの木の間に,冬の寒さを貫くように聳え立っていた。20081124



 ○ 枯れ葉舞う 神泉苑の 美しき 
  (かれはまう しんせんえんの うつくしき)

 紅葉がちって寂しいかなと思っていた神泉苑に、地面に落ちた紅葉が降り注ぎ、水面に浮かぶ紅葉に幻想的な美しさを感じて。20081129

 ○ 鍋の湯の 先の古泉の 深き香に
  (なべのゆの さきのこせんの ふかきかに)
 
 神泉苑の側の小料理屋からなべを囲みながら景色を楽しむ人々の心を思いながら。20081129



(私の幼少の頃の遊び場・神泉苑にも行きました。とても懐かしかったです。でもその頃の主舞台も消え、幼稚園の園舎は閉鎖されてうら寂しく建っていました。神泉苑幼稚園を卒園ご入学したのが朱雀第三小学校。ただし一学期で転校して有隣小学校へ移りました。その小学校も今はないそうです。悲しい!!)

 ○ 木漏れ日の 野中古道 やはらかき
  (こもれびの のなかふるみち やはらかき)

 同じ研究会で枚方市の西田さんのご案内で交野の百済寺を見学した折り、桓武天皇が百済王明信に送った歌を思い起こしながら・・・。20081125

 ○ パソコンの 画面に撥ねる 氷雨の陽
  (ぱそこんの がめんにはねる ひさめのひ)
 
 本当なら今日は研究者仲間と長岡宮・京を歩く予定だった。しかし押し寄せる事務仕事が片付かず、泣く泣く大学に留まって月末に出かける中国の出張旅費の計算に明け暮れた。あまりに「お役所仕事」的な、いやある面それ以上の次から次へと出てくる細かな指示にとうとう大声が出そうになった。そんな時、窓には陽が差しながら冷たい冬の雨が通り過ぎていった。とてももの悲しい一日だった。
 その後も雑務や会議は続き、とうとう中国出張の前日になってもまだ仕事は片付かない。とても悲しい!!!20081121-29

 ○ 布勢の皇女 初神嘗の 伊勢の海へ 
  (ふせのひめ はつかむなへの いせのみへ)

 一向に筆の進まない布勢内親王がテーマの論文である。桓武天皇の皇女として二人の内親王が伊勢に赴いた。朝原と布勢である。朝原が陽の当たる斎王だとすると、布勢はどこか月にも似た裏寂しい雰囲気の漂う斎王であった。その生涯はほとんど知られていないが、桓武が彼女をとても大切にしていたことは、770町歩にも及ぶ土地を彼女の経済的基盤として与えたことからわかる。その布勢が群行したのは延暦18年の9月3日。9月は斎月とされ、初めて伊勢大神の神嘗祭に参るために斎王が群行する月であった。秋深まり、そろそろ伊勢湾に荒波が押し寄せる頃でもある。その不安な気持ちは伊勢の海を見てますます深まったに違いない。20081121



 (布勢内親王も通ったのだろうか、今は誰も気付くことなくひっそりとたたずむ羅城門跡である。)

 ○ 教え子と 赤い歯ブラシ 新嘗夜
  (おしえごと あかいはぶらし にいなめのよ)

 二度目の還暦を祝う会が名古屋で開かれた。前回も来てくれた教え子もいれば、今回鹿児島から二人の幼子を連れて来てくれた子、新潟の現場から駆けつけてくれた子もいる。その上申し訳ないことに同僚の山田雄司先生もお出で下さった。還暦といえば赤いちゃんちゃんこだが、ナナナント、60本の赤い歯ブラシに出席できない学生も含めてみんなの暖かいメッセージが書き込まれていた。感謝!!20081123

 

 以上あっと言う間に過ぎた1週間余の日々を歌ったものである。過ぎゆく日々に焦りだけが募ってくる。明日早朝の飛行機で西安に参ります。4日に帰る短い旅です。また帰国しましたら御報告します。とりあえず行ってきます。




 (百済寺西塔跡を見学して)

 紅の 野中古道 今一度
(くれないの のなかふるみち いまいちど)企良
 

晩秋の京都で東人を案内するの条

2008-11-18 22:48:13 | yaasan随想
知人に依頼されて晩秋の京都・平安京を御案内した。

  紅の 木漏れ日満つる 将軍塚
 


 (くれないの こもれびみつる しょうぐんづか)
 
 東国よりの旅人を案内して平安京をみるべく将軍塚にあがった。青蓮院の別院大日堂は予想を裏切る見事な黄葉だった。境内は真っ赤な日傘とかしていた。見学者一同思わぬプレゼントに感動の渦と化した。
 いうまでもなく将軍塚は桓武天皇の命を受けて東北遠征に就き、都人に多くの「朗報」をもたらせた坂上田村麻呂の眠る場所だと信じられてきたところである(近年京都大学の吉川真司さんの研究によって、その墓は東山の裏側、山科の西野山古墓であることが論証された)。京都人にとってはその名を唱えるだけで何となく頼もしく思える地名でもある。
 大日堂の中には二基の小さな古墳が眠るが、もちろんそれらは田村麻呂とは何の関係もない。京都を訪れた人を私はいつもここへ御案内する。その展望台から京都市内(平安京)が一望できるからだ。少し靄っていたが、西山まで見通すことができ一同感動の声を上げた。



  紅葉舞う 将軍塚の 東人 
 (もみじまう しょうぐんづかの あずまひと)






 その後山を降りて東寺に向かった。

  紅葉の 隙間にのびる 五重塔
 (くれないの すきまにのびる ごえのとう)
 紅葉に染まる東寺を散策すると、黄葉の合間に五重塔が見え隠れする。講堂の四天王像、宝物館の兜跋毘沙門天像・・・、を見て異国の風情に浸りながら,はるか1200年の昔に思いを馳せた。





  児らの声 西寺の寒風 さえぎりて 
 (こらのこへ にしでらのかんぷ さえぎりて)
 その後バスで移動して羅城門から西寺へと向かった。もちろん西寺は何も残されていない。わずかに西寺公園に往時を偲ぶ礎石が無造作に置かれているだけだ。久しぶりに上がった西寺公園の土盛りの上で、周りで遊ぶ子供達の声を聞きながら。西寺の伽藍跡はこの公園の南にある唐橋小学校から九条通にかけて眠っている。


 黄葉に 埋る曼荼羅 礎石の上
 

   (もみじばに うまるまんだら もといしのえ)
 東寺講堂が黄葉に囲われ、まるで曼荼羅世界が創建当時の礎石の上で埋もれているかのように見えて。



(東寺の東門を入るとその左手にひっそりとたたずむ宝蔵。校倉造りのその建物は近年の研究によれば平安時代に遡る創建時のものである可能性もあるとか。私の大好きな建物です。側まで寄れないのが残念!!)

  枯れ草に たたずむ我も 豊楽の刻
 (かれくさに たたずむわれも ぶらくのとき)
 丸太町七本松にひっそりと残されている豊楽院正殿の跡を見学しながら。20081117

 企良 

AKIRA さんへの便り

2008-11-14 09:10:55 | yaasan随想
 秋の会に 病告知さる 大刀自の訪 


 (あきのえに やまいこくちさる おおとじのほう)
 
 聖武天皇東国行幸都市交流サミットが終わって片付けをしているとき,お一人の老人が近付いてこられた。毎回のように壬申の乱ウオークに参加される女性である。私と同じ「AKIRA」というお名前だと言う御縁で、いつも歩きながら親しくお話しをさせていただいていた。最近はお見受けしていなかったのだが、久しぶりに会えてとても嬉しかった。

 ところが、お話しする内に、その理由がご病気だったからだという。とても驚いた。お歳は存じ上げないが、恐らく70代後半であろう。これが最後かも知れないので来ましたと仰る。言葉が返せなかった。

 私の義母も同じ病だったが、歳のせいか進行はとても遅かった。だから諦めずに頑張って欲しい、そんな励ましのお便りを後日お送りした。

 いろいろな会をするととても楽しい出会いがある。そのことを学生達に経験してもらいたいから、毎回参加するように言う。でもこんな辛い訪問を受けることもある。これからはもっと増えるのかも知れない。

 でも、人間いつかは死ぬんだということを会に集ってこられるみなさんは実感としてもっておられるような気がする。会に集まってこられる方の大半が定年をはるかに過ぎた高齢の方だ。中には90歳を過ぎて毎回来られる方がいらっしゃる。でもそのどなたもとてもお元気で、活き活きとなさっている。残された生を楽しく、一生懸命生きようとなさっているからだろう。その姿が素晴らしい。

 「AKIRA」さんが病を押してでもこの会に参加されたのもきっとそういう思いからだと思う。そのお顔はとても病を得られているお顔ではなかった。目が輝き、、とても凜とされて、初めて拝見したお着物の姿がとても魅力的だった。

 僕も彼女のような人生が歩めたら・・・、と思った。ますます1回1回を丁寧に、真剣にやらなければいけないのだと再認識した。

 本当に有り難うございました。そして、いつまでもお元気で!!また次回も来て下さいね!!そんな思いを後ろ姿にぶつけた。

 大姉、大刀自はいずれも目上の女性のことをいう。

 久留倍遺跡を考える会 とてもとても素敵な会です。魅力溢れる人々で一杯です。次回のウオークは2月14日鈴鹿国府周辺を歩きます。 

聖武天皇東国行幸都市サミット-8 その後の久留倍の条

2008-11-12 21:30:28 | 久留倍遺跡を考える会
 多事争論 語る人逝き 枯野の国 
 ストーブに 大森の声 重なりて
 


 さて、聖武が去った後の久留倍はどうなったのでしょうか。朝明の頓宮は間もなく解体されたらしく、八世紀末には整然と倉庫群が並びます。朝明郡の正倉にこの地が変化したのです。しかしそれらも九世紀中頃にはなくなり、いつしか忘れ去られようとしていました。その後の久留倍を三重大学の山田雄司先生の語ってもらいました。

 その後の久留倍    三重大学人文学部  山田雄司



 久留倍に所在したと考えられる郡衙が廃絶して以降、この地はどのように利用されてきたのでしょうか。これは難しい問題で、文献ではそれを明確に語る史料は残されていないので、発掘調査の成果を待つほかありませんが、ここでは断片的に残されている史料から、平安期の久留倍の状況について検討してみようと思います。

 〔1〕御厨・御園の成立
 久留倍周辺には東海道沿いに大矢知御厨、鳩野御園、鵤御厨などの神宮関係所領が存在していたので、これらの所領がどのような変遷をたどったのか見てみます。
 『左経記』によると、朝明郡は寛仁元年(一〇一七)に「御願」によって神宮に寄進されました。神郡とは
民戸の租庸調のすべてが神宮に供されたほか、内・外両宮および別宮さらには郡内諸社等の祭祀を支える巨大な神職集団の主要な供給地でもありました。
 その後さらに文治元年(一一八五)に飯高郡が寄進されることにより、度会・多気・飯野・員弁・三重・安濃・朝明・飯高の神郡は神八郡と呼ばれ、伊勢国十三郡中半分以上が神郡となり、公郡は桑名・鈴鹿・河曲・奄芸・一志の五郡でした。
 神郡は、十一世紀に変容を遂げ、神郡内の諸所領が職掌人給田などとして再編されるとともに、本宮庁(禰宜庁)を構成する荒木田・度会氏の領主的所領として御厨・御園が形成されていったと考えられています。
 神宮の所領について記されている『神鳳鈔』で、朝明郡の御厨・御園として確認できるのは以下のとおりです。
小嶋御厨・長井御厨・山村御厨・衣平御厨・保々御厨・鶴沢御厨・宇頭尾御園・鳩野御園・嶋田御厨・田口御園・岩田御厨・徳光御厨・小向御園・池田御園・長松御厨・石田御厨・福永御厨・山田御厨・弘永御厨・坂部御厨・金綱御厨・大矢智御厨・常楽寺御園・長橋御厨・富田御厨・鵤御厨・本能登御厨・吉沢御厨・開田御厨・高野御厨・坂本御厨
また、『外宮神領目録』には、『神鳳鈔』に載せられている御厨のほか、南富田御厨・北富田御厨・坂合部御厨・末永御厨・野田御厨・小泉御厨・茂福御厨が、『諸国御厨御園帳』からは林崎御園があったことがわかります。
 次に、具体的に久留倍周辺の御厨について検討してみようと思います。鵤御厨は茂福・羽津にわたって広がっていた御厨で、内宮祠官荒木田氏の氏寺建国寺領でした。ここには現在南北の伊賀留我神社が鎮座しています。
 鳩野御厨は長松御厨の四至に、北は「二条鳩口」を限るとあることと、大矢知町に小字「鳩浦」があることから、大矢知町から鵤町にかけてあった御厨と推定されています。『神鳳鈔』では、内宮領とされており、十二月に一石五斗納めていたことが記されています。
 大矢智御厨は大矢知町に比定され、天正年間の『外宮神税帳』に「七石八斗并壱貫文今ハ米成 大やち」とあり、七石八斗と一貫文を納めることになっていたことがわかり、『内宮神領本水帳』には、「四石六斗 中川新八棡内 大やち」とあり、四石六斗を内宮祠官中川新八が収納していることから、内外宮領であったと推定されています。



 〔2〕伊賀留我神社
 次に式内社について見てみます。『延喜式』神名帳には朝明郡二十四座として、以下の神社が記載されています。
伊賀留我神社、能原神社、伎留太神社、石部神社二座、兔上神社、太神社、多比鹿神社、鳥出神社、八十積椋神社、志弖神社、耳利神社、耳常神社、移田神社、櫛田神社、井手神社、殖栗神社、布自神社、穂積神社、桜神社、井後神社、苗代神社、長谷神社、
二十四座という数は、伊勢国においては、度会郡五十八座、多気郡五十二座についで多い数です。このうち久留倍付近の神社としてあげられるのが、長倉神社と伊賀留我神社です。現在長倉神社は久留倍谷に鎮座していますが、古来所在地には諸説あり、この地の産神であったと推測されます。
 興味深いのは伊賀留我神社に関する伝承です。伊賀留我神社は鵤御厨にあった神社と考えらます。現在伊賀留我神社は南北二社に分かれていますが、このことについて御巫清直の『伊勢式内神社検録』では、鵤村はもと一村だったが、寛永年中に南北二村に分かれ、分村した南鵤村にも新たに伊賀留我神社を祀ったとしています。そして、『伊勢式内神社検録』に引用される「古祭文」では以下のように記されています。
カケマクモカタシケナキトウシヤハ、アマノヲヽヒヌノミコトイヽチノソンシン□、テイクワン三年癸亥ムタリヘノツネマロ□シンへタルキウクウ□、山川セキリヤウ他土ニスクレ、西ハ白虎ノミネソヒヱテカタヲカ山ノツキメイシヤウニテラシ、北ハセイリヤウ□河曲清々トシテトミノオ川ノナカレシンクヲアライ、シユシヤクケンムノカイ四神アヒカノフノ地ユヱ、宮柱太シキタテヽレイ神トクハンシヤウシ、人コソツテイツキタイミヤウ神トカウス、
祭文中の六人部津根麻呂とは、『日本三代実録』貞観三年(八六一)六月二十日条に、妻の秦美豆岐が一度に三人の男の子を産んだため褒美が与えられたと記される人物で、御巫清直は「恩賜ヲ辱ミテ即時ニ其祖廟ヲ新修シタル旧社ナリカシ」と推測しています。この祭文がいつ作成されたのか不明で、「建久」と書くべきところを「ケンム」と間違えて書いているところから、室町時代以降に神社の由緒を権威づけるために『日本三代実録』の記事と結びつけたとも考えられます。
 伊賀留我神社の創始に関して、壬申の乱の際に大海人皇子が伊勢神宮を遙拝したことと関係するという説があります。天明八年(一七八八)に編纂された『古屋草紙』には、「伊賀留我神社大日孁女尊、壬申乱ニ天武天皇三重郡ノ頓宮ヨリ朝明迹保ニテ大神宮ヲ遥拝シ玉フ所也、于レ今号レ斎、此所ヨリ流ル川ヲ十四川ト云」とあり、これをうけて『式内社調査報告』第七巻東海道二の伊賀留我神社の項目において、荒川久壽男氏は、「(天武)天皇が大神宮の荒御霊を遙拝した故事により、かやうに大神宮の荒御霊を齋き祀ることになつたのであらう」と推測されています。
 『日本書紀』天武天皇元年(六七二)六月丙戌(二十六日)条に「旦於二朝明郡迹太川辺一望二拝天照太神一」とあることに関して、迹太川が現在のどの川に相当するのか、三滝川・海蔵川・部田川・米洗川・十四川・朝明川に比定する説がありますが、確定していません。しかし、ある時期からその場所が十四川の北側、すなわち「天武天皇迹太川御遥拝所跡」付近とされました。ここの字名は斎宮で、伊賀留我神社は斎宮とも称されました。これは天照大神を斎き祀る社という意味だと考えられます。明治三十九年の神社明細帳では、祭神は天照大御神之荒御魂神とされています。この地において大海人皇子が神宮を遙拝したという伝承に基づき、天照大神を祭神とする神社を創建したのではないでしょうか。そうすると鵤から久留倍にかけての地が天武天皇との関係を持ち、その伝承を伝える王権にとって重要な地であったということができます。

 その後真宗高田派を開いた真慧上人が久留倍の丘に最初の布教の地を開いたと言い伝えられています 

多事争論 語る人逝き 枯野の国
(たじそうろん かたるひとゆき こやのくに)
 
 昨日(6日)筑紫哲也さんが亡くなりました。とても悲しい思いに包まれました。ジャーナリズムがどんどん後退する中、筋を通した方が、テレビからまた消えてゆく のが残念でなりません。太平洋戦争が侵略ではないなどと言う人物が「空軍」を統率し,防衛大臣の指示も聞かずに居直り続け、言いたいことを言って「退職」 をする現実に背筋が寒くならない国民が多いのだとすれば、この国が枯れ野となる日もそう遠くないのでは、と思わざるを得ません。体制に迎合しないジャーナ リストを失った悲しみは深く、憂えは大きくなるばかりです。20081107



 ストーブに 大森の声 重なりて
 (すとーぶに おおもりのこえ かさなりて)
 
 昨夜(10日)からの冷え込みにたまりかねて、学生達がガスストーブを出してきた。夜遅くまで演習の発表資料の準備に余念がなかった。
「アー、そうか、じゃ、僕のも出そう、・・・・」と思った瞬間、この春のシーンが眼前に浮かんだ。
いつも苦労する自室のストーブの片付け。しかし今年の春は違った。
たまたまやってきた大森に
「済まん!ちょっとこれ抜くの手伝うてくれへんか。この奥になー,ガスの元栓があって・・・・」
「アーイーですよ。俺、やってあげますよ。」
いつものひょうひょうとした調子で、埃だらけの本棚の奥に潜り込みアッと言う間に元栓から抜いてくれた。その光景が甦った。
でも大森はもういない。寂しい。(20081111)

聖武天皇東国行幸都市サミット-7 聖武行幸の最終地点の条

2008-11-11 21:34:37 | 久留倍遺跡を考える会
  霜月四日 憎悪の連鎖 絶てる日へ 

 いよいよ隊列は最終章へと進みます。恭仁京は聖武天皇の遷都を誘導した人物・橘諸兄の本拠地でもあります。

  恭仁京遷都    木津川市教育委員会      中島 正



 天平一二年(七四〇)一二月一五日、聖武天皇は三十年間続いた平城京を捨て、突然、恭仁京(大養徳恭仁大宮)へ遷都する。藤原広嗣の乱を契機とするかのような平城京出奔(東国行幸)の途中、聖武天皇は同行していた右大臣橘諸兄を恭仁京造営のために先発させ、わずか九日間で遷都が行われた。これだけの時間ではほとんど建物らしいものが造れるはずもなく、翌一三年(七四一)の元日朝賀の式は「宮垣未だ就らず。繞すに帷帳をもってす」というありさまであった。

 〔1〕 恭仁京概観
遷都以来、平城宮の建物を移建し、あしかけ四年の歳月をかけて推進した恭仁宮の造営は、その間に着手した紫香楽宮造営もあって、天平一五年(七四三)一二月に突然中止される。そして、翌一六年(七四四)二月に難波宮への遷都宣言がなされ、さらに翌一七年(七四五)五月にはわずか一年で難波宮を捨て、天平一二年以来五年にして宮都はふたたび平城京にもどるのである。恭仁京の歴史は、天平一六年二月の廃都宣言,同一七年五月の東西市の移動によって完全に終わる。そして天平一八年(七四六)九月、恭仁宮大極殿は山背国分寺に施入され、国分寺としての新たな歴史が始まるのである。
 恭仁宮が営まれた木津川市東部の加茂町瓶原地域は、平城宮から寧楽山を越えて直線距離で約十キロメートルと至近の位置にある。ここは急峻な笠置山地を抜けた木津川が開放されて平野に注ぐ最初の地であり、和銅元年(七〇八)に元明天皇が行幸した岡田離宮や平城遷都以後、元明・元正・聖武天皇が度々訪れた甕原離宮が営まれた地でもある。現在、これら離宮の所在は不明であるが、上流に切立つ断崖や川の景観を眺める風光明媚な景勝の地として選ばれたのであろう。ところが、天平一二年、聖武天皇は彷徨の末、玉井頓宮を経て、なじみのこの地に都を移したのである。
天平一三年(七四一)九月一二日条の恭仁京宅地班給記事には、賀世山西道より以東を左京・以西を右京とするとある。この賀世山西道こそ木津川市木津町の鹿背山西麓の道であり、ここから東の加茂町側に左京、山城・木津町側に右京が展開するのである。このことは、天平一七年(七四五)五月六日条に紫香楽から発した聖武天皇が「恭仁京の泉橋に至る」とする記事からも、その広がりを知ることができる。
ところで、歴史地理学者の足利健亮は、この京域に南北九条・東西八坊の平城京のプランをあてはめ、右京中軸線を山城・木津町にそれぞれ呼び名を残す「作り道」に、左京中軸線を大極殿の中軸線に求めて条坊の復元を行った。その結果、木津町鹿背山付近に京内ではあるが条坊の敷かれていない方形の区画を設け、その東西に左京と右京を分割するという画期的な学説となったのである。ただ、恭仁宮独自ともすべき小規模な宮域が確定した今日、足利説京域の修正を余儀なくされている。それでもなお、京域に関する考古学的データが決定的に不足している現状では、足利説は唯一の拠所でありその有効性はゆるがない。なお、宮域の調査に伴い条坊関連の遺構がいずれも部分的ではあるが検出されている。宮南面大路(二条大路)南北両側溝、宮東面大路(東一坊大路)東西両側溝、朱雀大路東側溝がそれである。天平一三年(七四一)七月一〇日、新都建設の槌音が響くなか、聖武天皇は元正太上天皇を木津川河頭に迎える。このとき辿った道は朱雀大路だったのか。あるいは二条大路だったのであろうか。このころ工事に着手し同年一〇月一六日には、二条大路の西端から木津川対岸に向けての架橋工事が終了する。また、翌年の八月十三日には朱雀大路を下って対岸への大橋建設が開始されるのである。まさに恭仁京は、橋で連結された水上都市として建設されたのである。



 〔2〕 橘諸兄と相楽別業
 恭仁京遷都直前の天平一二年五月一〇日、聖武天皇は橘諸兄の相楽別業に行幸する。この別業の所在地は現在比定できていないが、諸兄が井手左大臣とも呼ばれることから、木津川市北西の山城町に接する現在の綴喜群井手町に求める説が有力である。なお、この地域はかつての相楽郡の北端にあたり、聖武天皇の東国巡行最終日にとどまった玉井頓宮もこの付近に営まれていた。
近年、この地を西流する木津川の支流玉川の北岸で、平城遷都により藤原京から移された大官大寺(後の大安寺)の創建瓦を生産した石橋瓦窯跡が発見された。当然、ここで生産された瓦は、木津川を遡って泉津で陸揚げされ、大安寺へ運ばれたのである。実はこの窯跡こそ、泉津にあった大安寺の木屋所とともに相楽郡に所在するいまひとつの荘「棚倉瓦屋」なのである。遺跡の規模などは不明であるが、平成十八年に「史跡大安寺旧境内」の附指定を受けている。「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」では、この瓦屋の四至を「東谷上 西道 南川 北南野大家界之限」としており周囲の状況とよくあう。ここでいう北の「南大家野」については明らかでないが、天平一九年当時に存在した「大家」といえば諸兄の別業以外に想定できるものはなく、玉川北岸の台地上に相楽別業を比定できそうである。なお、この台地上には、やはり橘諸兄創建と考えられる井手寺跡の礎石が散在しており、寺院と邸宅が並んで営まれていたことになる。
 井手寺跡に関しては、平成一五年度から井手町教育委員会による継続的な調査が実施されている。伽藍配置の大要はまだ不明であるが、凝灰岩の破片が多数出土していることから、主要建物基壇の外装は凝灰岩による壇上積と考えられ、整美な石敷の参道も確認されている。また、平成一八年度調査では、食堂背後の盛殿か僧坊跡の可能性をもつ礎石建物を検出しており、大規模な伽藍が予想される。出土遺物では、三彩の方形棰先瓦が出土しており、寺院としての格調の高さを示している。出土軒瓦は、平城宮式のものが主体を占め、玉川南方の石垣地区にある岡田池瓦窯跡の製品と同笵関係が顕著である。なお、岡田池瓦窯跡については調査が行われていないため詳細は不明であるが、窯体の一部が確認されている。平城宮式の瓦を生産した窯跡であり、恭仁宮跡出土軒瓦との同笵関係をもつ。恭仁宮所用瓦を生産した「西山瓦屋」の候補地としてよかろう。恭仁京が置かれた相楽郡の北端にある橘諸兄の拠点には、単なる地方寺院とは考えられない格式をもった井手寺が建立され、天皇の行幸をうけるだけの壮大な邸宅を構えていた。しかもその近くには、官の大寺である大安寺の瓦生産拠点「棚倉瓦屋」や官窯としての岡田池瓦窯跡があり、木津川という流通手段も確保している。

 〔3〕 泉津と泉橋
 平城環都後の天平一九年(七四七)の「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」には、山背国相楽郡にある荘園のひとつとして「一泉木屋并薗地二町 東大路 西薬師寺木屋 南自井一段許退於北大河之限」とあり、泉津には大安寺だけではなく薬師寺の木屋所も並んであったことがわかる。泉津には、諸司・諸大寺が軒を連ねて拠点を構えていたのである。しかもここに陸揚げされるものは材木だけではない。様々な物資が売買され、流通していたことであろう。ついに恭仁京は、この経済流通の拠点を手中に収めたのである。
 大量の物資が陸揚げされる泉津は、南北に縦貫する北陸道が渡河する地でもあり水陸交通の要地である。多くの官人や市人、そして港湾・建設・運搬労働者が集住する地は、多くの貧困都市民を生み出すと同時に潜在的な労働力も確保する。救済されるべき民衆と潜在的労働力の結集する場こそ、僧行基の活動拠点となるのである。当初、行基の布教活動は国家から禁止されていたが、天平一七年(七四五)正月二一日の詔で大僧正にまで任じられた。前年の一一月一三日にようやく漕ぎ着けた大仏の体骨柱建立の功によるものであろうか。
 泉津の対岸、山城町の上狛にある泉橋寺は、行基創建の四九院のひとつ発菩薩院泉橘院(泉橋院)を前身としており、別に隆福尼院と泉布施屋があった。聖武天皇にとっては、恭仁京の造営において行基による民衆の組織力はぜひとも必要であった。天平一三年一〇月一六日の左京における木津川の架橋記事では、行基の名こそ登場しないが「畿内および諸国の優婆塞らを役し、成るに隋って得度させること七五〇人」とあり、行基集団の公認が架橋事業の見返りであった可能性が考えられる。だとしたら、行基の実力を見抜き恭仁京造営に役立てた人物こそ、橘諸兄に違いない。


 恭仁宮でも朝堂院で新たな調査が始まっています。 


冒頭拙句

 霜月四日 憎悪の連鎖 絶てる日へ
 (しもつきよか にくしみのれんさ たてるひへ)

 アメリカでオバマ大統領が誕生した日に9.11からイラクへと憎しみの連鎖が止まらないことに対する危惧がひょっとして止まるのではないかという期待を込めて歌いました。もちろんオバマ大統領の登場は日本のイラクへの荷担を無くすことにも繋がるものと思っています。20081104

聖武天皇東国行幸都市交流サミット-6 赤坂頓宮で伊勢行幸を締めくくりの条

2008-11-10 19:24:26 | 久留倍遺跡を考える会
 志摩なれば 白衣乙女らが 藻塩焼き 

 皆さんの資料の紹介を優先したので少し後戻りしますが、私の拙文「赤坂頓宮」を載せておきます。

  赤坂頓宮 (三重県亀山市)  山中章


   
 赤坂頓宮がどこにあったかについては諸説あって定まってはいません。これまでの説がいずれも「地名」という時代のはっきりしない資料によって構成されていたからです。ところが二〇〇六年、亀山市関町北西部の山腹から大量の瓦が発見され、以前から頓宮との関係が注目されていた鈴鹿関の城壁の可能性が高まりました。関が定まれば自ずと頓宮の位置も決まってきます。そこでまず、鈴鹿関からみてみましょう。

 〔1〕 鈴鹿関の位置と古道
 発見された城壁は、通称観音山の裾に広がる谷間を縫うように造られていました。聞き取りによると、かつてその延長線上に土塁のような高まりがあったと言われ、さらに、その延長部には、瓦が二列に並ぶ観音沖遺跡知られていました。鈴鹿川と加太川が合流する付近を南西端として、観音山方面へ真っ直ぐ西の城壁が造られていたのです。
 鈴鹿山脈に源を発する鈴鹿川は、式内社片山神社の北西部で小さな流れとなって出現し、蛇行を繰り返しながら南流し、新道岩陰遺跡の辺りで柘植方面から流れてきた加太川と合流して伊勢湾に向かって東へ流れていきます。しこれら両河川に沿って形成されたのが新旧の東海道です。
 加太川が流れる谷間に沿って、遅くとも6世紀には整備されていた切り通しが併走しています。両河川の合流部には、古墳時代初頭に形成された祭場跡・新道岩陰遺跡があります。伊勢湾から運び込まれた海産物
と内陸部の「情報」が交換されたのでしょう。古墳時代初頭には既にこの地域が伊勢湾と鈴鹿山脈東側の陸路を結ぶ交通の要衝であったことが推定できます。この合流部に西南西方向から真っ直ぐ伸びてくるのが奈良時代以前の東海道「原東海道」です。近世に確立された切り通しが断続的に加太川左岸の山塊との境目に残されている。古代以前の道が近世大和街道とほとんど変わらない位置に設けられていたようです。
鈴鹿川が流れ下る谷間には、仁和二(886)年に開削された阿須波道(平安時代東海道)がほぼ現在の国道1号)が併走している。鈴鹿峠を越えた山中には式内社片山神社が位置しています。

 〔2〕 関の諸施設
【外郭城壁】 外郭城壁は北西部の一部が確認できただけですが、観音山南斜面の裾付近にある小さな谷との境部を縫うように設けられていることが判明致しました。図でも判るとおり谷底から見上げると十数メートルの高さに城壁が聳え立っています。とても下から上がっていくことは困難です。にもかかわらず城壁の最上部には築地塀が設けられ、一部には重圈文軒丸瓦が葺かれていました。防御性と装飾性の両方を兼ね備えた施設であったといえます。
【鼓楼と漏刻台】 『続日本紀』宝亀十一(780)年六月条には、「伊勢國言。今月十六日己酉巳時。鈴鹿関西内城大鼓一鳴。」と、光仁天皇の危篤状態の病状に際し,鈴鹿関からの怪異現象を伝えています。さらに翌年三月にも、「伊勢國言。今月十六日午時。鈴鹿関西中城門大鼓。自鳴三聲。」と同様の現象を伝えています。西内城や西中城門には大鼓があったことがわかります。それとともに、「己酉時」や「午時」のように時を確認できる施設・漏刻のあった可能性が指摘できます。
【三箇所の見張台】北西部城壁の東には巨岩があり、その上に立つと南、大和方面から来る東海道が一望できます。またこの城壁と谷を挟んで位置す観音山西嶺の最頂部にある巨岩からは東に延びる東海道を真正面にみることができます。いずれも見張台としての機能を十分に果たしているといえます。
【西内城(西中城)】 西城壁の東側に「内城(東・西城)」と呼べるような空間は、近世関宿の北にしか残っていません。図示したように、観音山丘陵の南斜面の端から近世関宿の北縁までの間しか内城、すなわち関司などがおかれた空間は配置できません。
【東内城(東中城)】 西内城や西中城と言う表現がある以上、東内城という施設があった可能性があります。内城がどの程度の規模を有していたのかは判りませんが、関神社周辺から古代の土器を収集することができますので、この辺りが有力になります。



〔3〕 赤坂頓宮の所在地と構造
 
 では赤坂頓宮はどこにあったのでしょうか。これまで推定されているのが、現関小学校の裏にある丘の上です。しかし、この地はあまりに狭すぎます。その南に広がる平坦地付近も有力な推定地です。しかしいずれも未調査ですから確実な証拠はありません。
 ところが、今回の城壁の発掘調査で、伊勢国内の聖武天皇行幸推定地に限って発見される重圈文軒丸瓦が出土したのです。先にも述べましたが、鈴鹿関の城壁は谷から10m余の高所にあり、とても頑丈な施設でした。にもかかわらず、西城壁推定部の北西部から南にかけては、大量の瓦が発見され、城壁の上に築地塀が敷設されていたことが判りました。築地塀は都の役所など、公的な施設を中国風に見せかけるための施設でした。天皇の住まいする内裏も、建物は純和風の檜皮葺であったにもかか
わらず、周囲は築地塀で囲われていました。
 ところで,鈴鹿関はこれまでにも多くの人々がその痕跡を求めて調査・研究を重ねてきました。にもかかわらず確定できませんでした。証拠品がなかったからです。あるいは、他の地域には瓦が使われていなかった可能性があります。
 鈴鹿関は八世紀初めには設けられていたはずです。瓦が造られたのは8世紀中頃です。築地塀は聖武天皇の頃に追加されたのかも知れません。なぜ?鈴鹿関の北西部こそ、赤坂頓宮として天平一二年十一月十四日から二十二日まで使われた場所だったのではないでしょうか。

 鈴鹿の関の本年度の発掘調査が間もなく始まるそうです。本年度は西辺城壁を南に追いかけ、かつて観音沖遺跡として調査された地域を拡張して掘るそうです。大いに期待されます。

  赤坂頓宮の中枢部を探したいね! 

 冒頭の拙句

  志摩なれば 白衣乙女らが 藻塩焼き 

  (しまなれば しらぎおとめらが もしほやき)

 もし向こうに見える煙が志摩の辺りだとすると、きっとそれは藻塩を刈って焼いている真っ白な衣に身を包んだ海女達のする所作なんだろうな-。かつてこの地 (久留倍遺跡(朝明頓宮-狭残行宮-))に至って家持の聖武天皇の伊勢行幸に内舎人として従駕したときに読んだ歌

 御食つ国 志摩の海人ならし 真熊野の 小船に乗りて 沖へ漕ぐ見ゆ
(『萬葉集』第六巻1033番歌)
を思い出しながら、久留倍遺跡からかつての静かな古代の情景を目に浮かべながら詠んでみました。季語は「藻塩焼く」夏です。(20081101)


聖武天皇東国行幸都市交流サミット-5 近江行幸の意味

2008-11-09 12:44:56 | 久留倍遺跡を考える会
 火の国の 枯れ野に舞う 百済像
 


400の騎兵を帰した後、聖武はひたすら琵琶湖東岸を南下し、山背を目指します。まさにも目途通過していきます。その最後の宿泊地ではないかというのが禾津の頓宮ですが、果たしてどうでしょうか?

大津市教育委員会の吉水さんの見解です。

  禾津頓宮(滋賀県大津市) 大津市教育委員会 吉水 眞彦



 天平十二年十二月、聖武天皇の「東国行幸」は、近江国へ入り、横川、犬上、蒲生、野洲に次いで禾津頓宮に宿泊しました。天皇はここの仮宮に十二月十一日から十四日まで三泊四日で滞在し、十三日には天智天皇勅願の志賀山寺に参詣し、近江の郡司に位を一級宛賜与しました。
 このように近江でもっとも長く滞在した「禾津頓宮」は果たしてどこに存在したのでしょうか。

 〔1〕膳所城下町遺跡の発掘調査
 禾津(粟津)は、その地名から大津市粟津を中心に膳所から石山付近までの範囲のことと思われ、禾津頓宮跡や、壬申の乱に登場する粟津市や粟津岡は漠然とこの範囲のいずれかに所在していたと考えられてきました。その中で故西田弘さんは相模町地先で採集された軒瓦が平城京跡出土軒丸瓦と酷似しているものとみなされ、今までに唯一この地点が「禾津頓宮跡」と推定されてきました。
 ところが2002年の夏、相模町地先から北東約300mにある県立膳所高校の改築に伴い滋賀県教育委員会が発掘調査したところ、膳所城の城下町遺構の下層において、偶然にも白鳳期から奈良時代の遺構が発見されました。遺構は三時期のものがあり、一は白鳳期の七世紀第4四半期の竪穴住居、二は奈良時代前半の八世紀第2四半期の大型掘立柱建物SB1、三は奈良時代の八世紀後半の掘立柱建物SB2・SB3と区画溝です。このうち、禾津頓宮跡とみられているのは二の大型掘立柱建物SB1です。東西七間(二〇・八m)、南北四間(一一・九m)の南北に廂が付く二面廂建物で、床面積が広く、柱間は十尺(約三m)の等しい長さを測り、約一・六m四方の大きな柱穴と直径約四〇㎝の太い柱痕跡をもつものです。この建物に類似したものは、京都府木津川市恭仁宮内裏東地区掘立柱建物SB5507をはじめ、宮殿や平城宮内の官衙正殿、平城京内の貴族邸宅の正殿などに数例があります。またこの建物は格式が高く宮殿クラスの規模や構造をもち、建築後その役割を終えてただちに解体撤去された可能性が高い「非恒常的施設」と意義づけられています。このような宮殿クラスの建物を粟津周辺で探索してみますと、近江大津宮・保良宮・近江国庁・志賀郡衙・禾津頓宮などを候補として掲げることができます。しかし、これまでの調査研究の成果や今回検出された遺構の年代観などから「禾津頓宮跡」とする考え方が最も妥当であり、聖武天皇の恭仁宮内裏東地区の中心建物と規模や構造が似通っている点などからも相応しいと思われます。
 「禾津頓宮跡」の発見は、聖武天皇の「東国行幸」の足跡を具体的に示すとともに、「彷徨五年」といった負のイメージとは逆に綿密に計画されたものとみなすことができ、また頓宮といえども宮殿クラスの建物の造営を可能にする権威・権力の一端をうかがうことができました。



 〔2〕奈良時代の大津
 禾津頓宮はなぜ旧滋賀郡のこの地点(膳所二丁目)に造営されたのでしょうか。まず、奈良時代の交通路の面からみてみましょう。陸上交通の官道である東山道ルートには二説あります。①は平城京―木津川右岸―宇治―山科―逢坂―保良宮・国昌寺―勢多橋―近江国庁へ至るルート、②は平城京―木津川右岸―城陽市市辺―大津市大石―瀬田川東岸―勢多橋―近江国庁へ至るルートです。①は藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で仲麻呂が採った経路でわざわざ遠回りしています。『続日本紀』天平宝字八年九月条で孝謙上皇・淳仁天皇の征伐軍が「直取田原道」と近道を表現しているとの理由で館野和巳氏説、②の宇治田原道を東山道とする足利健亮氏説のことです。
 ちなみに、壬申の乱の交戦時の勢多橋(第1橋)や聖武天皇が「東国行幸」で渡った勢多橋(第2橋)は、現在の瀬田唐橋の下流約八〇mの川底において橋脚台遺構が見つかっています(図3)。
 湖上交通の面では、大津宮期の大津(港湾施設)は西大津に、奈良時代の大津は粟津にもとめられます。
 また山背(城)でもみられる縦横の道路の方向が南北の方位に従う.畿内型地割りが顕著に残っているのは大津市穴太以南から石山付近一部は瀬田の近江国庁付近までです。この範囲の遺跡のうち、平城宮・京跡出土軒瓦と酷似した軒丸瓦・軒平瓦を出土する遺跡は、膳所城下町遺跡(禾津頓宮跡)・相模町地先・石山国分遺跡(保良宮
跡)・近江国庁跡・大津廃寺です。特に平城宮第Ⅳ期(七五七~七六九年)の複弁八葉蓮華文軒丸瓦(6235B)や均整唐草文軒平瓦(6763A)にみられます。す
なわち七世紀後半から八・九世紀にかけて畿内色豊かな文化が栄ていたようです。天智天皇勅願の崇福寺は、日本最古の官営山寺で志賀山寺とも呼ばれ、鎌倉時代初期まで梵釈寺とともに法灯を保っていました。崇福寺跡出土軒瓦と大津廃寺のものを比較すると酷似していることが分かり、前者を山寺、後者を本寺とするような密接な関係であったことも推定されます。
 このように琵琶湖西岸から瀬田川西岸地域は、平城京の色濃い文化が繁栄し、館野氏説の東山道も通過していました。平城宮・京出土型式軒瓦は勢多橋を境に西岸地域が東岸に比べて圧倒的に多いという特徴がみられます。『続日本紀』天平宝字五年十月二十八日条には、保良宮を北京とし、都に近い二郡(滋賀・栗太郡)を畿県としています。つまり、近江国の中枢的な郡として扱われており、この地域は畿外・東国にあっても畿内の顔をした特別区であったと考えられます。また琵琶湖から瀬田川へ流入するように西岸の地形も東西から南北へと屈曲する地点、すなわち陸上・湖上交通の要衝に「禾津頓宮」は造営され、東国行幸の目的には交通の要衝の視察もあったものと考えられます。

 「聖武天皇東国行幸都市交流サミット」資料集ご希望の方は残部わずかですがお送り致します。私の所までメールでご住所などをお知らせ下さい。 

拙句を少し

 霜月四日 憎悪の連鎖 絶てる日へ
 (しもつきよか にくしみのれんさ たてるひへ)

 アメリカでオバマ大統領が誕生した日に、9.11からイラクへと憎しみの連鎖が止まらないことに対する危惧が、ひょっとして止まるのではないかという期待を込めて歌いました。比叡山延暦寺の新天台座主半田孝淳師の「憎しみには徳で応えよ」というお言葉をも思い起こしながら詠みました。20081104

 多事争論 語る人逝き 枯野の国
 (たじそうろん かたるひとゆき こやのくに)
 
 昨日筑紫哲也さんが亡くなりました。とても悲しい思いに包まれました。ジャーナリズムがどんどん後退する中、筋を通した方が、テレビからまた消えてゆくのが残念でなりません。太平洋戦争が侵略ではないなどと言う人物が「空軍」を統率し,防衛大臣の指示も聞かずに居直り続け、言いたいことを言って「退職」をする現実に背筋が寒くならない国民が多いのだとすれば、この国が枯れ野となる日もそう遠くないのでは、と思わざるを得ません。体制に迎合しないジャーナリストを失った悲しみは深く、憂えは大きくなるばかりです。20081107

 火の国の 枯れ野に舞う 百済像
 (ひのくにの かれのにまう くだらぞう)

 昨日近くのスーパーに夕食の食材を求めに買い物に行きました。こんにゃくや豆腐を袋に詰める手をふと止めると、そこに「火の国一句募集」というポスターがありました。もちろん応募はしませんが、そこでふと思い浮かんだのが一昨日のニュースで流れていた鞠智城での百済仏の発見でした。そこで一句詠んだものがこれです。昨年、熊本大学に集中講義に参りました。その折り、鞠智城に御案内いただきました。とても見応えのある整備がなされ、鞠智城を造った(造らされた)百済人の姿を思いジーンと来るものがありました。その時の思いが百済像と重なりました。20081108



壬申の乱ウオークで拙い一句の条

2008-11-05 08:48:45 | yaasan随想
 果たしてこれは一句と言えるのか?(笑) 

 最近、友人に紹介されて矢島渚男という俳人を知りました。

 現代的感覚をとても心のこもった表現で歌われている方です。

 私は俳句などとは全く無縁な人間ですが、還暦を過ぎて、少しは人間らしい営みも必要かと思い、時々に作ってみることにしました。

 残念ながら情景を五七五にまとめるのが精一杯です。

 公表するほどのものではないのですが、ま、ご愛敬と思って見てやって下さい(笑)。


  朝明ゆく 紅幡の 静かさや 

 (あさけゆく くれないはたの しずかさや )

 季語は 朝明に勝手にしました。朝が明けるというのは夏の朝が早く明けるというのでそれなりに季語として使われているようなので。もちろんここではそ の朝が明けると朝明郡に至った大海人皇子のホッとした気持ちを重ねて謳ったものですが。「静かさや」はちょっと芭蕉風と重なりますが、強行軍の長旅を続け てきた一行の気持ちを代弁しました。これによって私の気持ちがもう少しうまく入れられればいいのですが、果たせませんでした。単なる叙事詩でしょうか。一応これが人生初めて「詠んだ」私の処女句です(大笑)(20081101)


  志摩なれば 白衣乙女らが 藻塩焼き 

 (しまなれば しらぎおとめらが もしほやき)

 もし向こうに見える煙が志摩の辺りだとすると、きっとそれは藻塩を刈って焼いている真っ白な衣に身を包んだ海女達のする所作なんだろうな-。かつてこの地 (久留倍遺跡(朝明頓宮-狭残行宮-))に至って家持の読んだ伊勢湾の状況を思い出しながら、静かな古代の情景を詠んだ叙景詩でしょうか。季語は「藻塩焼く」夏です。(20081101)

  露霜に 迹太川の夢 あたらしく

 (つゆしもに とほがわのゆめ あたらしく)

 秋霜の降りる晩秋に迹太川の辺にやってきて、あの壬申の乱の頃の大海人の夢と不安の入り交じった心に思いを馳せ、自らのこれからの夢に思いを重ねる。季語は露霜で秋。(20081101)


  柿の枝の 影映したる 御所の跡

(かきのえの かげうつしたる ごしょのあと)

、「埋蔵文化の日」?に、長岡宮後期内裏北東部から発見された後宮施設の柱堀方を見学して詠んだ歌。影を長岡京廃都の「悲哀」に込めて「御所の跡」を兵どもが夢の跡と引っかけて歌いました(笑)。季語は柿の枝です。(20081103)


 これからも気晴らしに詠んでいこうかな、と思っております。あまり難しい批評コメントは寄せないように!(笑)。

 水上孤城『矢島渚男俳句散歩』(本阿弥書店2007年3月2400円)一度手に取ってみられるといいですよ 


久留倍まつり速報  壬申の乱を彷彿とさせる600人の大行列!!

2008-11-04 10:04:12 | 久留倍遺跡を考える会
 600人とは恐れ入りましたね!!まるで壬申の乱そのものですね 


(会場に集まった600人のお目当ては苅谷俊介さん?!)
速報!!

11月1日の大矢知は大変な熱気に包まれました。


(学生達の仮装も大好評でしたよ)

 大急ぎでスライドショウを作りました。まずは速報をお届け致します。ご覧下さい。

驚いたことにウオークには600人!



シンポには300人の聴衆が集まりました。

その熱気に当てられてか、今朝は疲れてぐったりしていました(笑)。

これから授業なのでその前に簡単に報告しておきます。



 苅谷さんの考古学に対する熱意はすごかった!その熱意に会場は大変な熱気だった!! 

聖武天皇東国行幸都市サミット-4 壬申の乱ウオーク出発、そして不破関への条

2008-11-01 07:16:26 | 久留倍遺跡を考える会
 久留倍遺跡まつりが始まります!!
 まず第12回壬申の乱ウオークです。
 これから行ってきます。
 午後からはサミットの開始です。
 昨夜の事前打合会ではゲストの苅谷俊介さんや玉城妙子さんととても楽しくお話しをすることができました。その詳細はまた今夜。

 養老から不破関とても面白そうですね 



 不破頓宮
           養老町教育委員会 中島和哉

 聖武天皇による美濃行幸は十一月二十六日の美濃国当伎郡(岐阜県養老町)にはじまり、その後、十二月一日から五日までの不破郡不破頓宮(不破郡垂井町)への滞在をもって終了します。その全体の滞在期間は九日程度ですが、不破頓宮に滞在中であった十二月四日にはそれまで随行してきた騎兵司の任務を解いて、平城京に帰還させています。このことから聖武天皇の行幸は不破郡において一定の目的を達成したと考えられてきました。
 では、聖武天皇が美濃への行幸までで果たした目的とは一体なんだったのでしょうか?
 この課題に対しての回答は決して単純なものではなく、当時の様々な歴史資料を基に多様な視点から解明されていくべきものであるでしょうが、ここではこの課題について私自身の考えを述べさせていただきたいと思います。

〔1〕 美濃国当伎郡
 続日本紀での聖武天皇の美濃国当伎郡行幸の記述は「十一月二十六日美濃国当伎郡に至る」という短いものですが、その前の滞在場所が桑名郡であり、次の目的地が不破郡であること、そして行幸の規模が総勢四百名を超えるものだったと推定されていることから、当伎郡の宿泊地は、養老山麓東の街道沿いにあった可能性が高いと考えています。
 そして、当伎郡(岐阜県養老町)の広域な遺跡調査からその一つの候補となる遺跡が発見されましたので、ここで紹介しておきたいと思います。
 養老町には古代に属する遺跡は十二箇所ほどありますが、聖武天皇が美濃へ行幸した七百四十年頃の遺物が多く発見されている遺跡は三つに限られます。その内の一つがご紹介する戸関(こせき)遺跡です(図一)。
 戸関遺跡は養老郡養老町石畑にあり、中世において不破郡から伊勢をつないだ伊勢街道沿いに面した遺跡です。さらに、戸関という遺跡名はその場所の中心となる小字名から頂いたのですが、その周囲には中門や東門、南門といった官衙かあるいは寺院を想起させる小字名が残されていました(図二)。小字は後に移動したり、名称を変更されたりする事も多いため即断はできませんが、養老山麓の西から東に大きく傾斜する地形にあって、方位を重視する形態をとっていることは古代の思想による可能性が高いと考えています。
また、聖武天皇の東国行幸での宿泊地は川口頓宮や赤坂頓宮、不破頓宮など関と関連するものが多く、この遺跡の中心にある小字が関の文字をもつことも私が戸関遺跡を聖武天皇の宿泊地と考えたい一つの理由です。

 〔2〕美濃国不破頓宮
 続日本紀における美濃国不破郡での聖武天皇の行動は、他の宿泊地と異なり、宮処寺や曳常泉を訪れた事や、騎兵司の任務を解いて平城京に帰還させたこと、労のあった国郡司等に叙位を行っていることなどが記述されています。しかし、その一方で現在の不破郡においては、不破頓宮をはじめ、続日本紀の記述にみられる宮処寺や曳常泉について様々な研究がなされているものの、その位置は明確にできていません。
ただ、不破郡垂井町には七百四十年頃の瓦をはじめとする遺物が多く出土する古代の寺院跡として、垂井町御所野の宮処寺跡と垂井町宮代の宮代廃寺跡があります。そして、この二つの遺跡は比較的近接しています(図三)。現在の知見の中では、この二つが宮処寺の最も有力な候補であり、そのため、この二つの寺院が位置する南宮山北東部の山麓周辺が聖武天皇の不破郡行幸の舞台であった可能性が高いと考えられています。

 〔3〕聖武天皇の美濃行幸からみえるもの
 以上にみてきた聖武天皇の美濃行幸ルートは、壬申の乱において天武天皇が通った道であり、聖武天皇行幸以降も当地域の主要幹線道路としての役割を果たしてきたものです。そして当地域は、壬申の乱において天武天皇の勢力基盤となった場所でもあり、その後も天皇家と深く関わってきた地域でもありました。
 また、聖武天皇が関東行幸を行う八世紀の中頃は、藤原広嗣の乱や長屋王の変などにみられるように常時戦時体制にあった時代であり、不破関を擁した当地域の管理は平城京の放棄を考えていた聖武天皇にとってとても重要なことであったと思います。
 以上のようなことから、私は聖武天皇関東行幸の大きな目的の一つに、天皇家の基盤勢力があり、三関のうちの二つがある伊勢と美濃の幹線道路及びその道路沿いに配置された関の大整備がその目的の一つではなかったかと考えています。聖武天皇の行幸にあたっても、その直前には伊勢国に行宮司が任命されており、天皇が行幸されるとなれば、その宿泊地やそれらを結ぶ道路には大きな費用と労働力をもって整備がなされます。それこそが、この後に平城京放棄という大きな仕事を控えた聖武天皇が、その事前の準備の一つとして必要としたことではなかったでしょうか。その後の度重なる遷都の中で起こる安積親王の暗殺にみられるように、これから起こる混乱に備えて、関東の掌握と整備を事前に行っておく必要性を聖武天皇が感じていたとするならば、広嗣の乱の最中にあって関東に出発した不可思議な行動にも説明がつくと感じています。鈴鹿関の発掘調査で発見された聖武天皇に縁の深い重圏文軒丸瓦もこのことを証明する一つの手がかりになるでしょう。
 聖武天皇の美濃行幸に関する資料はまだまだ少ないのが現状ですが、こうした視点から岐阜県のこの地域を引き続き調べていけば、今後ももっと聖武天皇行幸をよく知る上での手がかりが増えてくるのでないかと期待しています。


 午後からでも間に合うよ、ぜひお越し下さい。