yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

中国江南の踏査-2~楚国の都荊州紀南城を歩く~の条

2010-07-31 07:04:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 8月29日は武漢から3時間半ほどのバスの旅で荊州に昼過ぎに着いた。待ち合わせ中の荊州市立博物館の館長と昼ご飯を一緒にして、15時から2時間ほど博物館を見学した。
 しかしたとえかつては春秋戦国時代の南方の雄・楚国の都の置かれたところとはいえ、広大な敷地、膨大な展示品(収蔵品)、整った施設、充実した体制には驚く以外の何ものでもなかった。日本の地方の博物館・資料館がどんどんつぶされていっているのと大きな違いであった。大阪都等と偉そうなことを言うのなら、橋下も一度ここへ見に来ればいいのだが。

 あまりに広くて半分も見ることができなかったが、圧巻は30日に見学予定の紀南城の一角に設けられた漢代の墓・鳳凰山168号墓出土の男性遺体であった。偶然と思われる地下水の浸透と遺体に添えられていた漢方薬の溶解によって出来た自然の『防腐剤』が、遺体を完全に保護し、2000年余の年月を経て臓器他一切が腐敗せずに見付かり、現代医学によって解剖に処されたという世紀の大発見の資料が復原された地下墓に置かれていたのである。

 17時半からは明代の王府が置かれた荊州城を館長の案内でほぼ一周を見て回ることが出来た。四面を護城川によって護られ、各辺に1~2基の門が設置されたその城は内部の道や水路なども含めてとてもよく残っていた。いずれ、現在城内に居住する11万人の住民の2/3を城外へ移し、荊州城全体を復原し保護活用するという。

 あまり造りすぎないように願いたいが、現状のように徐々に荒らされていくのもどうかと思う。夜になっても変わらぬ蒸し暑さにヘトヘトになりながらほぼ一周することが出来た。城壁や護城川はとてもよく残されており、省政府や市当局が力を入れているのか、市民の盛り上がりを一部で見ることのできる有意義な1日だった。

 汗みどろになって、いつもの通り、館長達と大いに盛り上がってビールを飲み、白酒を呑まされて一日が終わった。

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shibaraku netto ga dekimasenn korekara tyousa he ikimasu. Ma-Outai desu. deha!!

中国江南の踏査1の条

2010-07-29 07:47:28 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
ただ今中国武漢におります。

昨日関空から上海に飛び、そのまま武漢へ移動し、これから荊州へ向かいます。

ドジなことに一つのデジカメの充電器を忘れてきたらしく、今回は片肺飛行です。でも行くところの数が限られているので何とかなるでしょう。

もう出発なので、今夜ネットにつながれば書き込みます。

と、慌ててフロントへいったら誰もいない!?
おかしいな?
置いてかれたのかしら!?まさか!

と思ってよくよく考えると7時集合と思い込んでいたのが、8時集合だった!
慌ててまた部屋に戻り、コーヒーを入れ、これを書き込んでいる内に今度は本当の集合時間!ではいってきま~す。

今日は 荊州博物館の見学、荊州城跡・紀南城跡の踏査
であります。またね。

3日に広州から帰りますが、その後、4日オープンキャンパス、5・6久しぶりにヒロシマに参加します。

7日は待望の壬申の乱ウオーク!!

平城京遷都1300年の会場を中心に案内します。バス3台で、古代衣装も着ながらの散策を予定しています。まだ少し席がありますから、特に衣装を着てのウオーキングをお求めの方は是非参加下さい。参加希望者は私にメールくださいね。

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ではまた今夜。

学芸員をめざして博物館を巡ろう!!が終わっての条

2010-07-24 23:57:01 | yaasan随想
 今年は私にとって最後のオリエンテーションセミナーの担当の年となった。今はスタートアップセミナーと言うらしいが、私はこの名前がイヤなので、敢えて旧称を使う。
 文化学科に今年はいってきた学生に動機付けをするために8人の先生方がいろいろなテーマを掲げて募集し、集まった学生にそれぞれの分野の導入的授業や、いろいろな方法論を教えて今後に備えるのである。

 私は今年はあまり学生が集まらないように「このゼミでは土曜や日曜を利用して博物館を巡ります。その交通費や入館料は自費です。それでもいいという人は受けて下さい」と断ったのであまり受講しないだろうと思っていたら、10人が集まった。私はこれで十分なのだが、代表の先生が気を利かして2人だけ第二希望の学生を相談の上回して下さったので、最終的には12人となった。

 表題の通り、学芸員の基礎的授業としていくつかの博物館、資料館を見学し、その舞台裏も御案内頂いて学芸員という仕事はなんなのかについて学んだのである。

 しかし、流石に金を払ってでも、土日が駄目になってでも来たいと言うだけあって、みんなとてもとても熱心だった!!
 
 5月の連休中に個人でいくつかを回るよう指示したところ、帰省して2~3箇所回った学生もいた。

 ゼミ全体では、合計6館を見学した。
 第一回が開催中の平城京遷都1300年展の会場に改装なった平城宮跡資料館とその祭りの様子を見学するものであった。平城宮跡資料館については既に「酷評」したが、予想外にも1300年展はそれなりに面白かった。やはり本物の迫力で復原された大極殿が光っていたからだろう。



 第二回はキトラ古墳の壁画を公開している飛鳥資料館と、平城京遷都1300年展に共催して持ってこられた「大唐皇帝陵展」をやっていた橿原考古学研究所附属博物館であった。これも既にその様子を紹介したことがある。



この日は万葉文化館も覗いたのだが、これは高いので止めた。

 第三回は大黒屋光太夫記念館であった。
 これは改めて別に報告することにする。とてもよかったので、今回の課題の空間に利用させて頂いた。

 第四回は午前中四日市市立博物館、午後は亀山市立博物館であった。これもとても充実した一日であったのでこれもまた改めて報告する。

こんな感じで博物館を巡り、バックヤードを見学させて頂き、遺跡を御案内頂きと、各博物館の方々には本当にお世話になった。そのお礼にと企画したのが、
 
 「大黒屋光太夫記念館の年四回の企画展をそれぞれの班で企画せよ!」であった。

 A班は春の一般向け企画展、B班は夏の子供向け企画展、C班は秋の特別企画展、D班は、マニアックな古文書大好き市民向け企画展という設定である。もちろん一年生なので、古文書が読めるわけでもなく、大黒屋光太夫のことなどほとんど知らない中での設定であるから、元々無茶なのである。それを承知でいろいろ考えさせてみた結果がこのポスターなのである。中でも発表をやってくれたB班の企画は即使えそうなとてもユニークな企画であった。これもいずれB班のものだけでも詳細にお伝えするつもりである(乞うご期待!!)。
 
 B班は、展示室をすごろくの「目」とし、各コーナーに置かれたくじを引きながら数に従って展示を見させるという面白い企画であった。まずは今日は
とっても素敵なポスターができあがりましたのでそれを紹介しよう!

 是非DMさん企画展で使ってくれませんか!!

 これはA班の自慢の作品です。



 これはB班の苦心の作品です。



 B班は代表発表をしてくれたのでいろいろなものを完成させてくれました。
これは会場で無料で渡すチラシです。

A面


B面


もちろんこれらは両面刷りで三つ折りですよ。

 D班はDMさんにケチョンケチョンに言われ、一時は放棄寸前までいったのですが、何とか立ち直り、とても素敵なポスターを作ってくれました。これも使えますよ。やっぱり今の学生は褒めないといけませんよ!
だめ出しはプロになってからで十分間に合います。



 一杯褒めてあげて下さいね!
 大黒屋光太夫記念館も是非行って見て下さいね!! 

 それにしても信じられないのは、こうしたオリセミの成果を活かして、より具体的に亀山市や鈴鹿市、四日市市と連携して、実際に1コーナーを貰って企画展をめざし、学芸員としての企画力を高める教育を学内で公募のあった「教育GP]で提案したのだが、落とされてしまった。他にどんな優れた企画が応募されたのかは知らないが、この間こうした公募に採用されたものが実践力を伴った例なんて一つもない。申請しっぱなし、言いっぱなし、具体性なんてなく、形だけは分厚い報告書ができても、その中身をよく読めば、どこかで聞いたようなものの作文。これこそ経費の無駄遣い!!仕分けすべし!

 要するにばらまき!金もないのに小さく満遍なくばらまいて、どんな教育ができるんですかね。呆れてものが言えない。二度と協力なんかするものか!!

 そうであるだけにこのポスターの素晴らしさが余計目立つのだが・・・。すばらしい!!まとめて買い上げるという方は高値を付けて下さいね、そしてこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

伊賀で伊賀国たる所以を説くの条

2010-07-22 05:04:01 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 7月11日午後は伊賀市での講演会でした。

 実はこの日は危うくダブルブッキングするところだったのです。桑名が午前10時から、伊賀が午後2時半から。電車を調べてみると間に合わない!!

どうしよう?

車だとどう行くか?

桑名インターから東名阪経由西名阪で伊賀上野へ。これなら約1時間半で行けると判る。しかし私は車を運転しない。ではどうする?

娘に頼んでみよう!

「了解!」と返事。ところが後日、会社の出張で、その日早朝帰国でベトナムに行くことになったという。息子は?夏の訓練で忙しい!

仕方ない、タクシーで行こう。

というわけで、午前中は先にご紹介した桑名での「榎撫駅と柚井遺跡」について、午後は、「伊賀と古代交通」について話しをすることになった。
 
 伊賀での講演会は三重大学が地方自治体と連携して行う一種の目玉事業なのです。だからできるだけ沢山の人に来てもらわなければならないのです。

 ところが悲しいかな、会場がないというのです。以前名張でやったときには優に100人は入れる会場が有り、実際それくらいの方々が来て下さったのですが、悲しいかな伊賀市の施設は40人しか入れない。何とか机の周りに椅子を入れ、ぎゅうぎゅう詰めで入れて60余人。雨は降るは、当日は選挙の投票日と重なるわで散々だったのです。

 そんな中、お話ししたのが、伊賀が国として位置づけられた理由だったのです。

 講演の概要は
 「日本の古代社会は、世界的にも珍しい律令と呼ばれる法律によって国を統治する中央集権的な法治国家でした。8世紀には大和国に、8世紀末以降には山城国に都が置かれ、全国に設置された国-郡-郷に官僚を派遣、任命して統治していました。国は66カ国ほど有り、現在の都道府県(北海道と沖縄を除く)とほぼ対応しています。特に海辺に所在する地域や島は天皇に海産物を貢納する特別な国とされ、志摩、伊豆、安房、佐渡、淡路、隠岐、壱岐、対馬等の人々が特産物を都へ納めていました。内陸部で同様の扱いを受けたのが飛騨と伊賀です。飛騨は飛騨匠と呼ばれる木工に優れた技術者集団の居住地として知られ、国家に建築技術を提供しました。では伊賀はなぜ国とされたのでしょうか。それを検討する材料が考古学にあります。特に4世紀終わりから5世紀中頃にかけて築造された石山古墳や御墓山古墳はその象徴的遺跡です。こうした様々な考古資料から伊賀の魅力を探ります。」でした。

 Ⅰ 伊賀国の前史
 まずスライドで、伊賀の古墳時代を代表する石山古墳を紹介し、この古墳がなぜこの地に設けられたのか、誰が何のために築造したのかについてお話しをしました。伊賀のど真ん中に4世紀末にできたこの古墳は大和王権が伊賀に手を付けた最初の証拠です。

 120mの前方後円墳の築造、東方外区と呼ばれる造り出しの形成、その「外区」上での埴輪祭祀、囲い形埴輪や、多様な家形埴輪、武器形の諸埴輪、石製模造品の大量埋納、等々、当時の王権との強力な関係をもつ古墳の築造は、大和が並々ならぬ力をこの地に入れていたことを示します。その証拠にこの後伊賀の地には北部に御墓山古墳、南東部に美旗古墳群が連続的に築造され、その影響が強く維持されたことが判ります。
 石山古墳の直後に伊勢湾に進出した王権が、伊勢中央の松阪に宝塚古墳を造りながら、この一代限りで前方後円墳の築造を止めてしまうのと大きな違いがあります。
 伊賀はこれ以後の大和にとって不可欠の地域だったのです。

Ⅱ 伊賀国の行政    
 ではどの様に不可欠だったのでしょうか。
 伊賀国は四郡(名張郡・伊賀郡・阿拝郡・山田郡)からなる下国でした。
 国府は講演をしたJR伊賀上野駅を東へ真っ直ぐ進んだ阿拝郡国町の一角にあります。この地を南へ真っ直ぐ南下した伊賀市西明寺に伊賀国分寺・国分尼寺も所在が確認されています。伊賀では阿拝郡が重要な地域として認識されていたのです。なぜでしょうか。

 その答えは次の『続日本紀』の記事から理解できます。
『続日本紀』和銅四年正月二日条
・四年春正月丁未。《丙午朔二》始置都亭驛。山背國相樂郡岡田驛。綴喜郡山本驛。河内國交野郡楠葉驛。攝津國嶋上郡大原驛。嶋下郡殖村驛。伊賀國阿閇郡新家驛

 和銅四(711)年ですから平城遷都の直後のことです。おそらくそれまでの飛鳥に置かれていた都が北へ移動した事による新たな交通路の策定が行われたからではないでしょうか。平城京を北へ出てその最初が都亭驛、そして木津川を渡って木津川に沿って東へ真っ直ぐ進んだところ、伊賀に入って最初の駅家が新家駅だったのです。

 壬申の乱の進軍ルートが吉野→榛原→名張→伊賀→柘植→鈴鹿・・・であったことからすると、飛鳥時代の大和から伊賀へ至るルートはおそらく古墳時代に確立したこのルートが用いられたのです。ところが都が遷されて新たな道が模索され、それに伴って国として位置づけられた伊賀国に新たな交通路が用意されたのではないでしょうか。なお、伊賀国の郡衙としては伊賀郡のそれが下郡遺跡として知られ、木簡が出土しています(後述)が、これ以外は今のところ判っていません。

 Ⅲ 伊賀国と「東海道」
[1] 変遷する「東海道」
 古墳時代に大和から伊勢湾へ抜けるルートは3本ありました。第一のルートが壬申の乱で大海人皇子が通ったルートです。桜井→榛原→名張→伊賀→柘植→加太越え→鈴鹿です。
 第二のルートが名張→美旗→阿保→川口→一志・安濃(津・松阪)です。
 第3のルートは名張→名張川→峠→櫛田川→飯高→多気→渡会です。
 
 平城京以前の飛鳥・白鳳時代も基本的にこの3ルートが用いられたと思われます。

 ところが、遷都により都が北上すると、平城京の時代のメインルートは、岡田駅や新家駅の新設によって、新たに木津川ルートが開発され、これが官道・東海道とされ,国府もこのルート上の阿拝郡に置かれます。

 長岡京以後都が山背に置かれると、東海道は一新され、近江から伊賀・伊勢或いは平安京以後は、近江から伊賀を経ずに伊勢というルートが開発され、ここに前代以来王権の所在地に対するエアーバックの役割を担ってきた伊賀の存在感は一挙に薄れます。伊賀の役割が終演する瞬間でもありました。延喜式に伊賀国の駅家が記載されない理由がここにあります。

 伊賀国を東海道が通過していた奈良時代の駅家は、公式には新家駅のみです。それ以前に壬申の乱で『日本書紀』に記載される「隠驛」,「伊賀駅」が知られますが、これらは奈良時代には伝馬の置かれた郡衙の施設の一部となったものと思われます。

[2] 文献史料に見る東海道
 天平年間に作成された『伊勢国計会帳』(断簡28行分。『大日本古文書巻第二十四巻』)は、都からどの様に公文書が逓送されたかを知る貴重な資料です。

 (前略)
 令下齎太政官并民部・兵部省符、遣中尾張国上遊牒一紙以九月三日来返抄。
 右 付鈴鹿郡散事石寸部豊足
 齎太政官并民部・兵部省符、従伊賀国来使返抄一紙
 右 付還使石部赤麻呂 
 (後略)

 この計会帳によって、次のようなことが復原できます。
a) 太政官符・民部省符・兵部省符が都(平城宮)から大和国→伊賀国→伊勢国→尾張国・・・→というルートで伝達されていた。
b) 伊勢国→尾張国へは鈴鹿郡の役人(石寸部豊足)がこれらの文書を伝達した。その際、送り状としての「遊牒」を尾張国へ届けた。その受け取りとしての「返抄」を九月三日に伊勢国(石寸部豊足)が受け取った。
c) 一方、太政官符・民部省符・兵部省符を「遊牒」と共に齎(もたら)した伊賀国の来使(石部赤麻呂)には「返抄」を持たせて返した。

 この様に730年代に実際に行われていた東海道を通じた公文書の流れを復原することができるわけです。

(注) 計会帳 : 律令制下において、地方官は中央政府に政務を報告するために4種の帳簿(「四度公文(よどのくもん)」)を提出するが、その一つである朝集帳の付属帳簿(枝文(えだふみ))をいう。諸国の国衙(こくが)が1年間に中央政府や他国との間で授受中継した詔(しょう)・勅(ちょく)・符(ふ)などの公文書を、授受の月日と使人の姓名とともに記帳し、期日までに太政官に提出した帳簿である。太政官では中央諸司主典(さかん)と諸国朝集使の参集のもとで提出された計会帳を監査し、公文書の授受に遺漏がなかったかどうかを確認した。計会帳は正税(しょうぜい)帳とともに律令制地方行政の実態を明らかにするための貴重な資料の一つであり、「出雲国計会帳」「伊勢国計会帳」が現存する。(小学館『日本大百科全書』)

 もちろんこの場合の実際の公文書の流れは平城宮(太政官)→大和国→都亭駅→岡田駅→新家駅(伊賀国)→伊賀国《石部赤麻呂・遊牒》→(加太越)→鈴鹿関・鈴鹿駅(伊勢国)→《←返抄・石部赤麻呂》伊勢国府《石寸部豊足・遊牒》→河曲驛→朝明駅→榎撫駅→馬津駅(尾張国)→《←返抄・石寸部豊足》尾張国府→・・・・→参河国府・・・
のようであったと思われます。

[3] 伊賀の人々
 この様な史料を通して、伊賀国に「勤務」した石部赤麻呂や伊勢国に「勤務」した石寸部豊足の存在が明らかになります。特に石部氏については平城京で発見された木簡から伊賀郡にも展開していたことが知られます。

・ 伊賀国伊賀郡長田郷
・ 新木里石部道□長

→石部氏は磯部氏、伊勢部氏ともされ、この他に伊賀国阿拝郡柘植郷長解に石部大万呂等が知られ、伊賀国の中心的氏族であったことが判ります。

 なお、伊賀郡衙と推定される下郡遺跡からは延暦の元号を記す木簡が発見されています。三重県下では先に紹介した柚井遺跡の木簡と並ぶ地方での貴重な文字資料となっています。

《伊賀市下郡遺跡》
・ 沓縫阿□□□□祖□□○□
・ 〈〉出可租稲七束四把四分延暦□

おわりに
・なぜ伊賀は国になったのか
→大和が中心であったときに東国との間のエアーバックのような役割を果たし、中央の情報は伊賀を経て東へ伝えられた。
・しかし、都が長岡京・平安京と遷されるに従って、次第にその役割を終えることになる。

 こんな話しをした訳なんです。

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悲しい、悲しい報せ

2010-07-18 00:54:43 | yaasan随想
 昨日、友人から、突然悲しい報せを告げられた。

 私の高等学校の恩師□田△重先生が亡くなられたというのである。
 それも、3月に。
 誰にも言うなということでご葬儀もご家族だけで済まされたという。先生の日頃のお考えとして、そうだろうなと思った(本当はそのままお名前を書きたいのだが、ご遺族にご迷惑をお掛けしてもいけないので、ここではやむを得ずお名前を伏せて書くことにした)。

 私は京都の新制高校、洛東高等学校の出身である。当時の京都は小学区制で、出身小学校によって中学校も、高校も決まっていた。だから名門もへったくれもなかったのである。山科に住んでいた私は当然の如く山科盆地の北端、平安時代の名刹安祥寺境内に建てられたこの高校に進学した。今はもうなくなったが、当時の洛東高校の校舎はなぜかぼろぼろだった。というか、私達を含めた3組ほどだけがボロボロの木造校舎に入れられた。外には蟻地獄が巣を作り、教室をいろんな虫が飛び交う、ある面長閑な校舎だった。

 そんな校舎での新学期に担任をして下さったのが□田△重先生だった。現代国語の先生で、教科書の課題文章をお読みになるときの声が朗々としていて、教室中に響き渡った。

 1年生の最初は先生が学級委員長を指名したので、私は副学級委員長と言うことになった。そんなこともあって、よく職員室へも呼ばれ、いろいろお話しすることも多かった。とは言っても二年生になると先生は異動されて、市内の別の高校へ行かれ、ある高等学校の初代校長をお務めになって退職された。そんな先生だから普通ならそれで終わっていたと思う。

 ところが縁というのは本当に異なもので、それから10年も経って、ようやく見つけた就職先が向日市教育委員会。その時の係長がSさん。彼も実は□田先生の教え子だった。そして□田先生が当時の勤務先の直ぐ裏にお住まいだと言うこともよくご存じだった。

 そんなある日
 「オイ、章!直ぐ裏の民家で変な石がでたから見に来いというてる。ちょっと一緒にいこか。」

 「ハア、是非!どなたのお家ですか?」

 「□田はんちゅうてな、わしの恩師や。」
「へえー、私も高校の時□田先生という方に習いました。国語の先生でした。」

 「アーその人や。何でも□田先生も覚えててな、会いたいから連れてこいと言うたはるんや。」

 「□田先生がですか?ヘー、そんなよう覚えて貰うほどの生徒やなかったんですが・・・」

 こんな会話が進んで、お家を訪ねると超豪邸!!!というか広々とした敷地に2階建ての瀟洒なお家が建っている。庭というより広大な屋敷地と言ったところ。その庭先に掘られた穴の中に川原石の大きなものが数個鉢巻き状に並んでいる。

 「イヤー山中君、久しぶりやなー、こんな所で会うとは思ってもいなかったな-。元気そうで何よりや。実はな、このs君は前々からよう知ってるんでな、こないだ庭にゴミ穴でもあけようかと思って穴を掘ってたらな、何やら石がゴツンゴツンと当たるんでな、それでこのs君に連絡したんや。そしたら君の名前が出てきて、びっくりしてな、来てもらってくれと言うことになったんや」

 「・・・・・・」(緊張のあまり何も言葉にならなかったと思う。)

 1978年12月28日、役所の御用納めの日であった。
 それは礎石建物の根石に他ならなかった。その場所は長岡宮城の北西部に当たる。平安京で言えば宴の松原、武徳殿等のあるあたりである。驚いた。朝堂院や内裏等、中心施設は長岡宮でもこの頃には随分解明されてきていたのである。しかし、周辺部の官庁になると、「どうせ大したもんはないやろ!」と疑問視する声も多かった。そんな声を木っ端みじんに打ち砕いた決定的な証拠がこれだったのである。その後次々と発見される官庁施設。大蔵、春宮坊、太政官、等々。その後の調べで緑釉陶器の竈なども出土し、長岡宮が副都などと言う愚か者は数人を除いていなくなった。そんな長岡京研究にとっての記念すべき材料が目の前に転がっているのである。

 そこで、恐る恐る、厚かましくも、発掘調査のお願いをしてみたのである。
 するとどうだろう。

 「アー、君が掘ってくれるならいいよ。ちゃんと調査してくれよな」

ということで翌年の国庫補助事業に組み込み、5月から9月までじっくり調査させて頂いた。こうして始まった長岡宮跡第82次調査は初めての大規模な省クラスの建物の発見、「コ」字形配置の施設の確認、礎石構築方法の新しい工法の確認等々多くの調査成果を残して終わることができ、年度末には『向日市埋蔵文化財調査報告書第5集』1979年として、これも初めての巻頭カラー写真を入れて報告することができた。

 そしてそして、先生のご厚意で、庭先の保存を約束して下さり、今日に至っているのである。もちろんこれを国の史跡とするよう努めることも約束したのだが今日まで果たせていない。それが一番無念である。

 今年の年賀状もお身体の悪いことが記されてはいたが、いつものとてもきれいで繊細な字で暖かいお言葉を頂いていた。

 実は昨年秋、学生達を連れて長岡京を巡ったとき、もちろん長岡宮北西官衙地区へもお邪魔し、遺跡を説明した。今先生がお住まいになっている本来のご自宅、江戸時代お醤油やさんだった松葉屋さんの旧家も外から案内し、お会いしたいな-と思いながら後にしたのだったが、思い切ってお尋ねすればよかったと、今頃思うのである。

 私が長岡京で頑張れたのもこうした先生の暖かいお心遣いがあったからであり、そんな先生がもういらっしゃらないとは思いたくもないし、これからあの遺跡を訪れたとき何と説明すればいいのか、本当に辛く寂しい思いで一杯のこの二日間である。

 もちろんできるだけ早くお参りに参りたく思う。

 本当にごめんなさい、先生。あちらでもあの朗々としたお声で国語を教えていて下さいね。

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くわな歴史と文学を語る会で榎撫駅を語るの条

2010-07-16 05:35:31 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 7月11日午前は「くわな歴史と文学を語る会」7月例会で「久留倍遺跡からみた聖武天皇東国行幸」という題で話した。
 聖武が桑名で宿泊した石占頓宮の置かれた場所がどこにあるのか、榎撫駅の所在地を中心にお話しをすることにした。石占頓宮はどこなのか、なぜこの地に泊まったのか、この課題の検討を中心に話すことにしました。

 もちろん一般の市民の方々が対象なので、さほど難しい話はできないのだが、この会の方々もとてもレベルが高く、毎月こうした例会を開催され、いろいろな方から話を聞いているらしい。だからあまり平板な話もできない。当日は何と150人もの方がお集まりになって私の話を聞いて下さった。

 全体の話しの流れはこんな感じでした。

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 1999年に発掘調査が開始された久留倍遺跡はその後の調査によって、奈良時代の大規模な建物群からなる朝明郡随一の公的性格の遺跡であることが判明しました。私はその規模や構造から、奈良時代はじめは朝明駅、中頃に聖武天皇の朝明頓宮に改修され、奈良時代終わりには朝明郡の正倉別院となったと考えております。聖武天皇の東国行幸は壬申の乱における大海人皇子の事績を辿ったものとされますが、特に鈴鹿郡赤坂頓宮以降の行幸ルートはほぼそれに沿っていることが知られます。ご当地桑名にも石占頓宮に一日宿泊しており、その推定地が多度町戸津周辺にあった榎撫駅であったとされます。久留倍遺跡での朝明駅・朝明頓宮・朝明郡衙正倉別院の発見はこうしたこれまで判らなかった頓宮や駅家の所在地を考える上でとても大きな役割を果たしました。今回は聖武天皇東国行幸を中心に古代伊勢国の交通路についてお話ししました。
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はじめに

 桑名と聖武天皇東国行幸を交通路の視点から話すことを告げる。

1 久留倍遺跡の構造       
まず久留倍遺跡がどんな遺跡であるのかを再確認しました。
(1) 第Ⅰ期の施設群:朝明駅家
・ 「コ」字形の官衙的建物群を配置
・ 東面する構造
・ 丘の上に立地
・ 正殿背後に総柱建物
(2) 第Ⅱ期の施設群:朝明頓宮
・ 極めて規模の大きな建物が丘の最頂部に南面して配置
・ 四段に造成された丘の上に階層差の高い施設が展開
・ 衛禁律の罰則規定
・ 中国洛陽西苑内の合璧宮
(3) 第Ⅲ期の施設群:朝明郡衙正倉別院
・ 規模の小さな倉庫群
・ 防火水槽を持つか
 
2 朝明駅家から朝明頓宮へ
 そして朝明駅であったが故に400の騎馬と600人あまりの官僚を従えた大行列の宿泊地としてこの地・久留倍域が選ばれたことを示しました。
(1) 駅家の馬管理機能
・ 聖武行幸時の400の騎兵
・ 駅家は最適
(2) 丘上の防御性の高い立地
・ 防御機能型の駅家を頓宮に転用

3 石占頓宮と榎撫駅家
 一つ判ると次々と謎が解けていきます。
 なぜ最初に河口頓宮が選ばれたのか。その答えは、この地が川口関だったからです。頓宮の関利用として、この後聖武が宿泊した施設である赤坂頓宮は鈴鹿関、不破頓宮は不破関であることが知られます。ではそれ以外の頓宮はどんな理由で、どんな条件からその地が選ばれたのでしょうか。
 聖武が朝明と目と鼻の先の桑名に宿泊したのは、この地が壬申の乱における大海人皇子側の拠点だったからでしょう。宿泊地の候補として桑名郡衙も検討されたはずです。今のところ郡衙がどこにあったのかがよく判っておりませんので、その実体は不明です。しかし倭名抄の郷名やその並び(野代郷・桑名郷・額田郷・尾津郷・熊口郷)からみて、桑名郷に郡衙が置かれたと推定できますから、現在の桑名の中心部に所在したのしょうか。

 ところが、『続日本紀』は郡衙に泊まった場合は「○○郡に宿す」等と記され、石占のような別名を付けないことが多いようです。すると、郡衙に次いで可能性が高いのが駅家です。桑名郡には伊勢国北端の駅家として榎撫駅家が置かれ、交通の拠点であったことが知られています。 では榎撫駅家はどこなのでしょうか。そこで倭名抄にある尾津郷が注目されるわけです。旧多度町戸津には尾津神社があります。
「榎撫」という名称も「江・津」(えのつ)であったとも考えられます。江=伊勢湾と揖斐川の合流部にできた入り江に置かれた津という名称ではないでしょうか。多度町「戸津」や「尾津」はぴったりの名称です。

4 榎撫駅と柚井遺跡

 地名以外に榎撫駅を示す資料は今のところ無いといわれます。しかし私はかの有名な柚井遺跡はその一角であったのではないかと考えています。
 柚井井遺跡を調査した鈴木敏雄や伊藤富太郎の記録によれば、当地はかなりの低湿地であり、海水域の貝類や汽水域の貝類が出土しているという。平安時代前期にはこの地は海と川の接点であったのだ。「戸津」の北側に位置するこの地が「江津」の一角であった可能性は大いにあるのである。

 駅家ならここでも400の騎馬隊を受け入れるには十分な施設があったに違いない。

 聖武天皇は鈴鹿関の赤坂頓宮→朝明駅の久留倍遺跡→東海道伊勢国北端の駅家榎撫駅→美濃国当耆頓宮(当耆郡衙に置かれたのか)と、公共施設を改修しながら旅を続けたのではなかろうか。

 なお『日本後紀』 延暦二十四(805)年十一月壬申(13日)条には次のような興味深い話が伝えられている。

 「壬申。先是伊豆国掾正六位上山田宿祢豊濱奉使入京。至伊勢国榎撫朝明二駅之間。就村求湯。有人与之。更復煖酒相飲。其後嘔吐。至伊賀国堺。豊濱従者死。豊濱情知毒酒。勤加療治。至京遂死。遣使左兵衛少志従六位下紀朝臣濱公勘之。无得。」

 805年11月13日、伊豆国の国司の1人である山田宿禰豊濱が都(平安京)へ登らんと東海道を進み、尾張国馬津駅家から船に乗って榎撫駅家へ渡り、今度は陸路を朝明駅へ向かう途中でとんでもない事件に巻き込まれたのです。何の恨みがあったのか、よほど失礼なことでもしたのか、国司一行が休憩したところで毒を盛られ、鈴鹿関から伊賀へ向かうところで従者が亡くなり、本人も、京都に着いたところで亡くなったというのです。よほど珍しい事件だったのでしょうね、正史に載せられていたのですから。

 それにしてもこのお陰で私達はこの頃の尾張→伊勢→伊賀の駅路を確認することができるのです。そしてこの頃の東海道はまだ鈴鹿峠越えではなく、柘植から草津を通るコースであったこともこれから確認できます。鈴鹿峠越えが正式な官道として用いられるのはやはり元慶2(886)年のことのようです。

 また、次のような史料は、榎撫駅の規模を彷彿させてくれます。、
 『日本後紀』弘仁三(812)年五月乙丑(16日)条 

 「乙丑。伊勢国言。伝馬之設。唯送新任之司。自外無所乗用。今自桑名郡榎撫駅。達尾張国。既是水路。而徒置伝馬。久成民労。伏請一従停止。永息煩労。許之。」

 榎撫駅には国司赴任の時に使用する伝馬5疋が置かれていたが、この駅家は水路を船で行き来するもので、維持管理が大変なので、これを廃止したというのである。

 水陸海三交通の結節点が榎撫駅だったのである。

おわりに

 桑名の地の交通の拠点としての重要性を再認識して頂いて、一刻も早く榎撫駅=石占頓宮を発見して、久留倍遺跡と共に保存活用に励みましょうとお願いして終わる。

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六月は鬼門の月!!の条

2010-07-13 23:15:31 | yaasan随想
 3年前に私の人生初めて入院が2007年6月4日。大森俊輔が交通事故に遭ったのが2008年6月12日。そして旅立ったのが6月25日。昨年は一ヶ月早く、ブログが止まったのが5月だったのだが、今回6月12日にストップし、早くも一ヶ月のブランクとなった。

 古代には毎年6月30日には大祓が行われ、真夏に備えていたことが知られる。今世間を騒がせている「相撲」も伝説上は7月7日に野見宿禰と當麻蹴速が闘ったことに由来するとされ、七月七日の節会に病や汚れを祓うために行われた本来は「賭博や格闘技」とは全く無縁の神事であった。だから、国技などと誰が言い出したのか?全くそんなものとは無関係なのである。にもかかわらず「格闘技興業」をなぜNHKが巨費を投じて宣伝するのか全く不明だったが、今回は少し面目を保った。ただし、放送しなかったのだから放送権料は当然払われないはずだが、しっかり監視しておかなければならない。

 いずれにしろ、我が身の周辺にあまりに多い、六月七月の不幸を祓うために怨霊の神様山田(Y) 博士にお祓いをお願いするのだが、これが一向に効き目がない!!
 
→要するに自分のことは自分でせよ!という強い信念が感じられる。

 そこで何とか自立しようと重い重い腰を上げてようやく書き始めたのが今日なのである。ところがである、書き始めようと思った矢先の一昨日、深夜、娘が突然食中毒にかかり、救急車で運ばれるというハプニング!

 昨日の『延喜式』研究会もパスして急遽京都から津へ。何とか大事には至らなかったようだが、なにせ娘は日曜日の朝ベトナムから帰ったばかり。元々ベトナムは娘にとっては(もちろん私にとっても、三重大学考古学研究室にとっても)鬼門の地。
 あの忌まわしい「事件」さえなければ、大森も、我が母も、死ぬことはなかったのではないか。そして調査に参加した連中が尽く食中毒になることもなかったはず。三重大学関係者にはそんな忌まわしい記憶しか残っていない国へ、二度と足を踏み入れたくないその国へ、仕事上の命令とはいえ、無理矢理連れて行かれ、気温45度、湿度90%とという信じられない地から何とか帰ってきたと思ったら、帰国直後の猛烈な腹痛と下痢、嘔吐、発熱。

 仕方がないから京都から「救急車を呼べ!」指令。

 そんなこんなでこの一ヶ月余はいろんな事がありすぎてクタクタ!!でももうそれが終わったかというと、九月末まで続きそう。

 ウ~~ン ブログ引退か!?という危機的状況。

 あ、もちろん!というか、ヘロヘロになって約束を大幅に遅れて例の原稿はこの間に出しましたよ。

 本当にごめんなさい!山田(K)博士!穴があったら入りたい。

 ところがなのです。実は並行してもう一つ大きな原稿があったのです。だから山田博士の原稿が終わってもブログが再開できなかったのです。そうこうしているうちに、次々と一年前からお約束していた仕事が始まって、ここのところほとんどまともに寝ていないのであります。もちろん、誰のせいでもありませんよ。私の怠慢!!準備不足!いつまで経ってもぎりぎりにならないとやらない悪い癖。

 でもそんな中、とても嬉しい話しもあったのですよ。

 実は7月1日から5日まで福岡大学へ集中講義に行きました。武末純一先生からのご依頼で、私は全く面識がなかったのですが、もちろんお名前は存じていなければ考古学をやっているとはいえない大先生。其の先生からのご依頼で伺った集中講義。とても熱心な学生さん達と充実した3日間を過ごしたのですが、一番驚いたのが、講義の机の前に置いてあった

 「かりんと」

 ア、誰か学生さんが私のブログを読んで置いて下さったのだな・・・。と何となく思って講義を続け、その日の夕刻、先生が出張からお帰りになって話しをしていてびっくり仰天!!

 先生がブログを読まれておいて下さったのだという。

 その上さらに出張先で新たに手に入れたという「かりんと」まで下さって、その夜はかりんとで一杯やった次第であった。

 本当は其のかりんとの写真もあるのだが、これをやっていると準備に手がかかり、もう一つの原稿が書けなくなるので、取りあえず、今日は感謝の気持ちを込めて言葉だけの御礼。

 本当に先生、有り難うございました!!

 本来なら直ぐにお手紙を認めなければならないところ、あの後も講演会、学生の合宿指導、博物館巡りと行事が立て続けになったもので、ご無礼をしております。お許し下さい。

 もうそろそろ限界です。

 再開ブログがまたまた躓いて、この次の記事をいつアップできるか判らないが、とにかく、皆様におかれましても、食べ物、疲れ、ベトナムには十分お気を付け下さい。

 夏に強かったはずの私がここのところ毎年ダウン。歳ですかね。もう少し頑張れと思う人も、早くくたばれと思う人もこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへもまたよろしくね。

(背景はいつも素敵なイラストを送ってくれるOE三の新作夏バージョンです。今年こそ8・6に広島へ!!)