yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

息子lの息子ならぬ息子の娘登場の条

2009-10-28 07:45:27 | yaasan随想
 昨日10月27日早朝息子のところに娘が生まれました。俗に「○○」という奴がもう1人増えたわけであります(ま○ではありませんよ!!お間違えの無いように!!)。

 噂では男の子ということでしたので、何と呼ぼうか?

「息子の息子2」??ウーン、ロボットみたいでよくないなー。
「息子の息子の弟」??ウーン、長たらしいな・・・。
「息子の第二息子」ちょっと硬いなー。

等と悩んでいたのですが、女の子ということでホッとしました。

 息子の娘

これで決まりであります。

まだ名前も付いていません(聞いていないだけかも)。世間では早くもあれがいい、これがいい、と噂が飛び交っていたり、息子の息子の保育園の同級生の悪ガキまでが命名してくれたりと大騒ぎ?になっています。

 その昔、息子の息子が「陽」(ひなた)だからそりゃ女の子なら当然「陰」(こかげ)だろうと言ったことはありますが、ちょっとこれでは可哀相なので不採用でしょうね。

 ま、これだけは親の権利ですから、若夫婦にお任せです。

 女の子ですから、いらぬ虫が付いては困りますので、これが最初で最後のお披露目です。



(息子の息子曰。「本当は男の子がよかったんだけどなー(オイ、兄貴!って言わせられるので)、でも可愛い!!」だそうです。)

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 この子達が安心して暮らせるためにも

  オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問をを実現し世界平和を!!

大森俊輔君お墓参りの条

2009-10-26 23:48:23 | yaasan随想
 2009年10月25日、関係者数人と大森俊輔君のお墓参りに出かけた。



 
 
 今夏のお盆やお彼岸に参りたかったのだが、中国調査中のために参れなかった。9月には同級生の大竹君達が既に参ってくれていたので彼に場所を確認して参ることができた。

 彼の実家の直ぐ近くにその墓はあった。

 真新しい墓標には「南無釈迦牟尼仏」と刻まれていた。ご実家は禅宗であろうか。裏面に「功徳主」とあり、ご両親のお名前が、側面には彼の命日である2008年6月25日と戒名「清覚俊道居士」が刻まれていた。お骨はご先祖様のお墓に入っているのだろうか、墓標には卒塔婆などはなかった。

 住宅街の真っ直中、往生寺というお寺の直ぐ横にある多可木北霊園の、ひときわ目立つ真新しい墓標が涙を新たにした。もうあれから1年と4ヶ月が過ぎてしまった。同級生だった大竹君は南山大学の大学院で頑張っていると聞く。後輩だった三年生は今卒業論文に四苦八苦している。それぞれがそれぞれの時間をそれなりに過ごし、「歳」を刻んでいる。しかし、大森俊輔の「歳」は22歳で止まったままだ。
 
 私の22歳は?
 ヒロシマの乾いた空間で、毎日毎日大学の授業に出ることもなく、正門前の喫茶ロビンに「出席」して漫画を読み、コーヒーを飲み、スパゲッテイーで腹ごしらえをし、夜は屋台で合成酒で酔いに任せる。そんなふしだらな日常を思い起こす。きっと大森が聞いたら怒るに違いない!


 お盆からは時間も経ち、新しい仏や命日もないのだろう、都会の中の日曜日の墓地は、訪れる人も、線香の香りもなく、ただシーンと静まりかえっていた。事前に三松堂・小林智太郎さんから御預かりしたお線香などと共にお花を捧げ、在りし日の大森を思い起こした。




久留倍遺跡セミナー第2回開催の条

2009-10-26 23:23:18 | 久留倍遺跡を考える会
 10月24日土曜日は久留倍官衙遺跡を考える会主催の第2回出張セミナーの日であった。第1回は久留倍遺跡の中心大矢知の市民センターで久留倍遺跡成立前代の歴史を四日市市教育委員会のHYさんと私とでお話しさせて頂いた。

 

 今回は久留倍郡の古代の中心・八郷地区に出張してのセミナーでした。立派な資料集も印刷されていて(実費200円販売中)、全て考える会の皆さんの自前の企画である。素晴らしい!!

 内容は四日市市教育委員会のKTさんが「久留倍遺跡と八郷」、三重大学人文学部非常勤講師の清水みき先生が「伊勢・志摩・伊賀の木簡」と題してお話し下さった。初めて、久留倍遺跡の会で木簡の話しがあるというので会場は50人余りしか入れないのに60人を超し、溢れるばかりの大盛況であった。



 KTさんからは四日市市や三重県が八郷地区で発掘調査した成果がスライドで紹介された。しかし、少々苦言を呈させて頂くと、ちょっと地元の一般市民の方にはとてもとても難しく、用語も専門的用語が乱発されて、聞いている私が冷や汗の出るものであった。



 かつて故佐原真さんは判りやすい考古学を宣言し、専門的用語の置き換え、普通の人が聞いて判る解説を求められた。専門家を対象とした学会の発表ならいざ知らず、恐らく初めてこのような会に出席されたに違いない方の多いこのような会で、「掘立柱建物」「総柱建物」「「コ」の字形配置」に「品字形」、「官衙」(役所)だの「郡衙」(郡役所)などが通じるはずがない。それでもまだそれぞれの遺跡のスライド写真でも豊富に示されて、その中で説明されるのならいざ知らず、印刷された図面と同じものが暗い画面に映されて、話されても判るはずがない。

 慣れてないのかと思いきやもう教育委員会に勤めて十余年になるという。もう中堅である。ちょっとそれはないやろ!!と思いながら聞いていた。それでも時間通りに終わるのなら許されるのだが、ナナナント予定時間を1.5倍もオーバーして終了。次の講師の方のこと、聞いている方の都合も考えなくては!

 そんなこんななので、次の清水先生のお話の時間が大幅に減ってしまった。先生はそれをちゃんと意識して話しを少しカットされてお話しなさったものだから、私としてはとても残念だった。いつかもう一度三重県の木簡に絞ってお話し頂きたく思っている。

 

 先ず木簡そのものの概要を丁寧にお話し頂いた上で、①地元に近い柚井遺跡の木簡について、②三重県を代表する志摩国の木簡について、③三重県出土の木簡について、④その他の伊勢・志摩・伊賀関係の木簡についてお話頂いた。
 地元の方としてはもっともっと聞きたかったに違いない伊勢・志摩の木簡の話し等、結局短い紹介に終わったことが残念でならなかった。質問時間もなく、欲求不満の残ることになってしまった。

 次回第3回は2010年1月9日(土)、皇學館大学の岡田登先生をお迎えして、朝日町の資料館で、「縄生廃寺と久留倍遺跡」(仮題)と題してお話し頂く予定である。今度こそ今回のようなことにならないよう、もう1人の教育委員会の方の話しは少し短くして頂く必要があろう。

 それにしてもこのセミナー、四日市市教育委員会は先のような報告者は出すが、準備から広報、資料集まで全部市民の方の自前の活動である。今回のような状況だから行政としての活発な活動ができないのかもしれないが、ちょっと情けない気はする。それに比べて考える会の方々の活発な活動には頭が下がる。全国の手本とするに相応しい活動である。

 その象徴的な行事が今年も11月14日(土)に第2回久留倍まつりとして実施される。第2回の主な行事はつぎのとおりである。
 午前の部  
 ① 壬申の乱ウオーク 長倉神社ー久留倍遺跡ー天武天皇望拝所ー耳常神社のコースを昨年以上に増えた衣装隊(総勢50人ほど)を伴って歩く
 ② 久留倍遺跡での写真コンテスト
 ③ 途中の斎の宮公園で草鞋作りと火おこしの実演

 午後の部
 久留倍遺跡講演会 久留倍遺跡と北伊勢
 ① 加藤謙吉先生(早稲田大学講師)「伊勢の国の猪名部について」
 ② 山中 章 「鈴鹿から不破へ」

ポスターもできあがっている。近日中にそれらを含めて詳しくご紹介することにする。

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もちろん オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ11月訪問を求めよう!!

伊豆國探訪-3 探し回った清水柳北遺跡の上円下方墳の条

2009-10-26 00:00:01 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 伊豆にはこんなにたくさんいい温泉があるとは知りませんでした。遺跡ばかり見ていてはいけませんね。僕の友人のブログ「散歩するなべさん」にいろいろ紹介されています。

 さて、後一つというところでまたまた事件が!



 昼ご飯を食べて最後の石櫃を見に行こうと言うことで学生のコピーしてきた地図を頼りに現地へ。

 どうも工業団地の中にあるらしい。

 車を止めて地図を見るとどう見てもその場所だ。

 「ここちゃうか?ちょっと捜してみよう!」

直ぐに見付かると思ったのだが全く判らない。あいにく当日は日曜日、ほとんどの会社が門を閉めて休んでいる。

 「おかしいな・・・。ほんまにこれで間違いナインか?」

「はい!!はっきりこうなっていましたから!」

学生は自信満々に主張する。

「ひょっとして工業団地造成で壊されたんと地がうか?」
 「いえ、残っていると書いてありました!」

そこまで自信を持って言われるとこっちも返す言葉がない。グルグルグルグル、何回工業団地の中を回ったことか?ない!どっかで聞こうか?といっても車さえ通らない。たまたま若いお姉さんの乗った車が通ったのでダメ元で聞いたみた。後ろに付いてきた彼氏?の車も止めてあれこれ議論、どうもここではなくて下の方の団地と違うか?ということに。

 半信半疑で下の工業団地に向かう。

 ない!

 もう一度先程の工業団地に戻る。たまたま一つの工場の門扉が開いていた。尋ねてみると社長さんみたいな人がでてきて熱心に見てくれる。

 「アーこれやったらこの下の第二東名の直ぐ南にある!」と断言してくれる。
 やった!やっと見付かったかれこれ一時間は過ぎている。

 ところがそこに行っても見付からない!????歩き回ること30分。ひょっとして聞いた方向が逆かもしれん。そっちを捜そうと言うことに。


「ありました!!!」

それがこれ。


 これぞ探し求めた遺跡の看板である。
 よく読んでみると、この遺跡は移築したもので、元々は南東200mの工場団地の中で見付かったという。その方向を見ると先程まで歩き回った大きな工場が現在の道路面より低いところに巨大な空間を占拠していた。

 

 調査時の写真.規模は小さいが地方にはとても珍しい上円下方墳。説明(報告書)では駿河郡の郡司クラスの墓だと言うことだが、本当だろうか。もしそうなら全国にもっともっと上円下方墳があってもいいはずだ。

 私にはもっと複雑な歴史的背景がこの墓にはあるように思える。特に、大きな石櫃だけが中心部に埋葬されている点が他と全く異なる点であろう。





 大北のものとはまた異なる大きな石櫃。




 こんな工場群のために破壊されてしまったらしい。恐らく静岡県唯一の遺跡だと思う。日本史全体においてもとても意義深い遺跡である。しかし、現地は破壊されてしまい、移築という安易な方法で貴重な遺跡は破壊されてしまった。本当に情けない。



 移築なんてのはどれだけの意味があるのだろうか?文章を読むjと、かつてこのお墓のあったところには小さな尾根が延びていて、その端付近に設けられていたという。その丘の地形も完全に失われ、移築された土地も当時とは全く違うので、何故この地に珍しい上円下方墳が設けられたのかがさっぱり判らないのである。

 仕方がないので、説明板にある日吉廃寺を探しに行こうと言うことになり、またまた車を走らせた。石櫃と関係があるというので直ぐ近くかと思いきや、何と車で十五分以上走らないとその地名の地に着かないのである。



 上円下方墳の中心が石櫃だったことから周辺の寺院跡が注目され、この地名の日吉廃寺がその関係だというのだが・・・。
 なにせえらく離れているんですよね。



 とりあえずこのコンビニの前の写真を撮りましたが、日吉廃寺の跡は見つけられませんでした。

 どう考えてもあの看板の説明はこじつけとしか思えないのである。学生の方がまともで、もっと他に要因があって石櫃が上円下方墳の中心に埋納されたに違いない。

 ひょっとしたら、この上円下方墳の人物がこの地域に火葬を広めたと言うことはないのだろうか?そんな妄想を抱きながら遺跡を後にすることにした。




 帰路の車窓から見えた富士山。駿河湾の辺りかな。

 途中蒲郡辺りで35キロの自然渋滞に巻き込まれ、津に戻ったらもう夜の8時だった。次男には翌日早朝からの勤務、本当に申し訳なかったが、私にはとてもいい探訪となった。果たして学生がこの成果をちゃんと卒業論文に活かしてくれるかどうか。後3ヶ月の努力にかかっている。

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もちろん!

 オバマ大統領のヒロシマ、ナガサキ11月訪問を求めよう!!

伊豆國踏査-2 柏谷横穴に再挑戦!の条

2009-10-24 09:35:02 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 ホント前日の夜は最悪でした。

 雨に濡れてよれよれになった服で、肌寒い夜の遺跡公園をとぼとぼと迷子になった初老のおっさんが歩く。

 異様な光景ですよね。途中何度か犬の散歩のおばさん達に会ったのですが、きっと気味悪かったでしょうね。

 さて、その夜は沼津駅前の、YY先生ご推奨?(先生はこの地のご出身なのであります)のビジネスホテルに泊まり、遅くなった(迷子捜索で1時間は無駄にしましたね)夕食を駅前の居酒屋で食べました。コメントをくれた友人によればいくらでも美味しい魚を食べることのできる温泉があるのに・・・。ということでしたが、YY先生は何も教えてくれなかったので、寂しくホテルのシャワーを浴びて寝ました。

 翌日(18日)は快晴!!



御用邸






 歴史民俗資料館があるという御用邸公園に出かけることに。何でも大正天皇の別荘だったとか。入園だけだと100円なので、たくさんの市民が散歩に来てましたね。とっても綺麗な公園(邸宅跡)で、すがすがしい空気と景色に大満足でした。

 と、ところが・・・。またしても事件?が。

 ナナナント、歴史民俗資料館が臨時休館だというのです。

 「エエッツ!何で!!??そんなことどっかに書いたーったか?」思わず学生に詰問しました。

 「いえ、ネットでちゃんと見ましたが、今日休館などとはどこにも・・・。」 
受付のおばちゃんに思わず大きな声でもう一度「何で!?」曰、「消毒のため」

 「・・・・・・!!(怒り収まらず)このためだけに京都から来たのに!!」

 「申し訳ありません.入館料お返ししますので」

「いえ、折角ですから御用邸を見て帰ります」(実はこの資料館には堅魚漁関係の民具がたくさんあると聞いてきたのだ。私の今回の伊豆訪問の大きな目的が、伊豆半島の横穴の地形確認と堅魚漁関係の資料収集だったのだ。とっても残念!!

という様なわけで、恨みの資料館も覗いてみたが、確かに民具やら何やらを担ぎ出して業者さんらしきトラックがバタバタしていた。どうもこの私資料館という存在には恨まれているらしく、その昔、初めて行った井戸尻の資料館が臨時休業!!きっと前世で資料館に何か悪いことでもしてるんでしょうね。それにしても、30年前ならいざ知らず、今はネットがあるんだから、18日は燻蒸のために休館しますくらいホームページに書き込めるやろ!このぼんくらめ。資料館に押し入って燻蒸されるわけにも行かず、スゴスゴと引き上げ、御用邸を散策。



富士見台 残念ながらここでは富士山は見えなかったが・・・。



御用邸海岸



海辺の四阿



庭園の菊

 なかなかええとこでしたワ。さすが天皇の別荘ですな。何でも空襲で中心建物は焼けたそうですが東西の脇殿が残っておりました。平屋建て、和風の数寄屋建築風でしたな。時間がなかったので内部は見ませんでしたが、いつかもう一度行くことがあったら資料館と共に見てみたい気になりました。富士見台というのも置かれていたのですが、その日はあいにくまだ朝靄がかかっていて見ることはできませんでした。

 災い転じて福となす。無理矢理福と変える!

 もう一つのリベンジ!!柏谷横穴へ行こう!ということになりました。

 快晴のすがすがしい空気の横穴公園はたくさんの人で埋まっていました。とてもいい光景でした。ただ残念なのは、毎日犬の散歩しているであろうおばさんが、看板を見ながら、「へえー、ここはお墓やったの?」などと抜かしおる。おい、おい、毎日散歩してたんと違うんか!と突っ込みたくなったが、ま、気付いてくれてよしとした。



 立派な国史跡です。市民もたくさん散歩に来ていました。



 百穴と言われただけあってそこら中にあったようです。でも今はかなりのところに住宅が。こんな火砕流の固まった丘だと知ってお住まいなのかなー。



 大急ぎで昨夜暗闇で手探りで見た横穴を堪能!!大きな丘のあちこちに彫られているらしい。現在の行政で言うと函南町に属するらしい。横穴は大北横穴群とは違って、まさ土風の吹きつけで保護されてよく護られていたのだが、その隙間に雑草が生えているのは頂けなかった。それと大半の横穴の番号が判らず、これも専門家にはちょっと困った状態だった。そんな奴は自分で考えろ!ということなのかも知れないが、番号くらい打ってくれてもいいやろと言いたくなった。



 昨夜は真っ暗で見えなかった横穴もこんなにすっきり。



 この丘に最古の横穴があるらしいのだが・・・。どうも中途半端な説明が気に食わない!!

 遺跡の端にあるという最古(6世紀末?)の横穴も探しにいたのだが、どうもよく判らない。ちょっと残念な気持ちを遺しつつ次の探訪地、伊豆国分寺へ向かった。



 やはりここでも比較的低い横穴の位置だが、大北横穴に比べると最低地部分からは随分高い位置にある。地域差なのか、時期差なのか。



 元は真言宗のお寺があったらしいが焼失し、江戸時代に日蓮宗になったとか。

 現在も伊豆国分寺(昭和29年に日蓮宗称蓮寺が改称したという)を名乗るお寺には塔跡が保存されていた。その北に伽藍が広がるようだが、その地は既に宅地化され、何も残されていなかった。残念!







 そろそろお昼なので、飯でも・・・。と車を走らせると正面に富士山が!!

「オオッツ!」一同車の中からシャッターを切るは切るは。そして昼は、長蛇の列の讃岐うどん!なんで伊豆で讃岐うどんなんやとはおもったが、ま、ご愛敬。





 この後訪ねた遺跡でまた一騒動が・・・。この続きはまた明日。



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 そして、 オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ11月訪問を求めよう!!

伊豆國踏査-1 伊豆國大北横穴群に石櫃を見るの条

2009-10-23 12:16:43 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 10月17・18日(土・日)、次男に車を出してもらって伊豆へ行った。



生まれて初めて伊勢湾岸道路というのを通りました。こんな感じの吊り橋がいくつも連なっている道路です。とても便利なのですが、これを維持するのってとても大変だなーと思いました。贅沢と無駄、そろそろ贅沢は身に合わなくなっているように思います。


 何しに?



これを見に行ってきました。
「何じゃこれ?穴ちゃうんか?」
「はい、崖に開けられた穴です。」
「古墳時代後期になると全国にこうした崖を利用したお墓が流行します。これを横に向けて穴を掘ったものなので「横穴(おうけつ・よこあな)」と言います。」
「横穴式石室とどうも紛らわしいな!」
「ハイそうですね。お墓には違いないのですが、横穴式石室は基本的に首長層のお墓です」
「フーン、庶民の墓か?」
「ま、そうですね。」



北江間横穴群とも表記されています。この大北横穴群のあるところが北江間地域で、その一体にたくさんの横穴群があるのです。実はこの辺り箱根火山の火山灰や溶岩が堆積した山が多いので石はとても柔らかく彫りやすいのです。



報告書の図面ではこんな感じでたくさんあることが判ります。

 大北横穴群という国の史跡に指定されている著名な横穴群を見学に行ったのである。とは言っても、きっかけは、四年生の卒業論文のための調査である。
 静岡県出身の学生は3年生の頃に出した課題の延長線上で、『土葬から火葬への転換』を主テーマに、調査、資料あつめをやっている。その中で伊豆半島にある横穴群に納められている石櫃に着目した。石櫃とは火葬したお骨を入れる石製の骨箱である。



これが横穴に埋納された石櫃です。ちゃんと印籠蓋になっていて、蓋が身とずれない工夫がされています。



横穴の内部から外を見るとこんな感じなのです。意外なことに横穴は結構集落に近いところに築かれていました。

 そもそも横穴というのは崖の壁面に穴を掘って遺体を埋葬するもので基本的に土葬である。ところが伊豆半島の横穴に限って、何故かある時からこの石櫃が入れられるようになるのである。

 土葬から火葬への転換は日本ではなかなか進まなかった。
 仏教思想によるこの遺体処理方法は、遺された遺族にとってはなかなか刺激的な処理方法である。土葬は遺体がいずれ腐り、消え去ると判っていても埋葬する段階ではまだ死者の姿を留めている。ところが火葬では遺体は目の前で消失し、遺されるのは骨のみである。これではとても甦ることは期待できない。

 恐らくこうした刺激的姿が土葬の火葬化を促さなかったのだろう。「三法の奴」とまで称した聖武天皇ですら、結局は土葬されたし、遺言書で強く火葬を願ったにもかかわらず嵯峨天皇の遺体は結局土葬されたことが知られている。
 古代の支配層で火葬されたのは持統天皇と淳和天皇くらいなのである。もちろん僧や渡来人層では火葬に付された人物もいるが、決してそれは一般的ではなかった。



 にもかかわらず伊豆半島の根っこ部分に近く位置する大北横穴群(北江間横穴群)を中心とした旧伊豆長岡町や韮山町、函南町などに展開する横穴には「追葬」のような形で石櫃が集中するのである。決して付近に寺院が多くあるわけでもない。つまり石櫃に入れられたお骨の主は僧侶とは限らないのである。

 では一体いつ頃から誰がこのような葬法を持ち込み広まらせたのか。

 さらに石櫃自体にもいろいろなタイプのあることが知られている。先の写真のようなきちんとした身と蓋から成り、それ相当のお骨を入れることのできる石櫃から。10センチ四方くらいの小さな穴に栓をしてお骨を納めるタイプまで様々なのである。今でもそうだが、お骨を全部入れる地方と、一部だけを拾い、その他は廃棄する地方、全部のお骨を粉々にして入れる地方等々様々である。恐らく後者の石櫃ではとても全部は入らないので粉々にして入れるか一部しか入れないことになる。前者の石櫃もお骨を破壊せずに全てを入れるのは困難であるから仮に全部を納めるためには一部を砕かなければならない。いずれにしろ、お骨に対する考え方が異なることになるのである。どうして比較的近くに点在する横穴群でこうした違いが起こるのか。これからの研究が楽しみな素材である。



石櫃内のお骨の状態。大北横穴二十九号横穴からの出土。


 踏査の方は途中から雨が降ってきてずぶ濡れになりながらで大変だった。大師山、宗光寺と夕方の暗くなりつつある伊豆路の雨の中を竹藪をかき分けかき分け、進めていった。さ、これで終わりという柏谷横穴で事件が・・・。



大師山横穴には横穴内に作り出しの石棺が設けられている例が多い。



大師山横穴内に納められた家形石棺



破壊された穴から写した石棺内部






宗光寺の出土遺物



現在の民家の倉庫、その奥に横穴が口を開けている。いかに低いところに横穴があるかよく判る。

 そろそろ陽が沈むかという時に柏百穴とも言われていた国史跡柏谷横穴に着いた。たまたまナビがおかしくて丘の上の裏の方の横穴に着いた。どうも正面はこの下の方にあるらしい、また、そちらにこそたくさんの横穴があるらしいからそちらに行こうと言うことになった。



暗闇に沈む柏谷横穴


 三人がバラバラに何となく下で会おう、みたいな感じで別れたのが悪かった。

 まさかあれほど広いとは思っても見なかったので、進み出して不安になってきた。みんなどこへ行ったのかな・・・。そんな思いを抱きつつ横穴の中心らしいところにやってきた頃にはすっかり陽が暮れて辺りは真っ暗、写真も全く撮れなくなってきた。

 仕方がないので正面たら言うところを目指そうと進み出したのだが、どうも複合施設らしく公園やらグランドやらがあって、正面と言うところがわからない。ま、いざとなれば、携帯で・・・・、と、そこで問題に気がついた。

 携帯がない!!

 なんで?

 そう言えばさっき車の中で上着を脱いだ、その時たまたま電話が不自由なので、いつもの鎖から携帯を離しポケットへ入れた・・・・・


 えらいこっちゃ!!
 
 あいつ等が見つけてくれるのを待とうかな?

 15分ほどうろちょろして待つが誰も来ない!!迷子になってしまったのである。

 しばらくうろちょろすると公衆電話が見付かった、ポケットにはわずかなお金が入っていた。

 そうだ!家に電話して息子と連絡を取ってもらおう。リーンリーン???

 でない!

 リーンリーーんやっと繋がったがそれは息子のお嫁さん。家には妻はいないという。仕方ないから頼んで居場所を連絡してもらう。ところがこの居場所というのが何とも説明しにくいもの。あれこれ説明して何とか連絡をしてもらうが待てど暮らせど来ない。

 もう一度電話をかけようと思っていたら暗闇から

 「先生!」

皆さん、携帯はいつも身につけておきましょうね。或いは携帯に頼る人生は止めましょうね。

 とんでもない落ちが付いて初日は終わった。この続きはまた明日。

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 それにしても広島県知事の肝っ玉の小さいこと!元々目立たないが、ヒロシマ・ナガサキ市長にオリンピック誘致をぶち上げられると「不愉快だ!」と宣う。そもそもそんな発想ー平和の祭典をヒロシマでーというのがないから文句ばっかり言うんだよな。悲しい!!大体広島県知事なんてこの間ヒロシマでの核兵器廃絶に何の力も出さないもんね。
 そしてもちろん、 オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ11月訪問を求めよう!!<

秋バージョン入荷の条

2009-10-17 11:01:29 | yaasan随想
ごめんなさい!

秋バージョンを昨日昼頃作者のOEさんから受け取ったのです。
直ぐにブログにアップしようと努力を始めたのです。ところがこの後報告しますように私は昨日早朝から息子の車に乗せてもらって、学生一人と共に伊豆国へ調査に行っていたのです。旅先のiphoneから何とか新ネタをアップしようと努力したのですが、何故か写真がうまく載せられない!!

夜になっても努力したのですが、これまた駄目、よく調べてみると彼女のデーターが「tif」型式だったのです。何故これだと駄目なのか、これを「jpg」に変換するにはどうすればいいのか?ゴタゴタしている内に朝になってしまい、時間切れ、さっきようやく帰ってきていろいろやっている内に何とか「jpg」にできたのでここにアップすることに。

素晴らしい最新版の登場です。

ホント、これでも飯が食えるのではないかと思うくらい上手!!

ご堪能あれ!!



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 オバマ大統領の11月ヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!

最近買った三冊の本の条

2009-10-10 07:11:09 | yaasan随想
 最近私はほとんど本屋に行かなくなった。
 行っても必要な本がないからだ。

 必要な本とは何か?
 それは「仕事」に必要な古代史や考古学の本のことである。それ以外の本は年に二度芥川賞や直木賞が発表された時にその作者の本をまとめ買いするだけなのである。だから本屋に行く必要がないのである。

 ただし、例外もある。

 8月、9月に中国に行ったことは報告した通りであるが、実はそれぞれの報告で書かなかったことがある。別に隠したわけでも何でもないのだが、「調査」と余り関わらないから書かなかっただけである。読み返してもらったら判るのだが、いずれも最後の日に北京に立ち寄っている。それもいずれも中国社会科学院の賓館に泊まっている。

 何故か?もちろん考古研究所に用事があるのだが、目的のもう一つは社会科学院の直ぐ隣にある考古書店及び文物書店に本を買いに行くためなのである。

 その主役はY大学のH先生で、大抵十万円くらいは毎回購入する。もちろん持って帰れないので、送ってもらう。その重さ、軽い時でも三十キロである。私はそんな財力も、中国関係の書籍を読み解く能力もないので、その半分くらいになる。最近は記憶力にとんと自信がなくて、よく同じ本を買うことがあるので、つい慎重になる。今回も悩みに悩んで思い切って買った本だったが、幸いなことに買っていなかったのでよかった。しかし、二度とも大きな目的があった。渤海の都上京の報告書である。日本の本屋さんから案内が来るのに(もちろん中国で出版された本である)無いのである!!

 「何で?」

 もう顔なじみになっている本屋のおばちゃんは我々の買いたい本は大体判っているので、店に入ると直ぐに、この本が出た、あの本はもう持っているかと聞いてくる。実に手際いいのである。

 しかし無いのである!

出版元の直営店に行ってもないのである。これは謀略に違いない。日本で売れると判っているから日本の本屋(書店)が買い占めたのではないか?もちろん日本で買うと中国の値段の四倍くらいに跳ね上がる。

 クッソー!!

こうなったら根比べだ。何が何でも中国で買うぞ!!渤海関係は日本の古代史研究に欠かせないから足下を見られているのだが、絶対にその手は喰わないぞ、と強い意思で本屋を出たのであった。


 さて、訪中前から買おうと思って、本人は注文したつもりになっていた本がある。

 みすず書房刊 〈人間と文明の発見〉シリーズ

 貝塚茂樹編『古代殷帝国』1967年 600円
 チャドウィック『線文字Bの解読』1962年 500円
 コルティ『ポンペイ』1964年 800円

これ以外にも同じシリーズでたくさんの考古学関係書を出しているみすず書房である。本業は美術書、哲学・美学関係の書籍を出す出版社だが、何故かこの時期には考古学、それも諸外国の考古学関係書を盛んに出していた。

 そして、我が母校、洛東高等学校の図書室にはほとんどそれが揃っていた。当時の府立高等学校の授業料が、確か、625円だったと思う。その授業料ですら払うのが厳しかった我が家の家計では、とてもこれらの本を買うことなんて思うことすらできなかった。だから、毎週毎週図書館から次々とこれらを借りだして読みふけっていたのである。

 もちろん夢は考古学者!!大学に行って、大学院博士課程まで行って、博士になって、大学の先生として世界中を掘り歩く!これが夢だった。
 そしてその夢の原動力が上記三冊の本だったのである。特に『ポンペイ』はその遺跡の衝撃力から,考古学への進路を確定させてくれた書籍であり、『線文字Bの解読』は、己の言語能力の無さを悟らせ、外国考古学への道を断念させるきっかけになった書籍であり、『古代殷帝国』は、漢字世界の考古学ならまだ何とかなるのではないかと幻想させてくれたものでもあった。

 ただし人間の夢なんてものはそのまますんなりと実現するものではない。何とか考古学関係の大学に入学した私は全く別の道を歩み始める。ところが縁は異なもので、高橋美久二さんとの『長岡京』での出会いが、そのまま別の道に進むはずだった私の人生を変えたのであった。そして、最近になって突然、あの三部作が読んでみたくなった。これまでにも何かがあるとふと思い出してはいたのだが、「古本」という発想に至らず、みすず書房の新刊本(再版本)ばかりを捜していたために出会うことなく、ほとんど諦めていたのである。

 しかし、本屋に寄らず、ネットで検索することが圧倒的に多いこの頃の書籍探索と購入で、古本市場に何冊もあることが判ったのである。すぐに購入することにして、先程私の手元に45年ぶりに届いたのであった。これからしばらく感傷に浸りながら読むことにする。

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そしてもちろん、 オバマ大統領の11月ヒロシマ,ナガサキ訪問を強く求めよう!!




ノーベル平和賞・オバマ大統領の11月ヒロシマ・ナガサキ訪問を!の条

2009-10-09 23:44:19 | yaasan随想
 世界の動きは速いですね。

 ノーベル平和賞ですよ。

 嬉しいですよね。



  ノーベル平和賞・オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ11月訪問を何が何でも実現しようではありませんか!!

 日本中のみんなが、この悦びを行動に変えようではありませんか。

 8月6・9日を核兵器廃絶を誓う世界平和デーに制定することを今こそ日本から提案すべきではないでしょうか。もちろん率先して日本が先ずそれを実践すべきでしょう。そして8月6日から15日までを平和週間として全国民が平和を祈る日に制定すべきではないでしょうか。

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 毎日JPには様々な方面からのコメントが踊っていました。感激です。

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ノーベル平和賞:オバマ氏受賞 広島、長崎から歓迎の声

2009年10月9日 21時48分 更新:10月9日 22時34分
オバマ米大統領のノーベル平和賞受賞が決まり、会見する秋葉忠利・広島市長=広島市役所で2009年10月9日、森田剛史撮影
オバマ米大統領のノーベル平和賞受賞が決まり、会見する秋葉忠利・広島市長=広島市役所で2009年10月9日、森田剛史撮影

 ノーベル賞を弾みに、核のない世界を目指すため、被爆地訪問の実現を--。唯一の核兵器使用国の大統領としての「道義的責任」に言及し核廃絶を訴えた今年4月の「プラハ演説」から約半年。「核なき世界へのビジョン」が評価されてのオバマ米大統領へのノーベル平和賞授与の報が伝わった9日、広島・長崎の被爆者らから歓迎の声が上がった。11月に来日することが決まっているオバマ大統領。被爆地を訪れることを期待する声もさらに高まっている。
 ◇「激励メッセージだ」有識者ら驚き◇

 平和や核軍縮問題に詳しい有識者は驚きながらも「核廃絶をしっかりやれという激励のメッセージだ」との見解で一致した。

 大阪女学院大大学院の黒澤満教授(軍縮国際法)は「受賞はちょっと早い気もするが、核兵器廃絶に向けて非常にプラスだ」と歓迎。「国内の経済問題などで足を引っ張られているオバマ大統領の取り組みに弾みがつく」と評価した。

 立命館大の安斎育郎教授(平和学)も「平和賞は功績よりも政治的メッセージを込めて激励の意味で贈る場合が多い。来年のNPT(核拡散防止条約)再検討会議などで具体的な成果を出し、核廃絶を進めてほしいとの期待の表れ」と分析した。

 元IAEA(国際原子力機関)広報部長で、大阪経済法科大アジア太平洋研究センターの吉田康彦客員教授も「今後はロシアや中国を巻き込んだ核軍縮の推進や北朝鮮・イランの非核化のため、国交正常化などに取り組まざるを得なくなるだろう。プラハ演説では『米国が先に核を捨てることはない』との現実も語っており、授賞式の演説で何を言うかも注目だ」と述べた。
 ◇「大変うれしい」広島市長◇   

 オバマ米大統領のノーベル平和賞受賞決定を受け、秋葉忠利広島市長は9日、記者会見し、「大変うれしい。核兵器のない世界の実現に向けた激励だと思う。よかったですね、予想がぴったりですね」と笑顔で話した。

 秋葉市長は、今年5月にニューヨークであった核拡散防止条約(NPT)再検討会議準備委員会での演説で、核兵器廃絶を望む世界の大多数を「オバマジョリティー」と呼んだ。9日は、「ノーベル賞には世界の市民や国々の声を代弁する側面があり、今回の受賞には、オバマジョリティーの思いと決意が込められていると思う」と強調した。

 また、「オバマ米大統領は今月の国連安全保障理事会で、核兵器廃絶に向けてリーダーシップを発揮した」とした上で、「(来年5月開催予定の)NPT再検討会議でもリーダーシップを発揮してくれるという期待が高まる」と話した。

 さらに、世界の相互信頼に向けた機運がノーベル賞受賞で生まれたとし、「オバマ大統領が広島と長崎を訪れる環境が整ってきている」と期待した。【矢追健介】
 ◇「まさか、今年とは」被団協代表委員の坪井直さん◇   

 広島県原爆被害者団体協議会理事長で日本被団協代表委員の坪井直(すなお)さん(84)=広島市=は9日、島根県での日本被団協中国ブロック大会から広島市内の事務所に戻ったところで記者に囲まれ、オバマ氏受賞決定を聞いた。

 坪井さんは「人類の立場で核問題を考えてくれる人だから、いずれ受賞すると思っていたが、まさか今年とは。核軍縮・不拡散の流れを進め、核兵器廃絶へと後押しする意味もあって選ばれたのでしょう。ほとんどの被爆者が喜んでいると思う」と歓迎した。

 坪井さんら広島被爆者7団体は今年1月、核なき世界をつくる公約や新しい核兵器の製造を認めないなど、オバマ氏の政策に勇気づけられたことを伝え、広島訪問を願う手紙を出した。返事はまだだが、「ロシアとの核軍縮交渉や国連安保理などでオバマ大統領の行動を見ていると、私たちの思いは十分通じていると思う。受賞のお祝いを込めて、また手紙を書きたい。生きとる間に会いたい」と話した。【松本博子】
 ◇「被爆地にとってく歓迎すべきこと」元長崎大学長の土山秀夫さん◇

 元長崎大学長で、長崎原爆のため入市被爆した土山秀夫さん(84)=長崎市=は「ノーベル平和賞は被爆地にとって大きく歓迎すべきことだ。オバマ米大統領の長崎訪問は見送りになったと聞いているが、米国内の評価も格段に高まるはずだ。今度、日本に来る時はノーベル平和賞の大統領として、長崎に来てほしいですね」と喜んだ。

 さらに核廃絶に向けたオバマ大統領の行動力を称賛し、「核廃絶に向けた努力は、これまでの米大統領の中で際立っている。受賞は妥当だと思える」と評価した。【柳瀬成一郎】
 ◇「実行を伴って」反核・平和団体◇

 国内の反核・平和団体からも受賞決定を歓迎する声が上がった。原水爆禁止日本協議会の高草木博事務局長は「『核をなくせ』と迫ってきた世界の運動や世論への励ましとして喜びたい。ただ、オバマ大統領はまだ『核なき世界』を言葉で宣言しただけ。今後、実行と行動が伴って初めて本物になる」と語った。

 原水爆禁止日本国民会議の藤本泰成事務局長は「受賞をきっかけにオバマ大統領が今後、真の意味での核廃絶に取り組まれることを期待したい。広島、長崎に来て、ぜひ、被爆の実相に触れていただきたい」と話した。

 また、平和問題を調査研究するNPO法人「ピースデポ」(横浜市)の特別顧問、梅林宏道さん(72)は「米国には、核兵器を支持する根強い勢力がある。大統領は個別の成果はまだないと言っていいが、彼が提唱する『核兵器のない世界』を応援したいという意図が、賞を与えた側にあるのだろう」と指摘した。【井上俊樹、武本光政】
 ◇「心の底からうれしい」長崎原爆遺族会◇

 「核兵器を使用した核大国の米国から『核兵器のない世界に』という声が上がり、それが評価されたのだから、心の底からうれしい」。長崎原爆遺族会前会長の下平作江さん(74)=長崎市=は声を弾ませた。「長年、世界中で続けてきた被爆者の活動がなければ、オバマ米大統領のこの言葉も出なかったはず。私たちの声が彼の心に響いた」。被爆地に来て被爆者の声を聞いてほしいと願う。「被爆者が生きている間に核兵器廃絶を実現してほしい。原爆で亡くなった人たちに『あなたたちの死は無駄ではなかった』と報告できる」【阿部弘賢】
 ◇「未知数」児童文学作家◇ 

 3歳の時に広島市で被爆した児童文学作家の那須正幹さん(67)=山口県防府市=は「私は現役の政治家にノーベル平和賞を授与すべきではないと思う。沖縄密約問題が浮上した佐藤栄作元首相の例もある。オバマ大統領も、アフガニスタンでどうするのかなど、未知数だ。今回の受賞にはあまり感心しない」と話した。ただ「プラハ演説が世界の動向を変えたのは事実で、その点は評価している」として「核兵器廃絶への道筋を示したヒロシマ・ナガサキ議定書の実現に向けて努力し、成果を出してもらいたい」と期待を寄せた。【上村里花】
 ◇「期待を込めた受賞」張本勲さん◇  

 プロ野球評論家の張本勲さん(69)=東京都大田区=は5歳の時に広島で被爆、6歳上の長姉を失った。プラハ演説には共鳴しており「核廃絶を米大統領が表明したことは大きい。必ず実行してくれるとの期待を込めた受賞だと思う」と喜びの声を寄せた。原爆投下を巡り、歴代の米大統領が「戦争終結のためやむを得なかった」と述べるたび、怒りを覚えたという。「これまでの大統領が示さなかった核軍縮への道筋をオバマ大統領は示し、ノーベル賞も後押しした。世界の国々もその道を歩んでくれると信じている」と力を込めた。【平川哲也】
 ◇「ぜひ広島・長崎に来て」漫画家の中沢啓治さん◇ 

 広島での被爆体験を描いた漫画「はだしのゲン」で知られる中沢啓治さん(70)=埼玉県所沢市=は「米国が原爆を投下した当事国だってことを、ちゃんと認識して、核廃絶に向けて行動している初めての大統領だよ。立派だよ。応援してあげたい」と喜んだ。ボランティアグループが英訳した「はだしのゲン」全10巻が近く大統領一家に届けられる。「ぜひ広島・長崎に来て、原爆資料館を見て、原子雲の下でどれだけ多くの人間が、もがき苦しんだか知ってほしい。そして被爆地から、世界に発信する演説を聴きたい」と被爆地訪問を待ち望んでいる。【松本博子】

(http://mainichi.jp/select/today/news/20091010k0000m040098000c.html より)

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 旧広島大学東千田町キャンパスの被爆建物

南京・鳳陽・開封報告-10 最終回開封探索+αの条

2009-10-07 16:23:37 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 授業も始まって、そろそろお尻に火が付きかけていますので、少し端折りますが、これで「南京・鳳陽・開封報告」は一応終了致します。長らくのご拝聴有り難うございました。少し真面目に書いたので少々疲れました。本当は8月洛陽編(前半部分)がまだ残っているのですが、今しばらくしてから報告します。

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 やっとスライドショウのやり方を思い出しましたので、今回は主な写真はスライドショーでお楽しみ下さい。(ここをクリックすると写真が出てきます。その左上にある「スライドショー」というのをクリックすると始まります。)

 開封では現在見える城壁や門などの大半の施設は清朝のものだそうです。この地は度々洪水に襲われて古い施設が水没し、砂に埋もれます。その上にまた施設を建てるものですから古いものはどんどん地下に埋没します。宋代のものは3m近く下にあるそうです。

 そんなわけで、このスライドショーに出てくる施設の大半は新しいものばかりです。このため研究も文献史学が中心でした。しかし、最近は河南省の文物局を中心にして積極的な発掘調査が実施され、随分新しい状況が判ってきました。そうしたものを別のスライドショーでもお知らせ致します。同様の操作でご覧下さい。
 なお、来年3月から新鄭門を中心とした地域で大規模な発掘調査を実施するそうです。できれば見学に行ってみたいものです。



内城北門の安遠門



 宋代の皇城と宮城



 午門



 馬道(清代)



 新鄭門(西面南門)調査予定地
 
 そして最後の移動、北京へ。ところがここで小さな事件が・・・。可哀相なMさん,何と鄭州で二日も足止めされた挙げ句バスで10数時間もかかって済南へ帰ったとか。(もっともあまりに沢山の可愛いことツーショットを撮った天罰との陰の声も(笑))

20090924
南京・鳳陽・開封報告-12 開封-鄭州空港-北京移動の条

実質的な踏査は昨日で終わり。今日と明日は移動のための段取りである。
鄭州空港からの飛行機が9時55分なので、8時前に着くには開封-鄭州約一時間余りだから、用心深く6時半に出発することになる。

ゆとりで着くはずだったのだが、途中で運転手が空港方面の道を間違えて北京方向に向かっていることにM先生が気付いて、ナナナント、高速道路を500m余り逆走!!途中大型トラックが何台も来て生きた心地がしなかった。それにしても不親切な道路標示にいいかげんなナビ!これだから中国は困るのである。

何とか無事に着き、飛行機の手続きも順調に済んで、一人済南へ向かうM先生とさようなら!をして無事北京へ、と思いきやこの後思いもしない展開が・・・。
M先生の飛行機は元々午後2時過ぎに出る予定だった。だから彼は空港で七時間も時間を潰さないといけないのである。これだけでも大変だったのに、我々が北京について夕食に出かけようかという時になって、電話がかかってきた。
「飛行機が飛ばないのです」
「??」
「悪天候で向こうからの飛行機がやってこないらしいのです。いつ飛ぶか判らない、ひょっとしたら飛ばないかも・・・。?」
という訳で我々が北京ダックに舌鼓を売っている頃、彼は鄭州空港でひたすら飛行機の飛ぶのを待ち続け、結局、空港のホテルに泊まったとか。その後の知らせで彼の飛行機はなぜ来なかったかというと、故障してどこぞの飛行場で立ち往生していたらしい。
気の毒というほかない。
北京経由組は無事到着。仙台、関空方面にこの日のうちに帰る3人も無事出国手続きを済ませ、帰国した。

20090925 早朝4時起きで出発

長かったこの夏の中国探査の旅も今日で終わりである。
昨夜はいろいろなたまった仕事をやるために結局2時半まで寝ることができず、4時起きだから一時間半しか寝ていない。なぜこんなに早く起きなければならないかというと、私たちに語学力がないからである。中国語のできる3人の飛行機が7時半発なのだ。空港までの車の移動が長く見積もって一時間二時間前までに空港に入ろうとすると5時半には入らないといけない。すると4時半出発ということなので4時には起きないといけないという計算だ。実際は5時出発で6時には空港に着いて3人はスムースに出国した。

ところがである我々の飛行機の出発時間は9時前後である。つまり空港で3時間もを潰さないといけないのである。それでも3人ならば暇つぶしにお喋りでもすればいいか、と思っていたら、ナナナント、二人の飛行機は大連経由なので、大連で出国手続きをするらしい。結局6時から誰もいない出発ゲート前で鞄を抱えながら居眠りをする羽目に。寒いわ、眠いわ、退屈だわ、三重苦の中で何とか一時間を過ごした頃、ようやく免税店などが開きだして、散歩。しかし、目的のモンブランの店がない。結局歩き疲れただけで時間が過ぎた。

そして今は飛行機。とても寒くて寝られず、食事の頃にやっと毛布をゲット。後一時間足らずで関空。やっと日本の美味しいご飯が食べられる!!さて何を食べるかな?やはりうどん!かな。
12日間のお付き合い有り難うございました。間もなく授業が始まる。よく考えてみると授業をやるのも後5期だ。13年間の総括に向かってボチボチまとめにかかろうかな。

                              以上です。

 フーッツ疲れた!!

でももちろん オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求め真の世界平和を!!


 昨日の新型プロフィール、プロ級の元漫画家志望さんからも大好評を得ました。やりましたねOEさん。もちろん彼女からも早速メールが来て、近日中に秋バージョンを作ってくれるそうです。乞うご期待!!

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yaasan交替の条

2009-10-05 20:53:51 | yaasan随想
 以前から少し考えていたことなのですが、このブログの右下の方に載っている私のプロフィールカットを替えました。



 (OEさんへの要望!どうもこれはコートを着ているので冬のようであります。是非新作!秋バージョンもお願いします。)

 作者は前の作者と同じ我が卒業生であり、現某旧帝大の大学院ドクターコースにいるOEさんです。
 実はこれ、今春、レバノンに彼女も含めて沢山で調査に行った折、余りに毎日トレースばかりさせられる?ので、疲れを癒すために私と某旧帝国大学考古学研究室の教授ITさんが犠牲?になったものです。

 ITさんの方はその教え子が作成したものですが、ここでは公開がはばかられるのでしません。どうしても見たい人は作成者の許可が得られれば内緒で教えます。

 
 さて私の似顔絵?は、とてもよく似ています。

 最近の髪の毛の脱落状況、何故か前髪だけが少しだけ天然のように曲がっているところ、そしていつもいつもガラガラを引いて歩いているところ、もちろん胸のポケットには(赤い)歯ブラシ、背中にはリュックサック、悔しいが、その通りです(いや、最近はもっと髪が薄くなっているという陰の声もあり・・・)。

 何故こんな暇なことをしてるかって?それは昨日アップした友人の似顔絵です。もちろんあれはご本人が描かれたもので、私のように絵心のない者にはとても真似できない代物です。しかし、フッと思い出したのであります。そう言えば!!

 ということで替えてみることにしました。久しぶりのマイナーチェンジであります。また新作が到着次第アップすることにします(OEさん頼むね)。






61歳を過ぎて想うこといろいろの条

2009-10-05 10:18:26 | yaasan随想
 中国踏査中に誕生日を迎え、派手なお祝いをして頂いて、とても喜んでいた私である。
 
 私の育った環境はとても貧しく、子供の頃から誕生祝いなどしたことがない。もちろん家族誰のそれもしなかった。もっとも一般的にそうだったのではないかとも思うのだが・・・。外食なるものは一年に一度あるかないか。それも百貨店の食堂で中華ソバを食うのが唯一の楽しみ。そんな暮らしだから、余り誕生日のお祝いの印象がないのである。

 もっとも、最近は息子の息子ができて、彼らと同居しているものだから、自然と彼ら親子と共に彼らの誕生日を祝うことになる。今年は夏休みに相次いで中国に行ったので、9月が誕生日の息子の息子やその母親のお祝いには出席できないかと思っていたが、偶然合間になって、5本のローソクの立ったケーキのご相伴にあずかり、息子の息子が歌う母への「ハッピーバースデー」の歌を聴くことができた。

 もちろん彼らの誕生日は未来に向かう意気揚々とした宴である。

 しかし私のそれは、終息する人生へのカウントダウンのそれであることを最近つくずく思うのである。

 還暦を過ぎて今年の誕生日は、

「アー一年生きてしまった!」

というのが正直な感想である。それでも私の所では、まだ定年ではないので、少しその感覚が鈍いのだが、この頃頂くメールや手紙の多くが、「定年を迎え第二の人生を始めました」や「一年早く仕事を辞めて自分探しをしています」というものなので、彼らにとってはその思いはもっと強いに違いない。

 そんな折、私の大学時代の親友がブログを始めたといってメールを寄こしてきた。少々驚いた。ブログなんて!と斜めに見ているのではないかと思っていた彼の変節?である。

 

 (本人の描いた自画像である。ハハ、なかなかよくできている。さすが漫画家!!長崎出身の彼は高校時代には漫画集団を作っていたとか、その仲間に今や売れっ子?の蝦子さんもいたとか・・。)

 その彼もまた、定年より2年早く仕事を半分に減らす立場に変わり、ゆとりを持って・・・、と考えていたのだろう。ところが、今年になって、胃に新たに癌が見付かったという。
 新たにというのは1年前にも腎臓に癌が見付かって、片方を執ったというのである。スワ、転移か!?と話を聞くとそうではないという。最近は転移かそうでないかも判るらしい。全く別の原因で胃の初期癌が見付かったのだという。直ぐに手術をして、胃の2/3を切除した。
 術後に会った彼は元々痩せているのにさらに8キロも痩せていたが、とても元気だった。そして彼の入院生活の記録がまた面白い。

 初期の胃がんならそんなに心配することもないのでは、と思っていたが、日常生活への復帰が大変みたいなのである。最近のブログの記事によると胃の下部を執ると満腹中枢も空腹中枢も執られてしまい、それを感じないらしい。そしてそのことが味覚にも影響するというのである。
 人間、美味しいものをたらふく食べた時の満足感というものはどこかに記憶されているらしい。それが次ぎにまた美味しいものを食べようとすると、その記憶がお手伝いして、さらに美味しさを増すというのである。ところがこの中枢を執るとその感覚がないから目の前のものがどんなに美味し(いはず)くてもそう感じないらしい。

 等々その日常を綴っている。

 もちろん癌に対する「不安」がなかろうはずがない。
 しかし、彼もまた60歳を過ぎて、終息に向かって

「いつでもいいよ」

と思いつつ一日一日をかみしめているのではないかと思うのである。淡々と語られる病気と日常との関係が却って、一日の深さを教えてくれる。

 私もそうありたい!と願うのだが、つまらない日常が次々と押し寄せてくる。このまま突然消えるのは、ちょっと不安がよぎる。もっと一日を確実にしなければ・・・。そんなことを教えてくれた友人の姿であった。

 もちろん彼も願っていることは

  核兵器のない世界平和!!

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中秋をゲット!!

2009-10-03 23:48:09 | yaasan随想
 やりましたぞ!
 朝まで雨も降っていたここ伊勢国の中秋は、見事に晴れましたぞ。
 見事な満月をゲットしましたよ。
 久しぶりですね、こんな爽快な気分は。

 中秋を 眺むる我 なに思う

 中秋の うさぎの踊る 伊勢の国

 月明かり 虫の撥ね飛ぶ 絵の世界

 うさぎには 何と映るか 青き星

 中秋に 団子より眠り むさぼりて

 中秋の 影映したる 水溜まり

 虫の声 隠さんばかりの 溢るる光

 一人臥す 中秋の埼 伊勢の海

 

  

南京・鳳陽・開封報告-9 観星台登山も平気平気の条

2009-10-03 18:11:33 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 方丘は破壊されて残念だな、と思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

20090920は私の61回目の誕生日である。無事1年間生きたという実感である。これから毎年毎年来年の誕生日が迎えられるのかな?という不安?期待!を抱きながら生きていくことになりそうである。これまで全く予想していなかった生き方である。ちょっと新鮮でもある(きっと若い皆さんにはわからない感覚でしょうね。でも皆さんが同じ歳を迎えたとき、昔。yaaが言ってたよな-と思い出すことでしょう。)。

 さて20日は鳳陽最後の日である。午前中は登山になった。
 独山という標高○○mの山登りである。岩肌が露出していて危険なロッククライミングも待っているという!

 「お腹痛くならないかな-」密かに期待したが今回はとんと元気である。



 はるかこの山の頂上まで道無き道を登ると聞くと益々不安になる。登るために車を置いたところがちょうど東城壁の位置でもあった。奉天門などと同じで道路が坂道になっている。



 外郭東城壁の遺存地割り



 この断崖絶壁をよじ登っていよいよ頂上である。



 独山の上に観星台は設けられている。独山の東裾野を外郭の東城壁が通っている。



 見よ!この凛とした姿。とても61歳のお爺さんには見えない。○○mの山もへっちゃら、これでなくてはね(フフフ(笑))。



 そうそう、最近写真が手に入ったので、掲載しておきますが、前日には大龍興寺でちゃんと3人の皆さんの病気平癒を祈っておきましたからね。



 観星台の平面図.これらの図面はいずれも『明中都研究』に掲載されているものです。とってもいい本なんですよ。



 観星台からの眺め。水関方向を撮ったつもりなのですが、どれも同じに見えてよう判らん。



 フラフラになりながら、(あ、違う、息切れもせず)独山を降りて次なる訪問地方丘へ。



 かつて調査されたらしい、方丘の斎宮跡。それにしてもこの方丘は近くの煉瓦工場が土取りのために南1/3を激しく破壊。かつて興秦宮跡でも見たのと同じ光景がここでも繰り返されていた。ただ救いは、ここでは文物管理局の人びとの意識がかなり高いのでその後の破壊は阻止されている。



 斎宮のあった辺りか?



 途中忘れ物を取りに帰ると私たちの泊まっていたホテルが式場に変身!その若い??主人公達。

 方丘を見て昼食。午後からはまだ見ていないところを駆け足で回ることに。南の正門である奉天門付近を探索。





 向こうに見えるのが、いろいろ事情があって側までは近寄れない午門。一応裏からと表から、ちらりと見たことに。



 人の立っている辺りが奉天門跡の高まり。



 そして夜は既報の打ち上げ兼誕生パーテー。久しぶりに白酒を飲みました。美味しかった!!



 そして翌22日には泥泥になった車を洗車して、いよいよ採集目的地、開封へ。



 途中もう一度淮河を渡り、この後は高速道路をぶっ飛ばして5時間余り、黄河流域へ。途中二度サービスエリアで休憩。とても綺麗だった。これもオリンピック効果か。



 昼はサービスエリアのコンビニで買ったカップ麺。



 トイレもとても綺麗!信じられない!!



 夕方6時頃に河南大学に到着。



 宿所は大学の留学生楼の一部なのだが、ここが、前近代的!ネットが不可。このためその後情報が途絶えた訳なのです。

 という訳でやっと最後の訪問地、北宋の都開封、今回の最後の訪問地に辿り着きました。この続きはまた明日。アー疲れた!!

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そして、シカゴも、東京もオリンピックは駄目だったけれど(恐らくオバマも鳩山も内心は喜んでいると思うよ.だって、あんな金食い虫の事業、今更東京に、シカゴに呼んできてどうすんの!?という感じ。ブラジルでよかったよかった!!) オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!

中秋の駄句一句

2009-10-03 05:04:18 | yaasan随想
 もう中秋だ。
 でもここのところ毎日雨で、空を眺める気にもなれない。
 折角の中秋なのにもっといい句が浮かばないのかい、エッ企良さんといいたくなるが、これが現実。

 雨に煙 中秋の夜も だらだらと
 (あめにけむ ちゅうしゅうのよも だらだらと)
200910003 今日から始まる公開講座の資料がまだ出来ずにだらだらとしながら雨に煙る空を恨む。

 そんな折、何と中国鉄塔で写真を撮ってやった河南大学の学生から中秋のカードなるものが届いた。先日送ってあげた彼ら仲のいいカップルの写真のお礼でもあるらしい。あの現代っ子の二人-確か一年生と言っていたからまだ18か19だろう-だが、中秋の風流が理解できるところがいいね!!

 まだまだ棄てたもんじゃないぞ、中国!!

 中秋を 鉄塔にて 二人して
(ちゅうしゅうを てっとうにて ふたりして)
20091003 若いっていいね!羨ましい!コンチクショウ(笑)





あの頃はまだこんな三日月だった(右上の小さな点が三日月)。



22日の昼間に見学した禁明池の大胆に復元されてしまった姿。この反対側にホテルがあって、そこで河南大学の皆様の返礼の宴をしたのであった。5星のホテルを気取って部屋は綺麗だったが、料理は大して美味しくもなかった。2200元もかかった。これだから偉いさん達と食事するのはいや!!

 こんなことしている時ではない。早く仕事仕事!!

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