yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

高橋さんとの思い出-7  最後の手紙の条

2006-12-27 13:49:04 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 明日から急遽5日ほどベトナムのハノイへ行くことになりました。帰国は1月2日の早朝です。つまりもうブログは今日が最後ですので、高橋さんからの最後の手紙をご紹介して一応の区切りとしたいと思います。でもこれからも時々思い出しては書こうと思っています。まだ私は高橋さんとお別れしたくありませんので。

山中 章様

 残暑お見舞い申し上げます。
・・・
 私の方は、四月に退職して以来、サンデー毎日の生活をしています。暇になるだろうと考えていたのですが、療養の合間に在職中にできなかった宿題をぼつぼつこなしているうちに、あっという間に秋になってしまいました。まずは、病持ちながら悠々自適の生活を送っています。
 さて、在職中に書いたものなどが送られてきましたので、抜き刷りのコピーを送付いたします。一つは、・・・・
・・・・・・・
 もう一つは兵庫県上郡町の落地遺跡(八反坪地区)の報告書に書かせていただいた「落地遺跡(野磨駅家)と古代の山陽道」です。・・・・・・
・・・・・・・・・私の寄稿論考は古いもので、しかも今までの主張の繰り返しですが、落地遺跡がなぜ野磨駅であるのかということを述べた私の駅家研究の原点に当たるもので、愛着のある遺跡での成果ですので敢えてお送りすることにしました。ご笑覧下さい。
 ブログで鈴鹿の関に挑戦しておられる様子を楽しく拝見しています。また、築地の遺構に当たって奮闘されていることに興味を抱きました。落地遺跡の瓦葺きの駅の遺構(飯坂地区)にも、見事な築地が残っていました。その報告書が余分にありますので、送付いたします。その評価などについてはかつてお送りした「駅家の構造」をご覧いただければ幸甚です。中国の例などから関と駅家の築地(城壁)の意味のようなものを考えたものです。
 2006.9.6
                                高橋美久二


 お便りをいただいたときは鈴鹿関の発掘調査の真っ最中でした。本来ならご指導をお願いをするところ、お身体のこともあるので、あまり無理をしてもらわないようにとりあえずお便りにあるようにブログできちんと書いて、まるでその場で見てもらっているように記録しよう!と、肝に銘じたものです。しかし、せめてお礼の電話をしておけば良かったと、今頃になって後悔するのです。本当に申し訳ありませんでした。高橋さんのご指摘のように、駅や関の交通の機能ばかりが強調されますが、落地遺跡や鈴鹿関をみているとこれらがいざというときの軍事施設として機能することが十分想定されていたことがよく分かります。

 それだけに、直接お伺いしてご指導を賜れば良かったと、これまた後悔ばかりがよみがえってきます。

 有り難うございました。私は高橋さんがあちらに行かれたとは思いたくありません。これからも毎年、年次報告をお届けいたしますので、是非あちらからメールいただきたくお願い申し上げます。明日からのハノイではタンロン宮殿の社稷壇と南郊殿を掘っているようなので急遽見に行ってきます。詳しくは帰国後に報告いたします。皆様良いお年を!!


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肥後報告   野津古墳群の条

2006-12-26 01:28:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 高橋さんとの思い出はまだまだたくさんあるのですが、少し近況報告します。
 1週間、熊本大学へ集中講義に出かけていました。「律令国家成立前夜の地域社会」と題する題だけはオーバーな6・7世紀史に関する講義でした。中味はいずれご紹介するとして、たくさんの情報をいただいて帰りました。少しご紹介したく思います。


(熊本大学には五高時代の煉瓦造りの建物があちこちに残っています。これは現在「五高記念館」として学内博物館の機能を持っているとても素敵な建物。羨ましい!!)
 期間中、熊本大学の杉井先生には学生への指示、授業の準備に多大なご援助をいただいた上、前後の二日間にわたり周辺遺跡の御案内をいただきました。そのお陰で肥後国の一端をかいま見ることが出来ました。
 初日は南部・八代市の北に接する竜北町(現氷川町)の大野窟古墳や野津古墳群を御案内いただきました。特に大野窟古墳は発掘調査中で、教育委員会のIさんに古墳の全体像を丁寧に御説明いただきました。
 それにしても驚いたのは(これが見学者の常識的反応だと杉井先生のホームページには書いてありました※とても楽しい大野窟実測調査の日記が載っています)大野窟古墳の石室の偉容でした。1枚の板石をくり抜いた玄門を入ると玄室で、玄門に続き、大きな切石を側壁の第1段として置いた後、切石をアーチ形に次第にもち送りながら床面から6.5m近くまで積み上げ、最頂部である天井部に1枚の巨大な板石を置くという構造のようです。私のへたくそな文章で説明しても何の迫力も出てこないのですが、とにかくその壮大さには圧倒されます。ついでながらこの地域周辺の歴史を調べてみると意外なこと(単に私がもの知らずなだけなんですが)、眼鏡橋(アーチ橋)造りの名工である肥後石工・種山石工の故郷東陽町(石匠館というとても素敵な博物館があるそうです)に近接しているのです。まさか古墳時代の技術が伝世するわけもなく・・・。それにしても不思議な縁ですね。


(高さ6.5mの天井を見上げるとこんな感じです。上からの石の重みで、第1段側石の上に組まれている石材がかなり剥離してきています。それだけ上からの加重が強いと言うことでしょう。)

 今風にいうと、「すごい!」の一言でしょうか(テレビを見ているとほとんどのタレントが何らかの感動?の場面でこの言葉を連発します。どんな場面も同じです。ちなみに辞書によれば「①恐ろしい、気味が悪い②ぞっとするほど物寂しい③恐ろしいほど優れている」(広辞苑)など、基本的には程度が甚だしいあまり恐ろしさをも感じさせるものを表現する言葉のようです。大野窟古墳の石室は確かに恐怖感すら覚えさせてくれます。)。


(玄門部付近から奥壁を見たところです。大きな一枚岩の石棚がよく見えます。)

 奥壁には高い石棚が組み込まれ、その下にはすっぽり入る刳り抜き式の石棺が置かれています。玄門よりの左右には屍床が2基あり、追葬されたのでしょう。残念ながら正式な発掘調査はまだなされていませんので、須恵器の小片があるのみで、初葬から追葬の正確な時期は不明で、6世紀後半初葬→6世紀末から7世紀初頭追葬なのでしょうか。
 中世に既に開口しており(羨道部にはそのことを示す石刻が認められます)、副葬品は皆無なのですが、床面を中心とした発掘調査をすれば少しのヒントくらいは得られるはずです。Iさん頑張ってくださいね。

 谷を挟んで展開する野津古墳群が6世紀初頭から中頃までのものであるといいますから、大野窟古墳は明らかにそれらに次ぐものです。野津古墳群の主体部が全て判っているわけではありませんが、やや時間をあけて(ないという意見もありそうですが)、石室構造の異なる大野窟古墳が築造された歴史的背景は肥後国の律令国家成立前段階のあり方を考える上でとても興味深いものがありました。

 さて、大野窟古墳では現在、墳端を探す発掘調査中です。まだ明確な墳端は確認できていないようですが、最大で、100mを超す巨大な前方後円墳になる可能性もあるということでした。最終結論が楽しみですね。

 続いて、野津古墳群を見学に連れて行ってもらいました。突如として6世紀前半に出現する100m前後の前方後円墳群は壮観としか言いようがありません。杉井先生の御案内で墳頂に登ると見事に八代海を眼下に眺めることができ、古墳築造の目的を即座に了解することができました。海側が切り立って、大きく見えるのに対し、裏側はなだらかで直ぐに墳頂に至ることができるという特徴を教えていただき、益々野津古墳群の被葬者が海を意識していたことを実感することができました。
 古墳時代の海岸線は現在よりもさらに古墳寄りだったという推定がなされているらしく、ほとんど海岸線に沿って古墳があったと判ります。「原西海道」も眼下を通っていたものと推定できます。すると、野津古墳群は水陸交通の要所を睨む位置にあることになります。そもそも「野津」という地名が意味深ですね。いつからあるのかが判らないのですが、少なくとも江戸時代に当地は野津村だったそうです。もちろん『倭名類聚抄』には出てきませんので、古代に「津」があったか全く判りません。仮にあったとしても、公式の地名ではなさそうです。でも、手前味噌ではありますが、ひょっとしたら、八代の6・7世紀史もまた律令体制の形成に大いに関係あるかもしれませんね。誰か研究してみませんかね・・・。


(野津古墳群からは見事に八代海が見渡せる!)


 そんなこんなで、にわか勉強の肥後南部の旅は杉井先生のお陰で大変有意義、かつ充実した半日となりました。本当に有り難うございました。肥後の古代史、面白そうですね。そう言えば、熊本大学は蝅○(ふしずくりにかい)[こかい]駅推定地に当たるらしく、部分的な調査にもかかわらず大量の奈良時代の土器がでていることが、学内にできた五高記念館で開催中の「熊本大学を発掘する」展でみることができました。
 これについても次回少し報告してみるつもりです。


(五高時代の教室を利用した展示室では「熊本大学を発掘する」展が開催中でした。こんな施設が三重大学にもあると学芸員実習に困らないんだがなー・・・)

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高橋さんとの思い出-6  乙訓担当者会議の条

2006-12-14 07:55:11 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 実にローカルな話なのだが、これもまた全国の「発掘調査技師」が再検討すべき活動領域の一つとして紹介しておかなければならない。既に30年もの昔に高橋さんが提唱され、実行された資料共有化と研究深化のシステムである。

 1976年に私が向日市教育委員会に採用されて以後1978年から逐次旧乙訓郡域の各市町に「発掘調査技師」が採用されていった。もちろんこれらの背景に京都府教育委員会の技師として強い意志をお持ちであった高橋さんの意見が反映されていたことは想像に難くない。中山修一先生の主宰された長岡京跡発掘調査研究所の所属職員も徐々に関係機関に採用され、いつしか旧乙訓郡域担当者だけで10余人に膨れあがった。

 人数が増えればそれで全てが順調に進むわけではない。逆に増えれば増えるほどその調整や意見交換、資料の共有化にどうしてもずれが生じてくる。特に行政組織や所属機関が異なるとなかなか情報を共有することが難しくなるのである。

 そうした齟齬を防ぐために高橋さんの提唱されたのが乙訓担当者会議であった。
 別に公式な会議でも何でもない。あくまで職務を終えた後の私的な集まりである。確か毎月曜日の夕方に集まっていたと思う。次第に間隔が空き2週間に1回が最後には1ヶ月に1回程度になることもしばしばであった。各人の発掘調査や資料整理、報告書刊行の進展状況を報告し合い、調査上の問題点などについて議論をした上で、毎回一人が簡単な「研究報告」をするというものであった。場所も乙訓を移動し、時には京都府のプレハブで、時には大山崎の事務所でというように2市1町を順番に回っていた。

 もちろん場合によっては遺跡保護のための深刻な会議になることもしばしばであった。七つ塚古墳群の保存問題などはかなり深刻であった。そんな中、たくさんの興味深い研究報告が生まれ、その種が発芽したのが中山修一先生の古希と喜寿を記念して出版した2冊の『長岡京古文化論叢』であった。もちろんこの2冊も乙訓担当者会議のみんなで手分けして編集したものであった。中でもいつも光っていたのが長岡京市埋蔵文化財センターの木村泰彦さんの精緻な発表であった。いつも見事な図が添えられており、実にわかりやすくもあった。考古資料だけではなく、文献資料にも長けておられて、まさに「高橋学級」の優等生であった。私自身も何度も条坊制のことを話させてもらい、みんなからいろいろな意見をいただいて、高橋さんの推薦も得て「日本古代条坊制論」を『考古学研究』に投稿することが出来た。

 今思えばこれほど充実した情報交換会はなかったのではないだろうか。そしてその基礎を作られたのが高橋さんというからその構想力、卓見には恐れ入るとしか言いようがない。
 毎年こうしたメンバーが集まってやる忘年会の主役はもちろん高橋さんだった。ちょうど今頃、これまた2市1町を持ち回りで、発掘調査に参加しておられた作業員のおじさんやおばさんも交えてやるのだ。総勢50人は越えていた。羽目を外して「もう二度とあんたらには貸したらへん」と言われたことも一度や二度ではない。もちろん異動されて山城郷土資料館へ行かれていても、まず高橋さんのご都合を伺って、「絶対この日は空けておいてくださいよ」と念を押して準備したものである。

 こんな会議も忘年会も今はもうないらしい。
 時代の流れだと言ってしまえばそれまでなのだが、せっかくの乙訓というまとまりが解体してしまっている現状、そしてそれと共に情報発信が急激に減少してしまっている事実を目の前にすると、寂しく、悲しい。せめて高橋さんの追悼論文集を編集することで、その再編の契機が生まれればと思っている。

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高橋さんとの思い出-5  『令義解』勉強会の条

2006-12-12 02:25:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 高橋さんが京都府の担当技師として乙訓地域の発掘調査に当たられたのは、1974年の京都府立向陽高等学校の建設に伴う事前調査が最初だと思う。それまで宮城域の発掘調査しかなされていなかったものを、周辺の古代宮都の研究状況から長岡京でも京域の発掘調査が必要であることを力説され、そのお手本として府立高等学校の建設前の事前調査を主張され、実践されたのが最初だと聞く。

 自らその先頭に立ち、見事に初めて三条大路(当時)と東大宮大路(同)の条坊側溝を検出し、大量の土器群と共に木簡や墨書土器を検出された。当該箇所が、『平安遺文』に記載される勅旨所の藍畑の一角に相当することから、花粉分析を依頼され、これを科学的に実証されようとした調査でもあった。

 まさに当時の日本考古学の粋を集めた発掘調査であった。元々京都大学で藤岡謙次郎先生の下で歴史地理学を学ばれた高橋さんは、乙訓郡条里や長岡京の条坊制についての基礎的研究をなされていた。さらに、考古学研究室の調査・研究にも参加され、小林行雄先生に師事されて日本考古学の基礎である土器型式や瓦型式の編年研究にも精通されていたので、この現場は高橋さんのためにあるようなものであった。この時出土した土器群が長岡京土器型式の基準資料となり長く用い続けられることになる。そして、直接伺ったことはないのだが、出土した木簡の研究を通して、文献史料の学習が不可欠であることも実感されたに違いない。

 そんな高橋さんが、乙訓地域に建設される外環状線の事前調査担当技師として出向かれ、現場のプレハブに寝泊まりして、多くの若者達を育てられた。調査に当たっては様々な研究や調査方法を実践されたが、中でも今里車塚古墳の発掘調査は木製埴輪の発見やその構築方法、葺石の葺き方に関する新たな調査方法など圧巻であった。もちろんここからもたくさんの研究者や「発掘調査技師」が育っていった。

 私にとって忘れられないのは、毎週水曜日の夜に開かれていた『令義解』の勉強会であった。ちょうど木簡の出土した左京第51次発掘調査の最中だったかと思う。清水さんに誘われておそるおそるプレハブを訪ねると、直ぐに次の発表が当てられた。「賦役令土毛条」だった。そもそもその読みからして全く判らない私は、大急ぎで岩波の日本思想体系に入っている『律令』を購入し、分担箇所を俄勉強した。しかし所詮大学で、考古学ですらまともに勉強していなかった私に、古代史はもっと遠い存在であった。「租庸調」という用語がかろうじて思い出される程度の人間にはとても無理だった。数枚のレジュメを作っていったとは思うのだが、読みが終わって、いざ、条文の解釈になると固まってしまった。「賦役令」の中の土毛の位置づけが全く訳が分からなくなったのである。
 賦役令第七 土毛條「凡土毛臨時應用者。並准當國時價價用郡稻。」こんなに短い条文が全く理解できなかったのである。まずもって「土毛」が理解できていなかったのだと思う。そこで私の時間が止まってしまった。俄勉強とはいえ、昨日まで調べたはずの土毛や郡稲が脳裏から消えてしまったのである。頭の中でぐるぐる回る説明の経路、そのどれも言葉となって出すことが出来ないうちに1時間半が過ぎてしまった。私にとっては短かったのだが、待ち続けた参加者の皆さんには苦痛であったに違いない。不思議と恥ずかしいという気もなく、済みません、よく分かりませんとでも答えたとき、高橋さんが優しく何もなかったかのように「来週は・・・」と切り替えて下さった。救われた。

 高橋さんはずるをしない限り決して人を責めることはなさらない。能力に応じて、努力さえすればそれで十分評価してくださる。とても平等な方だ。その後『令義解』は最後まで読み続けられ、終わったときには厚さ10センチメートルを超えるレジュメ集となって結実した。もちろん、古代史研究者の研究会には足元にも及ばない私のような発表もたくさんあった。ただ『律令』の注釈をまとめただけのもの、読むのが精一杯の者、それでもこつこつと読み続け、途中から高橋さん自身が異動されても読み続けられた。その流れを汲んで現在も清水さんを中心に『延喜式』の輪読会が続けられている。

 『令義解』研究会も『延喜式』研究会も当たり前のように現場のプレハブや埋蔵文化財センターの施設を使って実施されてきた。「発掘調査技師」には発掘調査の情報や技術だけが必要なのではなく、文献史学の勉強も必要だと考えられてきたからである。文献研究は「職務」でもあるとの位置づけだったと思う。しかし、高橋さんの教えを最も意識しなければならないはずの「発掘調査担当者」から、『延喜式』研究会は追い出されてしまった。

 高橋さんはほとんど面と向かって相手を責めることはなされなかった方なのだが、きっと彼岸でお怒りであるに違いない。権力とは無縁だった高橋さんが最も嫌うことが乙訓で起こっていることを、心から残念がっておられるに違いない。悲しい。

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高橋さんとの思い出-4  平凡社刊『地名辞典』の条

2006-12-10 16:16:36 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 原稿を書くことがいかに研究者にとって大事なことかを高橋さんは一番よく知っておられたと思う。文献史学では当たり前でも、考古学では必ずしもそうではなかった。その悪い風潮が最近ようやく改善され、次々と若い研究者の著作が刊行されるようになったが、私はその重要性を最も意識されていたのは考古学者では高橋さんだったと思う。

 そんな高橋さんの御配慮とはみじんも思わず、私は平凡社の地名辞典の一つ(確か第1回配本だったと思う)『京都府の地名』の数項目を担当させていただくことになった。長岡京のことなら少しは理解しつつあったが、向日丘陵上の古墳のことなど全く勉強すらしていない。確か年末頃が締め切りだったと思う。あちこちの資料を寄せ集めて自宅の一室に籠もって必死に原稿を書いていた。

 その時「事件」が起こった。
 徹夜覚悟で小さな座り机に向かって資料をそこら中に散乱させて原稿を書いていたのだが、ふと眠くなって、横になったらしい。どれくらい時間が経ったであろうか、ふと気付くと目の前が真っ暗だった。妻が気を利かして電気を消したのだろうか?朦朧とした意識の中で何となくそんなことを思いながら起きあがろうとすると、どうも雰囲気が違う。暗さが違うのである。真っ黒なのである。
「ウン?!!」
大慌てで直ぐ横の障子を開け、妻をたたき起こした。
ストーブが不完全燃焼して部屋中に煤を充満させていたのだ。もうほとんど寝ていた私の顔当たりまで煤は降りてきていた。幸いなことに障子で隔てられた向こう側は全く異常なく、私の使っていた部屋と(後で判ったのだが)階段で繋がっていた二階の部屋が真っ黒けだったのである。もちろん私の鼻の中は真っ黒け、さらに二階に置いてあった、下の妹の婚礼用家具が煤で真っ黒になってしまったのだ。おそらくもう1時間遅かったら死んでいたことだろう。後から思うとぞっとした。

 そんな「事件」も今となっては高橋さんが下さった貴重な経験と懐かしく思えると共に、きっと高橋さんが与えてくださった試練だったのだと思えてくる。あの時原稿を書かせてくださらなかったら私はどこにでもいる「発掘調査技師」の一人に過ぎなかった。あるいは新人の「発掘調査技師ストーブの不完全燃焼で事故死」で終わっていたに違いない。

 その後も次々と原稿を書くようにと指示があり、拙い文章を書きためることになった。お陰で文章を書くことが苦にならなくなり、年度末にあの黒い向日市の報告書を作ることはいつしか楽しみにもなった。

 実はこの報告書にもいろいろな思い出がある。
 私が作った最初の報告書は『向日市埋蔵文化財調査報告書第3集』だった。実際は、向日市教育委員会として刊行された記念すべき第1集だったのだが、私には何となく気の引ける思いがあった。いろいろ調べていく内に浪貝毅さんが作成された2冊の薄い原因者負担の報告書のあることが判った。高橋さんとも相談し、これを第1・2集とし、向日市教育委員会が初めてお金を出して作った報告書を第3集としたのである。もちろんその最初に載ったのが私の初めての長岡京の調査「長岡宮跡第68次(7AN10B地区)発掘調査報告」(『向日市埋蔵文化財調査報告書-第3集-(1979)』 向日市教育委員会・長岡京跡発掘調査研究所 1979年 京都)だった。そして続いて刊行したのが(諸般の事情で第3集の方が新しい年号になっているが)、例の木簡の発掘調査成果をまとめた第4集「長岡京跡左京第13次(7ANESH地区)発掘調査報告」(『向日市埋蔵文化財調査報告書-第4集-(1978)』 向日市教育委員会 1978年 京都)だった。
 もちろん報告書は高橋さんの厳しいご指導のもとできたのだった。遺物整理、土器・木器実測、トレース、写真撮影、レイアウト、原稿、目次等々全て高橋さんによる手に手を取ってのご指導であった。西国街道沿いの旧農協施設を改造した教育委員会の裏の狭い場所で、実に懇切丁寧にご指導下さった。その時実測に、トレースに遺物整理に携わった人間が長く乙訓の文化財を支えることになる。ここにも高橋さんの鋭い構想があったと思う。

 第7集から報告書の色を高橋さんに内緒で真っ黒にした。実はこの報告書が清水さんのデビュー作でもあった。20 「長岡京跡左京第51次(7ANESH-4地区)~左京二条二坊六町~発掘調査概要」(『向日市埋蔵文化財調査報告書-第7集-(1981)』向日市教育委員会 1981年 京都)高橋さんに指示されて向日市で出土したばかりの第51次調査の木簡を釈読するだけではなく、「発掘調査技師」の日本語にならない文章に厳しい朱を入れ続けてくださった。Y印刷のGさんが、まだコンピューターのない時代の写植の最終校正にまで大幅な朱が入り、悲鳴を上げられていたことを鮮明に覚えている。向日市の報告書がやっと世間並みになった瞬間でもあった。

 京都府庁に完成品を持っていった時の高橋さんの反応は微妙だった。
「ヒエッ、アナーキーやな・・・」きっと高橋さんの脳裏に広島大学の知人達から得ていた私の情報が頭をよぎったに違いない。でもそれを咎めるでもなく、中味を点検して、いろいろとアドアイスだけをいただいた。ちょっぴり独り立ちしたかなと思えた瞬間だった。もちろん所詮、高橋さんの掌中で踊っていたに過ぎないのだが・・・。

 いつしか向日市の報告書の色も変えられてしまったが、高橋さんの「心」を受け継ぐ報告書は、私の研究室の報告書『三重大学文化財調査研究報告書』の真っ黒な表紙(現在まで4集を刊行した)として刊行している。間もなく、高橋さんに最後までご心配いただいた鈴鹿関の報告書が姿を現す。

 いつまでもいつまでも「心」を継承していきたい。

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高橋さんとの思い出-3  木簡研究への道の条

2006-12-10 01:49:18 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 私は長岡京研究を振り返る時いつも、中山修一先生が長岡京研究の創始者だとすれば、浪貝毅さんがその継承者、そして高橋美久二さんが発展者だと位置づけている。この三人の偉大な研究者なくして今日の長岡京研究はあり得なかった。

 中でも今日の科学的研究の基礎を築いたのは紛れもなく高橋美久二さんだと確信している。

 私が強く思う高橋さんの最も大きな功績は、誰にもまねのできない全体像を確実に描いた上での構想力だ。戦略があるというとどこか堅苦しいが、研究者には数少ない正確な洞察力に基づく戦略と戦術の明確な方だったと思う。その俎上に乗せていただいたのが長岡京だった。

 まず、長岡京全体の調査を全て再点検され、年代順に並べられて、調査次数を決定され、以後全ての調査を担当機関の別なく宮・左京・右京に分けて整理する方法を提示されたのである。さらに大字・小字を記号化され、調査地点が何処かをある程度の精度で理解しやすくされたのである。高橋さんの明晰さは、単なる記号化でも、順番の整理でもない。その根底に学問のわかりやすさ、整理のしやすさが横たわっているのである。ここが並の人間にはできない、高橋さんにしかできない能力なのである。だから、その高橋さんが逝ってしまわれた損失の大きさが私には身にしみるのである。
 今日長岡京の発掘調査が何回かを直ぐ示すことができるのは、まさに高橋さんのこの構想があったからである。

 
(長岡京左京13次調査出土木簡はその後このように真空凍結乾燥処理されて永遠にその美しい姿を残すことになった。その一本一本に思い出がこもる。)

 私にとって、生涯忘れられないのが、高橋さんと共に整理した長岡京左京第13次(7ANESH地区:7は平安時代、Aは宮都・官衙、Nは長岡京(Nagaokakyou)のN、Eは大字鶏冠井町、SHは小字沢の東(SawanoHigashi)を記号化した高橋さんの業績の一例である)発掘調査から出土した木簡であった。京都大学の岸俊男先生、奈良国立文化財研究所の狩野さん、横田さん、加藤優さん、今泉さんをお呼びになって、あっという間に木簡の整理をなさったのも実は高橋さんのお陰だった。木簡が出たと聞くや直ぐに現場にやってこられ、直ちに清水で洗って、釈読の準備をされ、私に木簡を容れる薄い容器を手配するように命じられた。上司と掛け合って、50ほどのバットを買い入れると、次は「布団」作りだ。木簡が傷つかないようにガーゼを何重にも重ねて縫うのである。

 連日真夏の狭いプレハブで、奈文研の方々が毎日木簡を読まれる。外では上がってきたばかりの木簡を高橋さんが洗われる。私は開発業者と連日遺跡調査期間の延長と木簡出土遺構の確保について協議を重ねる。最後には府会議員にまで呼び出され、「調査期間の延長が業者の倒産にもなりかねない」と調査の収束を求められたが、皆さんの真剣な目を見ていると自ずと協議にも力が入った。

 そんな成果を高橋さんは私と一緒に「木簡研究集会」で報告せよと仰る。恐れを知らない私はおそらく錚々たるメンバーの先生方がいらっしゃったのだろうが、臆することなく調査状況を報告することになる。さらに、発表内容を『月間文化財』に書けと仰る。この雑誌の重みなど全く知らない私はこれまた持ち前の図々しさで、拙い文章を高橋さんと連名で記すことになる。これがきっかけで、今なら厳しい審査でないとはいることの出来ない木簡学会に潜り込むことになったのである。

 その後同じ開発業者が隣接地を次々と開発し、左京第22・51次と発掘調査が続き、第51次調査から強力な助っ人・清水みきさんを得て、長岡京の木簡研究は一挙に花開くことになる。後に知ることになったのだが、清水さんが木簡研究に携わるきっかけもまた、高橋美久二さんの一言「今向日市で木簡が出てるから明日からそちらの現場に行きなさい」があったからだという。高橋さんと清水さん、この二人の研究者がいなかったら、長岡京の研究は現在の水準に達していなかったに違いない。今年の木簡学会に高橋さんの姿を見ることが出来なかった。討論の司会を任された私は、始める前に、密かにご冥福をお祈りした。「有り難うございました」と。

 その後、この左京第13・22・51次発掘調査出土木簡は今泉隆雄さんの研究と清水さんの陰の力で『長岡京木簡一』として刊行されることになった。しかし、高橋さんはその刊行を裏で支えていただくことはあっても、決して表に出て、原稿をお書きになることも、指図をなさることもなく見守ってくださった。今頃になって気付いたのだが、そこにこそ高橋さんの偉大さがあったのだと思う。業績を独り占めにせず、分かち合い、後輩を育てるために人知れず支え、自信を付けさせる。一流の研究者が陥りがちな独善とは無縁の方であったことを今強く思い知らされるのである。

 残念ながらその木簡が長岡京から発見されなくなって久しい。これは決して偶然ではない。長岡京研究に対する姿勢が違うからだと思う。研究とは無縁の「発掘調査技師」が調査に当たりはじめて、木簡は世に出なくなったのだと思う。同じことを生前、昨年の木簡学会の折り、高橋さんが仰っていいた。「どうして一番木簡が読める人に木簡を読ませないんだ!こんなことをしていたら長岡京の研究が駄目になる!」と語気を強く。研究は、権力や出世欲、名誉欲とは無縁であることを示された方だっただけに、この言葉の重みは計り知れない。

 高橋さんを失った意味を、その重大さを、あらためて思い知らされるのである。

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高橋さんとの思い出-2  初めての出会いの条

2006-12-09 11:49:34 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 1976年9月向日市役所の途中採用で教育委員会の社会教育課に配属された私は、直ぐに予定されていた市立老人福祉センター建設に伴う事前調査の準備をするよう指示された。
 とは言っても現場に行ったことすら二度ほどしかなく、況や現場の運営など全く未経験な私にそんな,ことができるはずがない。そんな時たまたま?(ひょっとしたら意図的だったのだろうか?)、京都府教育委員会から国の補助金事業の調査担当者として向日市で発掘調査されていたのが高橋さんだった。
 上司から現場を見に行くように指示されて伺ったのが、幅3㍍、長さ20㍍ほどの狭い現場であった。半身裸の作業員の方が大きなツルハシをフルって作業の真っ最中だった。そこに角刈りのいかつい中年?の方がいらっしゃった。

 内心、「なんと狭い現場だこと!」と思った。
その現場の担当者が高橋さんだった。

 どんな言葉でご挨拶したかはよく覚えていない。ただ直ぐに方眼紙に三角形を書いて
「ピタゴラスの定理を知っているか?」と聞かれた。
「何とか・・・」とでも答えたのだろうか、直ぐに測量計算の「授業」が始まった。関数電卓など見たこともなかったが、その操作を一生懸命教えてくださり。計算してみろという。何とか答えを出すと「すごいなー」と喜んで下さる。
次は平板による平面実測だ。
 正直、学生時代に平板のテープ持ちをしたことは一度だけあるが、立てたことも測ったこともない。高橋さんが立てるのを横目で見ながらそのイメージを必死で頭に焼き付けようとする。しかし所詮は俄、いざ立てようとすると二つのねじをどう締めていいのやら、アリダードをどう使ってよいのやら、よく分からない。なかなか立たない平板に業を煮やして手伝ってもらい、何とか立てて平板開始である。

 断面図、平面図、写真撮影、そのどれもが考古学実習の授業以上に実践的な「授業」であった。
 高橋さんは広島県のご出身である。広島大学の皆さんとは大変懇意だったと聞く。恩師潮見洋先生はもちろん、川越先生とも、諸先輩方ともツウカーの仲だと聞く。ひょっとしたら事前に私が何者かをご存じだったのでは無かろうか。
「こんな奴に長岡京を任せられるのだろうか?」
そうお考えになっても不思議ではない。不安を解消するには自ら行動する以外にない!そこで・・・、手頃な「わた治」の現場を選んで「考古学実習」を実演してくださった。考えすぎだろうか?

 次に控えている長岡宮朝堂院東第四堂が推定される極めて重要な調査・市立老人センターの調査が失敗なく、成果がきちんと出せるよう、予め試験をなさったのではなかろうか。
 もちろん試験に合格したとはとても思えないのだが、そこが高橋さんの高橋さんたる所以。できの悪いものを教育するのはお手の物(その手腕は見事にその後の乙訓の「調査員」の成長に見て取ることができた。)。第2次試験が老人センターだったと思われる。

 ここでは行政内部との協議やら、作業員の調整・監督やら、物品の手配やら、埋蔵文化財調査の基本がぎっしり詰め込まれていた。

 途中、古参作業員のピンハネ事件やら、調査地の拡張問題やら、思いもかけない「事件」が次々と襲った。しかし、ある面私はそちらの方は全く苦にならなかった。本来事務向きなんだろう。
平面図の整理、長岡宮朝堂院の復原図、方形周溝墓の集成等々、何とか資料作成などもこなして現地説明会にこぎ着けたときにはやっと少し「調査員」の気分に浸ることができた。もちろん、何度も何度も高橋さんの薫陶を受けたことは言うまでもない。

 こうして私と高橋さんの「長岡京人生」が始まった。


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高橋さんとの思い出-1  ご葬儀の後で・・・の条

2006-12-06 23:14:39 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 高橋さんのご葬儀には結局出ることができませんでした。
何とかお通夜だけは片付けの始まる中を平服のまま駆けつけたのですが・・・。

 ちょうど中国から研究者をお呼びし、御案内している真っ最中だったからです。ご葬儀の当日はその先生のご講演と私の報告をやっていました。高橋さんなら許してくれると・・・。

 ですから、一昨日、ご自宅に伺いました。角刈りのごま塩頭の高橋さんのニコニコした遺影が飾られていました。奥様のお話によるとご本人が、出してこられたもので、大学に行かれた頃に京都新聞の記者の方が撮られたものだそうです。

 田辺のご自宅に伺うのは本当に久しぶりのことでした。こんなことになる前に一度は、と思っていたのに、近年のずぼら癖で、訪れることができませんした。そのことが一番の心残りでした。

 久しぶりにお会いする奥様は少し痩せておられましたが、いつもの透き通るはきはきしたお声で、生前の高橋さんとのことをお話し下さいました。私の思い出を話すと思い出されるのか、涙され、その心の寂しさを実感することになりました。

 昔よく訪れた書斎は綺麗に片付けられ、本は一冊もありませんでした。4月に韓国の文化財研究所に寄贈なさったからなのです。三月で県立大学を御退任なさったことも、その後任に敢えて地理の研究者ではなく民俗を推薦なさったことも、高橋さんらしい引き際でした。お見事という外ありません。

 そんな中、奥様のお話によると最後にまとめたい研究-条里制に関する研究-があったそうです。しかし、度重なる放射線治療でどうしても筆が進まず、書けない自分を嘆いておられたと言うことです。もちろん残されたものはまだ拝見していませんが、私にはこれを未完であれ、世に出すことが、高橋さんへの恩返しではないかと思っています。と同時に、本当の意味で高橋さんにお世話になった研究者で、「追悼論文集」を出そうと考えています。心のこもった、暖かい追悼論文集ができないものかと仲間と相談しています。

 最後になりましたが、ご葬儀に出られなかった分、弔電をお送りしました。その文章を紹介して、御礼の言葉としたいと思います。

高橋美久二さんへの弔辞

高橋さん 
いつかこの日が来ることを判っていても、その現実を突きつけられて、涙が止まりません。
悲しいです。とてもとても寂しいです。
私が初めて高橋さんにお会いしたのは1976年の秋「わた治」の現場でした。
国土座標という言葉すら知らない新入りの私に、電卓を片手に測量計算を一生懸命教えていただいたことを今でも鮮明に覚えています。何とか計算すると「山中君すごいなー」と褒めていただいて、とてもうれしかったです。「頑張って勉強しなければ!」と思った瞬間でした。もしこの一言がなかったら、今の私はありませんでした。外環のプレハブで行われていた『令義解』の勉強会で、報告に詰まってしまった私を、1時間半も待ち続けてくださった優しさを生涯忘れることはありません。
初めて『月間文化財』に木簡の報告を書くようすすめていただいたこと、山城郷土資料館で8インチのディスク片手にコンピューターの威力をお話し下さったこと、ご自宅に伺ったときに次から次へと書籍を出してきていただいて平安京のことを教えていただいたこと、中国語の勉強会で、発音はともかくいつも関連資料をいただいてお話し下さったこと、中国へご一緒したとき、ファイル一杯の資料を用意して下さったこと、できの悪い私達乙訓の人間を何とか勉強させようと開いてくださった乙訓の勉強会のこと、毎年の乙訓の忘年会のこと、・・・・、いつも、いつも優しい笑顔で接してくださいました。どれも、どれも忘れることができません。有り難うございましたという言葉が軽すぎるくらい、一杯、一杯お世話になりました。
本当に寂しいです。悲しいです。
逝かないでください!高橋さん

余り時間もありませんが、しばらく高橋さんとの思い出を書きとどめておこうと思っています。


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