yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

三重大学管弦楽団第46回定期演奏会in伊勢の条

2010-01-24 16:11:34 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日(23日)は何年ぶりになるのだろうか、本当に久しぶりに生のクラシックを聴いてきた。



 「おや?とうとうお前も山田博士の趣味に宗旨替えかい?」と疑われそうだが、そんなことはありませんよ!!

 私は41年前に
 「今やもう長すぎるコンチェルトなど、聴いている時ではない!」と歌った時から基本的に生のクラシックは聴いたことがない。
別に敵意を持っているわけでもないが、一度そう歌った以上、今更宗旨替えをするのは癪だから聴かないだけである。もっとも、だからと言って他の何かを聴くわけでもなく、基本的に大して音楽を聴くこともない日常生活を送っているだけなのだ(殺伐とした日常だね!)。

 そんなお前がなぜ?



 要するに学生に頼み込まれて聴きに行っただけなのである。

 本日の曲目は
・ シベリウス交響詩「フィンランディア」op.26
・ ショパンピアノ協奏曲第1番ホ短調op11
・ チャイコフスキー交響曲第5番ホ短調op64
指揮   兼重直文 
ピアノ  兼重優子

であった。

 こう書いても私にはその曲がどんなメロデーだったか全く検討もつかないのだが、演奏が始まると、あ、そうか?!こんな感じなのだ。全くのクラシック(いや、音楽全部音痴かも)音痴なのである。

 実は一年生の時にオリエンテーションセミナーを担当した学生の一人がこの管弦楽団の有力メンバーだったのである。定期演奏会がある度に私に招待状をくれ、「是非来て下さいね!」と誘うのである。先の教義がある以上??いかに学生の願いと言っても宗旨替えをするわけにもいかず、いつも「うにゃうにゃ」と生返事をしていたのである。ところがその学生もとうとう卒業!!なにせ彼女は考古学ではないものの中世史を専攻しており、毎週顔を合わすのである。とうとう逃げることができなくなってしまったのである。おまけに、明日なら津市のホールであるのだが、あいにく明日は用事がある。仕方なくハルバル宇治山田まででかけていって聴く羽目になったのである。

感想?

 私には山田博士のように批評する能力は全くないので単なる印象なのだが、正直言って、
「以前よりはよかったと思う」
である。
「なに?!以前にも聴いたことがあるのか?」
「はい。実は8年程前にやはり授業を受けていた学生が熱心に誘うものでつい・・・。」
ただ、これも正直に言うとその時の演奏がとても下手だった!!
素人目にも揃っていない!
かの有名なドヴォルザーク「新世界より」がこのザマなのである。がっかりした。

 実は私も高校生(一浪の頃までかな)の頃には結構クラシックを聴きにいっていたのである。高校の入学祝いに買ってもらったのがポータブルの蓄音機!最初に買ったのがドーナツ盤の「新世界より」だった。だから、この曲にはそれなりの思い入れがある。それが目の前の生とは余りにかけ離れたものだったからである。
 私の父は戦前、とても裕福な家に育ったので、豪華な蓄音機を買ってもらい、たくさんのレコードを持ち、クラシックの世界にのめりこんでいたというのである。戦後の混乱期にはそのレコードを売って食いつないでいたというから相当のマニアだったらしい。しかしその親父も結婚し、子供ができて、日常生活に追い回される中でいつしか趣味をどこかへ追いやっていたのだが、息子がそれなりの歳になって、自らの青春時代と重ねたのだろうか、クラシック音楽会の会員になり、時間を見つけては京都会館のコンサートに通うようになったのである。しかし、多忙な父は度々その切符を無駄にしていたようだ。それが、いつの頃から私の所に回ってくるようになったのである。

 つまり世が世なら私も山田博士に負けないくらいの?クラシック通だったのである(嘘! (笑))
そんな私の転機は新宿フォークゲリラだったのである。



 さて演奏だが、誘ってくれた学生のパートはチェロ。全体的に弦楽器や打楽器の演奏は結構よかったように思うのだが、ちょっと・・・だったのが金管楽器!最初は会場の音響が悪いのかしらと耳を疑った・・・。しかしま、学生の演奏だから、余り酷評もできないか。

 それにしても羨ましかったのが娘のピアノにタクトをふるった兼重親子。ピアノのできばえは「大江光」さんにでも聞いていただくとして、演奏が終わって、真っ赤なドレスを身にまとった娘をじっと見つめて握手をするなんぞ、ホント小憎らしかった(嫉妬!!(笑))。

 最初はピアノ協奏曲が終わったら途中で帰ろうかと思っていたのだが、それなりに聴けたので結局最後までいた。
ここのところ卒論卒論で夜討ち朝駆け!相当の疲労が蓄積していたが、久しぶりのクラシックで、少しはリラックスできた夜であった。

 悔しいが、そろそろ45年前に戻るかな!?

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「長岡京ふしぎ発見~桓武におまかせ~」展好評開催中の条

2010-01-19 21:00:18 | 三重大学考古学研究室情報
 「「長岡京ふしぎ発見~桓武におまかせ~」展
 
 大好評開催中22日金曜日午前中まで!!三重大学講堂へ全員集合!!

 

 10月から進めてきた一年生対象の入門的授業PBLセミナーの展示準備が整い、昨日から三重大学講堂で華々しく???開催する運びとなった!!

 オープンセレモニー?には大学理事の先生方が多数参加頂き、テープカットこそなかったが、無事開催することができた。
 早速伊勢新聞の取材があり、本日の朝刊に大きく?取り上げて頂いた。




 案内している学生の着ている衣装は額田王を想定した真っ赤な古代衣なのだが、残念ながら新聞は白黒でその豪華さは伝わらなかった??残念。

 さてオープン早々大学広報のNCさんが来て下さったお蔭であっという間に大学中枢部に連絡が回り、早速お二人の理事が会場へ足を運んで下さり、えらく感心して頂き、直ぐに大学HPに紹介していただくことになった。

 何と、現在三重大学HPのトップに紹介されているのだが、その制なのか?!先程から大学のHPにアクセスできない(笑)。

 本日は多忙な中,内田学長もわざわざ会場へ足を運んで下さった。何でも学長は若かりし頃長岡京市に一年間ほど住んでおられたとかで、とてもよく長岡京のことをご存知であった。これまた驚きの真実であった。30分以上学生の説明を聞いてたくさんの質問をして頂いた。

 学長、是非素敵な博物館を頼みますよ!!(笑)

 ざっと会場の様子を写真で紹介しておこう。



 会場入口の大看板である!!これを目印に来てね。




 もちろん案内役は章君人形である(嘘!古代衣装に着飾った学生が案内してくれる)



 玄関を入ると直ぐに凛々しい?受付の学生が声をかけてくれる。ちょっとこの時はたまたま他の学生が案内に回っていたので、むさ苦しい中大兄皇子に扮した学生が受付だったが、いつもはこんなんじゃないからね・・・。



 入って直ぐ、受付の前に古代衣装が並んでいる、希望すればこれに着替えて古代人を味わうことができる。



 桓武天皇の肖像画が先ず表れ、展示会の概要を教えてくれる。





 詳細は充実した冊子でゆっくりご見学いただくことにしてその他の催しものコーナーを紹介しておこう。

 超満員?行列のできる展示会となっているらしい???
 あ、そうそう、もちろん入場無料ですよ。





 何処の遊園地にでもある、ありきたりの写真コーナー、でも結構人気なんですよ!

 その他おみくじ、クイズ等々、クイズでは全問正解すると世界に二つとない素晴らしい???!景品が当たります。いろいろ楽しんで頂けるコーナーを用意していますので是非お立ち寄り下さい。

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浅川マキが逝ってしまったの条

2010-01-18 19:35:49 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 つい先程研究室に帰ってパソコンを開くと「浅川マキさん死去」のニュースが目に飛び込んできた。

 一瞬凍ってしまった。

 しばらくして連れ合いからメールが来た「浅川マキが死んだって」と。

 あの独特のなまめかしい高音のクラーイ声、出で立ちも真っ黒け、顔も黒髪で隠れて真っ暗。黒の世界に憧れていた我が友人仲間達にとっては憧れの人でもあった。

 今から35年程前、まだ学生運動の余韻のさめやらぬ京都大学西部講堂の冷たい階段に座ってライブを聴いた。その時の印象は、とってもハキハキしてユーモア溢れる明るい人だな!と言う感じだった。レコードで聞く感じとは少し変わっていて、それがまた魅力にもなった。

 そのレコードも聴く機械がなくなってしばらくご無沙汰していたある時、学生と行ったカラオケにこのとても珍しく彼女の名を見つけて即座に歌ったのがこれ!

かもめ

http://www.youtube.com/watch?v=fOP35aV0qFc

おいらが恋した女は 港町のあばずれ いつも
ドアを開けたままで着替えして 男達の気を引く浮気女
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらは文無しマドロス バラ買うゼニも無い だから
ドアの前を行ったり来たりしても 恋した女じゃ手も出ない
かもめ かもめ 笑っておくれ

ところがある夜突然 成り上がり男が一人
バラを両手一杯に抱きかかえて ほろ酔いで女のドアをたたいた
かもめ かもめ 笑っておくれ

女のまくらもとにゃバラの 花がにおって 二人
抱き合ってベッドにいるのかと思うと おいらの心はまっくらくら
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらは恋した女の まくらもとに飛び込んで ふいに
ジャックナイフをふりかざして 女の胸に赤いバラの贈り物
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらが贈ったバラは 港町にお似合いだよ たった
一輪ざしで色あせる 悲しい恋の血のバラだもの
かもめ かもめ 笑っておくれ
かもめ かもめ さよなら あばよ

とても切なくて、寂しい男と女のすれ違い。男の片思い! 
当時「フラレタリアート同盟」副党首を自認していた私にはとても男の気持ちのよく判る歌だった。だからつい激唱したが、学生にはこのおっさん何歌うととんや?てな感じで無視されてしまいましたね(笑)。

他にも一杯一杯

「ちっちゃな時から」

http://www.youtube.com/watch?v=9e-mInaBkFQ

ちっちゃな時から 浮気なお前で
いつもはらはらする おいらはピエロさ
さよなら お嫁に行っちゃうんだろ
いまさら気にするのか俺を・・・・

これも大好きな歌だった。

「夜が明けたら」

http://www.youtube.com/watch?v=QU2eG1Zh6Hg

夜が明けたら一番早い汽車に乗るのよ
夜が明けたら 夜が明けたら

夜が明けたら一番早い汽車に乗るから
切符を用意してちょうだい
私のために一枚でいいからさ
今夜でこの街とはさよならね
わりといい街だったけどね・・・・

「赤い橋」


http://www.youtube.com/watch?v=au7bytVy3h4

 ふしぎな橋がこの町にはある・・・渡った人は帰らない・・・
いろんな人がこの橋を渡る 渡った人は帰らない

 渡った人は帰らない  さようなら!

「ふしあわせという名の猫」

http://www.youtube.com/watch?v=-U089XOr3WA

「オールド・レインコート$ガソリン・アレイ」

「ピアニストを撃て」

朝日楼~朝日のあたる家~

「セントジェームス病院」

「裏窓」
裏窓からは夕日が見える・・・
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=iPtl5wAnAdA&feature=related

加藤和彦が亡くなり、浅川マキが逝って、確実に69年は終局に向かっているんだな、と思う。我々も後少しだろうな・・・!

寂しい!!

さよならあばよ!向こうでコンサート聴きに行くよ!!

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センター試験の監督業務が終わって・・・の条

2010-01-17 13:33:59 | yaasan随想
 昨日今日とセンター試験が行われている。試験を受けている子どもたちが一番大変なのだが、その影で、私たち教員にも大変な負担が強いられている。

 もっとも昔はそれぞれの教員に問題作成や採点の負担があったらしいから、それに比べればましなのかも知れない。

 まだ今日も監督をなさっている先生方がいらっしゃるのだが、私は昨日で終わり!!なんと言ってもあの恐怖の英語リスニングテストがあった日だからとても緊張していたわけである。

 新聞やネットのニュースによれば、やはり今年も全国でいろいろなトラブルがあったらしい。そんな中で私たちの大学ではトラブルもなく無事予定通り終えることができてホッとしている。

 それにしても、あのたった30分でしかないリスニング試験の間、じっと試験監督をする試験場で微動だにせず立っているつらさ、どれだけ30分が長かったことか!私はこれで二年連続のリスニングテスト係りなのだが、今年は特に120人もいる大クラスでの監督業務だったので余計に緊張した。どうしても不具合の出る確率が高まるからだ。

 一番緊張するのが、最初のテスト段階だ。この時点で不具合を訴える学生が居ると先ずその後が心配になる。不具合といってもかなり精神的なものもあるから、一度気になりだしたらいくらでも気になるものらしいのだ。

 とにかく何事もなく終わって監督者一同万歳!!状態だった。

 お疲れ様!

 来年こそリスニングがあたりませんように!

 それにしても思うのだが、このリスニングとやら、どれだけの効果があるのでしょうね。小学生から英語を習わせたり、英語の能力が異常に高く評価されたり、いつまでアメリカ頼みの国として生きていくつもりなんですかね。例の普天間問題にしても、かつて当たり前に議論された日米安全保障条約の必要性の可否、これをもう一度議論すれば済むことではないでしょうかね。今の議論は大半のマスコミが日米安保があって当たり前、これに反対する奴は非国民!!とんでもない共産主義者だと公然と非難する。

 日本から米軍が全部居なくなったって、別に日本は十分安全な国だと思うのですがね。そもそも使えもしない核兵器の傘に入ること自体が無意味なことであり、そんなものに頼るくらいなら、日本の周囲を取り巻く海上の警備を徹底することの方がよほど大事じゃないですかね。そうすれば暴力団に拳銃や麻薬が手に入ることもないし、とんでもないマフィア集団が日本に入り込んで強盗やら殺人を繰り返すこともないし、よほど平和な日本が保てると思うのですよね。

 つまり英語を勉強してアメリカ人に媚びへつらわなくても、堂々と日本語をきちんと話し、日本の文化を大切にして、この美しい日本を守ることの方がよほど大事だとおもうのですがね。

 今から1200年前、桓武天皇は時の巨大帝国中国の唐王朝に媚びて、中国語を公用語としようとしました。学者を派遣し、中国語のネイテヴを学ばせ、中国の専門書を持ち帰らせて大学で講義させ、実際にかなり本格的に中国語が普及しました。平安時代初めに漢詩が大流行するのも、桓武の息子嵯峨天皇が平安京の名前を中国風に改めるのもこのせいです。

 しかし、もちろんこの政策は長続きしませんでした。逆にこの反動で広まったのが国風文化でした。源氏物語や枕草子、土佐日記などの文学は言ってみれば、桓武の中国化政策の反動として生まれた産物だったわけです。

 果たしてこの馬鹿げたアメリカ化政策の反動として一体いつ、どこから新たな日本文化が展開するのか?期待はするのですが、今の身近な学生達を見ていると・・・??? 

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卒業論文が提出されましたの条

2010-01-15 07:06:35 | 三重大学考古学研究室情報
 昨日までの喧噪が嘘のように大学の研究室一帯は静まりかえっている。不夜城のように煌々と輝いていた各部屋の光も消え、不気味な暗闇が広がっている。



 あの大北横穴群が形になりました!!



 これが噂の?石櫃です。

 昨日、1月14日は卒業論文提出日だった。
 昨年までは1月21日と決まっていたのだが、いろいろな人からの意見?苦情!によって、センター試験前の木曜日が提出日と変更されたからである。昨年に比べて一週間も早くなってしまった。

 当初は卒論を出す方に影響が出るかなかなと心配していたのだが、杞憂だった。彼らは初めてのことで、この日と決まっていればその予定で執筆を進めるだけで、余り気にはしていないようなのだ。
 困ったのは教官の方だった!特に今年の様にたくさんの学生がいる私の研究室では、年末から正月にかけてひっきりなしに学生が私の部屋を訪れるようになったのである。従来なら正月に最終追い込みをして正月明けにチェックを受け、提出という段取りだったのである。ところがこのスケジュールになり、年末が原稿のほぼ完成する時期なので、その前の冬休みに下書きのチェックを受けに来る学生が急増したのである。予想通り今年の学生は卒論の追い込みが遅れていたため、年末ぎりぎりまでこのチェックの依頼があり、酷いのになると正月明け早々に泣きついてくる有様であった。

 もちろん流石に正月そのものは勘弁してもらったのだが、正月明けの5日から山口へ研究会に出かけた二日を除いてほぼ毎日、夜討ち朝駆け状態だったのである。(涙!)
 
 疲れた!

 おまけに今年の冬休みはインフルエンザやら、台風の休講やらで2日も補講を科せられたのである。結局私の冬休みは正月三ヶ日だけだった。

 それが昨日の16時が締め切りで、皆さんぎりぎりに駆け込むように提出し、あたふたと机の散乱していた資料を片付けて帰ってしまったのである。もっとも私はこれで万歳!という訳にはいかず、その後大学院の授業を20時過ぎまでやって、やっと開放。余りに疲れたので少しうたた寝をして目を覚ますと、頭書のような静けさになっていたのであった。ま、何とか形だけは間に合ったようなのでよしとすべきであろうか。できばえの方は例年通りというところだろうか、残念ながら全員がいい論文を書いたということにはならなかったが、最悪の事態は避けられそうだ。

 ただし、どうもいずれの皆さんも、文章を書くことが苦手のようで、これもセンター試験のマークシート式試験の弊害であろうか。卒論を書く段になって初めて真面目に本を読むようになった学生も多いのである。三重大学唯一といってもいいくらいの文系の学科の学生がこのザマだから、他の学部や学科は推して知るべしというところである。

 もっともある程度はこのようになることは一年間、彼らが行ってきた卒業論文の中間的発表内容から想像はついていたのだが、開けてみて予想通りだとちょっとがっかりもする。たまには予想を覆す大逆転のいい卒論を見たいものである(かくいう私自身の卒論はこの学生達と全く一緒であったので・・・・)

 そんな中でなかなか面白い成果となったのが「7~9世紀における伊豆地域の火葬ー大北横穴群出土石櫃の考察からー」と「山陽道駅家の機能に関する一考察」であった。両学生共に三年次からこのテーマに沿った演習発表を繰り返し進め、少しずつ充実させてきたものの集大成となった卒論だから読む方も安心して読める。その上、彼らに限って、卒論を準備する前に関係する現地を実際に歩き、その目で確かめている点に共通点がある。要するに真剣に取り組んでいる学生の卒論は、三重大生くらいの能力があればそれなりのレベルにいくのである。

 実は今回は就職の関係で提出を遅らせたが、もう1人の「宝塚古墳の円筒埴輪の再検討」(仮題)を認めた学生もまた同様で、炎天下の埴輪収蔵庫に隠っての力作であった。提出しなかったのは残念だが、このご時世、仕方がない(もちろんそれ以外の学生もこちらの指示に従ってそれなりに現場を歩いてはいるのだが、どうも論理的文章が苦手なようで・・・)。

 いうまでもなく論文を書くには、考古学のようにある空間に置かれた遺跡(遺物)を素材とする学問分野では、遺跡の現地に立ってみることは不可欠である。①徹底した資料の収集をした上で、できるだけ多くの資料を実見し、②対象資料の検出状況を現地に立って体感し、③なぜ人はこの地で暮らし、埋葬されたのかなど、書籍では感じ取ることのできない遺跡の風景を脳裡に焼き付けること、これが発想の形成や転換に大いに役立つのである。



 石櫃に納められた火葬骨

 大北横穴群には私も現地に行ってみた(友人には温泉にも入らずにビジネスホテルに泊まるなんて信じられん!!と言われた(笑))が、あの限られた空間に突然出現する石櫃には本当に驚かされる。卒論では丁寧に石櫃の出現から石櫃を用いない火葬骨の埋葬までの変遷を追い、それまでの横穴に土葬していた地域社会が一変する様を見事に描き出している。残念なのは、分析が伊豆半島に限られている(もちろん、伊豆半島のこの地域が極めて異常なのだが)ため全国的な火葬の普及(普及しないことも含めて)との比較ができなかったためにその特異性が地域の個性のようになってしまった点であるが、その点は本人も大いに自覚していて、できれば大学院に進んでさらに勉強してみたいといっている。とても嬉しいことだ。



 伊豆半島の代表的な横穴群の1つ柏谷横穴群の中から見た光景

 山陽道も学生と一緒に歩いた。播磨、備後」だけではあるが(この地域に発掘調査例が限られている)、遺跡立地の歴史的背景を考えるにはとてもいい経験になった。もう今から10年も前に、安芸国の駅家として唯一調査事例の知られる安芸駅(下岡田遺跡)も丸一日踏査したことがあるので、少しはイメージを持つことができていたのだが、改めて論文を書く立場で歩くといろいろ新しい課題が見付かって来るものだ。



 葦田駅家は川沿いにあって、礎石建ちの巨大な倉庫を伴う。これ何型なんだろう。故高橋美久二さんにこの論文を是非読んでもらいたかった!!

 卒論では、駅家の施設配置と立地との関係から山陽道駅配置のモデルを造り出し、分析を加えたのであるが、その類型の中で最も興味深かったのは駅-津-「伝路」-官衙(国府や郡衙)機能が集中する位置に設けられた駅家の基本構造の指摘であった。山陽道とよく似た位置を通る東海道についてもおそらく同様の配置や構造があるに違いない。今回は学生の地元ということで、山陽道に限ったが、今後進学してさらに研究を進めるというからこれまた心強い次第である。できれば東アジア全体に目を向けて、東アジア世界の交通制度との比較もやってっもらいたいものだ。



 品治駅家はなかなか面白い位置づけの駅だと判定されました!!

 全く新しい方法論の卒論が登場したのも今年の大きな特徴であった。

 GISソフトを使用した鈴鹿関の景観復元と、その成果による関の機能の分析であった。まだまだソフトを使いこなせていない問題があり、十分な解析には至っていないが、あの小難しいソフトをあっという間に習得し、それなりに動かしてここまで到達した技量には感嘆する。これまた、IT世代の申し子というところであろうか。彼らもまたこうしたソフトを使った仕事に就きたいということでしばらく勉強するというから楽しみだ。

 ま、なんだかんだ言っても、少なくとも彼らは論文を一本完成させたわけだから、この間まともに論文も書けていない私に比べれば立派なものだ。この経験を是非活かして社会に、更なる研究に活かせてもらいたい。


 おめでとう!!

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周防国で東アジア宮都を勉強するの条

2010-01-12 19:38:18 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
「東アジア諸国における都城及び都城制の比較を通じてみた日本古代宮都の通時的研究第7回研究会」と言うとても長いタイトルの研究会が、9・10日の二日間、山口大学人文学部であった。

 今回は中国から社会科学院の劉振東さんをお迎えしての漢代長安城の報告と、中国近世の宋・元・明・清代の都城(複都)に関する文献研究者からの報告であった。いずれも内容の濃い、充実した報告であった。



 報告内容の詳細はいずれ刊行される図書によって知ることができるだろうが、ここでは報告の主旨とは直接関係しない、トピック的に知ることのできた内容の一部をご紹介しよう。

 漢の長安城については何度(4度?)か現地を訪れ、その様相を見学してきたのだが、今回は直接調査を担当されている研究者からの報告ということで、内容も豊かで、大変興味深かった。特に調査成果から見た城内の利用の実態は調査担当者ならではの発掘調査成果に基づく実証性の高いものであった。特に長安城が秦代の離宮から成立していく過程や、そうした中で城内に居住する人々の階層がどの様に変化するのか、城内の諸施設がどの様に建設されていくのか、これまでの研究史の中で指摘されていた城内の構造が発掘調査によっていかに変わったのか等、これまでに知ることのできなかった具体的なものであった。近年、長安城の設計については黄暁芬さんによる中軸線や五方基壇の確認、子午谷との関係など、歴史地理学的手法からの研究が進められ、新しい提案がなされているところである。これに対し、劉さんの報告はそうした現地形などからする研究とは一線を画した、発掘調査という生の資料からの分析であっただけに、信頼性の高いものとなった。惜しむらくは出席予定だった黄暁芬さんが急遽欠席となり、お二人の間での論争が聞けなかった点であろうか。

 報告の中でさらりと流されたある事例があった。以前から少し興味を抱いて調べているものなので詳細について質問してみた。
 
 漢代長安城から風呂が発見されたというのである。

 初耳だった。中国の風呂と言えば華清池から発見された楊貴妃と玄宗皇帝の風呂であろう。あのような優美な浴槽が発見されたわけではなく、湯を溜める施設?とその周りに磚を敷き詰めた遺構からなっていたという。写真だけだったので余り詳しくは判らなかったが、説明によると、京都府向日市の宝菩提院廃寺のようにその場で湯を沸かす施設ではなく、どこかから湯を運んできて溜めるタイプのものだという。それにしても漢代の長安城の内部に風呂があったというのは、私にとっては大いなる驚きであった。それも、湯を溜めておくタイプと言うから驚きだった。場合によっては中国古代では皇帝クラスは普通に湯船に入って身体を浄めていた可能性も出てきたのである (もちろん湯を浴びるための湯溜であることも十分考えられるが)。私にとってはとても新鮮な事例だった。

 そのついでに質問したのが、
 「トイレは発見されていないのですか?」
というものだった。
 残念ながら今のところ長安城からの発見はないが、漢代の墳墓から発見されることがあるのでその構造は判るという。
 「エッツ!?ミニチュアですか?」
 「いえ、実物です!」
 「???」
一同きょとんとしてしまった。
 「お墓に実物のトイレですか???」
 「はい、写真がありますよ」
エエッツ、是非是非見せて下さい!!」
ナナナント、かなりのクラスの墓には実物大のトイレが備え付けられているというのだ。
 そしてそれは現代の中国のトイレと同じ、低い壁があるだけの囲いのないトイレだった。思わず万歳しそうになった。
 いいことを教えてもらった。これから中国の墳墓を調べてトイレを収集してみよう!!
 これが第一のクサイ成果?であった。(笑)

 次の報告は長野高等工業専門学校の久保田和男さんからの五代十国から宋代にかけての複都制に関する報告であった。とくに興味深かったのが陪都(西都洛陽と首都開封との関係であった。
 中でも引き込まれてしまったのが、高等学校の世界史の授業の頃から超苦手だった、五代十国時代の五代国(後梁907-923、後唐923-936、後晋936-946、後漢947-950、後周951-960)に関する報告であった。その都が複数おかれ、どの様に変遷するかというとても内容の濃いものであった(五代の国々の都が何処に置かれたかも知らなければ、複都制をとっていた可能性があることなど全く知らなかった。-おそらく東洋史では常識なんでしょうね(汗)-)。その中で、私が気になった点が、『周礼』考工記と都の形状との関係だった。結論のみを記せば、この時期の都は『周礼』を意識してはいるらしいのだが、実態は全く合致していないということであった。日本の新城の解釈に度々引用される『周礼』であるが、本場中国ではほとんど実態がないことがここでも確認できたのである。大きな収穫であった。益々、新城が「十条十坊」であり、『周礼』考工記によって建設されたとする仮説に疑念の深まることとなった。とても嬉しかった。


開封宮城の午門

 次いで東北大学の渡辺健哉さんから、蒙古の都である上都と大都についての興味深い報告があった。
 クビライの時代、皇帝は季節に応じて上都(現在の内モンゴルドロンノールの北西)と大都(現在の北京)を往き来するのが常だったという。大都は大都会のど真ん中にあり、大規模な発掘調査が困難で、報告事例もないので、一方の都である上都について分析したものであった。上都が都としてどの様な機能を持っていたのかということが詳細に論じられた。

 上都はかつて5年前に訪問した地であり、その内容はとても懐かしいものであった。現地に赴いた人も多かっただけに、この都がどの様な機能を持っていたかについては意見が噴出した。一時的な宮殿なのか、恒久的な都なのか、定住する「都市民」はいたのかいなかったのか、いたとしたらどこに住んでいたのか等々、我々には貴重な文献からの研究発表だっただけに議論は尽きなかった。その可否について私に判断する能力はないが、全く異なる視点から、あの平原の一角になぜクビライは方格の城壁で囲われた「都」を築いたのか?であった。現地に行けばわかることだが、内部にはこれまでの研究史で発表されているように宮殿施設を彷彿させる基壇状の高まりをできる。城壁や城門は見事に残っており、その偉容は見るものを圧倒したに違いない。それだけにこれが見せかけだけの空間のようにも感じられるのである。常置された空間に皇帝が定期的に移動し、その地に外交を求めて諸外国使節が訪れる以上、その地を「首都」と見ることは当然の様に思われるのだが、それにしては人気の感じられなかったのは私だけの感覚であろうか。

 もう一つ驚いたのは、中都の建設がわずか数年だけで、おそらく途中で放棄されたのだろうということだった。現地を訪れた時、とてもよく残っていた地割などから、相当の機能を有した都であると思い込んでいただけに意外な答えに驚いたのは私だけではなかったろう。考えさせられた。


 中都の南面門闕



 中都に残る塔の一つ。

 さらにこの後、元・明の都城についての報告があったのだが、私は夕方からの名古屋での会議のために中座せざるを得なかった。とても残念だった。いつもながら、この研究会では多くのことを学び、刺激をもらって山口を後にした。


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初句を少しの条

2010-01-05 02:40:27 | yaasan随想
 いろいろな方から年賀状を頂くのですが、お互いに惰性の様なものも結構あって、毎年、年賀状もそろそろ止めようかな?等と思いながらなかなか思い切りがつかない。今回も年末ぎりぎりに出してしまった。

 定年になれば確実に止めざるを得ないとは思うのですが、その前に何か自分できちんと社会人になってからの30余年を総括して止めようと思っています。果たして今年の12月にどうなるのやら・・・。

 今年もそんな思いをしながら年賀状を出し、たくさん頂きました。有り難うございました。決まり文句が印刷されているだけというのはちょっと寂しいので、今年は全部に短く、コメントを書きました。疲れました。
 
 頂いた年賀状で一番の驚きは、三重県津市のKT君がクリスマスに結婚したという賀状でした。もちろん彼もいい年ですから、するのは当然なのですが、11月末に会ったばかりで、そんな雰囲気、全くなかったもので、びっくりしました。どうりで12月の某会議には出てこなかったわけだ、と納得しました。

おめでとう!!

今回の一番のニュースでした。
 
 その他は、どこの行政も大変みたいで、この業界の縮小傾向がひしひしと伝わってくる賀状が多くありました。でもそんな中で、報告書や展示会、史跡整備に頑張っているという近況には勇気づけられました。「橋下」なんかに負けないぞ!という感じです。
 
 もっとも一番の心配は、いつも遅くはあるが必ず届く親友の年賀状が来ないことです。最近親友がバタバタと病に冒されているのでとても心配です。どうか元気でいてくれることを祈るばかりです。

 私は明日(あ、もう今日だ。5日だ。)から「出勤」します。卒論にあえいでいる(はずの)4年生の最後の助け船??を出すため(&補講+会議+最後の官舎自治会の仕事)です。もっとも、何かあったら連絡してこい!と言っているのに、誰からも何も言ってきません。大丈夫なのかしら?いや、きっとそれどころじゃないのだろうな・・・。複雑な思いで出かけます。

 
 初雷を 正月に聞く 温暖化
(はつらいを しょうがつにきく おんだんか)
正月だというのに激しい雷雨に驚いて

 今日こそは 待てども来ぬ 友の賀状 
(きょうこそは まてどもこぬ とものがじょう)
去年から音沙汰のない友人の年賀状も来ない現実に不安がよぎり。

 子ら去りて 二人で囲う 正月鍋
 (こらさりて ふたりでかこう しょうがつなべ)
元日に全員が揃って大酒を飲んだのだが、一人去り、二人去り・・・3日にはみんなそれぞれの正月に出かけてしまい寂しくすき焼き鍋を囲む二人。

 賀状見て 決意の論文 はや挫折 (がじょうみて けついのろんぶん はやざせつ)
今年こそは!と決意だけでは駄目だと判っていながらやはり決意する私。果たして最初の論文はいつ完成するのやら。

 稲荷にも 藤森にも 向かぬ足 (いなりにも ふじのもりにも むかぬあし)
直ぐ近くの稲荷大社は何百万人という人出だとか。賽銭の勘定だけで5日かかるらしいのだが、私はただひたすら寝正月。

 箱根路を 駆け上る足に 早パッシング (はこねじを かけあがるあしに はやぱっしんぐ)
ネットのニュースによると、東洋大の連覇に、早稲田贔屓のマスコミが業を煮やして箱根の山の距離を短くしろ!!と大合唱らしい。早稲田の敗因が山登り(下り)にあったからだそうな。こう言うのを今は「スポーツマンシップ」というのだろうね。馬鹿げてる!!だから早稲田は嫌いなんだ!!今や「早稲田 白鳳 ラーメン」だもんね。

 残されし 八百余日 決意の春 (のこされし はっぴゃくよにち けついのはる)
正規の定年まで後八百余日。決意はするのだが・・・。

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謹賀新年

2010-01-03 11:31:36 | yaasan随想
 新年明けましておめでとうございます。
                 今年もよろしくお願い致します。


 元日にご挨拶を、と思いながら年末から体調不良でほとんど寝てました。昨夜辺りからようやく少し体調が戻りましたので、ここにご挨拶申しあげます。

 
 2012年3月31日に向かってカウントダウンの年が始まりました。残り820日を大切に、一歩一歩着実に生きていきたく思います。

 先ず朔日には何とか、廣岡義隆先生の御高著『行幸宴歌論』(和泉書院2010年3月?刊行予定)に付編として掲載される予定の鼎談「三重の萬葉と歴史―天平十二年の聖武天皇による関東行幸―」原稿の校正を終わりました。

 今日は今尾文昭著『律令期陵墓の成立と都城』(青木書店2008年)の書評を送りました。

 本当に小さな短い今年の一歩ですが、こうしたじっくりした歩を今年は続けていこうと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。

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