yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

鬼が塩屋遺跡第三次発掘調査の開始の条

2012-10-14 00:03:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 10月15日から鬼が塩屋遺跡の第三次発掘調査が始まる。



現地表下2mで砂層を確認した。

 ここに至るまでには言い尽くせないいろいろなことがあった。この歳になって、いや、2012年にもなってこんな基本的なことで行政指導を、それも大学側からしなければならないのか、一体日本の埋蔵文化財行政はどれくらいの質で列島全域に浸透しているのだろうか、と疑問を抱かざるを得ない事態だ。



基準点の確認(4-7ポイント)



4-2ポイント

 そんなモヤモヤが一杯あるせいか、ここのところ血圧が高くて困ってもいる。先週末に受けた健康診断でも唯一引っかかったのが血圧。看護師さんが心配して三回も測ってくれたのだが、やっぱり高い!!私にしては本当に珍しいことなのだが、きっとこの間のイライラが原因に違いない!

 そんな中、とにかく調査を始めなければならない。もちろん日常的には授業もある。週末には公開ゼミもあるし、高等学校で出張授業もある。こんなのみんながやっていればもう少し楽なのだが、大体やるのはごく一部の教官に過ぎない。やらない連中は平然としている。こんなことではいずれこの学部が消えても不思議はないように思う。

 ま、愚痴はこれくらいにして、鬼が塩屋遺跡の発掘調査である。



調査地全景(北西から)

 最も重要な調査目的は一つ! 地震履歴の年代確定である。これまでにもこの場でお知らせしたとおり、昨年の調査でこの大地震の年代を13世紀から19世紀の間のどれかと判定した。しかし、これでは余りに幅がありすぎる。その原因はわかっている。これまで工事が先行して液状化現象を受けていた地層より上の層が先に飛ばされて、液状化後に堆積した砂層の年代がはっきりしなかったのである。

 そこで今回は旧高等農林時代の農場に使われていた耕作土の下に堆積する砂層から丁寧に発掘することにした。昨年の調査で、この砂層のある位置から19世紀初頭の常滑焼の擂り鉢が出土していたのだが、この段階では上部砂層について明確な地層確認ができていなかったのである。だから今回は丁寧にこの地層から調査し、下限年代を探るのである。

 調査地は三箇所に及び、最も大きな病院の診療棟建設現場は某市教育委員会が担当することになったのだが、始める前からやる気のなさが露呈していた。

 驚いたのは「試掘」調査にたった一人でやってきて、測量用具も画板も実測用用紙も何にも持ってこないのである。工事現場のユンボを使って掘らしているのだが、

「どうしてそこを掘るのか?」と聞くと、

「特に理由はありません」という。では

「なぜこの砂で止めるのか?」と聞くと

「地山だと思うからです」という。

 調査前に私たちが作った報告書を見たか?と聞くと「知りません!」という。現地の状況も知らず、測量用具も持たず、たった一人で「試掘」に来させるとは何事か?呆れてものが言えなかった。直ぐに堅調に電話し、市役所に乗り込んでの直談判をやる始末。

 その後何とか発掘調査に切り替えさせたのだが、聞くところによるとこの担当者、考古学など学んだことがないという!!

「ハッ???」信じられない。一体この人達はどれだけの遺跡を調査もせずに破壊してきたことか。

 某市も含めてこの県は伊勢湾に面し、いざ大型地震が起これば直ぐに津波が襲い、多くの被害が予想されているのである。だから口先だけは防災、防災とうなるのだ。しかし実態はこれ!!全くやる気なし。悲しい現実だ。

 もう一箇所は昨年の調査地の直ぐ横で、これについては研究室で行うことになった。さらにもう一箇所が、新しい校舎の建設予定地での調査で、こちらは発掘業者に委託するらしい。

 なお、調査地の直ぐ東と南には2003年に発掘調査をした後建設された建物があり、この屋上から調査地の事前の様子を写真に撮ってみた。



発掘調査予定地全景(南から)



発掘調査予定地全景(東から)





調査地周辺

 調査成果については適宜お知らせすることにしよう

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河西回廊踏査-11 不思議な中国郵便事情の条

2012-10-08 13:07:11 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今回も又たくさんの書籍を購入した。いつものことだから驚くこともないのだが、訪れた町々、遺跡遺跡で様々な書籍を買うことになった。今回はカバンが小さかったので余り買わないでおこうと思っていたのだが、二度と来ることのないところだから情報はたくさん仕入れていきたいのでどうしても買ってしまう。

 とは言っても私の買う量などしれていて、その五倍は買うのが妹尾さん、そして二倍買うのが橋本さんと田中さんである。聞くところによると彼らのご自宅には(或いは別に借りているお部屋には)2万冊以上の本があるとか。私の数千冊など足下にも及ばない。



敦煌から送れた本はたったこれだけ。一箱5㎏以内で3箱だからわずか15キロ足らず。この倍くらいの本をカバンに入れて持ち帰ったから、当然これで本棚の一段が埋まってしまう。

 ところが近年の航空事情はとても厳しくなっており、これら購入した書籍を飛行機で持ち帰ることが非常に厳しくなってきたのである。国際戦はスーツケース二個でそれぞれ23㎏以内、手荷物は1個で10㎏以内なのである。もちろん普通の旅行ならこれで十分なのだが・・・。今回も結局中国の上海で1個3000円のカバンを1個買い足して、それぞれ20㎏余にして飛行機に積み込んだ始末。

 もちろんこれでも足りないから実は旅も最終段階であった敦煌で郵送することにしたのである。

 これがまた、皆さん手慣れたもので、町の郵便局のカウンターを占領して、ロビーに書籍を積み上げて、郵便局から箱やらテープやらマジックやらハサミを借りて梱包するのであった。ところがここが中国らしいところ。大都会では一箱20㎏は詰めるのに、敦煌では5㎏しかダメだという。それもやっと一箱20㎏に調整して容れ終わったところで言い出すのである。

 「エエッツ!!なんでー?」

みんな大ブーイングなのである。しかしそこはそれ中国。頑固なのである。頑として聞かない。渋々せっかく作った箱のテープを破り、書籍を取り出して、今度は一箱5㎏以内に入れ直すのである。5㎏というとわずかしか入らない。書籍は大体一冊1㎏前後はあるから、微妙な重さに調整することはとても難しい。そもそもそれまで体力の限りを尽くして梱包していたのでもう根性がないのである。最初はぎりぎりまで量って容れていたのだが、「もういいや」になってきて、ある箱はガラガラ、ある箱はギリギリとなったのである。そんなものだからいざ郵便局員さんの所に差し出すと微妙にオーバーしているという。



どこに我が家の住所があるか判ります?よくもこんな調子で日本まで届いたな!と思う。

また、「エエッツ?そんな!!」

となるのである。こんなことを繰り返すものだから、ナナなんと郵送だけでほぼ半日かかった。その上こんなことを踏査の団員の半分に当たる5人ほどがやるのだから、田舎の郵便局は麻痺!!もちろん地元の方も出しに来るのだが、なかなか出せないでいる。あのくだらない尖閣列島の問題がまだ表面化していなかったからよかったものの、今時そんなことをしていたら石でも投げられたのではないかと言うくらいの惨状だった。

 やっと荷物ができて住所などを書く段になってまた問題が!箱にうまく書けないのである。おまけにボールペンしかないので、字が薄いのである。差出人の住所と名前を書くことになっているので、そのとき泊まっていたホテル住所に西安から運転してきてくれているドライバーの名前を書いて出すのだが、これが殆ど読めない!!

「ホンマニこんなことで着くのやろか?」

全く信じていなかったのである。本代だけでも3000元(約40000円),送料が一箱200元。合計3600元もかかった荷物が行方不明になるのではないかという疑いの気持ちが一杯湧いていたのだが、もうそんなことどうでもよかった。クタクタ、ヘトヘトになってホテルに帰ったのである。

 ところがである。学者というのは本当に変人である。この後上海になぜ立ち寄ったかというと、行きつけの!!本屋で本を買うためなのである。私はさすがに財力も気力も失せかけていたので持ち帰れる分しか買わなかったのが、某二人の先生方は、「奥さんに怒られる!」と言いながら、本屋から郵送した上、空港でギリギリの23㎏×2を買って帰ったのであった。なお、驚くなかれ!

「行きつけの本屋さん」!!というとおり、本屋の店員が二人の日本人をよく知っているのである。

さて、その書籍、予定では1ヶ月後に着くという。しかし9月末には届かなかった。

「やっぱりダメかな!?」

「40000円パーかな?」

とあきらめかけていたのである。すると先のお二人の内の一人からメールが来て、無事届いたという。

「僕のは??エッツ僕のだけ行方不明!?悲しい!」

と思っていたら家から電話があり、今日(10月4日)中国から二箱荷物が届いたという。



我が家に届いた時には箱はかなり破れていたのである。きっと投げ飛ばされたに違いない。よくぞご無事で!!


「エッツ???2箱?」
「3箱なんだけど!」
「やっぱりあれはダメか!」

そうなんです、最後に気力がなくなって梱包した荷物は梱包もいい加減だったので、局員さんが一度開けて梱包し直していたのです。おまけにその荷物に書いた日本の住所がとても字が薄くて、自分でもよく読めない!

「やっぱりあれはダメだったか?」ま、2箱届いただけでも奇跡だから・・・。

こんな思いでいたら、ナナなんと、翌日もう一箱が奇跡的に届いたのである。中国郵政事情恐るべし!侮ってはいけないよ!!(ちなみに敦煌の郵便局のお姉さん達は愛想は悪いのだが、とても親切だったのである。彼女たちの名誉のために付け加えておく。)

ま、いずれにしろ、学者の本好きは当然とはいえ、普通の人が見たら超異常なのである。我が家もまた本の置くところがまたまたなくなってきたのである。

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河西回廊踏査-10 黒水国城踏査の条

2012-10-01 22:20:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
8月20日(月)酒泉から張棭に向かう

 黒水国南城(明城=小砂河駅-唐代-)到着。


黒水国城の文物碑



一応、文物管理所らしい



北西隅から入り西沿いに南下し南西隅辺りで時間切れ。



西城壁



順番に回ります。





甕城になった西門です。





西の外から見ると。




北のところから北城へ向かう

 南城踏査。主として北城を踏査するため、南城は西北角楼を中心に一部の踏査に止める。東西250m,南北220m余りの比較的小規模な城跡なのだが、北西隅の楼跡や南門、西門がよく残っていて大急ぎで写真を撮りながら回った。

 南城の踏査を慌ただしく切り上げ、甘粛省文物考古研究所が発掘調査中の黒水国遺址(黒水国城以前の遺跡)を目指す。携帯電話でその場所を聞きながら向かうのだが、なかなか辿りつかない。どうも案内をしてくれている「学生」が現地に不慣れなようだ。途中の民家でも聞いて、ようやくそれらしきところへ向かう。30分以上も時間をロスした。こんなことなら南城をもと見ておけばよかった。

 南城の東南1km余り。発掘現場までの途次、多数の瓦磚の集積と土の高まりを見つける。周囲に遺構が広がっていることは確かな様だが、調査した後の残骸かもしれず、相変わらずの中国の発掘事情に少々がっかりする。




なかなか辿りつかない!!


途中蟻地獄や



塼を集めた施設??で休憩
 


発掘調査地


正立下土器の出土状況



大騒ぎしながら北城へ

 各所で漢代の瓦の集積があった背景には周辺に多数の建物か墓があったからではないかといわれている。

 やっとのことで現場に到着。調査を手伝っている西北大学・吉林大学などの大学院生・学部生 が説明してくれるのだが、これが余りに頼りない!ま、日本でも同じだから、むしろ説明するくらいはまだましというべきかもしれない。

 遺跡は1990年代に現地文物局が発見し、数次の調査を経ているとのこと。銅の冶錬場などが見つかっており、継続して調査を行っているらしい。鞴の羽口や銅滓が見つかったという。ただ、学生の説明ではどこでどの様に見つかったのかがよくわからなかった。

 遺跡の時期は
 1,馬家窰文化(紀元前3000年頃、新石器時代後期。甘粛彩陶文化とも)の馬廠期
 2,斉家文化(紀元前約2000年頃、新石器時代 晩期)と馬家窰文化の混淆・過渡期
 3,四□期(紀元前2300年前、新石器時代晩期)。
というのだが、ホントかな?よう判りません。

遺構は城址と全く無関係。建物十数基、工房関係の遺物(鉱滓な ど)や焼土面、墓葬を確認。中国では珍しく発掘現場の写真撮影が許された。残念ながら各遺構の切り合い関係が全く不明で、上記時期区分もおそらく出てきた遺物の年代を述べたに過ぎないのだろう。見学中に正立下状態に坑に舞納されたと思われる土器が完形で出土しているのを見た。図面や写真を撮ってあげるべきではないかと言ったのだが・・・。

 南城から北城への移動のため、大気中のバスまで、現場で通勤?に使っている農業用荷物車?に載せていただいた。なんせ普通の農道しかないもので、とにかくガタガタ。9人が荷台の縁や中に座って、落ちないように必死で支え合って約15分くらいの移動に緊張した。荷台の中に座り込んでいた私は、お尻が痛くて痛くて着くまで1時間くらいかかったように思えた。

 荷車を乗り継いで、黒水国城北城を目指した。遺跡の直ぐ横に干乾し煉瓦工場があり、遺跡一帯から煉瓦の材料を得ているようで,その採掘跡が城壁の直ぐ横まで及んでいた。北城の外に何があったかなど全く関心がないのだろう。



北城周辺は煉瓦の粘土採集でかなり壊れてきていた。



北東角から一周することに







西城壁


南西角の隅楼部分




南城壁を東へ





南城壁は相当砂で埋もれている。


東城壁を北へ


内部
 黒水国城については山田勝久「中国黒水国遺跡の調査報告-河西回廊の要衝、黒水国の興亡を中心として-」(『甲子園短期大学紀要』No.37 2009年)に詳しいのでその内容を略記してみると次の様である。

 山田氏によると黒水国城のある祁連山脈の北麓は今から3800年から4200年前に人々が住み着いたとある(現場での話ではもう少し古そうではあるが、どちらが最新情報なのかは不明)。

 紀元前4世紀になると天山山脈北東部のジムサ地方にいた烏孫人が東征して祁連山の北方の張棭に住み着き「行国」という国を建てた。この地方の土地は黒土が多く、さらに烏は黒いので黒水国とも称せられていた。〔本来はこの遺跡の場所を黒水城と呼ぶべきなのだが〕支配地域が余りに広く、多くの支城を有していたので「黒水国」と呼ぶようになったという。

 黒水国内には古い順に駱駝城、八卦営城、明海城、羊蹄沟城、許三湾城、永固城、張棭東城仙堤城、双湖城、・・・等29もの城があったという。王城の郊外を流れる河が羌谷水で「黒河」とも称されたらしい。

 紀元前176年、北方モンゴル高原の匈奴が強大化し、西域26国を支配するようになると、黒水国のある祁連山北麓のこの地を重要視し、発展したことが出土文物により証明できるという。

 前漢時代になる特区水国は張棭に設置された十圏の一つである觻得県と称され、当該地域の中心となる。後漢時代になると東西文化交流の拠点として繁栄し、25000人もの人々が住んだ時もあったと言う。しかし漢安2(143)年の大地震により大きな被害を受けた。その後、東晋の安帝の時代隆安3(399)年の記事によると「張棭は大いに乱れ通行もままならない」状況になったという。

 隋代には再び觻得県と改められ(後永平県),これまでの王城(南城)の北2.5kmに北城が設けられる。南城には駅が置かれたらしく「甘鎮志」という史料によると小沙河駅が置かれたらしく、常に57頭の馬と軍兵113名、牛車50両が置かれていたという。

 北城の東西は254m、南北228mとほぼ南城と同じ大きさを測る。北城は黒河の東の高台の上にあり周囲がよく見渡せる。〔実際、各隅にある楼上に登ると四周が大変よく見渡せた〕


 北城には漢代の瓦が散布していることから、それ以前に何らかの施設があった可能性がある。北から入り、城壁を一周した。

 黒水国城遺址踏査後、昼食を摂って高台市博物館を目指すも、休館とのことで見学を断念し、直ちに駱駝城を目指すことになる。



南西隅部


駱駝城へ



 「河西回廊踏査-11」に続く



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久しぶりに野球ネタを一くさりの条

2012-10-01 22:00:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
私は大の巨人ファンであることはこのブログで何度か表明している。まだお袋のお腹にいる時からファンなのである。と同時に大のアンチ阪神なのである。関西では異端中の異端!!おそらく最も嫌われる人間なのである。

でも人の声なんてどうでもいいのである。巨人が優勝しない時は阪神が巨人より下であれば満足するくらい阪神が嫌いなのである。

その理由は前にも書いたとおり、こんないやな事件があったからなのである。

 私が母のお腹にいる時、両親揃って甲子園へ出かけたのである。もちろんうちの親父は大の巨人ファンである。なんといっても親父の従兄弟の家が甲子園球場の直ぐ横にあるので、親父は独身時代から度々この家を拠点にして巨人戦を見に行っていたのである。従兄弟のうちはなぜか「ドーナツ屋」だったのである。だから親父が甲子園に行った時には必ずドーナツのお土産があったのである。

 そんなこんなで,身重にもかかわらず新婚夫婦は、きっとお袋はどうでもよかったと思うのだが、6万人が入ったという巨人阪神戦を見に行ったのである。もちろん巨人が1対0で勝ったのである。だから阪神ファンは「頭に来ていた」のである。その腹いせだろう、65年前のことなのだが、帰りの阪神電車の中で母の着物が刃物で切られたのである。

 「もし刺されていたら私はこの世にいなかった」のである。ゾッとする!!

 だから生まれる以前から巨人ファンであり、大の阪神嫌いなのである。死ぬまで変わることはないのである。

 当然今年ほど嬉しいことはないはずなのである。

 巨人が優勝して阪神は実質的に最下位だからである(最初から横浜が最下位であることは日本中の人が知っていたもんね)。

 しかし、私は全然嬉しくないのである。だって、最初から巨人が優勝することは自明だったからである。パリーグのエースを二人も引き抜いてきて、余り役には立たないと思っていたけれど可愛そうに横浜から4番をとってきて、これで優勝できなかったらいつ優勝するんや!!というくらい自明だったのである。

 ところがどうであろう?!4月は最下位だったのである。これも私の予想通りであった。

 なぜか?

 監督が原だからである。もちろんご存じの方も多いと思うが、私は原が大嫌いなのである。阪神と同じくらい嫌いなのである。選手の時から嫌いなのである。だから去年も、またあれだけの戦力がいて優勝を逃したから当然「クビ!!」だと思っていたのである。しかし、間抜け「オーナー」の一声で留任したので絶望していたのである。

 だから、4月はとても嬉しかったのである。これだけの戦力で「最下位!!!」当然これなら、さすがの「ご老体」も堪忍袋の緒が切れるだろう!とほくそ笑んでいたのである。

 さらにさらに、暴力団に1億円払ってスキャンダルをもみ消したというあの記事!!!!

今度こそ年貢の納め時!!と万歳三唱したのである。ところがところが、全く訳のわからない理由、「清武がリークしたから清武が悪い!???」というのである。何これ??

 原が「被害者であるかのごとき扱いに無理矢理にして他の新聞の追究を止めたのである。救われたのである。こんなことしてるからプロ野球はどんどん見捨てられていくのである。今や私でもサッカーの方が面白いと思うもんね。

 だって、そうでしょ!

1億円ですよ!普通の人間が有名選手から1億円脅し取りますか?誰が見たっておかしいですよね。要するに自分の気に入った人間は何をしても許すが、気にくわない者はバッサリ切り捨てる!これが三大新聞のトップのすることなんですからね。どうしてこんなご老体が「こ公器」と称して民心を操るのですか?いい加減にしてほしい!!

 ところで最近少し光明が見えてきた。

 無能な原が、さらに輪をかけて、その無能ぶりを発揮しだした。CSに向かっていかにも自分が才能があるかのごとく見せるために、子飼いの二軍選手を次々と上げて試験しだした。その最たるものが大田!東海大相模の後輩というだけで、まぐれ当たりでホームランを打つと「清原超えだ」とわめく。清原が聞いたら怒るで。あんなへなちょこバッター。下半身はフラフラ、頭も悪い!原の言うことはよく聞くが他の人間のいうことは聞かない!守備は超二流(どこもやるがどこも一流ではない!!)。こんな二軍半の人間を試している場合か!真の5番バッターは小笠原に決まっている。にもかかわらず一軍で数試合ヒットが出ないだけで二軍に逆戻り。「あり得ない!」CSに出すかもしれないが、今の時点で一軍の球を見せないわけだからそう簡単に打てるはずがない。そしてシーズン終了後に巨人にいられなくする。きっとこのままだと小笠原は日本ハムに戻るに違いない。要するに原の身勝手で巨人はどんどんダメになっていくのである。村田もその内同じ運命だろうね。

 二軍半を試す余り正選手を五月雨式に使うものだからせっかく調子がよかった奴らがどんどん悪くなっている。とうとう阿部までおかしくなってきた。原が知恵者であるかのごとく見せるために「若手」をうまく使っているように見せかけるのだが、所詮原にそんな能力はない!!原のお気に入り(大田、亀井、古城、加治前、福田)ばかりを使うだけで、本当に選手の能力を見る力なんて0!!

 にもかかわらずこんなことをするものだから、みんなおかしくなってきた。その最悪の例が内海!!二軍以下のバッターやキャッチャーを出して点を取れなくしておいて、頭の悪いキャッチャーとのコンビでペースを崩させておいて、「内海が悪い!!」と評価が下がるようにして交替させる。このためせっかくの最多勝が取れなくなりそうな雲行き。大体、原は本心では内海が嫌いなのである。自分にしっぽを振らないから。だから、ちょっと点を取られると「こいつが悪い」と言って替えて自分の子飼いの福田に勝利投手の権利が転がり込む時点で交替させる。

 ま、この調子だと吉見のいない中日でも巨人に勝てそうだし、3位のヤクルトが鳶にあぶらげで優勝しそうなのである。

追伸  本日のネットニュースを見ていると今日のヤクルト戦では沢村がリリーフに出たとか。打ちのめされて沢村はショックだったとか。ホント原って、嫌らしいよね。自分の言うことを聞かない奴にはとことんいじめるのだから。今問題のいじめの構造そのもの。気に入った奴はかわいがるが、そうでない奴は陰湿に追い込む。沢村は原の言うことを全く聞かない。沢村のバカさ加減も半端じゃないが、ま、あれだけばかげて筋トレするのも珍しい。昔の阿部も同じくらいバカだった。そんな沢村をこれでもか、これでもかといじめてるのがここのところの原の仕打ち。大体沢村のバカは、先発して何回も失敗させてやっと気がつくのに、原はその逆。頭に来るものだから二軍に落とし、とうとう今度はできるわけがないリリーフをさせる。ホント、恥ずかしいくらい原はバカ!!

 ホント、益々現実味を帯びてきた原のバカさ加減が露営してCS敗退!!

 つまり、ペナントレースは勝ったが、肝心の日本シリーズに行けなくなりそうなのである。さすがのご老体も怒り心頭に来て

「クビ!!!」と怒鳴る。


いいね、いいね!やっと来シーズンから原の顔を見なくて済むかも。フレーフレーヤクルト!頑張れ頑張れ広島!!何でもいいから最後のあがき!横浜!とにかく一刻も早く原がクビになり堂々と巨人を応援する日が来ることを望む今日この頃である。


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