yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

みんなでお別れをしてきました

2008-06-30 00:35:35 | 三重大学考古学研究室情報
 有り難う!大森 

28日のお通夜、29日のご葬儀、たくさんの人がお参りに訪れられました。両日共に激しい雨の降る中、500名近い参列がありました。ご両親も驚かれる参列者に大森君の人柄が偲ばれました。

三重大学からも、遠くは静岡県藤枝市、愛知県豊川市、奈良市から卒業生が参列してくれました。みんな心を込めて鶴を折ってくれた先輩達です。

もちろん東海地方に就職、就学している卒業生がたくさん来てくれました。ゼミ生ではない卒業生も来てくれました。とても有り難かったです。

在学生達も2年生や山田・塚本ゼミの学生・院生を含む20人あまりが参列してくれました。みんな一様にショックは隠せないのですが、いろいろなエピソードを知ることができました。

塚本明先生、山田雄司先生、関口敦仁先生も参列下さいました。

ご両親の通夜・葬儀でのご挨拶はとても感動的でした。
そんな中で、三重大学での様々な活動が、とても印象的だったと話されたときには思わず慟哭してしまいました。会場には、ヴェトナムで発掘調査を一緒にしたヴェトナムの若き研究者・文英君とのスナップも紹介されていました。とってもいい笑顔で笑っているのが、逆にとても辛かったです。


(みんなでバイクに乗ってハノイ市内をドライブしたんです。また来いよ!日本にもお出でね!といって別れたのに)

弔辞は同級生の大竹君が述べました。
用意した弔辞の文章そのものは、儀礼的になるといって、そのまま棺に納めました。代わって、目の前に横たわる大森君に向かって、話しかけるように述べました。
とても落ち着いていて、それがさらに悲しみを深めました。淡々とした中に彼らの友情の深さがひしひしと伝わってきました。

日常のこと、美味しいお菓子のこと、ヴェトナムでの毎日(彼らはホテルの同室で1ヶ月過ごしました)のこと、凝縮した1年半をまるで二人で追想するように語ってくれました。これまでのどんな弔辞よりも感動的でした。

有り難う!!大竹君。

こんな素晴らしい二人と一緒に過ごせたこと、感謝しています。

三松堂さんからはたくさんのお菓子が送られてきました。みんなみんな彼の大好きなお菓子でした。会場のみんなと一緒にいただきました。

こんなにみんなに愛されているのに・・・・

研究室のみんなの思いを込めて、短い弔電を打ちました。

弔電・・・・・

大森!

チーズケーキ美味しかったよ。

シフォンケーキプロ級だったよ。

「また作って来るよ」て言ってたよね。

残念です!

真冬の藤原岳の麓を3年間、毎日毎日調査のために歩いてくれて有り難う!もうすぐ報告書ができるよ。

酷暑のハノイで、いろんな事に耐えながら明るく振る舞ってくれて、どれだけみんなが勇気をもらったことか。
君の丁寧な作業のお陰で、とても正確な図面ができたよ。

土砂降りの中の「壬申の乱ウオーク」、黙々と歩いてくれてみんな感謝してたよ。

卒論の「昆虫からみた原始古代一宮の環境復原」とても楽しみだったのに。

そして津和野の三松堂さん、君と構想を練った新しい和菓子、作ってくれたよ。
できばえを報告してね。

どれもあなたにしかできないことだけど、残されたみんなが「心」にきちんと刻んで、あなたの目指したほんの一部を引き継いでいこうと思う。

ちょっとしばらくお別れだけど、また向こうで会おう!その時まで good by!

 2008年6月29日
    三重大学人文学部考古学研究室 
           山中章・研究室生一同

ご葬儀が終わって、みんなで一宮駅の7階にあるぶどう園というオープンカフェで甘い物を一杯いただきました。とても素敵なお店でした。大森はきっと通っていたに違いありません。そんな思いを込めていただきました。

大森が三重大学にいた証に、みんなで思い出集を作ろうと思っています。いつまでもいつまでもみなさんの心に刻んでやって下さい。

大森俊輔 2008年6月25日22時27分没 22歳


 さようなら 

悲しいお知らせをしなければなりません

2008-06-27 08:23:53 | 三重大学考古学研究室情報
 静にお祈り下さい 



皆様

悲しいお知らせをしなければなりません。

大森俊輔君が力尽き旅立ちました。

6月11日に事故に遭い、丁度2週間目の6月25日の夜です。

とてもとても悲しく、本当に本当に残念です。

皆様にはお見舞い、お便り、折り鶴等々たくさんの励ましをいただきましたこと心より御礼申し上げます。

有り難うございました。

思えば、2月20日私の京都の家に集まって、ヴェトナムでの調査の壮行会をしたのに始まり、それから1ヶ月、酷暑の中で、休む暇もなく厳しい発掘調査の日々を過ごし、現地調査の調査員の厳しい言動にもひょうひょうと耐え、私たちに明るさと勇気を与え続けてくれた彼でした。訪越当初にすぐに現地の病気に罹り、辛い数日を病院に通って過ごしたときも、努めて明るく振る舞っていました。そんな辛い毎日を近くのケーキ屋さんで買う甘いお菓子で慰めていたことを後日知りました。

あれだけの毎日を耐えた彼ですから、何とか奇跡が起こらないものかと、様々な方法で、祈り、お願いしました。

しかし、私の力が及ばなかったのでしょう。残念です。かけがえのない命を失ってしまって、今は力が抜けてしまい何をする気力も起こりません。しかし、ご両親、ご兄妹のお気持ちを思うと、そんな甘いことはいっておられません。私たちの研究室は同学年は彼を含めて二人しかいません。しかし後続する3年生は11人もいます。彼の目指した将来のほんの一部でもみんなで引き継いで、精一杯誠実に生きていこうと思います。これがせめてもの彼への手向けの気持ちです。

皆様にも、それぞれの場所で、祈ってやって頂ければ幸いに存じます。

なお、お通夜、ご葬儀は下記の要領で行われます。もしお時間があればお参り頂ければ幸いです。

2008年6月26日
三重大学人文学部考古学研究室 山中章

喪主   大森 茂由 様
お通夜  2008年6月28日(土)19時から
ご葬儀  2008年6月29日(日)10時から11時
式場   のいり クレストホール一宮 
      愛知県一宮市新生1-6-20 電話 0586-43-0948 ファックス 0586-24-0952
      (別添地図の通り 一宮駅-JR名鉄も同じ-下車西口のすぐ前 )



友人河野美代子さんの出版記念パーテーの条

2008-06-25 00:08:33 | yaasan随想
河野さんの本を学生さんは是非一度読もうね  河野さんの闘うブログもよろしく!

 広島市の産婦人科医河野美代子さんは私の大学の先輩である。
 もちろん彼女は医学部、私は文学部だから接点などあるはずがないのであるが、縁は異なもの・・・である。ひょんなことから学生時代に助けて頂いたことがある。そんなことはすっかり忘れていた昨年の春、彼女が参議院選挙に出馬することになり、私の親友から支援の依頼があった。支援と言っても無所属でかつ、広島選挙区から出馬する彼女に対してできることはカンパと精神的応援だけだ。

 それでも・・・、と思い友人を誘ってカンパをしたところご丁重なる御礼状が届き、その文面に、私のことを知っているというのである。

 「エッツ?どうして?」

としばらく考えてハタと気がついた。結婚されて姓が変わっていたのである。「旧姓で○○美代子なるほど!確かに!!これは大変失礼致しました。その節は有り難うございました。」ということになり、以来、友人を通していろいろな場面でメールをすることになった。

 その友人が主催して彼女の12冊目の著書の出版記念パーテーを催すというのである。

河野美代子著『続・いま〈生きる底力〉を子どもたちに!』(十月舎 (ISBN:978-4-434-11964-4)2008年7月刊)価格 1,785円(税込)

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 河野美代子☆出版記念パーティー

  日時:7月24日(木)19時~21時

  会場:広島県民文化センター内 鯉城会館

〒730-0511 広島市中区大手町1丁目5-3
TEL 082-245-2322

 会費:5,000円

  河野先生の新刊書『続・いま<生きる底力>を子どもたちに!』プレゼント付きです。

 お申し込みは

 お名前(ハンドルネームでも可)、メールアドレスを明記の上、
 Shiozy@塩崎までメールでお申し込みください。
       shiozy@3kan.net (お手数ですが、コペピしてください)

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 7月24日はちょっと厳しい日程だ。特に翌週にも広島へ行かなければならないからだ。残念だが、翌週の集まりの際にも河野さんには会えるので、その時に感想を述べればいいやと考えている。

 みなさんも出席は無理でしょうが、本は是非買って読んで下さい。

以前から彼女には大学でお話しをして頂きたく思っているのですが、こちらの体制が整わず、延び延びになっているのですが、いつか必ず実現しようと思っています。そのためにも学生さん達には是非一度読んでおいて欲しいんです。そしてもちろん彼女の名著『さらば悲しみの性』(集英社 (ISBN:4-08-747050-4)1999年5月 460円(税込)も!



そして僕の友人が彼女を支持する所以がここにある。少し長いが読んで欲しい。そして河野さんのブログ友人のブログを覗いて欲しい。

☆☆☆★☆☆☆★☆☆☆★☆☆☆★

(前略)

そして今、また新しい動きがでてきた。

ブログ上で、きちんと主張するブログである。

主張だけでなく戦うブログ、の登場だ。

ご存知、広島ブログのランキングトップにいる河野先生だ。

ブログはともすれば、「ネット上の日記」と翻訳される。

日記は読む人を想定しては書かれない。

しかし、ブログに日記を公開した瞬間から、それは「読まれるもの」に昇華する。

他者に読まれるもの、それはその人の「作品」である。

心情吐露という作品もあれば、主張という作品もある。

どれも貴重だ。そこに甲乙はない。

しかしながら、ブログ上で「戦う」というスタイルを築いた河野ブログは、

他に類を見ないのではないか、と思う。

河野さんが支持される所以がここにある。


心情吐露から戦うブログまで、

他に類を見ない広島ブログの素晴らしさがここにあるように思うのだ。


「戦う女@河野美代子」が新しい本を出版した。

彼女にとっての12冊目の本だ。

『続・いま<生きる底力>を子どもたちに!』(十月舎)

(写真略)

ネットからリアルの世界への、これも新しい試みだ。


ブロガーの次なるターゲットは、

ブログとリアルの共闘 かもしれない。

試行錯誤の途だけれど、ボクたちはリアルへ踏み出そう。


まず、Shiozyとしての第一歩をここから始める。

初めて主体となって行う取り組み。

河野さんの「出版記念パーティ」だ。


単に、本を出版して良かったね、ではなく、

ネットからリアルを突き崩すその第一歩にしたいと考える。

たくさんの賛同者が集うことを希求してやまない。

(後略)

☆☆☆★☆☆☆★☆☆☆★

『続・いま<生きる底力>を子どもたちに!』をよろしく!!

一宮・菰野そして京都への条

2008-06-22 21:58:24 | yaasan随想
講演会たくさん来てくれてよかったね有り難うございました。

土曜日には学生達が待ち合わせて一宮に集まり、千羽鶴を届けてくれた。
同じ頃卒業生のYM・MY・YN達も職場や学校で折ってもらった鶴を届けてくれたらしい。

私は次のような事情で参れなかったのに、お母様からお礼のメールをもらった。

昨日は三重県三重郡菰野町のよもやま歴史教室での講演会だった。


(菰野町には三重県有数の温泉、湯の山温泉がある。菰野には近鉄湯の山線が通っている。湯の山温泉へは四日市から電車で30分ほどだ。)


(こんな立派な庁舎も建っている)
駅までサークルのM先生に車で迎えに来てもらった。その車中、とんでもないことを聞いてしまった。
「今日が第1回なんです。」
「ハア?」
「実は、新しい町長の提案で、今年からいろいろな町主催の催し物を有料にすることになったのです。」
「エエッツ!」
「お一人二百円なんです。それで何人来てもらえるかみんな心配で、読めなくて困っているんです。」
「ということは僕の責任は重大ですね・・・・(絶句)」

そ、そんなことならもっと有名な講師を呼んでもらえばよかったのに・・・。等と内心恨みながら、会場へ急いだ。

予想通り、会場には数人の人影しか見えない。
「こりゃ一大事!!」そんな思いを抱きながら、控え室へ。地元のお茶とお菓子を頂きながら、サークルの会長さん達と菰野談義。


(内心ホッとしました!!よかった!)
そこへ、嬉しいお知らせ。
「会長、机が足りなくなって追加しました。もう大丈夫です。」

一同の空気が一気に和み、会場へ。

何と80人近い聴衆が集まってくれていた。

有料化第1回と言うこともあって、責任を感じたのか、町長自ら挨拶に来られた。

昨年まで全国一若い町長だったとか。さすがにピチピチしている(失礼)。


(さすがに若い町長さんだけあって、ハキハキしていました。頑張って下さい。)
私は有料化は別に悪いことではないと思う。本来なら地元の優良企業や有力者がもっともっとこうした文化的事業に寄付をすべきだと思うのだが、日本では、世界企業のトヨタやキヤノンを筆頭にとてもけちである。何兆円もの利益を出している企業なら、百億円くらいの基金を出して毎年10億円くらいさまざまな事業に寄付をするくらい何ともないはずなのに・・・。

そんな恥ずかしい状況だから、国民が負担をしなければならないらしい。けちな企業に代わって、剛毅な国民が自分の面倒くらい自分で見るわい、と言うところか。

そんな菰野町の町民の心意気だろう。いつもと変わらぬ参加者があったからホッとした。

話しは「久留倍遺跡と菰野町~古代伊勢国北部と「東海道」「伊勢街道」~」ということで、伊勢国北部に古代の大王達が設けた専用の道路網が、その後、天武天皇や聖武天皇が伊勢にやってくる大きな要因になったのだと言うことを、久留倍遺跡や鈴鹿関、私たちが大昔に掘った宇賀新田古墳群の調査を紹介しながら話した。

菰野町は宇賀新田古墳群に接する町である。8年前、何ヶ月にもわたって、毎日のように通った道である。そしてその道こそ、天武や聖武が利用した情報網でもあったのだ。

講演が終わってすぐに菰野駅から電車に飛び乗り、四日市へ、特急に乗り換えて名古屋へ、新幹線に乗ろうと思ったら、ナナナント関係のない東京行きの電車で誰かが緊急停止ボタンを押したらしく、点検のために周りの電車を全て止めてチェック。お陰で新幹線が5分遅れ。これが最後まで響いて、18時半に京都市夷川通り、柳馬場東入るの「満」へ着いたら18時40分!10分の遅刻!と思いきや誰もおらず。

「「エエッ!??なんで?」

狐につままれたよう。どうしたん!?と荷物を置いて背広を脱いだ頃おもむろに主人公到着。

「すまんすまん!法住寺でな、祈祷してもろてたんや」とO先生。Aさんもにこやかに登場。あと2・3年という命が今5年目を迎えたAさんのための心遣いであった。さすが。

しばらくするとYK博士、SM博士も到着されて久しぶりに10年会の始まり始まり。


(生牡蠣はとても肉厚でいいお味でした。)

もちろん魚は最高級のものばかり。刺身は超極上のトロから生ハモのあぶりまで、食べたこともないおいしさ。続いて、大きな大きな生牡蠣、さらに満願寺唐辛子のすり身をスープに仕立てた珍味。水なすやらをいただいたところで、グジ(甘鯛)の酒蒸し。もうたまりませんな。これ私の大好物。そして、食事は握り。再びトロだの鱚だの、もう忘れたくらいの珍味を一杯食べて大満足の会。


(はい、これが私の大好きなグジ!博士にはちょっとしか回さずに骨の髄までしゃぶりました)

もちろん話しは久しぶりのAさんの近況。特に先週訪れたという雄琴温泉きくのやでのエピソード。

この旅館ではわんこと一緒に泊まれるとか。Aさんのまるでぬいぐるみのような毛むくじゃらのペット犬と1泊したとか。とても楽しそうだった。まだまだ闘病は厳しそうで、新薬の副作用で、治療も1歩前進2歩後退状況だとか。

次の新薬が間に合うかどうかが今後を占うことになるのかも知れないが、そんなことお構いなしに、今が如何に充実しているかを彼女は力説する。こんなに楽しい時間が持てるなんてどんなに幸せかと、心の底から嬉しそうに言ってくれる彼女の顔を見ていると、僕も少々の嫌がらせや辛いことなんか吹き飛ばして頑張らねば!と改めて決意を新たにした次第だった。



(はい、これで上がりです。満足ー。)

次回は祇園祭の頃に再開しようね!と約束して、別れた。
本当に友はいいね。

この頃の疲れを芯から癒すことができた一日だった。ありがとう!みんな。



(友の元気な姿を見、美味しいものをたらふく食って、満足しきった博士の顔!そりゃそうですよね、極上のトロに、牡蠣、グジに満願寺唐辛子のスープ等々、京都ならではの極上の食事だったんですもの。)


 祇園祭の頃にも楽しくできればいいねと思ったらよそろしく

お守り、お札、数千羽鶴!有り難うの条

2008-06-20 16:24:55 | 三重大学考古学研究室情報
『三重大史学』ができたよ!次号には君の論文を待っているからね

今日もまた、東は信州から西は京都・奈良からたくさんの千羽鶴や励ましのお便り、お守りやお札が届きました。本当に有り難うございました。


(一生懸命祈っている同級生への心暖まるメッセージもいただきました。有り難うございました。石上神宮のお守りや東大寺二月堂の鈴も入っていました。)

いずれも先輩方ですから、大森君とは1年か2年重なる程度で、余り懇意でない方もいらっしゃいますが、とても励みになるお便りと共に送って頂きました。有り難うございました。


(N女子大学の古代史、東洋史、美術史のみなさんが折ってくれたそうです。有り難うございました。)

もう既に数千羽になりました。

明日必ず届けてきます!!

私自身は明日三重県三重郡菰野町のよもやま歴史教室でお話しを頼まれているので行けませんが、来週中には伺おうと思っています。

今度は出来たての『三重大史学第8号』を枕辺に置いてきます。先生方の高論に、卒論のことを思い出してくれるといいのですが・・・。


(これだけを1人で折ってくれたそうです。有り難う!!)

二月堂の鈴、とても神秘的ですね



たくさんの千羽鶴有り難う!!の条

2008-06-19 18:24:02 | 三重大学考古学研究室情報
心暖まる千羽鶴、有り難うございました 

今日の授業が終わった後、2人の女子学生が近付いてきて小さな紙袋を差し出した。
「?ウン??」
「鶴です」
「ア、有り難う!」

誰から聞いたのか友達と2人で折ったという鶴30羽ほどが入っていた。
とても嬉しかった。

また、全国から、そしてこうした友達の輪がつながって、たくさんの仲間達が折ってくれたお陰であっと言う間に千羽鶴ができた。


本当に有り難うございました。

今日はつい先ほど、授業の合間を縫って我らが神様!山田雄司博士がお見舞いと「祈祷」に行ってくださいました。

百人力です。

千羽鶴を訴えてくれた卒業生達は、まだ入ったばかりの職場のみんなに頼んでいるそうです。限られた昼休みに折ってくれた鶴の威力はさらに奇跡に向かって強い力を発揮するに違いありません。

事実、もうこれで8日が過ぎました。奇跡が起きつつあると信じます。

脳の腫れも少し収まってきたようです。これからもう一度脳に血液が回れば、この生命力です。いつか意識が戻るものと信じます。

この千羽鶴、土曜日に病床に届けます。
実は私は千羽鶴なんて初めて折りました。きっと力になってくれるはずです。

もちろん数ではなく、心だと思います。是非一羽でも二羽でも結構です。心を込めて、奇跡を祈りつつ折ってやってください。



お願いします。
有り難うございました。

なお、病床には食べきれないくらいの甘い物が届いているそうです。嬉しいお心です。本当に有り難うございます。

早く起き上がってケーキ、お菓子、最中一杯食べろよ 

奇跡を信じて千羽鶴の条

2008-06-17 22:21:43 | 三重大学考古学研究室情報
三松堂さんが待ってくれているぞ!

学生達が思い立って千羽鶴を折り始めています。

もちろん大森のためです。

土曜日には共にベトナムで調査に携わった岐阜県立情報科学芸術大学院大学の関口先生もお見舞いに行ってくださいました。
大森とは発掘調査より、お菓子談義に花を咲かせた間柄です。二人ともプロ級の菓子作り「職人」で、私たちはとても彼らの話には入っていけなかったものです。

年令を超えたそんな間柄だから、すぐに飛んでいってくださいました。

また今日は、彼の卒論のテーマに選んでいた「昆虫分析からみた遺跡の古環境復原」を指導して下さっていた森先生もお見舞いに行ってくださいました。

みんなみんなまだまだ頑張れ!と願っています。

みんなの思いが通じたのか、あれから1週間が過ぎました。状況は極めて厳しいことに変わりはありませんが、とにかく奇跡を信じて、千羽鶴を折りたいと思います。

どんな紙でも、大きさでも、折ってやって下さい。そして我が研究室(〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 Tel/Fax 059-231-9148)にできるだけ早く送って下さい。

千羽鶴をお願いします

何もなかった615の条

2008-06-16 23:21:09 | yaasan随想
6月15日、もう一度考えてみる必要があるよねと思ったらよろしくお願いします。

2008年6月15日は48年前に樺美智子さんが亡くなった日である。
かつては毎年この日にさまざまな催しがなされたが、近年は小さなニュースにすらならない。

おそらく今の学生に聞いても知ることもないだろう。

かくいう私も、河瀬先生のご葬儀に広島に行き、旧友と弔い酒を呑んで帰ったに過ぎない。「風化」と言えば簡単だが、しかし60年安保が突きつけた問題は本当にもう風化させていいのだろうか。

アメリカ一辺倒の外交がもたらせている問題はどんどん深刻化している。
環境問題に至っては極めて深刻な状況だ。

近年の学生は環境問題には敏感だが、これが政治的問題であるという認識は極めて希薄だ。そんな時もう一度615を問い直してみることが必要なのではないかと思う。

しかし、世間一般の今年の615は父の日だった。

我が家でも息子達から1本のネクタイが息子の息子を通してプレゼントされた。
あまりに平穏すぎて恐ろしい日でもあった。

この状況をなんとか打開する方法はないのだろうか・・・。自問自答する日でもあった。

やはり6月は祟られているのだろうか?いやまだ奇跡を信じて・・・

2008-06-15 23:14:27 | yaasan随想
怨霊研究の第一人者・山田雄司博士、祓って下さいこの祟り神達を!!お願いします
今度は広島から突然の訃報が届きました。

河瀬正利先生が亡くなられたのです。

河瀬先生は松崎寿和、潮見浩、川越哲志先生がたとまさに広島大学考古学研究室の創設と発展に尽力された方でした。いつもニコニコなさっていて、怒られるときも歯に衣着せぬすかっとした言い方でお話しになるので、叱られても後に残らない、嫌な思いをすることなく受け止めることのできる先生でした。

私は直接お教えを受けることはありませんでしたが、川越先生を頼って学位論文を出しに行ったとき、

「ハー、あんたーがだしゃーみんなの励みになるでええわいのー、これでみんなうかうかできんでのー・・・ワハハハハー」

こんな言葉をいただいた。もちろん単におめでとうというわけでもなく、だからといって皮肉でもなく、とても暖かみのあるそれでいて周囲にも気を配った言葉だった。

考古学研究会の代表委員をされているときには毎年大会でお会いし、一言声をかけて頂くのが励みになっていたが、数年前にお辞めになり、やはり体調が思わしくないのかなと心配していたが、その後もあちこちでお元気な姿を拝見していたので、まさかここまで病状が進行しているとは思いもしなかった。

我が考古学研究室は2005・6年と立て続けに川越、潮見両先生を亡くし、今年また河瀬先生である。ここのところ広島に行くと言ったらご葬儀の時ばかりでとても寂しい。

これでとうとう創設時の先生方をあっと言う間に亡くしてしまった。大学再編の激動の時代、一踏ん張りも二踏ん張りもして今一度研究室の勢いを取り戻したいものである。

悲しみの中だったが、大森の奇跡を河瀬さんにもお願いしてきた。

そしてもう一人奇跡を願って欲しい人にこんなメールを託した。
彼の就職を快く引き受けて下さった津和野三松堂の小林社長だ。

昨日こんなメールを送りお願いをした。

三松堂小林智太郎様

 とても残念なお知らせをしなければなりません。

大森俊輔が交通事故に遭い、生死の境をさまよっております。
正直申しまして、かなり厳しい状況です。自力では生きられない厳しい打撃を脳に受けてしまっているようです。

もちろん、私たちは奇跡を信じて祈り続けています。その甲斐あってか、即死状態だったものが11日に事故に遭ってもう5日も生き続けてくれています。

私にとって学生はみんな大事な宝物ですが、彼は中でも個性豊かで、そちら様との縁もでき、格別の思いで見ておりました。特にこの2月、3月には他の3人の学生と共にヴェトナムで1ヶ月もの長きにわたり共同生活をしてきただけに、その思いはさらに格別です。そんな彼が、実家の近くで事故に遭ってしまいました。

すぐに病院へ伺いましたが、もちろん意識はないものの、私たちの声が聞こえているのかうっすらと涙しました。みんなで渾身の思いを込めてケーキを持っていきました。この臭いにつられて起き上がれと!実はベトナムでも毎日のように甘い物を食べあさっていたようです。

お父様とお話ししていて初めて知ったのですが、彼のお祖父様は和菓子屋さんだったそうです。驚きました。お父様ご自身は学校の先生なのに、これで家業が再建できると我がごとのように喜んでおられました。そんな彼にまさかこんな不幸が襲いかかるなんて、神に対し憤りさえ覚えます。しかし、今はその神に祈る以外ないのが現実です。

 とても勝手なお願いですが、彼のために渾身のお菓子を一つ送ってやって頂けませんででしょうか。

入院先は愛知県一宮市桜1丁目9-9 0586 72 1211 総合大雄会病院 ICU病室です。

奇跡が起こったとしてもそちらでお世話になることはかなり難しいかもしれません。本当にこんなことになりましたこと、深くお詫び申し上げます。お許し下さい。

三重大学人文学部考古学研究室 山中章

今朝、小林さんからこんな激励の便りが届きました。

山中 様

今は正直何を言って良いのか分かりません。ともかくお菓子を送ります。今出張先ですので、店に指示を出しておきました。

自分と当店は、大森さんの回復を待ちます。何年かかっても良いので、とにかく大森さんが頑張ってまた当店に戻って来るのを信じて待ちたいと思います。

頑張れ!大森、みんな待っているぞ!

緊急のお願い!!奇跡を起こしてやって下さい!

2008-06-13 00:05:03 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ヴェトナムで共に1ヶ月の大変な調査に携わり、とんでもないところから、ののしられ、怒鳴られ、こき使われても何一つ文句も言わず黙々と作業をこなし、わずかに、夜こっそりと甘い物を買って食べることで溜まったストレスを発散させていた大森俊輔君が事故に遭って生死の境をさまよっています。

あのひょうひょうとした男が、必死で闘っています。

ここまで来るとみんなで祈り、神様に奇跡を呼び起こして頂くようお願いする以外に彼を救う道はありません。

お願いします!!彼を知っている人はみんな、知らない人でも僕を知っている人は是非!何でもいいです。近所の神社でも、お百度参りでも、ただひたすら手を合わせるだけでも、お願いします!祈ってやって下さい。

EAST ASIA GIS のブログでは「シュガー二等兵」として日誌を書いてくれています。あんなに真面目に、気丈に、不平不満も言わずに頑張ってくれた人間をあちらに召すのは不公平です。

お願いします。神様! 皆様!!!


できるだけ多くの人に祈って欲しいのです!ご協力下さいよろしくお願いします。

昆虫が出た!嬉しい嬉しいニュースが盛りだくさんの条

2008-06-10 00:29:42 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
懐かしい人からのメール、嬉しいよねと思ったら、よろしくお願いします。

5月はろくでもない月だった!!

GWがDWだったことは既に書いたとおりだが、その後怒り心頭に発するような手紙やメールが来たり、理屈の通らない会議があったりで、ほとんど毎日胃薬を飲まなければ過ごせないほど人間不信に陥る毎日が続いた。久しぶりに偏頭痛が起こり、このまま何とかなってしまうのかと思ったほどである。

しかし、神様はやはり優しい!!ちゃんと見て下さっている!

教育者失格!!の強烈なメールに対して、全く逆の評価のお便りを次々といただいて、やっと心が平穏になりつつある。

その一つが、もう今から10数年前のことだ。まだ前の職場にいた頃、故佐原真さんとある大学の先生のご紹介で、東京にあるO茶大の考古学研究会の学生を3~4年間お世話したことがある。同大学には考古学の常勤の先生がいらっしゃらなかったので、あくまで考古学は研究会活動でしかなかった。最初の年は3週間に渡って現場から周辺部の遺跡から日常生活から家族ぐるみでお世話した。それが高じて、とうとう考古学の道に進んだ学生もい、そのご立派に山形のTGK大学の先生にまでなった人がいるくらいだ。考古学の道に行った頃は私が道を誤らせたのでは・・・、と心配だったが、今や押しも押されぬ研究者である。この時の学生(今や立派な職業人や主婦研究者)とは今も年賀状のやりとりが続く。

3年目の年だったろうか、確か、阪急西向日駅近くの八百屋さんの改築現場を一緒にやった学生さんの一人ともなぜか毎年年賀状をやりとりしていた。彼女は歴史でもなく、心理学の学生さんなんだが、とても熱心で、惜しいな、と思っていたからかも知れない。

その彼女から5月中旬に転居通知が来た。ナナナント、千葉県の某女子大学で4月から教えることになったというのである。とても嬉しかった!考古学とは全く違う分野だが、その後も研究を続け、その道のプロになったというのだから、僕の目に狂いはなかったと言うことだ(もちろんご本人の努力と能力であることは言うまでもない)。

早速大学に電話してみた。しかし、残念ながら留守だった。そこでメールを出してみることにした。しかし待てど暮らせど何の返事もない。

「ウーン、ちょっとメールまで出すのは失礼だったかな?如何にかつて現場で教えたとはいえ、今や違う道の先生、そんな人に・・・」後悔の気持ちが少し頭をもたげつつあった先週末。丁度親友の誕生日に贈ったお花の嬉しい顛末があった直後だった。

メールが来たのである。いいことは続くものだ。

もっとも差出人がローマ字で書いてあったもので、もう少しで迷惑メールで削除するところだった。大慌てで読んだ。あの頃の元気な姿が活き活きと甦る文面だった。とっても嬉しかった。しばらく学生を連れての合宿研修だったらしい。

調子に乗ってすぐに返事をした。すると今度はすぐに返事が来た。

今でも考古学のことが忘れられず、新任校でも考古学の先生と意気投合して、いつか校内の発掘があるときには一緒にやろうと言うことになったらしい。まるであの頃の彼女そのものだった。今でも遺跡や博物館巡りは欠かさないと言うから、少しは僕の現場「教育」?も効果があったのかも知れない。いつか千葉で会おうということにまでなった。

そんなメールが来た翌日、今度はこんなメールが届いた。

OEMです。先日はありがとうございました。

あれから、M先生にもタンロンの昆虫見て頂いたのですが、ミズギワゴミムシ属で大丈夫だそうです。あと、同層から出ていた種子も見て頂いたのですが、カンガレイだそうです。そしてその層と、南側の運河でとった黒色土層の珪藻をざっと見て頂いたところ、いくつか珪藻(乾燥地由来?)やプラント.オパール(イネ、キビのようなものもあるそうです)がみつかり、本格的な分析を行えば同定できそうだよ、ということです。ちなみに、不確定ですが運河の層からは、火山灰のようなものが見えるそうです。色々分析を組み合わせればおもしろそうだね~、とM先生と盛り上がりました。また何か分かれば報告させて頂きます。

1ヶ月間本当に苦労に苦労を重ね、奴隷のようにこき使われ、人権も無視されて自分の研究も十分にできない中で体調を崩しながら睡眠時間を惜しんでやった成果がやっと出てきたのだ。折角実体顕微鏡まで持ち込んだのに、ほとんど覗くことさえできなかったんだが、執念が実った!!

これでヴェトナム側にもこの研究の成果を示すことができるし、展望も開けてきた。

まだ見付かった昆虫は1個体に過ぎない。しかしこの1個体がきっと燎原を炎で埋め尽くすに違いない。そして最も嬉しかったのはそんな彼女が今の道を選んだのは三重大学での4年間があったからだという。

5月の私の心を暗く暗くさせた手紙やメールでは「教育者・研究者失格」とまで言われただけに、その教育を受けた学生がこんな便りをくれることほど嬉しいことはない。

去年の6月は最悪だったが、今年はいい月にしたいと思う。



(左:ミズギワゴミムシ属の遺体 右:カンガレイの種子)

ミズギワゴミムシ君のように小さくても存在感のある虫になれ!と思ったらよろしくね
(今週のバックは東龍山漢墓一帯に咲き誇っていた桃の花。季節外れだけれど、ちょっと明るい気分に変更!)

谷井俊仁さんを偲んでの条

2008-06-08 19:02:08 | yaasan随想
谷井さん!ささやかな論文集を捧げます。あちらでご笑覧下さいよろしくお願いします。

 僕たちの大事な大事な仲間谷井さんが亡くなって昨日で丁度1年になる。僕が実際にこの事実を知ったのは昨年の今日、京都第1赤十字病院の病室でだった。あまりのショックに自分のことなどどうでもよく悲嘆に暮れた。

 もうあれから1年が経つのかと思うと、本当に月日の経つのは早い。

 大学の最も親しかった仲間だけで『三重大史学第8号』を追悼号として出すことにした。奥様で同じ時代の研究者でもある谷井陽子さんが谷井さんの残された研究をまとめて巻頭論文として載せて下さった。

 『宗国史』の歴史叙述       谷井俊仁・谷井陽子
 嗚呼、谷井俊仁さん        廣岡義隆
 慰労詔書書式の変遷に関する覚書  山中 章
 道中記研究の可能性        塚本明
 鈴鹿峠と坂上田村麻呂       山田雄司

 私の駄文を除けば、みなさん、心のこもった追悼論文ばかりである。
(ちなみに1冊1000円で〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 山田雄司研究室 で取り扱っている。)

 彼を死へ追いやった病の原因は私には判っている。その追及の手は今は取りあえず封印して、改めて追悼の気持ちをここに捧げておくことにする。本当に悲しく、寂しい。そしてこれだけの逸材を失った三重大学の損失は計り知れない。しかしそのことに気付くこともなく人文学部文化学科は益々骨の髄まで腐敗が進行している。

 追悼

 拙文が対象とした慰労詔書(制書)のような中国の制度に由来する日本の制度研究には東洋史の素養が欠かせない。1年前までは、こうした時にいつも気軽に谷井俊仁さんに相談することができた。もちろん谷井さんは明清史が専門なのだが、その漢文の素養から文章の読みや意味をご教示頂いたのだった。
 そんな谷井さんが亡くなられたと知ったのは丁度一年前の入院先のことだった。生まれて初めて突然医者から入院を命じられた私は京都東山の山麓にある日赤の病室で退屈な日々を過ごしていた。そんなある夜、着替えを届けに来た妻が妙なことを言って帰った。
さっき塚本先生から「谷○○さんという方が亡くなった」と電話してこられたと。谷の付く名前で存じ上げているのは3人しかいない。しかしどなたも調子が悪いなどとは聞いてもいなかったので、「エッツ?誰?ちゃんと聞いといてくれへんと・・・」と妻をなじったのだった。その「谷○○」さんが谷井さんと判るのにそう時間はかからなかった。
 入院してまだ一週間も経たない我が身にはとても応えた。特に直前に私にお会いになりたがっていたと後に聞いたときには残念でならなかった。
 谷井さんは私にとっては三重大の1年先輩だ。1997年に富山大から移って来られたと聞いた。見た目も、話すときも温厚な谷井さんと同じ歴史学ということもあって直ぐ親しくなった。教授会ではいつも僕が横に座らせてもらった。昼飯の「パセオ」でもご一緒することが多かった。学生の少なくなる13時前に行って、14時頃までだべるのがとても有意義だった。そんな時何気なく会話に出てくるのが奥様のことだった。
「彼女はね-大作主義なんですよ。きっちりまとめないと気が済まないんですよ。僕なんかは全く逆でね・・・」
勿論谷井さんがとてもきちんと研究されていることは言うまでもないのだが、それに輪をかけて調べ上げて、推敲に推敲を重ねて論文を書かれる奥様ってどんな人だろうと、いつしか尊敬するようになったものだった。それと共に、谷井さんのご家族への篤い思いを知ったのだった。
 私が入院する直前、いつものように「パセオ」で会ったのが最後だった。
 「山中さん、授業どうですか?」
 これが谷井さんと交わした最後の言葉だった。その言葉の奥を察知できなかった僕のうかつさを悔やんでも悔やみきれない。


『三重大史学』読んでみようかなと思ったらよろしくね

6月4日という日の条

2008-06-05 15:39:26 | yaasan随想
食事の後はすぐ歯磨き!!よろしくお願いします。


(第一日赤から見た稲荷山。懐かしい!!)

ここのところとても忙しくて、ブログ所の騒ぎではなかった。
GW(否DW)の恐怖の原稿シリーズも終わり、今や悠々自適のはず。ところがである。実はまだまだ原稿はあるのである。いつの間にこんなに溜まったのか、一体みなさんはどうしてこんなにスラスラと原稿が書けるのか、どちらの答えもわからないのだが、とにかくなかなか進まないのがここのところの原稿である。

原因はわかっている。日常の資料分析がなかなかできないからだ。その時間が他のことにどんどん取られてしまうのだ。もちろんみなさんだって同じだろうから、私だけの特殊な事情ではないはずだ。そんなこんなで、ご無沙汰のブログなのだ。

もちろん僕のブログは気が向いたら書くものだから、別に間が空いても気にすることはないのだが、書くことが一杯あるのに書けないとなると、逆に欲求不満が募り、苛苛する。精神状態によくないのである。だからといって今日が暇なわけではないが、本当は昨日書かなければならなかった記事を少し書いておこうと思う。


私にとって、6月4にという日は特別な日だ。

もちろん、いつもポケットに歯ブラシを入れている私だから、虫歯予防デートいうことも大事な要素だ。しかし、近年はそんなことも忘れるくらい、歯の調子はいい。よく学生に
「どうして歯ブラシを胸のポケットにさしているのか」と、聞かれる。
もちろん
「歯を磨くためジャン!!」と応える。
すると、
「エエッツ!汚いーと、非難の目が向けられる。
「どこが汚いんだヨオー」と尋ねると、
「汚いもん」と訳のわからない,返事が返ってくる。
さらに、
「歯は歯磨き粉を付けないでいつでもどこでも気がついたら、食べ物を食べたらすぐに磨くんだよ」というと、
「歯ブラシで磨いたものを呑み込むん?」と怪訝そうな顔をする。
「あたりまえジャン!お前ら普通に口の中に出たつばとか呑み込んでるやろが・・・」という頃にはほとんど軽蔑の目に変わる。

(ま、軽蔑してればいいさ、そうして君たちは虫歯になって苦しむんだから!ザマーみろ!と内心思いながらそこで会話は切れる。)

 本論?に戻ろう。2007年6月4日は忘れもしない、生まれて初めて「病気で入院」した日である。それから丁度1ヶ月京都東山の第一赤十字病院に隔離されていた。未だに原因はよく判らないらしいが、私の「診察」によると、
① 三重に移って喘息になり、肺機能が低下していた。
② そこへ強烈な風邪を引いた。
③ にもかかわらず無理をして仕事(原稿を含む)をした。
④ このため当時最も弱っていた肺が変調を来し、これも原因がわかっていない「器質化肺炎」を引き起こした。
⑤ この時私の身体の免疫バランスが混乱を起こした。
⑤ そこで「器質化肺炎」の原因の基を攻撃してくれればよかったのに、今日の医学でもわからない原因に免疫機能は混乱を起こした。
⑥ そして身近な血小板を敵と見なして攻撃し、撃退寸前まで行った。

 こんなストーリーである。殲滅でなかったからよかったのだろう。殲滅寸前に偶然医者が異常に気付いてくれたのである。以後1ヶ月の退屈な入院生活が始まったのである。

 実はこの6月4日は私の親友の誕生日である。1年前にも同じことを思った。ただ、彼女にいらぬ心配をかけるといけないので、内緒にしておいたが、誰かがばらして心配をかける羽目に・・・。

 そんなことで3□歳の時には何もしてあげられなかったので、この3○歳には盛大に祝おう!!と言うことで友人と謀って、歳の数だけのバラを送った。

 そしたら突然携帯に彼女から電話がかかった。

「大きな、大きな、大きなお花を有り難う!」と。

 それも、自宅から電話してくれたのである。
難病に罹り、大変な闘病生活を送っている彼女。気丈な彼女はいろんな工夫をして、自らのアイデアも活かして、闘い続けている。3年といわれた命ももうとっくに過ぎ、5年を迎えようとしている。お見舞いに行きたくても行けないほど難しい病気。お花はてっきり病室に届くものだと思っていた。

 花屋さんに頼んでくれたのは友人だから、現物は見ていないのだ。
「そんなに大きかった?」
「本当に大きいの!有り難う!とっても嬉しい!!」と心の底から喜んでくれた。

 久しぶりに嬉しい会話だった。
 
 この花がきっかけで、少しでも早く回復してくれることを願わずにはいられなかった。

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