yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

聖武天皇東国行幸都市サミット-2 平城京脱出の条

2008-10-30 13:06:30 | 久留倍遺跡を考える会
 聖武天皇東国行幸都市サミット平城廃都の理由も面白そうだな-と思ったら・・・ 

 今回のパネラーは私も含めて八人いらっしゃいます。それぞれの先生方から玉稿をいただいていますので順次ご紹介していくことにしようと思います。第1回目は奈良文化財研究所の馬場基さんです。


(冊子の裏表紙です)

 聖武と平城京   奈良文化財研究所 馬場 基

 はじめに

 聖武天皇にとって平城京とはどのような存在だったのか、少し想像をふくらませてみたいと思います。キーワードは「ビスタ」です。
 ビスタとは、人々の視線・視界のことです。権力者は、人々の視線を操り、利用して権威と求心性を表現しました。たとえば、近世の城下町と天守閣の関係をイメージしてください。都市や空間がどのように設計・演出されていたかを読み解くための考え方です。
 平城京にはどのような「ビスタ」が隠されており、聖武の心中をどのように察することができるのでしょうか。

〔1〕 平城京のビスタ
 古代都城は、天皇を頂点とする古代国家の偉大さや支配の正当性を演出するための舞台装置です。これにふさわしいビスタが用意されていました。
 平城京の正門・羅城門から、平城宮正面入り口である朱雀門までの道路が、京内最大の道路「朱雀大路」です。その幅約百m。両側には高さ五mの築地塀がのびます。視界は徹底的に遮られ、人々の視線は朱雀門、その奧にそびえる大極殿に集中します。羅城門-朱雀大路-朱雀門-第一次大極殿という中心的儀礼空間にビスタが集中する、高度に計画された中心性をもった空間でした。
 実は平城京にはもう一つのビスタが隠されています。それは興福寺へのビスタです。興福寺は藤原氏の氏寺で、平城遷都を推進した藤原不比等の創建です。高台に位置する興福寺からは、眼下に平城宮をはじめ、平城京内を見下ろせ、まさに「京内一望」です。興福寺は平城京を見守る場所にそびえていました。不比等が平城京を造営したのは、持統・文武から託された首皇子=聖武の為です。興福寺は、聖武やその家族を見守り、天皇家そのものと、天皇家と緊密な関係を築きつつあった藤原氏を守護する寺院でした。
 一方、他の氏族や勢力にとっては、興福寺は威圧的です。非常に象徴的なのが、羅城門基壇からの光景です。羅城門基壇から、東北の方向をみると、手前に大安寺、その上に覆い被さるように興福寺が望めたはずです。最も格式が高い大安寺さえ威圧し、覆ってしまうような迫力。これが、「ビスタ」で読み解く興福寺です。
 平城京には、第一次大極殿に収斂し、王権をそのまま表現する第一のビスタと、王権と密着する藤原氏の存在を暗示する第二のビスタの二つが存在していたのです。



〔2〕 平城脱出と改造
 聖武は即位後、興福寺伽藍の充実に力を注ぎますが、天平二年の東金堂造営を最後に、興福寺の造営は終わります。聖武・光明夫妻の「脱・興福寺」ということができるでしょう。どうもこのころから聖武天皇は「天皇」あるいは「皇帝」としての独自の在り方を模索しだした様に感じられます。その最終的な段階に、聖武はいよいよ平城京から「関東」へと旅立ちます。自分のために祖父であり義父である不比等が用意してくれた都では、自分なりの天皇のあり方が確立できない、と感じたからではないでしょうか。これは「脱平城」であり、「脱不比等」です。聖武の即位が、持統・文武と不比等との約束の延長あることを考えると、あるいは「脱持統」だったかもしれません。
八世紀代、王権の在り方は過渡期的です。外交関係も複雑で、矛盾に満ちたものでした。どのような天皇であるべきか、そういった歴史的課題を聖武は背負っていました。彼なりの到達点が、大仏造営であり、「三宝の奴」という言葉だったと思います。
 結局、彼は平城に戻ります。しかし、ただ黙って戻ったわけではありませんでした。聖武は平城を徹底的に改造します。かつて中心にそびえた第一次大極殿は解体されました。第一次大極殿自体は、すでに恭仁遷都の際に解体されていましたが、それをとりまく大極殿院空間は維持されていました。これが天平勝宝五年ごろに完全に解体されます。
 同じ頃、新たな中心・東大寺大仏殿を建設します。東大寺大仏殿は、羅城門から朱雀門へのビスタと直交し、朱雀門前から真東に抜けます。その先には朱雀門と同規模の東大寺西大門があり、大仏殿がそびえました。羅城門ー朱雀門の距離と朱雀門ー西大門の距離がほぼ同じなのは、偶然とは思えません。第一のビスタは、東大寺へ収斂するように改造されました。
 そして、大仏殿は第二のビスタをも見事に克服しています。今日羅城門跡に立つと、興福寺五重塔を圧するように大仏殿がそびえます。東大寺は、興福寺方式を踏襲し、さらに高い場所にさらに大きな建物を造ることで、新しいビスタを確立しました。
 聖武は、平城京を東大寺を中心とした、新しい都・仏都へと改造したのです。

おわりに
 聖武にとって、自らの王権を確立するためには、平城京は克服すべき存在でした。そして、結局平城京を改造することでその目標を達成したのだと思います。ただし、それが彼にとって本意であったか、妥協の産物だったかは、ちょっとわかりませんが。

(本誌では図や写真を豊富に入れて頂いているのですが、諸般の事情でブログには掲載致しませんでした。)

 これまであまり詳しく研究されてこなかった聖武の恭仁京遷都の背景が少し解けたような気がしますね。 

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