yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

台湾中央研究院-6(最終回) 居延漢簡を実見して思いついたことの条

2010-08-31 07:06:36 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 台湾から無事帰国しました。
 ここ数回(1年以内)には我が家の誰が国外へ行こうとも飛行機が墜ちなくなりホッとしています。最初の事故が私が初めて海外へ行ったときに起こったソ連のミグ戦闘機による大韓航空機撃墜事故、その後、日航のジャンボジェット事件の時も、アメリカでの9.11の時も誰かが海外に行っていたのです。そして最後の飛行機事故が2007年8月の那覇空港で着陸に失敗して乗客乗員が脱出して飛行機が炎上したという中華航空機事故です>あれから3年、今回乗ったのが中華航空機でしたからこれで「山中家の呪い」は解けたのかも知れません。

 さて一週間の長いようで短い台湾中央研究院での調査が無事終わり一応の成果の整理をしておかなければなりません。

 一日30点と限られた資料の実見で、さらに毎日実測や記録のノルマがあるわけですから,大した成果が上げられないのはやむを得ません。全部見ても木簡は120点しか見られないわけですから、にわか勉強の私にこれまで20年以上の蓄積のある東洋史の方々を超えられる成果のあるはずがないのですが、封検木簡について私が個人的に気付いたことを整理しておきたいと思います。

①匣の形状が多様であるにもかかわらず、その寸法に1寸という規格性があること

②匣の製作技法に規格性があり、鋸と刀子や鑿状工具を使って成形することが判明したこと。

③使用道具が多様であること。

④「文書木簡」製作技法にキリオリ技法を確認することができたこと。

⑤これによって、従来言われてきたような木簡の製作者と記載者が全く別とはいえなくなったこと。木簡製作者と記載者にはそれなりの関係を確認することができ、一括性の高い居延漢簡の内容と製作技法を丹念に分析すればその実態を解明できること。

⑥木簡を「定規」としての転用した複数の例を確認することができたこと。

⑦封検木簡の形状は実に多様であるが、これは物品の送り元(内地であるものがかなりある)との相関関係を示している可能性が高いこと。

⑧木簡以外に様々な「遺物」(火錐や袋)が存在し、日本の古代研究に貴重な資料を提供すること。

おそらく既に知られていたことばかりだと思うのですが、短い期間に私にとっては新たな発想の原点を獲得することができた貴重な1週間となりました。感謝!です。

こんないい機会を作って頂いた同僚のTT先生、そして団長のMA 先生には重ねて御礼申し上げたく思います。

なお、最後に新たに確認された資料の一つに舞錐式の火錐がありました。火錐とその先端部の火杵が残っていたのですが、観察してみたものの、舞錐だと残るはずの紐の摩擦痕は明瞭には認められませんでした。あまり使用してなかったものかと感じました。

以下はこれまでに公表されている封検木簡のいくつかのタイプです。一応分類案は考えてみてあるのですが、それらはまたみなさんが検討なさるでしょう。

匣が二つあるタイプです。匣以外の部分(篦と仮称しておきます)がこれは長方形ですが、次のような裾広がりのものもあります。また匣が下に付いているもの(文章が上に来るものと下に来るもの)もあります。



裾広がりの篦部を持つものです。送り元の個性を反映していそうです。



裾の広がりも先のもののように大きく広がるタイプとこの様にあまり広がらないタイプがあります。




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台湾中央研究院-5 故宮博物館から夜の台北への条

2010-08-28 22:16:51 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 淡水遺跡を堪能した後はバスと地下鉄を乗り継いで故宮博物院へ行きました。実は私、恥ずかしながら北京の故宮博物館も行ったことがないのであります。そんなわけですからとても楽しみでした。
 ただし、ここは写真禁止なので、残念ながら外観しかご紹介できません。いずれ帰国後に図録をスキャンしてご紹介することに。



 まずは腹ごしらえ。



 椰子の木立の向こうに玄関が見えるところがまた台湾らしい。





 故宮を占拠しました!

 どこに行っても孫文!!駅名も、町名も中山!



 最近リニューアルされたらしい。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・見学中

 故宮博の後は市内中心部に残る「日本帝国」が残した諸施設を見て回りました。



 もちろん御案内はSS先生



 これはその一つ行政庁舎です。今は台湾市の博物館となっています。


 
 元台湾銀行です。



 夕食はとても素食でした。ビールも飲みませんでした。



 しかししっかりお祈りだけはしてきましたよ!!安藤さん、朧谷先生、山田夫人!みなさんご安心あれ!!世界中の神様が集まっていましたよ。ちゃんとお金も払ってお線香もたてましたよ。





 相変わらず、観音様も、孔子様もいらっしゃいましたが・・・。







 そしてその後先生方行きつけのバーへ?ウソ、喫茶店へ。



 往時の町のあちこちに建てられた日本の建築家の手になる施設。



 台湾では毎日ホットラテ!!



 満月でした。

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 故宮博 玉座の品に 椰子の影

 淡水の 河口に踊る 夏魚

 日帝の 影残す街 バッタ舞う

 夏課題 淡水博を 駆け巡る

 唐銭の 渡り越し日も 入道雲

 関渡にて 渡る船風 汗を吸い
  

 

台湾中央研究院-4 淡水の十三行遺跡博物館へ行ってきましたの条

2010-08-27 08:03:36 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 昨日は中央研究院の関係で実測はお休み。そのおかげで台湾北部のメイン河川である淡水の河口部にある十三行遺跡の資料を展示する博物館へ行くことができました。

 中央研究院からタクシーで最寄りの中山駅まで、そこから地下鉄に乗って終点淡水まで約1時間の移動でした。





 淡水は台湾の東側にある山脈から流れ来る水を集めて北端の東シナ海に流れ込む台北随一の大河です。この河口部にから発見されたのが十三行遺跡です。今から1800年前から500年前までの台湾原住民の構築した遺跡だとされていますが、もっと古い資料群もあるようです。台湾史など全く知らない私にはとても興味深い遺跡なので、ワクワクしながら参りました。

 まず移動に使った地下鉄の美しく、駅構内の案内が判りやすく、とても使いやすい構造になっていることに感激しました。そして、もっと驚き素晴らしい!と思ったことが地下鉄内(他の公共機関も)飲食禁止なのです。そして、こんなの当たり前のことなのでしょうが、若者達はあまり席に座らず、座っていても老人などが来ると直ぐに席を替わることです。

 私達の参加者の一人はナナナント、杖を持った老人にまで席を譲られようとして驚き、もちろんご辞退させて頂いたのですが、国民全体にこうした弱者への配慮が行き届いている点はどこぞの国の悲しい現実とは大違い、なんとかならんのですかね、あの日本の若者の優先座席を占有する態度!!

 と言うわけでとても気持ちのいい旅をして淡水駅へ。





 淡水の町は港町といった感じでとても風情がありました。



 淡水駅の少し手前には「関渡」と言う土地があり、現在もここに大きな橋が架かっています。かつての渡河地点だったようです。

 案内はもちろん団長のMA先生。おかげで手際よく近道を通り、淡水を渡る船着き場へ行き、渡航して、バスなどを乗り継いで博物館へ。船上から見る淡水の光景も絶品でした。

 淡水から小型の船で淡水川を渡ります。





 この川の先、海との接点、クレーンの林立しているところが遺跡です。悲しいかな今から40年程前に発見され調査が開始されましたが、公共工事(下水処理場?)のためにほとんどが破壊されてしまい、その罪滅ぼしに建てられたのが博物館です。これで台湾北部の原住民の貴重な交流の歴史は闇へと葬り去られてしまいました。所詮台湾は中国の一部であって元々この地で暮らした人々の歴史にはこの当時、さほど関心がなかったようです。今はむしろ逆に台湾史が盛んで、中国史は下火になっているそうです。これも政争の一端でしょうか。



 霊峰・観音山





 遺跡上空の航空写真



 最近流行の遺跡調査風景。こんなジオラマを作るお金があるのなら、報告書を出して欲しいし、遺跡を現地で公開して欲しいのだが、それは最早叶わぬ願い。悲しい!!世界中一緒ですな。



 土器を模した給水塔??



 こんなにきちんと発掘しているのに、報告書は??



 保存できなかったことについてはかなり厳しく批判するビデオが流されていたが・・・。



 内部は子供を意識したとても判りやすい展示が心がけられていた。



 土器はやはり女性が作る!!



 年代の表記がない(見落とした?)のだが何となく弥生土器のような土器群が展示されていた。





 絵画土器や土偶なども多数!!



 宋銭に混じって開元通寶も出土しているようだ。製鉄遺跡もあるというのだが・・。



 屋上からはかつて遺跡のあったところが一望できるのだが・・・。



 わずか1時間弱の短い見学だったが、複雑な思いを抱いて次なる目的地故宮博物院へ。途中関渡大橋を渡る。



 士林駅から故宮へ。

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台湾中央研究院-3 久しぶりの実測そしてマンゴウかき氷の条

2010-08-25 09:11:01 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 昨日は何年ぶりだろうか、木簡の実測をやった。
 目が見えないにもかかわらず、木簡の保護と言うこともあって部屋は薄暗く、目盛りを見るのが大変!!そんなことで、たった一本の封検を実測するのに2時間もかかってしまった。情けない!!

 とはいうもののいろいろな封検木簡を観察することによって、その作り方や規則性、形態の相違による構造の相違など、それなりに新しい情報を得ることができた。封泥を押す「匣」と呼ばれる部分は大きさが整っているのだ。ほぼ2.5センチ前後である。これは封泥に捺す印の大きさが一寸=2.3㎝と決まっているからだそうだが、二段のものは上の段が少し大きい。これは上と下とで機能が異なる可能性がある。或いは二段の匣を持つものには匣の先が三味線のばち状に裾広がりのものが多いのである。これは物を送ってきた地方の違いなのか、送ってきた役所の違いなのか、漢簡の内容のわからない私にはさっぱり見当が付かないのだが、きっと相関関係があるに違いない。もっとじっくり集中的に見学できればいいのになーと改めて思った次第である。

 

 中央研究院



 改修中の考古学研究所



 昼食を取りに行く途中の消防署



 今日の昼飯。ワンタン麺。とっても美味しい!!



 他のメンバーのものも美味しいらしい。明日はこれかな。



 見事な餃子。ここの餃子は日本のように皮が薄くてとても美味しい!!



 帰りには果物屋さんで今朝の朝食の仕入れ。美味しかったよ。手前が今流行のドラゴンフルーツ。一個120円。さらにキウイとオレンジを買って300円でした。



 中央研究院の中の道観



 付属図書館はとても広大で、静か、さらにロビーでは企画展示が。今は貝の展示。



 とても親切な司書が解説を。



 夜は台湾タワーの近くで小籠包






 これまた美味しかった!!




 そしてSS先生お勧めのマンゴウかき氷!!!



 もちろんグー!!なのだが、夜くうにはちと冷たすぎたかも。




 もちろんSS先生がどれかおわかりですよね。

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台湾中央研究院-2 河西回廊情報伝達網の一端を考えるの条

2010-08-24 08:00:05 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 今日から実測です。

 これが木簡実測新兵器??です。



 早速いろいろ不具合が起こっており、改良しなければならないのですが・・・。

 果たしてうまくできるかどうか?

 でもやはり現物を見るといろいろなことが判ります。

 これは現物にあった小さな小さな傷跡です。



 24.2と言う数字の上に2ミリほどの直線が見えませんか?これに意味がありそうなんです。現物調査の楽しさの一つです。



 さてこれから何が判ったと思いますか?これは封検と言って物品などが開封された場合それが解るように(開封されないように)粘土を貼り付け印を捺す中国独特の木簡です。このへこんだ部分を「匣」とよびます。これの造り方が判ったのです!!万歳!!

 木簡をじっと見ていると疲れます。初めての台湾での昼食に出かけました。



 団長のMA先生のお薦め餃子やさんのラーメンを食べに行きました。ちょっと酸味がきついのは私には微妙ですが、胡椒がたっぷり入っていて、この暑さにはいい感じでした。

食後に東大のSS先生に案内頂いて周りを散策しました。道教寺院が一杯あるというのです。



信仰の町とでも言うのでしょうか。






 丘の上の寺院にはいろいろな「神」が祭られていました。しかし基本は道教のようです・・・?

とても見晴らしがよく、台湾一のタワー500数十㍍という塔がよく見えました。



さらにもう一つの道教寺院に参りました。ここでは興味深いことに、磚仏ならぬ磚道士が壁に貼り付けてありました。








 最期に見つけた合わせ文字。何と読むのでしょうか?
 何を願っているかは判りますね。

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台湾中央研究院-1 なぜか台湾に来ていますの条

2010-08-23 09:37:44 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 台湾中央研究院所蔵資料調査のために昨日から台北にいます。
 初めての台湾でとても緊張していましたが、事前のみなさん方からの情報通り、とても過ごしやすいところです。もちろん暑いのは暑いのですが、日本があの暑さですから、こちらの人に日本は35度ですというとびっくりされていました。

 初日は中央研究院の構内を今回の研究に誘って頂いた同僚のTTさんや東大のSSさんに御案内頂きました。
 この研究院は蒋介石が大陸から持ち出した様々な遺産を研究・保管するために設けた研究機関らしく、広大な敷地(ほぼ日本の大学くらいの敷地があります)に文系・理系の研究機関が軒を並べています。中国の社会科学院の元の機関だったようで、ロシアなら科学アカデミーと言ったところでしょうか。

 今日から院内の歴史語学研究所で居延漢簡等を調査しますが、それぞれ中国本土にあった貴重な歴史遺産、例えばこの研究所では殷虚の膨大な遺産を所蔵・研究しています。

 まず今日はこの研究院の基礎を築いた胡適先生の足跡を訪ね歩きました。

 

 台北空港です。とてもオープンな空港で驚きました。



 市内にはどんどんと高速道路網が建設されていっています。ここでも車社会が拡大しています。



 中央研究院附属のホテルです。どうして日本の研究所や大学にはこうした施設がないのですかね。恥ずかしい!!



 蒋介石は台湾移動後いち早くこうした文化・研究施設を建設したそうです。どっかの政治家とえらい違いますな~。





 これが今日我々がこれから行くところの歴史語学研究所です。



 椰子並木がこの研究所のメイン道路です。



 コンビニもありますよ!



 ノーベル賞を受賞した方のお墓だそうです。



 胡適先生のお墓です。著名な先生を蒋介石はアメリカから呼び寄せたそうです。



 胡適先生の眠る丘から研究院が見渡せます。



 今回は中央研究院の院士、邢義田先生の御配慮で見学できます。日本で言うところの学士院会員です。

 さて、これから調査開始です。極めて真面目な、終日研究所の研究室で調査です。

 台湾いいところですよ!是非中央研究院にも行って見て下さい。水・土には各研究所附属展示施設が見学できます。行ってみようかなと思ったら、こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ
 

 

考古17文字 國學院大學の条

2010-08-20 19:00:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 時折作る五七五
 
 ブログの穴埋めのつもりなのですが・・・。

 8月18・19両日に渡り國學院大學の鈴木靖民・佐藤長門先生のゼミ大学院生12人を養老(当耆頓宮)から多度(石占頓宮)、四日市大矢知(朝明頓宮),鈴鹿(赤坂頓宮)、加太越え 伊賀国府・国分寺、美旗古墳群、夏見廃寺、名張(
阿保頓宮)、津市白山(河口頓宮)松阪市嬉野(一志頓宮)とほぼ聖武の伊勢行幸ルートを逆回りに全域御案内した。レンタカーを借りて美濃武義郡衙を出発されて不破関、美濃国府と回ってこられた一行の案内とはいえ、これだけの頓宮を一気に回るのは私自身も初めてでとても勉強になった。

 その印象の覚めやらぬ内に駄句をまとめて。

  養老の 滝しぶき涼し 学徒の汗
 
 美泉汲み 汗拭く若き 妹が願い

 頭から 冷泉かけ祈る 老学徒

 柚井遺跡 道に迷って 汗みどろ

 榎撫駅 炎天の先 馬津駅

 雑草の 久留倍を渡る 無用道

 朝明頓宮 炎天の海塞ぐ 高架道

 東国の 学徒等と開く ジョッキの山

 雑草の 凹凸に想う 関の塀

 蜘蛛の巣を かき分け辿る 大和道

 大山越え 曲がる山道 乱の夏

 蝉しぐれ 大山越えに こだまして

 壬生野にて 炎天の高市 想い馳せ

 伊賀国府 蛙の下に 眠る跡

 雑草に 覆われたる 国分寺

 金堂の 跡さえ覆う 夏草や

 馬塚に 登りて眺む 夏の伊賀

 夏見にて 大来の無念 想う草

 阿保峠 夕立に宿る 御幸達

 炎天の 関宮に集う 学徒の目

 一志にて 晩夏の旅を 懐かしく


 

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中国江南の踏査-6 紀南城を歩くの条

2010-08-19 12:00:00 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 今回の一つの目標である楚国の都紀南城を写真で紹介します。
 見ても判るとおり江南地域の豊かな穂がよく判るのですが、逆にどこを見ても緑の絨毯で識別が困難かも知れません。微妙な陰影に気をつけてご覧下さい。

 まず前回にも使った紀南城の全体図です。
 基本的に南城壁から北西東城壁と歩き、その後城内の建物基壇を探しに入りました。



 案内頂いた荊州市発掘部門の責任者と参加メンバーです。



 南城壁です。



南東から全体を見ています。



最初に登った狼煙台とされる南門前の高まりです。



城壁の高さを感じて下さい。



南外堀です。



南城壁の中央に開いているとされる水門を探しに行きます。



なんだかベトナムのコーロア城を思い出します。南の都に共通性があるのかも知れませんね。



振り返ると南門取り付き部が見えました。



ちょっと一服!もちろんタバコを吸うのはS氏とK氏だけですよ!!



堀と南城壁



内堀跡かとも言われる城壁に沿って延びる畑の部分。



広大な水田地帯の内部



いつも最後部の私とHH氏 なぜか判ります?



ほらここでもね!!



あまりに沢山なのでこの辺で一休み。この続きは次回。
なお、この後休憩に入るとみなさんぐったり!特に最後部の・・・・。

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中国江南の踏査-5 紀南城内に設けられた漢代の鳳凰山漢墓群とその遺体の条

2010-08-18 05:30:28 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 春秋戦国時代に楚の国の都の置かれたのが荊州でした。
 同行した妹尾達彦さんのお話によると、近代に入り中国へ列強が進出するに伴い、大型船が海外から押し寄せた。ところがそれらは武漢までしか遡れず、列強はかつての小都市武漢に次々と関係機関を置いた。その結果歴代の中心都市荊州は一気に寂れ今日に至っているのだと。なるほど、ここにも近代の欧米列強による中国侵略の影が及んでいたのである。



 この図の右下が鳳凰山漢墓の地だという。紀南城自体は周囲2キロに及ぶ広大な遺跡である。



 南城壁の一部



 南城壁に沿って設けられた大規模な堀


 
 この丘の向こう側を中心に漢墓群があったらしい。


 さて、その荊州が楚の都であったことを示す遺跡が紀南城であると言われる。諸説があるようだが、一応その説に従っておく。紀南城の紹介は次回に回すとして、その紀南城が廃絶した後の漢代にその南東部の丘を利用して墓域が形成された。これが鳳凰山漢墓群である。
 
 その168号墓からは奇跡が発見されている。2000年以上前の男性の遺体が腐ることなくそのまま発見されたのである。内臓も脳も、もちろん皮膚も痛むことなく棺に収められたまま見付かったのである。その奇跡を引き起こしたのが謎の水だという。埋葬に用いられていた漢方薬が地下から偶然湧き出した水に溶け出しこれがホルマリンのような役割を果たしたのだという説が強いようだが、仮にそうだとすると、この遺体はかなり寒い冬に埋葬されたことになろう。でないと、夏ならば遺体は数日で腐敗はじめるに違いないからである。そうでないならば、或いはその効力を知って予め溶液を入れて埋納したことも想定しなければならない。しかしそれにしてもそのためには発見されるまで存在した水が供給され続けられなければならない。予め井戸の上に棺を設けるなどの対応が必要なのだが・・・。


 ま、とにかくその遺体をご覧あれ。







 遺体の「解剖」が行われた。



 全身像










以下は副装品の一部です。









漆器の国だけあって多種多様な漆器が埋納されていたらしい。





 棺



荊州市博物館、とても興味深い博物館ですよ。時間が無くて十分見ることができませんでしたが。もう一度行きたいところです。

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中国江南の踏査-4~長沙銅官窯を歩く写真編~の条

2010-08-15 08:08:38 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 8月3日に現地から文章だけをアップした長沙銅官窯。
今回は写真でご紹介することにする。



このお兄ちゃんが案内してやるというのだが・・・。丘の仲にある細い道を何度もくねくね行ったり来たり迷いに迷って、途中、民家で尋ねたりしながら、やっとの事で辿り着いた。結局このお兄ちゃんは人に聞いて判ったようなものなのだが。





やっと辿り着いた遺跡なのだが、この地を管理している地元の管理人が、上の許可がないと開けられないという。そこでUさんの人間関係が最大限に生きた。あちこち電話がつながって待つこと30分。ようやく開場となった。









窯の保存施設へ向かう道には無造作に灰原の資料なのだろうか道に埋め込まれていた。







巨大な登り窯が保存されていた。





丁寧な解説板もあり、地元は熱心なようなのだが、ほとんど人には知られていないようだ。だから一々上に通さないと開けてくれないのである。





発掘調査も日常的にされいるらしい。



一郭には粘土採掘坑もあり保存されていた。

 



 湘江の中流、望城県に設けられた長沙銅官窯はその名「銅官窯」から官窯のように思っていたが、長沙も銅官もいずれも地名だという。もっとも銅官という地名は意味深で、長沙銅官窯の製品のあの独特の色は胎土にあるわけで、元々鉱物資源の豊かな地域であったことによるのでは無かろうか。その地の利を活かして湘江の水運とうまく連動して開窯されたらしい。それにしても揚子江のこんなに奥まった地からハルバル日本へ,あの長岡京の港として設けられた山崎津までやってきているのです。どういういきさつで,どんな径路で運ばれてきたのだろうか。それを思うだけでワクワクする遺跡だった。

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 灼熱 湘江銅官 千里の旅

 炎天の 銅官窯から 山崎を

 炎暑路に 埋め込まれたる 長沙が器

 炎昼の 登り窯にて 誰作る 

 銅官窯 玉の汗落つ 湘江の風  

夏頭の条

2010-08-14 10:07:51 | yaasan随想
 散髪してもらいました。

 あまりの暑さに周りにしかない髪ながらそこを伝って汗がしたたり落ち、首筋に汗もが出来て痒いからです。

 もちろんこれから台湾→レバノンとまたまたハードな南国への踏査が待っているからでもあります。

 夏あたま 梳けと言われど 髪はなし

 (大笑い)

 はい!悲しいくらい真ん中の髪はどんどん無くなっていきます。特にこの間の江南の踏査が響いたのでしょう。とうとう普通に地肌が見えるようになりました。

 ま、今更嘆いても戻るわけでもなし。目も髪もあと10年持てば万々歳です。

 今日はお盆のお参りに瑞泉寺さんからお参りに来てくれます。お墓の掃除も行かないといけなかったのですが、この忙しさに怠けてしまいました。九月にゆっくり行ってきます。

 この頃は知り合いが次々と亡くなって、お盆が身近な物になってきました。仕方ありません。

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 簾見て 我が頭見て 涼しさを

 盆の朝 父母の遺影に しみじみと 

第18回壬申の乱ウオーク・市民百人と平城宮跡を歩くの条

2010-08-12 13:52:33 | 久留倍遺跡を考える会
 20100807 86ヒロシマから最終便で帰ってきて、翌朝四日市へ8時集合という強行軍で第18回壬申の乱ウオークが始まりました。
壬申の乱ウオーク-18

 今回は壬申の乱とはあまり関係はないのですが、『日本書紀』672年7月3・4日の段の「乃楽山」との関係と言うことで1300年展の行われている平城宮跡散策です。事前には130人近い申し込みがあったのですが、この暑さ故キャンセルが相次ぎ、バス二台でやってきました。

本日のコース

 天武元年七月三・四日条―乃楽山(なら山・平城山)を歩く①-
~平城宮跡を歩く~

 案内 馬場基氏(奈良文化財研究所) 山中 章(三重大学)
富田駅前・近鉄四日市駅前 8:00発  伊賀文化村9:00経由 平城宮跡到着 11:00 昼食・着替 13:30 ウオーク出発 朱雀門 → 14:00 大極殿・平城宮跡(馬場班・山中班) → 16:00 平城宮跡 → 帰路 →20:00 富田・四日市


『日本書紀』天武天応元年条

天武天皇元年(六七二)七月壬辰(3日) 将軍吹負屯于乃楽山上。時荒田尾直赤麻呂啓将軍曰。古京是本営処也。宜固守。将軍従之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京、而解取道路橋板。作楯、堅於京辺衢以守之。
天武天皇元年(六七二)七月癸巳(4日) 将軍吹負与近江将大野君果安戦于乃楽山。為果安所敗。軍卒悉走。将軍吹負僅得脱身。於是。果安追至八口、〓而視京。毎街竪楯。疑有伏兵。乃稍引還之。

参考資料として以下のものから図などを抜き出して資料を作りました。

 馬場基『平城京に暮らす 天平人の泣き笑い』(吉川弘文館2010年)
 木簡学会編『木簡から古代がみえる』(岩波新書1256)
 町田章『平城京』(ニューサイエンス社 1986年):


主催 久留倍遺跡を考える会
   三重大学人文学部考古学研究室
   伊勢湾・熊野地域研究センター
後援 奈良文化財研究所

Ⅰ 聖武・桓武略系図
               和 乙継     
                 |――高野新笠   |―-早良親王× |―嵯峨天皇14
               土師真妹   |    |         |
                      |―――――桓武天皇12――――平城天皇13
        |―――志貴皇子―――――光仁天皇11   |  |――――④布勢内親王
        |               |    | 中臣朝臣豊子
|―天智天皇1―大友皇子×          |―――②酒人内親王―③朝原内親王
| 中臣鎌足―藤原不比等―藤原宮子      |―――他戸親王×
|―天武天皇2       |―聖武天皇7―①井上内親王×
  | |――――草壁皇子   |―日高内親王(元正天皇)6 
  | 持統天皇3  |―――文武天皇4
  |     阿閉内親王(元明天皇)5
  |――――――高市皇子
  宗像氏娘    |―――――長屋王×
        御名部皇女(天智娘)


こんな資料を参考に朱雀門から中央区大極殿へと古代衣装を身につけた衣装隊を先頭に優雅な??行列をした後、奈文研の馬場さんのご案内でとてもとてもマニアックな平城宮北側の諸施設を回りながら馬場節に堪能して頂きました。

たまたまこの日は曇り空の上に風が強く、気温はそれなりだったのでしょうが、歩くと風が心地よく、最高齢90歳の参加者を含め、日頃鍛えていない我が学生諸君も誰一人倒れることなく一日を古代平城宮に思いを馳せるロマンチックな旅で満喫しました。

これはその折の参加者全員の集合写真です。まず朱雀門でパシャリ。我が会の前川さんの力作です。



続いて大極殿前でもう一枚。



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お盆休みは原稿に集中します。ではまた盆明けにね。

 炎熱を 吹き飛ばすほど 衣装隊
 伊勢人が 歩む宮道 蝉の声
 薄物を 解いて歩む 伊勢の児ら
 

65年目の86ヒロシマに行ってきましたの条

2010-08-10 06:00:41 | yaasan随想
1969年8月6日のあのフランスデモの日から41年、ヒロシマへ行ってきました。

 広島市が主催する「式典」には国連事務総長やアメリカ大使が来たと騒いでいるようですが、来るのが当たり前なのにこれまでこなかった、来るように要請もしてこなかった政府の態度が問題であって、それを批判する論調は皆無、どこかずれている感覚でした。

 その夕方から行われた市民の手になる「86PEACE 平和の夕べ」集会には、開場一杯の市民が集まり大変な熱気でした。厳しい現状でこれだけの人々を集め、独自の形を作られた主催者のご苦労は大変なものだったと思います。有り難うございました。

 当日はまず最初に被爆者の池田精子さんから悲しい被爆体験とその後の差別、ケロイド治療のための度重なる苦労が時には絶叫口調で「報告」されました。叫ばざるを得ない想像を絶する衝撃だったことが実感されました。

 続いて、沖縄の反戦地主知花昌一さんの、沖縄に相次いで科される琉球処分の実態が静かな口調で縷々語りかけられました。その静かな口調はとてもあの激しい闘争をなさっている方とは思えない落ち着いたもので、却って強い印象を与えました。私は前にも言ったとおり、今こそ、日米安保条約を破棄し、世界中の核の傘から日本だからこそ離脱し、丸腰で正面から核廃絶を訴えるべきだと思います。そうすればもちろん沖縄に米軍はいりませんし、日本のどこにもあの無用な騒音を垂れ流す戦闘機はいらなくなるのです。

 最後に、高史明氏の講演でした。在日朝鮮人としてのその生い立ち、若き頃の想像を絶する人生を経て親鸞に辿り着く姿が、これまた実体験を踏まえて蕩々と述べられました。とても中味の濃いものではあったのですが、今の私にはまだ「仏教」=親鸞に入り込めないだけに、正直言って違和感がありました。この心境にいつなれるのだろうか。死ぬまで無理なのではないか、そう思うだけでした。

 今の若者は規則を振りかざした命令にはとても従順に従います。毎日授業に出てくるのもそのせいです。だからといって授業を熱心に聞いているわけではありません。朝一番に来て直ぐ寝てしまう学生も結構います。つまり出席という形が大事なのであって、中味ではありません。彼らに必要なのは浅く広く漠然とした「満足」なのです。高さんはまともな教育を受けていません。しかし、人間は基礎的教育すら十分に受けていなくとも親鸞を理解するほどの優れた能力を誰もが生まれながらに持っているのです。今の学生達の「教育」とは一体何なのでしょうか。私にはその事が一番強く印象に残りました。

 悲しいかな。大学までの12年間の義務教育を受けてきた彼らに刻まれている力は余りに浅く、漠然としたものなのです。そしてさらに悲しいことには彼らにはそれを自ら打ち破る方法論すら教育されていないのです。

 おそらく、石原や橋下など、命令口調で断定的にものを言う人間が総理大臣にでもなり、徴兵制をぶち上げればすんなり従うと思います。それくらい独自の思考能力に欠けるのです。そんな若者達にどう訴えかければ彼らが真剣に核兵器廃絶を、世界平和を考え、行動することが出来るんでしょうか。私にはよく判りませんでした。

 こんな会は久しぶりでした。約35年ぶりでしょうか。河野美代子さんという本当に信じられないくらい元気な、多彩な人物のパワーがなければ実現しなかった会です。しかし、まだまだ私にはそのパワーを受け継いで自ら行動する元気が出てきません。情けないことです。

 まだ会の終わらないヒロシマYMCAの会場を途中で抜け出し、帰路につきました。翌日朝から第18回壬申の乱ウオークをやらなければならなかったからです。四日市をバスで出発し、平城京遷都1300年展開催中の平城宮跡に参りました。当日は予想以上に涼しく、爽やかにも感じる風の中100人の大行列で朱雀門から大極殿まで歩きました。

 その詳細はまた後日。今日はこれから夏の調査の大事な会議が控えています。

 今年もヒロシマ・ナガサキ両市長の平和宣言を再掲します。いつになったら実現するのでしょうか。やはり河野さんを見習って行動しなければ!!と思うのです。

 広島平和宣言全文

 「ああ やれんのう、こがあな辛(つら)い目に、なんで遭わにゃあ いけんのかいのう」――65年前のこの日、ようやくにして生き永らえた被爆者、そして非業の最期を迎えられた多くの御霊(みたま)と共に、改めて「こがあな いびせえこたあ(こんな恐ろしいことは)、ほかの誰にも あっちゃあいけん」と決意を新たにする8月6日を迎えました。

 ヒロシマは、被爆者と市民の力で、また国の内外からの支援により美しい都市として復興し、今や「世界のモデル都市」を、そしてオリンピックの招致を目指しています。地獄の苦悩を乗り越え、平和を愛する諸国民に期待しつつ被爆者が発してきたメッセージは、平和憲法の礎であり、世界の行く手を照らしています。

 今年5月に開かれた核不拡散条約再検討会議の成果がその証拠です。全会一致で採択された最終文書には、核兵器廃絶を求める全(すべ)ての締約国の意向を尊重すること、市民社会の声に耳を傾けること、大多数の締約国が期限を区切った核兵器廃絶の取り組みに賛成していること、核兵器禁止条約を含め新たな法的枠組みの必要なこと等が盛り込まれ、これまでの広島市・長崎市そして、加盟都市が4000を超えた平和市長会議、さらに「ヒロシマ・ナガサキ議定書」に賛同した国内3分の2にも上る自治体の主張こそ、未来を拓(ひら)くために必要であることが確認されました。

 核兵器のない未来を願う市民社会の声、良心の叫びが国連に届いたのは、今回、国連事務総長としてこの式典に初めて参列して下さっている潘基文(パン・ギムン)閣下のリーダーシップの成せる業ですし、オバマ大統領率いる米国連邦政府や1200もの都市が加盟する全米市長会議も、大きな影響を与えました。

 また、この式典には、70か国以上の政府代表、さらに国際機関の代表、NGOや市民代表が、被爆者やその家族・遺族そして広島市民の気持ちを汲(く)み、参列されています。核保有国としては、これまでロシア、中国等が参列されましたが、今回初めて米国大使や英仏の代表が参列されています。

 このように、核兵器廃絶の緊急性は世界に浸透し始めており、大多数の世界市民の声が国際社会を動かす最大の力になりつつあります。

 こうした絶好の機会を捉(とら)え、核兵器のない世界を実現するために必要なのは、被爆者の本願をそのまま世界に伝え、被爆者の魂と世界との距離を縮めることです。核兵器廃絶の緊急性に気付かず、人類滅亡が回避されたのは私たちが賢かったからではなく、運が良かっただけだという事実に目を瞑(つぶ)っている人もまだ多いからです。

 今こそ、日本国政府の出番です。「核兵器廃絶に向けて先頭に立」つために、まずは、非核三原則の法制化と「核の傘」からの離脱、そして「黒い雨降雨地域」の拡大、並びに高齢化した世界全ての被爆者に肌理(きめ)細かく優しい援護策を実現すべきです。

 また、内閣総理大臣が、被爆者の願いを真摯(しんし)に受け止め自ら行動してこそ、「核兵器ゼロ」の世界を創(つく)り出し、「ゼロ(0)の発見」に匹敵する人類の新たな一頁(ページ)を2020年に開くことが可能になります。核保有国の首脳に核兵器廃絶の緊急性を訴え核兵器禁止条約締結の音頭を取る、全ての国に核兵器等軍事関連予算の削減を求める等、選択肢は無限です。

 私たち市民や都市も行動します。志を同じくする国々、NGO、国連等と協力し、先月末に開催した「2020核廃絶広島会議」で採択した「ヒロシマアピール」に沿って、2020年までの核兵器廃絶のため更に大きなうねりを創ります。

 最後に、被爆65周年の本日、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧(ささ)げつつ、世界で最も我慢強き人々、すなわち被爆者に、これ以上の忍耐を強いてはならないこと、そして、全ての被爆者が「生きていて良かった」と心から喜べる、核兵器のない世界を一日も早く実現することこそ、私たち人類に課せられ、死力を尽くして遂行しなくてはならない責務であることをここに宣言します。

 2010年(平成22年)8月6日 広島市長 秋葉忠利
(2010年8月6日14時18分 読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100806-OYT1T00606.htm より)



 長崎平和宣言全文 

 被爆者の方々の歌声で、今年の平和祈念式典は始まりました。
 「あの日を二度と繰り返してはならない」という強い願いがこもった歌声でした。
 1945年8月9日午前11時2分、米国の爆撃機が投下した一発の原子爆弾で、長崎の街は、一瞬のうちに壊滅しました。すさまじい熱線と爆風と放射線、そして、燃え続ける炎…。7万4千人の尊い命が奪われ、かろうじて死を免れた人々の心と体にも、深い傷が刻み込まれました。
 あの日から65年、「核兵器のない世界」への道を一瞬もあきらめることなく歩み続け、精いっぱい歌う被爆者の姿に、わたしは人間の希望を感じます。
 核保有国の指導者の皆さん、「核兵器のない世界」への努力を踏みにじらないでください。
 ことし5月、核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、当初、期限を定めた核軍縮への具体的な道筋が議長から提案されました。この提案を核兵器を持たない国々は広く支持しました。世界中からニューヨークに集まった非政府組織(NGO)や、わたしたち被爆地の市民の期待も高まったのです。
 その議長案を米国、ロシア、英国、フランス、中国の核保有国の政府代表は退けてしまいました。核保有国が核軍縮に誠実に取り組まなければ、それに反発して、新たな核保有国が現れて、世界は逆に核拡散の危機に直面することになります。NPT体制は核兵器保有国を増やさないための最低限のルールとしてしっかりと守っていく必要があります。
 核兵器廃絶へ向けて前進させるために、わたしたちは、さらに新しい条約が必要と考えます。潘基文国連事務総長はすでに国連加盟国に「核兵器禁止条約」の検討を始めるように呼び掛けており、NPT再検討会議でも多くの国がその可能性に言及しました。すべての国に、核兵器の製造、保有、使用などの一切を平等に禁止する「核兵器禁止条約」をわたしたち被爆地も強く支持します。
 長崎と広島はこれまで手を携えて、原子爆弾の惨状を世界に伝え、核兵器廃絶を求めてきました。被爆国である日本政府も、非核三原則を国是とすることで非核の立場を明確に示してきたはずです。しかし、被爆から65年が過ぎた今年、政府は「核密約」の存在を明らかにしました。非核三原則を形骸化してきた過去の政府の対応に、わたしたちは強い不信を抱いています。さらに最近、NPT未加盟の核保有国であるインドとの原子力協定の交渉を政府は進めています。これは、被爆国自らNPT体制を空洞化させるものであり、到底、容認できません。
 日本政府は、何よりもまず、国民の信頼を回復するために、非核三原則の法制化に着手すべきです。また、核の傘に頼らない安全保障の実現のために、日本と韓国、北朝鮮の非核化を目指すべきです。「北東アジア非核兵器地帯」構想を提案し、被爆国として、国際社会で独自のリーダーシップを発揮してください。
 NPT再検討会議において、日本政府はロシアなど41カ国と共に「核不拡散・軍縮教育に関する共同声明」を発表しました。わたしたちはそれに賛同すると同時に、日本政府が世界の若い世代に向けて核不拡散・軍縮教育を広げていくことを期待します。長崎には原子爆弾の記憶とつめ跡が今なお残っています。心と体の痛みをこらえつつ、自らの体験を未来のために語ることを使命と考える被爆者がいます。被爆体験はないけれども、被爆者たちの思いを受け継ぎ、平和のために行動する市民や若者たちもいます。長崎は核不拡散・軍縮教育に被爆地として貢献していきます。
 世界の皆さん、不信と脅威に満ちた「核兵器のある世界」か、信頼と協力にもとづく「核兵器のない世界」か、それを選ぶのはわたしたちです。わたしたちには、子供たちのために、核兵器に脅かされることのない未来をつくりだしていく責任があります。一人一人は弱い小さな存在であっても、手を取り合うことにより、政府を動かし、新しい歴史をつくる力になれます。わたしたちの意志を明確に政府に伝えていきましょう。
 世界には核兵器廃絶に向けた平和の取り組みを続けている多くの人々がいます。長崎市はこうした人々と連携し、被爆地と心を一つにした地球規模の平和市民ネットワークを張り巡らせていきます。
 被爆者の平均年齢は76歳を超え、この式典に参列できる被爆者の方々も、少なくなりました。国内外の高齢化する被爆者救済の立場から、さらなる援護を急ぐよう日本政府に求めます。
 原子爆弾で亡くなられた方々に、心から哀悼の意をささげ、世界から核兵器がなくなる日まで、広島市と共に最大限の努力を続けていくことを宣言します。
2010年(平成22年)8月9日
長崎市長 田上富久

(http://www.shizushin.com/news/social/national/2010080901000276.htm)

 86に 書き込まれたる 友の母
 65年 経てども頼る 核の傘
 86を 知らぬ若者 夏合宿 



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中国江南の踏査-3~長沙銅官窯を歩く~の条

2010-08-03 07:45:22 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
昨日は初めて長沙銅官窯へ行ってきました。

歴史時代の考古学をやる人間にとってはとても有名な遺跡なのですが、その他の分野ではあまり知られていないらしく、今回の予定には入っていませんでした。たまたま長沙での時間が余ったので、団長に提案してみました。遺跡の場所の詳細も、時間がいくらかかるかも判らないので、どうなるかひやひやものでしたが、副団長?のMaさんのとても丁寧な御配慮で行くことが出来ました。

大感謝!!

というのは彼の大学時代の同級生が車を自らのものも含めて手配してくれたのです。市内から約45分。望城県というその地に行ってびっくり。今でも陶土が採れるらしく、あちこちで窯が開かれ、瓦などが焼かれていたのです。

そんな村の一角でとある若者に、長沙銅官窯の場所を尋ねると、連れて行ってやるというのです。バイクで先導する彼に付いていくこと20分ほど、村の中の道を行ったり来たり、着いた!と思ったらそこは農家の門口?おばちゃんが出てきて若者をたしなめている。どうも道を間違えたらしい。再びUターンして目的地をめざすこと5分ほど、やっとその地について若者もホッと!

ところが、施設を管理する担当者が言うには上の許可がないと開けられないという。そこで再び大活躍するのが同級生、あれこれとツテを伝って上司に連絡を取り、やっとの事で解錠!!

巨大な長沙銅官窯の登り窯を目の前にして一同大感激。特にいっしょに旅しているK市のAさん、O市のS3と3人は大喜び。

直ぐ隣では発掘調査中?の窯がもう一基。これは撮影禁止なので紹介できないが公開中のものは帰国後に写真をアップします。

なんと言ってもこの窯址の場所へ行くのに、村人ですらほとんど知らないところでしたから、迷路のような道をくるくる回りやっと着くことが出来ました。本当にMaさんとそのお友達のご厚意のおかげでした。

今広州の空港にいます。これから北京経由で広州から帰国します。

詳しくは帰国後に。短い今夏の中国江南の旅はこれでおしまいです。しかし、馬王堆漢墓、荊州鳳凰山M168号墓、楚の国の都とされる紀南城、長沙銅官窯等々、とても収穫の多い、1週間でした。

ではみなさん 再見

帰国後は直ぐにオープンキャンパスの仕事が待っています。そしてそれが終わったら久しぶりに86ヒロシマへ行ってきます。

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