yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

渡島・列島比較研究-1 古代「日本」の国境を決めた人々の条

2008-07-06 04:05:55 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 北海道洞爺湖サミット厳戒中の北海道へ行って参りました!新たな研究材料を入手して、心身をリフレッシュして帰りました。仕切り直しです! 

 急に思い立って、北海道埋蔵文化財センターと秋田城調査事務所へ行って参りました。この3週間はとても辛い毎日でした。そしてとても悲しい結末が待っていました。そんな重い心を鎮めるため、元気を取り戻すために、以前から気になっていた北海道の土器を見に行ってきました。
 2006年9月、歴博の共同研究で生まれて初めて北海道の地に足を運んだときでした。私の親友の北海道埋蔵文化財センターのNさんの案内で附属の展示室を見ていて、ある遺物に目が止まりました。須恵器杯でした。列島ならば何の変哲もない須恵器ですが、さすがに北海道では擦文期に限られる極めて貴重な資料でした。ただそれだけではありませんでした。帰りに立ち寄った千歳市埋蔵文化財センターで見学した資料はもっと衝撃的でした。

 それ以来の課題を解決するために北海道と秋田城へ行ったのです。現在の研究課題、「東アジア宮都の比較研究」をするためにどうしても解決しておかなければならない課題があります。それこそ、『国境』!なのです。『国境』を定めることによって、日本列島の大王は東アジアにおいて、東海に君臨する皇帝としてその存在感を示すことができたのです。では『国境』は誰が何時どのようにして決めたのか?その謎を解く鍵が北海道・渡島と秋田城にあるのです。


(列島では古代の遺跡なら普通に見ることのできる須恵器杯。ところが渡島のこの資料こそ、古代「日本」の国境をめぐる攻防戦の証拠品だと判った。だから考古学はやめられない!)
 親友の手配で、彼の高校の後輩が勤める恵庭市郷土資料館で恵庭にあった北海道式古墳出土遺物を見学することができました。まず、学芸員のUSさんにカリンバ遺跡を中心とした資料館の展示を御案内頂きました。その後、ケースの中にある資料をとりだしてじっくりと、拝見しました。かねて個人所有物であった副装品が寄託されたもので、蕨手刀や銅碗、隆平永宝と共に2点の須恵器と土師器の甕が展示されていました。須恵器は高台のある杯B と高台のない杯Aですが、いずれも北海道にはほとんど出ない8世紀後半から9世紀前半に推定される土器だそうです。
 先年見た千歳市埋文の資料とは異なり少し底部厚が分厚く、胎土にも鉱物質を多量に含み長岡京のものとは異なるようでしたが、この後見学した秋田城の資料とは多くの点で共通点を持っているように思えました。
 以前から議論になっているこうした資料群を持つ被葬者が誰なのか?渡島の在地の「豪族」なのか、それとも列島からの移住者・移動者なのか?軽々には判断できませんが、8世紀末に秋田と渡島との間に相当な有力者間の物の移動が確実にあったことが判りました。もちろん、文献史料では知られていたことであり、それを考古資料により確認したに過ぎませんが、移動した物が、当時の列島文化を象徴する物であっただけに、これを墓に持ち込むことのできた被葬者像が自ずと明らかになるというものでした。


(まずは恵庭市郷土資料館へ。史跡指定されたカリンバ遺跡の展示が中心。学芸員のUさんの情熱に圧倒されました。)



(カリンバ遺跡はとても不思議な縄文後期末から晩期初頭の遺跡。これは二体の屈葬人骨が入れられた墓坑。一体は櫛をたくさん飾り付け、もう一体は櫛を持たず腰飾りを持つ。)


(恵庭古墳の副葬品は蕨手刀、銅碗、隆平永宝-796年初鋳-と須恵器2点、土師器甕1点でした。)


(恵庭市郷土資料館屋上から見た石狩平野。標高20m前後の平坦地が延々と続くそうです。この地に1200年前、長岡京で仕事をしたことのある人がやってきたことがあると思うだけで、感動しました。)

 この後、千歳市埋蔵文化財センターへもお邪魔し、センターのTTさんから資料を拝見しながら、様々な情報を伺うことができました。末広遺跡の須恵器のみならず、丸子山遺跡の須恵器など、特に丸子山の須恵器は破片ではありましたが、大収穫でした。

 この後、江別市の資料館へもお伺いする予定でしたが、時間がなく(あまりに恵庭と千歳の資料が素晴らしく、時間をとりすぎたので、)次回にすることにしました。

 そしてこの日はN邸で旧交を温めることに。




(Nさんの自然観察力は素晴らしく、近年の関心事の中心であるササの群生とささの実の収穫に関する研究成果をうかがいながら、野幌自然公園の中をゆっくり歩いてご自宅を目指しました。ナナナント、道の真ん中に点々と黒い物体が!キタキツネの糞だそうです。おそらく桜の実を食べたのだろうといいます。感激!!)


(彼の家は野幌自然公園のと接する閑静な住宅街。北海道らしく、敷地のゆったりした中に、いろんなスタイルの家が建ち並ぶ。そしてもちろん白樺並木!!)

 今回は慌ただしく出かけたので、お土産も何も買わずに出た。お慌てで家から和菓子とお酒を各訪問先に送ってもらうことにした。もちろん和菓子は津和野の三松堂さんのお菓子。

 N邸で初対面の奥様と三人で深夜までワイワイガヤガヤ!とにかく久しぶりに楽しい会話を!!そして、最後に土産の話しを。

「津和野の三松堂というお店から和菓子が二三日後に届くから食べといて」と。すると奥様の顔色が一変。
「私も好きなのよ」と三松堂さんのお菓子の箱を持ってこられる。
「エエッツ!」
「私の母は津和野で小学校の先生をしてたたの。だから・・・.どうして山中さんこそ三松堂を知っているの?」
と、そこで、「実はかくかくしかじか、内の大森俊輔という学生が・・・」ということになり、実は北海道に来たのも、少しこの間、心身ともに疲れたので、懸案を解決すると共に、Nに会ったら元気になるかもと・・・。そんなこんなで一体何本ビールを飲んだことだろう。美味しい魚と奥様の手料理で、眠りたくも、帰りたくもない楽しいひとときだった。

 翌朝早く起きて再び野幌自然公園を横目に埋文センター、そして秋田城へ。ここでも素晴らしい出会いと資料が・・・。この続きは次回に。 

 なんと北海道で三松堂さんのお菓子!!  

(周りのお花は白樺並木の道沿いに植えられたラベンダー.もちろん、こうした花は明治以降に外国人が持ち込んだものだそうです。)