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(北辺築地の続き。手前のところが北へ延びる北西築地との交点で、ここが崩れたので調査している。)
(雨でもずぶ濡れになりながら調査を続けた。学生達も真剣な目になってきたかな・・・)
3人(亀山市教委のMさん、Kさんと私)でアーでもない、コーでもないと半日近く壁を見ながら土層の解釈に努めました。やはり発掘調査は複数の目でやるべきですね。もちろん誰もが冷静に、正確に層序を確認しようとしているのですが、誰もがそれぞれの「思い」も抱きながら地層を見ます。中・近世研究の立場の人、古代史の情報に長けている人、地域情報に優れている人等々、地層に自分の情報を重ね、情報に合う地層の変化を一つも見落とすまいとガリをかけ、遠目から眺め、上に行ったり下に行ったり、どの線が一番合理的なのか、いろいろなシュミレーションを脳裏に描きながら、おそらく3人の脳裏には現場の地層をそらんじることができるくらい焼き付いているに違いありません。その日の最後に意見交換をした
結論!!
奈良時代に鈴鹿関「構築」のために大土木工事が行われた!
驚きました。以前から問題にしていた最下段の地層には白色の地山層が確認できます。この上にもう一層、小石混じりの非常に締まった土層が東側に残っています。何故東側だけかというと、東から2mほどのところで例の大石を含む層によって大きく削り取られているからなのです。次の断面写真がもっともわかりやすいと思います。
(大きな石を含む層が地山面の一つであろうと思われる小石混じりの層の上に堆積している。)
そしてこれまた以前から問題になっていた中段の地層に認められる大石を含む層と連続する可能性が高まってきたのです。つまりこの大石を含む層は調査地の北西方向から南東方向に厚さ3m近くに渡って堆積しているのです。これが自然なのか人工的なのか、結論は出せずにいました。しかし、先の瓦の堆積がこれを人工のものだと教えてくれました。
現地を見ていただくとよく分かるのですが(南側に国民宿舎へ至る道路が1967年頃造られたために斜面が寸断されていますが)、築地はこの山塊の西に下る斜面と南に落ちる斜面の傾斜変換点の上に設けられているように見えます。但し現在発掘調査中の南斜面上に設けられた北辺築地下には、小さな谷地形があったようなのです。これを埋めて造成しないことにはまっすぐな築地は設けられません。そこで西側から少しずつ谷を埋めていったのです。その始まりはまだ最終確認できていないのですが、小さな平場に始まって少しずつ埋めていったようです。その過程で(おそらく現地に既に運び込まれていた瓦の破損品がゴミとして埋められたのではないかと仮定しているのですが)、例の瓦堆積が形成されるのです。当初は堀状の遺構に瓦が堆積しているのかと考えましたが、どう見てもそのような立ち上がりが反対側に認められないのです。西から東へ斜め方向に①古代瓦、②人頭大の石を含む黄色の層、③60cmもある大石を含むオレンジ色の地層が堆積しているのです。つまり大石を含む地層は①の古代瓦より後に堆積しているのです。さらに④大石を含む地層の上部を覆うようにして、きれいな黄色の地層が幅5m前後、厚さ数10cmに渡って形成され、⑤その上に築地が構築され、その後④の黄色土の上に⑥崩落した築地の土や瓦が堆積しているのです。
なかなか文字で説明するのは難しいので、よくおわかりいただけないかもしれません。是非現場でたくさんの目でご確認下さい。もちろんまた違ったご意見もあるかもしれません。是非ご教示下さい。
(西端から徐々に造成し、途中で瓦を廃棄し、さらに人頭大の石を放り込んでいる。この後さらに東側に巨石を落とし込んでいる。)
予想以上の大土木工事です(にもかかわらず、「予想を越えたものはあまりないんだね、・・・」と言って帰られた方もいらっしゃいました。これが予見できた人は神様ですよね・・・)。
(巨岩の上に被せられた黄色土層が築地の基盤層=土塁である。おそらく築地はこの上に掘り込み地業をして構築されていると思われるが、まだ確認できていない。後半の楽しみである。)
何でここまでして奈良時代に鈴鹿の関を築地塀で囲繞したのだろうか?新たな課題ができました。
(築地南側の崩落状況)
ちょうど大問題が解決した頃、亀山市史の古代・中世部会の先生方の現地見学がありました。委員の中に旧知の方がいらっしゃって少しこの遺跡を巡って話をすることができました。京都大学大学院博士課程(学振)のSさんです。
「山中さん、これを造ったのは聖武天皇ではないかと思うんですが、どうですか?」実に単刀直入なご意見に少々驚きながら、
「私もそう思います。」
「伊勢行幸の時ですね。」
「造伊勢行宮使が造ったのか、行幸が終わってから整備したのか、その微妙な時期差はまだ分かりませんが、そうでしょうね」
「これだけのものを造るのだから、聖武の行幸は相当準備をしていたものではないかと思うのですが」
修士課程の頃からよく知っているのでズバッズバッと意見が飛んでくる。
「イヤー、うれしい!私もそう考えているんです!」
市史で研究が進んでいるいるだけにありがたい指摘を次々としてくださって、久しぶりに意気投合してしまった。
築地を囲繞施設に用いると言うことは、防御機能よりも装飾性を重視した結果だと思うのですが、それにしてはずいぶんと大規模な土木工事をやっている。もし聖武の時に築造したものでよいとすると、発見された築地は相当明確な意図を持って築造されたことになります。
(北西方向に延びる築地。このように南にはかなり激しく傾斜している。今も水の流れる道ができている。これをどう防いだのかも面白い問題である。)
三関の整備!次なる研究課題の出現です。
発掘調査の第1クールは28日で終わり、昨日から大学に戻り、集中講義を学生と共に楽しんでいます。
「GISによる遺跡空間情報データーベースの構築」という実に実践的な講義を立命館大学文学部の河角龍典先生にやっていただいています(同じタツノリでも何処かの監督とえらい違う!?)。ArcMapソフトを用いた講義なのですが、早速昨日は鈴鹿関や久留倍遺跡、鬼が塩屋遺跡などといった三重大学が関係した遺跡に航空写真を貼り付ける実習をし、学生達の歓声が何度も響いていました。もちろん私も!(学生曰く「先生がマウスを独占して離さないんです!」)集中講義報告はまた機会を改めて。間もなく二日目の講義が、昨夜の懇親会で二日酔いの学生も含めて始まります。乞うご期待!!
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(北辺築地の続き。手前のところが北へ延びる北西築地との交点で、ここが崩れたので調査している。)
(雨でもずぶ濡れになりながら調査を続けた。学生達も真剣な目になってきたかな・・・)
3人(亀山市教委のMさん、Kさんと私)でアーでもない、コーでもないと半日近く壁を見ながら土層の解釈に努めました。やはり発掘調査は複数の目でやるべきですね。もちろん誰もが冷静に、正確に層序を確認しようとしているのですが、誰もがそれぞれの「思い」も抱きながら地層を見ます。中・近世研究の立場の人、古代史の情報に長けている人、地域情報に優れている人等々、地層に自分の情報を重ね、情報に合う地層の変化を一つも見落とすまいとガリをかけ、遠目から眺め、上に行ったり下に行ったり、どの線が一番合理的なのか、いろいろなシュミレーションを脳裏に描きながら、おそらく3人の脳裏には現場の地層をそらんじることができるくらい焼き付いているに違いありません。その日の最後に意見交換をした
結論!!
奈良時代に鈴鹿関「構築」のために大土木工事が行われた!
驚きました。以前から問題にしていた最下段の地層には白色の地山層が確認できます。この上にもう一層、小石混じりの非常に締まった土層が東側に残っています。何故東側だけかというと、東から2mほどのところで例の大石を含む層によって大きく削り取られているからなのです。次の断面写真がもっともわかりやすいと思います。
(大きな石を含む層が地山面の一つであろうと思われる小石混じりの層の上に堆積している。)
そしてこれまた以前から問題になっていた中段の地層に認められる大石を含む層と連続する可能性が高まってきたのです。つまりこの大石を含む層は調査地の北西方向から南東方向に厚さ3m近くに渡って堆積しているのです。これが自然なのか人工的なのか、結論は出せずにいました。しかし、先の瓦の堆積がこれを人工のものだと教えてくれました。
現地を見ていただくとよく分かるのですが(南側に国民宿舎へ至る道路が1967年頃造られたために斜面が寸断されていますが)、築地はこの山塊の西に下る斜面と南に落ちる斜面の傾斜変換点の上に設けられているように見えます。但し現在発掘調査中の南斜面上に設けられた北辺築地下には、小さな谷地形があったようなのです。これを埋めて造成しないことにはまっすぐな築地は設けられません。そこで西側から少しずつ谷を埋めていったのです。その始まりはまだ最終確認できていないのですが、小さな平場に始まって少しずつ埋めていったようです。その過程で(おそらく現地に既に運び込まれていた瓦の破損品がゴミとして埋められたのではないかと仮定しているのですが)、例の瓦堆積が形成されるのです。当初は堀状の遺構に瓦が堆積しているのかと考えましたが、どう見てもそのような立ち上がりが反対側に認められないのです。西から東へ斜め方向に①古代瓦、②人頭大の石を含む黄色の層、③60cmもある大石を含むオレンジ色の地層が堆積しているのです。つまり大石を含む地層は①の古代瓦より後に堆積しているのです。さらに④大石を含む地層の上部を覆うようにして、きれいな黄色の地層が幅5m前後、厚さ数10cmに渡って形成され、⑤その上に築地が構築され、その後④の黄色土の上に⑥崩落した築地の土や瓦が堆積しているのです。
なかなか文字で説明するのは難しいので、よくおわかりいただけないかもしれません。是非現場でたくさんの目でご確認下さい。もちろんまた違ったご意見もあるかもしれません。是非ご教示下さい。
(西端から徐々に造成し、途中で瓦を廃棄し、さらに人頭大の石を放り込んでいる。この後さらに東側に巨石を落とし込んでいる。)
予想以上の大土木工事です(にもかかわらず、「予想を越えたものはあまりないんだね、・・・」と言って帰られた方もいらっしゃいました。これが予見できた人は神様ですよね・・・)。
(巨岩の上に被せられた黄色土層が築地の基盤層=土塁である。おそらく築地はこの上に掘り込み地業をして構築されていると思われるが、まだ確認できていない。後半の楽しみである。)
何でここまでして奈良時代に鈴鹿の関を築地塀で囲繞したのだろうか?新たな課題ができました。
(築地南側の崩落状況)
ちょうど大問題が解決した頃、亀山市史の古代・中世部会の先生方の現地見学がありました。委員の中に旧知の方がいらっしゃって少しこの遺跡を巡って話をすることができました。京都大学大学院博士課程(学振)のSさんです。
「山中さん、これを造ったのは聖武天皇ではないかと思うんですが、どうですか?」実に単刀直入なご意見に少々驚きながら、
「私もそう思います。」
「伊勢行幸の時ですね。」
「造伊勢行宮使が造ったのか、行幸が終わってから整備したのか、その微妙な時期差はまだ分かりませんが、そうでしょうね」
「これだけのものを造るのだから、聖武の行幸は相当準備をしていたものではないかと思うのですが」
修士課程の頃からよく知っているのでズバッズバッと意見が飛んでくる。
「イヤー、うれしい!私もそう考えているんです!」
市史で研究が進んでいるいるだけにありがたい指摘を次々としてくださって、久しぶりに意気投合してしまった。
築地を囲繞施設に用いると言うことは、防御機能よりも装飾性を重視した結果だと思うのですが、それにしてはずいぶんと大規模な土木工事をやっている。もし聖武の時に築造したものでよいとすると、発見された築地は相当明確な意図を持って築造されたことになります。
(北西方向に延びる築地。このように南にはかなり激しく傾斜している。今も水の流れる道ができている。これをどう防いだのかも面白い問題である。)
三関の整備!次なる研究課題の出現です。
発掘調査の第1クールは28日で終わり、昨日から大学に戻り、集中講義を学生と共に楽しんでいます。
「GISによる遺跡空間情報データーベースの構築」という実に実践的な講義を立命館大学文学部の河角龍典先生にやっていただいています(同じタツノリでも何処かの監督とえらい違う!?)。ArcMapソフトを用いた講義なのですが、早速昨日は鈴鹿関や久留倍遺跡、鬼が塩屋遺跡などといった三重大学が関係した遺跡に航空写真を貼り付ける実習をし、学生達の歓声が何度も響いていました。もちろん私も!(学生曰く「先生がマウスを独占して離さないんです!」)集中講義報告はまた機会を改めて。間もなく二日目の講義が、昨夜の懇親会で二日酔いの学生も含めて始まります。乞うご期待!!
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