yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

トルコ踏査ー7 今夜23時の飛行機で帰りますの条

2011-08-31 13:38:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 まだトルコ踏査の記録は続くのですが、現地で書けるのはこれが最後。

 本日23時の飛行機で帰ります。もっとも噂では到着の1日には関西に台風が襲来するとか。果たして関空に降りられるかどうか。

 さて、旅の方はイズニックを見学後、再びブルサへ移動。ブルサでは楽しい、リラックスした旅をした人もいたとか?!我々が泊まった方は極めて真面目!!ホテル前のみにコンビニで1缶3リラのビールを買ってお休み。

 翌23日はブルサ市内を見学後、イスタンブールへ移動。ところがこの短い時間で事件が。ほとんど残っていないといわれたブルサの城壁見学中に、迷子になってしまったのである。城壁はたった50mほどしか残っていないので油断したのである。その前にも少し伏線が、タクシーに置いた荷物から物を取り出そうとして少し遅れ、これが情報不足に繋がり、皆さんの行動を頭に入れることができなかったのである。

 写真(今回はビデオを持っていったので両方撮らないといけないからどうしても皆さんからは遅れがちになる)を撮っていてフト目をやると目の前にいたはずの集団が消えているのである。

 「エエッツ!!」

 「どこ??どこ??」

城壁には修復時に付けた階段がある。これを上がったのだろうか?それとも別の方向に行ったのだろうか?階段の上には城壁の上から覗ける空間が見える。ところがそこには人影が見えない。きっと先へ進んだのだろう!と考えた。これがいけなかったのである。行けども行けども誰もいない!!もう一度城壁に戻るがやはりいない!!

 ひょっとすると目の前にモスクがあるから、これに行ったのでは!

 ところがこの前の道が大交通量!なかなか渡れない。やっとの思いで着いたモスクがこれまた巨大なモスク。

 「こりゃ探せんわ!!」

 やむなくもう一度城壁に戻ることに。きっと今頃大騒ぎになって探しているだろうから、元に戻れば探しに来てくれるに違いない。

 この推測が大当たり!!いつものようにY大学のU教授が見つけてくれた。一時はどうしたらイスタンブールへ帰れるか、そこまで考えた迷子事件はこうして無事解決。皆さんには本当にご迷惑をお掛け致しました。

 ごめんなさい!!

 と言うわけで少し時間をとらせてしまったが、何とか予定通りの行動をとって、タクシーで港へ。そしてややこしい乗り継ぎをしてなんとかイスタンブールへ着いた。

 イスタンブールで二日間はもう一度考古博物館やら周辺の寺院やらを見学して25日には首都アンカラへ。

 アンカラは人工都市だから大して伝統的な物はない!!と言うことだったのだが、流石に首都の博物館だけあって、全国からいい物が集められていた。おまけにその裏山には城壁があるという。修復が激しくほとんど旧情が判らないのだが、ひょっとしたらそれなりの物かも知れないらしい。

 翌26日にはアンカラからタクシーでヒッタイトの首都の置かれたボアズカレへ。この地のハットウーサ遺跡に圧倒される。これについては写真付きで帰国後に詳報します。請うご期待!!

 27日はボアズカレからセルジュク朝の首都コンヤへ移動。

 途中中近東文化センターの大村氏の発掘されているカマン遺跡を見学。これまた見応えのあるとても精度の高い遺跡調査で、感動!!附属博物館の様子なども含めてこれも帰国後に!!

 コンヤでモスクを少し見た後翌日カイセリへ。

 カイセリは予想以上に遺跡が充実していた上に、今回の段取りをして下さったK大学のI教授のご友人が案内して下さるというので、タクシーも使わず、とてもリーズナブルに、かつ、自由に行動できた。

 特に市内にあるキュルテペ遺跡とローマからセルジュク朝までの城壁には大感動!!

 これまた写真入りで帰国後に。

 そんなこんなで、29日にイスタンブ-ルへ戻り、もう一度見落としていた遺跡やモスク等々を見学。アヤソフィアの雄大さに圧倒される。

 今日は飛行機までの時間を活かしてもう一度トプカプへ。

 台風の影響がなければ1日の夕方には帰国できるはずなのだが・・・。

 あ、言い忘れ。本を買いすぎて、お土産はほとんど買っていません。請う非ご期待!!(笑)

 ではこれから最後のトプカプへ行ってきま~~~す。とにかくトルコはとってもいい国ですよ。

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 秋風に 吹かれてトプカプ 栄華の跡
 
 城壁を 訪うヤポンに 虫の声

 マルマラに 波湧き起こして 海峡へ

 ガラタ橋 渡る電車に 秋風が

 




トルコ踏査ー6 イズニットのローマ都市を歩くの条

2011-08-29 13:34:28 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 ベルガマはイズミールから直線距離にして車で3時間余りの所なのだが、なぜか遠回りの海岸コースで入った。アクロポリスの壮観さは昨日お伝えした通りだが、もう一度訪れてみたい遺跡の一つとなった。

 翌日ベルガマから車でブルサへ移動。ブルサからイズニットの古代都市を見学することとなった。

 東西南北の十字街を核としたローマ時代にまで遡る計画都市で、その周りは約四キロの城壁で囲われていた。城壁は高さ八メートル,幅五メートルほどあり、途中から上を歩くことができた。但し、悪ガキ??がついてきて「マネーマネー」とうるさく、イヤになった。

 東西南北に門が残り、特に南・東門はよくせいびされているのだが、その分どこまでがどの時代のものなのかわからない点が問題であった。基底部に大きな石を用いている点からすると、この部分がローマ時代のもので、上の煉瓦を用いた部分はその後の再利用なのかも知れない。それにしても、城壁の上を歩くというのだから、その規模、構造のしっかりしていることがよく判る。

 城壁の上歩きは東門で終わった。ここには水道橋が門外から接続されており、城壁をくぐって市中に導かれている。町の西側には円形劇場が残されているが、これは他の遺跡の様に完全に修復されていないので、その構築方法がよく判る状態だった。どこかに風呂もあるはずなのだが、残念ながら訪れることはできなかった。

 その後昼飯なのだが、何せこの旅行中はラマダン中。田舎に行くと昼ご飯の食べられるところを探すのにも一苦労である。市中には博物館もあるのだが、残念ながら月曜の休館日ということで見学できず、やむなくブルサへとって返すことに。

 ブルサではオスマントルコ時代のサルタンの墓や複合施設を見学することに。

 ブルサは温泉の有名なところなのだが、トルコという所は意外と物価が高く、有料の温泉に入ることは諦めてホテルで安いビールで雑談。但し、別ホテルに泊まった連中は「いい思い」をしたとか・・・。

 翌日は再びイスタンブールへ移動のためタクシーで船着き場へ。しかし、予定の船がなく、一旦船で北上して、電車で別の船着き場へ移動するというなかなか楽しい?!旅をしながら、7時過ぎにイスタンブールのホテルの戻った。

 イスタンブールでの二日間は少しゆっくりしようということで、廻りきれなかった考古博物館巡りと、ボスポラス海峡を船で巡ることに。

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トルコ踏査ー5 イズニットーベルガマへ移動の条

2011-08-26 14:51:51 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 20日は移動日でした。
 朝5時起きで、飛行機でイズミールへ。イズミールからバスで7時間、ベルガマへ移動する。当初バスで3時間程度の旅だと聞いていたのだが、どうもバスが遠回りのコースだったらしく、倍以上の時間がかかってしまった。

 但しその分エーゲ海沿いの海辺の光景をビデオに収めることができたし、車中ではイスタンブールに向かう親子と知り合いになり、3歳くらいの女の子が「ABC」の歌を歌ってくれたりと、それなりの時間を潰しながらの旅でもあった。

 ベルガマについて、さらにタクシーでホテルへ。この日はホテルが少ないために二班に分かれてホテルへ。我々のホテルの直ぐ近くにあるのが「アクロポリス遺跡」

 着替えを済ませて直ぐに200m程上の山頂にある遺跡までタクシーでのぼる。途中対向車で止まったタクシーがエンストする羽目に。急な坂道での坂道発進に運転手が右往左往。「坂道発進!!坂道発進!!」と騒ぎ立てた昔を思い出す!!

 山頂のアクロポリスは想像以上に広大な遺跡であった。急な斜面を利用した円形劇場を核にして、山頂部には大理石の石柱群からなる神殿群が。さらにその周辺には図書館や各種倉庫群が林立している。我々は行くことができなかったが、周辺部にはさらにたくさんの神殿群のあることが知られる。また来たいな!と思ったが、急な山頂部に石材が散乱し歩きにくいことこの上ない。きっと5年後の私では無理だろうな、と諦める。

 帰りはケーブルに乗って下まで降りる。このゴンドラの中での景色がまた絶景であった。

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 翌日朝早く起きて麓の遺跡を廻りさらにタクシーでブルサへ.ブルサからタクシーでイズニットへ。この続きは明日。

トルコ踏査ー4 トプカプ宮殿を堪能するの条

2011-08-25 22:22:22 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 19日は丸一日、トプカプ宮殿とその一角に附属する考古博物館見学であった。

 トプカプ宮殿は元々東ローマ帝国の都であったコンスタンチノープルの中枢施設であった。オスマントルコ、メフメトⅡ世による攻撃により、破壊されたのだが、後に修復され、オスマン朝の宮殿として再建されたのである。

 宮殿の西側にはハーレムが付随し、かつてのスルタン達の日常生活の一端を垣間見ることができる。

 宮殿は比較的こじんまりとしており、予想以上に小さいことに驚かされた。ただ、オスマントルコに入ってきた様々な陶磁器の展示室が閉館中で見学できなかったことは残念であった。

 特に目を見張ったのがブルーを基調にした陶板で飾られた各部屋であった。宮殿のみならず、ハーレムもまたブルーが基調であった。これもまたいずれ帰国後にスライドショーでご紹介したい。

 ブルーの陶板で飾られた部屋が海辺に沿って展開し、その先にボスポラス海峡を望むシチュエーションは最高であった。

 この後、考古博物館に行って驚いたことは、レバノンシドンの石棺や彫像群が展示されていたことだ。特に「アレキサンダー大王の石棺」とされるものは他を圧倒する優美なものであった。なぜシドンでこれが製作されたのか、興味は尽きないところだ。アレキサンダー大王がTYREを攻略した後に造らせたものなのだろうか。

 考古博物館の資料群の多さにも驚かされた。半日では廻りきれず、24日に再訪することになった。

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トルコ踏査-3 城壁と水道橋を満喫しましたの条

2011-08-23 01:04:47 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 18日は朝からテオドシウスの城壁を探索した。
 ローマ・ビザンツ時代には鉄壁の防御を誇り、1453年トルコのメフメト2世がこの街を陥落させるまでその偉容を保っていた。この城壁を東の端から西の端まで踏破した。

城壁は金角湾の南に位置する旧市街の東半分を囲繞しているが、主にマルマラ海に面する北側の城壁と西側で東西を分割する城壁を見学した。
 イタリアでもそうだが、いずれも城壁は相当部分が修復されている。ところがこの修復がいつの時代のものを基準にしてなされているのかがよく判らないのである。

 例えば著名なメフメトⅡ世がコンスタンチノープルを陥落させた攻撃時の突破口となった城門も、どう見ても時期の違う煉瓦の積み方が認められるのだが、それがなぜ今の復元になったのかが明示されていないのである。ただ、10m近い城壁が1km以上にわたって続く光景は壮観だった。

 今はまだ現地にいるので、写真をアップする時間がないが、いずれスライドショウでこの偉容をご紹介することにする。

 今回のトルコ訪問で常に思っていたことなのだが、町がとてもきれいなのである。この城壁もある一角にホームレスの人々がたまっているのを除けばゴミ一つ落ちていないのである。草もほとんど生えておらず、とてもよく管理されているのである。とにかく街中に掃除する人々がたくさんいるのである。そしてその人々がとても活き活きと仕事をしているのである。これは東アジアの大国中国とは全く異なる状況である。おそらく、こうした仕事に誇りを持ってなさっているのだと思う。そして国民一人一人がとにかくよく掃除をするのである。

 
 こうした感慨を抱きながら、次なる遺跡、ローマ時代の水道橋の見学に移った。後で知ったのだが、この水道橋を通過する道路をそのまま北へ進むと金角湾にかかる「新ガラタ橋」に至るらしい。

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トルコ探査-2 イスタンブールに着きましたの条

2011-08-18 05:51:52 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 16日夜遅い22時30分の飛行機に乗り、17日の朝4時40分にトルコへ着きました。気温24度の清々しい朝でしたが、やはりそれなりのトラブルはつきもの、予定の車との連絡がうまくいかず、1時間ほど空港の喫茶店でコーヒーを飲むことに。僕にとってはとてもラッキーなことでした。

 やっと車の運転手と会ったと思ったら、今度は車が小さすぎてまた30分ほど待つことに。

 7時過ぎにホテルに着いたが、チェックインまでにはまだ5時間ばかりあり、しばらくホテル周辺の遺跡を見て廻ることに。

 ナナナント、ホテルはトプカプ宮殿の直ぐ近くにあることが判明。明日18日は早起きして宮殿巡りをすることに。

 直ぐ近くが「BlueMosk」と呼ばれるイスタンブール一の美しい教会であることがわかり、これを見学。

 その後現地留学している京都大学西南アジア講座のIさんに案内いただきながら本屋により関係書籍を購入。その前に換金した。1トルコリラが約45円だった。
 
 ブルーモスクの見学時に知ったことなのだが、教会の直ぐ横にビザンチン時代のヒッポロドームがあることが判った。エジプトから運んだオベリスクの巨岩も聳え立ち、不思議な光景であった。

 その後歴代スルタンの廟を見学してホテルに帰り、昼寝!!

 夕方集まったホテル屋上からの景色が絶景。マルマタ海が直ぐ目の前に広がり、左手奥にはボスポラス海峡がある、その歴史的な光景を今も大型船や小型船が行き交う。

 ああこここそ東西文化の十字路なんだなということを実感した瞬間だった。

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 眠いのでこれで寝ます。お休みなさい!!

久留倍遺跡が郡衙だという根拠が判らないの条

2011-08-17 17:17:17 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 私がもう10年近くその保存と活用について取り組んできている久留倍官衙遺跡。その史跡指定地の買収が完了し、本年度から整備に向けての取組が始まった。

 長年の関わりがあったためなのか、私も整備のための委員会の末席を汚すこととなった。整備の完成はまだ数年後だというのにえらく急いでいる。そしてここに来て不思議な論調が目立ってきたのである。

 久留倍遺跡は7世紀後半?頃から、大きくみて3期の時期変遷を経て9世紀後半に古代の活動を終えることが知られている。
 Ⅰ期 八世紀前半から中頃(この前7世紀後半をプレⅠ期というらしい)
 Ⅱ期 8世紀中頃から後半
 Ⅲ期 8世紀後半から9世紀後半

 始まりが7世紀後半というのも最近になって知らされた事実なのだが、市教委はさかんにこれを主張している。報告書を製作中というから、その検討の中でこの様な判断が下されているのかも知れない。それならそれでその根拠となる資料全てを提示してくれればいいのだが、なぜか私達委員にも一部しか示されることがない。そもそもこの様な評価は報告書を作って、きちんと事実関係を明らかにしてから議論すべきものであって、それもない間から、一部の資料を出してきて、「俺たちはこれを○○だから信じろ!!」というのは余りに傲慢ではないのだろうか。そんなことなら専門家を集めて委員会なんか作らなければいい。私達は、市教委の解釈の承認のために集められたのであろうか。

 にもかかわらず、さらに不思議なのは、この時期の施設が評衙であり、それが引き続き郡衙になるというのである。

 評衙とは評の役所のことである。評(こおり)は鎌田元一氏の研究によれば、649年に全国一斉に設置された行政単位をさす。8世紀に入り、大宝律令が制定されると、評は郡と名を変えて地方支配の核となる。その評の役所(支配拠点)が久留倍遺跡であるというのである。

 近年の発掘調査の進展で評衙跡も相当数発見されるようになってきている。残念ながら伊勢国13郡、伊賀国4郡、志摩国2郡とされる三重県の古代郡の前身である評については今のところ一件も発見されていないとされている(私は朝明評は既にその一部が発見されていると思っている)。

 ところが、その明確な根拠も示されることなく、久留倍遺跡の第Ⅰ期の施設の前にまとまりがあり、これが評衙だというのである。驚いてしまった。もっと驚いたのはこれを委員会の短い検討で承認しろというのである。我々はお墨付きを与える御用学者なのだろうか。

 評衙説の唯一の根拠が、遺跡の東北部から発見された建物群の中に、Ⅰ期と方位をわすかに異にする一群があり、これを評衙(またはプレ郡衙)の施設だというのである。
 評衙についてはまだ数も少なく、明確なモデルがあるわけではないが、しかし、発見されている事例では多くが、後世の官衙施設同様「コ」字形配置をとり、周囲と隔絶するための囲繞施設を持ち、複数の倉庫群を伴う事例が多い。

 そんなものが久留倍遺跡Ⅰ期遺構群の前にあっただろうか?

 第一の大きな疑問である。

 さらによく判らないのが、第Ⅰ期になるとこの評衙が丘の最頂部に移動し、郡衙となるというのである。確かにこの建物群は庇付きの建物の前面両側に脇殿があり、これらが塀で取り囲まれて正面には門(八脚門)がある。これだけ聞けば郡衙!!と思うのはその通りである。ところがこれは発掘調査当初から知られたことなのだが、なぜか東を向いているのである。東を向く郡衙??

 郡衙はこれまでに相当数発見されている。しかし事例多しと言えども、南面しない郡衙はほとんど知られていない。皆無といってもいいくらいだ。それが「朝明郡衙」だけは例外的に東を向いてもいいのだという。なぜ?

 近年市町村に多くの発掘調査担当者が置かれ、遺跡の調査が毎年2万件以上実施され、新たな資料が次々と発見されている。にもかかわらずその概報ですら直ぐには刊行されないし、されても市町村のものなど入手不可能である。さらに信じられないことに、会計検査院の指摘で、県単位の報告書も大学には配るなといっているらしい。これでは遺跡の破壊と同じである。会計検査院の調査官に報告書の意味を十分に伝えられないからこんな事態が引き起こされているのではなかろうか。

 文献史学、とりわけ古代の歴史学では考えられないことである。文献史学で仮に新しい史料が発見されたなら、人々はその正確な史料を競って求め、共通の史料を得た時点で一斉に研究を開始するのである。史料発見者も、できるだけ早く正確な翻刻を世に出そうと努力するのである。その典型が木簡であろう。平城京・藤原京から次々出土する木簡群は毎年奈良文化財研究所で釈読が進められ、直ちに木簡概報が刊行され、木簡学会で研究者に公開される。常に最新情報を共有できる体制ができあがっているのである。

 ところが、発掘調査資料はそうではないのである。

 さらに問題なのは、今回のように情報が公開されないまま調査担当者の個人的解釈が一人歩きし、場合によっては「お墨付き」を得て流布するのである。

 だから、私は市教委のいう郡衙説に抵抗している。もちろん、公開された資料を基に、個人が研究し、何説を唱えようがそれは自由である。イヤ、むしろ自由に議論されるべきである。大学の先生がいうことが正しくて、行政の担当者が間違っているわけでもない。むしろその逆の方が多いかも知れない。だから遠慮せずに批判、反批判を繰り返せばいいのである。これこそ「学問自由」なのである。

 報告書において発掘調査担当者が調査した遺構群をどの様に評価するか、これを記すことも必要不可欠なことである。どんどん根拠をあげて述べばいい。しかし、それを委員に押しつけるのはいかがなものであろうか。ましてや遺構の表示にもその解釈を要求するとなると、これは

「ちょっと待った!!」

である。行政的に責任ある立場に選ばれた以上、慎重に評価をし、議論を尽くして、整備に活かされなければならない。もちろん、私の持論を押しつける気もない。そんなものは正々堂々と論文で主張し、闘えばいいことなのだから。

 既に私は今回の考古学研究会東海例会でもそのレジュメ集で、久留倍遺跡が朝明駅家であると論述している。その根拠も、古代駅家の駅館院の構造を比較検討して指摘したつもりである。特に強調しているのは、古代官衙において南面しない施設が駅家であるという事実である。もちろん、正報告書も出されていない遺構の評価を慌てる必要はないのだが、市教委のこうした主張が余りに先行しているので、「久留倍遺跡=朝明駅家説もあるのですよ!」と一本釘を刺すために書いたものではある。

 古代駅家の駅館院の事例はまだまだ少ない。しかし、8世紀の官衙的遺跡の中心建物が軒並み南面する中で、その遺跡の立地に合わせてあちこちを向く施設は駅家以外にないのである。
 久留倍遺跡はこれまで郡衙説が余りに先行する故、ほとんど駅家説は出されてこなかった。しかし、よくよく分析してみると、朝明郡には河曲駅家と榎撫駅家との間に朝明駅家が所在した可能性が極めて強い。距離的にも河曲駅家推定地の狐塚遺跡から約15km、次の榎撫駅家と推定される柚井遺跡とも15km、とてもいい位置に久留倍遺跡はあるのである。久留倍遺跡が朝明駅家でよければ、私が分類する律令型、つまり、『律令』賦役令の既定30里に一駅を置くという規定通りに設けられた駅家であるということだ。

 もしこれ以外の地に朝明駅家を想定するとすると一体どこにするのであろうか。これも久留倍遺跡=朝明駅家の大きな根拠でもある。

 もちろん、まだきちんとした「朝明駅家論」を書いたわけではないのでえらそうなことは言えないが、「朝明郡衙(評衙)論」もないのだから、結論を急ぐ必要はない!!と言うのが私の今の思いなのだ。

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 そんな嫌な思いも忘れて、トルコに行ってきます。ではまた、帰国後に。

トルコ探査-1調査予定の条

2011-08-16 23:23:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 以下の様な日程でトルコの都市遺跡を踏査してきます。

 8.16 22:30 TK047 関空発 イスタンブール (トルコ)着 5:35
 
 8.17~20 イスタンブール市内とトプカプ宮殿博物館・アヤソフィア博物館など・・ローマ・ビザンツ帝国・オスマン朝都市遺跡の踏査  

 8.20 イスタンブール(トルコ) 9:00 TK2316便 イズミール(トルコ)10:05:00 イズミール(トルコ)発セルチュク(トルコ)着
 エフェス遺跡1ローマ期都市遺跡の踏査

 8.21 セルチュク(トルコ)発ペルガマ(トルコ)着 ペルガマ遺跡1 ヘレニズム・ローマ期都市遺跡の踏査

 8.22ペルガマ(トルコ)発 ブルサ(トルコ)イズニク遺跡ビザンツ帝国・初期オスマン朝都市遺跡の踏査

 8.24 ブルサ(トルコ)発イスタンブール(トルコ)着ブルサ遺跡 初期オスマン朝首都遺跡の踏査

 8.25 イスタンブール(トルコ)発 09:00 TK2134 アンカラ(トルコ)着10:05:00
 アンカラ市内・ハトゥーサ遺跡 オスマン朝都市遺跡・ヒッタイト帝国首都遺跡の踏査

 8.27 アンカラ(トルコ)コンヤ(トルコ)着 カマン遺跡  
 ローマ期都市遺跡の踏査

 8.28 コンヤ(トルコ)カイセリ(トルコ)着 コンヤ遺跡・カイセリ遺跡・キュルテペ遺跡セルジュク朝首都遺跡・同軍事商業都市遺跡・アッシリア植民都市遺跡の踏査

 8.29カイセリ(トルコ)発16:25 TK2015便 イスタンブール(トルコ)着17:55:00 イスタンブール市内   
 補足調査と資料収集

 8.31イスタンブール(トルコ)発23:50 TK046便
 9.1 泉佐野(日本)着16:55:00


相変わらず何の準備もしてません。トルコの通貨って何だっけ?ユーロは使えるのかな??

なーんにも知らない私です。

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 ローマレポートも残ったままなのですが、またレポートしますね。
 
 バイバイ!

平城宮「羅城門」を見るの条

2011-08-12 18:20:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 現場の合間を縫ってお誘い頂いた平城京羅城門跡の発掘調査現場を急遽見学した。

 調査は橿原考古学研究所が実施しており、40年程前に奈良文化財研究所が発掘調査した地点も重なって掘られている。



 ほぼ40年前の調査地の全景(北から)



 今回の調査地(まだ遺構がようやく見えてきたところかな?)

 まだ始まったばかりなので、新しい事実は確認できていないらしいが、羅城門の西側に先の下三橋遺跡で発見された「羅城」が伸びるのか否か、調査可能地域が微妙で結論が得られるかどうかはっきりしないが、とても気になるところである。また、九条大路の側溝があるのかないのか、あるとしたら北側溝からどれくらい離れているのか、これも課題である。

 既に東西方向に伸びる側溝らしきものが見付かっているのだが、これをどう評価するか、深さ10センチ程度と、浅く、余り流れた形跡がないのが気になるところだ。

 もう一つ感じたことは、発掘調査というのは遺跡の破壊だ!と言うことだ。もちろん調査している本人はそんな気は毛頭ないのかも知れない。しかし、それが過信となって、掘りきってしまうと困ったことが起こることがままある。
 例えば、周辺の調査が進み、後世再点検が必要になった時、掘りきってしまうと堆積土壌などを確認しようがないのである。何らかの形で検証可能なものを残しておくことが不可欠であろう。

 今回も以前の調査で「羅城」が西へ延びるという想定の下、「羅城」に直行して南北に流れる「溝」を「暗渠」として報告しているのだが、畔が取っ払われているため土層が判らないのである。ほとんど垂直に掘り込まれている堀方は、確かに側溝などのような溝とは違う。もし断面が残されていれば、暗渠を構成する木枠などの痕跡も今の技術なら見分けられたかも知れない。

 そんなこんなで隔靴掻痒の嫌いはあるが、立っているのも辛い15時の現場を離れ、次なるところへ。



 この佐保川の中が羅城門。右手の土手の中に礎石が埋まっているらしい。

 大和郡山市が民間の開発に伴って、目的意識的に以前の下三橋遺跡の調査で見付かった「羅城」の延長上を調査しているのである。工事で破壊されないが、先の遺構の続きをみることのできるのはこの地しかないということで、市がお金を出して調査しているという。素晴らしい!!



 調査地(北から)

 同じ市でもどこかの県の市とは大違いである。調査員の目的意識、研究意欲の差としか考えられない。

 そして目的通り、「羅城」の続きは出てきたのである。但し、先の調査で見付かった南北両側の「溝」が、南しかないというのである。おまけに、「羅城」によって切られている3.5m間隔で東西走する溝が検出されているという。



 「羅城」の続きの柱跡が推定通り出てきた。

 発掘調査というのは、本当に、掘れば掘るほど判らなくなるのである。

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 考古学研究会東海例会レジュメ集好評発売中!

申込先
 三重大学考古学研究室
 〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 Tel/Fax 059-231-9148

 レジュメ集 A4版130頁 価格 1000円 郵送料1冊290円(切手可)2冊から3冊350円 それ以上は一律500円
 

 目次

 開催主旨
 1 谷重豊季(広島県府中市教育委員会)
  「近年の古代交通研究の動向と若干の展望」
 2 高島英之(群馬県教育委員会)
  「最新の調査成果からみた東山道・東海道と駅家」 
 3 林弘之(豊川市桜ヶ丘ミュージアム)
  「東海道参河国渡津駅家と二見道」
 4 山中 章(三重大学)
  「考古学からみた日本古代駅伝路設置の歴史的背景」
 5 江草由梨 (三重大学大学院)
  「東海道伊勢国志摩支路の再検討」 
 6 丸杉俊一郎(静岡県教育委員会)
  「東海道遠江国井通遺跡(引佐駅家)と古代交通」
 7 中里信之(長野県下伊那郡阿智村教育委員会)
  「長野県阿智村の東山道遺跡研究の現状-神坂越えの変遷を踏まえて-」


肉体的にも精神的にも疲れました!!の条

2011-08-11 21:10:10 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
7月末で試験が終わったかと思うと8月1日にはオープンキャンパス。8月3日には文学のシンポの裏方、8月6・7日は考古学研究会東海例会の主催、そして、8月8日から11日まで、急に飛び込んできた小さな発掘調査。

 特に最後の調査には肉体どころか、精神をすり減らしました。

 8月3日の文学のシンポは、それなりに人は集まったのですが、悲しいことに近代文学のゼミ生がほとんど来なかったとか。聞いていたのは大半が近世文学や歴史の学生とか。悲しいことです。 
 
 ようわかりません。

 ま、文学の話しはそれでもいいのですが、東海例会はとても少なかったのでがっかりしました。延べにしても60人余りという体たらく。

 それほど必死に宣伝しなかったのも悪いのかも知れませんが、関東や九州、広島から来て下さった方がいたのにちょっと寂しすぎました。

 内容はそれほど悪くはなかったと思うのですが、つい最近関東で古代交通研究会の大会があり、沢山の人が集まったので、皆さんお疲れだったのでしょうね。ま、委員をして頂いている人を除いて、あんまり研究会に顔を出しませんものね。きっとご自宅でご研究に励んでおられたのでしょう。いい論文が秋には出ることをお待ちする事にしましょう。

 レジュメ集はそれなりにまとまったのができたので、これだけでも買って下さると有り難くおもいます。以下の要領で販売していますので、三重大学考古学研究室(〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 Tel/Fax 059-231-9148)まで連絡・送金下さい。

 レジュメ集 A4版130頁 価格 1000円 郵送料1冊290円(切手可)2冊から3冊350円 それ以上は一律500円
 

 よろしくお願い致します。

 さて、一番疲れたのが大学校内で突然降って湧いた発掘調査。環境情報科学館とかいう施設が建つことになり、その試掘調査を三月末に地元市がやったのだが、「何もないので工事可!!」と許可をだした。

 しかし、8月3日から工事が始まるというので念のために私が大学の許可をもらって、立会をした。するとすぐに遺物包含層が見付かった!!

 やっぱり!!危惧していたことが現実になった。

 急遽工事を止めたのだが、既に許可済みのもの。私の方からは工事を止めて正式な調査を実施するように!!と、強くは主張できない。しかし、遺跡の「発見」でもあるのだから、この間の事情はさておき、地元市が強く行政指導すれば一定期間調査することは不可能ではないはずだ。しかし、大学の遺跡に全く興味がないのか、やる気がないのか、はたまた元々その力がないのか、全くよく判らないのだが、試掘担当者は「ハア、ハア、」とうなるばかり。前回のことを聞いても「ハア!?」。このお方、本当に発掘調査のできる方なんだろうか?と疑いたくなった。

 何とか二日間だけの猶予をもらったのだが、担当者は掘りもしないし、断面観察もしない、図面を書くそぶりもないし、そもそもがどのように発掘調査するかという方針も持ち合わせていない。

 仕方がないから、
 「たった3mの調査区なので、敷地を9等分して、その土の中の遺物を丹念に確認しつつ、土を全部持って帰る!」
と言うと、「そんなことはできない!」とぬかす。

 私達は前回2003年の調査でその様にして調査し、様々な情報を入手した。同じ遺跡の同じ地層の掘削を緊急の調査だといって手抜きにはできない!」と言うと渋々合意された。

 結局そのとばっちりが我が研究室に降ってきたのである。出てくる遺物は全部トータルステーションで位置を落とし、3次元情報を入れた。その結果予想外に多くの遺物が出土し、古墳時代初頭から中世に至る遺存状態のいい遺物を入手することができた。

 8年前、三重大学に遺跡があることを確認した時も実は同じような状況だった。違うのは、間に地元市教育委員会が入っていることだ。なぜ?大学が独立行政法人になり、指導の対象が所在する市となったからである。国立大学なら当然法律は守るだろうから、法に従って、粛々と発掘調査を進めなさいということだ。この場合、一般的には国の事業は県が担当する。しかし、大学には考古学の研究室がある場合がある。その場合にはまず研究室と協議し、発掘調査が可能なら大学が行うことになる。もちろん専属の発掘調査機関を持っているところもある。

 前回は私が直接大学当局と交渉し、日程や経費、発掘の方法を決めた。ところが今回は市が指導するのである。三重県というところは調査指導がとても事業者に優しくて(遅れていて?!)、まず調査するかしないかを小さな試掘坑を複数箇所開けて決めるのである。その結果何かあればその範囲について調査するというのである。もちろん全国どこでもだいたいそうなのだが、この試掘坑というのが曲者で、数も場所も担当者任せである。特に基準があるとも思えない。

 小さな試掘坑の場合や、今回のように試掘の深さが足りなかった場合、多くが見落とされるのである。

 なぜ試掘坑を大きくしないのか?とてもとても不思議なのである。業者に余りに配慮した指導方針ではないかと勘ぐりたくなる。これだから、市がその上を行くことはまずない(とはいっても市がその気になればなんぼでもこの方針は覆せるのであるが・・・)。

 本当にもどかしいのである。

 最近強く思うことはこうした学術的な内容を行政という権力に任せておいていいのだろうか?という疑問である。

 今回のように、調査担当者の能力に疑問符が付くという問題もあるのだが、それ以上に問題なのが、情報が権力によって隠されることだ。ある特定の政治的配慮でもって資料の公開、非公開が決められるという問題である。これは明らかに学問の世界ではあってはならない措置である。こうした政治的配慮をする行政家に限って、専門的能力に欠けるのである。

 論文の書き方も知らない者が論文を気取って、文章を書き、専門家気取りで権力を振り回す。とても悲しい、しかし許し難い事態が日常茶飯事で起こっているのである。この原因は、行政という権力機構が学問・研究という分野を担っているという点にあると思う。権力者が調査内容に介入し、情報公開の可否を握るのである。自ずと情報をいち早く、大量に入手し、研究に活かすことのできる者とそうでない者が生まれる。行政という公金を使用して調査しながら、その情報が公平に公開されないのである。

 とにかく、炎天下での四日間は堪えた!!

 成果は以下の新聞の通りだが、たった3m四方の調査である。全容はまだまだ闇の中である。特に液状化を起こした地震がいつのものなのかは、さらに広範囲に調査を実施し、遺物を整理してみないと判らないのが事実であろう。

でもこれだけの成果が出せるのだから、全面発掘していればどれほど素晴らしい成果が上げられたことだろうか。それが悔しいのである。




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東海地方の駅家研究の最前線~東海道・東山道の駅家と駅路~の条

2011-08-03 03:20:24 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 訂正!
 先に考古学研究会東海例会の冊子につき予価1000円にて販売する旨お伝え致しましたが、最終頒価はまだ未定ですので訂正してお詫び申しあげます。
 ご予定頂きましたみなさまには深くお詫び申しあげます。決まり次第改めて御連絡申しあげます。
 

 第17回考古学研究会東海例会開催要項

テーマ  東海地方の駅家研究の最前線~東海道・東山道の駅家と駅路~


日時  

 2011年8月6日(土)・7日(日)

場所   三重大学共通教育一号館1階第120番教室

開催主旨
近年、情報伝達網の整備がすさまじい勢いで進んでいる。世界中の出来事が瞬時に伝えられ、時には体制を、経済を崩壊させることすらある。日本古代の律令国家においても迅速な情報伝達は緊急かつ重要な課題であったに違いない。その骨格をなすのが五畿七道による駅制の確立であった。では、古代情報伝達網はどの様にして形成され、運用されてきたのだろうか。これまで、歴史地理学や文献史学に負っていた駅路や駅家の研究は発掘調査によって新たな段階に達している。にも関わらず、考古学が提供する新たな情報が、必ずしも古代国家の情報伝達の意図を明らかにしているとは言い難い。そこで本研究会では、東海地方の東海道・東山道に焦点を当てて、最新の調査・研究成果から日本の古代国家が設置した情報伝達施設の立地や機能を分析することによって、情報伝達システムの構造や情報管理の意図を探ってみようと思う。

発表予定
8月6日(土) 
1 13:00  開催挨拶 代表 中井正幸
2 13:05  主旨説明 山中 章
3 13:20  研究報告① 谷重豊季(広島県府中市教育委員会)
「近年の古代交通研究の動向と若干の展望」
4 14:50  研究報告② 高島英之(群馬県教育委員会)
「最新の調査成果からみた坂東地域における東山・東海両道駅路と駅家」 
4 16:20  休憩
5 16:35  事例報告① 林弘之(豊川市桜ヶ丘ミュージアム)
「東海道参河国渡津駅家と二見道」
6 17:35  第1日総括討論「考古学と駅路・駅家」 司会 山中 章
6 18:05  第1日終了  
 8 18:20  情報交換会 三重大学第一生協二階「パセオ」 会費4000円

8月7日(日)
1 9:30  研究報告③ 山中 章(三重大学)
「考古学からみた日本古代駅伝路設置の歴史的背景」
2 11:00  事例報告② 江草由梨 (三重大学大学院)
「東海道伊勢国志摩支路の再検討」 
3 12:00  昼食
4 13:00  事例報告③ 丸杉俊一郎(静岡県教育委員会)
「東海道遠江国井通遺跡(引佐駅家)と古代交通」
5 14:00  事例報告④ 中里信之(長野県下伊那郡阿智村教育委員会)
「長野県阿智村の東山道遺跡研究の現状―神坂越えの変遷を踏まえて―」
6 15:00  第2日総括討論「古代官道の原形」司会  高島英之
7 15;30  閉会挨拶 次期開催地
8 15:35  終了

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再度の御案内・考古学研究会東海例会と伊勢湾・熊野地域研究センターシンポの条

2011-08-02 18:50:50 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 多数のご参加をお待ち申しております。

130頁の分厚いレジュメ集(冊子)もできあがりました。当日どうしてもご参加になれない方は冊子代金1000円(予価まだ決まっておりませんので決まり次第再度御連絡申しあげます。)と送料290円(切手にて)下記宛お送り下さい、後日お送り致します。

 〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 Tel/Fax 059-231-9148 三重大学人文学部考古学研究室宛

 その他詳細も上記へお問い合わせ下さい。



 この画像の上で右クリックすると「画像をコピー」という項目がでます。これをワードなどに貼り付けて、印刷してあちこちに貼って下さい!!


第17回考古学研究会東海例会開催要項

テーマ  東海地方の駅家研究の最前線~東海道・東山道の駅家と駅路~


日時  

 2011年8月6日(土)・7日(日)

場所   三重大学共通教育一号館1階第120番教室

開催主旨
近年、情報伝達網の整備がすさまじい勢いで進んでいる。世界中の出来事が瞬時に伝えられ、時には体制を、経済を崩壊させることすらある。日本古代の律令国家においても迅速な情報伝達は緊急かつ重要な課題であったに違いない。その骨格をなすのが五畿七道による駅制の確立であった。では、古代情報伝達網はどの様にして形成され、運用されてきたのだろうか。これまで、歴史地理学や文献史学に負っていた駅路や駅家の研究は発掘調査によって新たな段階に達している。にも関わらず、考古学が提供する新たな情報が、必ずしも古代国家の情報伝達の意図を明らかにしているとは言い難い。そこで本研究会では、東海地方の東海道・東山道に焦点を当てて、最新の調査・研究成果から日本の古代国家が設置した情報伝達施設の立地や機能を分析することによって、情報伝達システムの構造や情報管理の意図を探ってみようと思う。

発表予定
8月6日(土) 
1 13:00  開催挨拶 代表 中井正幸
2 13:05  主旨説明 山中 章
3 13:20  研究報告① 谷重豊季(広島県府中市教育委員会)
「近年の古代交通研究の動向と若干の展望」
4 14:50  研究報告② 高島英之(群馬県教育委員会)
「最新の調査成果からみた坂東地域における東山・東海両道駅路と駅家」 
4 16:20  休憩
5 16:35  事例報告① 林弘之(豊川市桜ヶ丘ミュージアム)
「東海道参河国渡津駅家と二見道」
6 17:35  第1日総括討論「考古学と駅路・駅家」 司会 山中 章
6 18:05  第1日終了  
 8 18:20  情報交換会 三重大学第一生協二階「パセオ」 会費4000円

8月7日(日)
1 9:30  研究報告③ 山中 章(三重大学)
「考古学からみた日本古代駅伝路設置の歴史的背景」
2 11:00  事例報告② 江草由梨 (三重大学大学院)
「東海道伊勢国志摩支路の再検討」 
3 12:00  昼食
4 13:00  事例報告③ 丸杉俊一郎(静岡県教育委員会)
「東海道遠江国井通遺跡(引佐駅家)と古代交通」
5 14:00  事例報告④ 中里信之(長野県下伊那郡阿智村教育委員会)
「長野県阿智村の東山道遺跡研究の現状―神坂越えの変遷を踏まえて―」
6 15:00  第2日総括討論「古代官道の原形」司会  高島英之
7 15;30  閉会挨拶 次期開催地
8 15:35  終了

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三重大学人文学部では学部内での研究成果を切磋琢磨し、外部へも発信していく組織として「研究センター」を設けて研究の深化と共有化に取り組んでいる。4センターある中の一つが私達が活動する「伊勢湾・熊野地域研究センター」である。

 伊勢湾・熊野地域研究センターでは、夏休み中と年度末を除く毎月(合計10回)研究会を実施している。その案内は予算もないので、人文学部のホームページに掲載する他、学内にチラシを配布する程度であるが、毎回15人前後の参加者と共に様々な分野の方々の報告に熱い議論を戦わせている。その研究の一端をより幅広く地域の方々にも聞いて頂こうと以下の様なシンポジウムを計画した。

 今回のテーマは「文学」である。

伊勢・伊賀・志摩・熊野地域からは多様で多数の文学者を輩出している。その「歴史」を専門である藤田明先生に基調講演頂き、その後人文学部文化学科の若き研究者と議論を戦わせていただこうというものである。

 もちろん、無料。多数の市民の方のご参加をお待ちしています。

*******************************



 あちこちに紹介下されば助かります。

第1回伊勢湾・熊野地域研究センターシンポジウム           
 三重・近代文学の歩み


 明治以降、それまで伊勢・伊賀・志摩・紀州に分かれていた地域が再編成されて三重県が誕生した。各地域に色濃く残っている文化がどのように組み替えられて三重県としての文化的アイデンティティーを持つことができたのか。他方、近代社会における中央集権化は、東京や名古屋、京都、大阪などの大都市に人口や文化資源を集中させることになり、三重県は新しい文化を創造する活力が失われつつある。三重県の近代文学という視点から、近世と近代、都市と地方という2極構造を考え直して見たい。

1 日時 2011年8月3日(水)14時~17時
2 会場 三重大学人文学部3階 大会議室
3 基調講演 



藤田 明(高田短期大学元教授)

「三重・近代文学の歩み-文学史へ-」



 明治以降をたどっても三重県出身の文学者は多彩をきわめる。斎藤緑雨・佐佐木信綱をはじめとして、芥川賞を受賞した笙野頼子・伊藤たかみに至るまで、列挙すればきりがないほど。
 例えば横光利一・丹羽文雄・田村泰次郎といった中央文壇で活躍した人たちもさることながら、また別の方面に光を当てることも必要ではないか。昭和戦中の、竹内浩三らによる同人誌「伊勢文学」、森敦が東紀州に挑んで挫折した未完の「尾鷲にて」など。伊勢湾をめぐる作品の数々にも触れていきたい。
 40年以上にわたり、三重と文学について考えてきたことの一端を、ある程度体系的に、かつ随想風にたのしく語れればと思う。

  コメント  尾西康充(三重大学)
        吉丸雄哉(三重大学)
4 鼎談  「三重の近代文芸」
  パネラー 
藤田 明
尾西康充
吉丸雄哉


5 入場無料 申し込み不要
6 レセプション
 シンポジウム終了後パセオにて講師の先生方を囲んで楽しい食事会を催します会費は学生・院生2000円、教員5000円です。多数ご参加下さい。
講師紹介
藤田 明 (ふじたあきら) 
1933年東京生まれ、戦時中に三重県に疎開。三重県内各地の高等学校で国語教育を担当、後に高田短期大学教授、三重大学ほかの非常勤講師。15年以上に わたり、朝日新聞三重版で「展望・三重の文芸」を毎月執筆し、三重県内の文学、評論はもちろん、展示、上映、講演、シンポなど文化活動を幅広く紹介した。 全国小津安二郎ネットワーク会長。主な著作に『三重・文学を歩く』、『平野の思想 小津安二郎私論』。文学、映画に関するエッセイ多数。

 尾西康充(おにしやすみつ)
  1967年神戸生まれ、日本近代文学専攻。1997年三重大学人文学部専任講師に着任して以来、三重県内の近代文学を研究。三重県ゆかりの作家に関する著書として『田村泰次郎選集(全5巻)』、『田村泰次郎の戦争文学―中国山西省の従軍体験から』、『丹羽文雄と田村泰次郎』、『プロレタリア詩人鈴木泰治―作品と生涯』、『近代解放運動史研究―梅川文男とプロレタリア文学』、『紀伊半島近代文学事典』など。

吉丸雄哉(よしまるかつや)
1973年長崎県生まれ、日本近世文学専攻。2010年に三重大学人文学部に着任以後、戯
作・演劇に描かれる伊勢・伊賀に関心をもって研究している。著作に『武器で読む八
犬伝』『式亭三馬とその周辺』。


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2011人文学部オープンキャンパスの条

2011-08-01 18:09:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今年も恒例のオープンキャンパスがやってきた。

 昨年、今年と、私はこの担当委員をさせられているので、それなりに頑張らないといけない。

 とはいっても私は資料を配るのを横目で見てたり、荷物の番をしたりと、あんまり大した事は仰せつからなかった。

 毎年一番の仕事が(これは委員であってもなかっても)勾玉作りコーナーを開催することである。

 事前に滑石とサンドペーパーを用意して、鋸とヤスリで削っていくだけの単純な作業なのだが、なぜかこれが結構人気があって、「ぜひやってください!」とか「エッツ今年やらないのですか?』とかいわれてもう何年やっているだろうか。そろそろ辞めようかと思っていると、「昨年とても人気があったので!」とかおだてて頂いて直ぐ調子に乗ってやっているのである。



 最初は少なくて、やっぱりと思ったのだが・・・。

 特に今年からは2学部が午前と午後に分かれてやることになり、時間があまりないので、果たして学生が来てくれるのやら心配だったのだが、ま、何とかそれなりの学生が来てくれた。

 

 定刻になるトドドッと来てくれて、この盛況ぶり。

そんなところへ学長まで顔を出してくれて、「よーけ来てくれてまんなー」ということで、何とか面目を保った。



 そんなところへ飛び入りで「考古学をやりたいのですが、どうすればいいですか?」という親子連れの高校生が相談に来てくれて、それはそれは嬉しかった。まだ現場に行ったことがないというので、あちこちに電話したのだが、あいにく繋がらず、自分で教育委員会にかけてもらうことに。

 去年も地元の学生さんが、是非考古学を!と言ってくれて、無事入学してくれたし、今年もこんな調子でとても有り難いことだ。

 もっとも残念なことには、私は来年度でおしまい!!
 次の先生が来てくれて、その先生が無事指導してくれればいいのですが・・・。と言うことで、第一志望の名古屋大学に是非入って、K先生、I先生はとってもいい先生だから是非その先生のご指導を受けて下さい!!と励ましておいた。

 この定年前後の引き継ぎの頃の学生さんがホント可愛そうなのである。

 それにもう一人、三重大の学生で、別の学科から移ってきたいという学生まで出てきて、嬉しいやら、寂しやら、複雑なここ最近なのである。



 その学生さんが作った勾玉。

 そんなこんなで、原発のことだけではなく、きちんと仕事もしてますよ、という御報告でした。

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吉永小百合の言葉の条

2011-08-01 00:08:25 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 私は吉永小百合のファンでも、村上春樹が好きでもないのだけれど。人間が素直に、今の状況を見て、こう発言しない方が異常でしょう!!

 もっと素直に原発をなくそう!!と声を挙げようでゃありませんか。

 読売のインターネットのニュースからです。 

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http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110731-OYT1T00534.htm?from=main7


 広島市で31日に開かれた日本母親大会で、原爆詩を朗読した女優の吉永小百合さんが、福島第一原子力発電所の事故に触れ、「日本から原子力発電所がなくなってほしい」と訴えた。

 吉永さんは朗読前のあいさつで、「『原子力の平和利用』という言葉を、今まであいまいに受け止めていた。(福井県敦賀市の)高速増殖炉『もんじゅ』は恐ろしいと聞き、廃炉運動には参加していたが、普通の原子力についてもっと知っておくべきだった」と語った。

 その後、吉永さんは峠三吉の「序」、栗原貞子の「生ましめんかな」など6編を朗読。小学生や市民らと平和を祈る「折り鶴」を合唱した。

 吉永さんは、1986年から各地で原爆詩の朗読を続けている。
(2011年7月31日21時33分 読売新聞)

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