yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

ウ~ン、これだけ続くと辛いですよね、の条

2014-05-24 08:45:13 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 またまた記事が中断しています。

 先週、またまた近しい人の訃報を受け、信濃国に行っておりました。

 昨年末の今泉さんからまだ五ヶ月しか経っていないのに、もう4人ですよ。気の強い私もさすがに滅入りそうです。三人は年下かほとんど歳の変わらない方々ですから。だから、「そんな歳になったのだ」とは言えないのです。

 もちろんお身内の方が一番ショックを受けておられるのですが、「他人」と言ってもそれぞれ、「生き方」に触れ、刺激を受けてきた人々ばかりですから。辛いです。

 その内の一人は美大を出た。父親はそれなりに有名な画家だったが、それがかえって負担だったのか、私は少なくとも絵を描く彼を見たことがない。知り合った頃には「自由に」生きようと思ったのか、ある時から尾瀬に行き、あの背負子で何十キロも背負う歩荷(ぼっか)になった。その後、縞枯山に入り山小屋の管理人をし、さらに伊那に辿り着いて木こりになった。いつの頃からか、毎日毎日一升瓶が手放せなくなって、その内一晩で何本も転がり始めた。酒無しでは生きていけなくなり、酒が少ない時間帯は、生きていく気力は有り余り、人生を語り、夢を語るのだが、酒が深まるとただひたすらつぶれるまで呑んだ。

 いつしか夢を聞く人間はいなくなり、「社会」では暮らすことができなくなった。



 そう言えば、ある時、「一緒に呑んで語ろう!!」とさしで呑んだことがある。もちろん私が彼の酒量について行けるわけもなく、いつの間にか私一人が眠り、結局何を話したのかもよく覚えていない。きっとそれぞれが止めどもなく自分のことを話したのだろう。

 でも、そんな時の彼はとても「いい奴」だった。真面目に人生を考え、何かを模索し続けていた。僕にはとても叶わない奴だと思った。酒が毒に化けることがなかったら、どんなによかったことだろう。

 妻にも、子供にも見放され、住んでいた家も追われ、知人の土地を借りて、ビニールハウスを建て、信濃の厳寒の冬はその中にテントを張って寝起きしていたという。水は近くの泉で汲み、トイレは公衆トイレで済ます。少しばかりの蓄えで酒と米を買い、大半の食材は山野から手に入れる。ビニールハウスの中には使っていたタンスが何棹も並べられていた。几帳面な彼のタンスの中は見事に整理され直ぐにでも着られるようになっていた。タンスの上にはかつて子供達が作った工作を並べて、昼はロッキングチェアーに揺られながら本を読んだらしい。

 そんなある日、病魔が襲った。脳の血管が破れたらしい。「社会」から切り離されていた彼を訪れる者はいなかった。

 彼はもっと生きたかったようだ。最後の雄叫びを詞にならない絶叫で締めくくった。

 「オ-・・・・・・!!!

 それから一ヶ月が経っただろうか、春とはいえ、まだまだ寒い信州では幸い屍は本人の意志を伝えていた。

 まるでそれは発掘現場で掘りあげる「人間」に似ていた。

 「お疲れ様!」と声をかけてやった。

 火葬されたお骨はきれいだった。山男らしく足の骨はとても太く、頑丈で、重く、骨壺に入れようと持ち上げても随分重く、落としそうになった。それに比べて顎骨は余りに小さく、中国の発掘現場で掘った4000年前の子供のそれより小さかった。

 後日、彼は死んだら散骨でもしてくれと言っていたと聞いた。本当なら山に撒いてやればいいのだが、日本では許されないらしい。いつか、海に撒いてやることにしよう。

 さようなら、ありがとう。

 

村國男依の故郷を訪ねて第32回壬申の乱ウオークの条

2014-05-11 12:18:37 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は第32回壬申オランウオークでした。

 誰かさんの特別参加で快晴!!週間予報では雨!その上竜巻注意報まで。

 ホッとしました。感謝です。

 今回は木曽川の中流域、犬山市、各務原市、江南市を回りました。


いつもの三岐鉄道バスです。でもいつものバスではなく今日のは紺色がベースで、中も少しきれいだったようです。


最初の訪問地は犬山市の大縣神社です。式内社でも格の高い名神大社。



 宮司さんが私たちのために説明に出てきてくれました。ちょっと困ったのは神社の由来を「潟、つまり干潟がたくさんあったことによる」という下りでした。



 宮司さんの説明がどこでも少し違和感gなあるのは事実ですが、これはそのまま放置しておくことはできません。バスに戻ってから訂正しておきました。
 「大縣」という名称の由来は延喜式内大社であると言うことも含めて、王権と直結している県主がこの地域の支配に深く関わっていたことを示しているものであり、「県主」の「県」を取って大縣神社としたのであろうと。
 もう一つの否定材料は本来の神様が背後の本宮山山頂に鎮座しているということです。古来の典型的な自然を神とする発想であり、中でも干潟とは全く縁のない山を神としている点です。


ちなみにこの境内にある姫の神と近くの田県神社の男性のシンボルを祀る神との間での交わり神事がこの神社の「売り」になっているそうですが、これも余りに世俗の注目に寄り添いすぎているのではないかと思います。



 次に訪れたのが神社の西に所在する青塚古墳です。全長123メートルの前方後円墳で、151メートルといわれる断夫山古墳に次いで、尾張国第2番目の古墳です。発掘調査の後整備が行われ、この様な芝生で覆った公園として利用されています。 


杖をついた方まで墳頂に上がりました。古墳の軸線が本宮山を向いているということ。皆さんその展望の良さに大変驚いておられました。


犬山橋の上から望んだ東之宮古墳


木曽川の右岸にある村国真墨田神社。
祭神が美濃国一宮の南宮大社の金山彦の命と尾張国一宮の真清田神社の祭神天火明命及び村國男依ということで、前二者はいかにも有名どころを集めたというところで疑わしい。そもそもが室町時代後半の永享年間(1429年から1440年)に川縁にあったものをこの地に映したということで、紆余曲折を経ての鎮座のようである。おそらく当初木曽川にあったというのが本来の村國男依の本拠地に近いのであろう。




犬山橋から見た犬山城天守閣である。

犬山城天守の背後の堀跡。




木曽川の上流側



犬山城に上がる時間がなかったので犬山城下町を少しだけ散策。「城とまちミュージアム」を見学。犬山城下町の復元模型が素晴らしい。




犬山湊を示す古絵図


最後が江南市村久野にある音楽寺境内を見学。当地の発掘調査では大量の瓦塔が出土している。その瓦塔を復元したのか銅製の塔が境内の一角に置かれていた。



今回も80人の参加で大変な賑わいだった。皆さんとても満足して帰って頂いたようだ。

壬申の乱ウオーク次回は岐阜県関市の弥勒寺遺跡である。美濃国三人衆の一人、身毛君廣の出身地を訪ねる。今度こそ行ってみようと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

この後

もう一つの日根荘を訪ねてきましたの条

2014-05-06 23:29:32 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 5月5日はこどもの日。大阪府泉南郡田尻町にある「嘉祥寺」へ行ってきました。

 3ヶ月ほど前、京大の吉川さんと電車の中の雑談で、私が「嘉祥寺」に興味があり、特に田尻町の「嘉祥寺」を調べているというと、直ぐに川端新さんの「もう一つの日根荘-嘉祥寺領和泉国日根荘について-」(『ヒストリア』第148号 1995年)を教えて下さいました。天才は違いますね。あらゆる論文に目配りがいっていて、直ぐにその論文を教えて下さるのですから。感謝!

 私はそんな古い号は持っていませんから、SM博士にお願いしてお借りし読むことができました。こちらにも感謝です。

 以来、いつか現地に行ってみたい!と強く思っていたのですが、やっとそれが実現しました。

 その原因は以前にも少し書いたのですが、孫がまだ三年生だった1月に、総合学習で地域のことを話してくれる人はいませんか、というお尋ねが子供達の家庭に回り、たまたま孫の家に行っていた私に白羽の矢が当たり、『深草の歴史』を話すことになったことが始まりです。その過程で、以前から気になっていた嘉祥寺の資料をいろいろ見ていると、孫のお母さんの実家の近くに『嘉祥寺』という村がかってあり、現在もその地名が残っているということが判ったのでした。

 孫の現在の家は平安時代初期に藤原良房が建立した嘉祥寺の礎石を寺内に残す善福寺の直ぐ裏に位置するのです。(ちなみに我が家は礎の西に連続して建てられた貞観寺の伽藍に入ります)かつてはその寺域であったかもしれません。その家と遙か遠く離れた和泉国の和泉郡になぜ「嘉祥寺」があるのか?これが私の疑問でした。

 その疑問に答えてくれたのが川端論文なのです。それによると、嘉祥寺領になる前に、桓武天皇の皇子・淳和天皇が桓武天皇から所領として与えられた土地だというのです。その後院政期になると嘉祥寺領日根荘は仁和寺別院領となり、隣接する新家荘(仁和寺領)と共に、荒野参詣における船の乗降船港であり、宿泊地であったという。

 そしてその地こそ樫井川右岸のこの地域だったというのである。

 私には、そもそもなぜ桓武天皇はこの土地を息子に与えることができたのか。桓武はどのようにしてこの土地を手に入れたのか?これが問題でした。しかし、川端氏の明快な資料分析により、この地こそ少なくとも平安時代を通じて、茅渟の海岸を行き来する際の最重要港であったことが実証されたのでした。

 田尻町の嘉祥寺の隣りが熊取町です。毎年、ゴールデンウイークには彼らは実家に長期滞在します。きっと今年もそうに違いないと密かに期待していると案の定、三日の夕方、「これから熊取行ってくるわ」と息子夫婦が声をかけたのでした。「いつ帰るん?」「5日の晩」しめた!と思いました。

 「ちょっと熊取の近くの「嘉祥寺」と言うとこへ行きたいんで5日の昼頃いくさかいちょっとドライブしてくれへん?」「ええよ!」「ついでに乗せて帰ってくれるか?」「うん」

 とマー、こんな会話で交渉成立。昨日の小旅行となったのであります。

 まず最初に「嘉祥寺」に行きました。



田尻町の北当たりにこんな地名があるようです。明治の仮制地図などにはもう少し先の海岸縁に嘉祥寺村があります。

この後、一番のランドマーク「船岡」を訪れました。川端論文によれば「尾張岡」と推定できる岡です。



 由緒は判りませんが、その東の麓に「船岡神社」というのがありました。



岡はとっても低い独立丘陵で、直ぐ北には無粋な8階建てくらいのマンションが岡を見下ろしていました。



木々の隙間からは関空のある茅渟の海が見渡せます。

岡を下りるとそこには史料にも出てくる池「尾張池」が確認できました。


さほど大きくはない池ですが、これが、古代からある可能性があるかと思うと愛らしくなります。





池の南端から見た尾張丘(船岡)です。なぜ尾張という名がこの地にあるのかも大いに疑問です。

次に向かうは樫井川の河口部です。嘉祥寺領日根荘の南限が樫井川と推定されているからです。



 現在この地には岡田漁港という小さな漁港があり、近くにはプレジャーボートの係留地もあります。この後の地形をみても判ることですが、どうもこの樫井川の河口部は良好な港だったようです。





現在の加工は江戸時代のものより数百メートル海側に出ているようで、旧道の位置から推定できる旧海岸線とは随分離れています。

 河口部から樫井川に沿って上流へ移動します。



 あいにくの雨でしたが、かすみながらもランドマークの尾張岡はとてもよく見えます。



 そしてここが樫井川がほぼ直角に二度折れて西流する地点です。この折れ曲がったところを旧熊野大道が通過していきます。

 いやはや大成果でした。何とかこの感動が薄れないうちに形にしたいのですが、まだ他に宿題があるので直ぐに取りかかれないところが難題です。

 川端さんの論文はとても詳細で掲載されている図面で十分に現地踏査ができました。そして、課題である「妄想」を膨らませ、なさねばならない課題をはっきりさせ、その先の楽しみを膨らませてくれるものとなりました。まだまだ資料不足なので、もう少し資料を集めてから「形」にできたらと思っています。命ある間に論文を書ければと思っています。



 川端論文第2図より。

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「NHK受信料凍結運動を拡散させましょう」の条

2014-05-02 23:33:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 先にお知らせいたしました通り、私たち「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」では籾井氏が4月末日までに辞めない場合、受信料を凍結して辞任に追い込む運動を展開することに致しました。しかし、既にお支払いになっている方、あるいは凍結したいがその方法が判らない、凍結した場合どんな圧力がかかるのかなど、行動を起こす上での様々な疑問点や課題があると思います。そこで、想定される疑問、質問のQ&Aを以下の通り作成いたしました。これを参考にして戴き、実行されるようお勧め申し上げます。なお、皆様方のフェースブックやライン、ツイッターなど様々な方法でこの運動を拡散させて頂きますようお願い申し上げます。


受信料支払い凍結の手続きについて:Q&A

NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ・運営委員会

 当会が呼びかけた受信料支払い凍結(4月末日までに籾井氏が会長を辞めない時)の具体的な手順について、会の内外から問い合わせをいただきました。そこで、当会としての考え方を以下のとおり、お知らせいたします。これをご参照いただき、凍結運動に多数の皆様のご参加を期待するものです。

Q1.預金口座からの引き落としを止めて受信料の支払いを凍結する方法を教えて下さい。
A1.3つのステップに分けて説明します。
  STEP 1 銀行の窓口で受信料の口座引き落としを停止したいと伝えます。(この先の手
続きは行員が説明してくれますので、それにしたがって手続きを済ませます。)
STEP 2  次のいずれかの方法で 「籾井会長が罷免されるか、自ら辞職するまでは当
面、半年間、受信料の支払いを凍結する」と通知します。あわせて、なぜ凍結する
のか、皆様それぞれのお考えをぜひとも伝えて下さい。
   (1)電話で:NHKふれあいセンターの「受信契約問い合わせ先」(☎0570-077-
077)へ
    (2)FAXで:03-5453-4000へ
    (3)E・メールで:https://cgi2.nhk.or.jp/css/mailform/mail_form.cgi
    (4)手紙で:〒150―8001 NHK放送センター 「受信料」係
(住所の記入は不要です。)
 STEP 3  (銀行から口座引き落とし停止の連絡を受けたNHKから)「放送受信料払込
用紙在中」という封書が届きます。開くと「放送受信料振込取扱票」が同封されて
います。受信料を凍結しようという方は、これを使わず手元に留めておきます。

Q2. 4月末までに籾井氏が会長を辞めなかったら、当面、5月以降半年間、受信料を凍結
しようと呼びかけがされています。しかし、私は今年の2月に向う1年分の受信料を支
払いました。私は今回の受信料凍結運動に参加できないのでしょうか?
A2. 4月末までに籾井氏が会長を辞めなかったら、ひとまず、受信料の口座引き落としを
解約して下さい。その上で、NHKに電話して(0570―077―077)、「口座引き落としを止
めました。来年2月になっても籾井さんが会長にとどまっていたら、払込用紙が届いて
も受信料の支払いを凍結します」と通知して下さい。
 このような形で、あなたも受信料凍結運動に参加していただけます。

Q3.受信料を凍結すると伝えた時、NHKから、「受信契約を締結している皆様は受信料を
お支払いいただく義務があります。凍結はやめてください」と言われたら、どう答えれ
ばよいのですか?
A3.応答例を2つ挙げておきます。
 (例1)「受信料の支払いは税金と違って視聴者の一方的な義務ではありません。受信契約
は視聴者とNHKの相互の信頼関係の上に成り立つ双務契約です。『政府が右という
時、NHKは左とは言えない』などと言った籾井さんが会長に居座っているかぎり、
NHKが政治から自立した公正公平な放送をすると信頼できませんから、視聴者はそ
ういう籾井さんが会長を辞めるまで受信料の支払いを凍結する抗弁の権利がありま
す。籾井さんが会長を辞め、政府が右と言おうが左と言おうが、NHKは自主自律の
放送を貫くという信頼が取り戻せたら、凍結した分も含めて受信料の支払いを再開
します。」
 (例2)「オバマ大統領も従軍慰安婦は女性の人権を侵害するものだと発言しました。そん
な従軍慰安婦を『どこの国にもあったこと』などと平然と発言した籾井さんは公共
放送の会長として失格です。そんなNHK会長に受信料から年額3,092万円もの報
酬が支払われるなんて、とても納得できません。今すぐ、籾井さんに会長を辞めて
もらうよう、抗議のつもりで向う半年間、受信料を凍結します。籾井さんが会長を
辞めたら、その時から、凍結した分も含めて受信料の支払いを再開します。」

Q4.受信料を6か月間、滞納しても延滞利息を取られないというのは本当ですか?
A4.正確にいうと、「放送受信契約者が放送受信料の支払いを3期分以上延滞したときは
・・・・、1期あたり2.0%の割合で計算した延滞利息を支払わなくてはならない」(受
信規約第12条の2)ということです。ですから、月数で言いますと、滞納が5ヶ月(3
期)以上になると延滞利息が生じることになります。この点、これまでの説明が不正確
だったことをおわびします。
 しかし、NHKに確かめると、現在、3期(5ヶ月分)以上滞納しても延滞利息は請求
していないとのことです。ですから、実際上は、延滞利息のことを気にする必要はあり
ません。
以上

(注)今後、皆様からいただいた質問・疑問に応じて、このQ&Aを増補・改訂してい
く予定です。


凍結で籾井氏を辞任に追い込みましょう!!

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