またまた記事が中断しています。
先週、またまた近しい人の訃報を受け、信濃国に行っておりました。
昨年末の今泉さんからまだ五ヶ月しか経っていないのに、もう4人ですよ。気の強い私もさすがに滅入りそうです。三人は年下かほとんど歳の変わらない方々ですから。だから、「そんな歳になったのだ」とは言えないのです。
もちろんお身内の方が一番ショックを受けておられるのですが、「他人」と言ってもそれぞれ、「生き方」に触れ、刺激を受けてきた人々ばかりですから。辛いです。
その内の一人は美大を出た。父親はそれなりに有名な画家だったが、それがかえって負担だったのか、私は少なくとも絵を描く彼を見たことがない。知り合った頃には「自由に」生きようと思ったのか、ある時から尾瀬に行き、あの背負子で何十キロも背負う歩荷(ぼっか)になった。その後、縞枯山に入り山小屋の管理人をし、さらに伊那に辿り着いて木こりになった。いつの頃からか、毎日毎日一升瓶が手放せなくなって、その内一晩で何本も転がり始めた。酒無しでは生きていけなくなり、酒が少ない時間帯は、生きていく気力は有り余り、人生を語り、夢を語るのだが、酒が深まるとただひたすらつぶれるまで呑んだ。
いつしか夢を聞く人間はいなくなり、「社会」では暮らすことができなくなった。
そう言えば、ある時、「一緒に呑んで語ろう!!」とさしで呑んだことがある。もちろん私が彼の酒量について行けるわけもなく、いつの間にか私一人が眠り、結局何を話したのかもよく覚えていない。きっとそれぞれが止めどもなく自分のことを話したのだろう。
でも、そんな時の彼はとても「いい奴」だった。真面目に人生を考え、何かを模索し続けていた。僕にはとても叶わない奴だと思った。酒が毒に化けることがなかったら、どんなによかったことだろう。
妻にも、子供にも見放され、住んでいた家も追われ、知人の土地を借りて、ビニールハウスを建て、信濃の厳寒の冬はその中にテントを張って寝起きしていたという。水は近くの泉で汲み、トイレは公衆トイレで済ます。少しばかりの蓄えで酒と米を買い、大半の食材は山野から手に入れる。ビニールハウスの中には使っていたタンスが何棹も並べられていた。几帳面な彼のタンスの中は見事に整理され直ぐにでも着られるようになっていた。タンスの上にはかつて子供達が作った工作を並べて、昼はロッキングチェアーに揺られながら本を読んだらしい。
そんなある日、病魔が襲った。脳の血管が破れたらしい。「社会」から切り離されていた彼を訪れる者はいなかった。
彼はもっと生きたかったようだ。最後の雄叫びを詞にならない絶叫で締めくくった。
「オ-・・・・・・!!!
それから一ヶ月が経っただろうか、春とはいえ、まだまだ寒い信州では幸い屍は本人の意志を伝えていた。
まるでそれは発掘現場で掘りあげる「人間」に似ていた。
「お疲れ様!」と声をかけてやった。
火葬されたお骨はきれいだった。山男らしく足の骨はとても太く、頑丈で、重く、骨壺に入れようと持ち上げても随分重く、落としそうになった。それに比べて顎骨は余りに小さく、中国の発掘現場で掘った4000年前の子供のそれより小さかった。
後日、彼は死んだら散骨でもしてくれと言っていたと聞いた。本当なら山に撒いてやればいいのだが、日本では許されないらしい。いつか、海に撒いてやることにしよう。
さようなら、ありがとう。
先週、またまた近しい人の訃報を受け、信濃国に行っておりました。
昨年末の今泉さんからまだ五ヶ月しか経っていないのに、もう4人ですよ。気の強い私もさすがに滅入りそうです。三人は年下かほとんど歳の変わらない方々ですから。だから、「そんな歳になったのだ」とは言えないのです。
もちろんお身内の方が一番ショックを受けておられるのですが、「他人」と言ってもそれぞれ、「生き方」に触れ、刺激を受けてきた人々ばかりですから。辛いです。
その内の一人は美大を出た。父親はそれなりに有名な画家だったが、それがかえって負担だったのか、私は少なくとも絵を描く彼を見たことがない。知り合った頃には「自由に」生きようと思ったのか、ある時から尾瀬に行き、あの背負子で何十キロも背負う歩荷(ぼっか)になった。その後、縞枯山に入り山小屋の管理人をし、さらに伊那に辿り着いて木こりになった。いつの頃からか、毎日毎日一升瓶が手放せなくなって、その内一晩で何本も転がり始めた。酒無しでは生きていけなくなり、酒が少ない時間帯は、生きていく気力は有り余り、人生を語り、夢を語るのだが、酒が深まるとただひたすらつぶれるまで呑んだ。
いつしか夢を聞く人間はいなくなり、「社会」では暮らすことができなくなった。
そう言えば、ある時、「一緒に呑んで語ろう!!」とさしで呑んだことがある。もちろん私が彼の酒量について行けるわけもなく、いつの間にか私一人が眠り、結局何を話したのかもよく覚えていない。きっとそれぞれが止めどもなく自分のことを話したのだろう。
でも、そんな時の彼はとても「いい奴」だった。真面目に人生を考え、何かを模索し続けていた。僕にはとても叶わない奴だと思った。酒が毒に化けることがなかったら、どんなによかったことだろう。
妻にも、子供にも見放され、住んでいた家も追われ、知人の土地を借りて、ビニールハウスを建て、信濃の厳寒の冬はその中にテントを張って寝起きしていたという。水は近くの泉で汲み、トイレは公衆トイレで済ます。少しばかりの蓄えで酒と米を買い、大半の食材は山野から手に入れる。ビニールハウスの中には使っていたタンスが何棹も並べられていた。几帳面な彼のタンスの中は見事に整理され直ぐにでも着られるようになっていた。タンスの上にはかつて子供達が作った工作を並べて、昼はロッキングチェアーに揺られながら本を読んだらしい。
そんなある日、病魔が襲った。脳の血管が破れたらしい。「社会」から切り離されていた彼を訪れる者はいなかった。
彼はもっと生きたかったようだ。最後の雄叫びを詞にならない絶叫で締めくくった。
「オ-・・・・・・!!!
それから一ヶ月が経っただろうか、春とはいえ、まだまだ寒い信州では幸い屍は本人の意志を伝えていた。
まるでそれは発掘現場で掘りあげる「人間」に似ていた。
「お疲れ様!」と声をかけてやった。
火葬されたお骨はきれいだった。山男らしく足の骨はとても太く、頑丈で、重く、骨壺に入れようと持ち上げても随分重く、落としそうになった。それに比べて顎骨は余りに小さく、中国の発掘現場で掘った4000年前の子供のそれより小さかった。
後日、彼は死んだら散骨でもしてくれと言っていたと聞いた。本当なら山に撒いてやればいいのだが、日本では許されないらしい。いつか、海に撒いてやることにしよう。
さようなら、ありがとう。