yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

高橋美久二さんが亡くなられました

2006-11-25 06:41:25 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ショックです。

私の最大の恩人です。恩師です。

予想されていたこととはいえ、現実を突きつけられてしばらく言葉もありませんでした。

寂しいです。

とてもとても悲しいです。

鈴鹿関の報告を楽しみにされているというお便りをいだき、一度お電話を・・・、と思ったいたのに、果たせないまま逝ってしまわれました。ごめんなさい!!

今書けることはこれだけです。

本当に本当に有り難うございました。

緊急連絡  再び「東京女子大学レーモンド建築東寮・体育館を活かす会」からの条

2006-11-22 07:30:09 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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「東京女子大学レーモンド建築 東寮・体育館を活かす会」から以下のような案内が参りました。私は当日木簡学会があるため参加できませんが、もし東京へお出かけの方、東京近辺の方々はご参加いただければ幸いです。


●緊急シンポジウム:東京女子大学レーモンド建築 東寮・体育館を考える
――建学の志を伝える貴重な文化財を保存し、活かしていくために――

今回、レーモンド建築、特に東寮と体育館の価値・意味・美を皆さまに広く
知っていただくと同時に、多くの方々とともに理解を深め、東寮・体育館の
解体に代わるよりよき方向を探りたいと考え、シンポジウムを開催いたします。
お誘い合わせの上、ぜひご参加ください。
※地図などの詳細情報: http://homepage2.nifty.com/twcu-raymond/

日時 :2006年12月2日(土) 14:00 - 16:30
会場 :日本外国特派員協会(FCCJ)
千代田区有楽町1-7-1
有楽町電気ビル北館20F
JR有楽町:日比谷口 / 東京メトロ日比谷:A3出口

申込方法 :事前申込不要(先着100名):無料

代表挨拶 :藤原房子(ジャーナリスト/元寮生)

パネルディスカッション
パネリスト:永井路子(作家/元寮生)
時枝俊江(記録映画監督/元寮生)
藤岡洋保(東京工業大学:建築史)
西澤英和(京都大学:建築構造)

総合司会 :兼松紘一郎(建築家/DOCOMOMO Japan幹事長)

総括 :山口廣(日本大学名誉教授)

主催 :東京女子大学レーモンド建築 東寮・体育館を活かす会
http://homepage2.nifty.com/twcu-raymond/

後援 :(社)日本建築家協会 関東甲信越支部
DOCOMOMO Japan

問合せ先 :「東京女子大学レーモンド建築 東寮・体育館を活かす会」事務局
FAX 03-5474-8288
mailto:twcu-raymond@yahoogroups.jp

--
「東京女子大学レーモンド建築 東寮・体育館を活かす会」
http://homepage2.nifty.com/twcu-raymond/
mailto: twcu-raymond@yahoogroups.jp
HP運営担当 : 永井 (VEP00230@nifty.ne.jp)



(この写真は会の承諾を得て掲載させていただいております。建築途中の建物の貴重な映像です。)

閑話休題  『アメリカスポーツ史』の条

2006-11-16 20:26:47 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 先日何気なく48年前に亡くなった伯父の名前をインターネットの検索ソフトに打ち込んでいると、同姓同名の人物が何人か出た後に、そうではないかという項目に引っかかった。


(父が亡くなって37年。山中家男子早世の法則を破って?私は既に58歳にもなってしまった。)

 伯父、即ち私の父の直ぐ上の兄は身長1メートル80センチは優に超した大男であった。大正5年生まれだから生きていたら今年90歳ということである。その頃のこの背丈は化け物と言われても仕方のないくらいの大きさである。私の父も1メートル75センチほどあったのでそれなりの大男なのだが、それを遙かに凌ぐ高さである(ちなみに私はその遺伝子を受け継がなかったらしく1メートル66センチしかない小男である)。
 だから彼はバレーボールの選手だった。経歴を見ると昭和12・13・20年度の全日本東西対抗の代表選手だったとある。今で言う全日本メンバーというところだろうか。バレーボール協会の評議員も務めたらしい。当時のバレーボールは当然9人制だったのだろう、この球技がどれほど認知をされていたのか全く知るところではないが、東京高師の体育科を卒業した彼の位置はそれなりに高かったのだろう。戦後間もなく奈良女子高等師範(後の奈良女子大学)の助教授になったらしい。

 そんな伯父一家と私達家族はほんの一時期一緒に暮らしたことがある。小学校入学直前から1学期終了までの短い期間だった。その姿で一番印象的なのはいつも机の前に座っていて、私がいとこ達と庭先で遊んでいると「うるさい!!」と大声で怒鳴る場面である。とにかく天の上から鬼が降りてきて怒っている様な恐怖感だけが残っている。

 その伯父が急逝したのはそれからわずか3年後の春のことだった。京都から勤務先に近い生駒に新居を建てて直ぐのことだった。42歳、教授になった直後の死だった。当時の私には伯父が大学の先生だという認識は全くなかった。ただただ「怖い人」という印象だけだった。

 その後父を亡くした従姉妹達の家を度々訪れ、まるで姉弟のように仲良く育った。私が大学に入った後も、何となく心の安まる彼女たちの家へつい足が向いたものであった。私の父が急逝したのを聞いたのも実は従姉妹の家で休んでいたときだった。何か因縁めいたものを感じたものだった。


(なかなか大部な著作だ。伯父がこんなに英語に堪能だったとは知らなかった。)

 突然どうしてこんなことを思い出したのだろう?自分でもよく分からない。

 考えられる原因の一つはなかなか書けない原稿である。

 確か、伯父は本を出していたはずだ!どんな本なんだろう?子供の頃は伯父の著作など知ろうとも思わなかったしもちろんあることも知らなかった。大学に進学しても、全く分野の違う道へ進んだので、気にもならなかった。ところがここへ来て、伯父はどんな本を書いたのだろうかと気になってきた。

 幸いなことに逍遙書院発行の『新体育学講座第3巻 アメリカスポーツ史』(1960年1月31日発行 238頁)があり、青森の古書店で扱っていることが判った。インターネットというのはこの点本当に便利である。直ぐに購入のボタンを押した。そして今日届いたのである。

 巻末には懐かしい?伯父の写真まで載っていた。実は伯父の顔などほとんど覚えていないのだが、私の父とよく似ているので、懐かしく感じるのである。

 亡くなったのが1958年だから東京オリンピックのわずか6年前である。ひょっとして故大松博文さんも知り合いだったのかも知れない。あの女子バレーの活躍を見ることもなく逝ってしまって、きっと無念だったに違いない。そんなことを思いながら頁を繰った。遺稿集だというからまだまだ未定稿の部分も多いのだろうが、時代毎に、多様な種目毎に実に整然と種目の現状が記されている。ある面実に淡々とした記述である。


(丹念に資料を集めなさい。その上でじっくり考えなさい!そう言われているような気がする。)

 フッと我に返って、己の拙文を思い出した。次々と出す資料、淡々と資料を書き連ね、最後にちょこっと仮説と解釈を述べる。なんだか似てるのかな?!と思ってしまう。今原稿に行き詰まっている原因が少し分かったような気がする。

 気取り過ぎ!構えすぎ!!

 もう一度原点に立ち返り、淡々と資料をまとめ、資料から小さな仮説を立ててみる、そんなことを伯父があの世から示唆してくれたのかも知れない。
 日常の忙しさにかまけて、資料集めを怠っている自分への厳しい一撃なのかも知れない。

 ひょっとしたら私達が庭で戯れていたとき、伯父は淡々と英文のアメリカスポーツ事情を読み解いていたのだろうか。集中を切られたときの「うるさい!!」今となったら実によく分かる。

 さあもう一度ねじを巻き直して今日から頑張ろう!!有り難う良正おじさん。



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保存問題  東京女子大学東寮・体育館保存の条

2006-11-15 07:22:10 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
東京女子大学レーモンド建築 東寮・体育館を活かす会の許可を得て、現在保存を求められている寮の建設中の写真をお借りすることができました。会による写真の説明では「完成間近の東京女子大学東寮 1923(大正12)年7月25日撮影 1923年9月1日の関東大震災を生き抜いた、キャンパスに最初に建てられた建築物」だそうです。

 会のホームページを拝見すると大変詳しくこの施設群の歴史を知ることができます。既に永井路子さん他多数の卒業生を中心に7000人もの保存を求める署名が提出されたそうですが、大学当局は「施設の老朽化と教室の確保のため解体して新校舎建設の予定」とのことのようです。

 確かに都心の一等地に新たな敷地を購入し教室や研究棟を建設するのは並大抵のことではありません。私達の求める久留倍遺跡のトンネル化でも常に問題とされるのが「資金」です。そして常に主張されるのが、古いものを残していたらきりがないという現実主義です。浪漫では飯は食えない!という理屈が優先されます。全くその通りです。一人の命と文化遺産とどちらが重いか、と問われれば、もちろん私は命だと答えます。しかし、ただ息をしているだけの命ではなく(もちろんこの命も最後の最後まで大切です)、できるだけ中身の濃い命とするために、大学教育はあると思うのです。

 緑豊かな空間に建っている、歴史と伝統のある、建築史的にも価値の高い建物を破壊して、近代的ビルを建設することでどんな対価が得られるのか、もう一度原点に立ち返って考えて欲しいものです。

 建物再生のための意見として東京女子大学創設者の一人新渡戸稲造資料館としてはどうかというのがあるそうです。大賛成です。私はできることなら「稲造コーナー」を含む『女性史博物館』として、世界中の女性が集う(もちろん男性が共に集うことは不可欠です)博物館として再生してはどうかと思います。きっと世界中から来館者がやってくるに違いありません。施設の老朽化によって受験しなくなる学生のマイナスを補ってくれると思うのです。

 東女には7つの登録文化財があるそうです。十分文化財には配慮している、というのが理事者の方々の考えだと思います。確かに他の大学に比べればそういえると思います。しかし、それならばなおのこと、徹底的に歴史と伝統を重んじる大学として手を挙げることも特徴を示す一つになるのではないかと思うのです。
 今やあまりに横並びの、まるでファーストフードチェーン店のようにどこにでもある大学ではない、個性豊かな大学と主張するためにも、施設の再利用を考え直してはどうでしょうか。

 私達の大学でも施設の老朽化が進み、最新機器で整えられた私立大学に比べると見劣りすることは事実です。先日も液晶プロジェクターが壊れ、修理に2週間もかかるという情報が流れてきたばかりです。そんな大学でも、正面玄関の近くに三翠会館という三重高等農林学校時代の唯一の施設が保存され、数少ない憩いの場として活用されています(私はここを核にして大学博物館を造るべきだと主張しています)。

 結局のところ本当に勉強したい学生は少々の古さより中味を求めているのだと思います。華やかなファッションに身を包み香水のにおいをまき散らしまるで雑誌から飛び出してきた学生を輩出するというのなら、それはそれで、大学経営の観点から近代的設備の整った教室は不可欠でしょう。でもそんな教育をする大学は今日、全国にたくさんあり過ぎるほどあります。もっとじっくりと勉強する学生を育てるために、歴史と伝統のある自然豊かな環境を維持する大学!と銘打つことは、将来的に大学の存続を保証するものではないでしょうか。

 流行に流されるよりも、未来を見据えた「整備計画」(私達が主張している久留倍遺跡保存の理念と同じです)、これこそ大学経営の理事者に求められているのではないでしょうか。

 会のホームページには署名欄が設けられています。是非是非このブログの愛読者の皆さんも署名をして少しでも会の活動が前進することにご協力下さい。お願いします。

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近況報告  魔の霜月前半終了の条

2006-11-13 09:42:12 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 今月は全ての「休み」の日が日程で詰まっている魔の月間です。
 11月3日からの連休は条里制・古代都市研究会での鈴鹿関案内、正倉院展への学生案内等で塞がりました。
 そして今週の11日・12日は久留倍遺跡関連で壬申の乱ウオーク及び久留倍遺跡の整備と活用を市民と考える会でした。
 来週は予定していた歴博の会議がなくなったので、自由だ!と思っていたら、学生を連れて斎宮・宝塚古墳見学と三大学合同研究会に出席することになりました。
 そして23日から来月初めまでが中国社会科学院の陳先生の御案内です。もちろん12月は師走ですから、当然全ての「休み」にぎっしりと予定が入っています。木簡学会のように研究会に行けるのなら何の問題もないのですが、「行事」は大変です。アー・・・・

 そんなわけで昨日は久留倍遺跡を考える会の方々に招かれて、久留倍遺跡の今後について意見を述べて参りました。40人ほどの熱心な方々がお集まりになり、NHKのY記者も一人でヴィデオを持ち込んで取材してくれました。
 「考える会」の方によると、市は一向に整備の計画について市民に説明をしようとも意見を直接聞こうともしないということです。そこで整備委員会の私(委員の一人)に頼むんだということでした。だからといって委員会には他の先生方もいらっしゃるわけで私の個人的な情報や考えを委員会のものとして市民に伝えるわけにもいかず、あくまで私個人の考えですと断って、述べてきました。

 なにせ、まだ調査も十分に行われていないことは前回述べました。調査が正確に行われ、「成果」がきちんと出されて初めて整備案はできるのです。にもかかわらず市が整備を急いでいるとすると、何か裏にあるのかな?と勘ぐりたくなります。実に不思議なことです。
 遺跡は整備して終わりではありません。そのことはこの間いろいろな国の遺跡の現状を見る中で明らかになったと思われます。一番大事なのは子供の頃から文化を大切にする気持ちを養うことです。歴史のいい面も悪い面もきちんと教え、故郷が現在に至ったの経緯をきちんと学ぶことから、歴史遺産を大事にしようとする心が芽生えるのだと思うのです。幸いなことに久留倍の地元には既にそうした気持ちを抱かれ、自分たちの手で大事な故郷を大切にしようと考えられる市民の方々がたくさんいらっしゃいます。子供の教育から始めるのは大変ですが、既にそんな気持ちを抱いていらっしゃる方々がたくさんいらっしゃるのです。これは本当に貴重なことです。

 そんな地元の方々がいらっしゃったから久留倍遺跡は史蹟として残ったのです。その地元の方々の意見も聞かないで、形式的に意見を募集するだけで済ませようというのはいかがなものでしょうか。市は市民とこそ向き合って、基本方針を真剣に検討なさるべきではないでしょうか。

 お役人さんは定年になったり、異動すれば久留倍遺跡と向き合うことはもうありません。しかし地元の方々はイヤでも向き合い続けなければなりません。「考える会」の方々は全くのボランテアで市民に情報を提供しておられます。子々孫々まで語り継ぐにはどうすればいいのかを真剣に考えて下さっています。

 今回遺跡の上を高架でバイパスが通るというのでGISを用いて高架を「造り」シュミレーションしてみました(もちろん私が作ったのではなくR大学のKT先生の手になるものです)。高さも構造も教えてもらえないのであくまで推定のシュミレーションです。高架ができたらどんなイメージになるかを説明しました。何度も申しているように、景観は台無しです。しかしトンネルにするには30億円以上のお金がかかるということです。これはまた大変なことです。もし市が単独でこれを負担するとすると30万人の市民が10000円ずつ負担することになります。しかし、その負担も国との交渉次第です。これ以上いやな協議に手を取られたくないと思えば、この「噂」を流して、市民を諦めさせればいいのです。本当に遺跡と道路の調和を最優先に考えれば、まだまだ検討すべき材料はたくさんあります。財政難を最大の問題として逃げようとするのが今日の行政の悪い傾向です。「財政難」の錦の御旗を掲げれば、市民は諦めると考えている節があります。

 ところで、報告終了後の質疑の中で、市民の方から意外なことを伺いました。同じ北勢バイパス工事の中で、計画ルート上にあるゴルフ場はトンネルで通過するのだそうです。
 「エエッツ?!」
 「遺跡よりゴルフ場の方が大事なの?」
驚きました。
 ゴルフ場は三重県に山ほどあります。遺跡と同じように美しい??芝生で整えられています(将来きっと久留倍遺跡にも芝生が張られると思いますので見た目は同じです)。ゴルフ場を「保護」するためにトンネル化し、国史跡を守るためには高架にする。本末転倒ではありませんかね。

 もちろん、ゴルフ場は私有財産ですから地主さんとの交渉が必要です。売らない!と仰ればどうしようもありません。地下を通るにしても承諾が必要でしょう。高架ではゴルフの球が当たるかも知れませんからそれもままならないのかもしれません。考えたあげくが「トンネル」だったと想像します。なら、どうして国が決めた史蹟は考えないのでしょうか?
 不思議な国ですね。

 報告では、原点に立ち返って、世界に誇れる史蹟とするにはどうすればベストなのかを世界中の事例から考えてもらうことにしました。
 ソウルでは景福宮の堀を利用して設けられていた高速道路を撤去した例、日本では、最近話題の日本橋の景観、そしてイギリスのロンドンウオールの実態、文化財保護後進国?のベトナムの文化財活用事例等々。いい見本をモデルに整備・活用することこそ大事なのではないかとお話ししました。

 本当はこうした会を市が主催し、いつものやらせではなく本当に真剣な議論の場を提供してこそ遺跡は活きると思うのです。仮にその議論の末に、高架で遺跡を残すという結論になったとしても、市民がその条件を納得さえすれば、制約された条件下でいかに遺跡を活用するか考えて下さると思うのです。ペンペン草が生えない、市民に本当に親しまれる遺跡のために、今一度立ち止まって、みんなで考えてみようではありませんかと、申し上げてお話しを終えました。

 会が終わったとき、作家の永井路子さんからお電話をいただきました。今、和島誠一賞受賞に関係して、文章を書いているのだが・・・、ということから始まり、いろいろな最新の話題をお話ししました。その中で、彼女の母校である東京女子大学の寮の保存問題に携わっていると伺いました。何でも東女の寮は創設者新渡戸稲造が将来を担う女子が使用する大事な空間だからということで、個室になっているそうです。戦前ではなかった発想です。もちろんデザインも建築史的に大変重要な意味があるのだそうです。7000人の署名を集めて事務局に届けたが極めて冷淡な扱いだったそうです。あなたの苦労がよく分かるわ、と仰っていました(笑い)。

 あまりに目先の経済効果ばかりを追い求めて未来への展望がない今日の社会的雰囲気に何とか棹させないものか、しばし電話の向こうとこちらで思い悩んだ瞬間でした。東女寮問題についても全国の皆さんの関心を呼び起こしたいものです。是非トラックバックして下さい。

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久留倍遺跡報告  第5回壬申の乱ウオークの条

2006-11-11 20:20:51 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 今日は長岡京遷都1222年目の記念すべき日です。昔なら大極殿遺跡顕彰会の方々と記念式典の準備に朝から大わらわといったところですが、さて今頃京都ではどうなっていることやら・・・。


(相変わらずの150人!何せ9時集合というのに8時半には長蛇の列!びっくりした。)

 三重では今日は壬申の乱ウオーク第5回目の日でした。3ヶ月に1回の割で行っていますから年4回、早くもこの会を始めて1年が経ったことになります。今日のコースは近鉄阿倉川駅から久留倍遺跡までの5㌔でした。あいにく昨夜からの雷雨が残りウオーク中雨が降ったり止んだり、これも壬申の乱の転向を示しているのでしょうか、前回も台風接近の中でのウオークで、同じような天候でした。


(羽津城が見えなくなるくらいの人人人!近所の人も驚いていましたね。)

 今日の目玉は志弖神社と久留倍遺跡です。先頃史蹟指定に絡み少し調査???をしたというのでその成果???を市民に公開してくださるということでそれに併せてウオークの予定を設定しました。

 まず駅前で全体のイメージを説明しました。なぜ阿倉川駅かというと、皇學館大学の岡田登さんが最近、大海人皇子天照大神望拝の地は朝明川ではなく、海蔵川(あくらがわ)だという説をご紹介するためなんです。でも、今回はなぜか考える会のMさんがえらく急いでいて、
 「そんなとこ行かんでもよろしいわ」の一言で、川辺まで行くのは却下!(後で分かったのですが、どうもMさん岡田先生の説が気にくわないらしい!何せ迹太川の比定地は朝明郡周辺の全ての川にあるといってもいいくらいたくさんあるんです。ウオーク中も、市民の皆さんから、私はこの川こそ望拝地だと思うんですが違いますか?という質問やら自説の紹介を一杯受けたくらいですから。

 

(市の指定史蹟になっている天武天皇天照大神望拝地の一角。ここでもMさんの自説が高らかに話された。皆さん誇りに思ってらっしゃるんですね。)

 それはともかくとして、県道の車の頻繁に通る道を進むもので、交通事故に遭われないかそれが一番心配でした。今日もまた悪天候の中150人の方が参加されました。本当に皆さん熱心です。感謝!!

 途中羽津城という16世紀に築城された中世末期の城跡を見学して志弖神社に参りました。志弖神社は二つの点で注目されます。
 ①志弖神社古墳の存在 
 ②『萬葉集』に歌われた四泥の崎との関係
です。
 古墳は4世紀後半の前方後円墳といわれ、車輪石や内行花文鏡、勾玉、管玉、ガラス小玉などがかつて掘り出されています(卒論でガラス小玉をやってるYMさん、もちろん知ってますよね)。『萬葉集』では1031番・丹比屋主真人の歌としてに次のように詠われています。
 


(無事志弖神社に到着。ここが唯一のトイレスポット!よって、直ぐにトイレに駆け込んだ人?は説明が聞けず。追加説明をおねだりされる始末。市民サービスは辛い!)


 後れにし 人を偲はく 思泥の崎 木綿取り垂でて 幸くとそ思ふ

 この「思泥の崎」こそ志弖(氏の下に横棒の「デ」も使う)神社のシデに通じ、この地で詠んだ歌のことだというのが今日の有力な解釈です。つまり今の神社境内地は海に極めて近い場所であったということになります。すると古代東海道がいったいどの辺りを通過していたのかを考える上で重要なヒントとなるのです。まさか浜辺を通ることはないでしょうから、海岸縁だとしたら、神社の直ぐ下、山沿いだとしたら神社裏を通った可能性が高くなります。
 なぜ伊勢北部でも有数の前期の前方後円墳(発掘調査はなされていませんが、前方後方墳ではないかとする意見もあります)がこの地に設けられたのかを考える上でもこれは大事な問題です。そこで少し推理してみましょう。
 現在古墳は前方部を神社の社務所によって削られてしまい見ることができませんが、本来は南を向いていたものと思われます。海上を進む船と、陸上を通過する人々の両方を見る絶好の地に設けられていたわけです。鈴鹿「関」を越えた後、伊勢湾に東進する古東海道が三重郡采女郷辺りで東に海を見ながら北上する。その一角に志弖神社古墳はあったのです。あるいは、大海人や聖武の一行もこの付近を通過して朝明郡衙(郡家)に向かったと考えてもさほどおかしくはないでしょう。


(県道脇に立つ伊賀留我神社の石碑。北には分祀前の北社がある。)

 志弖神社古墳を後にして伊賀留我神社を経て久留倍遺跡に到着し、ここで近くにあった大膳寺の解説をして、久留倍遺跡に向かいました。四日市市教育委員会主催の最後の現地説明会?だそうです。もう見ることができないらしいので、久留倍遺跡の「雄姿」を目に焼き付けてきました。
 昨夜の雨で大変見やすくなった柱跡に皆さん感動しておられましたが、その目の前に道路の橋脚が立つことを聞いてがっかりされていました(もちろん市教委の方々はそんなことは一言も仰らなかったので私の方で追加しておきました)。それにしてもどうして正直に言わないんでしょうかね。後でばれても済んでしまったことだと逃げる気ですかね。これこそ税金の無駄遣いだとわたしは思うのですが・・・。
 


(現地施説明会?会場にはこれだけは見ておかないとと、さらに多くの市民が・・。皆さんの熱い眼差しを市教委の幹部の皆さんはどんな思いでご覧になったでしょうかね。)

 これについては明日10時からの市民討論会(大矢知市民センター)でじっくりシュミレーションを交えながらお話しすることにしましょう。

 説明が終わり最後の挨拶が済んで家路についたのが12時過ぎ、大学に着いたら既に13時を過ぎていました。これから明日のレジュメとプレゼンテーションの最終調整です。R大学のKTさんに作ってもらったGISを用いたシュミレーションですが、まだまだ改善の余地はたくさんありそうです。余り時間もありませんから、未完成でもやるしかありません。何とか市民の皆さんに実情を訴えて、新たな展開へ向けたスタートが切れればと思っています。



(今頃になって、調査地の図面がかなりいい加減だと分かってきました。この最も大事な(私が聖武頓宮の証拠の柱穴だと考えている)柱跡の切り合い関係や時期変遷、その検出位置はもう一度じっくり確認しないととんでもない「成果」になってしまうことが分かりました。もちろんそれでもなお、際だつのがこの巨大な堀方なんです。私はその前後の建物配置については相当の見直しが、評価も含めて必要だと思っていますが、これだけは動かないとさらに確信しました。こんなものが倉庫であるはずがない!!!)

 とにかくウオーク参加の皆さん、雨の中お疲れ様でした。
 そして資料作りから当日の案内まで手伝ってくれた学生の皆さん、ちょっとした?ミス?もありましたが、お陰で多くの市民の皆さんに喜んでいただくことができました。皆さんのとても喜んでおられるお顔を見ていると疲れも吹っ飛ぶでしょう?!!有り難う!これからもよろしくね。

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近況報告  PBLセミナー「久留倍遺跡を考える」の条

2006-11-09 14:49:11 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 今年から共通教育の授業形態としてPBLセミナーというのが始まりました。新し、もの好きの私は直ぐに飛びついたのですが、未だにその本質がよく理解できていません。
 昨日も教授会前にあったFD研修会のテーマが「PBL教育の実例」で、今年前期にやられた先生方の授業紹介がありました。ちょっぴり安心したのは、みんなそれほど理解してやっているのではないんだなーということでした。まさに試行錯誤!が実態でした。結局のところやられている学生が迷惑であるに違いありません。これもまた文部官僚とそれを支える御用学者群の思いつき教育の一つなのかなーと勘ぐってしまいます。


(PBLでの調査活動中の○班)

 今頃になって困惑していいてはそれこそ学生が迷惑なので、もう一度授業を立て直して進めていかなければならないと思っているのですが・・・。来週の月曜日には「専門家」がアドバイスしてくれるらしいので(大した期待をせずに)、聞いてみます。
 実は私自身はこのPBLセミナー授業法とは結構深く関わっていて、昨年は立場上(FD委員長)合宿まで参加させられた経緯があるんです。それでもさっぱり理解できませんでした。合宿に参加していない他の先生にチンプンカンプンなのは当然でしょう。

 授業はテーマを決め(本当は学生が自らテーマを探し出してきて自主的に課題を設定するらしい)、その解決に向けてやるので、
「史蹟(久留倍遺跡)の保存と活用」
を設定して始めました。

 18人の受講生を3班に分け、それぞれ同じテーマで班毎にこの課題を解決するために様々な調査や学習をさせています。特に授業成果を発表させるというのが特徴らしいので、そこまでもっていくのが大変です。
 そもそもが、高等学校で日本史や世界史を勉強していない(させてもらっていない?!!例の履修不足問題)学生に考古学をいきなりやろうというのですから無理があります。それでも何とかついてきてくれている(?)のには理由があります。実はこの受講生のほとんどが前期に私のオリセミで「ミニ博物館」を体験した学生だったのです。だからそれなりに考古学、発掘現場、博物館等とも違和感なく対応できるのだと思います。

(遅刻者が出て道に迷うは、急病で休みますといってくるは・・・ま、外で授業をやるとこの頃は必ず何か起こりますね・・・)


 さて、第一の関門が10月28/29日の発掘調査でした。三重大学久留倍遺跡第二次発掘調査地を地主さんにお頼みして、少しさわらせてもらったのです。もちろん発掘調査など始めての学生ばかりでしたが、意外とみんな楽しそうに、元気にやってくれました。
 全員同時に発掘調査に関わるわけにも行きませんので、初日は交替で遺跡を案内し、二日目には班毎に周辺取材もさせました。ビデオとデジカメを持って、遺跡周辺の様子を住民のインタビューも交えてしてくるように命じたのです。

 さすがに現代っ子ですね。ある班はいろんな民家を訪ね、ちゃんとインタビュー取材してきたました。久留倍遺跡をどう思うか、保存については?活用には?等々きちんと取材目的通り質問もしてきました。市民の方もこれに応じてくださって素晴らしいデーターを得ることができました。

 そんな成果を活かした中間発表日が昨日でした。まだまだ試作中でまともなものは一つもありませんでしたが、とても個性的で大変面白く拝聴しました。全国の官衙遺跡を調べ、その活用方法をインターネットから探してくる者、パワーポイントの機能をよく知っていて、アニメーションで導入する者、ビデオからの映像を取り込む者等々、本番に期待できる楽しそうなものばかりでした。一人の落ちこぼれもないようにするのも大切なんだそうですが、数コマずつ分担する組があったり、現場を休んだ者には別の仕事を割り当てたり、結構今の学生は個人主義だけに、負担の均等化ということには「配慮」できるようですね。自分たちでうまく役割分担しながらやってくれています。


(結構いろいろなものが出て学生達は大喜びでした。これ何に見える?)

 授業の最後に公開発表会をやるというのがこのセミナーの特徴だそうです(何でなんですかね?分かりません)。テーマがテーマだけに、久留倍遺跡を考える会の皆さんに学生達の思いを聞いてもらおうかなと思っています。学生の考えた久留倍遺跡の保存と活用をどう思われるか、活発な議論が展開されること大いに期待しています。うまく行けばこれこそ社会と結びついて授業ということになるのですが・・・。

 さて、来年もやる予定なのですが、手ごろな発掘現場がありますかね。心配。


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活動報告  正倉院展見学の条

2006-11-08 07:04:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(正倉院は黒かった??)

 一昨日は喧噪ばかりで何の主張もない大学祭の後始末の日。大学が休みでした。その日を利用して正倉院展に行こう、と誘ったのですが、参加したのは一年生二人だけでした。提案が遅かったこともあるのですが、集団活動の嫌いな?研究室の学生達は、「仲間」としか行動しないようで、誰も来ませんでした。悲しい!!
 
 これでは人間社会の研究などできるはずがありません。歴史学なるものが最早意味をなさなくなっているのでしょうか。もちろん核武装を公然と主張する輩が出現し、これを追及しきれない政治家、マスコミ、世論。どうぞ地球を核戦争に巻き込み廃墟としてください、どこぞの政治家さん達!確かにこんな世相の中で歴史学を学んでも何の役にも立たないかも知れませんね。どうせ地球はなくなるんだもの!ならば自分が生きられている間だけでも好きに生きよう!こんな所でしょうか。寂しい!!でも、正直、私も歴史学の有効性に疑問を抱きつつあります。


(通れるかどうか心配していましたが小学校以来というくぐり抜けは大成功でした。よかったね)

 しかし貴重な二人です。二人といえどもおろそかにはできませんので、しっかり案内してきました。久しぶりに大仏さんの御尊顔も拝してきました。例の柱くぐりもやって楽しんでおりました。正倉院そのものも見てきました。
 その第一声「正倉院て黒いね」???でした。


(久しぶりの大仏さんでした。結構旨く写真が撮れました)

 さて、今年の目玉は、なんといっても聖武没後1250年という区切りの年であるということです。聖武の身の回り品が数多く展示されていました。私は衣服などの布製品が苦手なので、いつもは「フーン」で終わるのですが、今回目がとまったのは刺し縫いで作られた袈裟でした。製作者の美的センスが見事に伝わるとても素敵な袈裟でした。これを着た聖武が三宝の奴と言いたくなったのも納得できました。

 袈裟を包む布、これを入れる革製の箱、箱を包む布と全てが見事に調和よく展示されていました。

 私が最も気になっていたのはガラス製の「十二曲長杯」でした。緑青で染められた鉛ガラスには見事にウサギなどの文様が刻まれ、ライトに空かされたその姿は神秘的でもありました。こんな杯で呑む酒はまた格別だろうな!等と妄想しながら見ていると「先生これ欲しい!」と学生の奇声。思いは同じようでした。

 圧巻はなんと言っても『国家珍宝帳』でした。十四.七四㍍もの巻物を壁一杯のガラスケースの端から端まで並べる迫力は大変なものでした。私が目を凝らすようにして見ていたのは『天皇御璽』でした。幅二九.五㎝の紙幅一杯に縦に三個づつ一六八個の印が捺されてるということでした。御璽は基本的に縦に三個ずつ連続的に押印した後、行を変えてまた上から捺し直していたようですが、やはり行を変えると気分も変わるのかどうしても最初のものが力強く捺され、濃くなっていました。しかしそれも次第に慣れてきたせいか強く捺される部分が移動し、終いにその変換点も判らなくなってきました。捺した人は右利きだったようで左上隅が強く捺され、濃くなっていることがそれを表していました。

 途中見知らぬおばさまに一緒に解説を聞いてもいいかといわれ、丁重にお断りをしましたが(だって、私は考古学的にしか正倉院の展示品を見ないもの・・、人に説明できるほど各種工芸品の由来や造り方には詳しくありませんもの。ごめんなさいおばさま・・)、一応考古学者はこんな見方をするということで、印鑑のことなどを伝えておきました。それもこれも月曜日で中がとても空いていた(学生によるとどこが空いているのか?と疑問がっていましたが、私にはガラガラに見えました)からできた芸当です。

 次室に移ると馬具一式が展示されていました。鞍、轡、面懸、尻懸、障泥等々。このコーナーは考古学学生必見の間でしょう。

 緑釉鉄鉢が漆塗りの木製鉢、銀製鉢と共に展示されていたのも大変参考になりました。最後に展示されていた正倉院文書にはこの緑釉陶器などに用いる釉薬の材料が書き上げられていたのですが、目の悪い私にはよく見ることができませんでした。同じように厠に用いる建築部材の書き上げられていた部分も展示されていました(前日歴博のNA先生に『正倉院文書』に厠の部材を書き上げた部分がありますよ、と教えられたばかりで、本物に会えるとは思わず大変驚きました。来年の歴博での展示に是非これを使おう!ということになりました。)。


(東大寺講堂の礎石にて。これで側柱建物と総柱建物の区別がやっとできました。)

 展示を見終わったのが14時。お腹が減ってぺこぺこ。そこで前日宮崎のSHさんに教えてもらっていた釜飯やさん「志津香」へ。行列を待つこと1時間。飯にありついたのが15時、旨かった!SHさんありがとう。普通ならビールでも、ということになるのだが、1年生だからそこは我慢!お腹も一杯になったところで、正倉院へ、途中東大寺の伽藍の話をしながら彼女たちの修学旅行の思い出話を聞きながら講堂跡で一服。余りゆっくりし過ぎたせいか正倉院はもう少しで閉まるところだった。何とかセーフ。

 どうしても大仏の柱くぐりがしたいというので、これまた閉まりかけの大仏殿へ。どうせ入るならもう少しじっくり見たかったのだが、30分ほどの駆け足見学で東大寺は終了。


(いつもなら一つや二つは展示される鎰なのですが、今回はゼロ。でも大仏殿前の灯籠の鎰を見ることができて大感激でした。)


 最後は白玉あんみつを食べて(せっかくこれまた奈良の食べ物屋のプロ宮崎のSH山にいい店を紹介してもらったのに、私の聴き方が悪かったのか見つけられず、仕方なく東向き商店街のありきたりの店へ)第58回正倉院展見学は終了。なかなか楽しい一日ではあった。有り難うお二人さん。

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鈴鹿関報告番外編-3 条里制・古代都市研究会案内の条

2006-11-06 10:04:54 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 昨日は条里制・古代都市研究会の現地見学会の日でした。朝八時に大学を出て、1時間も係ってやっとの事で関に着きました。実際にかかる時間は20分なのですが、何せ亀山で40分も待たなければならないのです。とにかく関に行くのが不便なのです。

 集合時間は11時に設定してあったのですが、資料の配付準備などでやはり1時間前には着いておかないと・・・・。でももちろん事務局のR大学のTG先生は既にお着きになっていらっしゃいました。


(水野先生のご解説をあちこちで伺うことができました。)
 20名くらいの参加が最近の傾向なのでそのくらいを予想していましたが、ピタリ20人の参加でした。なんと東京から歴博のNA先生、宮崎からSH先生もお越しいただき恐縮の限りです。久しぶりに元京都市埋文研のMMさんにも会ったのですが以前に比べて明るく?元気そうなので安心しました。

 これからしばらくするとシートで完全防御しますので間もなく見ることができなくなります。見学ご希望の方はできるだけ早いうちに私の日程もご確認の上、御連絡下さいね。

 さて、いつものことではあるのですが、会長の水野先生がお御足がお悪いにもかかわらずご参加いただきました。本当にありがたいことです。その上、水野先生は吉川弘文館の国史大事典の執筆者でもあられたので、所々で解説もしていただきました。感謝の限りです。



(こんな山車が4基、その他創作御輿が何基も練り歩いていました。)


 今回はほぼフルコースをじっくり見てもらいました。特にこの場でご紹介した亀山市教育委員会の亀山さんの最新論文を下にした中世以前東海道推定地を中心に前半は歩きました。実は当日は「亀山祭り」という市民祭りをやっていて近世関宿の中心地は大変な人出だったのです。何せ、津から電車に乗るときもすごい人で、いつもならガラガラの電車が立っている人であふれるという状況。びっくりしました。ですから、そんなこととは知らずに裏道を案内する計画だったのですが、うまくこれが当たりました。

 関宿は結構歩いていらっしゃるようなのですが、裏道はほとんど知らていませんのでそれなりに納得していただいたようです。(一安心!!)

 現場ではさすがにプロの集団、いろいろ注文がつきました。特にこの城壁がどのように囲繞しているかについてはケンケンガクガク。もちろんいろいろな解釈があることは既にご報告していますので、動じはしなかったのですが、皆さんの熱い眼差しは強く感じました。


(ほとんどの参加者が観音山の2カ所にある岩に登ってくれました。幸い晴れましたので絶景でした。)

 結構若い人が多かったので観音山の両岩にも登っていただきました。皆さんやはり感動の声を上げられていました(成功!!)

 奈良時代東海道の切り通し、城山、観音沖遺跡などを回っていただき、ナナナント見事に予定通り、15時20分には関駅に到着しました。

 想定外だったのは皆さんやはり不便な関からは一刻も早く帰りたいらしくだれも飲みに行こうとしなかったことなのです。なもんで、一旦は事務局のR大学KTさんと津に戻りかけたのですが、二人で呑んでも仕方ないし、じゃ「帰ろ!」と亀山でUターン、すると再び関駅で奈良方面に帰る人々と合流皆さん方の「???」の目線は気にせずに京都へ向かいました。


(この風景ともしばらくお別れ。本年度の最大の収穫でした。有り難う皆さん。)

 帰りの汽車は宮崎へこれから帰るというSHさんと喋り続け。大学の問題やら中国の話題やら、我々の両親の問題やら・・・あっという間に着きました。でも彼女はこれから宮崎、元気ですね!!お気をつけて!

 そんなこんなの一日でした。これで一応の区切りがつきました。後は三々五々お見えになる方を御案内して、今年の鈴鹿関報告はそろそろ店じまいです(あ、城山報告を忘れてた。また元気が出たら臨時特番しましょう!)

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景観論争-1  日本橋・久留倍遺跡・大和北道路の条

2006-11-04 20:50:15 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(平城京羅城門付近の高架道路。既にあちこちに高架は通っているのですが・・・)
 1日には木簡学会の委員会があり、奈良文化財研究所に行きました。そこで気になる話を伺いました。京奈和(大和北)道路という平城京跡のど真ん中を通る自動車専用道路の件です。平城宮跡の下をトンネルで通るという案は何とか避けられたのですが、平城京を通ることについては何ら変わっていないのです。
 平城宮は避けてその東の方をトンネルで通過するのですが、平城京の真ん中辺りでトンネルは顔を出し、高架で京内を縦断するというのです。さらに聞くところによると、この京奈和(大和北)道路にアクセスするための各種市内道路が大幅に拡幅され、多くの遺跡が破壊される予定であるとのことです。驚きました。平城京を最新のアスファルト道路で覆い尽くそうとするかの如き案です。
 しかし、あまりそれを批判する声が盛り上がっていません。日本考古学協会も一時宮城下をトンネルで通過する際には声明を出したようですが、その後大した動きもないと聞きます。果たしてこれでいいのでしょうか。


(日本橋の真上を通る首都高速道路。誰もここに橋があるなんて気付かないのじゃないでしょうか。)

 私が、最も危惧するのは「日本橋問題」です。即ち景観です。
 日本のこれまでの保存運動は遺跡(遺構)の保存に重点を置いて取り組んできました。もちろんこれまでの保存運動は、とても周囲の景観にまで手が回らなかったの現実です。そして、これまでの運動の成果があったからこそ今言えることなのですが、そろそろ積極的に景観も含めた総合的な保存対策を求めるべき時に来ているように思うのです。大和北道路は、環境アセスメントをしている段階です。まだ何とかこの道路の再考を促すことは十分可能だと思います。

 日本の古代宮都の中でこれほどまでに古代の景観をよく残している都は平城京をおいて他にはありません。もちろん、平城京内には既にJR奈良線の高架が醜い姿をさらしています。この建設の際には全く話題にもならなかったのが不思議なのです(どこがどんな発掘調査をしたんですかね)。他にも例の国道24号線のバイパスが平城宮の東を南北に貫いています。もう文化財関係者(私も含めて)は慣れっこになっているのかも知れませんね。
 でもこれ以上にょきにょきと高層建築物を奈良市内に建設させていいものでしょうか。せっかくの「古都」のイメージが崩れてしまうと思いませんか。
 ではどうするのか?先の宮城内の時と同様に京内にもたくさんの木簡が埋没しているものと思われます。すると京内だからといって、トンネルにするのも考え物です。もちろん春日山の中を通すのはもっと問題でしょう。となると京奈和道路の計画自体が問題なのではないでしょうか。交通渋滞の緩和を市民が求めているのなら、奈良市内への乗り入れを規制する以外にないのではないでしょうか。道を何本造っても追いかけごっこです。それよりもロンドンの交通規制を見習うべきではないでしょうか。今のロンドン市長は労働党内の異端児として敬遠され、市長選に立候補した際、公約として「ロンドン市内への一般通行車両の規制」を掲げ、当選した人物です。もちろん労働党ですら冷ややかな目で見、「そんなもんどうせうまくいくはずがない!失敗して次回落選すればいいんだ!」こんな調子だったらしいのです。ところが、罰金を取る制度を開始し、規制を加えると市民は公共交通機関に切り替え(あるいは自転車での通勤が増え)、市内の交通渋滞は一挙に緩和され、市民の大喝采を浴び、もちろん再選されたというのです。確かにそういえば、今春ロンドンを訪れたとき、市内の交通量は極めて少なく感じました(初めてのことだったので特に気にはしていなかったのですが、今から思えば、この規制が生きていたんですね)。


(これぞ名物ロンドンの2階建てバス。しかしこんなに道は空いている!!)
 やはり奈良でも思い切った規制をかけるべきではないでしょうか。その代わり路面電車を復活させ、バスを増便すれば市民の不便はさほど増えないと思うのです。他府県からやってくる観光客は全て市街でストップし、公共交通機関に乗り換えさせればいいのです。イタリアではこれが当たり前になっています。トラックやバスは通過するだけのものはよそを回ってもらえばいいではありませんか。こんな方法で交通緩和を行うべきではないでしょうか。

 時々京都駅の上にある駅びるの店から夜、京都市内を眺めることがあります。そのたびに思うことは、京都の落ち着きです。ほとんど真っ暗です。東京では考えられない景色です。だからこそ京都に人はやってくるのではないでしょうか。低い木造の民家が町屋を形成する。その古さに魅力を感じて世界中から人々が集まる。もしこの町に高速道路が走り回り、一時議論になったようにニョキニョキと高層ビルが建ち並ぶ、こんな京都に誰が来てくれるもんですか。


(こんなに広い道となっているんです。おそらく運転者は何も感じないでしょうね。) 
 先日ある会議のついでに日本橋を見てきました。おそらく東京の人々は何がそんなに問題なのかと思ったに違い有りません。あの低俗な東京都知事は日本橋を別の所に移せとまで言っています。下品な彼の発言はともかくとして、普通の人でもあの上の高速道路を移すために5000億円余を投じることにはそう簡単に納得することはできないでしょう。それくらい高速道路は町の景観に溶け込んでいました。両側4車線の立派な道路の一部として多くの車が行き交う日本橋です。今更高速道路をはずしても見える青空はほんの少しです。しかし、それでも空の少ない東京には必要だというのです。私もそう思います。景観を破壊すればどんなしっぺがえしが来るのかが判る反面教師として「日本橋問題」を考えるべきだと思うのです。
 つまりこれからの行政は、景観(とりわけ歴史的景観)に十二分に配慮を加えて各種計画を立てなければならない、という警鐘のモデルとして、5000億円はムダではないと思うのです。言い換えれば、今後二度とこんなもったいないことはしませんからこれだけはお許し下さいという、お詫びの印としての5000億円です。


(この素晴らしい景色は間もなく見えなくなります。そして既成事実を積み重ねようと着々と前後の橋脚工事は進められています。)

 ところが全くこの教訓を活かそうとしないのが先の奈良市の京奈和(大和北)道路であり、四日市市の久留倍遺跡なのです。特に久留倍遺跡はせっかく国の史跡に指定しておきながら、史跡指定の根拠にもなっている景観を破壊してしまうというものなのです。どうしてこんなことが許されるのでしょうか。信じられません!行政の方々の鈍感さにはついて行けません。

 しかし、市民の皆さんは決して鈍感ではありませんでした。この怪しい雰囲気を嗅ぎつけて、市の計画する姑息な「整備計画」を地元住民に暴露し、その実態を知らせ、市民の力で再考を促そうというプランを作られたのです。

 11月12日四日市市大矢知市民センタで10時から12時の予定で、「久留倍遺跡を考える会」の皆さん主催で「説明会」を開こうというのです。素晴らしい発想です。
 にもかかわらず、市の文化財係長からは早速「何で市民が勝手に「説明会」をするんだ?そんなものは市教委がするもので、あんたらがするもんではない!」とどやしつけられ、圧力がかけられたそうです。
 不思議なことですね。だって市教委は市民に対して、久留倍遺跡の整備に対する意見を公募しているんですよ。これがいかに形式的な、市民を装った「ふり」だけのものかと言うことがよく分かりますよね。市民に本当の姿を伝えないで「遺跡の整備案を出してください」なんてよくもヌケヌケと言えるもんだと思いませんか。
 だから今の計画を説明し、それが適切かどうかを皆さんに聞いてみようというのです。結局のところ「被害」を受けるのは地元の方ですものね。それで地元の皆さんが、どうお考えになるか、それが全てではないのですかね。まさに行政のやるべきことを代わりにやってあげようというのです。何で叱られないといけないのですかね。ホント、、恥ずかしい!!

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