昨日は第2回「壬申の乱ウオーク」であった。朝8時半に近鉄伊勢朝日駅(桑名の少し四日市より)に集合し、9時出発、12時解散で約7㎞を歩く予定であった。8時25分に駅に着くともう20人ほどの人が受付を済ませて私の持っていった資料を待ちわびていた。
ボストンバックにA4一部30数枚の資料を100部抱えるとたいそう重く(そのせいか今日は朝から肩が痛い!)、駅までの距離を考えると少し減らそうかな・・・と思っていたので、「やっぱり、そんなに来るわけないよな・・」という思いがよぎった。
(最初は30人くらいであったが・・・久しぶりに伊勢朝日駅は乗降客が3桁になったに違いない!??)
ところがである。30分の受付の間に駅に着く電車(意外とたくさんの電車が30分間についてこれもびっくり)から次々と人が降りてくるのである。次第にふくれあがった駅前広場。とうとう資料がなくなったという。出発時で120人、ついた時には150人に膨れあがっていた!嬉しい悲鳴である。
一応念のために馬先生の案内のために車で向かっていた学生部隊には大学によって残りの資料をもってこいと指示がしてあったので、「済みません、後でお渡ししますから・・」とお断りをしてその場をしのいだ。
何せ今回のコースは縄生廃寺を除くとほとんどひたすら歩くだけ、健脚コースなのである。縄生廃寺自身も丘の上にあるお寺だから、これもそれなりに登らなければならない。そんな中を中学生くらいの子供さんから杖をついたお年寄りまでまさに長蛇の列を作って歩いた。先頭が目的地についてもなかなか最後が到着しない。そんな「ウオーク」だから予定の時間をオーバーして、途中の説明も少しカットして、ひたすら歩いた。疲れた!
縄生廃寺は昨年、ドイツで(全国的にも極めて珍しい)唐三彩の椀が展示準備中に破損して一躍有名になったが、考古学界では瓦をやっていなくとも地方寺院としては極めて有名なお寺跡である。これほどの遺跡が何故国史跡にならないのか、その建設由来の極めて明白なお寺なのにどうして放置されているのか不思議な遺跡である。
現地は孟宗竹のうっそうとした林を抜けた丘の最頂部にある。こじんまりとした基壇の中央に塔心礎が埋もれている(今は土の中に埋もれてみることができない)。発掘調査の事情を知る森逸郎先生が当時のエピソードを語って皆さんに親しみを与えてくれる。聞く所によると、今は皆さん学校の校長や教頭になっていらっしゃるらしい。そんな先生が子供に夢を語ってくれると嬉しいのだが、どうも最近の教育現場はそんな自由を許さないらしい。残念!!
(縄生廃寺塔基壇に集合?した120余人の大見学者群。円筒はに子さん、ほら、君たちの作ってくれた資料をこんなにたくさんの人々が読んでくれたんだよ!大学でつまらない講義に真面目に出席するよりどれだけ君たちのためになったことか!?机上の学問だけでは世の中から置いてけぼりにされるのが今の三重大学人文学部!!書を持って、町に出よう!もちろん感謝してますよ、皆さん方の献身的なお手伝いに!)
私は主に何故この地に塔が建設されたのかをお話しする。「ウオーク」の良さは実際にその地を体感できる点である。口々に「何でこんな高い所にお寺を建てはたんやろ?」「ホンマに持統さんや天武さんはこんな坂をあがらはたんやろか?」等と囁きあっておられるのが聞こえてくる。それを意識して説明する。
皆さんどうしてこんな高い所にお寺が建ったと思いますか?
お寺跡の目標としたのが高圧線鉄塔だったのを憶えていますか?
あれは下からよく見えましたよね。この塔がどんな大きさだったのかは実際のところよく分かりませんが、恐らく竹林もなかった当時には下から相当立派に見えたに違いありません。後で訪ねる朝日町の資料館に模型が展示してありますから想像と重ね合わせて下さい、
つまり当時の為政者達は、最高の技術と財宝を入れた最高の文化施設であるお寺を周りからよく見えろ所に建てたのです。
一番注目できるのは、当時としては最高級の陶器である中国舶来の唐三彩とよばれるお椀が塔の心礎に納められていたことなのです。屋根に葺かれていた瓦も当時の国の寺に用いられた「山田寺式」と天皇のお寺に使われた「川原寺式」が用いられています。とても地方の一豪族が建てられる代物ではありません。
7世紀後半にこの地と中央とを繋ぐ歴史的事象として知られているのが壬申の乱です。特に大海人皇子達が一時的に拠点とし、持統天皇はそのまま残ったとされる「桑名郡家」はこの地とさほど離れていない可能性があります。森先生のお話にもありましたようにこの付近には「ドングダニ」という地名もあります。もしこれが「頓宮谷」に由来するならこの地も桑名郡家の有力地となります。いずれにしろ、このお寺の建立には天皇が深く関わっている可能性があります。
こんな話をした後、「ウオーク」のために出勤していただいていた朝日町教育委員会の竹内さんから昨年発掘した万古焼きの窯(発掘調査地は直ぐ眼下にある)についても説明をしていただく。
朝日町は万古焼き発祥の地として知られており、町もこれを売りにしているから当然発掘調査された窯は遺されるのかと思っていたら、知らない間に破壊されていた。政治家の口だけは今更いうことでもないが、どうして日本ではこれほど文化が軽んじられるのだろうか、といつもながらため息がでた。
さてこれからが「ウオーク」である。ひたすら歩く。本当は、東海道推定地や大海人皇子天照大神望拝推定地の一つ・朝明川で説明をする予定だったのだが、参加者の何人かに捕まってお話しをする内に最後尾になってしまい、気がついたらそのポイントを先導の森先生はとっくに過ぎてしまっていた。
大慌てで最後尾から駆け足で追いつこうと走ったがなんと500㍍くらいに伸びてしまった列に追いつくことはなく、仕方なく最終到着地の久留倍遺跡に先回りして列を待つことにした。
幸いなことに数日後に空撮を控えて四日市市の発掘現場はシートがはずされていた。本当にラッキーだった!なぜか?実は最終到着地久留倍遺跡で現在三重大学久留倍遺跡第2次発掘調査をしているのだが、既にご報告した通り、今のところ、何も出ていないのである。この何もない現場をどう説明しようかと思案していたのであるが、四日市市の現場と合わせれば何とか説明はできる。幸い遺跡の中にはいることは断ってあったので、最頂部から順番に遺跡を下りながら、自説の「段を用いた三重構造の遺跡=頓宮」を案内する。
日頃の行いがいいのか!?ウオークは今回も快晴である。伊勢湾まで一望できる丘の上で見学者は遺跡のスケールの大きさに圧倒されていた。前日の講演の後、一緒に伊勢の魚に舌鼓を打った馬先生も現場に来ていただいていたので、雲夢遺跡や清の離宮との違いについてお尋ねしたが、スケールの違いはあるものの立地が大変興味深いというご指摘を受けた。嬉しかった。
最後の見学者が現場を離れたのが2時半。その間学生達は現場で平板測量をやっていたが、こちらも朝からの歩きづめで疲れきった(どこかから軟弱者目!と言う声が聞こえてきそうだが・・・)。早めに現場を切り上げて大学に戻ったら5時だった。今日の夜に『延喜式』の研究会があるので、そのまま車で京都に向かう。京都の家に着いたのが19時半。
さすがの僕も直ぐにお風呂に飛び込んでゆったり!!でも京都での日課となってしまった息子の息子との「対話?」が待っている。少々手抜きをして相手をしている内に「相手」が眠ってしまったので、一緒にうたた寝。気がついてみると朝だった。息子の息子はお母さんおところに引き取られていったらしい。姿はなかった。
何もしないうちに眠ってしまったので大急ぎでメールをチェックし、忘れない内にとブログを書いた次第。
これから長岡宮朝堂院西第二・三堂の発掘調査が最後だと言う噂。ちょっと珍しく時間があるので見に行ってこよう。
→ と11時半頃に出かけたのですが、なんとKT所長に許可を得ていないから駄目だということ!勝手に見せると担当者に害が及ぶらしいので、隙間からそれこそ勝手に覗いて帰ってきました。
→ アーびっくりした!発掘現場のファシズムがここまで達しているとは。そろそろ反ファシズム・ヒットラー打倒!統一戦線を構築する時期ですかね。
(13時40追記)
(どうして誰もぎりぎりまで教えてくれないのですかね??最近の長岡京の発掘は市民にも研究者にも秘密なのかしら?僕に見せるとまた「保存」とうるさいからですかね。でもこの第二・三堂にしろこの前の門闕にしろ、そして今、所長自ら外部に秘密を漏らすな!という厳命の下?掘っているという噂の内裏正殿-でも天下の発掘調査をどどうして隠せるんですかね-
→ もちろんこの噂だって朝堂院のことだって、つい最近会った向日市在住の市民の方が教えてくれたんですよ。発掘調査現場を隠せだ何て、そんな馬鹿な!国民の税金で掘っているはずですよね。私達には知る権利がある!一部の無能な調査員に遺跡が破壊されることを阻止する権利もあるはず!なんとかしてよこのファシズム!(13:40追記)
にしろ、みんなまだ私が向日市の職員だった時に市長決裁までもらって、文化庁の全メンバーと協議し、追加指定を確認したものばかりなのに!今頃内緒で掘ってどうするというんですかね。もちろん史跡指定にするんですよね。でなければ意味がない。残して当然の遺跡ですから。もしこれが破壊されたら前代未聞!長岡京最悪の汚点でスモンね。)
全国の多くの市町村が「財政」を理由、盾に、遺跡保護を放置、放棄している現状をいかに打開するのか、日本考古学に求められている最も深刻で最も重要な課題なんですがね。どっかの協会さんも、研究会さんもお口ばかりで行動しませんよね。いいのかしら?もちろん私がやっていることだって、所詮久留倍遺跡なんていうちっぽけな遺跡の保存、保護、活用運動の一環に過ぎませんけどね。でもどうして大学の先生は「ご講演」ばかりで、お高い所からしかものをご覧にならないんですかね??寂しい、悲しい!!
(午後からも30人を超える見学者が私達の現場を訪れてくれ、熱心に説明を聞いてくれた。特に地元の飯田さんからは周辺の地形や子供の頃の話等々一杯教えてもらった。感謝感謝!!)
まだ二回しか終わっていない「壬申の乱ウオーク」、目標50回に向けて第三回は5月13日(土)「柘植の山口から加太へ」と題して関西本線加太駅周辺を歩くことにしています。8時30分集合です。ささやかな遺跡保護、活用活動の一環です。
今回のように朝日町が積極的に応援してくれたのには大変助かります。これから次々と自治体を繋いで、夢は「壬申の道」整備です。バイパスやら高速道路やらよりはよほど安く、人々のためになる歩く道を整備し、県内の市町村の遺跡を訪ね歩く、こんな道の実現に向かってこれから奮闘しようと思っています。
遺跡を個別に保存するのではなく網の目のようなネットワークを実際の歩く道で繋ぎ、相互の最新情報で遺跡への関心を保ち続ける、「広域史跡群保護・活用システム」を構築したいと夢見ている今日この頃です。応援下さい!!
ランキング登録もよろしく