yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

【訃報】 恩師潮見浩先生がお亡くなりになりました

2006-02-13 14:13:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 正確なお亡くなりになった日もよく分からないのです。
 とにかく誰にも言うな、葬儀は密葬にしろ、弔問は受けるなと言うことでお亡くなりになったそうです。

 つい先日、川越哲志先生を失ったばかりなのに・・・・。

 どうして?と叫びたくなります。
 桓武天皇の心境がよく分かります。次々と私の恩師・恩人が亡くなり、病に倒れていく。私が先に逝けばよかったのに!俺が何か悪いことでもしたか?と問いたくなります。寂しい!

 先生はまさに私の恩師です。大学に入った時から出る時までいつもニコニコなさっていて、決して大きな声を出されることはなかった。それどころか滅多に出てこない考古学の演習で発表すると、褒めてまで頂いた(日本の旧石器の遺跡を調べて報告するという課題だった。今でもその時の報告の原資料は大事に、お守りのように大切に持っている)。きっとこんな奴叱る値打ちもないわ、とお思いだったのだとは思うのだが、そんなそぶりも見せず丁寧に過ちをただし、ご指導下さった。

 昨年11月の40周年にはかなりお弱りになってはいらしゃったが、ご出席なさっていたと聞いた。(アー、こんなことなら講演をすっぽかしてでも広島に行くんだった!悔やまれてならない。)

 学生時代に潮見先生と会話をしたのはほんの数回である。むしろ就職後には何度かお話しする機会があった。その中でも一番印象的なのが、初めてご自宅へ、博士号を頂いたご報告に上がった時のことである。とても喜んで下さって、珍しく(というより私にとっては初めて)先生と世間話も含めて1時間ばかり楽々園のご自宅でお話を聞いた。今でも鮮明に、印象的に脳裏に残っている。

 もう私は外にはあまり出て行かないから、こっそり消えていくから、みんながんばれとも仰っていた。

 それでも葉巻をくゆらすことは止められなかった。きっと先生の命を縮めたのがこれだとは思うが、しかし、いつもゆったりと、いかにも大学人!という感じで葉巻をくわえられている姿はとても真似の出来ない貫禄であった。

 大学移転の時に文学部長の重責を果たされ、小さくなった研究スペースを申し訳なく思われて、考古学のスペースを割かれたというエピソードも、いかにも先生らしいな、と思ったものである。

 なにかに付けあまり出しゃばることはなく、常に悠然とまるで世界を達観した布袋様のような感じで接して下さっていた先生を失うつらさはこの上ない。川越、潮見と、まさに我々世代を支えて下さって先生を一挙になくし、広島大学考古学研究室にかかる重圧はとてつもなく大きいと思う。しかし、みんなで先生方のご意志を受け継ぎ、日本考古学に少しでも貢献できるよう頑張りたい。せめてもの私の決意である。

【久留倍報告-6】 びっくりした!150人の条

2006-02-13 10:16:32 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は第2回「壬申の乱ウオーク」であった。朝8時半に近鉄伊勢朝日駅(桑名の少し四日市より)に集合し、9時出発、12時解散で約7㎞を歩く予定であった。8時25分に駅に着くともう20人ほどの人が受付を済ませて私の持っていった資料を待ちわびていた。
 ボストンバックにA4一部30数枚の資料を100部抱えるとたいそう重く(そのせいか今日は朝から肩が痛い!)、駅までの距離を考えると少し減らそうかな・・・と思っていたので、「やっぱり、そんなに来るわけないよな・・」という思いがよぎった。



(最初は30人くらいであったが・・・久しぶりに伊勢朝日駅は乗降客が3桁になったに違いない!??)

 ところがである。30分の受付の間に駅に着く電車(意外とたくさんの電車が30分間についてこれもびっくり)から次々と人が降りてくるのである。次第にふくれあがった駅前広場。とうとう資料がなくなったという。出発時で120人、ついた時には150人に膨れあがっていた!嬉しい悲鳴である。
 一応念のために馬先生の案内のために車で向かっていた学生部隊には大学によって残りの資料をもってこいと指示がしてあったので、「済みません、後でお渡ししますから・・」とお断りをしてその場をしのいだ。

 何せ今回のコースは縄生廃寺を除くとほとんどひたすら歩くだけ、健脚コースなのである。縄生廃寺自身も丘の上にあるお寺だから、これもそれなりに登らなければならない。そんな中を中学生くらいの子供さんから杖をついたお年寄りまでまさに長蛇の列を作って歩いた。先頭が目的地についてもなかなか最後が到着しない。そんな「ウオーク」だから予定の時間をオーバーして、途中の説明も少しカットして、ひたすら歩いた。疲れた!

 縄生廃寺は昨年、ドイツで(全国的にも極めて珍しい)唐三彩の椀が展示準備中に破損して一躍有名になったが、考古学界では瓦をやっていなくとも地方寺院としては極めて有名なお寺跡である。これほどの遺跡が何故国史跡にならないのか、その建設由来の極めて明白なお寺なのにどうして放置されているのか不思議な遺跡である。
 現地は孟宗竹のうっそうとした林を抜けた丘の最頂部にある。こじんまりとした基壇の中央に塔心礎が埋もれている(今は土の中に埋もれてみることができない)。発掘調査の事情を知る森逸郎先生が当時のエピソードを語って皆さんに親しみを与えてくれる。聞く所によると、今は皆さん学校の校長や教頭になっていらっしゃるらしい。そんな先生が子供に夢を語ってくれると嬉しいのだが、どうも最近の教育現場はそんな自由を許さないらしい。残念!!



(縄生廃寺塔基壇に集合?した120余人の大見学者群。円筒はに子さん、ほら、君たちの作ってくれた資料をこんなにたくさんの人々が読んでくれたんだよ!大学でつまらない講義に真面目に出席するよりどれだけ君たちのためになったことか!?机上の学問だけでは世の中から置いてけぼりにされるのが今の三重大学人文学部!!書を持って、町に出よう!もちろん感謝してますよ、皆さん方の献身的なお手伝いに!)

 私は主に何故この地に塔が建設されたのかをお話しする。「ウオーク」の良さは実際にその地を体感できる点である。口々に「何でこんな高い所にお寺を建てはたんやろ?」「ホンマに持統さんや天武さんはこんな坂をあがらはたんやろか?」等と囁きあっておられるのが聞こえてくる。それを意識して説明する。

 皆さんどうしてこんな高い所にお寺が建ったと思いますか?
 お寺跡の目標としたのが高圧線鉄塔だったのを憶えていますか?
 あれは下からよく見えましたよね。この塔がどんな大きさだったのかは実際のところよく分かりませんが、恐らく竹林もなかった当時には下から相当立派に見えたに違いありません。後で訪ねる朝日町の資料館に模型が展示してありますから想像と重ね合わせて下さい、
 つまり当時の為政者達は、最高の技術と財宝を入れた最高の文化施設であるお寺を周りからよく見えろ所に建てたのです。

 一番注目できるのは、当時としては最高級の陶器である中国舶来の唐三彩とよばれるお椀が塔の心礎に納められていたことなのです。屋根に葺かれていた瓦も当時の国の寺に用いられた「山田寺式」と天皇のお寺に使われた「川原寺式」が用いられています。とても地方の一豪族が建てられる代物ではありません。
 7世紀後半にこの地と中央とを繋ぐ歴史的事象として知られているのが壬申の乱です。特に大海人皇子達が一時的に拠点とし、持統天皇はそのまま残ったとされる「桑名郡家」はこの地とさほど離れていない可能性があります。森先生のお話にもありましたようにこの付近には「ドングダニ」という地名もあります。もしこれが「頓宮谷」に由来するならこの地も桑名郡家の有力地となります。いずれにしろ、このお寺の建立には天皇が深く関わっている可能性があります。

 こんな話をした後、「ウオーク」のために出勤していただいていた朝日町教育委員会の竹内さんから昨年発掘した万古焼きの窯(発掘調査地は直ぐ眼下にある)についても説明をしていただく。
 朝日町は万古焼き発祥の地として知られており、町もこれを売りにしているから当然発掘調査された窯は遺されるのかと思っていたら、知らない間に破壊されていた。政治家の口だけは今更いうことでもないが、どうして日本ではこれほど文化が軽んじられるのだろうか、といつもながらため息がでた。

 さてこれからが「ウオーク」である。ひたすら歩く。本当は、東海道推定地や大海人皇子天照大神望拝推定地の一つ・朝明川で説明をする予定だったのだが、参加者の何人かに捕まってお話しをする内に最後尾になってしまい、気がついたらそのポイントを先導の森先生はとっくに過ぎてしまっていた。
 大慌てで最後尾から駆け足で追いつこうと走ったがなんと500㍍くらいに伸びてしまった列に追いつくことはなく、仕方なく最終到着地の久留倍遺跡に先回りして列を待つことにした。

 幸いなことに数日後に空撮を控えて四日市市の発掘現場はシートがはずされていた。本当にラッキーだった!なぜか?実は最終到着地久留倍遺跡で現在三重大学久留倍遺跡第2次発掘調査をしているのだが、既にご報告した通り、今のところ、何も出ていないのである。この何もない現場をどう説明しようかと思案していたのであるが、四日市市の現場と合わせれば何とか説明はできる。幸い遺跡の中にはいることは断ってあったので、最頂部から順番に遺跡を下りながら、自説の「段を用いた三重構造の遺跡=頓宮」を案内する。

 日頃の行いがいいのか!?ウオークは今回も快晴である。伊勢湾まで一望できる丘の上で見学者は遺跡のスケールの大きさに圧倒されていた。前日の講演の後、一緒に伊勢の魚に舌鼓を打った馬先生も現場に来ていただいていたので、雲夢遺跡や清の離宮との違いについてお尋ねしたが、スケールの違いはあるものの立地が大変興味深いというご指摘を受けた。嬉しかった。

 最後の見学者が現場を離れたのが2時半。その間学生達は現場で平板測量をやっていたが、こちらも朝からの歩きづめで疲れきった(どこかから軟弱者目!と言う声が聞こえてきそうだが・・・)。早めに現場を切り上げて大学に戻ったら5時だった。今日の夜に『延喜式』の研究会があるので、そのまま車で京都に向かう。京都の家に着いたのが19時半。
 さすがの僕も直ぐにお風呂に飛び込んでゆったり!!でも京都での日課となってしまった息子の息子との「対話?」が待っている。少々手抜きをして相手をしている内に「相手」が眠ってしまったので、一緒にうたた寝。気がついてみると朝だった。息子の息子はお母さんおところに引き取られていったらしい。姿はなかった。

 何もしないうちに眠ってしまったので大急ぎでメールをチェックし、忘れない内にとブログを書いた次第。

 これから長岡宮朝堂院西第二・三堂の発掘調査が最後だと言う噂。ちょっと珍しく時間があるので見に行ってこよう。

→ と11時半頃に出かけたのですが、なんとKT所長に許可を得ていないから駄目だということ!勝手に見せると担当者に害が及ぶらしいので、隙間からそれこそ勝手に覗いて帰ってきました。

→ アーびっくりした!発掘現場のファシズムがここまで達しているとは。そろそろ反ファシズム・ヒットラー打倒!統一戦線を構築する時期ですかね。
(13時40追記)


(どうして誰もぎりぎりまで教えてくれないのですかね??最近の長岡京の発掘は市民にも研究者にも秘密なのかしら?僕に見せるとまた「保存」とうるさいからですかね。でもこの第二・三堂にしろこの前の門闕にしろ、そして今、所長自ら外部に秘密を漏らすな!という厳命の下?掘っているという噂の内裏正殿-でも天下の発掘調査をどどうして隠せるんですかね-

→ もちろんこの噂だって朝堂院のことだって、つい最近会った向日市在住の市民の方が教えてくれたんですよ。発掘調査現場を隠せだ何て、そんな馬鹿な!国民の税金で掘っているはずですよね。私達には知る権利がある!一部の無能な調査員に遺跡が破壊されることを阻止する権利もあるはず!なんとかしてよこのファシズム!(13:40追記)

にしろ、みんなまだ私が向日市の職員だった時に市長決裁までもらって、文化庁の全メンバーと協議し、追加指定を確認したものばかりなのに!今頃内緒で掘ってどうするというんですかね。もちろん史跡指定にするんですよね。でなければ意味がない。残して当然の遺跡ですから。もしこれが破壊されたら前代未聞!長岡京最悪の汚点でスモンね。)


 全国の多くの市町村が「財政」を理由、盾に、遺跡保護を放置、放棄している現状をいかに打開するのか、日本考古学に求められている最も深刻で最も重要な課題なんですがね。どっかの協会さんも、研究会さんもお口ばかりで行動しませんよね。いいのかしら?もちろん私がやっていることだって、所詮久留倍遺跡なんていうちっぽけな遺跡の保存、保護、活用運動の一環に過ぎませんけどね。でもどうして大学の先生は「ご講演」ばかりで、お高い所からしかものをご覧にならないんですかね??寂しい、悲しい!!



(午後からも30人を超える見学者が私達の現場を訪れてくれ、熱心に説明を聞いてくれた。特に地元の飯田さんからは周辺の地形や子供の頃の話等々一杯教えてもらった。感謝感謝!!)

 まだ二回しか終わっていない「壬申の乱ウオーク」、目標50回に向けて第三回は5月13日(土)「柘植の山口から加太へ」と題して関西本線加太駅周辺を歩くことにしています。8時30分集合です。ささやかな遺跡保護、活用活動の一環です。
 今回のように朝日町が積極的に応援してくれたのには大変助かります。これから次々と自治体を繋いで、夢は「壬申の道」整備です。バイパスやら高速道路やらよりはよほど安く、人々のためになる歩く道を整備し、県内の市町村の遺跡を訪ね歩く、こんな道の実現に向かってこれから奮闘しようと思っています。

 遺跡を個別に保存するのではなく網の目のようなネットワークを実際の歩く道で繋ぎ、相互の最新情報で遺跡への関心を保ち続ける、「広域史跡群保護・活用システム」を構築したいと夢見ている今日この頃です。応援下さい!!

 ランキング登録もよろしく

【久留倍報告-5】 第4回シンポジウム大成功の内に閉幕の条

2006-02-12 07:19:56 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 昨日13時から朝明プラザで開催された第4回久留倍遺跡シンポ人ジウムはこの間の地元の方々の圧倒的支持を得て、今回も300人を超える圧倒的多数の地元市民の方々の参加を得て大成功の内に終了することができました。これもひとえに準備、企画、広報、会場設営とあらゆる面で全面的に活躍いただいた「久留倍遺跡を考える会」の皆様方のお陰です。心から感謝いたしたく思います。

本来なら私が前座を務める所、私の大いなるミスのために(その上さらにミスが重なって)、八賀先生にトップバッターをお願いすることになってしまった(先生には結局ご講演の謝礼も受け取っていただけず、まさにボランテア講演で本当に申し訳なく、と同時に厚く感謝した次第です)。
八賀先生にはこの間の三重県北部における瓦の構成要素を中心に、壬申の乱における伊勢湾北部の状況を考古資料から語っていただきました。

 次いで、山口大学の馬彪(マ・ピヤオ)先生から、秦の始皇帝の時代の皇帝の巡幸、巡幸地について、熱く語っていただきました。始皇帝は全国各地を巡幸するために馳道という専用道路を造り、在地の神々に対する信仰を掌握しながら、全国統一を実体化させていったのでしたが、その巡幸地こそが禁苑であるとのご指摘でした。禁苑は三重に囲繞され、侵入者に対する刑罰を定め、後の衛禁律の基礎ができたというお話しは特に興味深く、久留倍遺跡をはじめとする日本の行宮・頓宮を考える上で大変参考になりました。

特に驚いたのが、巡幸先での地元神の祭りでした。圧倒的軍事力でただひたすら諸国を蹴散らして統一を図ってきたと思っていた始皇帝が、心掌握のために祭祀を執り行ったという点は、壬申の乱における大海人皇子の天照大神望拝、聖武天皇関東行幸時における伊勢神宮奉幣などの行為とも重なる所がありより興味深く拝聴することができました。

雲夢(オンボウ)木簡の分析から巡幸地が禁苑とよばれていたこと、木簡の中に「始皇帝」の名が見えることなど実に想像を絶する考古資料の威力を知ることもでき、現在調査中の久留倍遺跡において近い将来木簡が出、天平十二年と書かれたものが出る確率の高さをもまた実感することができました。有り難うございました。

会場の皆さんも、大学の講義並みの難しい内容にもかかわらず、実に熱心にお聞きいただいたようで、講師の馬先生も地元の方の熱心さにひたすら感心されていました。

その直後の私の話は三重に囲繞する施設のあり方が日本律にも継承されていたことが久留倍遺跡の遺構群の検討から見られるというものでした。

これから「壬申の乱ウオーク」に出かけます。また両日の詳細は今夜にでもご紹介することにして、第四回シンポの速報をお届けいたしました。

ランキング登録もよろしくね

【久留倍報告-4】 基準点測量完了!の条

2006-02-09 22:05:22 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 今日も一日寒風だった。特に午後からの冷え込みはかなり堪えた。しかしそんな中大根たっぷり、白菜新鮮、葱取れたて、豚豚水炊き大昼食会は6人の参加を得て「美味しい!」連発の心温まるお鍋だった。少し冷や冷やしたのは今日は大学の事情で出発が遅れ、石油ストーブに鍋をかける時間が余りなかったことである。何せ20人分はあろうかとも思われる大鍋に水を入れて用意するのである。まず湯が沸くのに随分時間がかかった。何とか昼少しまで仕事をしてお鍋が熱くなってから仕事を止めるという念の入れよう!で、鍋の体制も整い、12:45頃には完成した。

 もちろん具は大根が主流なのだが、やはり火力が弱いせいか少々生煮え状態。でもどうせ大根下ろしでも食べられる大根である、ごりごり言わせながら食べた。豚の甘みが絶妙でとにかくあっという間に具はなくなり、おうどんを入れてご飯代わりとした。ちまたでは遺跡の発掘を止めて大根を発掘しているという噂が流れているとか。

 その通り!!事実ですよ。私は毎日大根を掘ってます(そういえば博士に朗報!参加学生の姉が大根大嫌いなんだそうです。有力な信者獲得ですよ)。

 史跡になる予定の久留倍遺跡なのに、何にも出ないのです。出るのは地山と水ばかり。だから暇なので大根堀に精を出しているのです。

 さて仕事の方は調査地の平板測量と基準点座標測量が本日のメニューであった。平板は何とか経験した学生もいて、さらに、今年の考古学演習の授業を受けていた(私のところの学生ではない)学生も来てくれたので、比較的スムーズに進んだ。

 実は今年度、18人もの学生が私の「日本の民族と文化演習Ⅰ」つまり考古学実習の授業を受講した。未だに理由はよく分からないのだが、困ったことだけは事実である。なぜなら、用具が揃っていないのである。室内での遺物整理に関する実習では特に復原の用具や、実測の用具など、あちこちからかき集めてやっと間に合わせることができた。野外でも平板やレベル測量を行い、最後にはトランシットでの基準点測量やその計算までやった。途中で大学院生のTAがいなくなるわ、斎宮での現地実習が十分にできないわ、等のトラブルもあったが、それなりに内容の濃い一年間であった。その成果が生きたのである。

 平板がスムーズなのにひきづられて、私は他大学からの応援学生のYSさんと久しぶりの光波による測量である。彼女のテキパキとした行動のお陰で実に速く測量を終えることができた。感謝!!
 予め近くにある既存の測量ポイントを業者の方に教えておいてもらったので、わずか3カ所の測量を行うだけで調査現場に基準点を移すことができた。ラッキーである。

 途中作業の合間を縫って、新しい地主さんの承諾書をもらうことができ、トイレ休憩時には「章姫苺」なる珍種のイチゴを買い、3時の休憩時には干し芋(なんと389円もした!タケー)を焼きながら談笑するなど、実に多種多彩で、充実した一日であった。明日は11日シンポ・12日ウオークの資料作りのため、大学で作業である。さてうちの学生がきちんとできるのかこれが一番の悩みの種である。

 ランキング登録もよろしく

【久留倍報告-3】 測量開始!だが・・・・の条

2006-02-09 06:25:35 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日の雪でトレンチは冠水。でも畦を切ってやれば水は自然と抜ける。まだ発電機も水中ポンプも何もない現場なので、この自然に任せる方法で排水をしつつ平板の準備にかかる。

 まず四日市市のやっている現場にある水準の基準点を借りて其処からレベルを移す作業である。目と鼻の先だが高低差が4㍍ほどあるから二三度仮の点を置かないといけない。しかし、30分もあればできるだろう、とたかをくくっていた。ところがなかなか学生が動く気配がない!何してるんだろう?と作業現場を訪れて唖然とした。

 基準ポイントの真上にレベルが立っているのである。

 これまで何回となく発掘現場に来ていたはずの学生である。レベルなどは考古学実習で二年生の頃に一通り教えるが、その後は現場で先輩から後輩へと技術伝承が行われていく。ところがこの年の学生はどうもいろんなことが伝承されていないのである。実はその二つ上の学生が大変しっかりしていて、何でもテキパキするもので、任せっきりだったのである。彼等に大抵のことを言えば仕事はスムーズに進む。学生の信頼も厚く、先輩、先輩と慕われている。実はこれが大問題だった。

 私も信頼しきっていたので、当然その技術は下の学年に継承されていると思っていた。ところがみんなおんぶに抱っこ、任せっきりで自分でやろうともしなかったし、彼等も自ら教えようとも思わなかったらしい。悲劇はここに潜んでいた。

 完全な私の指導ミスである。

 大学に来てからいろんなマニュアルも作った。それらを毎年継承するように指導もしてきたつもりだ。事実この年までは何の問題もなかった。しかし、学生の質は少しずつ変わってきていることに気付くのが遅かったのである。

 手取り足取り教えたことは実によく憶えているし、よくやるのである。少々の難題でも、命令すればやるのである。しかし、自ら何かをしようとは思わない。特にそれがみずからに必要でなければ。

 結局半日かかりレベル教室を開講する羽目になってしまった。これから先の発掘を想像するだけで心が重い。午後からは会議があるので、一通りの作業を指示して大学に戻った。
 しかしその後現場は、涙雨とも恨み雪ともつかぬ天候悪化で、せっかくの排水作業もおじゃん!報告によると何もできなかったとのこと、さらに心が重くなってきた。

 でも沈んでばかりもいられない、見通しのない現場に見切りを付けて(この現場は学生の教育実習に使うことにする)、新しい現場探しに奔走する。今回の地主さんは大変親切な方なので、直ぐにこちらの希望地の所有者さんに交渉に行ってくれた。畑で作業中の地主さんは快くいいよ!と仰ってくれた。後は書類だけだ。少し光が見えた。

 何とか当初の希望の低湿地を発掘することができそうだ。もちろん掘ってみないと分からない。この先このメンバーでどうなるかも分からない。でもこれが発掘というもの。気を取り直して今日から再挑戦だ。

 大根畑ともおさらばなので今日の昼はストーブを使って鍋である。大きな鍋に大根、白菜、葱(これら全て目の前のもの)、そしてこれに買ってきた豚を入れて豚汁を作るというのが昨夜からの構想なのだが・・・、果たしてうまくいくかどうか。この顛末はまた明日。

 (皆さん!特に山田博士!!ここなら大根はありません。あるのは低湿地なので蒲ばかり。きっとめちゃくちゃ水が湧くやろな。何か出たらまたこの場を借りて報告します。出たら来て下さいネ。)

 ランキング登録もよろしく


【久留倍報告-2】 大根大収穫の条

2006-02-08 04:43:45 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


(このテントの下に大根が植わっていた!今もまだ成長していないのを横に移植して育てている。た の し み ! 現場に鍋を持っていてみんなで昼休みに鍋をしようと言っている。博士をご招待したいな・・・・?でもきっと信仰を理由に来てくれないだろうな・・・)

 実は今回発掘調査させて頂いた土地の一角には小さな畑が付随していました。

 地主さんのご厚意でその場所にテントを立てさせていただいたのです。ところが空いている場所が少なく、やむなく大根畑の一角に建てることになったのです。

 他に結球しなかった白菜、葱もありましたが、地主さんはいくらでもあるから抜いて持って帰れと言うのです。学生が喜んだの何のって、大根はさほどでもなさそうですが、とにかく野菜は高い!しかし美容と健康には一番!!特に大根はジアスターゼが入っていて食欲促進にもぴったり。でも肥えない!??

 大根30本(直径10センチ長さ40センチほどの大きさのものから各種)、葱10束ほどを車に積んで持って帰りました。今も車が大根臭いくらい。

 本当は家にそのまま持て帰りたかったのですが、今週は帰れず、大学と官舎で臨時野菜配給所を設けて配りました。もちろん学生には真っ先に、付近の先生方にも押しつけました(ひょっとしてYY先生にももらってもらったが、密かな大根教の信者だったら申し訳ないが・・・確か信者数一人とのたもうていたから大丈夫だろう)。

 感謝感謝の初日でした(土器はたったの3片でした)。
 ちなみに翌日の弁当には大根がちゃんと入っていました。新鮮で美味しかった!!(誰が作ったかって?内緒!)

 (きっとこの記事を見た博士は朝から気分を害しておられることだろう。でも大根嫌いな人って唯一あなただけですよ!変わってる。きっと大根の臭いの残る発掘現場なんて来てくれないだろうな・・・・)

 ランキング登録もよろしく

【久留倍報告-1】 三重大学久留倍遺跡第二次発掘調査開始の条

2006-02-07 09:12:25 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


(2カ所のグリッドとその間を繋ぐサブトレンチ。南から。)


 先の予告通り、三重大学の久留倍遺跡第二次発掘調査を開始しました。昨日試掘のためのグリッド2カ所とそれを繋ぐサブトレンチを入れました。ところが当初の予想通りではあったのですが、北半分は旧地形である丘陵部分を削平して平坦地を形成したことが直ぐ分かる地山でした。南端にわずかに水田形成以前かと思われる包含層が残り、敷地境を経てその南に所在が確認されている谷(を利用した道路跡)に至るようです。土地借用交渉の過程で、この結果はある程度見えていたのですが、あるいはもう少し急激に落ち込んで低湿な平坦面が残っているかと淡い期待を抱きましたが、残念でした。

 実は今回の借用地の直ぐ東に一段落ちる南北に長い土地があるので、その位置を掘りたかったのですが、地主さんの方角占いの関係で断念せざるを得ませんでした。私のような占い不信心者にはその信仰が全く理解できないのですが、仕方ありません。信仰の自由ですから。
 そこで急遽新しい発掘候補地を探すことにし、周辺を歩き回り可能性のある土地をさらに探すことになりました。



(今回の調査地全景。 西から こんな風景も道路ができれば見られなくなる。本当は向こうに見えるアパートの裏を掘りたいのですが・・・。)
 実はこんな徒労をしなくとも、行政がきちんとした文化財保護法に基づく「仕事」をしていれば、久留倍遺跡の範囲はもっと詳細に、正確に分かったはずなのです。
 三重県全体に言えることですが、日常的な立会調査が全くと言っていいほど為されていないのです。久留倍遺跡の周辺にはおそらく北勢バイパス建設を見込んでのスーパーマーケットやらなにやらのお店がいくつも新築されているのです。またこうした都市開発に対応してか、あちこちで下水工事や道路工事が為されているのです。ところがこうした工事に対する発掘調査も立会調査も十分に為された形跡がないのです。極めつけは現在調査中の目と鼻の先で行われた用水路の付け替え工事に対し、発掘調査どころか、立会調査すら行われなかったのです。聞くところによるとこの工事は発掘調査の最中に行われていたらしいのです。直ぐ横には四日市市の発掘調査員が仕事をしていたはずです。しかし誰に聞いても立ち会いなんてしてなかったというのです。

 この場所こそ、私の言うところの低地の土地利用を解明するキーポイントになる地点なのです。遺跡を南北に縦断して大昔からあった用水路を二倍以上に拡幅したらしいのです。もしこの工事に対して立会調査をし、地層断面図を作成していれば、遺物も採集できたでしょうし、久留倍遺跡の低地部分が一挙に見通しできたはずなのです。

 私は発掘調査には常に全体的な見通しが必要であることを申しています。与えられた場所だけを掘ってことたれりとするのではなく、周辺の歴史的、自然史的、地理的環境を十二分に踏まえて調査しなければならない!と口が酸っぱくなるほど学生には言います。これは長岡京の発掘調査にいち早く京域の調査を導入された高橋美久二さんの卓見に学んだからです。

 一九七〇年代初頭、古代宮都の発掘調査は未だに宮城域を中心に進められていました。しかし、平城京や平安京に京域があることは自明にもかかわらず、これら京域に対する行政指導はほとんどなく、わずかに国の公共事業(バイパス建設)に対して発掘調査をするだけでした。このため、一九七〇年代に進んだ列島開発によりどれだけ多くの京域内の遺跡が無断で破壊されたことでしょう。
 そんな中で、高橋さんは長岡京に京域があるかどうか、学界においてすら明確な指針が出されていなかったにもかかわらず、府立高等学校建設に際し事前調査を実施されたのです。その成果はいち早く概報として刊行され、と同時に長岡京域全域が周知の遺跡として指定されたのです。もしこの英断がなければ今日の長岡京研究の成果はなく、未だに長岡京仮の都論や幻論が学界を覆っていたに違いありません。
 
 高橋さんの偉大さは、鋭い考古学的、歴史地理学的研究成果に基づく、そして普通の学者には真似の出来ない先を見通した行政方針の決定にありました(それ故、高橋さんは京都府から疎んじられ、中枢部から排除され、結局大学に出られることになってしまったのです。京都府下の行政にとっての最大の痛手でした。)。できるだけ広い視野で、「もしこの先にもっと何かがあるとするならどのようなものがあるのだろうか、そしてそのためにどんな対策が必要なのか。」、こんなことを常に考えながら「行政指導」なさっていました。だからこそ全国に先駆けて、奈文研の導入していた国土座標に基づく測量を長岡京に取り入れられたのでした(私もその学恩に与りました)。
 長岡京域を小字に基づき、記号化し、遺構の表記方法も数字と記号で決定し、さらに遺跡の調査に字数を付けて管理することも全て高橋さんの発想であり、指導でした。そのお陰で、私達は長岡京の発掘調査が今何回目に当たるのか(先日算えると一八〇〇回を超えたようです)、が瞬時に分かるようになったのです。

 久留倍遺跡の調査もまた、発見された正倉や郡の政庁的遺構にだけ注目するのではなく、視野を外に広げ、壬申の乱や聖武の関東行幸に刮目すれば、当然遺跡の周辺に存在するはずの「東海道」に関心が及ぶし、大海人皇子天照大神望拝の地や聖武の朝明頓宮に関心が及ぶはずなのです。
 私は仮説として久留倍遺跡第Ⅱ期の遺構が朝明頓宮ではないかという考えを持っていますから、科研費を使って、その根拠を補充するための調査を実施しているわけですが、しかし、所詮年間二〇〇万円程度のお金では掘れる場所は限られています。それよりも、四日市市の、三重県の調査員が自覚を持って文化財保護法に基づき行政指導すれば、いくらでも周辺の「分布調査」を大規模にすることができるのです。これこそ彼等の「仕事」ではないでしょうか。行政にいる発掘調査員の仕事は与えあれた現場をこなすだけではありません!

 私はかつて、長岡京域のどんなに小さな工事にも目を光らせ、立会を実施し、工事現場の関係者と喧嘩をしながら(時には上から「うめたろか!」と脅されながらでも)、遺跡の広がりを調べました。その中でも印象的なのは、下水工事に際し、立会していた時に大量の木簡に遭遇したことです。もちろん工事は中止してもらい、周辺の調査を実施したところ、多くの木簡を発見すると共に長岡京域の条坊やその宅地内部を横切る溝を発見することができました。それどころか、私達が立会する前に廃棄されてしまった土砂に木簡が含まれている可能性に思い至り、遙か二〇㎞も先の隣の隣の市まで行って木簡を見つけました。それらの「成果」は、後に『長岡京木簡二』となって刊行されました。遺跡破壊に対する責任感です。

 私は発掘調査は遺跡の破壊だと常に自覚して調査しているつもりです。発掘調査ですらそうなんですから、立会なんてものはもっとひどい破壊です。そして工事に際し何もしないことは最大の破壊です。そしてこれら全て文化財保護法にきちんとやってはいけないことだと書いてあります。こんにち「仕事がない」といって、職員のクビを切る自治体(あるいは他部局へ異動させる)がつぎつぎとでています。わたしの前の職場でも15年も勤務した嘱託職員がクビになろうとしています。しかし「仕事がない」なんて大嘘です。あちこちで遺跡の中を無断工事しています。行政は遺跡の破壊に何もしていないのです。久留倍遺跡の用水工事放置はその典型です。仕事がないから、仕事が継続しないから、嘱託職員でいいとか、嘱託職員からクビを切るというのは全くの行政の法律違反です。もっと真面目に「仕事」やれ!と声を大にして言いたいです。任期付き嘱託職員ではなく、正規の職員をもっと増やせ!とどうして堂々と言わないのですか?あちこちの工事の立会に今の職員が走り回らないから「文化財は暇なんだ」と思われるのです。

 話が少し横にそれました。そんなこんなで久留倍遺跡の第二次調査がスタートしました。今日は参加学生がいないのでやむなく大学で他の仕事です。あすから再開します。時間があれば一度見に来て下さい。平日は発掘してます。

 それと宣伝を一つ。

 2月11日に第四回久留倍遺跡シンポジウムを開きます。地元「朝明プラザ」で13時からです。近鉄富田駅から徒歩30分(タクシーで5分)くらいのところです。報告は八賀晋さんと馬彪さん(山口大学・東洋史)です。八賀さんには壬申の乱と東海を考古学から語ってもらいます。馬さんには中国の行宮や禁苑について最新の木簡情報を取り入れながら話してもらいます。もちろん私の予断と偏見による久留倍遺跡朝明頓宮説の補強のためです(笑い)。12日には「第2回壬申の乱ウオーク」も開催します。8:30近鉄伊勢朝日駅集合。9:00出発です。7㎞ほどの距離を半日歩き、縄生廃寺や朝明川、そして久留倍遺跡周辺を案内します。次回は5月13日(3ヶ月おきの第2土曜が開催日です)、加太から伊賀を目指します。毎回関係する資料を作っています。50回の予定です(生きていれば)。全部歩けば壬申の乱のコースを踏破できるはずです。興味のある方は参加して下さい。お待ちしています。



(久留倍遺跡のバイパス工事部分では現在最後の詰めが行われている。最頂部からは13世紀頃の火葬墓群が発見されている。来年の卒論で「火葬」についてやりたいという学生がいるので連絡したが返事もない。物も見ずに卒論を書くというのがこの頃の学生の傾向である。指導不足は私の責任だが、結局のところ遺跡や遺物に何の興味も持たない学生が考古学にやってきて、格好だけ付けているようにしか見えない。寂しい限りである。しかし、上記の教育委員会に属する調査員も、所詮「仕事」(但しそれも中途半端)で発掘しているだけなのだ。これでは遺跡が可愛そう!!)

 ランキング登録もよろしく

【主張】 屍になっても靖国神社には行かない!

2006-02-05 01:15:54 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 今日は第6回考古学研究会東海例会が静岡大学であった。TB大学のOTさんが岐阜に来ていただいて熱い議論を提示して下さってから早くも半年が経つのである(今回も来ていただけるかと、お風呂に入らずにお待ち申していたのに、お風呂談義ができず、残念!!)。今回は、弥生文化の地域性を、東海地方の東西の両端、静岡清水平野と濃尾平野で比較するという試みだった。その詳細はまた後日するとして、今日は少し過激な発言を・・・。


 私は学者ではありません。私は冷静に、客観的に物事を見続けることはできません。所詮、愚かな一人の人間です。だから靖国神社の資料館が博物館学の対象としてどんなに優れていても、絶対に見学には行きません。それを、予断と偏見に充ち満ちた「偏向学者」の行為だと非難されようとも、どんな強制を受けようとも、生きて靖国の鳥居をくぐるつもりは全くありません!

 もちろん私の頭にインプットされた「靖国情報」はある種の「偏向」に基づく情報かも知れません。しかし、戦前、全国民が靖国神社の崇拝を強制され、天皇のためにと言って自らの命を無駄に捨てさせられたことだけは事実です。そんな神社が未だにあること自体が間違っています。本来戦後直ぐに解体されるべき物でした。そして今日、その過ちが妖怪のごとく日本列島を覆おうとしています。私には既に戦前の社会が再現されているようにしか見えません。

 靖国神社に参れないものは「非国民」「埒国家北朝鮮の金正日と同じ!」と毎日新聞が書き立てます。これに異を唱える新聞、言論は全て、「偏向」「北のスパイ」です。こうして恐怖感を煽り立て、物言うことを少しずつ押さえ込むというのがかつての方法でもありました。そして今、同じ光景が繰り返されつつあります。

 単純な総理大臣は、無駄な死を捧げた人々に詫び、二度とその行為を繰り返さないために、靖国神社に参るだけだと言っています。本末転倒です。もしそうだとするなら、彼は靖国神社を廃止した上で、全国の戦死者の一人一人の墓を訪れ、一人一人にわびるべきです。死ぬまでその行為を繰り返すべきです。そうすれば彼は最も信頼すべき政治家と評価されるでしょう。

 もちろん私は正当学者としての山田博士の行為を否定するつもりはありません。ただ単に、「私は」しない!と言っているだけです。私は学問にそれほどの自信がありません。客観的に資料を読むなどと言うことはとてもできません。私の原点は、「客観的」ではなく、「人間的」です。もちろん人間的で客観的であるのが理想です(山田博士はこれができます)。しかし私にはできません。目の前で人が殺されている時、自ら手を下さなくとも、辿れば自分の黙認がその人々に死をもたらせていると想像するだけで、私は客観性を失います。いえ失ってきました。これからもそうあり続けたいと思います。

 誤解しないで下さい。極めて感情的な私には靖国神社を客観的に「見る」ことができないのです。博士のように隅々まで気配りのできる学者こそ見学なさるにふさわしいと思います。しかし、恐らく、その見学者の99.99999・・・%の人々はそうではないでしょう。彼等、彼女らの「感動」を誰が否定することができましょうか。

 私は、彼等、彼女らを靖国に行かせないことこそ大切だと思います。そして、靖国を否定するためにその博物館こそ見学させるべきだと思います。

 以前に韓国の朝鮮王国の宮殿復興や歴史遺産検証について触れたことがあります。私は今、何故、「チャングム」が韓国の、日本の人々の心を打つのか、その最大の要因は朝鮮王国が存在しないからだと思っています。当事者の子孫がいないから、チュンジョン王の治世を「ドラマ化」できるんです。

 博物館学の対象として、靖国のそれがそれほどまでに優れものの博物館なら、人権のための日本一の博物館を花園大学に造って欲しいと思います。今、戦争に向かう恋人との別れを美化した映画が上映され、「戦争はイヤだ」という若者達の反響で話題の映画があるそうです。涙した女性は異口同音に戦争を否定するそうです。しかし。それは今だから言えることです。戦争が始まった時、誰も戦争反対などと言うことはできません。既にそうした「空気」ができあがっているからです。では戦争が始まる前に?それはいつのことでしょうか?私には既に戦争は始まっているとしか思えません。小泉の靖国参拝が美化され、次期総理大臣として「靖国に参るのは総理大臣としての責務だ」と言い切る人物が最有力視されていること自体がもう既に、戦時下です。

 このブログを読んだその筋の方々が嫌がらせにお出でになる日もそう遠くはないでしょう。しかし、私は屍になっても靖国神社の鳥居はくぐりません!

 ランキング登録もよろしく

【警告】厚生労働省様 本当にタミフルは大丈夫???の条

2006-02-03 03:26:47 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 まだ鼻がむずむずするし、咳がなかなか止まらないのですが、インフルエンザは完全に克服されました。これ全てタミフルの効果?なのでしょうか、あな恐ろしや・・・。

 しかし大変なことに昨夜気づきました。この間の事件のためにたまりにたまった仕事を一つづつ片づけていたのですが、気がつくと明け方の5時半だったのです。

 ところがここに至るまでよく考えてみると全くと言っていいほど睡魔に襲われなかったのです。別に本人は特に意識して起きていたわけではないのに、普通に起きていて、そのまま朝まで起き続けることも不可能ではなかったのです(さすがに今日は2コマぶっ続け、少しは寝ておこうとベットに入りましたが)。

 どうしてだろう・・・、と寝ながら考えました。思いついたのが「タミフル」でした。この薬を子供が飲むと情緒不安定となり時には自殺に走る子供の例も何例か報告され、ある時期話題になりました。その後安倍晋三を始め、厚生労働省は「タミフル無害論」で必死で、今や結論として何の問題もないことになっています。本当でしょうか?私にはどうも裏に何かがあるような気がするのです。

 ところでタミフルをインターネットで調べると次のような症状がまれに出る場合があると報告されてます。
 腹痛 18(11.6%) 下痢13(8.4%) 頭痛11(7.1%)嘔気9(5.8%)嘔吐7(4.5%)  腹部膨満 6(3.9%)
どこにも心配された症状は出ていません。しかし、タミフル(オセルタミビル)の添付文書には、「精神・神経症状(頻度不明) 精神・神経症状(意識障害、異常行動、譫妄、幻覚、妄想、痙攣等)があらわれることがあるので、異常が認められた場合には投与を中止し、観察を十分に行い、症状に応じて適切な処置を行うこと。」と書かれてあるという(私は町医者にもらったのでそんな注意書きはどこにもなかった)。

 私自身が「子供」の肉体?なのかもしれない(或いは元々興奮しやすい!!)が、それにしても昨夜の行動はどうも尋常では考えられない。さらに気づいたのはよく考えてみると治りかけてから仕事に追われて特に意識はしなかったのだが、睡眠時間が極端に少ないのである。これも、緊張しているからかなー・・・、なんて考えていたが、ひょっとして・・・・!

 さすがに情緒不安で道に飛び出したりはしなかったが、大いに考えられるのではないだろうか。少なくともその覚醒効果たるや抜群である事は間違いない!背筋がゾゾットした。まだまだインフルエンザは流行していくようである。万一皆さんがこの薬のお世話になる場合にはやはり少し意識しておいた方がいいのではないだろうか。

 ちなみに町医者に行って笑ってしまったことは、医者もインフルエンザが怖いらしいことだった。症状を説明するとすぐにマスクを与えられ、小さな診療室の廊下の突き当たりの勝手口の所に椅子を与えられ、ドアーを開け放たれて座らされ、外気が入るため寒いのを気にして看護婦さんが膝掛けを暮れて、ポツンと座らされた。なんと、診察結果も、薬の説明も、金の支払いも全てその場で済まされ、私は院内を歩くことはなかったのでした。どうも「隔離」されたようでした。

 とにかく「タミフル」効果でわずか数日の内に懸案が3つも片づいた上に、最後の授業も無事?済ませて今夜に至ったわけです。もちろんまだまだ山のような仕事が残っているのですが、少し気持ちも晴れました。そこでナナナント、昼間に官舎に帰って、懸案のベランダ大掃除をしたのであります。

 なんせ、鳩たちは私がほとんど家にいないことをよくごぞんじで、わがベランダは格好の休憩所、避難場所、場合によっては愛の巣になるのであります。これまでにも雛はかえるは、卵は散乱するはで、この苦労だけで私は官舎を出たい!と訴えているのですが誰も取り合ってはくれません。
 鳩よけのネットを張っているのですが(実際には何の効果もない)、これに時々侵入者が何をどう間違えてか知りませんが、首を突っ込んで死ぬのです。今回が二例目(作業中に危うく三例目が発生するところでした)。ネットから鳩をはずして、このためにできた穴を再びビニール紐で補修して、・・・・。こんな作業を2時間もしてとうとう夕方に。

 そうだ!風呂に入ろう!ということで、風呂を沸かせて三日ぶりの入浴。今夜は気分爽快、身体も綺麗、何でこのまま寝られんのや!と言いたいんですが・・・、マ、私のずぼら故、仕方ありません。明日からは久留倍の発掘準備です。神様はやはり私をぎりぎりまでこき使おうというおつもりのようであります。

 今日で病気話はおしまい。もっと学問的な話題を書かなくっちゃ!
榎村博士の昨夏の第146次調査地=「井上斎王内院説」はじっくりお説を拝読してから自説「大伯皇女内院説」を披瀝(するほど大したもんじゃないんですが)しようと思います。
 ところが今日(と言っても実際は昨日の昼)、たまたま内の同僚の先生の話題に出たので、少し、斎宮歴史博物館のことについて話題にしてみよう。

「この前、斎宮で会議があるというので、事前に博物館をこっそり見に行ったのだけれど、寂しかったですね。そもそも展示に華がないですよね。」と言うのがいきなりの彼の言。

 彼は話題の斎宮博物館再生のための「学者会議」のメンバーなんだけれど、ほとんど諦めてましたね。「あれでは無理だわ」と。

 ※ だから榎村説でも、山中説でも、○×説でも、市民勝手案でも何でもいいからみんなが案を出してそれを展示する、こんなコーナーがあるとおもしろいのではないだろうか。博物館再生は、そこに参加してみようと気を起こすかどうかが問題なんですよね。

 彼は、「町の人が斎宮にリアル感を持っていないのが最大の問題ではないか」という。中国近世史をやっている彼には、古代という素材があまりに遠い他人の物に見えるようであった。確かに古代は「ロマン」とは言われるが、親近感を持って扱われることは余り無い。斎王、斎宮への親近感!新たな難題をもらった感じだった。

 直接斎宮歴史博物館再生とは関係ないのだが、私は以前から、「おかげまいり」を伊勢国再生のプロジェクトとして利用できなものかと思案している。
 
 最近の若者は何かというと「連」というのを作って、同じユニフォームに身を包んで踊りたがる。毎年行われる「津祭り」も、まるで金太郎飴のように様々な衣装(と彼らが思っているほど個性的ではないと私には見える)に身を包んだ若者が踊るらしい。その頃になると三重大にも練習と称して若者が夜中に集まって騒いでいる。

 いっそのこと全国から踊りながら伊勢に来ればいいのにと思うのだ。どうせ勝つチームが決まっている大学駅伝にエネルギーを費やすくらいなら、号令一家、8月15日の正午を目指して、全国から「ええじゃないか」と踊り狂う「連」が到着する。8月になれば次々とやってくる「連」で国道23号線は通行不能に!こんな光景、見てみたいと思いません?

 (アッ、ひょっとしてこれタミフルの影響による誇大妄想かしら)

ランキング登録もよろしく


【拝啓】皆々様方 タミフル飲まされ・・・の条

2006-02-01 03:06:37 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 タミフルを飲まされました!

 まさか自分がそんなもののやっかいになるとは・・・。
お陰でインフルエンザビールスは死滅したらしく、ようやく高熱と関節炎がひきました。皆様の暖かいお言葉のお陰です。

 実は一昨日はKF大学の最後の授業・補講をやったあと、打ち上げまで用意していただいていたのですが、とてもそんな元気がなく、本当に本当に申し訳なかったのですが、急遽延期していただきました。学生の皆さん済みませんでした。

 でもお陰でこの一日の睡眠が随分身体を楽にしてくれ、どうしても今日中にやらないと行けない三重での仕事もあったものですから、何とか朝早く起きて、戻ってきました。
 何せここ数日愛知県のCH大学の教務課から電話が鳴りっぱなしだったらしいことを昨夜知ったのです。とにかくこの大学は事務がめちゃくちゃ強いのです。事務室にいくと、いるわいるわ一杯職員がいるのです。その彼等の横柄なこと、ほとんど非常勤なんて「雇ってあげてる」態度なんです(もちろん言葉遣いだけはそんじょそこらの国立大学より丁寧ですよ→そこがまた彼等のうまいところ、国立の下手なところ)。試験終了後5日以内に成績をアップしろだの、レポート締め切り後5日後に期日厳守で成績を報告しろだのとめちゃくちゃ厳しいのです。恐らく正規職員は厳しく守らされているのでしょうね。だからよけいに非常勤には輪をかけて厳しいのです。

 へそ曲がりな私はこういう態度を取られるとできるだけゆっくりやろうという気になってしまいます。これまでも度々事務から催促の電話がかかり叱られていたので、札付きの非常勤でした。今回はべつにそんな意識はあまりなかったのです。というのも、来年度で辞めるからなのです。正直いって、学生の質ももうひとつだし、事務もこんなだし、おまけに通勤にやたら時間がかかるので、この大学にこれ以上義理立てすることもないだろうという結論に達したのです。元々私が好んでいった非常勤ではないのです。あるところから頼まれたものでもう一つの三重県のSK大学と共に来年から綺麗さっぱり辞めることにしたのです。お金なんかより、今や時間がどれだけ貴重か!!(そう決めてからの開放感!)。

 だから普通に成績付けておさらばしようと思っていたのです。ところが今回のインフルエンザ事件、先週末には提出していなければならなかったものが今週になっても音沙汰ない、「くそあの非常勤め!また遅れやがって!」と怒り狂う事務屋さんの顔が浮かびました。それくらい頻繁にかかっていたようです。だって、寝室に携帯なんか置いてませんもん。ずっと鳴ってたらしく、あまり鳴りすぎて最後は電池切れで携帯がダウンしてました。

 しかしたった5日でレポート読め、成績付け、ちゅうのも余りに事務中心主義だと思いません?こっちには本務校の仕事もあるし(だって国立は今でも授業だし)、それでなくとも忙しい身体なのに、ちょっとくらい時間をちょうだいよ!と言いたくなる。でも非常勤で食ってる人はそうもいかんでしょうね。

 まだ鼻水ずるずる、咳ゴホンゴホン状態の中、やっとこさっと昼から集中して、さっき成績完了。

 さらばCH大!!

 二度と行くもんか。

 実は授業ではその日の最後に感想をB6の紙に書かせて提出させるのだけれど、これがなんと、SK大学より中味がひどい(ゴメンねSK大学の皆さん)。確かにSK大学の学生は留学生ばかりだし、日本人は体育会系が多く、特に男は大抵寝てるし・・・。こんな状況でこれまた授業がイヤでイヤでたまらなかった。

 実は最近、学生アンケートに対する三重大学の外部評価の意見の中にとある高校の校長のコメントがあり、「たとえ1割でも学生が授業に不満を抱いているのならその学生達が不満を解消できるような授業改善を心がけるべきだ」とのたもうていた。

「ええ加減にしいや!」と言いたかった。
「一体大学教育をどこまで程度を下げろちゅうんや!」それこそ、高等学校がどんどんレベルを下げ、高校生のレベルにも達しない高校生をどんどん輩出してきたから今のようなとても大学生のレベルに達していない学生の集まる大学ができたんやありませんか。自分たちの教育ミスを大学におしつけんといて欲しいわ!。先日卒業論文が締め切られ、今審査しているが、とても大学生の文章とは思えないものが1割ある。とても悲しい。そういう学生に限って、何故か就職が決まっている(体育会系でもあるから)。間もなく国立大学の文化系は崩壊するのではないですかね(イヤ僕は理科系の学生は本当のところもっと危ないと思っている)。

 話を元へ戻そう。
 そんなどうしようもないSK大学なんだけれど、最近は少し楽しくなってきていた。何故か。感想文を書かせるようになってから割と真剣に聞くようになって、文章もまとも!CH大学ときっと偏差値でも随分と違うのでしょうけれど、どうしてこんなことになるのか、不思議な気持ちだった。

 最近その答えが見つかった。マスプロ授業!だと思う。SK大学は1学年全部でたったの100人しかいない小さな大学。だから授業に100人以上の学生が来ることはあまりない(私の授業も35人が50人くらい入れる教室なのでちょうどいい) 。ところがCH大学は教室からして200人前後座れる教室がいくつも用意されている。私の授業は受講生65人くらいだけれど、これがまた広い教室の後ろに固まってわいわい騒ぐ。注意しても効き目は暫くだけ。これだから授業に集中できないんだと思う。もちろん前の方には真面目な学生が数人陣取っているから、その子等向けに決して質は落とさずに授業はしてるんですよ。彼等が何も聞いていないということが授業後のアンケートを読めば直ぐ分かる。

 事務・学生・システムどこにも教育や研究の出てこないにも係わらず、私達はそれをも大学とよばなければならない。そしてそもそもこういう大学を認可したのが文科省である。国を挙げて物言わぬ無教養の「大学生」を輩出し、その就職率を競わせる。理科系の学生には地理も歴史も必要ないと教えない。数学さえできればまるでそれが人間としての価値を決めるかのごとく高く評価する。そんな学生ばかりが再生産される大学こそ解体されなければならないのだが、今やもう誰もそれを言うことすらできなくなってしまっている。このまま日本はどこへ行くのだろうか。そしてしらん間にそれがまるで「団塊の世代」のせいだとでも言わんばかりの記事が溢れかえっている。みんな無責任に「個」だけを主張しているようにしか見えないのだが・・・・。

 タミフルを飲んだにもかかわらず、「不安に駆られ、屋上から飛び降りたくなるような心境」にもならず、何とか因縁付けの根性だけは復活しつつある今日一日でした。

 「鬼の居ぬ間の長岡京」も聞きたかったのですが、今日はとりあえず、何とか復活にこぎ着けた「鬼」からの報告でした。アー明日から発掘調査の準備にかからねば・・・・。

 ランキング登録もよろしくね