yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

洛陽・鄭州・鄴城-5 憧れの殷虚にての条

2009-08-30 01:21:23 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 憧れの殷虚!!皆さんも是非一度訪れてみて下さい。
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 今日で今回の洛陽から偃師→鄭州→登封→安陽→鄴城踏査は終わりです。この3人組で行くと大抵、いろんなトラブルやら思いがけない出会いやら、予想外の遺跡の発見など、様々なことが起こるのですが、予想に違わずやはり今回も、ありました。

 ところが二三日前から風邪をひいてしまって、何とか毎日現場には出ていたのですが、ブログを更新する元気が無くて、帰って、ご飯を食べると暖かくしてバタンキュウ!毎日8時間以上寝ていました。二日間でベットはぐっしょり、二つあるベットを交替交代に使っていたので何とかなりましたが、毎日汗で濡れた下着の洗濯もせにゃならず、疲れました。そんなこんなで今朝まではひょっとしたらインフルエンザではないか!と疑っていたのですが、どうやら危機は脱したようで今夜は少し元気になりましたので、忘れないうちにここ二三日の分をアップしておきます。
 と安心していると、仲間のMB先生が先程から調子が悪いと言って先に寝てしまいました。やはりインフルエンザだったのかしら!?申し訳ないことをしました。

 さて、8月27日はいよいよ鄴城へ!と思っていたのですが、社会科学院の先生方の都合もあり、鄴城へは28日に行くことになりました。代わって最後に行く予定の殷虚博物館と殷虚遺跡の発掘現場、そして安陽の北60キロほどの郊外にある唐代の方塔を見学することになりました。

 午前中に修定寺という寺院跡に残された方塔を見に出かけました。さほど期待はしていなかったのですが、見てびっくりなかなかのものでした。


修定寺の現在の山門



南からの塔



屋根の頂部



壁面は修復されているが古代のものもよく残っており、素晴らしい姿を見せてくれている。









 じっくり見ていたかったのですが、そうも行かず、1時間ほどで、安陽に戻ることになりました。それにしてもどうして正方形なのか、その理由はよく判っていないようです。図柄の中にもインドの動物などが出てくるようで、丁寧に図像を分析すると面白いのかも知れません。

 食事の前に発掘中の殷虚遺跡を見学させてやるというのです。大規模な工場建設の事前調査のようで、数年前から何回かに分けて調査しているようです。残念ながらここは写真も禁止なのでメモを取ってきました。
 それによると1箇所では轍の跡が発見されていました。車輪自身の跡が、日本古代とは比べものにならないくらい幅広く、約20㎝くらいあり驚きましたが、午後から殷虚博物館を訪れて、車馬坑を見学し、その幅の広いことに納得しました。
 もう1箇所では廊下で繋がった建物跡を見学しました。掘立柱建物の柱跡に自然石を入れたものがあり、礎石とも説明されました。よく判りません。



正面入口



入口を入ったところ



展示品のいろいろ



 さて、憧れの殷虚遺跡です。

 というのも、私は小学校4年生の頃に聞いた「インカの少年」というラジオドラマが考古学への興味の最初なのですが、実はこれを確実なものにし、何としても考古学のある大学に行こう!!と決定的な印象を与えたのが、洛東高校1年生の時に図書室で見つけたみすず書房の世界考古学のシリーズだったのです。

 中でもチャドウイックの『線文字Bの解読』はとても刺激的で何度も何度も読みました。そんな中でもう一つ離せなかったのが貝塚茂樹の『古代殷帝国』でした。だから、いつか死ぬまでに訪れてみたいところがインカ、殷虚、クレタ島だったのです。その一つも実現していなかったのですが、今回、鄴城探査のお蔭で訪れることができました。


沢山の骨製品も出ている.これは簪。



よく知られている青銅器群



権力が構築されると人間というのは本当にむごいことができるものである。これは人間の頭を青銅器に詰め込んで行われた祭祀の跡らしい。



典型的な青銅器。殷と言えば青銅器だが、今やこの文化は夏まで発見されてさらに遡る。



様々な玉器も出土している。



甲骨文字誕生の亀甲祭祀。漢方薬として知られていた亀甲を砕いた薬の中に小さな破片を見つけたのがきっかけだったというのはあまりに有名。





読めるだろうか、結構小さい字である。



車馬坑の展示状況。出土状況の写真。中には馬子も生け贄にされているものがある。



祭祀を執り行った建物群であろう。日本風の展示光景なのだが、説明も十分でなくちょっと手抜きかな?!



建物群の直ぐ横が墓域でもあったらしい。大量の墓地が人骨を復元して展示してあったのだが、既に展示施設に草が入り込み見えないものもあった。北京オリンピック時だけの管理だとすると悲しい!!



唯一未盗掘だった婦好墓。地下に遺跡が復元されている。



この墓は7層にも分けて版築され、その各層に犠牲が葬られていたという。これまた残酷な話しである。ただしこの版築が盗掘者の目を騙したらしく、建物跡と誤認した盗掘者は途中で諦めて今日に至ったという。



王陵群である。王の墓がまとまって設けられている。



官人であろうか、貴族であろうか、王族以外の墓が別にある。



この様に生け垣で王墓の位置が示されている。奈文研仕込みであろうか。
この施設まだ公開されていないらしく、整備途中だった。

なにせこの日は40度を超す猛暑、風邪も手伝って、参りました!!

 ただし、殷虚遺跡は殷虚博物苑に様変わりし、とても整った公園と化していました。僕のイメージでは、鄙びた田舎にぽつんと文物碑が建っていて、かつて村人達が薬の材料として売っていた甲骨文字のある亀甲採取の穴だけが何となく判るのかと思っていたら、とんでもない近代的博物施設でした。あまりに整いすぎていて。金太郎飴を見ているようで少し残念に思いました。このワンパターン、何とかならないのでしょうか。

 
  「殷虚にて 炎天下に臥す 人骨達」
 「轍往く 戦いの日々 蝉の声」
  「甲骨に 刻みたる文字 卜占の夏」
 「若き日の 憧れの地に 汗滂沱」

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昨日昼に食べたものがいけなかったのか、今度は激しい下痢に襲われて今朝からぐったり。なかなか簡単には帰らせてくれません。フーッツ。これから荷物をまとめて安陽から新幹線で北京に向かいます。今夜は中国の研究者では唯一と言ってもいい親しい友人との再会!楽しみです。

この続き(前半の洛陽の探査について)は帰国してからアップします。

洛陽・商城・鄴城-4 登封周辺の古城を踏査しましたの条

2009-08-27 01:59:01 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 古城寨よく残っているな!行ってみたいな!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 本当は日付順にご紹介したほうがいいのですが、ドンドン前のことを忘れてしまうので、昨日の踏査を先に紹介しておきます。

 道教の聖地中岳廟に到着。







 しかし我々の目的はその中岳廟のために後漢に設けられた闕を訪れることだった。



 太室闕は 中岳廟の真南500mほどのところにある闕である。ところがである。鍵がかけられていて公開してくれないのである。近くの監視所からおばちゃんが出てきたので頼んだが、河南省の文物局の許可があれば見せてやるというのである。何とか隙間から写真を撮ったが、残念ながら闕は写らなかった。



 太室闕に続いて近くの后母闕に向かった。
 どうせこの闕も非公開(事前に河南省の文物局に頼めば見ることができるらしい)なんだろうから、とあまり期待していなかったのだが、運良く親切な管理人さんが案内してくれた。残念ながらここでも写真は禁止なので素晴らしい闕の文面(延光年銘の2書体による記載:馬先生ご教示)や女性が蹴鞠をする画像などはお見せできません。







 后母闕の「ご神体」である山中の岩。


 さらにもう1基の闕などを見学しようとしたのだが、とんでもない運転手の法外な要求(予定外だから金を出せと言う。昨日からこんな話しばかりで早くこんな奴と別れたいので)、やむなく予定通り新密新砦に向かう。



中岳廟から道を尋ね尋ね、新密に向かう。



落書きやいたずらでよく読めなくなった文物碑



たまたま村の長老をつかまえることができ、親切に新密新砦を発掘している調査隊の事務所へ案内してくれた。そこは、中国社会科学院の現地整理事務所だった。事務所では鄭州市の若い担当者がとても親切に遺物等を見せてくださった。ちょうど女性の補助員?が土器の実測をしているところだった。とてもいい図面を採っていた。







新密新砦は三重に濠で囲われた二里頭(夏)早期よりやや古い遺跡だという。夏の時代において都市的景観を示す遺跡は新密新砦が最初だとも言う。



新密新砦の北西の角付近の現状。



若い調査員が隊長の命令で急遽駆けつけてくれ、北の中央付近の発掘現場へ案内してくれた。北の城壁?を北側から撮影。





隊の皆さんにお礼を言って次なる遺跡・古城寨へ。これがまた、とんでもない道調べとなった。皆様お疲れ様。



新密新砦から古城寨へ、道を尋ね尋ねながら進むと徐々に村人達の説明が具体的になる。少しづつ遺跡に近づいていることが判る。
    


 これがやっと見つけた古城寨の文物碑。

 そしてびっくりするくらいよく残っている城壁に圧倒される。





古城寨は夏はトウモロコシ畑のために見にくいが、もし冬だと壮大な城壁が一望できるはず。ここは北城壁(内部から見たところ)。時間も経ってきたので、鄭州へ急ぐ。それにしてもよく遺存している城壁である。夏以前とも言われるが、時期が明確になればより重要な遺跡ではないだろうか。



 大変な一日だったが、いいものを発見し、少し疲れも取れ、ホテルの近くで夕食。



ホントに疲れました!!

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こんな城壁が


洛陽・商城・鄴城踏査-3 公開できないのが残念です!私の頭の中を見に来て下さいの条

2009-08-24 08:36:52 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今日は漢魏洛陽城を中心に、北部の遺跡を回りました。明日からは東へ移動して偃師商城を起点に鄭州までの河南省の遺跡群を回ります。ご期待下さい。
 
 今回初めて上清宮に参りました。そして友人の健康回復を強く祈ってきました。 
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上清宮での祈り YK博士の奥様と、OH先生のご健康回復と、AEさんの奇跡の快癒を祈って唐代、洛陽随一の道教の道観上清宮で祈りました。



線香のあげ方を指導されました。



礎石や明代の碑文が残っています。



村人達に愛される現在の上清宮



復元された漢魏洛陽城(北魏)の閶闔門 二年前に来た時は整備中だった。



左右対称の門闕が宮城南面城壁に取り付く。この型式がいつから始まるかが問題だ。



漢魏洛陽城の大極殿の現状



魏の孝文帝の陵墓。直ぐ西に皇后の陵もある。



皇后陵



孝文帝陵から洛陽市街を望む



孝文帝陵の陵苑は三重に囲われている。その一番外側に残る壁の一部?



漢魏洛陽城の東面城壁と北面城壁の大整備現場(残念ながらここは撮影禁止!!看板はOK 右下の写真で想像して下さい。)

 時間が来ましたので偃師商城に向けて出発します。詳細はまた今夜。

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洛陽・商城・鄴城踏査-2 外郭城・宮城踏査の条

2009-08-23 09:05:05 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 先程メールを開けてみて大変嬉しいニュースが飛び込んできたので少し元気が出ました。私の親しい友人YK博士の奥様がご病気だと聞いていたのですが、無事手術も終わり、お元気になられたという知らせ。安心しました。ご病気のことがなければ中国にもご一緒できたのですが、それはそれとしてとにかくホッとしました。

 こちら洛陽はここのところ天候不順で晴れることがありません。
 最低気温は20度前後と涼しく、とても過ごしやすいのですが、問題はホテル!!エアコンが集中管理らしくて切れず、この涼しいにも関わらず涼しい風がずっと出てくるのです。寒くて寒くて、布団は例の薄いのが一枚ですから、たまりません。服を着込んで寝ているのですが、頭が痛くて鼻水状態!!困ったもんです。

 それでも頑張ってこの二日間で隋唐洛陽城の穴場を回りました。
 8月21日 隋唐洛陽城外郭の踏査
 ① 西城壁踏査 相変わらずトウモロコシ畑をかき分けかき分け
 ② 新しくできた植物園の中に遺る西城壁を確認 始めて見ました。
 → とても悲しい現実に晒されて愕然。南面の堀跡が激しく造園屋共に改修されて蛇行させられ、かつての面影は無し!!こんな整備は止めて欲しい!!
 ③ 復元中の定鼎門工事現場を見る。 その様変わりに愕然とする。
 → 陽陵の門闕のように外側を鉄骨造りの施設で覆って、門跡を保護しつつ復元するという工法である。
 ④ 長夏門跡で新しい情報を入手門の中心が判る。
 ⑤ 東面の二門跡を見る。
 → 建春門では中心が判る
 ⑥ 南市を歩く
 ⑦ 白居易邸宅跡南の池が釣り堀に大改変されていて愕然。アーもったいない!!

 8月22日 宮城・皇城・含嘉倉城他の踏査

 ① 応天門跡でいろいろな新しい情報が!
 → あちこちに唐代の線がそのまま使われて復元されていることが判明。
 → 全く知らなかった唐代の版築跡が見学用に空けてみることができるようになっているところも見学。
 → その他超ビッグニュースがあるんですがこれは非公開。残念。
 ② 明堂の最新発掘調査状況を入手
 → 聞いてびっくり見てびっくり。あの明堂の周りにあった印刷工場が全てなくなり発掘調査が終了。五重の基壇?に囲われた特異な施設と判明したらしいが、これも公開できず。残念。
 ③ 発掘調査終了した天堂の最新情報を入手
 → 発掘調査が一応終了したとのことだが、まだまだ継続調査がありそうな現場でこの施設の壮大な規模の構造を知る。とても驚く!出雲大社と同じ100メートルを超える超巨大な施設だったらしい。特異な構造の基礎も判明。想像を絶する構造と規模に圧倒。
 ④ 宮城の北城壁を踏査
 → 最近発見の北城壁西端近くの断面を見る。なんと上は畠に開墾中。アー・・・。
   それでもこうやって丹念に遺構探しをしてくれている人がいるんだと判る。
 ⑤ 含嘉倉城の新しい情報を入手
 → 城壁南門位置を確認
 ⑥ 北市へ始めてはいる。
 → 長安では西市にいた回族がここでは北市に集住したらしい。
 ⑦ 麗京門外の濠が金代のものと知る
 この二日間とても丁寧に案内してくれたCさんに感謝してお別れ。

 少し寒気がしてきたので今日はここでストップ。

 明日元気になれば写真入りで報告します。ごめんなさい。ちょっと寝ます。
(ちょっと寝て元気になったので記事を追加。これから漢魏洛陽城へ行ってきます)

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洛陽・商城・鄴城踏査-1 洛陽に着きましたの条

2009-08-21 01:17:00 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 20日早朝3時までかかって絶対にやらなければ中国に行けなくなるという大事な仕事を片付け、8時半まで寝て10時45発のはるかに乗って関空に行きました。

 途中新大阪でY大学のHY先生と合流し無事関空に辿り着くことができました。この頃は慣れてしまったので大した緊張感もなくチケットをもらい、少し時間があったので蕎麦を食べて出国。これ又何の問題もなく、搭乗口へ。そこで保険をかけろと言われていたことを思い出すも、もうそこは間もなく手続きの始まるところ、電話して今回はかけないで行ってきます!というつもりが電話が通じず。公衆電話を探すも小銭が無く、ま、いいかと思った瞬間、何と保険会社の陰謀か、目の前に自動の機械があるではないか。やむなく一番安物を掛けて大急ぎで出国。

 14時過ぎに飛び立った飛行機は3時間あまりで無事北京空港へ。一時間の時差なので、北京は16時半。ナナナントここで2人の取った行動とは??



 I-phone の立ち上げと中国時間への設定。そして中国通信会社の自動選択等々。進んでまっしゃろ!!

 その北京空港!びっくりしました。とっても綺麗で機能的。北京オリンピックがあったため大拡張を行ったらしい。そもそも北京にはあまり立ち寄らない私は久しぶりの北京だっただけにお驚き。

 次なる難題!!は、国内線に乗り換えて洛陽に行く事。これも今回もまたいつもの珍道中仲間HY先生が数ヶ月前に来たところだったのでスムースに?シャトルバスに乗り換えて第2ターミナルビルへ。これが結構離れていて15分くらいかかっただろうか。国内線は以前と全く変わらず、ここで東方航空のカウンターでチケットを入手。これまた実にスムース。

 少し離れた搭乗口から小さな100人くらいしか乗れない飛行機で洛陽へ。少し遅れて洛陽に着いた時は21時。でもちゃんと洛陽理工学院のUMさんが迎えに来てくれていてこれまたスムースにホテルへ。少しお腹が減ったので近くのお店まで連れて行ってもらって、そこでお別れ。

 洛陽のスープラーメンを食べる。これがなかなかのいいお味。珍しくわかめラーメンだった。2人で洛陽のビールたらで乾杯してこれから10日間の無事を祈る。
 そして先程帰ってきて、おもむろにネットに繋がるかどうかを確認。最初はうまく繋がらなかったが先程から順調に接続。少しお金の確認をしてもう眠いのでこれでお休み!!ちなみに今日のレートは1元16.5円くらいだった。

 さて明日から珍道中が始まるのだが、どうも今回の踏査予定は相手方の対応が読めなくて、どうなるのか、さっぱり判らない。予定では先ず皇城、宮城、含嘉倉城など中枢部を回るのだが・・・。

 では今日はこの辺で。また明日。

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怒濤の人・人・人 ~古市充雄「久留倍遺跡考」に学ぶ~の条

2009-08-20 00:00:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
    怒濤の人・人・人 ~古市充雄「久留倍遺跡考」に学ぶ~    
                     山中 章

 正直言って四日市を侮っていた。
 公害にまみれた近代工業都市だというイメージができあがってしまっていた。
 「久留倍遺跡は地元四日市の誇るべき財産です!」と訴えても、どんな反応が返ってくるのか不安だらけだった。
 ところがどうだろう、二〇〇四年九月一九日、四日市総合会館八階の会場は、押し寄せる人・人・人で埋め尽くされた。久留倍遺跡シンポジウムの幕開けであった。もちろん作家永井路子さんの登場ということもあったのだろうが、二〇〇六年一〇月二六日の第六回まで実施したシンポジウムは延べ二〇〇〇人もの聴衆で常に一杯だった。
 シンポジウムと平行して壬申の乱ウオークも始めた。第一回の鈴鹿関に始まって、旧東海道を歩き桑名へ、伊賀では第六回に名張を歩き以後、柘植を経て加太、鈴鹿へと足を運んだ。第七回は壬申の乱の出発地吉野だった。そして記念すべき第一〇回は大友皇子の拠点・大雪の大津だった。既に一三回を数えるウオークもまた二〇〇〇人を越える人々の参加を見た。
 繰り返される催し物にも関わらず、人々の怒濤の列は途切れることがなかった。ウオーキングの列を追いかけると、いつしか親しい顔・顔・顔となってあちこちから声が飛んだ。
「こんにちは、いつも有り難うございます」
「先生、今日も寄せてもらいましたわ」
という、まるで日常会話のような温かい声の波が続くのだった。果たしてこれほどまでに日常生活に溶け込んだ「遺跡保存「運動」」がかつて日本のどこかにあっただろうか。誰も無理をしているわけではない。変な使命感がある分けでもない。毎日食事をするのと同じように、久留倍遺跡のことを考える人々なのだ。村の大事な財産、誇りを守るのは当たり前、ということだろうか。
何故当たり前にできるのか。その答が『XYZ』であり『四日市文化会』だ。いずれも毎月一回の集まりで、文学を語り、表現し、歴史の舞台を訪れて歴史の重みを追体験する。片や一七〇号にもなる同人誌を刊行し、片や五十年六〇〇回の開催を誇るという、信じがたい息の長い活動だ。今私はこれを「四日市の文化力」と呼んでいる。江戸時代以来続く文化力こそ四日市の財産なのだ。
 そしてこの二つの活動を陰で支えているのが古市充雄と森逸郎だ。私はこの二人に実にうまく操縦されている。二人から
 「先生!!」
と声がかかると、
 「アッ、来たな・・・・」
もう私は諦めている。彼らの意のままだ。
 「次回は○月□日。△△先生を呼んで下さいな」
こうして全国から馳せ参じて下さった先生は、二〇人に上る。いずれも日本中に知れ渡った大先生ばかりだ。その中に二人の中国がいる。陳良偉と馬彪だ。久留倍遺跡の世界性は言うまでもないが、久留倍遺跡を考える会の国際的な視野の広さを物語っている人選だった。
 二人の黒衣はさらに手を打った。「久留倍まつり」の実施だ。そのスケールの大きさには正直たまげた。まつりのメイン行事ウオークには俳優の苅谷俊介が快く参加してくれた。五〇〇人を優に超す大行列が、大矢知の町を練り歩いた。一三三六年の時を越えて、乱の隊列は再現された。
 古市は言う「いよいよ四日市は史跡公園に向けて動き出す。これからが久留倍遺跡の正念場である。」と。まだまだ諦めてはいない!真の地域の財産として久留倍遺跡が活用できるように市民の力で新しい史跡像を構築するまで、発言し続ける。
そして私の夢は、整備なった久留倍遺跡の丘で、「乱・幸」をテーマにした薪能で幻想の世界に浸ることである。(敬称略) 

 文芸誌『XYZ』は四日市周辺在住の市民が、評論家清水信を囲んで毎月一回開催される例会に参加する同人達の寄稿によって成り立っている。本文は同人の1人古市充雄の求めに応じて氏が寄稿した「久留倍遺跡考」の「感想」をまとめたものである。

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憧れの鄴城に行ってきますの条

2009-08-17 01:04:02 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 以前からおおよその日程は決まっていたのですが、なかなか現地との連絡やら通訳やら、で決まらず、つい先程全てが確定しました。その筋の方にはヨダレの出そうなコースなのですが、果たしてどこまで行けるやら・・・。また時間があれば中国からレポートを入れます。しばらく日本とはおさらばです。

 ということで本当は長岡宮内裏のことやら、久留倍遺跡のことやら学生の卒論のことやら一杯書きたいことはあるのですが、出国前にやらないといけない仕事が山ほどあって、果たせませんでした。よってしばらくのご無沙汰お許し下さい。

コースはこんな感じです。

8/20 関空→北京→洛陽 
 洛陽泊(20~23日泊)

8/21 中国社科院考古所漢唐研究室案内
: 隋唐洛陽城踏査(皇城・応天門跡・城壁・西苑) 隋唐洛陽城踏査(宮城→含嘉倉城→南市→白居易邸宅跡→北市等) 

8/22 同案内
: 隋唐洛陽城踏査(西城壁→定鼎門・南城壁→東城壁・東面南門(永通門跡)・中門(建春門跡)→北門・福先寺)
     
8/23 中国社科院考古所漢唐研究室案内
: 漢魏洛陽城全域踏査・北魏孝文帝陵

8/24 偃師商城考古隊案内
: 偃師商城・偃師商城博物館・北宋皇陵・巩义市博物馆
: 鄭州泊(24・25泊)

8/25 鄭州見学(河南博物院、鄭州市博物馆)旅行社案内

8/26 鄭州見学(新密新寨・新密古城寨・鄭州大師姑)旅行社案内→安陽
: 安陽泊(26~29日泊)

8/27 中国社科院考古所漢唐研究室鄴城考古隊案内
: 鄴城踏査

  8/28 同案内
: 鄴城周辺踏査:建議参観鄴城西北郊的磁県北朝墓群

8/29 中国社科院考古所 安陽工作站案内
: 安陽(殷虚博物馆・洹北商城・中国文字博物館)

8/30 乗用車にて邯郸へ
: 下午特快列車 14:20邯郸――18:30北京西駅
: 北京泊

8/31 帰国 : 北京→関空
   

例によって例の3人組の珍道中です。今回はどんなドラマが待っているか、とても楽しみであると共にとても不安です(笑)。


たとえ中国に行っても
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卒業生の結婚式の条

2009-08-11 00:14:52 | 三重大学考古学研究室情報
真靖君、幸喜子さんお幸せに!!

   

 土曜日には卒業生の結婚式に呼ばれて岐阜まで行ってきました。

 式次第に載った出席者の着席表に新郎(卒業生)のご両親の名前があった。勿論普通ならそれが当たり前なのだが、彼のご両親は5年前に相次いで亡くなられた。それから彼は残された田んぼを一人で耕して頑張ってきた。うちの学生達も稲刈りのシーズンになると手伝い??邪魔!!しに岐阜まで行っていた。

 我が家の一年間の米は実は彼のところから届けられてくる。とても美味しいお米である。

 彼とは今から6年前に中国陝西省の西安から東へ120キロにある商洛という町の東龍山漢墓を共に発掘調査した。西安からの移動の車中で居眠りしている彼を見てしかり飛ばしたり、発掘現場で、ある理由から、もう一つ現場に集中できない彼を一日蟄居させたり、ま、いろいろありました。

 でもとても真面目な彼はサソリも出る、泥棒も襲ってくるかも知れないという過酷な現場で3ヶ月よく頑張ってくれました。感謝感謝!!
 そんな彼の結婚式だからとても思い入れは深かった。



おしあわせに !!
これからは二人で稲刈りするのかな?



もうあれから5年も経ってしまった。
彼も今は岐阜県内の市役所で働いている。少し残念なのは、今は市民課にいて考古学とは無縁なことだ。早く教育委員会に戻してやってね。




内のワル共のパフォーマンス。
みんな彼の先輩連中だ。合宿で同じ釜の飯を食ったせいだろうか、とにかくとても仲がいい。



彼が大学在学中に相次いで亡くなってしまわれた天国にいらっしゃるYのご両親。みんなの思いのこもったこの風船が届くことでしょう。





ソフト部の顧問とかで、とにかく元気で、明るいお連れ合いでした。尻に敷かれること間違いなし。ま、Yにはそれがお似合いかもね。




二次会も20人の大部隊で占拠!!
遠くは和歌山・静岡から、まるでわが研究室の同窓会だった。卒業生が集まって祝福した。卒業以来初めてのゼミ生にも会って、とても嬉しかった。この後実は3次会。これまた15人ほど残って駅前で大騒ぎ。
ひさしぶりにわかがえった!!とても楽しかった。やっぱり合宿生活が必要だよね。



相変わらず元気なN君!
いい先生になったよな、お前も。




二人のホントのケーキカットの日は?・・・!
早くね!!俺が生きている間にしてくれよ。



次はいつ集まれるのかな?噂では2月○日とか・・・。さて、この中の誰でしょうか?そっと教えてくれて嬉しかった。

彼らの未来のためにも、核武装論者を排除し、本当に平和な日本を作りたいものです。その第一歩として、 オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!

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長崎平和宣言2009の条

2009-08-09 13:34:40 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 

 「核兵器のない世界」へ  長崎平和宣言(全文)
 

            2009年8月9日12時41分asahicom  http://www.asahi.com/national/update/0809/SEB200908090007.html より


 今、私たち人間の前にはふたつの道があります。
 ひとつは、「核兵器のない世界」への道であり、もうひとつは、64年前の広島と長崎の破壊をくりかえす滅亡の道です。
 今年4月、チェコのプラハで、アメリカのバラク・オバマ大統領が「核兵器のない世界」を目指すと明言しました。ロシアと戦略兵器削減条約(START) の交渉を再開し、空も、海も、地下も、宇宙空間でも、核実験をすべて禁止する「包括的核実験禁止条約」(CTBT)の批准を進め、核兵器に必要な高濃縮ウ ランやプルトニウムの生産を禁止する条約の締結に努めるなど、具体的な道筋を示したのです。「核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的な責任 がある」という強い決意に、被爆地でも感動がひろがりました。
 核超大国アメリカが、核兵器廃絶に向けてようやく一歩踏み出した歴史的な瞬間でした。
 しかし、翌5月には、国連安全保障理事会の決議に違反して、北朝鮮が2回目の核実験を強行しました。世界が核抑止力に頼り、核兵器が存在するかぎ り、こうした危険な国家やテロリストが現れる可能性はなくなりません。北朝鮮の核兵器を国際社会は断固として廃棄させるとともに、核保有5カ国は、自らの 核兵器の削減も進めるべきです。アメリカとロシアはもちろん、イギリス、フランス、中国も、核不拡散条約(NPT)の核軍縮の責務を誠実に果たすべきで す。
 さらに徹底して廃絶を進めるために、昨年、潘基文国連事務総長が積極的な協議を訴えた「核兵器禁止条約」(NWC)への取り組みを求めます。イン ドやパキスタン、北朝鮮はもちろん、核兵器を保有するといわれるイスラエルや、核開発疑惑のイランにも参加を求め、核兵器を完全に廃棄させるのです。
 日本政府はプラハ演説を支持し、被爆国として、国際社会を導く役割を果たさなければなりません。また、憲法の不戦と平和の理念を国際社会に広げ、非核三 原則をゆるぎない立場とするための法制化と、北朝鮮を組み込んだ「北東アジア非核兵器地帯」の実現の方策に着手すべきです。
 オバマ大統領、メドベージェフ・ロシア大統領、ブラウン・イギリス首相、サルコジ・フランス大統領、胡錦濤・中国国家主席、さらに、シン・インド 首相、ザルダリ・パキスタン大統領、金正日・北朝鮮総書記、ネタニヤフ・イスラエル首相、アフマディネジャド・イラン大統領、そしてすべての世界の指導者 に呼びかけます。
 被爆地・長崎へ来てください。
 原爆資料館を訪れ、今も多くの遺骨が埋もれている被爆の跡地に立ってみてください。1945年8月9日11時2分の長崎。強力な放射線と、数千度 もの熱線と、猛烈な爆風で破壊され、凄(すさ)まじい炎に焼き尽くされた廃墟(はいきょ)の静寂。7万4千人の死者の沈黙の叫び。7万5千人もの負傷者の 呻(うめ)き。犠牲者の無念の思いに、だれもが心ふるえるでしょう。
 かろうじて生き残った被爆者にも、みなさんは出会うはずです。高齢となった今も、放射線の後障害に苦しみながら、自らの経験を語り伝えようとする 彼らの声を聞くでしょう。被爆の経験は共有できなくても、核兵器廃絶を目指す意識は共有できると信じて活動する若い世代の熱意にも心うごかされることで しょう。
 今、長崎では「平和市長会議」を開催しています。来年2月には国内外のNGOが集まり、「核兵器廃絶―地球市民集会ナガサキ」も開催します。来年の核不拡散条約再検討会議に向けて、市民とNGOと都市が結束を強めていこうとしています。
 長崎市民は、オバマ大統領に、被爆地・長崎の訪問を求める署名活動に取り組んでいます。歴史をつくる主役は、私たちひとりひとりです。指導者や政府だけに任せておいてはいけません。
 世界のみなさん、今こそ、それぞれの場所で、それぞれの暮らしの中で、プラハ演説への支持を表明する取り組みを始め、「核兵器のない世界」への道を共に歩んでいこうではありませんか。
 原子爆弾が投下されて64年の歳月が流れました。被爆者は高齢化しています。被爆者救済の立場から、実態に即した援護を急ぐように、あらためて日本政府に要望します。
 原子爆弾で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、核兵器廃絶のための努力を誓い、ここに宣言します。
 2009年(平成21年)8月9日
 長崎市長 田上富久


 オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!

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広島平和宣言2009の条

2009-08-06 08:43:41 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 静かに核兵器廃絶を祈りましょう。そして具体的な行動を起こしましょう。



   広島平和宣言

 人類絶滅兵器・原子爆弾が広島市民の上に投下されてから64年、どんな言葉を使っても言い尽くせない被爆者の苦しみは今でも続いています。64年前の放射線が未(いま)だに身体を蝕(むしば)み、64年前の記憶が昨日のことのように蘇(よみがえ)り続けるからです。

 幸いなことに、被爆体験の重みは法的にも支えられています。原爆の人体への影響が未だに解明されていない事実を謙虚に受け止めた勇気ある司法判断がその好例です。日本国政府は、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め高齢化した被爆者の実態に即した援護策を充実すると共に、今こそ省庁の壁を取り払い、「こんな思いを他の誰にもさせてはならぬ」という被爆者たちの悲願を実現するため、2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきです。

 今年4月には米国のオバマ大統領がプラハで、「核兵器を使った唯一の国として」「核兵器のない世界」実現のために努力する「道義的責任」があることを明言しました。核兵器の廃絶は、被爆者のみならず世界の大多数の市民並びに国々の声であり、その声にオバマ大統領が耳を傾けたことは、「廃絶されることにしか意味のない核兵器」の位置付けを確固たるものにしました。

 それに応えて私たちには、オバマ大統領を支持し、核兵器廃絶のために活動する責任があります。この点を強調するため、世界の多数派である私たち自身を「オバマジョリティー」と呼び、力を合わせて2020年までに核兵器の廃絶を実現しようと世界に呼び掛けます。その思いは、世界的評価が益々(ますます)高まる日本国憲法に凝縮されています。

 全世界からの加盟都市が3000を超えた平和市長会議では、「2020ビジョン」を具体化した「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を、来年のNPT再検討会議で採択して貰(もら)うため全力疾走しています。採択後の筋書きは、核実験を強行した北朝鮮等、全(すべ)ての国における核兵器取得・配備の即時停止、核保有国・疑惑国等の首脳の被爆地訪問、国連軍縮特別総会の早期開催、2015年までの核兵器禁止条約締結を目指す交渉開始、そして、2020年までの全ての核兵器廃絶を想定しています。明日から長崎市で開かれる平和市長会議の総会で、さらに詳細な計画を策定します。

 2020年が大切なのは、一人でも多くの被爆者と共に核兵器の廃絶される日を迎えたいからですし、また私たちの世代が核兵器を廃絶しなければ、次の世代への最低限の責任さえ果たしたことにはならないからです。

 核兵器廃絶を視野に入れ積極的な活動を始めたグローバル・ゼロや核不拡散・核軍縮に関する国際委員会等、世界的影響力を持つ人々にも、2020年を目指す輪に加わって頂きたいと願っています。

 対人地雷の禁止、グラミン銀行による貧困からの解放、温暖化の防止等、大多数の世界市民の意思を尊重し市民の力で問題を解決する地球規模の民主主義が今、正に発芽しつつあります。その芽を伸ばし、さらに大きな問題を解決するためには、国連の中にこれら市民の声が直接届く仕組みを創(つく)る必要があります。例えば、これまで戦争等の大きな悲劇を体験してきた都市100、そして、人口の多い都市100、計200都市からなる国連の下院を創設し、現在の国連総会を上院とすることも一案です。

 被爆64周年の平和記念式典に当たり、私たちは原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、長崎市と共に、また世界の多数派の市民そして国々と共に、核兵器のない世界実現のため渾身(こんしん)の力を振り絞ることをここに誓います。

 最後に、英語で世界に呼び掛けます。

 We have the power.We

have the responsibility.And

we are the Obamajority. 

 Together,we can abolish

nuclearweapons.Yes,we

can.

 

2009年(平成21年)8月6日 

広島市長 秋葉忠利

 (注)英語部分の訳は次のとおりです。

 私たちには力があります。私たちには責任があります。そして、私たちはオバマジョリティーです。力を合わせれば核兵器は廃絶できます。絶対にできます。

毎日JP  http://mainichi.jp/select/today/news/20090806k0000e040003000c.html より


私たちは オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めます!!

核兵器廃絶の強い気持ちで
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この平和は保障されてはいません!!



二度とこの様なモニュメントを遺す必要のない世界を!!

三重大学人文学部オープンキャンパス勾玉作りの条

2009-08-04 01:28:43 | 三重大学考古学研究室情報
 オープンキャンパス大変だねと御もったら、こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 3日は午後からオープンキャンパスであった。
 この頃は私たちのやる勾玉作りコーナーが人気コーナーとなったために、委員の先生方から熱い依頼のメッセージを頂き、開催することとなった。


(我がゼミ生の書道部学生の手になる看板)

 ところが、いつも使っている整理室の一角がいやらしいことにロビーに変な施設が造られて使うことができなくなった。仕方なく担当の先生に無理をお願いして講堂ロビーを私用できるようにして欲しいと申しあげた。いろいろ御配慮いただいて、実現した。


(いつもなら汗だくで奮闘する生徒さん達だが、それを知ってか知らずか、ゆったりとした空間で快適に作ることができた。)

 準備にはちょっと遠距離をいろいろな物を持ち込まないといけないので、苦労したが、会場はエアコンも効いて快適!!いつもよりゆったりとした空間で落ち着いてやることができた。K先生有り難うございました。

 ところがいざ始めて気付いたのだが、勾玉用の石がいつもと違って異様に厚いのである。

 「???」

いつもの所で買う石なので油断していた。いつもより厚いので切ったり削ったりするのが大変なのである。




(ノコギリで怪我でもしないかとヒヤヒヤしながら見守る)



こんなパネルも3年程前に整備してくれたのでとても効率よく進めることができる。

 今年も延べ100人を超える生徒さん達に大好評の内に進めることができた。準備をしてくれた我がゼミ生他の皆さん、有り難う!!
 来年もここを予約しておこうっと!!


 ところでこのオープンキャンパスなるもの、いろいろ課題はあるそうだ。
 今年は人文学部始まって以来!ナナナント1000人を超える生徒さんが来てくれたのだが、これが手放しでは喜べないのである。

 何故?

 オープンキャンパスに来た学生が受験してくれないのである。ナナナント、人文の受験率は25%以下だという。どうして?といいたくなる。
 まさかオープンキャンパスをやったがために化けの皮がはげてよそへ行くなんということはないと思うのだが、・・・・。今年は特に大金をはたいてトイレも最高級のウオシュレットになったし、エアコンの効く教室は100%だし。外見も業者に依頼して壁の掃除をしてもらう始末。ここまでやって来てくれんかったら一体何やんね?とぼやきたくなる。

 来年の4月には合格祈願の勾玉持ってきてね!!

 それはそうと、1日から始めた四年生との卒論進行具合報告メールのやりとり、なかなか順調で皆さん真面目にメールしてきてくれる。
 特にある学生は具体的に資料を添付してきてその問題点や使う資料の入手方法などを聞いてきてくれる。やりとりがとても具体的なのである。
 勿論、今日も大して進みませんでしたで終わる学生もいるのだが、どちらにしろ最後は自分自身の問題なのだから、ここまで対応を準備してこれ以上のわたしの責任の問いようがないように思うのだが・・・。

 明日はとても大事な遺跡の現地見学。ブログに書けるかどうかはまだ判らないが、いずれ新聞に載ったらご紹介することにしよう。それが済んだらまた津に戻らねばならない。毎日毎日行ったり来たりでくたびれます。
 

 オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!

86まで後3日、叫び続けよう核兵器廃絶!!
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考古学研究会東海例会後の懇親会にての条

2009-08-03 03:40:17 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 若者よ!貪欲に勉強しようではないか。自分の世界に閉じこもることなかれ!!来年の第14回には絶対参加するぞと思ったら、こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 8月1日は名古屋大学で開催された第13回考古学研究会東海例会だった。
 研究会は前日からの不摂生などが祟って遅刻はするは、集中できないはで散々だった。翌日には研究会もあるから懇親会に出ずに帰りたかったのだが、研究会前の委員会をサボったものだからそういうわけにも行かず。速く逃げて帰ろうと思いつつ、なかなかタイミングを測れないままに久しぶりにお会いした湖西市の後藤さん達と話しをする内に時機を失してしまった。

 ところがである。そこから思いがけない議論が始まったのである。

 研究会でご講演を頂いた名古屋市立大学の溝口正人先生が義理堅くも残って下さって、若者達との懇親を深めて下さったのだ。

 私は面識がなかったので最初の内はあまりお話しもせず、ただ先生方の会話に聞き入っているだけだったのである。ところがである。先生は若かりし頃、一流ゼネコンの設計部にお勤めで、大阪に勤務した時四年間ほど京都にお住まいだったという。そして何ということか、長岡京に足を運んで遺跡をご覧になったというのである。或いはどこかでお話しisたことがあるのかも知れない。

 先生の生涯の研究テーマは「寝殿造り」だという。だから、宮都の建築にはとても関心があったからなのだと仰る。長岡宮大極殿の柱間、その前から発見された宝幢跡、その間隔全てご存知なのである。何故平安宮大極殿の宝幢の間隔を記す史料に2丈説と3丈説が混在するのか、見事に解き明かし下さった。
 
 名古屋で、長岡宮宝幢の話ができるなどということは全くの想定外だった。
 本当に驚くと共に、やっぱりいろんな研究会に出て、いろいろな研究者と接して、知見を広げないといけないな!と。

 話しはさらに広がって、奈文研の小澤毅さんの解明なさった藤原宮大極殿の平城宮大極殿への移築から、平城宮第二次大極殿の移建先の話へと広がった。先生は強く平安宮豊楽殿への移建説を主張される。私も意地があるので(笑)、

 「平城宮から平安宮への直接的移建はない!!」と主張する。

 「いや、それだと建築屋としては困るのだ」と仰る。
 「あの巨大な施設の行き先がなくなるじゃないですか?」
 「それなら、長岡宮経由で平安宮へ行ったんじゃないですか?」

こんな話を奈文研の連中が聞いたら大喜びしたに違いない。それ見たことか、山中目、参ったか!こんな声が奈良方面から聞こえてきそうである。そんなこと言ったら長岡宮大極殿はどこ行ったんだ?と言いたくもなる。

 残念ながら議論伯仲のいいところでお開きになってしまった。この先はまたいつかお会いした時にと言うことで、後ろ髪引かれる思いで名古屋を後にした。是非いつか、東海地方で宮殿をテーマにした研究会をしてみたいものだと強く思った一日だった。

 肝心な研究会の紹介を忘れていた。


  考古学研究会東海例会<第13回例会>

 テーマは今回担当の岐阜県大垣市の中井正幸さんらしく、「庭園風景と考古学」だった。 
 その趣旨は、「考古学が直面する課題のひとつに、研究や調査成果を如何に日常的な生活のなかに融合できるかというテーマがある。これまでにも考古学は、発掘調査や史跡整備という行為において、人々の関心を引き寄せながら蓄積してきた実績もある。
 東海例会では、これまでにも例会テーマに「史跡整備」や「風景」を取り上げ、「まちづくり」へと結実できる可能性を模索してきた。今回の例会では、多くの人々に観賞されかつ観光や日常のなかで親しまれている「庭園」を取り上げ、「庭園」の分野に対する近年の考古学の貢献と今後の関与の可能性を探りたい。」という、本当に中井さんならではの仕込みだった。
 
 報告として三人の調査担当者からの内容の濃い事例紹介があった。
 まず、大平愛子(飛騨市教育委員会)さんから「江馬氏下館跡の庭園遺構と整備」があった。発掘調査から整備にいたる実に禁欲的な整備方法が説明された。最初は「この人何じゃ!?」と思ったんだが、後でいろいろ話を聞く内になかなかの筋の通った人物だなと思った(失礼)。ただし我々考古学関係者以外にはあまり知られていないところが残念だった。かくいう私も遺跡はよく知っているものの行ったことがない!是非一度伺いたいものだ。

 次は熊崎 司(津市教育委員会)「多気北畠氏城館跡と庭園」のはずだったんだが、事情で石淵誠人(同)に急遽交替での報告だった。
 ここは毎年委員会が開かれ私もその席で最新情報を聞いていたので特に変わった内容はなかった。ただ、庭園風景という視点に立つと北畠館跡遺跡群についてももっと別の見方ができるかなと思った。苑池のある庭園といえば国の史跡・名勝になっている著名な庭園跡なのだが、もう少し視野を広げると、実はこの遺跡群全体が壮大な「庭園」だったのではないかと思われるのである。つい最近発見された基礎に石垣を据える築地塀、その中に展開する石組みの溝を配する用途不明の施設群。そしてその築地塀の先にある北畠の菩提寺跡。これらは丘の上に置かれた寺から見ると実に優雅な世界となっていたはずである。まるで京都東山の一角から眺める光景だったのではなかろうか。

 ちょっと踏み込んでみることも、遺跡の評価を変えるいい機会だと思った。

 最後に、後藤建一(湖西市教育委員)さんによる「大知波峠廃寺跡にみる庭園遺構と山林寺院」だった。この遺跡はもう20年前になされた学術調査によって解明された貴重な成果を持つものである。後藤さんの執念のような調査であり、その後の山林寺院研究を牽引した調査でもあった。修行の場から修二会・衆生会と変身するその姿が見事に示された。

 後半はお二人の先生方によるご講演である。
 まず小野健吉(奈良文化財研究所)さんから「庭園研究と考古学」と題して、庭園研究の意義、その中に果たす考古学の役割が全世界的な視野で紹介された。

 ついで、溝口正人(名古屋市立大学)先生による「浄土庭園 平等院の系譜」であった。宮殿建築と貴族邸宅の関係、そして宮殿建築における苑池の形成と寝殿造りへの発展、そして末法の世界を控えて、それらが平等院へと昇華していった姿がとても判りやすく明らかにされた。

 この後、座談会と称して改めてテーマの深化が行われた。
 わたしが興味深く思ったのは、庭園遺跡の持つ立体性とそこから来る市民の関心の高さ、遺跡整備後の活用の容易さであった。

 と同時に、かつて、中国洛陽の西郊外に展開する西苑の一角に所在した。合璧宮を見学した時の圧倒的風景を思い出した。
 苑池、宮殿が見事な景観の中に設計され遺されている姿は、離宮遺跡の典型として早く長く世界遺産として遺して欲しい施設であることを改めて思い出したのであった。    
 
 そして、これ!これが大事なんですよ。
   懇親会 

 上記の如き盛り上がりをもって、第13回は無事終わりました。皆様有り難うございました。唯一残念だったことは参加者が異常に少なかったことであった。古墳時代であろうが、縄文時代であろうが、自分の研究テーマと関係ないと、若者でさえがこうした研究会に顔を出さないとは本当に情けないことだと思った。


 オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!

 この主張が核武装論者にいかに打撃を与えることができるは、昨日報じられた外務省や防衛省の連中がオバマの核兵器廃止論を批判していることからも判る。

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