このブログの中に・・・死ぬ時が来たら死ぬだけ・・・然るに死にたくても死ねない時があるし、死にたくないのに死ぬ時が来る・・・そんな矛盾を書いています。
だから死ぬはずもないことで死に至る一般的な事例もたくさんあります。
例えば大したことでもないのに心肺停止・ショック死したり、呼吸過多で窒息したり、水深の浅い川端で若者が溺れ死んだり、残り水が溜まっているような浅い用水路で大人が溺れ死んだり、お風呂場で水死するようにです。
また反対に大型旅客機の事故で全員が死ぬはずなのに子供一人だけ助かったりする事実もありました。
然るに九死に一生を得る仕組みもあるのです。
だから飛行機や船舶や列車バス交通事故・転落水難事故、また地震津波・竜巻洪水がけ崩れ、ガン脳梗塞心臓まひ等で必ず死ぬわけではありません。
だから過去の戦中に広島・長崎の原爆で被災した人が大勢いますが、しかし被災しなかった人も大勢ます。
ところが広島・長崎の人ではないのに何かのご縁で来られていて原爆に被災した人もいます。
また反対に広島・長崎の人がその日に他県にご縁があって原爆の被災に合わずに済んだ人もいます。
然るに昨今の大震災で死んだ人も死ななかった人もいます。
だから他県からたまたま帰京した人が震災に遭遇したり、その逆もあったり、また震災の日に仕事があって他県に戻るはずだったのに、体調が悪くて親から引き留められたことからして震災に遭い、家の中で寝ていたために倒壊した家屋の下敷きになって死ぬが、しかし用事で出ていた親が下敷きならずに助かることも事実にしてありますし、その逆もあったはずです。
また駅のホームから転落した人がいて、それを目撃した人が線路に飛び降りて転落した人を助けることができたが、救助行動を起こした人が列車にはねられて死亡するというような事実もあります。
然るにそれらを運命とすれば・・・運命が良かった人と悪かった人となりますから、私の感覚からしては何だか釈然としないところがあります。
また世間では救助行動で亡くなった人を何かと美化したがるところがあります。
となるとホームに転落した人は己が原因だけに(助かるも)何だか自分が死んだほうが良かったというような思いにもなります。
そこで私が書いているように・・・死ぬ時が来た人が死ぬだけで、死ぬ時ではない人が生き残ることになる、とすれば・・・その成り行きの結果事実だけで一旦終わり跡を残しませんから・・・原爆や災害震災・事故事件で生き残った人も気が休まる事でしょう。
とにかく死ぬ時が来た人の死に様が、万が一の事故や災害であったり、また病気を患っていただけのことなのです。
しかしこの様なことを書いても面白半分に読むだけで大したことではないと思う人が大半と思われますが、
しかし運が良かった悪かったと思う人よりも、成り行きの結果事実だけを見て良い悪いで判断しない人のほうが、
その意識の有り様からして変な方向に仕組まれずにして結果的には己が助かる方向に仕組まれやすいようです。
然るにちょっとだけ精神的にとらえ方が違うだけで・・・そのちょっとの意識の有り様の違いからして、己の人生・生き様を大きく変えることになっている事実があるのです。
然るに「マッチ一本火事の元」と言われるように、小から大になっているのがこの世なのです。
ちなみに私は運が良かった悪かったと思うよりも、己の意識からして必然ご縁が仕組まれたとして捉えています。
だから何かと仕組まれたその結果からして・・・その時その時の己の精神のあり方・意識の有り様を気付かせてくれた仕組みとして捉えていますから、執着することなく・尾を引くことなく・跡を残すことなく、その場限りで一旦終わっています。
また死ぬ時が来たら素直に死ぬだけとしていますから
ちなみに己が病気になればその結果からして己の意識の有り様を自問自答することになっても、
その病気を悔やむことにはもならずにして精神安定のために静かに過ごし、また簡単に医者や薬などの他力に頼らずにして、
その病気を素直に受け止めてそれを味わい続け、それが自然治癒・回復改善に向いていけば喜び感謝にもなります。
然るに人為人工的な他力の結果を喜ぶ事も殆ど無く、ただ自然のままにして・成り行き任せにして、心静かに過ごすことの自信自力の精神力にもなり、それが喜び感謝にもつながるのです。
しかしそれが結果的に死に至ることになっても、死ぬ時が来ただけの事としてとらえ、そこで何かと後悔することもなく、
また死するまで苦しみもがくことになっても、それは此れまでの罪滅ぼしとして素直に受け止める覚悟もできています。
それだけに前もって事故や病気や災害や死を恐れることもなくなり、
然るに死と闘う必要もなく素直に死ぬだけですから、
その成り行きからしての老衰による自然死となることを望んでいるわけでもあります。
だから死ぬはずもないことで死に至る一般的な事例もたくさんあります。
例えば大したことでもないのに心肺停止・ショック死したり、呼吸過多で窒息したり、水深の浅い川端で若者が溺れ死んだり、残り水が溜まっているような浅い用水路で大人が溺れ死んだり、お風呂場で水死するようにです。
また反対に大型旅客機の事故で全員が死ぬはずなのに子供一人だけ助かったりする事実もありました。
然るに九死に一生を得る仕組みもあるのです。
だから飛行機や船舶や列車バス交通事故・転落水難事故、また地震津波・竜巻洪水がけ崩れ、ガン脳梗塞心臓まひ等で必ず死ぬわけではありません。
だから過去の戦中に広島・長崎の原爆で被災した人が大勢いますが、しかし被災しなかった人も大勢ます。
ところが広島・長崎の人ではないのに何かのご縁で来られていて原爆に被災した人もいます。
また反対に広島・長崎の人がその日に他県にご縁があって原爆の被災に合わずに済んだ人もいます。
然るに昨今の大震災で死んだ人も死ななかった人もいます。
だから他県からたまたま帰京した人が震災に遭遇したり、その逆もあったり、また震災の日に仕事があって他県に戻るはずだったのに、体調が悪くて親から引き留められたことからして震災に遭い、家の中で寝ていたために倒壊した家屋の下敷きになって死ぬが、しかし用事で出ていた親が下敷きならずに助かることも事実にしてありますし、その逆もあったはずです。
また駅のホームから転落した人がいて、それを目撃した人が線路に飛び降りて転落した人を助けることができたが、救助行動を起こした人が列車にはねられて死亡するというような事実もあります。
然るにそれらを運命とすれば・・・運命が良かった人と悪かった人となりますから、私の感覚からしては何だか釈然としないところがあります。
また世間では救助行動で亡くなった人を何かと美化したがるところがあります。
となるとホームに転落した人は己が原因だけに(助かるも)何だか自分が死んだほうが良かったというような思いにもなります。
そこで私が書いているように・・・死ぬ時が来た人が死ぬだけで、死ぬ時ではない人が生き残ることになる、とすれば・・・その成り行きの結果事実だけで一旦終わり跡を残しませんから・・・原爆や災害震災・事故事件で生き残った人も気が休まる事でしょう。
とにかく死ぬ時が来た人の死に様が、万が一の事故や災害であったり、また病気を患っていただけのことなのです。
しかしこの様なことを書いても面白半分に読むだけで大したことではないと思う人が大半と思われますが、
しかし運が良かった悪かったと思う人よりも、成り行きの結果事実だけを見て良い悪いで判断しない人のほうが、
その意識の有り様からして変な方向に仕組まれずにして結果的には己が助かる方向に仕組まれやすいようです。
然るにちょっとだけ精神的にとらえ方が違うだけで・・・そのちょっとの意識の有り様の違いからして、己の人生・生き様を大きく変えることになっている事実があるのです。
然るに「マッチ一本火事の元」と言われるように、小から大になっているのがこの世なのです。
ちなみに私は運が良かった悪かったと思うよりも、己の意識からして必然ご縁が仕組まれたとして捉えています。
だから何かと仕組まれたその結果からして・・・その時その時の己の精神のあり方・意識の有り様を気付かせてくれた仕組みとして捉えていますから、執着することなく・尾を引くことなく・跡を残すことなく、その場限りで一旦終わっています。
また死ぬ時が来たら素直に死ぬだけとしていますから
ちなみに己が病気になればその結果からして己の意識の有り様を自問自答することになっても、
その病気を悔やむことにはもならずにして精神安定のために静かに過ごし、また簡単に医者や薬などの他力に頼らずにして、
その病気を素直に受け止めてそれを味わい続け、それが自然治癒・回復改善に向いていけば喜び感謝にもなります。
然るに人為人工的な他力の結果を喜ぶ事も殆ど無く、ただ自然のままにして・成り行き任せにして、心静かに過ごすことの自信自力の精神力にもなり、それが喜び感謝にもつながるのです。
しかしそれが結果的に死に至ることになっても、死ぬ時が来ただけの事としてとらえ、そこで何かと後悔することもなく、
また死するまで苦しみもがくことになっても、それは此れまでの罪滅ぼしとして素直に受け止める覚悟もできています。
それだけに前もって事故や病気や災害や死を恐れることもなくなり、
然るに死と闘う必要もなく素直に死ぬだけですから、
その成り行きからしての老衰による自然死となることを望んでいるわけでもあります。