孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

宇宙&神&愛意識に一歩先駆けることが出来るし、誰でもが実践できる「極意」でもあります。

2014年01月22日 | Weblog
一昔振り返れば今の過疎地暮らしも贅沢なわけです、だから私は欲張らなくても楽にして十分生きていけるのです。
また他力依存からして快適便利な生活になっているのは事実だけに、然るに暇な時間が出来て、それを趣味嗜好娯楽でもって楽しんでいるのも事実ですが、しかし私の場合は暇で退屈しているだけです。

そこで例えば炊飯料理するも山から材木を切り出しそれを切り刻んでお風呂や炊飯の薪にしていたり、また消し炭の火鉢で煮た炊きし、然るに練炭火鉢が有ればいいほうで、
洗濯するにも川の洗濯場に出かけて手洗いしたり、水道が無くて共同井戸や川から水桶を担いで帰ったりしていれば、
また収入面からして夜なべ仕事に裁縫したり小物の袋詰めや封筒張りの手内職をしていれば、
そして家庭に一台の自転車があるくらいで然るに国鉄列車や電車バスが移動手段であれば、
然るに暇どころか生きていくために時間が足りないくらいになります。

然るに私が幼少の頃は此れらが事実にありました。

だから私にすれば今の過疎地暮らしも贅沢なわけです。
然るに(皆さんも)欲を出さなくても今の快適便利な生活が大きく崩れることはありません。

そこで精神世界から見れば(いつの時代も)衣食住やの金銭物品は大したことではなくて巷の人間関係がヘンテコなことが問題なのです。
しかもその人間関係をどうすることも出来ないと判ったからには己が変わるしか無いとして書いているのです。

そこで変化刺激の趣味嗜好娯楽で楽しく生きることをやめて素朴に生きることで価値ある充実した生き方を味わえるように方向転換するしかないと書いているのです。
然るに変化刺激で生きるよりもその変化刺激の無い苦楽の無い生き方に変えることになるのです。

そして変化刺激&満足と不満&波風の無いその穏やかな生き様からして満ち足りた思いの至福が(時おり時々)味わえていることに気付けばいいのです。

然るに心の中が満ちていれば(不満が出ませんから)然るにそこで(満足を求めて)欲を出すことにもならないし、
もしも欲張る事になってもその苦を必ず味わいますから、そこでその苦の無い至福を味わっているだけに(実践意識を持っていれば)(至福のアリガタサに)気付きますから、
然るにその幾度かの繰り返しからして(一気に悟りに至らなくても)次第に欲張ることが減っていくのです。

然るにその事実を私は(13年間にわたり繰り返し)経験してきたからこうして書いているのです。

となると金銭物質や肩書き名声や名誉権威権力を欲しがることも無くなりますから、そこで世間体や見栄やプライドが邪魔になっていることにも気付き悟ります。
然るに当然ながら「私が正しい」も出難くなります。

だから己が欲張らなければ、この世がどうであれ、世間がどうであれ、身近な人間関係がどうであれ、気にすること無く、然るに執着すること無く、
然るに(己だけが)穏やかにして楽チンでもって生きていくことになるのです。

しかも宇宙&神&愛意識に一歩近づけるわけですし、然るに人様より先んじる(私の得意な先駆ける)ことが出来るし、しかも誰でもが実践できる極めつけの「極意」にもなります。

しかし何らかの奇跡が起こる事ではないだけに不足に思う人もいるでしょう。
然るに自力を多く使うよりも他力を信頼する方が楽だとして、その方向性の違う楽を求めている人になるわけです。
然るに生きるに与えしない「価値の無い」その人間人生を選んでいるその生き方になります。

「小からして大になる」然るに些細な原因からして大ごとになっていきます。

2014年01月22日 | Weblog
「小からして大になる」然るに些細な原因からして大ごとになっていきます。
なのにその大ごとに関心が行ってその対策処理後始末に心を痛めますが、しかしその根本的なことにも矛盾があって思うようには行きません。
然るにその対策処理後始末が遅れてまた不評を買うことにもなります。
だからこのブログでは見落としがちな小さなことを詳細に書いています。

ちなみに私の中に暇で退屈しているその事実を書き、然るに食って寝て糞をして生きているだけのような生き様の中にもまだまだ無理で無駄で余計なことがあることに気付くその繰り返しをしてきてことを書いています。

その中で娘夫婦とその孫達が山へ遊びに来ることが一年に一二度ありますが(真理を学び合う仲間も含めて)暇で退屈しているだけに嬉しくもありそれを楽しむことが出来ます。

ところがそれらが遊び終えて帰ると一気に静寂が訪れます。
となると元からして静寂にしていたのに一時だけ賑やかになりまた静寂に戻る事になりますから、その賑やかだったことが変化刺激でもあるがその事に意識&精神感情を導入していた(浪費していた)(乱していた)ことに気付きます。

となると元からして静寂なままに過ごしていた方が穏やかだった事になります。
然るに私には賑やかさが既に必要なくなっているのです。
だから更に暇で退屈することにもなりますが、しかしそれにも慣れ親しんで板に付いて来るのです。

ところがその仲間や孫達が来ることを期待していたならばその自己満足が叶う事にもなり、また来訪者が来ることを期待するその繰り返しが続きますが(人様を呼び込むことを考えますが)、ところがその期待が叶わなくなれば失意不満虚しさ寂しさが出てきてその孤独感を味わうことにもなります。

然るに静寂さに気付いてそれを正味味わい続けていると更に静寂さが内なる意識に仕組まれ続けて然るに仙人が如くになる可能性もあります。
しかしその仙人になることではなくして欲張らないで素朴に生きていける者同士が穏やかに生きていける世界になればいいのです。

その反対に変化刺激を求め味わっていたならば更なる変化刺激が仕組まれてそれに没頭する事になるのが人間のサガにあります。

然るに「あるがまま」にしておれずに少しでも欲張ればそれが叶うこともあるがその裏が出て不満にもなると言うことです。
然るに苦と楽の裏表を味わうことになり心穏やかではなくなるのです。

然るに上に行く人には更なる上があるが、然るに下にいく人にも更なる下があるということです。
然るにどっちつかずの中途半端ならその中途半端が続くわけです。

そして下に向かう人は楽が多いが、上に向かう人ほど苦が多くなるし、それが中途半端でも苦が多く楽が少ないことになります。

また己の思いの価値観や見栄があるほどにそれだけ楽よりも苦が多くなるが、その思惑や価値観では無くしてその価値正味を味わい満ち足りて欲を出さなければ楽チンにして生きていけるのです。

然るに「食って寝て糞をして」生きているのは人間皆同じだが、
しかし生きているその実質中味の「価値で生きる」のか、
それとも思い思惑期待の「欲望」や似て非なる「価値観」に満足して生きていくのか(生きているが死んだも同然なのか)、
たったそれだけの違いがあるだけです。