良い悪いで判断しない完全真理を誰もが実践できないことを薄々感じていたのでその事を娘に話したことがありますが、
ところそれに気付いた耕栄さんが正直に無理だとして説明し、然るに此れからは素朴に生きる自己縮小しか無いと言い出したときには、
既に私がその自己縮小の形で実践していただけに水を得た魚の如くになったことを以前に書きました。
ところがもしも良い悪いで判断しない宇宙意識&完全意識&愛意識になる事が可能としたままに推移していたならば、その実践できない(理想目的の)その講和を聞くだけ言うだけのままに推移することになります。
そして此れまでの講演会で真理の説明をし尽くしていただけに、そこで信じるか否かの予言予知めいたことや宇宙人と逢ったとかインスピレーション啓示を受けたとか人の思いが聞こえてくるとか、また持ち前の超能力でもってどこで何を成したとか、この先であれもする此れもすると説明することが多くなっていたはずです。
となると、私はその理想目的期待の実践不可能な完全真理の記憶知識をアレコレと詳細に書くだけで終わるし、その完全真理の講和と思惑期待の超能力を見聞するだけになりますから、然るに現在のブログとは異なる内容になっていたはずです。
ところが上手くできたもので、
その耕栄さんが言う自己縮小という目的に進む以前から既に私が仕組まれて実践段階にあっただけに、その過疎地暮らしと完全真理と照らし合わせて書くことになったわけです。
そして自己縮小を書き綴っているうちに今では全ての原因は欲にありと書くまでになりました。
然るに過去の釈迦やイエスや然るに耕栄さんも追求しなかった(追求できなかったのか?)その欲絡み云々を書くことからして「人が集る所に欲あり」となり、超能力を客寄せパンダとも書くようになり、然るに今ではその欲尽くしになっています。
然るに成り行きながらも欲張ることをやめていた私に(誰も追及しなかった)(不都合からして追求できなかった)その<欲尽くし>を書くように前もって(私のお役として)「仕組まれ」ていたのかもしれません。
となると此れだけ欲尽くしを書いたブログは他には見当たらないはずです。
しかも書いていることが言うだけ聞くだけの理想目的の実践が出来ないことでは無くして、然るに私の事実にしての生き様を書いているのだから実践できる本物になります。
ところそれに気付いた耕栄さんが正直に無理だとして説明し、然るに此れからは素朴に生きる自己縮小しか無いと言い出したときには、
既に私がその自己縮小の形で実践していただけに水を得た魚の如くになったことを以前に書きました。
ところがもしも良い悪いで判断しない宇宙意識&完全意識&愛意識になる事が可能としたままに推移していたならば、その実践できない(理想目的の)その講和を聞くだけ言うだけのままに推移することになります。
そして此れまでの講演会で真理の説明をし尽くしていただけに、そこで信じるか否かの予言予知めいたことや宇宙人と逢ったとかインスピレーション啓示を受けたとか人の思いが聞こえてくるとか、また持ち前の超能力でもってどこで何を成したとか、この先であれもする此れもすると説明することが多くなっていたはずです。
となると、私はその理想目的期待の実践不可能な完全真理の記憶知識をアレコレと詳細に書くだけで終わるし、その完全真理の講和と思惑期待の超能力を見聞するだけになりますから、然るに現在のブログとは異なる内容になっていたはずです。
ところが上手くできたもので、
その耕栄さんが言う自己縮小という目的に進む以前から既に私が仕組まれて実践段階にあっただけに、その過疎地暮らしと完全真理と照らし合わせて書くことになったわけです。
そして自己縮小を書き綴っているうちに今では全ての原因は欲にありと書くまでになりました。
然るに過去の釈迦やイエスや然るに耕栄さんも追求しなかった(追求できなかったのか?)その欲絡み云々を書くことからして「人が集る所に欲あり」となり、超能力を客寄せパンダとも書くようになり、然るに今ではその欲尽くしになっています。
然るに成り行きながらも欲張ることをやめていた私に(誰も追及しなかった)(不都合からして追求できなかった)その<欲尽くし>を書くように前もって(私のお役として)「仕組まれ」ていたのかもしれません。
となると此れだけ欲尽くしを書いたブログは他には見当たらないはずです。
しかも書いていることが言うだけ聞くだけの理想目的の実践が出来ないことでは無くして、然るに私の事実にしての生き様を書いているのだから実践できる本物になります。