孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「小からして大になる」然るに些細な原因からして大ごとになっていきます。

2014年01月22日 | Weblog
「小からして大になる」然るに些細な原因からして大ごとになっていきます。
なのにその大ごとに関心が行ってその対策処理後始末に心を痛めますが、しかしその根本的なことにも矛盾があって思うようには行きません。
然るにその対策処理後始末が遅れてまた不評を買うことにもなります。
だからこのブログでは見落としがちな小さなことを詳細に書いています。

ちなみに私の中に暇で退屈しているその事実を書き、然るに食って寝て糞をして生きているだけのような生き様の中にもまだまだ無理で無駄で余計なことがあることに気付くその繰り返しをしてきてことを書いています。

その中で娘夫婦とその孫達が山へ遊びに来ることが一年に一二度ありますが(真理を学び合う仲間も含めて)暇で退屈しているだけに嬉しくもありそれを楽しむことが出来ます。

ところがそれらが遊び終えて帰ると一気に静寂が訪れます。
となると元からして静寂にしていたのに一時だけ賑やかになりまた静寂に戻る事になりますから、その賑やかだったことが変化刺激でもあるがその事に意識&精神感情を導入していた(浪費していた)(乱していた)ことに気付きます。

となると元からして静寂なままに過ごしていた方が穏やかだった事になります。
然るに私には賑やかさが既に必要なくなっているのです。
だから更に暇で退屈することにもなりますが、しかしそれにも慣れ親しんで板に付いて来るのです。

ところがその仲間や孫達が来ることを期待していたならばその自己満足が叶う事にもなり、また来訪者が来ることを期待するその繰り返しが続きますが(人様を呼び込むことを考えますが)、ところがその期待が叶わなくなれば失意不満虚しさ寂しさが出てきてその孤独感を味わうことにもなります。

然るに静寂さに気付いてそれを正味味わい続けていると更に静寂さが内なる意識に仕組まれ続けて然るに仙人が如くになる可能性もあります。
しかしその仙人になることではなくして欲張らないで素朴に生きていける者同士が穏やかに生きていける世界になればいいのです。

その反対に変化刺激を求め味わっていたならば更なる変化刺激が仕組まれてそれに没頭する事になるのが人間のサガにあります。

然るに「あるがまま」にしておれずに少しでも欲張ればそれが叶うこともあるがその裏が出て不満にもなると言うことです。
然るに苦と楽の裏表を味わうことになり心穏やかではなくなるのです。

然るに上に行く人には更なる上があるが、然るに下にいく人にも更なる下があるということです。
然るにどっちつかずの中途半端ならその中途半端が続くわけです。

そして下に向かう人は楽が多いが、上に向かう人ほど苦が多くなるし、それが中途半端でも苦が多く楽が少ないことになります。

また己の思いの価値観や見栄があるほどにそれだけ楽よりも苦が多くなるが、その思惑や価値観では無くしてその価値正味を味わい満ち足りて欲を出さなければ楽チンにして生きていけるのです。

然るに「食って寝て糞をして」生きているのは人間皆同じだが、
しかし生きているその実質中味の「価値で生きる」のか、
それとも思い思惑期待の「欲望」や似て非なる「価値観」に満足して生きていくのか(生きているが死んだも同然なのか)、
たったそれだけの違いがあるだけです。

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