孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

童謡「ドングリコロコロ」に似せた大人の実話

2014年01月07日 | Weblog
自力自信の無さからして自信喪失や孤独感になり、然るにそれが欲求不満にも不信感にもなり、またそれが自信喪失や孤独感にもなると言うように繋がりループしており、またそれが何か事を成せねばならぬと思う強迫観念を抱くことにもなり、然るにそれらがまた自力自信の無さや見栄や世間体のプライドを守ることにも繋がります。

然るに皆して赤信号を渡っている雑踏の中に居るのに、それでも皆よりも「ちょこっと」だけでも目立とうとして、然るに余計なことを無理して頑張り見栄張り欲張ることにもなっているのが一般世間です。

その「ちょこっと」した欲のためにどんだけ苦労しているのか己の内心では既に気付いていると思うのに、ところが皆と一緒にいるからして(その安心感も手伝って)其処から中々抜け出せずにいるのです。

然るにその集合化&集合意識が人心に及ぼす影響が如何に強いのかはその時々の時流&流行&史実に現れ出ています。

ちなみに世間一般的な生活をしている大勢の人はドングリの背比べみたいなものですから、然るにそこでちょこっと背伸びして目立ちたがったところで大したことには成らないのです。

だからご近所や職場から少し目立つ事になって自己満足していてもそれが大方にして(時流からして)(目立つことが)長続きしないことはその世間&職業&職場を見渡せば納得が行くはずです。然るに私もそれを経験済みです。

それなのにちょこっとした上り調子でしばらく(お池でドジョウと楽しく遊んでいたら)、然るにそれが下り始めると同時にそれが不平不満と不安になり(遊んでいたドジョウを困らせるような)困った心境に陥ります。

然るに元からして欲張っていなければ困ったことには成らないのです。

然るに上り坂の行き着くところまで行けば(止まれば)後はそこから下り坂になるのがこの世ですから、
然るにどんなに焦ってもその下り坂を(ドングリコロコロと)転がっていくだけでして、然るにその止まるところが俗に言う(上から目線の)落ちこぼれ下積み弱者と呼ばれるような立場になるのです。

だったら其処で開き直りその状況を味わうことにして、そこで欲張ることをしなければ(お池の女神が出てくるが如くに)(捨てる神あれば拾う神ありで)仕組まれながらにして(逆らわなければ)成るようになり、
然るに(欲張った者だけが得をする人間界ではないから)そこで欲張りさえしなければ自分の意識&個性役割に似合った都合のいい場所や位置で穏やかに生きていくことが出来るようになるのです。

然るにそれは死して後のあの世でも(意識だけの世界だけに)そのままの穏やかな意識で宇宙の時を過ごせるはずです。

欲張った者だけが得をするのでしょうか、

2014年01月07日 | Weblog
欲張った者だけが得をするのでしょうか、
結論を先に書けば、
然るに欲張る者が得をしたままに終わる世界ならば、然るに愛の無い闇意識&不完全意識のままに終わることになりますから(完全なる神&愛&全知全能の無い不完全なる宇宙になり)、然るに完全なる形の宇宙も自然も人類も元から存在できない「無の世界」になります。

そこで本題に入りますが、
(何度も書いていることですが)人が集る所に欲ありで、然るに世間に目立つほどに欲張ることが多いことになり、然るに上に立つ人ほど大欲強欲&野心野望のその結果だと書いています。

然るにその下に位置するものを下積み落ちこぼれとも巷で言われますが、それは邪な輩が己の都合がいいようにするために使われているのです。

然るにその下積み落ちこぼれも元からして欲張ったその原因のその結果が出ているわけですから、然るに同じ穴の狢&井の中の蛙の同類であり、然るに宇宙&神&愛意識からして見れば「赤信号を皆して渡っている」ことになります。

そして上の位置を目指すほどに世間に目立ちますが、それをピラミッド形式に例えれば、然るに上の位置に行くほどに人選が厳しくなりますから、当然ながらどんどん落ちこぼれ下積みが増えていく結果にもなります。

然るに私からそのピラミッドを見れば、上の位置に居るほど野心強欲の者に見えるようになりました。
またその下積みになっている者をその犠牲者にも見えますが、しかしその分だけ救いようがあるとも言い換えられます。

然るに上に登る競争を止めれば後は下るだけの(世知辛い)この世ですから、いつしか誰でもが下積み生活を余儀なくされる時が来るのです。
だったらそうなる以前に(後悔反省する前に)自らの意識でもって下っていけばいいのです。

然るに上に登るには苦しいが下ることは楽チンなのです。
だから誰でもが楽にして下れるのです。
そしてその下りきった所で居ても何とか生きていける仕組みがあります。

然るに人それぞれの役割個性&意識からして止まる位置が自然と仕組まれてきますから、その時々の止まった位置に居てそこで欲張らない限り必然ご縁の巡り合せが仕組まれ続けながらにして(己に似合った役割を果たしながらにして)大きな苦も無く楽に何とか生きていけます。
然るに巷で言うところの「捨てる神あれば拾う神あり」なのです。

もしも欲張った者だけが得をするのであれば完全なる宇宙&神&全知全能の愛意識が実在しない闇の世界&人間界になります。
然るに欲張れば得をすると思える人はどんどん欲張ってその欲得を積み重ねていけばいいのです。
しかしその結果は己の自己結果でもってして現れ、然るに己の役割を果たす以上の苦が伴うその自己責任が課せられたままにそれを味わい続けることになります。

然るに現在において多くの苦を味わっているのならばそれが欲張っている証です。

だからそこで宇宙&神&愛の真実を確信悟った者からして(欲張る生き方よりも)欲を出さずに(頑張り見栄張り欲張りせずに)楽チンで生きることのその真価価値を見い出すことができればそれで人間人生は上出来だと思います。

そして後々のことは完全なる宇宙&神&愛の仕組みに任せとけばいいのです。