孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

納得できる人生で終わることが出来ますか、然るにその自信は如何ほどですか?

2014年01月23日 | Weblog
人間は孤独にして生まれ、そして孤独にして死んでいきますから、とどのつまり孤独が当たり前なのです。

だから恋愛していて貴方が楽しくてもその相手がどうだか判りません、然るに孤独なのです。
だからセックスしていて貴方が絶頂であってもその相手がどうだか判りません、然るに孤独なのです。

不平不満に思うのも貴方が思うことであって人様ではありません、然るに孤独なのです。
然るに苛立ち怒るも不安心配になるのも貴方が思う事であって人様では有りません、然るに孤独なのです。

怪我したり病気になって困るのが貴方であっても人様ではありません、然るに孤独なのです。
家族が怪我したり病気になってそれを時おり世話し面倒見ることになったのが貴方であっても他の者ではありません、然るに孤独なのです。

災害にあって困るのも貴方であって他の人ではありません、然るに孤独なのです。
その災害にあった人を助ける事になったのが貴方であっても人様ではありません、然るに孤独なのです。

この世で生き地獄を味わうのが貴方であっても他の人ではありません、また誰もそれを代わってはくれません、然るに孤独なのです。

然るに「人それぞれ」なのです、一緒は無理なのです。
然るに同じ立場でいても「人それぞれ」に(恋愛やセックスのように)その質と量&尺度が違うのです、然るに一緒にはなれないで孤独になるのです。

※然るに貴方の思いは貴方だけの思いなのです、然るに(根本からして)孤独なのです。

なのに何で皆と同等一緒にしたがるのでしょう、
然るに自分独りだと寂しいから(面白くないから)然るに相手も同じ同等同感だと勝手に「思いたい」のです、また相手に「似せ合わせ」たがるのです、そうでなければ(自分独りでは)「寂しい」からです。

しかし根本的には「人それぞれ」が孤独なのです。
だから期待を裏切ったり裏切られたり後悔したりするのです。

それだからこそ元からして孤独自由にして生きていれば、然るに自らに何事が起きても自己責任ですから、それを人様の性&人様が原因とはなりません。
然るに孤独だから人様に巻き込まれることも巻き込むことにもなりません。

然るに皆と同じように似せて生きていても、結局は(とどのつまり)自分が独りだけで全部を味わうことになるのは同じだから、
そこで(意識を切り替えて)その孤独を活かせば自分が思うがままに生きていけるし、現れ出たその自己結果が良かれ悪しかれそれを全部独り(自己責任)でして「味わい尽くせば」その自信と共に何の未練も無く終わるのです。

然るに<納得>できるのです。
然るにどんな人生であっても(自分独り)「納得した人生」で終われるのです。

然るに(不完全意識の人間関係だけに)<孤独と自由>が重要なのです。

そして孤独ではない調和の人間関係を味わえるようになるのは、然るに皆が欲張らない人間界の来世に持ち越すことになるのです。
だから欲張るままに人間を終えれば来世から弾き飛ばされて宇宙のチリとなるのです。

欲張る心を無くしていかない限り邪道を歩く事になり、しかも人様までも巻き込むことになるのです。

2014年01月23日 | Weblog
人それぞれに意識が異なるだけに同じ精神世界の道を皆して同等に歩くのも無理があります。
然るに独自独歩にして自らが先んじるとして書いています。

然るに釈迦やイエスが妻や弟子達と同等に並んで歩いていたはずはありません。
然るに誰かが先んじて歩かなければならないのです。
しかも皆を待っているわけにもいかないのです。

しかも先んじて歩いていた人が必ずしもそれが正しいとは限りません。

然るに釈迦が邪な魂としていたのが本当だったのか否かは不確かです。
そして邪魔者を殺すことが出来るイエスであれば、然るにサタンと呼ぶ者が本当の悪では無くして、神を信じなくてもいいとか、すべては神であるとか、皆が自由であることを説いていた者かも知れません。

ちなみに私が妻や子供達と同じ精神世界の道を歩むことは到底無理なのです。
然るに私が思うがままに先んじて行くしかないのです。
だから妻や家族やが己が思うままにそれぞれに異なった道を歩む事になっても(誰も正否が判らないから)ほっとくしかないのです。

然るにそれが絶対に正しいとなるのは完全なる宇宙&神&全知全能の愛意識だけが知ることです。
しかも(神からして)誰が正しいとは絶対に告げてはくれません。

然るに釈迦やイエスが正しいと神が告げたとしたなら、それは神では無くして神から告げられたと(己の欲心からして)勝手に思い込んでいるだけになります。

然るに欲張る心を無くしていかない限り自らが邪道を歩く事になるのです。
しかも人様までも巻き込むことにもなっているのです。

また人は生まれながらにして孤独であり、死するときも孤独にして行きますから、然るに欲張ること無く生きていくためにも(他を巻き込まないためにも)孤独にして歩むしかないのです。

然るに何度も「自力」を書いているのです。
然るに他力をあてにしたり、他の者が気になるのも何がしの欲からですから、然るにその欲が無ければ他力も必要なくなっていくし他が気にもなりませんが、しかし完全に欲を無くすることは絶対に無理です。

だから欲張る心が出たことに自らして気付きそれに執着しなくなれば上出来だとして書いています。

そして欲張らなければ楽チンにして生きていけることを実感納得すれば更に欲張ることが減っていきますから、然るに己の中の様々な欲と気長に付き合いながらその欲に気付いていく、その実践意識でいることです。