不完全意識の者が何か事を成してもその結果も不完全です。
だからこの世で何か事を成して目立ちたがるその不完全意識に気付きそれを修正するために(学び合うために)この世がありその人間関係があるのです。
だから私達は「どうしようもない」この世を何とかするためでもまた人様&不完全意識の者達を何とかするために生まれ出てきたのではありません。
然るに己独りでは「どうにもならない」ことを気にして生きるよりも、
己独りでも「何とかなる」ことを実践行動する、然るに「己のために」何とかすることが役割であり使命になるとして書いているのです。
然るに歴史史実に登場する輩は己のことよりも人様のことに係わって失敗した(ミイラ取りがそのミイラになる)事例なのです。
然るに何でそうなるのか、それは己の下に集った者達を思いやり何とかしなければと思い上がったことが(自惚れ慢心が)原因にあります。
じゃ何で己の下に人々が集りだしたのか、
然るに目立ったのです。
そして集った者を突き放すことが出来なかったのです。
然るに(矛盾&偽善の)優しさ思いやりが出たのです。
しかしその優しさ思いやりがアダとなっているのが巷にある歴史史実です。
然るに優しさ思いやりに接すれば私も嬉しいし、時には感謝感動して涙を流すことにもなります。
ところがしかし「他力」であって<自力>では無いのです。
然るに映画ドラマや舞台で繰り広げられる一方通行であって、皆が同じ舞台に立って皆して優しさ思いやりを出し合っている双方通行ではないのです。
然るにその一方通行を見聞して記憶してそれを溜め込み、然るに言うだけ、然るに聞くだけで、その中に同等にして(双方向にして)一緒に参加していないのです。
だから先人先生役者に憧れ敬い集り信じ頼ることにもなるのです。
そしてその先人先生役者にも欲がありますから、然るにヘンテコなことに巻き込まれて、その底支えの(その他大勢の)エキストラ役にもなるのです。
然るに不完全意識の人間関係で出てくる優しさ思いやり感謝は同じくして不完全なのです。
それでも皆して生きているからその優しさ思いやり感謝も必然的に授受し合うこともありますが、然るにそれに溺れない、また自惚れ慢心にならない、それに(恩や儀でもって)執着しないことです。
然るに(ブログに書いているように)不完全意識の人間関係は(気疲れの無い&ストレスにならない)シンプルでもいいのです。
然るに見栄や世間体を気にしなければどんどんシンプルになるのです。
そして観客席で見聞しているよりも己が独りの舞台で己の生き様を演じ続けていればいいのです。
そして観客の人数を気にする事無く、また野次が飛ぼうが苦言アドバイスを言われようがそれに惑わされずに己独自を演じながらにしてそこで自らが様々に気付いていけばそれが自力&自信&精神力にもなるのです。
そして自らが欲張らなければそれが(直接的にも間接的にも)(この世にも人様にも)(自然体の愛の)優しさ思いやりにもなっているのです。
だからこの世で何か事を成して目立ちたがるその不完全意識に気付きそれを修正するために(学び合うために)この世がありその人間関係があるのです。
だから私達は「どうしようもない」この世を何とかするためでもまた人様&不完全意識の者達を何とかするために生まれ出てきたのではありません。
然るに己独りでは「どうにもならない」ことを気にして生きるよりも、
己独りでも「何とかなる」ことを実践行動する、然るに「己のために」何とかすることが役割であり使命になるとして書いているのです。
然るに歴史史実に登場する輩は己のことよりも人様のことに係わって失敗した(ミイラ取りがそのミイラになる)事例なのです。
然るに何でそうなるのか、それは己の下に集った者達を思いやり何とかしなければと思い上がったことが(自惚れ慢心が)原因にあります。
じゃ何で己の下に人々が集りだしたのか、
然るに目立ったのです。
そして集った者を突き放すことが出来なかったのです。
然るに(矛盾&偽善の)優しさ思いやりが出たのです。
しかしその優しさ思いやりがアダとなっているのが巷にある歴史史実です。
然るに優しさ思いやりに接すれば私も嬉しいし、時には感謝感動して涙を流すことにもなります。
ところがしかし「他力」であって<自力>では無いのです。
然るに映画ドラマや舞台で繰り広げられる一方通行であって、皆が同じ舞台に立って皆して優しさ思いやりを出し合っている双方通行ではないのです。
然るにその一方通行を見聞して記憶してそれを溜め込み、然るに言うだけ、然るに聞くだけで、その中に同等にして(双方向にして)一緒に参加していないのです。
だから先人先生役者に憧れ敬い集り信じ頼ることにもなるのです。
そしてその先人先生役者にも欲がありますから、然るにヘンテコなことに巻き込まれて、その底支えの(その他大勢の)エキストラ役にもなるのです。
然るに不完全意識の人間関係で出てくる優しさ思いやり感謝は同じくして不完全なのです。
それでも皆して生きているからその優しさ思いやり感謝も必然的に授受し合うこともありますが、然るにそれに溺れない、また自惚れ慢心にならない、それに(恩や儀でもって)執着しないことです。
然るに(ブログに書いているように)不完全意識の人間関係は(気疲れの無い&ストレスにならない)シンプルでもいいのです。
然るに見栄や世間体を気にしなければどんどんシンプルになるのです。
そして観客席で見聞しているよりも己が独りの舞台で己の生き様を演じ続けていればいいのです。
そして観客の人数を気にする事無く、また野次が飛ぼうが苦言アドバイスを言われようがそれに惑わされずに己独自を演じながらにしてそこで自らが様々に気付いていけばそれが自力&自信&精神力にもなるのです。
そして自らが欲張らなければそれが(直接的にも間接的にも)(この世にも人様にも)(自然体の愛の)優しさ思いやりにもなっているのです。