黎明の廃人日記

最近はやや更新が途切れがち、斜めに流し読み。
貴方にも私にも人生の役には立ちません。

納車日程前倒し

2012年06月14日 20時35分32秒 | Weblog
6月14日分。

 毎度。次の土曜日に「FP QUATTORO」の引き取り予定でしたが、さすがに天気予報通りとなると無理だなーと思っていたわけですが……。明日に有給をねじ込むことに成功したので、引き取り日程を繰り上げて明日にしました。幽霊です。お店の方に連絡してみたら、既に現物が向こうへ届いているとのことだったので、引き取り日程の繰り上げは問題ないとのことでした。よしよし。
 土曜日曜はあまり芳しくない、と言うより下手すると強めに雨が降りそうな案配なので、明日が梅雨の中休みの最後のようですし、ギリギリのタイミングで間に合いました。日頃の行いが良いと、こういうときに……あー、はいはい、どの口が言うかって話ですよねサーセン。
 まあでも、日程繰り上げで行けるのは助かりました。いやはや。たまに、こういうところで妙に強運を引き込むことがあるみたいです。普段から発揮してくれよ、ホント。

 さておき、昨日に男性女性の役割とは~みたいな話をネタにしていたわけなのですが。その最後の方で、性別が意味をなさないところまで行き着いたら、さてどーなるんだろうね、なんて話をちょっとだけ書きました。その辺に絡む……ということでもありませんが、何か近縁な感じの話として、若干ガセも入りそうではありますがネタを一つ貼っておきます。
 この件、私にとってはギャラであるとか、その味であるとか、違法性とかにはあまり興味がありません。そこではなくて、「無性化」についての言葉に興味があります。記事中、(ここから引用)「(性別が)男性であるということが、私の人格や意志、思想、人生の目的において必要なのかどうか」と、疑問を抱いていた。」(ここまで引用)という本人のコメントと思われる部分があり、私の興味はそこ一点。
 こういうのは、性同一性障害とはまた違うものなのでしょうか。詳しいわけではないのでアレですが、身体としては男性であるにも関わらず、自身の身体が男性であることに違和感や気持ち悪さを感じてしまう……といったような不一致が性同一性障害、という理解で良いのでしょうか。ウィキペディアでの該当項目を読んでいて感覚的に理解できそうな文言としては、「当事者は(心身ともに)「異性になりたい」のではなく、「本当は女性(男性)なのになぜ身体が男性(女性)か」という極めて率直な感覚を胸中に持っている」という箇所でした。
 今回ネタにした件だと、改めて性同一性障害とは別かなという印象があります。自身の性別と身体との違和感ということではなく、性同一性が成立している上で、男性であることに意味があるのか? と疑問に思った、ということだと読み取っています。この辺は、うちのブログで昨日ネタにしたように、男性的な役割だの男らしさ的なものだのって何? というのと同じような話でしょう。本人にとっての深刻さは違うにしても。

 上の話を書く参考でウィキペディアの性同一性障害の項目を通して読んでいますが、難しい概念ですね……。私自身が、性同一性の成立している「普通の」人間であることから、実感として理解することが出来ないからでしょうか。
 とりあえず、誤解を招かないように書いておくという意味と、自分自身ちゃんと覚えておくこと、という意味との双方を込めて備忘録。

・同性愛
 「恋愛の対象がどちらの性別であるか」の性的嗜好に関する概念。あくまでも、男が好きな男、女が好きな女ということで、性同一性の不成立とは違う。性同一性障害の場合、男が好きな女(だけど身体が男)、というような形になる筈。

・異性装
 服装の趣味嗜好、もしくは性的嗜好によるもの。男だけど可愛い服を着たい、といったようなもので、これも性同一性障害とは違う。性同一性障害の場合、自分は女だと思っているから女性の服装をする(でも身体が男)、ということになると思われる。

・ニューハーフ
 そういった風俗的方面での職業名であることが大半。性同一性障害とイコールではない。と言うか、本当に性同一性障害であるならば不安からそれを隠そうとする筈であって、わざわざ目立つようにニューハーフを名乗ることは無いんじゃあるまいか。

 該当項目を読んでいて少しショックを受けたのは、社会や文化における男女の扱いの差異を無くしたとしても、性同一性障害の苦悩は無くならないという箇所でした。言われてみれば当たり前のことで、苦悩の元は自身の認識と身体の不一致であって、社会や文化がどうだからという問題ではないわけで……。
 この苦悩を取り除こうとするならば、本当に生身の肉体という概念を超越して、精神体・データの身体・機械の身体という辺りの選択をする必要があるのでしょう。いや、それでもやっぱり、違和感は無くならないのかもしれませんね。本当はやっぱり違うんじゃないか、周囲にウソをついているんじゃないのか、という罪悪感という一番根深い部分が残ってしまうのかも。身体だけ治しても、そこまでは届かないものですからね。

 ではでは。ひゅう、どろん。

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