2月28日分。
毎度。そういやもう二月も今日で終わりなんだなーとか、今更なことに、ようやく今の時間で気が付きました。幽霊です。三十日とかまであると思っていたわけではなくて、単に今日の日付というものを、会社に行かないと意識しないというだけの話。毎回このブログを叩くときには冒頭に日付を入れるので、そこでようやっと、ああ今日は二十八日なんだなと気が付くわけです。ダメ人間乙。
とりあえず、よーく寝ました。午前中ほぼめいっぱいまで睡眠で、朝に袋麺を茹でつつホウレン草を突っ込んで、余っていたヨーグルトをおまけで食べる。昼……と言っても二時くらいになってから買い出しに出て、あんかけチャーハンを買ってくる。ついでに、青汁豆乳なるものを購入して飲む。青汁と書いてはあるけれど、自然食品店で売っているやつで、中身は豆乳とヨモギらしい。あまーい。昼を食べて漫画を読んだら眠くなったので、また睡眠。起きたら八時でした。一日の大半を寝て過ごしている罠。ダメ人間乙。
まあ、さすがにそれだけではまずいなーと思ったので、台所周辺の掃除をば済ませました。三十分くらいですが。今のアパートだと地味に1Kの間取りなので、台所周辺とは別に、居室がもう一つあるのですが……ま、そっちの掃除は明日に回すことにします。掃除機かけようにも、この時間ではちょっとうるさいですし。そういや、台所周りの掃除したのって、一番最後はいつだったかしら。うむ、ダメ人間乙。
時事。終末期医療はまた、難しいところではあります。このぐらいの頃合いになると、もう既に完治は無理、ぶっちゃけ死ぬのを待つということになってしまうのも辛いところ。私も母方の祖父がしばらく入院して、結局ガンで亡くなったなぁ。あれは就活でバタバタしている頃に重なっていましたから、そうか、もう四年くらいにはなるのか。確か終戦記念日が命日だったはず。またえらく覚えやすい日に死んだもんだねーとか、後々になって笑い話にした記憶があります。
人間、寿命というか老衰でぽっくり逝ければそれが一番ではありますが、現実問題としてなかなかそれも難しい。畳の上、布団の中で大往生ってのは、そう多くはないのかも知れません。平均寿命も随分延びたものですし、こうなってくると、無病息災とはいきません。一病息災、二病息災くらいで病気と気長に付き合っていく必要があるのでしょう。
はてさて。息災とはいかなくなってきた場合が、難しい。もの凄くアレな話ですが、病院のベッドに居続けるには、お金がかかります。治療……というか終末期ではもう苦痛を和らげることが主眼ですが、つまりは助かる見込みのない人間を、金で繋いでいるという解釈もできるわけですね。心臓を機械で動かして、意識のない状態でも脳と身体はまだ生かしてある、という状態もあり得る。それをまだ生きていると、言うべきなのかどうかは難しい判断です。医学的にはまあ、生きているのでしょう。死亡判定の要件を満たしていないでしょうし。でも、機械を止めれば死ぬ。あれですね、仏様の垂らした蜘蛛の糸みたいなものです。
そうなったときに、機械のスイッチを切れと言えるかどうか? そうなったときに切りましょうと、家族に言えるかどうか。言える家庭もあるでしょう。不仲なこともあるでしょうし、もしくは事前に本人からそういう旨の書類などが提示されているかも知れない。ただ、自分の親を、とどのつまりは見捨てて殺してくれと、言えるかどうか。どれだけ平均寿命が延びようが、死ぬものは死にます。病院側も延々ベッドを占領させるわけにはいかないし、家族側もお金は有限です。せめても、健常に生きている家族のために、という方へお金を使うべきなんでしょうね。世間体ってやつもあるんだろうけど。
倫理観ってのはむずかしひ……。個人的には、私が駄目になったら、さっさとスイッチを切ってもらいたいものですが。後、墓もいらないし葬式もいらない。そんな無駄なものに金と時間を使わないで欲しいものです。といっても、葬式も墓も、本人じゃなくて、家族のため、残った人たちのためのものという認識が必要なのかも知れませんけどね。
それでは。ひゅう、どろん。腹減ったな……飯作るか。
毎度。そういやもう二月も今日で終わりなんだなーとか、今更なことに、ようやく今の時間で気が付きました。幽霊です。三十日とかまであると思っていたわけではなくて、単に今日の日付というものを、会社に行かないと意識しないというだけの話。毎回このブログを叩くときには冒頭に日付を入れるので、そこでようやっと、ああ今日は二十八日なんだなと気が付くわけです。ダメ人間乙。
とりあえず、よーく寝ました。午前中ほぼめいっぱいまで睡眠で、朝に袋麺を茹でつつホウレン草を突っ込んで、余っていたヨーグルトをおまけで食べる。昼……と言っても二時くらいになってから買い出しに出て、あんかけチャーハンを買ってくる。ついでに、青汁豆乳なるものを購入して飲む。青汁と書いてはあるけれど、自然食品店で売っているやつで、中身は豆乳とヨモギらしい。あまーい。昼を食べて漫画を読んだら眠くなったので、また睡眠。起きたら八時でした。一日の大半を寝て過ごしている罠。ダメ人間乙。
まあ、さすがにそれだけではまずいなーと思ったので、台所周辺の掃除をば済ませました。三十分くらいですが。今のアパートだと地味に1Kの間取りなので、台所周辺とは別に、居室がもう一つあるのですが……ま、そっちの掃除は明日に回すことにします。掃除機かけようにも、この時間ではちょっとうるさいですし。そういや、台所周りの掃除したのって、一番最後はいつだったかしら。うむ、ダメ人間乙。
時事。終末期医療はまた、難しいところではあります。このぐらいの頃合いになると、もう既に完治は無理、ぶっちゃけ死ぬのを待つということになってしまうのも辛いところ。私も母方の祖父がしばらく入院して、結局ガンで亡くなったなぁ。あれは就活でバタバタしている頃に重なっていましたから、そうか、もう四年くらいにはなるのか。確か終戦記念日が命日だったはず。またえらく覚えやすい日に死んだもんだねーとか、後々になって笑い話にした記憶があります。
人間、寿命というか老衰でぽっくり逝ければそれが一番ではありますが、現実問題としてなかなかそれも難しい。畳の上、布団の中で大往生ってのは、そう多くはないのかも知れません。平均寿命も随分延びたものですし、こうなってくると、無病息災とはいきません。一病息災、二病息災くらいで病気と気長に付き合っていく必要があるのでしょう。
はてさて。息災とはいかなくなってきた場合が、難しい。もの凄くアレな話ですが、病院のベッドに居続けるには、お金がかかります。治療……というか終末期ではもう苦痛を和らげることが主眼ですが、つまりは助かる見込みのない人間を、金で繋いでいるという解釈もできるわけですね。心臓を機械で動かして、意識のない状態でも脳と身体はまだ生かしてある、という状態もあり得る。それをまだ生きていると、言うべきなのかどうかは難しい判断です。医学的にはまあ、生きているのでしょう。死亡判定の要件を満たしていないでしょうし。でも、機械を止めれば死ぬ。あれですね、仏様の垂らした蜘蛛の糸みたいなものです。
そうなったときに、機械のスイッチを切れと言えるかどうか? そうなったときに切りましょうと、家族に言えるかどうか。言える家庭もあるでしょう。不仲なこともあるでしょうし、もしくは事前に本人からそういう旨の書類などが提示されているかも知れない。ただ、自分の親を、とどのつまりは見捨てて殺してくれと、言えるかどうか。どれだけ平均寿命が延びようが、死ぬものは死にます。病院側も延々ベッドを占領させるわけにはいかないし、家族側もお金は有限です。せめても、健常に生きている家族のために、という方へお金を使うべきなんでしょうね。世間体ってやつもあるんだろうけど。
倫理観ってのはむずかしひ……。個人的には、私が駄目になったら、さっさとスイッチを切ってもらいたいものですが。後、墓もいらないし葬式もいらない。そんな無駄なものに金と時間を使わないで欲しいものです。といっても、葬式も墓も、本人じゃなくて、家族のため、残った人たちのためのものという認識が必要なのかも知れませんけどね。
それでは。ひゅう、どろん。腹減ったな……飯作るか。