エッセイ 抽斗
私の育った小さな町の通りに、二軒の店があった。
軒の低いおシンさんの店は鍋、釜、笊から茶碗、菓子や子供向けの籤まで、何でも屋の店。もう一軒は、「煙草や」と呼ばれている、間口の広い蔵構えの商店。
煙草やは、「たばこ」の赤い看板や、塩の青い看板がぶら下がっていた。
又、何かの鑑札、板塀にキッコーマン醤油や、油などの看板も取り付けてあった。
重い硝子戸を開けて入ると、二段框の板敷はピカピカに磨かれて、壁には、一面大小の抽斗があった。
その前の大きな火鉢の前に、髪をひっつめたに結ったおばあさんが座っている。
しわしわの顔、歯のない口をもぐもぐしながら、小さなキセルでいつもたばこを吸っていた。
葉書きを何枚と、切手を下さいなどと言うと判らなくなる。
抽斗を開けたり閉めたり、何度も聞き返し、首を振りながら怒った顔になる。
すると奥から、モンペをはいた小柄なおじいさんが出てくる。
「あいよ、何だね」と愛想よく話を聞いて、背伸びするようにして抽斗から出してくれる。
おばあさんのことを、皆は「もぶれている」と言っていた。
もぶれるの意味は分からなかったが、今でいう認知症だったのだろう。
あの頃は砂糖から油まで、大抵量り売りだった。
煙草やの土間には、酒や醤油、味噌の樽がいくつも置かれ、それを量るのは、養子のサトルさんの仕事だ。
学校から帰ると、「煙草や」にお使いに行く。
木しゃもじを持ったサトルさんは、味噌樽と秤の間を小刻みに動き、何度も量り、決しておまけはしない。
煙草やは沢山の山林を持っていた。
雨が降り続いて、農作業が遅れるような時でも、山の材木は一雨ごとに太くなり、益々金持ちになる、と、町の人は噂をしていた。
課題 【忘れる・記憶する】 2014・2・28
先生の講評 ・・・ノスタルジーの紗(?)を通した人物表現が巧み。
過去の人間が、今生きているようだ。
つつじのつぶやき・・・2年前の作品です。
先生の講評、紗(?)が達筆すぎて読みとれません。
※ 今朝原稿を見直したら、紗( )の字は「幕」の様です。
演劇評論家の先生ですものね。
なぜだろう。
まるで、詩を読んでるような、情景がしっかり浮かんでくるのです。
先生の評もまた、いい。
過去の人間が今生きている、そうなのです。まさしく。舞台の一場面を見ているようです。
余分な言葉がないのですね。必要な言葉が、淡々と語られている、そこがいいのですね。
ところで、今季の6月10日が、全く同じ課題だったのですね。これを詠んで、驚きました。