トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

津山の町並み保存地区を歩く

2012年02月15日 | 日記
このところ、出雲街道を少しずつ歩いています。

土居宿に続いて、今回は、津山市の町並み保存地区、
城東地区の出雲街道を歩きました。
 
津山駅から今津屋橋を渡って鶴山通りに入ると、
”ごんご通り”の看板がみえました。
”ごんご”とは河童(かっぱ)のこと、
城下町を仕切る吉井川に面した作陽学園のあたりが、
”ごんご”がいたずらをするところだったようです。
今津屋橋商店街には、多くの河童の像が展示されていました。
 
天満屋デパートが入る、アルネ津山に続く商店街を後ろに、
東(姫路方面)に向かって出発しました。

駅前にあった案内図です。
緑色で描かれた津山城のすぐ西の大きな南北の通りが鶴山通り、
茶色で示してあるのが、旧出雲街道です。
京町から伏見町に入ります。
城の真南にあたります。

左側の家並みの間から、再建された津山城備中櫓が見えました。
岡山城下町でも、旧山陽道は現在の表町商店街で、
岡山城のすぐ近くを通っていましたが、
ここ津山城下町でも、出雲街道が城からごく近いところを通っていました。

この写真は、JR津山駅に飾ってある津山城の復元CGです。
慶長8(1603)年、18万6500石で入封した森忠政が
翌年から13年がかりでつくりあげた津山(鶴山)城です。

伏見町は、その森忠政がかつていた、
美濃国兼山(現御嵩町)にあった地名だそうです。
ちなみに、森忠政は、本能寺の変の折り、
織田信長とともに戦死した森蘭丸の弟です。

家並みの先に宮川大橋があります。

宮川大橋の手前に、延宝6(1678)年、大番屋が置かれました。
この大番屋までが城下の内町、宮川から先は外町として、
往来の取り締まりを行っていました。
冒頭の出雲街道の石標はここに置かれています。

宮川大橋を渡ったところは、
ガードレールの替わりに、白壁の土塀風に仕上げてありました。
そのあたりは材木町です。
津山城築城当時の材木置き場があり、材木商や大工職人が居住していたから
こう名付けられたそうです。
津山城の石垣から100mぐらいの距離でしょうか?

少し進むと、街道は家並みに突き当たります。

ここで、街道は鍵形に曲がります。
橋本町の案内板が立っています。

左折してしばらく行くと今度は右折します。
この先の1.2kmが町並み保存地区になっています。

曲がってすぐ右側に、京御門。
銘菓「桐襲(きりかさね)」で知られる和菓子屋さんです。

城下町づくりは、津山城の築城と同じ慶長9(1604)年に始まりました。
津山は、中世には林田郷(はいだごう)といわれていた地域で、
元和3(1617)年、橋本町と林田町、その東の勝間田町ができました。
ここまでが、築城当時の城下町の区域ということになります。
また、江戸時代から明治時代にかけてつくられた町屋が、
今も多く残されているところです。

林田(はいだ)町に入ります。
津山は、中世には「林田郷」とよばれていました。
ですから、ここは、
近郷の村からやってきた人々が住み着いて成立した町ということになります。
 
町の中央にある苅田(かんだ)酒造の建物です。
大きな煙出しがついていて、広い間口をもった立派なお宅です。
脇道に入ると煉瓦つくりの煙突が見えています。
「清酒 諸白 醸造元」の古い看板、
低い軒にナマコ壁、下見板、出格子(でごうし)、大戸など、
このあたりの伝統的民家の姿を伝えています。

やがて、勝間田町になります。

大きな火の見やぐらがひときわ目立つ作州城東屋敷。
明治8(1875)年に建てられた日新小学校の跡です。
学校統合によって一時分校になった後、
明治36(1903)年に廃校になりましたが、
その後も津山工芸専修学校や青年学校、
保育園等に使用された教育施設でした。
平成5(1993)年から、現在の形になりました。
県指定文化財のだんじりの展示館になっています。
映画の「寅さん」シリーズ最終作(「おとこはつらいよ、寅次郎」)の
ロケ地になったところです。

勝間田町の東は中之町。

中之町の玄関先を飾る布製の飾り。
その先の西新町に入るところで、
出雲街道は、また、鍵形に右・左に曲がっています。
左側の民家に大きなたらいがつり下がっていました。

糀製造の三谷商店さんの看板でした。

西新町に入ります。

街道の両側の民家は、比較的新しい建物が多く、
新しく整備が進んでいる地域という印象です。
民家の玄関口の飾りが替わりました。

お聞きしますと、
「火事の時にがんがん叩いて知らせるんですよ」とのお答え。
中之町と西新町、東新町は「新町」と書かれているように、
城下町の拡大に伴って、
寛永・正保年間(1624 ~1647年)に成立した職人町でした。

見どころは、津山洋学で知られる箕作阮甫の旧宅と城東むかし町屋です。

JR津山駅前に立つ、箕作阮甫さんです。

嘉永6(1853)年、ペリー来航の折り、
アメリカ国書の翻訳にあたった人です。
かれの生家は、医師でした。
京都で医術を学び、文政2(1819)年津山で医師を開業しました。
そして、文政6(1823)年、藩主とともに出た江戸で、
洋学を学ぶことになったのです。

城東むかし町屋(旧梶村邸)です。  屋号は米屋。
元禄年間(1695)年頃には街道の南側に住んでおり、
後に現在地に移ってきたそうです。
明和4(1767)年「札元並」という町役に任命され、
その後、数代にわたって「札元」をつとめたということです。
明治4(1871)年から梶村を名乗り、
銀行業務に勤しみながら県会議員をつとめたようです。
建物は、文化庁の登録有形文化財に指定されています。

東新町の家並みです。
もともとは、町人町と足軽町が混在していたところです。
 
ここは職人町ではなかったのですが、
鍛冶屋さんが多かったようです。
職人町の「鍛冶屋町」には
刀剣をつくるところが多かったのですが、
ここ東新町には、生活に密着した鎌や鍬をつくる人が
多く居住していたようです。

今も、「元禄年間創業」という、
作州鎌をつくるお店が残っています。

その先は、また鍵形のカーブ、荒神曲りです。

そのまま進んで、左側にあったのが以前の洋学資料館の建物。
赤い煉瓦の建物です。

今は、箕作阮甫旧宅の隣に新しい資料館が建てられました。

建物の前に、津山洋学を担った人たちの像が建てられています。

林田小学校のあたりまでくると、もうJR東津山駅の近くです。
出雲街道は、津山の城下町でも旧街道の雰囲気を残していましたが、
城下町を抜けた東方のこのあたりも、
同じような雰囲気で、次の勝間田宿に向かっています。

津山城東地区は、江戸時代の雰囲気を今も感じるところです。
特に、林田町から勝間田町の、
江戸時代後期から明治時代にかけての家並みは、
大変すばらしいものでした。












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