忠臣蔵で全国に知られる「播州赤穂」の兵庫県赤穂市。
赤穂市の東部、JR播州赤穂駅から列車で1駅(所要4分)、海岸風景と伝統的な町並みをもつ美しい町があります。坂越の町です。
「さこし」です。
この景観を見ようと、JR坂越駅から坂越の中心地に向けて、スタートしました。駅からの道をまっすぐ、千種川に向かいます。坂越橋西の信号の手前を左折して、上流(相生方面)に向かって歩きます。
坂越は、千種川の左岸の2つの山塊が出会う谷筋に、海に向かって広がる町です。
坂越中学校の信号で右折し、坂越橋で千種川を渡ります。かつて、坂越から相生方面に向かう人々は、坂越橋を中学校側に渡り、ここから千種川をさかのぼって行ったと言われています。
橋には、かつて千種川を行き来していた高瀬船の絵が描かれていました。
橋を渡りきった千種川左岸の道路端に、地元の関係者の手で「高瀬舟船着場跡」の碑が建てられています。
製塩が盛んになった江戸時代には、因幡街道最大の宿場町平福で高瀬船に積み替えられた製塩の燃料となる薪が、ここまで運ばれていました。明治23(1890)年に山陽鉄道有年(うね)駅が開業してからも、高瀬船による水運は続けられていました。
明治25(1892)年頃には、米、麦、小麦、木材、薪、炭、大豆などが、ここまで運ばれていました。逆に、ここから上流に向かっては魚、石炭、酒粕などの肥料、砂糖、清酒、食塩などが、運ばれていたそうです。
千種川左岸から坂越の中心地に入ります。
このあたりの民家は、ほとんど建て替えられていて、静かな住宅地という雰囲気です。南に向かって歩いて、10分ぐらいで、「JA兵庫西」の建物の方からやって来る道に合流します。
合流点の正面には、江戸時代に、赤穂藩が設置した木戸門の跡がありました。木戸門の脇の道を進むと赤穂の城下に至ります。
「右 大坂 道、 左 城下 道」そして、その裏側には、「右 み那と」の文字が。
この案内のとおり、港に向かって歩きます。この通りは、かつて、大八車が荷を満載して行き来していた、坂越大道(さこしだいどう)です。
ゆるやかに登る道を上りきって少し左にカーブするところで、伝統的な家並みが見えてきます。このあたりが、坂越のかつての姿をもっともよく残しているエリアです。
これは、奥藤酒造の醸造場です。慶長6(1601)年創業で、後に酒造業のほか、大庄屋、船手庄屋をつとめていました。回船業で財をなし、地主であるとともに、金融業、製塩業、電灯などの事業を行っていました。
酒蔵は、寛文年間(1661~1673)年の建物で、石垣で半地下式になっているようです。現在は、奥藤酒造郷土館として使われています。
清酒「忠臣蔵」、「乙女」が展示されていました。
母家は300年前の建築。「複雑な平面をもつ入母屋造り」で、西国大名の本陣としても使用されていました。
すぐ近くにある「坂越まち並み館」は、旧奥藤銀行を修復して整備したところで、坂越の町並み景観の保存のための拠点施設として使われています。
中には、旧奥藤銀行の看板が保存されています。
江戸時代前期の寛文(1661~1673)年間に開設された西回航路の発展により、坂越の廻船業者は木綿、紙を仕入れて西国で販売し、現地で購入した米を上方に輸送していました。寛政(1789~1801)年間からは、赤穂の塩を各地の塩問屋に売って大きな利益をあげていたのです。ところが、明治時代になって、日露戦争の戦費を得るため、国は塩を専売制にしたので、経営的にたちゆかなくなったため、奥藤家は廻船業をやめ、蓄えた資金で金融業を営むようになりました。
こうして、奥藤銀行は設立されました。
大正末期に奥藤銀行坂越支店となり、兵和銀行、神戸銀行、赤佐信用金庫を経て、はりま信用金庫(現兵庫信用金庫)坂越支店となりました。赤佐信用金庫時代の看板と金庫が展示されています。
奥藤家の路地に、井戸枠が展示されていました。大道井(だいどうい)です。井戸の跡で、今も井戸は敷石の下に残っています。
井戸枠には、つるべが滑った跡も残っていました。
奥藤家を過ぎると坂越大道は、坂越湾に出ます。そこに、赤穂藩の旧坂越浦会所(村の行政機関)があります。天保3(1832)年に完成しました。
藩主の茶屋も兼ねていました。2階にあった、藩主専用の部屋、御成之間(観海楼)です
藩主の休憩用の部屋、落之間(らくのま)もついています。旧会所の正面の2階の左が観海楼。右の入り口の上に落之間がありました。枕が置かれていました。
観海楼から見える、現在の坂越湾は、埋め立てにより、海まで、ずいぶん遠くなっていましたが、その先の生島(いきしま)は、美しい姿をとどめていました。
旧坂越浦会所の並びには漁師さんの集落があります。本瓦葺き、平入りの大きな母家と土蔵をもつ立派な邸宅です。東之町です。
その一角ある大避(おおさけ)神社。参道の石段にある灯籠には、「・・丸」と刻まれており、この地の漁師さんの寄進によるものではないでしょうか?
国の天然記念物である「生島」には、大避神社の御旅所があります。
上から見た、坂越の屋並みです。こちらは、漁師町の東之町の町並みです。
そして、こちらは、坂越大道沿いの民家の屋根です。春の日差しに、邸宅の屋根が輝いていました。
その姿は、坂越の栄光の歴史を、教えてくれていました。
赤穂市の東部、JR播州赤穂駅から列車で1駅(所要4分)、海岸風景と伝統的な町並みをもつ美しい町があります。坂越の町です。
「さこし」です。
この景観を見ようと、JR坂越駅から坂越の中心地に向けて、スタートしました。駅からの道をまっすぐ、千種川に向かいます。坂越橋西の信号の手前を左折して、上流(相生方面)に向かって歩きます。
坂越は、千種川の左岸の2つの山塊が出会う谷筋に、海に向かって広がる町です。
坂越中学校の信号で右折し、坂越橋で千種川を渡ります。かつて、坂越から相生方面に向かう人々は、坂越橋を中学校側に渡り、ここから千種川をさかのぼって行ったと言われています。
橋には、かつて千種川を行き来していた高瀬船の絵が描かれていました。
橋を渡りきった千種川左岸の道路端に、地元の関係者の手で「高瀬舟船着場跡」の碑が建てられています。
製塩が盛んになった江戸時代には、因幡街道最大の宿場町平福で高瀬船に積み替えられた製塩の燃料となる薪が、ここまで運ばれていました。明治23(1890)年に山陽鉄道有年(うね)駅が開業してからも、高瀬船による水運は続けられていました。
明治25(1892)年頃には、米、麦、小麦、木材、薪、炭、大豆などが、ここまで運ばれていました。逆に、ここから上流に向かっては魚、石炭、酒粕などの肥料、砂糖、清酒、食塩などが、運ばれていたそうです。
千種川左岸から坂越の中心地に入ります。
このあたりの民家は、ほとんど建て替えられていて、静かな住宅地という雰囲気です。南に向かって歩いて、10分ぐらいで、「JA兵庫西」の建物の方からやって来る道に合流します。
合流点の正面には、江戸時代に、赤穂藩が設置した木戸門の跡がありました。木戸門の脇の道を進むと赤穂の城下に至ります。
「右 大坂 道、 左 城下 道」そして、その裏側には、「右 み那と」の文字が。
この案内のとおり、港に向かって歩きます。この通りは、かつて、大八車が荷を満載して行き来していた、坂越大道(さこしだいどう)です。
ゆるやかに登る道を上りきって少し左にカーブするところで、伝統的な家並みが見えてきます。このあたりが、坂越のかつての姿をもっともよく残しているエリアです。
これは、奥藤酒造の醸造場です。慶長6(1601)年創業で、後に酒造業のほか、大庄屋、船手庄屋をつとめていました。回船業で財をなし、地主であるとともに、金融業、製塩業、電灯などの事業を行っていました。
酒蔵は、寛文年間(1661~1673)年の建物で、石垣で半地下式になっているようです。現在は、奥藤酒造郷土館として使われています。
清酒「忠臣蔵」、「乙女」が展示されていました。
母家は300年前の建築。「複雑な平面をもつ入母屋造り」で、西国大名の本陣としても使用されていました。
すぐ近くにある「坂越まち並み館」は、旧奥藤銀行を修復して整備したところで、坂越の町並み景観の保存のための拠点施設として使われています。
中には、旧奥藤銀行の看板が保存されています。
江戸時代前期の寛文(1661~1673)年間に開設された西回航路の発展により、坂越の廻船業者は木綿、紙を仕入れて西国で販売し、現地で購入した米を上方に輸送していました。寛政(1789~1801)年間からは、赤穂の塩を各地の塩問屋に売って大きな利益をあげていたのです。ところが、明治時代になって、日露戦争の戦費を得るため、国は塩を専売制にしたので、経営的にたちゆかなくなったため、奥藤家は廻船業をやめ、蓄えた資金で金融業を営むようになりました。
こうして、奥藤銀行は設立されました。
大正末期に奥藤銀行坂越支店となり、兵和銀行、神戸銀行、赤佐信用金庫を経て、はりま信用金庫(現兵庫信用金庫)坂越支店となりました。赤佐信用金庫時代の看板と金庫が展示されています。
奥藤家の路地に、井戸枠が展示されていました。大道井(だいどうい)です。井戸の跡で、今も井戸は敷石の下に残っています。
井戸枠には、つるべが滑った跡も残っていました。
奥藤家を過ぎると坂越大道は、坂越湾に出ます。そこに、赤穂藩の旧坂越浦会所(村の行政機関)があります。天保3(1832)年に完成しました。
藩主の茶屋も兼ねていました。2階にあった、藩主専用の部屋、御成之間(観海楼)です
藩主の休憩用の部屋、落之間(らくのま)もついています。旧会所の正面の2階の左が観海楼。右の入り口の上に落之間がありました。枕が置かれていました。
観海楼から見える、現在の坂越湾は、埋め立てにより、海まで、ずいぶん遠くなっていましたが、その先の生島(いきしま)は、美しい姿をとどめていました。
旧坂越浦会所の並びには漁師さんの集落があります。本瓦葺き、平入りの大きな母家と土蔵をもつ立派な邸宅です。東之町です。
その一角ある大避(おおさけ)神社。参道の石段にある灯籠には、「・・丸」と刻まれており、この地の漁師さんの寄進によるものではないでしょうか?
国の天然記念物である「生島」には、大避神社の御旅所があります。
上から見た、坂越の屋並みです。こちらは、漁師町の東之町の町並みです。
そして、こちらは、坂越大道沿いの民家の屋根です。春の日差しに、邸宅の屋根が輝いていました。
その姿は、坂越の栄光の歴史を、教えてくれていました。