トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
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城下町尼崎の面影を訪ねて

2013年01月08日 | 日記
江戸時代、現在、兵庫県南東部にある伊丹市、宝塚市、尼崎市、西宮市、芦屋市から神戸市の東部にいたる地域を治めた藩が江戸時代にありました。現在、阪神工業地帯の工業都市として知られている尼崎市に置かれた尼崎藩です。
尼崎藩は、大坂夏の陣で軍功を上げた外様大名の建部政長が、元和元(1615)年に1万石を与えられて立藩しました。

今回は、城下町の面影を求めて尼崎の町を歩きました。

旧城下町は阪神電鉄の沿線に近いところにありました。写真は北口から見た阪神尼崎駅です。私は南口から、駅に沿って東に進みました。

元和3(1617)年、江戸幕府の重臣大名であった膳所藩主の戸田氏鉄(うじかね・譜代大名)が5万石で入封します。 大坂夏の陣の後、外様大名が多い西国支配の拠点として、江戸幕府は、新たに大坂城を築き、大坂に近い尼崎藩をそのための前線基地としました。そのため、その役割にふさわしい重臣大名が配置されることになったのでした。

戸田氏鉄の入封の翌年から、尼崎城の築城が開始されました。

庄下(しょうげ)橋を渡って、尼崎城址に向かいます。正面に、レンガづくりの建物が残っていました。阪神電鉄の旧尼崎発電所の跡です。現役時代は、写真の左手前にあった煙突からもくもくと煙をあげていた火力発電所でした。明治37(1904)年に電車の開業に先立って建設されたもので、大正8(1919)年まで阪神電車の運行に使われていました。現在は物置として使われているそうです。
  
庄下橋の下を流れる庄下川。 写真の下側に見える庄下川は、尼崎城の外堀になっていました。また、工場の前から斜めに延びる道が本丸を守った内堀の跡といわれています。現在、石垣と城壁の一部が再建され尼崎城址公園になっています。

城壁の南には、中央図書館がありました。

南の国道43号線に面した明城小学校の正面です。4層の天守閣など藩の中枢部があった本丸はこの付近にありました。「琴浦城」とも呼ばれ、瀬戸内海の沖から見ると城全体が海に浮かんでいるように見えるからそう呼ばれたとわれています。「尼崎城址」の碑が校庭前に残っていました。

小学校の校庭に、天守閣の模型が立っています。中に入れないので国道から撮影しました。

戸田氏鉄は、寛永12(1635)年美濃の大垣藩に移りますが、その後を継いだ青山義成(譜代大名)が城下町の整備を続けます。このとき、西国街道を尼崎城の南を迂回するルートに変更しました。その後、宝永8(1701)年、青山氏が信濃の飯山藩に移ってからは、正徳元(1711)年、松平忠喬(譜代大名)が4万石で尼崎に入ります。いずれも幕府の重臣大名であり、特に松平忠喬は、「十八松平」といわれる徳川家康の親戚にあたる大名でした。松平氏は桜井の姓を名乗り、明治維新までこの地を治めました。

中央図書館の脇の道路をはさんだ南側に、桜井神社がありました。名前のとおり、桜井松平家の初代から16代までの歴代藩主を祀っています。

拝殿の左前にあった、巽櫓のシャチ瓦です。

境内には、お守りや絵馬の自動販売機が置かれていました。これが珍しいからと、携帯電話で撮影する参拝客が、多くおられました。

境内にあった「日本赤十字発祥の地」(博愛社)の碑です。「14代藩主、桜井忠興は、文久元(1861)年に藩主になってから、幕末の動乱を乗り切った後、明治10(1877)年西南戦争のとき、私財を投げ打って医師・看護師を派遣し、敵、味方の区別なく手当をしたといわれています。これが「博愛社」の起こりでしたが、後の明治20(1887)年、日本赤十字社に改称されました。「その社則は東京都千代田区の桜井邸で起草されたものだ」と説明板には書かれていました。

藩主戸田氏鉄は、江戸幕府の西国大名支配のための最前線という役割を担って、尼崎城と城下町を建設しました。

その役割を担うためにつくられたのが寺町でした。寺町は阪神尼崎駅の西に置かれ、3.9haの敷地に11の寺院を集めました。阪神電車からも見える風景です。旧開明小学校から西に広がっていました。寺町の建設は、寺院と民衆を切り離し寺院の勢力をそぐ意味も含まれていたようです。代表的な寺院をまとめておきます。

圧倒されるような方丈をもつ本興寺。迫力十分です。方丈や開山堂など三棟の国指定重要文化財を持つ法華宗の寺院です。慶安元(1649)年、この地で創建されました。小堀遠州の庭園など室町・桃山期の様式を今に伝えています。

朱塗りの三重の塔が真っ青な空に映えていました。

秀吉ゆかりの廣徳寺です。本能寺の変の後に豊臣秀吉が明智光秀を追って山崎に向かう途中、伏兵を避けるため逃げ込んだといわれています(「尼崎で付近の禅宗寺院を見つけて休憩した」という説もあります)。京都の大宮にあった臨済宗大徳寺派の廣徳寺が移ってきたといわれています。

高徳寺にある「秀吉由緒」の石碑です。秀吉から寺領を与えられたといわれていますが、江戸幕府の2代将軍徳川秀忠の「寺領30石」と書かれた朱印状が残っているそうで、江戸幕府からも寺領を与えられていたようです。

現存する尼崎市最古の寺院の大覚寺です。寺伝では、推古13(605)年「聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて尼崎市の長洲の浜につくらせた」といわれる、律宗の寺院です。

専念寺の本堂です。朱塗りの山門に銅板葺きの本堂、近代的な雰囲気の寺院です。平重盛の菩提寺だそうです。

尼崎市内唯一の多宝塔をもつ日蓮宗の長遠寺。重要文化財に指定されています。元和年間(1615~1623)にここ寺町に移ってきたといわれています。

浄土宗の法園寺(ほうおんじ)です。長遠寺と同じく元和年間にここに移ってきました。

境内に、佐々成政の墓地といわれる五輪塔がありました。織田信長に仕え猛将として知られました。「後に秀吉に属しますが、肥後守として在任中に領地で反乱が起きます。責任を問われ、天正16(1588)年切腹させられます。そのとき、恨みの秀吉のいる大坂城に向かって自らの臓腑を投げつけた」と説明には書かれていました。

このほか寺町には、金の鳳凰が屋根についている甘露寺、時宗寺院の善通寺、浄土宗の常念寺、曹洞宗の全昌寺、浄土宗の如来院が並んでいました。いずれも堂々とした立派な寺院でした。

寺院群に隣接して、煉瓦造りの建物が残っていました。ここにも、城下町の名残が残っていました。

「尼信(尼崎信用金庫)記念館」を示すこの石が、「尼崎城のなごりの石」なのです。

外堀だった庄下川にかかる開明橋の北側の川岸に、3mに渡って積まれていたものの1つだったようです。開明橋の北には、明治の廃城令によって姿を消した、不明橋(あかずのはし)がありましたが、この橋の取り付けの石塔だったようです。尼崎城の石材は処分されたり、尼崎港の防潮堤工事に使われて残っていませんので、貴重な存在でした。

尼崎信用金庫の本店のあるところに、明治時代のレンガ造りの建物が残っています。大正10(1921)年に、有限責任尼崎信用組合の創業時の本店事務室として使われていました。古老の話によれば、明治30(1897)年頃には、すでに創業者の小森家の所有になっていたようです。昭和47(1927)年、新しい本店(現在は本店別館で貯金箱博物館になっています)の建造に伴い移転して現在地にやってきました。もとは今より南50mほど南にあったそうです。

新年の訪問でしたので閉館しているところが多く、十分なまとめができていません。城下町の名残の半分ぐらいしかできませんでした。次の機会には、これ以外の尼崎市に残る城下町の名残を捜して歩いてみようと思っています。

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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
見ました (山田)
2013-01-19 12:03:44
 尼崎が城下町とは、初めて知りました。なかなか見応えがある町ですね。良いところを歩かれますね!!
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