トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

掛川城と七曲り、掛川市を歩きました

2012年09月04日 | 日記
旧東海道掛川宿を歩きました。「掛川」の地名の由来には二つの説があるそうです。一つは、町の中心を流れる逆川に切り立った崖が多かったため、「崖川」とか「欠川」と呼ばれたことに由来するという説。もう一つの説は、平安時代の平将門の乱の後、将門を含む19人の首を川の水で洗った後、橋に掛けて首実検したところであるため、「掛川」になったとするものです。大変な暑さの中でしたが、特に印象に残ったものが二つありました。

一つは、青い空に生える白亜の掛川城天守閣です。白漆喰の白さが目にしみました。

丘の上に建つ天守閣と太鼓櫓(手前)です。太鼓櫓は、もとは三の丸(本丸の東側の下段)にあったものですが、本丸に移されていました。

掛川城天守閣は、平成6(1994)年、木造で再建されました。日本初の木造で復元された天守閣でした。

青森ひば材を使用しており、天守閣に入るとほのかに木の香がただよう魅力的なお城です。現存する12の天守閣(国宝・国指定重要文化財)以外では、岐阜県の郡上八幡城に次いで、私には二番目に訪ねた木造で再建された天守閣でした。天正18(1590)年、山内一豊(秀吉の家臣、5万1千石)が掛川城に入り、天守閣を備えた城郭に整備しました。それまでの掛川城は、室町中期の文明年間(1469年~1487年)に、守護大名・今川義忠が家臣の朝比奈泰照に命じて築いたものでした。

山内一豊は、天正9(1581)年、安土城での馬揃(うまぞろえ)のとき、馬を買う資金がありませんでした。それを知った妻、千代はへそくりで東国の名馬を買い、それが、織田信長の目にとまったのでした。良妻賢母の妻のエピソードでよく知られています(「常山紀談」)。 ちなみに、一豊はこの時の妻の恩に感謝してか、側室をもたなかったともいわれています。

天守閣のある本丸の東側、一つ下の段にあった二の丸御殿です。掛川藩の藩政を進めるために、藩主や家臣が詰めた政庁です。

外部からの目隠しのためにつくられた、二の丸御殿東側の「黒土塁」。藩の政治の中枢、二の丸御殿にふさわしいつくりです。

藩主が政務をとった二の丸書院上の間。

藩主が政務の合間に休憩した二の丸小書院も残っていました。

天正18(1590)年から10年間、この地で過ごした山内一豊は、関ヶ原の戦いのときに、徳川家康に対して「掛川城を使ってほしい」と申し出ました。これをきっかけに、東海道沿いの城主も次々に提供を申し出るようになったそうです。関ヶ原の戦いでは大きな功績をあげることはできなかったようですが、戦いの後、家康は「一豊の功績は随一である」と言って、その功績を称えたということです。関ヶ原の戦いの後、一豊は、家康から土佐藩24万石(土佐一国)を与えられ、掛川城とそっくりの高知城天守閣を築城しました。

その後、掛川城は、安政元(1854)年の「安政東海地震」によって、天守閣や二の丸御殿など城の大半が倒壊しました。二の丸御殿は、文久元(1861)年に再建されましたが、天守閣は再建されることはありませんでした。このとき再建された二の丸御殿は、昭和55(1980)年、国の重要文化財に指定されています。
  
掛川城天守閣の再建にあたっては、山内一豊が創建した当時の天守閣に似せて再建するために、高知城の天守閣を参考にしたそうです。再建された掛川城は、平成18(2006)年に「日本100名城」(42番目)に選定されました。

連雀町にある掛川信用金庫連雀支店の左脇の通りを右(北)に曲がります。

大手門通りの先に掛川城大手門があります。

大手門は、平成5(1993)年、青森ひば材で再建されました。本来の位置より、50m北に移転しているそうです。

これは、旧東海道連雀町から見た大手門付近。周囲の建物が中央の大手門と見事にマッチしていました。 
   

もう一つ印象に残ったのが、旧東海道を江戸から京都に向かって、掛川宿に入るところにあった「七曲り」でした。山内一豊が整備した掛川城下町の東につくられています。一豊の城下町づくりの一環としてつくられたものでしょう。

全国の城下町には、防御のため、容易に入れないようにする工夫がしてあり、枡形をつくったり、鍵形をした通路をつくったりしていました、掛川宿では「七曲り」のカーブの多い道をつくっていました。

七曲りに入ります。旧東海道から案内標識にしたがって左折します。      

建物の間から掛川城が見えました。今では建物の陰になっているところもありますが、江戸時代には城下のどこでも、こんな光景が見られたことでしょう。

正面右側にある予備校の手前を右折して進みます。

つきあたりに、秋葉常夜灯がありました。遠江国から三河国にかけての地域でさかんな秋葉山信仰。秋葉の常夜灯は、ここにもありました。

そういえば、歌川広重の「東海道53次」の掛川宿には秋葉山が描かれています。常夜灯の前を左折します。

正面にある「かねも」の工場の門の手前を右折してさらに進みます。

次に、仕出し料理の魚林のところの行き止まりを再度右折します。

道の先の「塩の道の道標」を右側に見ながら道なりに交差点を左に曲がります。いただいた「案内」には、「七曲り」の終わりに木戸と番所が置かれていたと書かれていました。

ヤマサキショップの手前を右に折れます。

この先は、仁藤町。丁葛(ちょうくず)製造本舗桂花園の手前の道を左に曲がります。ここで「七曲り」は終わりでした。数えてみると、カーブは8つありました。「八曲り」が正しいのもしれません?

江戸時代には、「七曲り」といっても一本道で迷うことはなかったのでしょうが、今は道路も大小たくさんあって、旧東海道をたどるのもなかなか大変でした。

ここからは、旧東海道掛川宿に入ります。まっすぐ進むと連雀町。仁藤町も連雀町も、江戸時代、掛川宿の伝馬役をつとめていました。

掛川宿は、東西8町(約850m)。天保14(1843)年には、本陣2軒、旅籠30軒を含めて960軒。3443人(男1634人、女1809人)が居住していました。

掛川信用金庫連雀支店の先を右に曲がって進むと、先ほどの大手門通りになります。

連雀町の駐車場に、沢野弥三左衛門本陣跡の案内板がありました。寛永年間(1624年~1643年)から幕末までつとめたようです。何回か火災に遭いましたが、その都度再建されたそうです。

この道は、次の旧東海道袋井宿に向かって、さらに西に延びておりました。


帰りに寄ったJR掛川駅。駅舎も木造建築でした。

山内一豊がつくった掛川城下町から発展した静岡県掛川市。一豊の時代の掛川城にこだわって、木造の天守閣を再建した掛川市。「一豊の城下町」を誇りに、町づくりを進める掛川の人々の心意気に触れた一日でした。


 
 

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