掛川宿方面から袋井宿に入りました。写真は、振り返って掛川方面を撮影したものです。
東海道53次の27番目の宿場、袋井宿。
前日歩いた掛川宿から2里16町(9.5km)の所にあります。
掛川宿から、旧東海道を来た旅人は、袋井市役所にぶつかります。
市役所を建設したときに旧東海道が分断され、宿場町の入口にあった天橋(あまはし)もなくなったといわれています。
市役所の手前を左に折れてしばらく進みます。
川の手前で右折します。案内板と「これより袋井宿」の石碑が見えます。
再建された天橋を渡ると、枡形があり、袋井宿の町並みが始まります。
天橋を渡ってすぐ右側に、観光案内所「どまん中茶屋」がありました。
地元の方がボランティアで、観光客の相談に対応しておられます。
旧東海道は、「どまん中茶屋」を過ぎて右に行く道です。
袋井宿は、東西5町15間(約600m)。東海道の宿場町は、慶長6(1601)年に開設されたものが多いのですが、袋井宿は少し遅れて元和2(1616)年に開設されました。
今では、町並みのほとんどの民家が建て替えられており、宿場町の面影をしのぶのはかなり難しいことでした。
旧東海道を15分ぐらい歩くと、通りの右側に本陣跡の門が再建されていました。
袋井宿は天保14(1843)年には、3つの本陣と旅籠50軒があり、843人(男379人、女464人)が居住していました。この本陣は、間口13間半、奥行31間、建坪288坪であったと説明にはありました。
ここは、「一番本陣」と呼ばれた東本陣で、当主は「田代八郎左衛門」を代々名乗っており、伝馬の運営にあたる問屋場の責任者、「問屋」も兼ねていました。明治になって、本陣を廃業し、伝馬所(問屋場から改名)の元締役をつとめ、郵便事業の開始とともに、その取次所も兼ねていました。本陣の建物は最初の袋井郵便局になりました。(本陣跡の説明)
東本陣跡から10mぐらい進んだ、街道沿いの民家の駐車場に、問屋場跡の碑が建っていました。問屋場の「問屋」は、東本陣の田代八郎左衛門でした。文化年間(1804年~1817年)には、問屋場は中本陣(中太田本陣)の西側にあったといわれています。
さらに進むと、街道右側の民家の前に「西本陣跡」の碑がありました。西太田本陣の跡です。3つあった袋井宿の本陣は、いずれも街道の右(北)側に置かれていたそうです。
高札場が復元されています。
宇刈川にかかる御幸橋(みゆきばし)のたもとにあった本町宿場公園。宿を囲む土塁や高札場、秋葉灯籠が復元されていました。ここが、袋井宿の西の端になります。本町宿場公園の脇を南北に通る道を渡ると、旧川井村に入ります。
明治元(1868)年に建てられた寺沢家長屋門。旧東海道沿いでは珍しいそうです。
国道と合流した旧東海道をさらに西に向かって歩きます。本町宿場公園から40分ほど歩いたところで松橋を渡ります。
前方の横断歩道の手前で、再び旧東海道は国道から分かれます。
右へ入る旧街道を進みます。
頻繁に車が行き来する国道の喧噪がうそのような静かな通りです。
国道と分かれて5分ほどで、左側に、復元された”木原の一里塚”が見えます。江戸から601番目の一里塚です。一里塚は街道の両側に土を盛り上げて塚をつくり右側に松、左側に榎の木を植えていました。ここには、街道の左側に、榎の木が植えられていました。
一里塚の実際にあったところは、ここより60mぐらい東だったようです。
旧東海道は、この先で再び国道に合流します。
そして、次の見附(見付)宿方面に向かっていきます。
照りつけていた太陽が沈み始めたので、JR袋井駅に引き返すことにしました。
袋井駅に着いた時にはかなり暗くなっていました。
駅前にある「どまん中、ふくろい」。
街道沿いにある「どまん中 西小学校」。
天橋の「どまん中 茶屋」などなど。
袋井市は、旧東海道53次の真ん中、27番目の宿場であることをウリにした町づくりを進めているユニークな町でした。特に、「どまん中 西小学校」には、思わず笑ってしまいました。