牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”。2019年度、京都府からは3駅がランクインしています。80位の辛皮(からかわ)駅(京都丹後鉄道)、153位の保津峡駅(JR山陰本線)、そして、165位の立木(たちき)駅(JR山陰本線)の3駅です。この中の保津峡駅はすでに訪ねました(「橋梁上の”秘境駅”JR保津峡駅から、トロッコ保津峡駅へ」2016年12月29日の日記)。「青春18きっぷ」の季節でしたので、JR山陰線の立木駅を訪ねてみることにしました。
JR立木駅です。平屋建ての白壁の駅舎です。JR山陰本線の福知山駅と園部駅の間にあります。この駅をめざして、岡山駅を8時09分に出発するJR山陽本線の相生駅行きの列車に乗車しました。
相生駅から姫路駅行きの列車を乗り継ぎ、姫路駅からは播但線の列車でJR山陰本線の和田山駅へ。和田山駅から、山陰本線の列車で福知山駅へ。福知山駅から、園部駅行きの列車に乗車。舞鶴線が分岐する綾部駅から次の山家駅を過ぎ、上原トンネル(全長91m)を抜けた先に、立木駅がありました。到着は13時24分。岡山駅を出発してから、乗り継ぎ時間を含めて、5時間18分の普通列車の旅でした。乗車してきた、223系2両編成、ワンマン運転の電車は、行き違いのため2番ホームに停車しています。
時刻表を見ると京都駅発の”はしだて5号”との行き違いのようです。京都丹後鉄道(丹鉄)の車両がやって来ました。福知山駅から丹鉄を経由して豊岡駅に向かう列車でした。
園部駅行きのワンマン運転の電車は、次の安栖里(あせり)駅、その次の和知(わち)駅に向かって出発して行きました。山陰線の線路と電車を跨いでいる道路は、京都縦貫道(丹波・綾部道路)です。
立木駅は、京都府船井郡京丹波町広野北篠にあります。通ってきた山家(やまが)駅から3.5km、次の安栖里駅間まで4.8kmのところにあります。
到着した2番ホームを山家駅方面に向かって歩きます。長いホームの途中に柵が設けられ、先に進めないようになっています。柵の手前から見た山家駅方面です。立木駅を含む綾部駅から園部駅間のローカル駅はY字分岐のままで、いわゆる”1線スルー”にはなっていません。そのため、園部駅・京都駅方面に向かう列車はすべて2番ホーム側の線路を通過していきます。
2番ホームの端から見た立木駅の全景です。2面2線の長いホームと、ホームをつないでいる跨線橋が見えます。右側のホームは、綾部駅や福知山駅方面行きの列車が停車する1番ホームです。
2番ホームを跨線橋に向かって歩きます。跨線橋の手前にはホームの上屋が設けられており、待合いのスペースになっています。晴れ渡った空の青さと、周囲の山の緑、駅舎や道路の高架の白さが調和した、明るい雰囲気の駅になっています。
向かいの1番ホームに「JRたちき」という看板がつくられています。駅の存在をPRしておられるようでした。背後に、山の斜面にある集落が見えました。
1番ホームに移動します。上屋の下から跨線橋を上ります。JR山陰本線は、明治30(1897)年に二条駅・嵯峨(現在の嵯峨嵐山)駅間が開業したことに始まります。その後、延伸されて、立木駅がある園部駅・綾部駅間が開業したのは、明治43(1910)年8月15日のことでした。しかし、このとき、立木駅は駅の設置が行われませんでした。昭和8(1933)年、最後に残っていた須佐駅・宇田郷駅間が開業し山陰本線は幡生駅まで全通しましたが、このときにも、立木駅は設置されていませんでした。太平洋戦争後の昭和21(1946)年に立木信号場が開設されましたが、旅客や貨物を取扱う「駅」に昇格したのは、翌年の昭和22(1947)年のことでした。
跨線橋を歩きます。この地域は、江戸時代には広野村と呼ばれ、園部藩の領地になっていました。明治22(1889)年、町村制が敷かれてからは船井郡下和知村となりました。昭和30(1955)年には上和知村と合併して船井郡和知町になっています。面積の90%が山地で、わずかに、河川に沿ったところや山の斜面に集落が広がっているところでした。そして、平成17(2005)年、船井郡内の和知町と丹波町、瑞穂町が合併し、現在の船井郡京丹波町になりました。
立木駅が開業してから14年後の昭和36(1961)年、立木駅は貨物の取扱いが廃止となりました。さらに10年後の昭和46(1971)年には無人駅となりました。現在は、西舞鶴駅が管理する無人駅になっています。跨線橋を渡って1番ホームに降りると、ホームの上屋がありました。「1番ホーム」を示すマークの脇の柱に、建物財産標が貼ってありました。
建物財産標には「旅客上家1号 本屋側乗降場上家 昭和58年1月」と書かれていました。上屋がつくられたのは、昭和58(1983)年だったようです。
跨線橋の下に倉庫がつくられていました。ホームからは直接行くことはできませんが、ドア付近に「建物財産標」が見えました。
建物財産標には「倉庫1号 跨線橋下倉庫 昭和58年1月」と書かれていました。ホームの上屋を整備したときに、合わせて倉庫もつくられたようです。
そのまま進み、1番ホームの端まで歩きます。端から見た駅舎方面です。ホームに接して白い駅舎の建物と渡って来た跨線橋が見えます。駅舎の手前側にはトイレが設置されています。
駅舎に入ります。入った左側には待合室。その外側にはトイレが設置されていますが、待合室からは直接行くことができない構造になっています。この駅舎について、平成13(2001)年9月4日に、この駅を訪ねられた牛山隆信氏は「駅舎が撤去されてしまった跡地に、小さなカプセル型の待合室が建っている」と記されています。この「カプセル型の待合室」がいつ建てられたのか、資料がなくてはっきりしません。ホームの上屋や倉庫が建てられた昭和58(1983)年に一緒に整備されたのかも知れませんが、見た印象では、それより新しいのではないかとも感じました。
待合室の内部です。リサイクルボックスとベンチ。京丹後町町営バスの待合室にもなっているようです。驚いたのは「ホームにサルが出没しています。ご注意ください」の掲示でした。山間の人の動きの少ないところにある駅だと改めて実感させられました。
駅舎の通路に掲示してあった時刻表です。平日には、快速列車も含めて、1時間に1本の列車が停車しています。”秘境駅ランキング”を主宰されている牛山隆信氏は、立木駅について「秘境度3ポイント(P)、雰囲気2P、列車到達難易度2P、外部到達難易度2P、鉄道遺産指数2P」という評価をしておられます。列車到達難易度を2Pと評価されています。牛山氏の評価の割りには、停車する列車の本数は多いと感じました。こうした評価を見ていると「周囲を山に囲まれた、自然豊かで、人の動きが少ない」という駅周辺の雰囲気が大きく影響していることがわかりました。ちなみに、立木駅の1日平均乗車人員は、2016年には8人だったそうです。
駅舎から駅前広場に出ました。白い壁に黒色で「立木駅」と駅名が書かれています。すぐに、沢の音が聞こえてきました。駅の周辺を歩いてみることにしました。
駅前を走っているのは府道59号(主要地方道 市島・和知線)です。写真の先の兵庫県丹波市市島町につながっています。通りの左側の山の斜面に集落がありました。右側の倉庫風の建物は自転車駐輪場です。この日は春休みの期間中でしたので、3台ほどの自転車が見えました。
周囲を山で囲まれた、面積の90%が山地という旧船井郡下和知村や上和知村は、農業や林業を営む人が多い地域でした。米を中心に木材、クリ、松茸、椎茸、木炭などの生産が盛んでした。明治になってからは、養蚕が盛んになり、明治20(1887)年に器械製糸工場を創業しました。この工場は、明治43(1910)年に綾部市の郡是製糸会社(グンゼ)に買収され、同社の和知工場として、昭和23(1948)年まで操業していました。 府道59号を福知山方面に向かって歩きます。その先に、石碑がありました。
二つの石碑が並んで建てられていました。右側の「樋口良一君殉死の碑」が気になりました。昭和41年11月1日、立木駅振興会が建立した石碑でした。石碑の背面に建立の経緯が刻まれていました。「樋口良一さんは、和知町広野の万吉さんの二男として生まれた17歳の青年でした。立木駅の建設工事が始まった昭和21(1947)年4月27日、駅舎建設予定地の掘割の奉仕作業中に、突然土砂が崩落し下敷きになって亡くなってしまいました。翌日の28日に、地元の人たちが永遠の別れを悲しんだといわれています。この尊い犠牲は地元の青年たちを奮起させ、11月1日に立木駅が開業する運びになりました。開業20周年を迎えるにあたり、殉死の碑を建立し樋口良一さんの冥福を祈ります」(要約)というものでした。当時の立木駅長の撰文を、和知町長の字で刻んだものでした。鉄道の敷設に期待を寄せた地元の人たちと工事の犠牲になった青年の姿を、今に伝えています。
このとき、立木駅を出発した福知山駅行きの普通列車が出発して行きました。
牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の165位にランクインしている山陰本線立木駅は、周囲を山に囲まれた、いかにも秘境駅らしい駅でした。牛山氏は、この駅を訪れた時の印象を「事前に得た情報をもとに降りてみると、そこには、日常の煩わしさを忘れさせてくれるような、長閑な空間が広がっていたのである」と書かれていますが、そのコメントは、立木駅で私が受けた印象と共通していました。
この駅に来て、駅から見える風景を見ていると、おだやかな、長閑な気持ちになってくる、そんな雰囲気のある駅でした。
JR立木駅です。平屋建ての白壁の駅舎です。JR山陰本線の福知山駅と園部駅の間にあります。この駅をめざして、岡山駅を8時09分に出発するJR山陽本線の相生駅行きの列車に乗車しました。
相生駅から姫路駅行きの列車を乗り継ぎ、姫路駅からは播但線の列車でJR山陰本線の和田山駅へ。和田山駅から、山陰本線の列車で福知山駅へ。福知山駅から、園部駅行きの列車に乗車。舞鶴線が分岐する綾部駅から次の山家駅を過ぎ、上原トンネル(全長91m)を抜けた先に、立木駅がありました。到着は13時24分。岡山駅を出発してから、乗り継ぎ時間を含めて、5時間18分の普通列車の旅でした。乗車してきた、223系2両編成、ワンマン運転の電車は、行き違いのため2番ホームに停車しています。
時刻表を見ると京都駅発の”はしだて5号”との行き違いのようです。京都丹後鉄道(丹鉄)の車両がやって来ました。福知山駅から丹鉄を経由して豊岡駅に向かう列車でした。
園部駅行きのワンマン運転の電車は、次の安栖里(あせり)駅、その次の和知(わち)駅に向かって出発して行きました。山陰線の線路と電車を跨いでいる道路は、京都縦貫道(丹波・綾部道路)です。
立木駅は、京都府船井郡京丹波町広野北篠にあります。通ってきた山家(やまが)駅から3.5km、次の安栖里駅間まで4.8kmのところにあります。
到着した2番ホームを山家駅方面に向かって歩きます。長いホームの途中に柵が設けられ、先に進めないようになっています。柵の手前から見た山家駅方面です。立木駅を含む綾部駅から園部駅間のローカル駅はY字分岐のままで、いわゆる”1線スルー”にはなっていません。そのため、園部駅・京都駅方面に向かう列車はすべて2番ホーム側の線路を通過していきます。
2番ホームの端から見た立木駅の全景です。2面2線の長いホームと、ホームをつないでいる跨線橋が見えます。右側のホームは、綾部駅や福知山駅方面行きの列車が停車する1番ホームです。
2番ホームを跨線橋に向かって歩きます。跨線橋の手前にはホームの上屋が設けられており、待合いのスペースになっています。晴れ渡った空の青さと、周囲の山の緑、駅舎や道路の高架の白さが調和した、明るい雰囲気の駅になっています。
向かいの1番ホームに「JRたちき」という看板がつくられています。駅の存在をPRしておられるようでした。背後に、山の斜面にある集落が見えました。
1番ホームに移動します。上屋の下から跨線橋を上ります。JR山陰本線は、明治30(1897)年に二条駅・嵯峨(現在の嵯峨嵐山)駅間が開業したことに始まります。その後、延伸されて、立木駅がある園部駅・綾部駅間が開業したのは、明治43(1910)年8月15日のことでした。しかし、このとき、立木駅は駅の設置が行われませんでした。昭和8(1933)年、最後に残っていた須佐駅・宇田郷駅間が開業し山陰本線は幡生駅まで全通しましたが、このときにも、立木駅は設置されていませんでした。太平洋戦争後の昭和21(1946)年に立木信号場が開設されましたが、旅客や貨物を取扱う「駅」に昇格したのは、翌年の昭和22(1947)年のことでした。
跨線橋を歩きます。この地域は、江戸時代には広野村と呼ばれ、園部藩の領地になっていました。明治22(1889)年、町村制が敷かれてからは船井郡下和知村となりました。昭和30(1955)年には上和知村と合併して船井郡和知町になっています。面積の90%が山地で、わずかに、河川に沿ったところや山の斜面に集落が広がっているところでした。そして、平成17(2005)年、船井郡内の和知町と丹波町、瑞穂町が合併し、現在の船井郡京丹波町になりました。
立木駅が開業してから14年後の昭和36(1961)年、立木駅は貨物の取扱いが廃止となりました。さらに10年後の昭和46(1971)年には無人駅となりました。現在は、西舞鶴駅が管理する無人駅になっています。跨線橋を渡って1番ホームに降りると、ホームの上屋がありました。「1番ホーム」を示すマークの脇の柱に、建物財産標が貼ってありました。
建物財産標には「旅客上家1号 本屋側乗降場上家 昭和58年1月」と書かれていました。上屋がつくられたのは、昭和58(1983)年だったようです。
跨線橋の下に倉庫がつくられていました。ホームからは直接行くことはできませんが、ドア付近に「建物財産標」が見えました。
建物財産標には「倉庫1号 跨線橋下倉庫 昭和58年1月」と書かれていました。ホームの上屋を整備したときに、合わせて倉庫もつくられたようです。
そのまま進み、1番ホームの端まで歩きます。端から見た駅舎方面です。ホームに接して白い駅舎の建物と渡って来た跨線橋が見えます。駅舎の手前側にはトイレが設置されています。
駅舎に入ります。入った左側には待合室。その外側にはトイレが設置されていますが、待合室からは直接行くことができない構造になっています。この駅舎について、平成13(2001)年9月4日に、この駅を訪ねられた牛山隆信氏は「駅舎が撤去されてしまった跡地に、小さなカプセル型の待合室が建っている」と記されています。この「カプセル型の待合室」がいつ建てられたのか、資料がなくてはっきりしません。ホームの上屋や倉庫が建てられた昭和58(1983)年に一緒に整備されたのかも知れませんが、見た印象では、それより新しいのではないかとも感じました。
待合室の内部です。リサイクルボックスとベンチ。京丹後町町営バスの待合室にもなっているようです。驚いたのは「ホームにサルが出没しています。ご注意ください」の掲示でした。山間の人の動きの少ないところにある駅だと改めて実感させられました。
駅舎の通路に掲示してあった時刻表です。平日には、快速列車も含めて、1時間に1本の列車が停車しています。”秘境駅ランキング”を主宰されている牛山隆信氏は、立木駅について「秘境度3ポイント(P)、雰囲気2P、列車到達難易度2P、外部到達難易度2P、鉄道遺産指数2P」という評価をしておられます。列車到達難易度を2Pと評価されています。牛山氏の評価の割りには、停車する列車の本数は多いと感じました。こうした評価を見ていると「周囲を山に囲まれた、自然豊かで、人の動きが少ない」という駅周辺の雰囲気が大きく影響していることがわかりました。ちなみに、立木駅の1日平均乗車人員は、2016年には8人だったそうです。
駅舎から駅前広場に出ました。白い壁に黒色で「立木駅」と駅名が書かれています。すぐに、沢の音が聞こえてきました。駅の周辺を歩いてみることにしました。
駅前を走っているのは府道59号(主要地方道 市島・和知線)です。写真の先の兵庫県丹波市市島町につながっています。通りの左側の山の斜面に集落がありました。右側の倉庫風の建物は自転車駐輪場です。この日は春休みの期間中でしたので、3台ほどの自転車が見えました。
周囲を山で囲まれた、面積の90%が山地という旧船井郡下和知村や上和知村は、農業や林業を営む人が多い地域でした。米を中心に木材、クリ、松茸、椎茸、木炭などの生産が盛んでした。明治になってからは、養蚕が盛んになり、明治20(1887)年に器械製糸工場を創業しました。この工場は、明治43(1910)年に綾部市の郡是製糸会社(グンゼ)に買収され、同社の和知工場として、昭和23(1948)年まで操業していました。 府道59号を福知山方面に向かって歩きます。その先に、石碑がありました。
二つの石碑が並んで建てられていました。右側の「樋口良一君殉死の碑」が気になりました。昭和41年11月1日、立木駅振興会が建立した石碑でした。石碑の背面に建立の経緯が刻まれていました。「樋口良一さんは、和知町広野の万吉さんの二男として生まれた17歳の青年でした。立木駅の建設工事が始まった昭和21(1947)年4月27日、駅舎建設予定地の掘割の奉仕作業中に、突然土砂が崩落し下敷きになって亡くなってしまいました。翌日の28日に、地元の人たちが永遠の別れを悲しんだといわれています。この尊い犠牲は地元の青年たちを奮起させ、11月1日に立木駅が開業する運びになりました。開業20周年を迎えるにあたり、殉死の碑を建立し樋口良一さんの冥福を祈ります」(要約)というものでした。当時の立木駅長の撰文を、和知町長の字で刻んだものでした。鉄道の敷設に期待を寄せた地元の人たちと工事の犠牲になった青年の姿を、今に伝えています。
このとき、立木駅を出発した福知山駅行きの普通列車が出発して行きました。
牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の165位にランクインしている山陰本線立木駅は、周囲を山に囲まれた、いかにも秘境駅らしい駅でした。牛山氏は、この駅を訪れた時の印象を「事前に得た情報をもとに降りてみると、そこには、日常の煩わしさを忘れさせてくれるような、長閑な空間が広がっていたのである」と書かれていますが、そのコメントは、立木駅で私が受けた印象と共通していました。
この駅に来て、駅から見える風景を見ていると、おだやかな、長閑な気持ちになってくる、そんな雰囲気のある駅でした。
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