岡山市を流れる旭川に面して、
県庁の東から南に向かって走る水の手筋。
水の手筋を京橋に向かって、
整備された遊歩道を歩いていきます。

京橋交番(写真の左上)の少し手前にある花壇の中に、
「旧橋本町」と記された地名由来碑が立っています。

「江戸時代は、旭川の水路と
山陽道の陸路を利用する多くの問屋がありました」
それには、このように刻んでありました。
ここは、豊臣秀吉に仕えた宇喜多氏の時代からの町人町でした。
碑にも書かれてあるとおり、高瀬舟の発着場でした。
ちなみに、江戸時代に岡山城下には、
「海船72隻、河船86隻あった」(「備陽記」)ようで、
これらの船は、京橋を中心とした城下の川岸を拠点にしていました。

これは、当時の町割りを記したもの(「岡山市の地名」より)ですが、
旭川の東岸から、橋本町の中央部に入って、
西大寺町で右に回り、
上之町に抜けている(赤で表示)道が山陽道です。
旭川を、幅4間(3.1m)、長さ68間(124m)の京橋で渡って、
橋本町に入りました。
橋本町側には「大門」があり、門の南に接して高札場があったようです。
この町には、嘉永7(1854)年、
男78人、女84人の162人が住んでいたようですが、
交通の要衝にあったため、その中には、
当然のことながら有力商人もたくさんいました。
江戸初期から寛政年間まで総年寄りをつとめていた、
質商の淀屋佐々木家、
中期岡山城下一の豪商といわれた、塩屋の武田一族、
享保年間以降「木屋丁子香」で知られた木屋清七郎などが有名です。
宅地の地子(税金)も、西大寺町と並んで、
岡山城下で最も高い町でした。

夕暮れに撮影したので、画面が暗くなりましたが、
この道が当時の山陽道でした。
このあたりは、明治維新後も海運業の中心として栄えたようです。
「四国へは毎日便船があり、大阪へは毎月1と6の日に船が出た」と、
いうことです。
今も、商業がさかんな地域ですが、静かな住宅地という雰囲気もあるところです。
岡山城下一の商業地区であった、かつての繁栄をしのぶのは難しいようです。
http://www.city.okayama.jp/museum/yuraihi/index2.html
県庁の東から南に向かって走る水の手筋。
水の手筋を京橋に向かって、
整備された遊歩道を歩いていきます。

京橋交番(写真の左上)の少し手前にある花壇の中に、
「旧橋本町」と記された地名由来碑が立っています。

「江戸時代は、旭川の水路と
山陽道の陸路を利用する多くの問屋がありました」
それには、このように刻んでありました。
ここは、豊臣秀吉に仕えた宇喜多氏の時代からの町人町でした。
碑にも書かれてあるとおり、高瀬舟の発着場でした。
ちなみに、江戸時代に岡山城下には、
「海船72隻、河船86隻あった」(「備陽記」)ようで、
これらの船は、京橋を中心とした城下の川岸を拠点にしていました。

これは、当時の町割りを記したもの(「岡山市の地名」より)ですが、
旭川の東岸から、橋本町の中央部に入って、
西大寺町で右に回り、
上之町に抜けている(赤で表示)道が山陽道です。
旭川を、幅4間(3.1m)、長さ68間(124m)の京橋で渡って、
橋本町に入りました。
橋本町側には「大門」があり、門の南に接して高札場があったようです。
この町には、嘉永7(1854)年、
男78人、女84人の162人が住んでいたようですが、
交通の要衝にあったため、その中には、
当然のことながら有力商人もたくさんいました。
江戸初期から寛政年間まで総年寄りをつとめていた、
質商の淀屋佐々木家、
中期岡山城下一の豪商といわれた、塩屋の武田一族、
享保年間以降「木屋丁子香」で知られた木屋清七郎などが有名です。
宅地の地子(税金)も、西大寺町と並んで、
岡山城下で最も高い町でした。

夕暮れに撮影したので、画面が暗くなりましたが、
この道が当時の山陽道でした。
このあたりは、明治維新後も海運業の中心として栄えたようです。
「四国へは毎日便船があり、大阪へは毎月1と6の日に船が出た」と、
いうことです。
今も、商業がさかんな地域ですが、静かな住宅地という雰囲気もあるところです。
岡山城下一の商業地区であった、かつての繁栄をしのぶのは難しいようです。
http://www.city.okayama.jp/museum/yuraihi/index2.html
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