
急勾配の岩山の断崖絶壁のわずかな窪みに張り付くように建てられたお堂があります。鳥取県の三徳山三佛寺投入堂(みとくさんさんぶつじなげいれどう)です。三徳山三佛寺は、天台宗修験道の古刹として知られています。
江戸時代には、寛永10(1633)年、藩主池田光仲が100石を寄進し(幕末まで続く)、天保10(1839)年には、当時の藩主池田斉訓(なりくに)が本堂を再建するなど、鳥取藩の厚い支援を受けていました。

三朝温泉観光商工センターの壁には、「三徳山投入堂を世界遺産に」というメッセージが掲示されていました。家人とともに三朝温泉に行く機会がありましたので、合わせて三佛寺を訪ねることにしました。JR山陰線の倉吉駅から三朝温泉。さらに、三朝温泉から定期バスで15分余り。三徳山の参道前で下車しました。

石段を登り、三佛寺の参詣者受付案内所に向かいます。

ここで、入山料400円を支払って境内に入ります。「投入堂に行かれますか?」と聞かれて、「はい」と返事はしたのですが、心配なことがありました。

向かいのお店で、100円で軍手を買いました。参道に沿って、山内寺院が三寺ありました。お店の隣にある皆成院(かいじょういん)。石段をあがった上の段の左側にあった正善院。

正善院の向かい、山門から本堂に向かって、12支の石仏が並んでいる輪光寺。いずれも、宿坊です。

さらに石段を登った左側に宝物殿。

石段を上がって左に曲がって進むと正面に、三佛寺本堂がありました。慶雲3(706)年、役行者(えんのぎょうじゃ)によって、修験道の行場として開かれ、嘉祥2(849)年に、慈覚大師、円仁によって、本尊釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来を安置され、「浄土院美徳山三佛寺」と称したことに始まります。当時は美徳山と書いたようです。標高899.6mの三徳山全体を境内としているようです。本堂の手前の左側に、地蔵堂遥拝所と書かれた案内板がありました。三徳山を見上げると屋根が見えていました。

本堂の右側から奥に入ると、投入堂への登山参拝事務所があります。私が心配していたのは、一人では登山できないといわれることでした。家人は、このところ体調がよくなく同行は難しいと言っておりましたので・・・・。登山されますね?」、「はい」。「二人で登られますね?」、「はい」と言ったのですが、ここで、目の前の担当の方が「あそこにおられる男性の方が一人なので一緒に登ってくださいませんか?」。家人は「じゃあ、私は残ります」。 心配事が解決しました! これで私は登ることができ、家人はここで待つことができます。そして、かの男性も登ることができます。よかった! よかった! 「登山者名簿に名前と連絡先、出発時間を書いてください」。「たすきをお渡ししますから、下山したときここに返して、到着時間を記入しておいてください」。「200円いただきます」。これで、登山手続き完了です! 14時17分、出発です。

ちなみに、ご一緒することになった方は。靴が滑りやすいものだったようで、ぞうりに履き替えておられました。

登山参拝事務所を出て下に降りていきます。登山道の入口です。

宿入橋(しくいりはし)から登り始めます。下の川には、すぐ右の小さな滝から流れ落ちた水が流れていました。

「忌穢不浄輩禁登山」の碑を見ながら登ります。「私はいいのかな?『忌穢不浄輩』ではないのか?」と一瞬思いましたが、登りたいという気持ちのままに先に進みました。

これは、「山にはどこにもある注意喚起だから」と思ったら、さっそく難所です。


ほどなく、大きな木組みの横を登ります。文殊堂を支えるための庇柱(ひさしばしら)の下に入りました。下山されている方がくつろいでおられました。

文殊堂の脇のむき出しになった岩場をくさりで登ります。「くさり坂」です。岩場の上に立ってくさりを引いて登ると楽でした。登り切ると文殊堂です。文殊堂は、入母屋造、柿(こけら)葺き。桃山時代の建築といわれてきましたが、永禄10(1567)年の墨書きが出てきたことから、室町時代後期の建築と考えられています。

文殊堂を過ぎると、露出した岩場の脇を通る道です。岩場の左の細い道のところに「滑落現場」という標識がありました。下を覗くと深い谷。それほど危険な感じの道ではなかったのですが、標識を見てぞっとしました。「一人での登山は禁止」というのは、実は事故の防止だけでなく事故が起きたときの情報を得るという意味もあるんだと、近くを登っていた人が話しておられました。滑落した場所がわからないと搜索もできません。事故だけでなく自殺のようなケースもあるのだそうです。

一緒に行動している男性がスムーズに登っていかれるので、私もいいペースで登ることができました。ここは、やはり岩場の上に建つ地蔵堂です。入母屋造り、柿葺き。 室町時代後期の建築だそうです。

周囲についている縁側に上がることができます。こちら(裏)側はいいのですが、反対側は断崖絶壁、足がすくみます。

これは、縁側から見た西方の景色です。幾重にも連なる山なみの向こうまで見渡せます。すばらしい眺望です。

登山道のスタート地点の下にあった本堂の脇に、「地蔵堂遥拝所」がありましたが、そこからこの地蔵堂が見えていましたが、下からはこの写真のように見えていました。

さらに登ります。右側に鐘楼堂がありました。「合掌、単打、合掌」とありました。連打はいけないようです。私も、合掌して、一度だけ鐘をならし、合掌しました。

下ってくる方々が「もうすぐですよ」と声を掛けてくださるようになりました。納経堂です。ここも、急勾配の窪地に建てられていました。平成13(2001)年から翌年にかけて行われた用材の「年輪年代測定法」の結果から、平安時代後期の建築とされています。

納経堂から10mぐらいで、観音堂です。そして、この先を右に曲がって、投入堂を見上げる位置に着きました。三佛寺の奥の院です。投入堂は、標高約470mのところにあります。登山参拝事務所から約700mの登山道を50分ぐらいかけてあがってきました。一緒に登った男性は、ぞうりのはなおがくいこんで痛いと言って、はなおのところにティッシュペーパーを挟み込んでおられました。投入堂を見上げると、想像していたより小さい印象でした。

岩の上から長い庇柱が伸びて、投入堂を支えています。 投入堂は、流造の檜皮葺き。正面の桁行(間口)5.4m、奥行3.9m。よく見ると、左側に愛染堂がくっついています。

投入堂の建築年代については、納経堂の建築年代を推定した用材の「年輪年代測定法」により、平安時代の建築と推定されています。また、比較的最近では、大正4(1915)年に、正面向かって右手前(西北隅)の庇柱を取り替え、平成18(2006)年には屋根の葺替えの修理が行われたようです。また、平成18(2006)年建築史家の窪井茂氏の調査により、柱などの主要な構造部材が朱色に、壁が白色に、垂木の先が金色に彩色されていたことが明らかになりました。国宝なのです!

帰りに、登山道で見つけた役行者(えんのぎょうじゃ)の像です。役行者(えんのぎょうじゃ)が、3枚の花びらを「仏に縁のあるところに落ちろ」と空になげると、1枚目は石鎚山、2枚目は吉野山、そして3枚目が三徳山に落ちました。役行者は三徳山に来て堂を建てる場所を探し、飛騨国から大工を呼んで堂をつくりました。役行者は、その前で一心に祈り、エイッ!と掛け声をかけると、堂は空に浮かび岩堂におさまったということです。これは、三朝温泉の薬師湯の近くに掲示されていた、投入堂に建設にまつわる伝説ですが、まさにこの通りつくられたのではないかと思うほど、ぴったりおさまっています。現在でも、建設方法に関しては、はっきりしていないようです。帰りはみんな表情もリラックスしていて、ゆったりと歩いておられました。本堂の裏にある、登山参拝事務所に着いたのは、16時10分でした。たすきをお返しし、登山者名簿に、到着時間を記入しれ、下山後の手続きは完了です。
もう一つ、訪ねたいことろがありました。本堂から登ってきた道を下って、参詣者受付案内所から参道前のバス停に戻ります。

「投入堂遥拝所」です。バス停からバス道を少し登り、10分ぐらいで着きました。道路の反対側には、投入堂を見ることができる無料の望遠鏡が置かれていました。

肉眼では、写真の中央の白く見えるところに投入堂が見えていました。

ズームして写した投入堂です。ここは、三佛寺の奥の院を遥拝するところでした。美しい姿だけでなく建築方法の神秘性など、世界遺産への登録を推進する方々のお気持ちがよくわかる投入堂でした。三朝温泉観光商工センターの壁にある掲示を思い出しました。
行ってみたいとずっと思っていた投入堂を、ついにこの目でみることができました。満足感と達成感で一杯でした。しかし、この翌日から3日間ほど、足の痛みに悩まされることになるとは、このときは想像もしていませんでした。
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