トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

貝塚市に残る寺内町の面影を訪ねて(1)

2018年11月29日 | 日記
大阪府貝塚市は、寺内町として知られています。寺内町は、室町時代から江戸時代初期にかけて、浄土真宗などの仏教寺院や御坊(道場)を中心に形成された集落です。壕や土塁で囲まれた集落では自治が行われ、信者や商工業者が居住していました。

貝塚寺内町は、浄土真宗”願泉寺”を中心に成立、発展しました。江戸時代には、7,500人の居住者のほとんどは願泉寺の信徒だったといわれています。

これは、南海電鉄貝塚駅の観光案内所でいただいたパンフレット「願泉寺の重要文化財」にあった貝塚寺内町の地図です。この地図の北は右45度の方向にあたります。地図の薄く塗られた部分が寺内町のエリアで、地図の右(北)側を流れる北境川、左(南)側を流れる清水川、下(東)を走る南海電鉄本線、上(西)は大阪湾で囲まれていました。また、防御のために、壕とその内側に土塁を設けていました。東西550メートル、南北800メートルの広さで、以前訪ねた富田林寺内町(「寺内町の面影を訪ねて、富田林を歩く」2013年10月15日の日記)よりも小規模の寺内町でした。地図の中央を左右(南北)に走る通り(太線部)は、大坂と和歌山を結んでいた紀州街道です。中央部に枡形が設けられていました。また、地図の中央を上下(東西)に走る通りは中之町通りと呼ばれていました。現在では、この二つの通りは拡幅されていますが、それ以外の街路は、寺内町の頃とほぼ同じ形で残っているそうです。

貝塚寺内町は、願泉寺の住職であった卜半(ぼくはん)家が領主として支配していました。この日は、寺内町の宗教と政治の中心であった願泉寺を訪ねてきました。南海電鉄本線の貝塚駅の西口からスタートしました。東口には、水間鉄道の起点貝塚駅があり、水間鉄道は、水間観音駅までを15分で結んでいます(「水間鉄道水間観音駅を訪ねる」2018年9月28日の日記)。貝塚駅から南海電鉄の線路に沿って、北方向(岸和田方面)に向かって進みます。

その先にあった石柱です。「従是東西海塚領」と刻まれています。貝塚は南郡麻生郷海塚村に属していました。裏側には「明治参拾年参月」とありました。この南海電鉄に沿ったあたりが寺内町の東西の境界であることを示しています。

南海本線の蛸地蔵7号踏切の三差路を左折して、貝塚港に向かう西町海塚麻生中線(「中之町通り」通称「なかんちょ通り」と呼ばれていたそうです)に入ります。

すぐ右側に感田(かんだ)神社がありました。神社にあった「説明」によれば、「感田瓦大明神と称し、貝塚市内の産土神(うぶすなかみ)で天照大神等三柱を祭神とする。創建は明らかではないが、慶安元(1648)年社殿が再建されたとき、宗福寺の住職が祭祀を担った」ということです。感田神社には、かつて貝塚寺内町の周囲に設けられていた壕の名残があると聞いていました。

感田神社の南門です。明治22(1889)年の建立だといわれています。

南門を入りまっすぐ進むと参集殿です。その手前に、壕と説明板がありました。貝塚寺内町に壕がつくられたのは慶長18(1613)年。徳川家康によって3間幅の周壕が掘られたときでした。

説明板にあった絵図です。寺内町の最古の慶安元(1648)年の絵図です。絵図の左下隅が北にあたります。感田神社は絵図の中央の最上部(東の端)にあります。

拡大図です。中央の四角の部分が感田神社です。周囲を壕で囲まれています。感田神社の左の壕の中に★のマークが見えます。

壕は参集殿の前に残っていました。参集殿に渡る橋から撮影しました。この壕が、上の絵図の★のマークがあるところでした。壕の両岸には石垣が築かれていました。

参拝者にわかりやすいように整備をしたのでしょう、「説明」によれば、右岸と左岸で石垣の築き方が異なっているそうです。こちらは、和歌山側の石垣で、江戸時代の布積みという積み方で積み上げられています。

こちらは、大阪側の石垣です。明治時代以降の積み方である谷積みで積み上げられています。

北側にある神門から出て、振り返って撮影しました。「説明」には、「安永9(1780)年、大工種子島源右衛門によって建てられた。海の日の前日の日曜日に行われる例祭には御輿渡御(みこしとぎょ)が行われ、7台の太鼓台が担ぎ出される」と書かれていました。感田神社は長い歴史を誇る神社らしく、神門、南門、参集殿など多くの建築物が登録有形文化財に登録されています。

西町海塚麻生中線(中之町通り)に戻ります。お好み焼きの看板の先を右折して石畳の通りに入ります。左側に「貝塚寺内町」と刻まれた石柱がありました。ここは”御坊前通り”、願泉寺の前の通りです。

左側に、浄土真宗の寺院、金涼山願泉寺がありました。貝塚寺内町は、願泉寺の卜半家を中心に成立、発展しました。願泉寺の起源は、行基が建てたと伝えられる庵寺だといわれています。天文14(1545)年に根来寺から卜半斎(ぼくはんさい)了珍を招き、5年後に庵寺を貝塚御堂として再興。そして、天文24(1555)年には石山本願寺の下で寺内町として取り立てられました。しかし、天正5(1577)年、織田信長の雑賀攻めのとき、貝塚寺内町は全焼していまいます。その後、徳川家康の認可を得て、貝塚寺内町は、慶長5(1600)年、卜半家の私領となりました。そして、貝塚御坊が願泉寺という寺号になったのは、慶長12(1607)年に、西本願寺の准如から「願泉寺」の寺号を授けられたときでした。慶長15(1610)に、徳川家康から寺内町の支配を認められてからは、卜半家は、江戸時代を通して、願泉寺の住職として、また、領主として貝塚寺内町を支配することになりました。

願泉寺付近のマップです。願泉寺の本堂の裏には、現在貝塚市立北小学校がありますが、かつては、ここに、寺内町を支配した卜半家の役所が置かれていました。そこでは、「寺僧」と呼ばれた満泉寺、正福寺、泉光寺、要眼寺、真行寺(今はありません)の五ヶ寺が、願泉寺の檀家を預かるとともに、卜半家の家来として、寺内町の町政を担っていました。小学校の前の通りは”御下筋(おしたすじ)”と呼ばれていました。

願泉寺の表門と築地塀(ついじべい)です。表門は江戸時代の延宝年間(1673~81)に建立された大型の四脚門です。また、寛文11(1671)年に建てられた築地塀には、壁面の定規筋(じょうぎすじ)が5本。寺院の最高位を表しています。表門は国の重要文化財に指定されています。

願泉寺の表門にあった龍の彫刻です。元禄3(1690)年に製作されたものです。

願泉寺の境内に入ります。表門の先につくられていた3間の目隠塀です。表門から本堂や本尊が直接見えないようにするため設けられています。

国の重要文化財に指定されている願泉寺の本堂です。寛文3(1663)年貝塚寺内町や近隣の村の人々からの寄進によって再建されました。前年に起きた地震によって被害を受けたため、三ツ松村(現在の貝塚市三ツ松)出身の大工で江戸にいた岸上和泉守貞由(きしがみいずみのかみさだよし)を棟梁に、再建されたといわれています。

国の重要文化財である表門と本堂は、平成17(2005)年から5年掛けて、大規模な半解体修理(平成の大修理)を行っています。本瓦葺きの本堂の屋根には、「願泉寺」の銘の入った瓦が使われていました。

享保4(1719)年に再建された太鼓堂です。2間4方の上層の真ん中には、文字通り仏事などに使用される巨大な太鼓が備えられています。下層は3間四方で北側に出入口が設けられています。この建物も、国の重要文化財に指定されていますが、平成10(1998)年に台風の被害を受けたため、平成の大修理の前に1年間にわたって修理工事が行われました。

昭和20(1945)年8月10日の貝塚空襲で鐘楼を焼失したため、昭和23(1948)年に、貝塚市森の稲荷神社の境内にあった鐘楼(別当の青松寺のもの)を移築したそうです。江戸時代の元禄15(1702)年に建築されたものでした。中に掛かっている銅鐘は、鎌倉時代の貞応3(1224)年に鋳造され、大和国大福寺(北葛城郡広陵町)にあったもの。天正13(1585)年に水間寺を経て願泉寺に移ってきたそうです。

願泉寺から出て、御坊前通りに出ました。願泉寺の向かいにあった特留山正福寺とそれに続く寂静山満泉寺です。どちらも、寺僧として卜半家を支えた寺院でした。正福寺は天正11(1583)年この地に移転して来て、寛永7(1630)年から寺号を正福寺と改めました。浄土真宗本願寺派の寺院です。

満泉寺です。こちらも、寺僧として卜半家家の町政を担っていた寺院です。天正13(1585)年貝塚に移り、慶長18(1613)年に本願寺から寺号を与えられ満泉寺と改めました。浄土真宗大谷派の寺院です。

見えにくいのですが、満泉寺の掲示板にあったメッセージです。「あんまりがんばらないで でも へこたれないで」亡くなられた女優、樹木希林さんの言葉が掲示されていました。

御坊前通りを北に向かって歩きます。満泉寺の先にあった二位山尊光寺です。浄土真宗本願寺派の寺院です。もとは、真言宗の寺院でしたが、室町時代の明応2(1493)年に浄土真宗に改宗し、その後、天正16(1588)年にこの地に移ってきました。現在の本堂は享保8(1723)年に再建されたものです。

尊光寺の境内にあるカイヅカイブキです。境内にあった「説明」には「移転当時からの老樹である」と書かれていました。だとすると樹齢400年を超えていることになります。樹高8メートル、地上2メートルのところで大きく3枝に分かれているのが特徴だそうです。
貝塚市といえば、縄文時代人の遺跡であった貝塚から命名されたのではないかと思ってしまいますが、貝塚市の市域では、これまで貝塚の遺跡は発見されていないそうです。もともと「海塚(かいづか)」と呼ばれていたのが、天正16(1588)年に寺内町になってから「貝塚」の字が使われるようになったそうです。これは、古文書の記録から証明されているそうです。また、現在でも、寺内町を除く旧村は「海塚(うみづか)」と記述されています。なぜ、「貝塚」になったのか確証のある説はないそうです。
このカイヅカイブキの老樹を見ていると、貝塚の地名に何らかのかかわりがあるのではないかと思ってしまいます。

これは、願泉寺前から見た尊光寺の全景です。写真の手前側には、満泉寺と正福寺があります。卜半家を支えた寺僧の他の3ヶ寺はどこにあったのでしょうか。冒頭のマップには、泉光寺は東の感田神社との間に、また、要眼寺は中之町通りを隔てた南側にそれぞれ名前がありました。今はない真行寺はどこにあったのでしょうか。尊光寺の手前にある満泉寺との間にあったスペースが、かつて真行寺があったところのようです。泉光寺を訪ねることにしました。

中之町通りに出ます、感田神社に向かって引き返し、「お好み焼き」の看板がある通りに入ります。

左側にある正福寺、満泉寺の裏を抜けると、前方左に尊光寺が見えました。その手前、右側に、めざす清泰山泉光寺がありました。

御坊前通りに戻ります。尊光寺の前から通りの幅が狭くなった”御坊前通り”をさらに北に進みます。その先に東西の通り(堀之町筋)がありました。その手前に広い間口のお宅がありました。

天保3(1832)年に建設された並河家です。並河家は卜半家の家来で、代々要職を務めて来た家柄です。一見商家のような外観ですが、内部には式台のある玄関があるなど、武家の住宅になっているそうです。

その先で堀之町筋(堀之町通)にぶつかります。左折して大阪湾方面に向かって進みます。通りは途中から、利齋坂(りさいざか)と呼ばれる急な下り坂になっています。

右側にあった山田家です。このお宅は卜半家の家来をつとめていた家柄で、江戸時代末期のからは古美術商を営んでいました。主家は19世紀末ごろに建てられたもので、国の登録有形文化財に登録されています。

やがて、左側にある北小学校に沿って歩くようになりました。

”利齋坂”の途中にあった竹本(久男)家です。貝塚の特産品である黄楊(つげ)櫛の製造業を営んでいました。建物は建築年代の異なる東西の2棟からなっています。手前(東)側の建物は、江戸時代に建設された間口2間半の小規模の町屋。下(西)側の建物は昭和7(1932)年頃の建築とされています。国の登録有形文化財に登録されています。

”利齋坂”を下ったところの右側にあった利齋(りさい)家です。天正5(1577)年の織田信長の雑賀攻めの時に貝塚に移ってきたといわれ、代々「孫左衛門」を名乗り薬種問屋を営み、北之町の町年寄も務めて来ました。17世紀の建築で、貝塚で最も古い町家だといわれています。利齋家も国の登録有形文化財に登録されています。

利齋家の角で左折して”御下筋”を南に向かいます。北小学校の正門付近に来ました。正門が卜半役所の表門があった位置にあたるそうです。

玄関から校内を撮影させていただきました。正門から校内に入って校舎を抜けると卜半役所跡の石垣が残る段丘があります。先ほど下ってきた堀之内筋の急坂も段丘部分にあたります。段丘には石段が設けられ、段丘上のグランドに行くことができます。江戸時代には、この石段の上に中門があり、グランドから願泉寺の本堂の後ろまで卜半役所の建物が建ち並んでいたといわれています。


寺内町貝塚を訪ねる旅の1回目として、寺内町の支配者であった卜半家に因む地域を訪ねて来ました。
次回は、寺内町に残るかつての面影を訪ねることにしています。


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