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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

板東俘虜収容所とドイツ館を訪ねる

2018年04月02日 | 日記

徳島県鳴門市大麻町(旧板野郡板東町)にあるドイツ館です。「大正6(1917)年から大正9(1920)年までの3年間、『板東俘虜(ばんどうふりょ)収容所』で暮らしていたドイツ兵捕虜と板東の人々との交流のようすを後生に伝えるため」に建てられた資料館です。

前回訪ねた「めがね橋」です。大正3(1914)年7月28日第一次世界大戦が起こったとき、中国の青島(チンタオ)を占領していたドイツに対して、日本は日英同盟(明治35年=1902年締結)を理由に、同年8月23日に宣戦布告しました。青島にいた約5千人のドイツ軍に対し、日本は地の利を活かして3万人の兵を送り、3ヶ月後の11月7日にドイツ軍を降伏させました。捕虜となった約4,000人(4,715名や4,462名など諸説書かれています)のドイツ軍兵士は、大正6(1917)年12月末までに、日本の各地(1914年10月ごろ全国12ヶ所。その後、6ヶ所に統合される)の俘虜収容所に送られました。

前回訪ねた「ドイツ橋」です。今は、保存のために通行が禁止されていました。さて、板東俘虜収容者は、大正6(1917)年4月9日(丸亀、松江、徳島などの収容所を6ヶ所に統合したとき)に開設されました。約1,000人(俘虜収容所跡に設置された「友愛の碑」には「953人のドイツ兵士」と書かれています)のドイツ軍兵士が収容されていました。

現在の板東俘虜収容所跡の光景です。前回、JR板東駅から四国八十八ヶ所霊場の1番札所である霊山寺(りょうぜんじ)と阿波国一宮である大麻比古(おおあさひこ)神社を訪ねたとき、その境内にあった「ドイツ橋」と「めがね橋」も見学してきました。この2つの橋は、ドイツ兵捕虜の人たちが、板東の村人たちへのお礼の気持ちを込めて建造したものでした(「JR板東駅から、霊山寺、ドイツ橋を訪ねる」2018年3月24日の日記)。この日は、前回行けなかった板東俘虜収容所跡(「ドイツ村公園」)とドイツ館を訪ねてきました。

前回と同じく、JR板東駅から「ばんどう門前通り」を通って霊山寺に向かい、山門(仁王門)前で左折して撫養街道(徳島県道12号)を進みました。

板東谷川を渡ります。前回、大麻比古神社を訪ねたとき、少し上流部分を祓川橋で渡った川でした。その川に架かる橋の上から見た「ばんどうの鐘」です。「ばんどうの鐘」のある山の麓に、ドイツ館は設置されています。

霊山寺から15分ぐらいで、ドイツ館に向かう交差点に着きました。しかし、右折しないでまっすぐ進み、次の通りを右折しました。

右折して、民家の間を進むと、正面に、板東俘虜収容所跡が見えてきました。57,000平方メートルの敷地のうち、現在では、3分の2(正面左側部分)ぐらいが、県営住宅や住宅地に替わっています。残る右側の3分の1の部分は、”ドイツ村公園”として整備されています。

現在の板東俘虜収容所(以下「収容所}と書きます)の正門です。門柱には、右側には「板東俘虜収容所跡」と書かれています。左側に「第九日本初演の地」と書かれているように、ここは、日本で、そしてアジアでも最初に、ベートーベンの第九交響曲が合唱付きで全曲演奏されたところだったのです。大正7(1918)年6月1日、”道の駅 第九の里”に設置された”ベートーベン像”には「松江大佐のヒューマニズム溢れる処置のもとに、俘虜生活の中で、1000回以上の演奏会を開いたというヘルマン・ハイゼンが指揮する ”Tokushima オーケストラ”によってその全曲が演奏された 1997年5月15日 鳴門市長 山本幸男」と書かれていました。現在も、鳴門市では、6月1日を「第九の日」と定め毎年6月の第1日曜日に演奏会を行っているそうです。

これは、入口にあった案内板です。かつての収容所の構内の建物の配置図です。現在の入口は、右下の「現在地」と書かれているところで、当時は「倉庫棟」があったところだそうです。赤く見えるところは日本の陸軍が設置した施設、緑に見えるところはドイツ兵が自ら設置した施設を表していて、「現在地」に最も近いところに「管理棟」がありました。その先は、毎朝、ドイツ兵士の点呼を行っていた第2広場。左側には第1広場がありました。その上の赤で8本描かれている横線が、ドイツ兵の兵舎(バラッケ)があったところです。左側の下側から第1棟から第4棟、右側の下側から、第5棟から第8棟が描かれています。兵舎の左右の赤い縦線の部分には、兵舎に近い方が「便所」、外側が「洗顔・洗濯場」と書かれていました。また、兵舎の上に見える赤で示された3つの施設は、両側が「浴室と厨房」と、真ん中は「酒保(売店)」と書かれています。いずれも、宿舎での生活に密着した施設が、その近くに設置されていたようです。

兵舎第1棟の下側に緑色で描かれた施設があります。ドイツ兵が建設した建物で「商店街」と書かれています。また、「ボーリング場」と書かれたところもありました。板東のドイツ兵収容所では、自主的な活動が奨励されていました。これは、大正6(1917)年4月10日から収容所長をつとめていた松江豊寿中佐(その後、大佐に昇進)の強いリーダーシップによるものでした。かれは、幕末の戊辰戦争で敗れた会津藩士の子として生まれたため、戦争で降伏した人たちの悲しみや苦しみをよく知っていました。捕虜のドイツ兵を「祖国を遠く離れた中国の青島(チンタオ)で祖国のために戦い敗れた戦士」と称え、人道的、友好的な措置を行った人でした。志願兵も多くいたドイツ兵には、兵士といってももとは一般市民で、政治学や経済学の専門家や、各種の職人や商人、スポーツや器楽演奏の得意な人もいました。かれらは、ここで、それぞれの技術を活かしてつくった商品を販売することなどを通して、板東村の人たちと交流しました。板東の人々もドイツ兵に心を通わせ、彼らを「ドイツさん」と呼んで信頼と交流を深めていきました。

まっすぐ奥に進みます。兵舎第5棟跡です。兵舎にはレンガの基礎が使われていたそうですが、その跡も残っていました。

写真は、ドイツ館のある一角に設置されている”道の駅 第九の里”の中で、「物産館」として使用されている建物ですが、もともとは、収容所の兵舎でした。平成14(2002)年に近くの農家で牛舎として使用されていたのを発見されて、”道の駅”に移設されました。平成16(2004)年には、国の登録有形文化財に登録されています。

その先、兵舎第6棟と第7棟の間にあった「ドイツ橋」のレプリカです。冒頭の部分で揚げた写真は、本物のドイツ橋を撮影しています。

「友愛」の碑です。昭和53(1978)年に設置されました。「第一次世界大戦に参加した953人のドイツ兵士が、大正6(1917)年から大正9(1920)年まで過ごしたところである」と、当時の谷光次鳴門市長の名で記されています。

その先に設置されていた休憩所です。これは、収容所跡の整備を行ったときに新たにつくられたものです。休憩所の手前に兵舎第8棟がありました。

浴室や厨房があった所からさらに登っていことにしました。その登り口にあった施設の跡です。

左側にあった第一給水所跡です。レンガ造りの2層構造になっています。

真ん中にあった「売店付属便所」の跡です。

通路の右側にあった第二給水所跡跡です。構造的には第一給水所と同じもののようです。

製パン所跡です。木組みから建物の規模がよくわかります。

施設の案内にあった下池です。下池の左側(写真の奥)に第一将校兵舎、下池の先(写真の右側)に第二将校兵舎があり、それぞれ将校用の浴室と厨房が別棟でつくられていました。

第二将校兵舎の上にあった上池です。上池の右側には二つの慰霊塔がありました。

手前にあったドイツ兵合同慰霊碑です。第一次世界大戦中に他の収容所で亡くなった兵士も含めた85名のドイツ兵の合同慰霊碑です。死亡した兵士の名前も刻まれており、板東俘虜収容所では9名の方が亡くなっていました。

こちらは、第一次世界大戦中に板東の俘虜収容所で亡くなったドイツ兵の慰霊碑で、ドイツ兵が建立したものです。第二次世界大戦後、この収容所跡の寮に住んでおられた高橋敏治・春枝ご夫妻が守っておられました。この地を訪れた、ドイツ人捕虜だったウイルヘルム・ハースが、この行動をドイツで伝えたため、昭和39(1964)年、高橋春枝氏(敏治氏は亡くなっていたため)に、ドイツから功労賞が届けられたそうです。現在は、高橋さんのご子息の高橋敏夫さんご夫妻が週末に掃除をしておられるそうです。

上池の上の公園は、親善交流にかかわる展示物のコーナーになっています。下を見ると、先ほど通ってきた慰霊碑が見えました。満開の桜が鮮やかでした。

上池の上にある公園には、各地の友好都市との交流の記念碑が設置されています。一番高いところにあったのが、「赤十字ゆかりの地」の碑です。
「国境を越えた 博愛の心が ここにあった」と刻まれています。また、収容所長だった松江豊寿氏の故郷、会津若松市との「親善交流都市締結十周年記念の植樹(ワカマツ)」の記念碑や、ドイツのノルトライン ヴェストファーレン州の独日文化交流育英会から贈呈された「30本の菩提樹」をめぐる記念碑が設置されていました。すべて、大正時代の収容所における人道的、友好的な対応がきっかけになったものでした。


ドイツ館に向かいます。

交差点からの道路に出て左折して進みます。その先の高速道路(高松道)の下をくぐると、ドイツ館が見えてきます。

ドイツ村の入口です。奥に、”道の駅 第九の里”。ドイツ館は一段高いところにありました。

俘虜収容所の閉鎖後に近くの農家に移設され牛舎として使われていた兵舎(バラッケ)が、道の駅の物産館として使用されています。

黒く塗られた下見板張りの壁面にあった説明と登録有形文化財の登録証です。

内部は地元の産品の販売所になっています。端にはうどん屋さん、観光パンフレットも置かれていました。

道の駅の裏側には、”ベートーベン像”があります。 日本で最初に”第九”の全曲演奏をしたことの説明が書かれています。”ばんどうの鐘”のある山上に向かう道が左奥に見えました。

”ばんどうの鐘”に向かいます。ベートーベン像を右に見ながら登って行きます。

「猿の出没」や「まむし」に注意を促す看板です。”ばんどうの鐘”までは、20分ぐらいかかりました。

かなりの勾配の坂道でしたが、左前に”ばんどうの鐘”が見えてきました。高さ12.65メートルの塔の一番上には鐘楼が設けられていました。毎日、正午と午後6時に、この鐘を鳴らすそうです。

昭和58(1983)年に、日独友好と恒久平和を願って、板東俘虜収容所におられた元ドイツ兵の寄付金等を使ってつくられました。内部にある螺旋(らせん)階段がみえました。

螺旋階段を上り、最上階に着きました。周囲にあるガラス窓からの眺望を期待していたのですが、霞みがかかっていてよく見えませんでした。天井は閉じられていて、鐘楼のあるところは見えませんでした。

帰りの坂道から見た鳴門市の風景です。


ドイツ館に降りてきました。豊富な資料によって、板東俘虜収容所とそこでのドイツ兵捕虜の生活、解放されてからの交流のようすがよくわかりました。内部は「撮影禁止」でしたので写真はありませんが、ここに書いたことのほとんどは、ドイツ館に展示されていた資料をもとにしています。 

収容所長の松江豊寿大佐とそのスタッフ、捕虜になったドイツ兵と板東の村人たちとの交流には、ほんとうに胸を打たれました。いい旅になりました。







JR板東駅から霊山寺、ドイツ橋を訪ねる

2018年03月24日 | 日記

JR高徳線の板東駅の駅舎です。板東駅の近くには、「四国八十八ヶ所霊場」の1番札所、霊山寺(りょうぜんじ)があります。また、第一次世界大戦中に、日本軍の捕虜になったドイツ兵を収容した板東ドイツ軍俘虜(ふりょ)収容所の跡も近くにあります。ドイツ兵の捕虜約1,000人が収容された板東俘虜収容所では、所長である松江豊寿(とよひさ)陸軍中佐(1917年以後大佐)のリーダーシップにより、捕虜に対して公正で寛大、人道的で友好的な対応が行われました。ドイツ兵たちは、村人にドイツの進んだ技術を伝えるとともに、音楽やスポーツなどを通して交流しました。ドイツ兵捕虜は地元の人たちへの感謝の気持ちを込めて、すぐれた土木技術を活かして、10の橋を建設しました。現在も、その時につくられた ”ドイツ橋”と”めがね橋”が当時の姿のまま残っています。この日は、JR高徳線の板東駅とその周辺を歩くことにしました。

高松駅を10時02分に出発した徳島駅行きの普通列車は、1500形車両の2両編成でしたが、後ろ側の車両は「回送扱い」になっており、実質1両での運用でした。列車は、11時30分過ぎに、JR板東駅の構内に入りました。板東駅は2面2線のホームをもった駅で、駅舎は徳島方面に向かって左側に設置されています。列車は目の前のポイントを左に進み、やがて駅舎前のホーム(1番ホーム)に停車しました。1番ホームは、行き違いがあるときだけ使用されるようです。上り列車も下り列車も、そして通過する特急列車も、基本的に2番ホームを使用する、いわゆる「一線スルー」になっています。

乗車してきた1500形車両です。排気ガス中のチッ素化合物を60%削減したという環境に優しい、JR四国が誇るエコ車両です。平成18(2006)年から平成26(2014)年まで、合計34両が製造されました。先頭の1507号車は、平成18(2006)年に第1次車として製造された車両です。

後ろ側、「回送扱い」になっていた1566号車です。こちらは、第7次車として、平成25(2013)年に1567号車とともに近畿車輛で製造されました。ちなみに、1500形車両は第7次車の2両以外はすべて新潟トランシス(新潟鉄工)で製造されています。花満開のホームと春の日射しにマッチした美しい車両です。

行き違いのため停車している列車の前に戻りました。2つのホームは跨線橋でつながっています。その先は、前回訪ねたJR池谷(いけのたに)駅方面の光景です。池谷駅は線路の間に駅舎が設けられているユニークな構造の駅として知られています(「ホームの間に駅舎と祠のある駅、JR池谷駅」2018年3月9日の日記)。

板東駅は、高松駅側の阿波川端(あわかわばた)駅から2.3km、次の池谷駅まで2.1kmのところ、鳴門市大麻(おおあさ)町辻見堂にあります。大正12(1923)年2月15日、当時の阿波電軌軌道(後の阿波鉄道)が、池谷駅と、高松駅方面の板野駅を経由して鍛冶屋原駅までを開通させたときに開業しました。その後、昭和8(1933)年の阿波鉄道の国有化に伴い、鉄道省阿波線の駅となり、昭和10(1935)年、高松・徳島線が全通したことで、名称が変更され高徳本線の駅になりました。乗車してきた徳島駅行きの普通列車は、乗車される方のいないまま出発して行きました。

ホームにあった「大麻比古(おおあさひこ)神社」の鳥居です。二つのホームにそれぞれ設置されていました。平安時代の「延喜式神名帳」にもその名がある阿波国一宮で、阿波、淡路両国の総鎮守として、この地域の人々の崇敬されてきた神社です。”ドイツ橋”と”めがね橋”は、この大麻比古神社の境内にあります。

駅舎の一角にあったトイレです。入口には暖簾が掛かっていました。地元の皆さんがかけられたものなのでしょう。

駅舎に接して置かれていた木製の庇とベンチです。

駅舎の内部です。板東駅は四国八十八ヶ所の1番札所である霊山寺の最寄り駅ですが、列車を使ってお詣りされる方は、「歩き遍路」の方だけなのでしょうか、1日当たりの乗車人員は182人(2014年)で、無人駅になっていました。ごみ一つない清潔感あふれる駅舎です。ベンチの上に置かれた真っ白な座布団。これにも、地元の方々のお心遣いを感じます。

こちらは、駅事務所があったところです。現在は、一面すべてが掲示板になっています。地元の人が書かれたお遍路に関する情報がたくさん掲載されています。無人駅のため、自動券売機が設置されていました。

自動券売機の脇にあった時刻表です。1時間に1、2本の割で運行されていますが、停車する特急列車はありませんでした。ただ、大麻比古神社への参拝客の輸送のため、正月3ヶ日だけは、特急列車が停車することになっているそうです。

これは、跨線橋から見た駅舎です。屋根に箱棟が乗っています。どっしりとした、堂々たる駅舎になっています。切妻の壁の部分の白さが目に染みます。

駅前の広場から見た駅舎です。高松駅寄りには自転車が並んでいます。

駅舎の壁に掲示されている観光案内の地図と説明です。霊山寺、大麻比古神社、”ドイツ橋”も掲載されていました。

駅への取付道路を進みます。突きあたりの商家のシャッターに、左から「四国霊場八十八箇所 祈願 世界文化遺産登録」と書かれています。1番札所霊山寺への道であることを確認することができます。世界文化遺産登録をめざした動きを支援しておられるようです。

街灯のポールに「ばんどう門前通り」と記されています。板東駅前から霊山寺に向かう道をこのように呼んでいます。

突きあたりのお宅の前で左折します。左側の食堂(元木屋旅館)の看板には「うどん 寿し 中華そば 定食」と書かれています。八十八ヶ所を巡るお遍路さんのための食事処のようです。

左側奥にあった板東小学校を越えて、「ばんどう門前通り」をさらに進みます。「昭和の香りがする通り」だといわれていますが、建て替えられているお宅も多く、新興住宅地のような雰囲気を感じながら歩きました。その中で、最も印象に残ったのが、三差路の手前右側にあった「昭和の香りが漂う」このお宅でした。玄関には「寄り合いお接待 一番さんの縁どころ」の看板がありました。今はコミュニティハウスのように使用されているようです。入口には、国の「登録有形文化財」の登録証が掲示されていました。

三差路の右側に、「大麻比古神社」と刻まれた石柱が見えました。裏には、「明治十八乙酉年七月建立」と刻まれていました。

右折します。通りの両側の石柱がありました。右側に「四国第一番」(裏側には「昭和三戊辰三月吉日」 現住 智全代)、左側に「霊場 霊山寺」(裏側には、4人の発起人・12人の世話人の名前の下に「板東町 石工 森下盈雄 作」)と刻まれています。昭和3年3月、当時の住職智全さんの代に、建立されたもののようです。 霊山寺への参道になります。正面に霊山寺の山門(仁王門)が見えました。霊山寺は、天平年間(729年~749年)の創建で本尊は釈迦如来。竺和(じくわ)山一乗院霊山寺というそうです。弘仁6(815)年、空海(弘法大師)がこの地を訪れ、21日間滞在して修行したとき、天竺(インド)の霊山である霊鷲山を和(日本)に移すという意味で竺和山霊山寺と名づけたといわれています。

10分ぐらいで、霊山寺の入母屋造りの山門前に着きました。山門の入口にお遍路さんのオブジェ、左の土塀の上に多宝塔が見えました。多宝塔は応永年間(1394年~1428年)の創建といわれています。

1番札所である霊山寺には、お遍路を始める人のために「総合案内所」が設置されています。山門の右側の広い駐車場の脇にあり、お遍路に関する相談に応じるとともに、お遍路の衣装や杖、御朱印帳・掛け軸など札所で使用する物品の販売を行っています。

大麻比古神社に向かいます。板東駅のホームにも鳥居が設けられていたように、「大麻さん」と呼ばれて、地元の人たちの崇敬を受けている神社です。霊山寺の山門前から左に進んで行きます。

霊山寺から5分。高速道路(高松道)の下の通路の先に赤い鳥居の足が見えてきました。

高松道の下をくぐって向こう側に出ました。大麻比古神社の大鳥居がありました。大麻比古神社は天太玉命(あめのふとだまのみこと・大麻比古神)を祭神としています。「説明」には「大麻比古神社御由緒」には、神武天皇の時代、「天太玉命の孫の天冨命(あめのとみのみこと)が阿波国に移り住み、麻や楮(こうぞ)の種を播いてこの地を開拓し、麻布や木綿を生産し民の生活を豊かにしたため、祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波の守護神として祀ったのが始まり」だと書かれていました。

その先は、寄進された灯籠が両側に並ぶ参道になります。歩いても歩いても続いている灯籠の参道。大麻比古神社は正月三日間で、23万人の人々が参拝されるそうです。その時には、この道もずいぶん賑わうことでしょう。

灯籠の並ぶ参道を歩くこと10分。板東谷川に架かる祓川(はらいかわ)橋に着きました。この先に見える鳥居の向こうからが神域となります。

樹齢1,000年以上といわれる大麻比古神社のシンボル、「大楠」です。「目通り8.3m、樹高、22m」といわれる大きな楠の木の先に本殿がありました。

本殿です。大麻比古神社は、江戸時代には、徳島藩主、蜂須賀氏の庇護を受けてきましたが、現在の本殿は、その後、明治13(1880)年に国費で造営されたときのものです。本堂は改修中のようでした。

お詣りを終えてから、もう一つ訪ねることにしていた”ドイツ橋”に向かいます。お守りやおみくじの授与所(右側)と社務所(左側)の間を通り、すぐに右折して授与所の裏を進みます。

授与所を越えたあたりに2つの案内板がありました。左にあった「ドイツ橋」の案内板、右側にあった「めがね橋」の案内板です。手前にあった「めがね橋」を先に見学することにしました。

「めがね橋」はその名前どおりの二重橋(2連アーチ橋)でした。大正8(1919)年4月に、小さな谷の上に、捕虜であったドイツ兵によってつくられた石橋です。モルタルなどの接着用材を一切使わずにつくられた本格的な二重橋でした。長さ4.3m、幅1.2m、近くで採石された撫養石(むやいし・和泉砂岩)を積んで築いた二重橋でした。現在も上部を歩くことができるそうです。

板東俘虜収容所長の松江豊寿(とよひさ)大佐は、戊辰(ぼしん)戦争で敗れた会津藩士の子として生まれました。そのため、戦争で降伏した人たちの苦しみや悲しみをよく知っていました。捕虜となったドイツ兵を、「祖国を遠く離れた中国の青島(チンタオ)で最後まで闘った戦士」と称え、人道的で友好的な措置を行った人でした。人口約500人の村にやって来た約1,000人のドイツ兵捕虜は、村人に西欧の技術を伝えるとともに、音楽やスポーツを通して交流しました。友好的に接してくれた収容所のスタッフや村人への感謝の気持ちを込めて、卓越した土木技術を活かして4つの石橋と6つの木の橋を建造しました。「めがね橋」もその一つでした。大麻比古神社では、そんなドイツ兵の気持ちを称え、平成4(1992)年3月「神域を拡大し周辺の整備を行い、この池を『心願の鏡池』と名づけた」(説明分)といわれています。「めがね橋」は、その時に、現在の地に移設されたそうです。

先程の道に戻り、さらに進みましたが、柵が設けられていて前に進むことができなくなりました。柵の先が”ドイツ橋”でした。保存のために通行禁止になっているのです。左側にある迂回路に入ります。

迂回路から見た”ドイツ橋”です。大正8(1919)年6月28日、各国がベルサイユ条約に調印し第一次世界大戦は終結しました。捕虜は解放されることになりました。ドイツ兵は、木の橋が架かっていた大麻比古神社境内の丸山公園に、内面に180個、全体で3000個の撫養石(和泉砂岩)を積み上げ、大正8年(1919)年7月27日にアーチ橋である”ドイツ橋”を完成させました。「全長9m、横幅2.1m、高さ3.2mで総重量195トン」と説明板には書かれていました。結果的に、”ドイツ橋”はドイツ兵捕虜が築いた最後の橋になりました。そして、現在では建設から100年を経て、現存する唯一のアーチ橋になっています。

橋の脇にあった石標です。「独逸橋」「どい津橋」と読めます。石標の姿に、時の経過を感じることができます。

大正8(1919)年12月25日、正午の最終点呼の後、板東俘虜収容所に収容されていたドイツ兵は解放され、13時に収容所を行進しながら出て行ったそうです。その姿を、板東の村人たちは総出で見送ったといわれています。

次回は、板東俘虜収容所の跡地と、ドイツ兵捕虜と板東村の人々との交流のようすを伝える「ドイツ館」を訪ねてみようと思っています。







ホームの間に駅舎と祠のある駅、JR池谷駅

2018年03月09日 | 日記

JR高徳線の池谷(いけのたに)駅です。この駅からJR鳴門線が分岐しています。写真は、ホームを結ぶ跨線橋から見た池谷駅の光景です。2面4線のホームが広がっています。二つの方向に向かう線路は、「股裂き」のようにそれぞれの方向に向かって延びています。また、駅舎が二つのホームの間に見えます。池谷駅は、ホームに挟まれた駅舎をもつ駅なのです。青春18きっぷの季節、さっそく訪ねてきました。

高徳線の列車の始発駅、JR高松駅に入線してきた高徳線の列車です。1500形車両の1504号車と1513号車の2両編成ですが、後ろ側の1504号車は「回送扱い」になっており、乗車することはできませんでした。1500形車両は、旧キハ58系などの旧国鉄車両の老朽化への対応(置き換え)として、平成18(2006)年から平成26(2014)年まで製作された新潟トランシス製の車両です。排ガス中のチッ素化合物を従来より60%程度削減したといわれる、JR四国が誇る”エコ車両”として知られています。両運転台で、車両の長さは21.3m、1両の定員は121名。最高速度110キロで運行されています。

1513号車に乗車しました。出発まで多少時間がありましたので、まだ座席は余裕がありました。しかし、この後、乗車される人が増え立ち客も出る状態で出発しました。JR高徳線は、昭和10(1935)年に、引田駅・板西(現在の板野)駅間と吉成駅・佐古駅間が開業して、全線が開業しました。

11時22分頃に、香川県側の県境の駅、讃岐相生駅に着きました。高徳線は全線、単線の非電化の区間になっています。対向車との行き違いなどで、ここまで1時間20分かかってやって来ました。

讃岐相生駅を過ぎると、県境の山々を11のトンネルで抜けるルートになります。比較的短いトンネルを次々に抜けて進んでいき、最後に、最も長い大坂山トンネルを抜けると、広々とした田園地帯に入ります。

徳島県側の県境の駅、阿波大宮駅のホームに滑り込みました。阿波大宮駅は、牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の156位にランクインしている”秘境駅”であり、以前下車して見学したことがありました(「JR高徳線の”秘境駅”阿波大宮駅」 2014年8月27日の日記)。

高徳線は、この後、板野駅の手前で大きく左カーブして、板野駅ではほぼ東に向かって停車しました。その後は、東北東に向かって進み、池谷駅に入る手前で大きく右にカーブして進んで来ました。そして、ほぼ南方向に向かって、池谷駅の1番乗り場に到着しました。11時51分着。ここまで、高松から1時間50分ぐらいかかったことになります。運転士さんに青春18きっぷを示して、6人ぐらいの乗客とともに下車しました。乗降が途切れると、列車は、次の勝瑞(しょうずい)駅に向かって出発して行きました。

高徳線のホームから見た駅のようすです。跨線橋の左側に池谷駅の駅舎が見えます。構内踏切はないので、駅舎へは南の端にある跨線橋を渡って進むことになります。

池谷駅の駅名標です。池谷駅は、一つ前の板東駅から2.1km、次の勝瑞駅まで2.7kmのところにありました。

高徳線のホームから見た香川県方面の光景です。

跨線橋に上ります。

跨線橋から見た勝瑞駅方面です。高徳線の上下線、鳴門縁の上下線が、跨線橋の先で合流し勝瑞駅につながっています。

跨線橋にあった時刻表です。3番4番乗り場は鳴門線のホームになります。池谷駅が開業したのは、大正5(1916)年。徳島と鳴門を結ぶことを目的に、阿波電気軌道が、古川駅・中原駅・池谷駅・撫養駅(むやえき・現在の「ゑびす前駅」)間の鉄道を開業させたこと、つまり、現在の鳴門線の開業がきっかけでした。ただ、吉野川の架橋ができませんでしたので、徳島へは、中原駅から、吉野川連絡船で対岸の富田橋(後の「新町橋」)まで連絡していました。ただ、阿波電気軌道と会社名に「電気」がついていましたが、非電化での開業でした。その後、阿波電気軌道は電化を達成することなく、大正15(1926)年に「阿波鉄道」に改称されています。

こちらは、鳴門線のホームへつながる跨線橋です。この時間、ホームにはだれもおられませんでした。その後、阿波電気軌道は大正12(1923)年に、池谷駅・阿波大寺駅(現・板野駅)鍛冶屋原駅までを開業させました。こうして、現在の高徳線は、路線の一部区間(阿波電軌鉄道が開業させた区間)を国有化することで、全通することになったようです。

左側の線路を、池谷駅から次の板東駅(高松駅方面)に向かう高徳線の列車は、池谷駅を過ぎると大きく左にカーブして西に向かって進みます。右側の線路を使用する鳴門線の列車は、池谷駅を出ると大きく右にカーブして東に向かって進み、次の阿波大谷駅をめざします。跨線橋から駅舎に向かって降ります。

駅舎です。点字ブロックにしたがって進むと、駅舎の中へ入ることができます。駅舎の左側の部分は、かつて駅事務所があったところです。

駅舎の左手前にあった、信楽焼きのたぬき像と祠です。ここには、かつて、段四郎という阿波たぬきの総領が棲んでいました。大正5(1916)年に停車場を建設したとき、たぬきの住処を壊したので、人に祟るようになりました。

そこで、「段四郎殿」を祀って鎮めたといわれています。段四郎大明神をお祀りすれば、交通安全、家内安全、商売繁盛に御利益があるということで、ここに祀られることになったと「説明」には書かれていました。池谷駅は、線路の間に駅舎と段四郎大明神の祠がある、全国でも稀な駅となりました。

池谷駅は、平成24(2012)年7月11日から無人駅になっています。運賃の精算は列車の中ですべて行われています。駅舎の内部に入りました。掃除がきちんとなされていて、すっきりとした駅という印象でした。窓側にはベンチが置かれていました。

駅事務所のカウンターです。無人駅ですが、自動券売機の設置はありませんでした。

駅舎から出ました。美しく魅力的な駅舎です。寄棟に切妻を乗せている屋根のデザインが印象的です。切妻部分には「池谷駅」と書かれています。駅舎は開業時に建てられたものではなく、後に改装されたものだといわれていますが、正確な年代は明らかではないようです。

徳島駅行きの”特急うずしお9号”が到着しました。2600形と2650形のJR四国の最新型車両、2651号車と2601号車の2両編成でした。JR四国が、平成元(1989)年に開発した特急用気動車、2000系の置き換えを目的にして、平成29(2017)年に2編成4両が製造されました。2652号車と2602号車との2編成が予讃線、土讃線、高徳線で運行されています。徳島、高知、松山方面に向いた2650形、高松に向いた2600形の2両編成で運用されています。車両定員は、2600形が46名、2650形が52名で、「安らぎと先進性を合わせた車両」をコンセプトに、吉兆の伝統配色である赤と金を配した車両で、JR四国の社員の方のデザインだといわれています。

12時20分、鳴門線の1500形車両が到着しました。”エコ車両”の1514号車です。

高徳線には、青春18きっぷの季節によく乗車していますが、池谷駅に下車したのは初めてでした。
寄棟に切妻が乗っている駅舎の屋根の構造や、ホームの間に設置された駅舎の配置など、他にあまり例を見ない個性的な駅でした。しかし、これというインパクトを感じなかったのは、駅で出会う人がほとんどおられなかったからでしょう。駅には、やはり、人との出会いが必要なのでしょうね。








登録有形文化財の駅、JR西岩国駅

2018年02月24日 | 日記

JR岩徳線の西岩国駅の駅舎です。JR山陽本線の岩国駅から1駅、岩国トンネルを抜けて、5分ほどで着きます。大正末期から昭和初期にかけて流行したモダンな洋風建築の洋式を伝える名駅舎で、平成18(2006)年に、国の登録有形文化財に登録されています。

駅舎の入口に掲げられていた「登録有形文化財」の登録証です。JR西岩国駅は、昭和4(1929)年、岩徳線の岩国駅として、麻里布(まりふ)駅(現在の岩国駅)・岩国駅(現在の西岩国)間が開業した時に開業しました。その時の駅舎が、90年近くを経た今も現役駅舎として使用されています。なお、現在の岩国駅から柳井駅を経由して徳山駅に向かう山陽本線の海側の路線は、明治30(1897)年に、柳井線として開業しています。

西岩国駅舎は、木造平屋建て、寄棟造、桟瓦葺きで、玄関の上部に左右対称の切妻壁を飾っていいます。外壁はモルタル塗り、半円アーチの上下窓を設けています。特に、玄関ポーチにある、錦帯橋をモチーフにしたデザインの3連アーチに特色があります。3連アーチ部分の白い色は、白ヘビを表現しているそうです。

これは、駅舎前の記念植樹の脇にあった石碑です。「西岩国駅五十周年記念 駅舎永久保存記念植樹 昭和五十四年四月五日 寄贈 岩国ライオンズクラブ」と刻まれています。駅舎は、昭和54(1979)年に永久保存されることが決定され、木製改札口と駅舎の照明の復元工事も行われました。

駅舎は、平成12(2000)年にJR西日本から岩国市に譲渡され、「ふれあい交流会館 西岩国」としても使われています。「NPO法人の西岩国・駅と広域まちづくりの会」が駅舎の管理を行っています。

駅舎への入口から駅舎内に入ると、正面に木製の改札口がありました。永久保存が決まった昭和54(1979)年、開業当時の姿に復元されたものです。

待合室の天井のシャンデリア。これも、開業当時の姿に復元されたものです。

待合室にあった頑丈そうな木製のベンチです。背もたれに架かっていた「説明」には、平成13(2001)年に行われた「平成の架け替え」のときに解体された錦帯橋の木材を使用してつくられたものと書かれていました。錦帯橋は、昭和25(1950)年に、岩国市を襲ったキジア台風によって、濁流で流出しました。その後の3年間にわたる再建工事を行ったときに使用された木材でした。ちなみに、錦帯橋では、このとき初めて、木材に防腐剤が使用されたといわれています。

駅舎内にあった自動券売機。西岩国駅は、平成16(2004)年にふれあい交流館になったとき、窓口業務だけを委託する簡易委託駅になっています。

入口から左側のスペースは駅の事務室になっていたところです。現在は、ふれあい交流館の展示室と「西岩国・駅と広域まちづくりの会」の事務局になっています。この日も、スタッフの方が事務所に詰めておられました。

駅舎の入口付近のようすです。錦帯橋の木材でつくられたベンチの向こうに、半円アーチの上下窓が見えます。外からの光が跳び込んで来ており、木製の窓枠も鮮やかです。

改札口からホームに出ます。改札口の上にあった列車の案内板です。西岩国駅はJR岩徳線の駅ですが、岩徳線以外に第3セクター鉄道の錦川鉄道錦川清流線の列車も停車します。いずれも、JR岩国駅からの運用になっています。どちらの列車も、岩国行きが手前のホーム、岩徳線の徳山方面行きと錦川清流線の錦町(にしきちょう)方面行きの列車は右に進み跨線橋を渡り、向かいのホームから出発することになっています。

これは、西岩国駅滞在中に到着した錦川清流線の列車です。錦川鉄道NT3003号車、みどりの塗装の”こもれび”です。「2008年トランシス」と車内のプレートには書かれていました。錦川鉄道は、西岩国駅の隣の駅である川西駅と、錦町駅を結んでいた国鉄時代の路線を引き継いだ第3セクターが運行しています。もともとは、現在の岩国駅(山陽本線)から山口線日原(にちはら)駅(島根県)を結ぶ陰陽連絡鉄道の岩日線で、昭和38(1963)年には、岩国駅から錦町駅までの区間が開通していました。しかし、国鉄再建法の施行により、特定地方交通線の「第二次廃止対象線」に指定され、それ以降の建設工事が凍結されてしまいました。すでに完成していた川西駅・錦川間を、第3セクターが引き継ぐ形で、昭和62(1987)年に開業した鉄道です。

”こもれび”が、終点の岩国駅に向けて出発していきました。列車は長く続くホームを抜けて進んで行きます。

改札口からホームに出ました。ホームから見た駅舎内です。目の前に、復元された木製の改札口。その先にある、駅舎出入口の上にある半円アーチの整然とした美しさが印象的です。岩国駅行きの列車は、岩徳線が1日13本、もう一つの錦川清流線が10本運行されています。

ホームから見た岩国駅側のようすです。上屋の木組みの美しさが目を引きます。その先には長いホームが続いています。岩国駅までは3.7kmあります。

徳山駅方面のようすです。この先には、島式ホームに向かう跨線橋があります。

跨線橋の手前に残っていた木製の団体改札口です。もちろん、現在は使用されていません。

これは、西岩国駅の北西の横山にある岩国城です。西岩国駅は、錦川に架かる錦帯橋と岩国城の最寄駅です。この駅から多くの人々が錦帯橋をめざしていたのでしょう。現在の西岩国駅の乗車人員は1日当たり363人になっています。 錦帯橋まで、徒歩で20分ぐらいかかります。

跨線橋を渡ります。さて、昭和4(1929)年に岩国(現在の西岩国)駅まで開業した岩徳線は、昭和9(1934)年、最後まで残っていた岩国(現西岩国)駅・高水駅間が開業し、山陽本線として開業しました。当時は、蒸気機関車(SL)が牽引する列車でしたので、幹線であった山陽本線の複線化にあたって、勾配やカーブ、全長3,149mの欽明路トンネルなどの存在が運行上の問題となりました。

跨線橋を渡った先の島式ホームから見えた岩国駅方面です。西岩国駅は、2面2線のホームになっています。島式ホームの左側の線路は撤去されていました。昭和17(1942)年、麻里布駅が再度岩国駅に改称され、岩国駅であったこの駅は、再度西岩国駅に改称されています。
山陽本線の複線化は、昭和19(1944)年に神戸駅・下関駅間で完成しました。その時、山陽本線に編入されたのは海側の柳井線でした。そして、西岩国駅を通るこの路線は、再度岩徳線と改称されました。

島式ホームから見た西岩国駅舎です。赤色の屋根に突き出した三角形のデザインが美しい建物です。

島式ホームから見た徳山方面のようすです。どっしりとした跨線橋が見えます。次の川西駅まで1.9km。錦川清流線は川西駅の先で、岩徳線から分岐し錦町(にしきちょう)駅に向かいます。現在の岩徳線と錦川清流線は、通常1両か2両での運行になっています。それからすると異常に長いホームになっています。これは、かつて山陽本線の駅であった頃の名残です。

駅舎の外へ出ました。駅舎の左側に自動車が展示されていました。西岩国駅の開業当時の木炭車です。市民の方が、昭和初期に使用されていた木炭ガスの発生装置を再現して岩国市へ寄贈されたものだそうです。

駅舎に隣接した平屋の建物は、地元の野菜などが展示販売されている”旬彩館”になっていました。

開業から90年近くが経過した「登録有形文化財」に登録されている西岩国駅は、開業当時の雰囲気を残しながら、市民の交流の場として、新しい発展を続けています。


重要文化財、登録有形文化財の建物が続く宿場町、智頭町(2)

2018年01月13日 | 日記
江戸時代、鳥取藩の城下町から志戸坂峠を越えて播磨国の姫路を結ぶ智頭往来(因幡街道)は、鳥取藩主一行の参勤交代の道でした。この道は、平安時代から畿内と因幡国を結ぶ主要な道として使われていました。町内にあった「案内」には、「大同3(808)年、道俣(みちまた)駅の駅馬を省く」という「日本後記」の記述や、、「承徳3(1099)年、因幡国守、平時範が赴任するとき、志戸坂峠で境迎(さかいむか)えの儀式を行った」という「時範記」(じはんき)の記述が、それを裏付けていると書かれていました。なお、「道俣駅」は道が分岐するところの宿場という意味で、智頭宿を表しています。

街道の名前になった智頭宿は、江戸へ向かう鳥取藩主一行の最初の宿場で「お見送り」、帰国する時の最後の宿場で「お出迎え」の宿場になっており、本陣も設けられていました。また、内陸にある美作国津山城下に、海産物を中心にした物資を運ぶ道である備前街道が、ここから分岐していました。

江戸時代から宿場町として栄えた智頭の町には、現在も、国の重要文化財に指定されている石谷家住宅など、文化財に指定された多くの建造物が、二つの街道沿いに残っています。写真は国の重要文化財に指定されている石谷家住宅です。前回(「備前街道と因幡街道が合流する宿場町、智頭」2017年12月30日の日記・「重要文化財、登録有形文化財の建物が続く宿場町、智頭町(1)」2017年1月3日の日記)まで、石谷家住宅のほか、国指定名勝である石谷家庭園、国の登録有形文化財に登録されている智頭消防団本町屯所、中町公民館、旧塩屋出店と西洋館、米原家住宅を訪ねてきました。

写真は、備前街道沿いの米原家住宅の前から撮影した智頭往来と備前街道の合流点です。前回は、目の前の智頭往来を右(東)からここまで歩いてきました。この日は、旧智頭往来と備前街道の合流点から、写真の左(西)に向かって、宿場の出口までかつての雰囲気を残す通りを歩きました。

合流点にあった道標です。備前街道側が「南」、智頭往来の姫路方面が「東」と書かれています。

道標の前を通って、鳥取方面に向かって歩きます。宿場町の面影を残す通りです。

歩き始めてすぐ、左側に塩田屋旅館の建物が見えました。現在は、宿泊は行っていないとお聞きしました。

その向かいにあったのが杉玉工房です。智頭の町には玄関の軒先に丸い杉玉が吊るされているお宅が見られます。全国的には、酒蔵がその年の新酒ができあがったことを知らせるために、お酒の神が宿るといわれる杉玉を吊しているといわれています。智頭の町は杉の町です。国の重要文化財に指定されている石谷家も杉材で財を成したといわれています。

智頭の町が杉の町になったきっかけは、江戸時代の文化9(1812)年の鳥取城下の大火でした。その後の復興に大量の木材が必要になり、智頭では、10万本を超える大量の杉の植林が行われ、このときから、智頭は杉の町として知られるようになりました。杉玉は針金でつくった球状の芯に杉の葉を差し込み、葉を丸く刈り込んでつくるそうです。ここ杉玉工房は、その手作り体験ができる施設です。

杉玉工房の前から撮影した鳥取方面のようすです。「山あいの宿場町」といった雰囲気が伝わってきます。美しい町でした、

杉玉工房の先の旧街道の右側に、洋風の建物が見えてきました。木造2階建て、桟瓦葺き、屋根はよく見えないのですが、寄棟づくりのように見えます。大正3(1914)年、智頭が町制を施行した年に、役場として建築されました。昭和3(1928)年に現在の地に移築されたそうです。

杉玉が吊るされた玄関ポーチはありましたが、全体に装飾がほとんどありませんでした。外壁は白いペンキ塗りの下見板張りになっています。横板の下側に次の板の上部を押し込むように張り付けたつくりで、雨水などがスムーズに下に落ちるので、雪国ではよく使われているようです。町役場として使われた後は、電報電話局としても使われたそうです。現在は下町公民館として使用されているそうです。

下町公民館は、大正期の地方公共建築の形式をよく残しており「造形の規範となっている」という基準を満たすとして、平成14(2006)年6月25日、国の登録有形文化財に登録されました。公民館の次に細い路地のような通りがありました。

通りの先の山裾に、浄土真宗光専寺の鐘楼と本堂が見えていました。本堂が「ウグイス張り」になっていることでよく知られています。創建は天正18(1590)年。鳥取藩主池田家の厚い庇護を受けた寺院でした。

下町公民館の向かいに酒蔵と、大きな杉玉、「梶屋」と書かれたレストラン風の建物(直売店)がありました。諏訪酒造の建物です。創業、安政6(1859)年、旅籠を営んでいた先祖の方が造り酒屋を開業したこと(屋号は梶屋)に始まります。社名は、宿場内にある諏訪神社に由来します。昭和41(1966)年、鳥取市の八上酒造と合併して、現在の社名に変更したそうです。

「諏訪泉」「諏訪娘」が有名です。尾瀬あきら原作の漫画「夏子の酒」の原画コピーを展示したギャラリーがあるそうです。知らなかったのでスルーしてしまいました。残念です。

智頭町の観光協会でいただいた観光マップの、諏訪酒造付近を切り取ったものです。⑪が諏訪酒造。⑩は田中町通りで諏訪酒造の酒蔵の脇を通る道です。私は⑨の清水通りに興味があったので、田中通りから⑧の新町通りに入り、清水通りの入口付近をめざしました。

「清水通り」の名前から、きれいな水の水路に沿った道だと思っていましたが、細い路地のような道の両側に水路の跡と蓋掛けした水路がありました。道路の案内にしたがって、左折して清水通りに入りました。

水路に沿った通りを進みます。やがて、諏訪酒造の酒蔵の裏に出ました。カーブして進みます。

酒蔵の裏の道を歩き、田中通りに出ました。正面のお宅の前には、たくさんの杉の葉でつくられた作品が展示されていました。田中通りは水路と共に
そのまままっすぐ先に続いています。

田中通りを通って、再度智頭往来に戻り、先に進みます。やがて、清水通りが旧街道に合流し、街道の左側ある水路に沿って歩くようになりました。道路脇に立つ赤い幟(のぼり)には、「智頭町はおせっかいのまちづくりを推進しています」の文字が、幟の下には「おせっかいちゃん」のキャラクターの姿も入っていました。「おもてなし」という意味なのでしょうね。

幟の先で、もう一つの道と合流しました。先ほどのマップでは、備前街道から田中通りを渡って続いている、新町通りからの道でした。合流点に「江戸時代後期の道標(みちしるべ)」という案内のついた、石製の道標がありました。私には読むことはできませんでしたが、「右 ニイバ カモ 小中原 桑原 つ山 岡山道」 「左 本谷 足津 中原 坂根 古町 姫路道」と書かれているそうです。鳥取方面から来た人に、備前街道への近道を示している道標のようです。

これが、新町通りを通って備前街道に行く道です。ただ、不可解だったのが、観光協会でいただいたマップには「大正7年の道しるべ」と書かれていたことです。この道標以外に、もう一つ、大正7年の道標があるのでしょうか? マップにマークがあったところでは、見つけることができませんでしたが・・。帰りに、JR智頭駅前の観光協会でお尋ねしたのですが、やはりわかりませんでした。

進行方向の左側に、木工品の展示販売や木工教室がある「木の香工房」がありました。その向かい側(右)側の草むらの中に石碑がありました。「今出川幸八の碑」、「明治41年新建」と刻まれていました。近くの木製の説明には「火消し役で活躍した今出川幸八」と書かれており、火消しの頭領として活躍した人の碑だそうです。

旧街道の出口が近づいて来ました。向こうに国道53号が見えました。

手前に用瀬(もちがせ)方面に向かう旧道がありました。この道を1時間歩くと板井原(いたいばら)集落へ行くことができます。板井原集落は、鳥取県が選定した伝統的建造物群保存地区です。板井原川の谷間の標高430mのところに位置し、江戸時代には農業と炭焼き、明治時代になってからは、養蚕で栄えたところです。昭和42(1967)年、古い峠の下をくぐるトンネルが開通してから、急速に過疎化が進んだといわれています。現在も、集落内の民家は、すべて昭和40年以前の建築で、日本の山村集落の原風景を伝えています。雪の季節が過ぎたら訪ねてみようと思っています。

用瀬への交通標識があるところに書かれていた案内です。2分登っていったところにある関所跡です。残念ながら、すごい草むらの中でしたので、行くことはできませんでした。

板井原集落への分岐点を過ぎると、やがて、国道53号に合流します。

智頭往来の宿場町だった、鳥取県八頭郡智頭町は人口わずかに7301人(2748世帯・2017年11月1日現在)が居住する山あいの小さな町でした。しかし、かつての街道沿いには、国指定の重要文化財や、登録有形文化財に登録されている多くの建造物が残っていました。
次は、今回、訪ねることができなかった板井原集落をぜひ訪ねてみたいと思っています。



重要文化財・登録有形文化財の建物が続く宿場町、智頭町(1)

2018年01月03日 | 日記
鳥取県八頭(やづ)郡智頭(ちづ)町は、因幡(いなば)街道(智頭往来)と備前街道(備前往来)が合流する宿場町として栄えました。前回は智頭町内を備前街道に沿って、二つの街道の合流点まで歩きました(「備前街道と因幡街道が合流する宿場町、智頭」2017年12月30日の日記)。今回は、もう一つの街道、智頭往来に沿って歩くことにしました。
 
これは、JR智頭駅前にある智頭町観光協会でいただいた観光マップです。マップの上側が北方向になります。マップの一番上(北)に左右(東西)に描かれているのが智頭往来で、左側が鳥取方面です。マップの右上の智頭宿無料駐車場(「P」)からスタートすることにして、智頭駅から土師川を渡り旧備前街道を横切って、さらに東に進み、千代川と国道53号線を渡って、駐車場に着きました。

駐車場に着きました。写真は駐車場の出入口に近いところの光景です。

観光マップでは、駐車場の上(北)には智頭小学校がありました。マップにはないのですが、駐車場の右(東)には、智頭町唯一の高等学校である県立智頭農林高校が、さらにその東には智頭中学校のモダンな校舎がありました。

駐車場から智頭小学校の前の道に上り、鳥取方面を撮影しました。歩道からまっすぐに続く道が旧智頭往来です。

駐車場と小学校の間の道が旧智頭往来だと思っていましたが、観光マップには「江戸時代の道(智頭往来)」と書かれていた道がありました。現在、駐車場になっている辺りから、現在の駐車場の出口につながっている道のようです。

マップのルートにあたる「江戸時代の道」を探して見ましたが、墓地から続くこの道しか見当たりませんでした。

多くの観光客と一緒に、駐車場からの出口からまっすぐ歩いていきます。途中で右折して、上町公民館の鳥取寄りで、旧智頭往来に出る道でした。

智津往来に出ると、左折して進んでいきます。しばらくは、建て替えが終わっている新しい家並みの間を歩きます。江戸時代に、姫路城下から智頭往来を歩いて来た旅人は、飾西宿、嘴崎(はしさき)宿、千本宿、三日月宿・平福宿・大原宿・坂根宿・駒帰宿を経て、ここまで来ておりました。

旧街道の左側に、赤い釉薬瓦で葺かれた邸宅や土蔵が見えてきました。伊藤家の邸宅ですが、非公開になっていました。伊藤家の邸宅から先は、旧街道の雰囲気を残す通りになっています。

街道の右側に、智頭町出身の国米泰石(こくまいたいせき)の墓地へ続く道があります。明治時代から大正時代にかけて多くの国宝や重要文化財の修復を手がけ、全国的に知られた人でした。

これも進行方向右側にあった曹洞宗興雲寺の参道です。国米泰石が製作した弘法大師の座像があることで知られています。もとは後方にある牛臥山(うせぶせやま)の山裾にあった臨済宗の寺院でしたが、文禄2(1593)年に大洪水によって崩壊し荒廃していました。それを、寛永2(1625)年に由山(ゆうざん)大和尚が曹洞宗寺院として再興したそうです。その後、新藩主、池田光仲が鳥取に入ったとき、父忠雄(ただたか)の位牌を安置し宿泊したことで寺領が安堵され、発展してきたといわれています。

続いて、右側にあった諏訪神社の参道と鳥居です。名前の通り信州の諏訪大社の分霊を祀るために、弘安元(1278)年に建てられた神社で、江戸時代の天明2(1782)年から柱祭り(諏訪大社の御柱祭りに倣った祭り)が始まったそうです。観光マップによれば、現在も6年ごと(次回は平成34年)に、開催されることになっています。

智頭を代表する邸宅であり文化財でもある石谷家住宅です。平成21(2009)年12月8日に国の重要文化財に指定されました。江戸時代から地主、山林経営で財を成し、石谷伝四郎(1866~1923)の代には、明治28(1895)年から大正12(1923)年まで国政に携わり、政治家としても活躍しました。この石谷家住宅は、大正8(1919)年から10年の年月をかけて、大規模な改修が行われました。以前は、主屋が智頭往来に面した町屋づくりでしたが、奥に移った主屋を屋敷や土蔵、塀などで囲んだ武家屋敷風の現在の構えに変わったといわれています。

美しい書院造りの客間です。明かり取りのための障子のデザインがすばらしい美しさです。昭和16(1941)年に整備された部屋のようです。3000坪を超える敷地に、40を超える部屋をもつ大邸宅である石谷家の中で、最も美しい部屋だと感じました。たくさんの訪問客で賑わっていました。

40余あるすべての部屋から見えるという池泉式の庭園も美しく、平成20(2008)年に「石谷家庭園」は国の名勝地に登録されています。

石谷家住宅の向かい(旧街道の左側)にあった、智頭消防団本町分団屯所です。昭和16(1941)年の建築で、洋風の建物でした。木造2階建て、切り妻づくりで瓦葺きの屋根になっています。消防団の屯所らしく火の見櫓が設置されています。平成12(2000)年12月4日、国の登録有形文化財に登録されています。

智頭往来は、鳥取藩の参勤交代にも使われた街道でした。鳥取を出発したときの最初の宿として家臣がお見送りをした場、江戸から帰着するときの最後の宿でお出迎えをした場として、本陣が設けられました。いただいたマップには、本陣のあった場所が薄い青色で描かれています。消防団の屯所の先から奥に広がっていたようです。

旧街道から左に細い路地を入って行きました。奥には広い空間がありました。写真は通ってきた路地を撮影したものです。

広場を撮影しました。智頭の本陣は、他の藩と異なり、宿場の有力者の邸宅を使用するのではなく、藩の施設としてつくられ奉行所も併設されていました。屋敷の内部には藩の役人の役宅や門番の小屋、厩なども設けれていたそうです。車の向こうに「御本陣跡」の説明が設置されていました。それによると「初代藩主の池田光仲公が入国した慶安元(1648)年から、最後の文久2(1862)年の池田慶徳公までの214年間に、178往復使用された」と書かれていました。

現在、本陣跡の広場には中町公民館が置かれています。大正11(1922)年から幼稚園として使われるようになりました。それ以前は個人病院として使用されていたようです。建築年代は明確ではありませんが、大正期の建物だとされています。外観は洋風で、木造2階建て、屋根は鉄板張り(その内部は桟瓦葺き)、正面玄関の屋根は切妻、壁は白い下見板張りになっています。外観は洋風ですが、内部は和風のつくりになっているそうです。平成14(2002)年、国の登録有形文化財に登録されています。

智頭往来に戻りました。消防団屯所の先が、米原(よねはら)家住宅です。前回歩いた備前街道と智頭往来の合流点にあります。平成26(2014)年、国の登録有形文化財に登録されています。登録の対象のうち、「上門及び塀」は智頭往来に沿って建設されています。明治39(1906)年頃の建設で外見は黒漆喰塗り、近代豪商の邸宅の特徴が評価されての登録でした。前回も書きましたが、米原家住宅の建設当時の当主、米原章三は、山林地主だった米原家の長女と結婚して智頭にやって来ました。そして、山林事業の近代化をめざして八頭木材会社の経営に参加し、大正鳥取銀行の創設にも参画しました。政界にも進出し、智頭村議会議員、鳥取県議会議員を経て、貴族院議員も経験しました。さらに、、昭和5(1930)には、県東部のバス・タクシー会社を統合して日ノ丸自動車株式会社を発足させるとともに、昭和13(1938)年には、鳥取駅前に丸由百貨店(現在の鳥取大丸)を設立しました。また、その翌年には日本海新聞も創立し、智頭町だけでなく、鳥取県の政財界で活躍した人でした。

智頭往来の右側にあった道標です。米原家のそば、備前街道と智頭往来の合流点にありました。「南 飛だり(左) 鳥とり  み起(右) ひめじ 大坂」「東 飛だり つや満 飛ぜん  み起 鳥と里」 と刻まれていました。

この日は、智頭往来を、備前街道との合流点まで歩きました。ここまで、国指定重要文化財の石谷家住宅と国指定名勝の石谷家庭園、国の登録文化財である智頭消防団本町屯所と中町公民館、米原家住宅(主屋・土蔵・上門)を見てきました。それ他、前回歩いた備前街道に沿った塩屋出店(主屋・西洋館・外塀)と米原家住宅の下門と塀の6つの文化財を見てきました。総人口6,967人という小さな町の智頭は、文化財に囲まれた町といっていいぐらい魅力的な町でした。
次回は、合流点の道標から鳥取方面に向かって、智頭の町を歩こうと思っています。



備前街道と因幡街道が合流する宿場町、智頭

2017年12月30日 | 日記

平成21(2009)年、国指定の重要文化財に指定された石谷家住宅です。江戸時代から地主、山林経営で財を成した智頭(ちづ)町を代表する石谷家の邸宅です。敷地3000坪といわれる広大な敷地に、部屋数40余の邸宅と7棟の土蔵が残っています。明治28(1895)年から大正12(1923)年まで国会議員として活躍した石谷家の当主、石谷伝四郎が大正8(1919)年から10年間の年月をかけて改築した大邸宅です。

40余ある石谷家のすべての部屋から見ることができる、400坪といわれる池泉式の庭園です。石谷家庭園は、平成20(2008)年、国の登録記念物(名勝)になりました。

石谷家住宅のある鳥取県八頭(やづ)郡智頭町は、因幡(いなば)街道(智頭往来)と備前街道(備前往来)が合流する宿場町として栄えました。写真の三差路が合流点で、左右に走る因幡街道に、備前街道が手前から合流しているところです。江戸時代には、因幡街道を左に進めば鳥取藩と、右へ進めば志戸坂峠を越えて姫路藩とつながっていました。また、備前街道は手前に進むと、黒尾峠を越えて、美作(みまさか)国津山藩に行くことができました。因幡街道は、智頭町の人は智頭往来と呼んでいるようなので、以降は、智頭往来と書くことにします。

二つの街道の合流点に置かれた明治12(1879)年につくられた道標です。「南 み起(右)ひめじ(姫路)大坂  飛だり(左)鳥とり」「東 みぎ 鳥と里(とっとり) 飛だり(左) つやま 備前」と書かれています。

この日は、智頭の町を、備前街道に沿って先ほどの合流点まで歩くことにしていました。JR智頭駅からスタートしました。

駅前通りの左側にあった観光協会の建物です。ここで、観光マップや資料をいただきました。

駅前通りを進みます。右側にあった智頭急行の本社が入っているビル、続いて智頭町役場を過ぎると、土師川にかかる智頭橋を渡ります。

智頭橋から見た土師川の上流方面の光景です。土師川に沿って街道筋らしい家並みが見えました。

駅前の観光協会でいただいた観光マップです。地図の上が北にあたります。駅から右上(北東)に向かって進み土師(はじ)川を渡ってすぐの信号のある通りが旧備前街道です。左折して北に向かうと智頭往来の合流点の三差路に向かいます。右折して南東方面に向かうと津山方面になります。現在、旧備前街道は北西方面への一方通行になっています。右折して南東に進み、国道53号との分岐点に行きました。

国道53号線との分岐点です。目の前は愛宕橋。右に進んでいく通りが国道53号で鳥取方面に向かっています。

こちらは、国道53号線の黒尾峠・津山市方面です。土師川の上流に沿って延びています。国道は旧備前街道であり、津山城下を結んでいました。内陸部にある津山城下に向けて、日本海の海産物や塩などが運ばれていました。

愛宕橋から、国道53号と分かれ、正面左側の細い通り、旧備前街道に入ります。

現在の旧備前街道です。旧街道らしい幅4メートルぐらいの通りがまっすぐ延びています。

赤い釉薬瓦で葺いた商家と、商家の前に延びた水路が続いています。

通りの右側に、広い製材工場のある豪壮な商家があります。下見板張の壁面と格子づくりの商家、白壁と赤い釉薬瓦が印象的です。

商家の軒先に飾ってあった「杉玉」です。杉材で栄えた智頭の町を象徴する風景です。

旧街道の雰囲気の残る家並みの中を歩いていきます。JR智頭駅前からの通りとの交差点に近づいてきました。通りの右側にあった「山中茶舗」のお宅です。

山中茶舗のお宅の向かい側の家並みです。昭和の香りが漂ってきます。

山中茶舗の次のお宅の前に、水を溜める設備が置かれていました。いただいたマップには、「水舟のある備前街道」と書かれているところでした。比較的新しいつくりでしたので、このお宅の方が復活させたのかも知れません。

格子の前に設置されていた水舟です。まさに、舟の形の水溜めになっています。かつて訪ねた木曽路(旧中山道)の須原宿(「水舟が輝く宿場町 木曽路須原宿」2013年8月28日の日記)を思い出しました。

水舟があったお宅です。杉玉に竹に飾った花、杉の木でつくった飾り物などが、格子づくりのお宅にマッチしてます。

歩いて来た旧街道を振り返って撮影しました。かつての雰囲気が残る美しい家並みでした。人通りが少なかったのが残念でしたが・・。

駅前の通りに戻ってきました。

観光協会でいただいたマップです。駅前通りの信号から、マップの一番上(北)を通る智頭往来に向けて歩くことにします。

旧街道をまっすぐ進みます。左側に山陰合同銀行の智頭支店がありました。このあたりは、河原町商店街です。お店も建て替わっており、明るい雰囲気の新しい商店街が広がっていました。

鳥取信用金庫の支店前を過ぎると、伝統的な商家がところどころに残っていました。木造2階建て、格子づくりの商家に水の流れる音が聞こえる静かな通りです。

水槽に大きな金魚が泳ぐ一角の先に、太平洋戦争中につくられた石碑が残っていました。「戦勝祈念 光明真言二百万遍塔 国家安全」と刻まれていました。

その先に続く商店街です。人通りが多くないのがさみしいです。

立派な屋号が置かれていました。このあたりから、屋号の書かれた木製の札をつるしているお宅が目につくようになりました。

千代(せんだい)川に架かる備前橋に向かって上っていきます。橋の手前の左側に、大きな木製の柱が見えてきました。

備前橋の上から、歩いてきた旧備前街道を振り返りました。白い柱には「備前街道 智頭宿」と書かれていました。

備前橋を渡ります。智頭の町から備前国方面に向かう出口にあることから名付けられたようです。

正面に智頭往来が見えてきました。旧備前街道は「横道通り」と呼ばれるようになります。左に進むと新町通りになります。

旧街道の雰囲気を豊かに残す横町通りです。

その先の右側にあった「塩屋出店」。江戸時代の天保(1830~1843)年間、塩屋家の当主、石谷伝三郎(~1799年没)の二男石谷吉兵衛が起こしたといわれ、「横町の新別家」と呼ばれていたそうです。街並みにある「智頭町並みギャラリー」という説明版には、「2代目までは、問屋(宿場で荷馬の受け渡しをする業務)を務め、3代目吉平は、明治4(1871)年ごろまで庄屋を務め、明治5(1872)年には『村長』という記録が残っている」と書かれていました。また「『商鑑札』には『練り油 吉平』と書かれていて雑貨商を営んでいた」そうです。広い敷地の中に、2階建ての洋風建築である西洋館がありました。

塩屋出店は、明治22(1889)年に焼失した主屋と外壁を立て直す形で、1870年代の建築様式で再建されました。主屋と外壁は、明治30(1897)年の建築で、主屋は切妻造り、瓦葺きの木造の建物になっています。現在は、旧宿場町の智頭町活性化をめざす「智頭宿まちづくり協議会」の拠点になっており、1階の座敷は「喫茶・お食事処 海彦山彦」として使われています。

「海彦山彦」の入口にあった「登録有形文化財」の登録証です。平成12(2000)年12月4日に、主屋と外塀、西洋館の3つの建物が登録有形文化財に登録されました。

主屋と西洋館に囲まれた庭園に入ります。庭園から見た主屋です。庭に面して長い縁側とガラス戸が見えました。広い庭園もきれいに整備されています。

西洋館です。4代目の当主石谷愛三は陸軍の主計局長を務めた人でした。病身(結核)の長男のための療養所として、昭和10(1935)年に西洋館を建設しました。窓の多い建物のため、内部には明るい日差しが燦燦と降りそそいでいます。

現在は、西河克己映画記念館として使用されており、映写機や、「絶唱」や「伊豆の踊子」などのたくさんの映画のポスターやシナリオが展示されています。

塩屋出店の隣の重厚な邸宅は米原(よねはら)家住宅です。この邸宅は、明治39(1906)年頃の建築とされ、その当時の米原家の当主は米原章三という方でした。現在の鳥取市で生まれ、智頭町の山林地主の長女と結婚し、木材会社を経営する傍ら鳥取県議会議員となり、昭和5(1930)年には、県東部のバスやタクシー会社を統合し日ノ丸自動車を設立。2年後の昭和7(1932)年には貴族院議員となりました。その後も、昭和13(1938)年には丸由百貨店(現鳥取大丸)を、昭和14(1939)年には日本海新聞を創立するなど、鳥取県の政財界のリーダーとして活躍した人として、鳥取県で広く知られている方です。

備前街道に沿った玄関には「合名会社 木綿屋米原總本店」と墨書きされた看板が残っていました。邸宅の内部は公開されていませんが、主屋、土蔵、門、塀等が、平成26(2014)年12月19日に国の登録有形文化財に登録されました。

その先の三差路が、備前街道と智頭往来の合流点になっていました。

旧備前街道は、かつては、津山への物資の輸送ルートとして栄えました。現在は、金融機関や商店街が並んでいる新しい商業地区となっています。
私には、現在も、旧街道の両側に並ぶ伝統的な建物が醸し出す、古きよき時代の雰囲気が印象に残っています。



JR智頭駅を訪ねる

2017年12月16日 | 日記
JR山陽本線の上郡(かみごおり)駅と鳥取県の鳥取駅を結ぶ、全長56.1kmの、第三セクターの鉄道があります。智頭急行智頭線です。
写真は、前回訪ねた(「訪問客を待つピンク色の駅、智頭鉄道恋山形駅」2017年11月3日の日記)智頭急行智頭線にある恋山形(こいやまがた)駅です。

ハートの形をした「恋山形駅」の駅名標です。日本には「恋」の字がつく鉄道駅が4駅あるそうです。母恋駅(ぼこいえき・JR室蘭本線)、恋し浜駅(こいしはまえき・三陸鉄道南リアス線)、恋窪駅(こいくぼえき・西武鉄道国分寺線)と、この恋山形駅の4つです。この4つの駅は連携して、駅や駅の所在する地域の活性化に努めています。

恋山形駅の特徴は、「恋」から連想されるピンク色に、駅全体が塗装されていることです。そのほかにも恋にまつわる様々な仕掛けをつくって、多くの訪問客を待っています。恋山形駅は、鳥取県八頭(やず)郡智頭町大内にあります。

この日は、鳥取駅に向かって、恋山形駅の次にある智頭駅を訪ねることにしていました。早朝に起き出して岡山駅の3番ホームに向かいました。鳥取駅行きの特急”スーパーいなば”が入ってきました。キハ1871504(自由席)とキハ187504号車(指定席)の2両編成でした。

自由席に乗車しました。時間が早いせいか、乗客の出足は遅く、半分に満たない乗車率でした。途中のJR上郡駅で進行方向が反対になり、クロスシートを方向転換させて進んで行きました。さて、智頭急行智頭線は、明治25(1892)年に始まった鉄道敷設運動が、敷設に向けてのスタートでした。江戸時代に鳥取藩主池田家が参勤交代に使っていた因幡街道に沿ったルートで、明治時代の鉄道敷設法には「兵庫県姫路から鳥取県鳥取に至る鉄道」と定められていました。その後、山陰へ向かう鉄道は和田山から建設されることになり、姫路からの敷設は白紙に戻ってしまいました。

岡山駅から1時間20分。JR智頭駅までやってきました。智頭急行智頭線とJR因美線の合流点になっています。40kmの制限速度の標識の脇をまっすぐ進むと、行き止まりの頭端式、1面2線の智頭急行智頭線のホームに向かいます。”スーパーいなば”は鳥取駅行きですので、左の線路に進み、JR智頭駅の2番ホームに向かって進んで行きます。智頭急行智頭線の敷設に向けては、大正11(1922)年に、改正された鉄道敷設法で「上郡から佐用を経て智頭に至る鉄道」と規定されましたが、太平洋戦争のため実現には至りませんでした。

戦前から始まっていた鉄道の敷設を求める運動は戦後も引き継がれ、昭和44(1966)年になって、当時の運輸大臣から、上郡・智頭間の「工事実施計画」の許可を受けることができました。その年には工事に着手されましたが、昭和55(1980)年、国鉄末期に成立した「国鉄再建法」によって、またもや中止に追い込まれてしまいました。敷設のために残された道は、地方自治体による第三セクター方式での開業だけでした。そして、昭和58(1983)年に就任した西尾邑次鳥取県知事によって第三セクターによる建設への道筋がつき、同年6月に工事が再開されました。こうした、地元の人々の熱意と粘り強い努力によって、平成6(1944)年、第三セクター鉄道として開業したのが智頭急行智頭線でした。
さて、写真のように、JR智頭駅は2面3線のホームになっています。上郡駅から、高架上に敷設されたルートを、時速120kmで疾走してきた”スーパーいなば”は、右側にある駅舎側から二つ目の島式ホームに、定時の8時09分に到着しました。

智頭駅の駅名標です。鳥取県八頭郡智頭町大字智頭字六地蔵にあります。駅名の「智頭」は「ちず」と表記されています。駅名は「ちず」なのですが、町名の「智頭」は「ちづ」と表記されるそうです。JR因美線の土師(はじ)駅から3.7km、次の因幡社(いなばやしろ)駅まで7.0kmのところにあります。

下車しました。2番ホームに停車中の”スーパーいなば”です。”いなば”の向こうに見えるのは、8時30分発の鳥取駅行きのJRの普通列車です。駅舎に面した1番ホームに停車していました。

”スーパーいなば”の停車している2番ホームの向かいにある3番ホームには、8時15分発の因美線津山駅行きの列車が出発を待っていました。

この写真は、列車が出発していった後に撮影した2番、3番ホームです。上郡方面には木造の待合室が設けられています。このJR智頭駅は、大正12(1923)年に、国有鉄道因美線の用瀬(もちがせ)駅・智頭駅間が延伸開業したときに開業しました。ホームの上屋を支える美しい木組みの梁が当時も面影を伝えています。

駅舎へは、跨線橋を渡って行きます。トンネルのような通路が続く、冬季の風と雪を想定したつくりになっていました。

階段を上りきったところの両側に、1ヶ所だけ設けられた窓がありました、もちろん、ガラスがあって外気が遮断されています。木造の弧線橋の通路です。

跨線橋の窓から見た鳥取駅方面の光景です。このとき、ここまで、乗車してきた特急”スーパーいなば”が、次の停車駅である郡家(こおげ)駅に向かって出発して行きました。

跨線橋から降りて、1番ホームに出ました。8時30分発の鳥取駅行きのJRの普通列車が停車していました。このまま、ホームのさきにある智頭急行智頭線のホームに向かいます。

JR智頭駅の改札口を過ぎてから、鳥取駅方面を撮影しました。渡ってきた跨線橋の堂々とした姿に見とれてしまいました。

その先にあった智頭急行の改札口です。出入口に木造の駅名標がありました。墨で手書きされた「智頭駅 智頭急行株式会社」の一枚板の駅名標でした。

頭端式のホームです。車止めもありました。上郡から智頭までの駅名と主な見処が描かれていました。

もう少し進んでから、振り返って鳥取駅方面を撮影しました。右側の白いビルは、智頭急行智頭駅の入るビルです。1番ホームは、JRと智頭急行の共用になっています。

1番ホームから見た因美線の土師駅、智頭急行の恋山形駅方面です。線路を跨いで、駅の両側を結ぶ連絡通路がありました。

智頭急行かJRか迷ったのですが、JR智頭駅舎に、乗車券と特急券をお渡しして入りました。JR智頭駅は大正12(1923)年の開業以来、今年で94年目を迎えています。内部も改修されていて、すっきりとした雰囲気になっています。正面左がホームへの出口。出口の脇には「1番 岡山駅(赤色で表示) 2番 鳥取駅(赤色で表示) 3番 津山駅(黒色で表示)」と次の列車の到着ホームが案内されています。赤色で書かれているのが特急列車で、黒色が普通列車のようです。その手前の左側が駅事務所。JR智頭駅は鳥取鉄道部が管理する直営駅で、駅員さんが勤務されています。されに手前には自動券売機と運賃表が見えます。床面には点字ブロックも設置されています。

駅舎の右側の部分です。ベンチが並んでいます。全面の壁に時刻表が掲示されています。特急列車(赤色)と普通列車がほぼ拮抗しています。他に、智頭駅が終点になる列車もあります。

智頭急行は、”第三セクターの優等生”といわれるほど経営が安定した鉄道で知られています。その原動力が、二つの特急列車だといわれています。JR京都駅からJR大阪駅・山陽本線を経由して智頭急行に入りJR鳥取駅に向かう”スーパーはくと”と、JR岡山駅から智頭急行に入りJR鳥取駅に向かう”スーパーいなば”の二つです。

駅舎の隅につくられていた「やすらぎの庭」です。平成29年11月、智頭町唯一の高校、鳥取県立智頭農林高校の生活環境科住環境コースの生徒がつくられたものです。智頭の町を代表する千代川の流れや、牛臥山(うしふせやま)、名産の智頭杉などを表現しているそうです。駅舎内での潤いの空間になっています。なお、智頭農林高校は、昭和14(1939)年に開校された智頭実業専修学校を前身とする、70年以上の歴史を有する高等学校です。

駅舎から外へ出ました。木造平屋建ての駅舎です。切り妻の屋根に赤色の桟瓦葺き、壁面は白い下見板張り、駅舎入口の「智頭駅」の赤色が印象的です。駅舎の右側のトイレの向こうには跨線橋が見えます。

駅舎前にある庭園。樹木の手入れも行き届いています。「智頭駅開業70周年」の碑もつくられていました。ここにも潤いの空間がありました。

JR智頭駅舎に隣接している白い建物が、智頭急行の智頭駅です。

智頭急行の駅舎の入口です。こちら側にも、墨書きの「智頭駅」の駅名標が架かっていました。

駅前広場です。現在は右側の白い建物に、智頭急行の本社が入居しているそうです。その向こうに智頭町役場の白い建物が見えました。

駅前にある観光案内所。智頭町観光協会も入居しています。

JR智頭駅と智頭急行智頭線の智頭駅を訪ねました。智頭の町は、江戸時代、鳥取藩の参勤交代の道であった智頭街道と美作国の津山藩からの備前街道が合流する宿場町、商業町として栄えたところです。次は、これら旧街道を歩いてみようと思っています。





南海電鉄、もう一つの登録有形文化財の駅、諏訪ノ森駅

2017年11月17日 | 日記

南海電鉄諏訪ノ森(すわのもり)駅の西駅舎です。木造平屋建ての洋風建築です。前回訪ねた南海電鉄浜寺公園駅とともに、平成10(1999)年に国の登録文化財に登録されました。同じ木造駅舎ですが、浜寺公園駅が堂々とした構えの駅舎だったのに対し、面積48㎡という小振りの駅舎になっています。浜寺公園駅を訪ねた日(「高架工事中の私鉄最古の駅 南海電鉄浜寺公園駅」平成29年11月11日の日記)、一つ難波駅寄りにある諏訪ノ森駅も訪ねて来ました。

諏訪ノ森駅は浜寺公園駅から1.0kmのところ、難波方面の石津川駅まで1.1kmのところにあります。

難波駅行きの「普通車」(南海電鉄では普通列車を「普通車」と呼んでいます)が、2番ホームに到着しました。難波駅方面に向かう上り列車のホームになっています。諏訪ノ森駅は、上りと下り(和歌山駅方面に向かう)のホームがそれぞれ独立した構造になっています。向こう側の下り列車用の1番ホームは、ここからは見ることができません。難波駅方面に60メートルほど行ったところに設置されているのです。しかし、諏訪ノ森駅が、明治40(1907)年、南海鉄道北浜寺(きたはまでら)駅として開業したときには、対面式のホームをもつ駅でした。駅名であった「浜寺」は、南北朝時代、会津出身の僧侶、三光国師(さんこうこくし)が建立した大雄寺を、「浜の寺」と呼んだことによります。大きな寺院で、現在の浜寺公園はこの大雄寺の跡につくられているといわれています。

西駅舎は、2番ホームの難波駅方面の端に設置されています。ホームに隣設したトイレの前から西駅舎に向かいます。日射しで見えにくいのですが、東駅舎が右前方に見えました。さて、北浜寺駅として開業した駅は、翌年の明治41(1908)年、「諏訪ノ森駅」と改称されました。この駅の近くに、旧船尾村の村社である諏訪神社があったため、地元の要望により改称されたそうです。

現在の西駅舎が開業したのは、大正8(1919)年6月10日のことでした。このとき、駅舎を約60メートル、和歌山駅方面に移動させ、現在地に建設されたのでした。このときは、対面式のホームになっていました。写真は、2番ホームから見た浜寺公園駅方面のようすです。

西駅舎につながる上屋です。左側にバリアフリーの通路が右側に階段があります。降りたところに自動改札機がありました。

改札を通り駅舎内の待合いのスペースに掲げられていたプレートです。上が”登録有形文化財”、下が、”近畿の駅 百選”のプレートです。”近畿の駅 百選”は、平成12(2000)年から平成15(2003)年の4年間に、国土交通省近畿運輸局管内にある特徴のある駅を公募し、毎年25駅づつ選定したもので、浜寺公園駅が平成12(2000)年に、諏訪ノ森駅が平成15(2003)年に、選考委員会の審議を経て選定されました。

西駅舎への出入口の上の明かり取り窓には、5枚のステンドグラスがはめられています。広いとは言えない駅舎ですが、高さはかなりあります。
 
白砂青松の浜寺の浜辺と淡路島が描かれているそうです。右側の絵から順に、横に並べました。
 
こちらが淡路島の風景なのでしょう。海岸に木造船の後部が描かれています。駅付近にあったという旧船尾村らしい風景だと思いました。

開業時から120年近く経過しているとは思えないような美しさで、今も訪れる人を楽しませてくれています。

こちらは、ホーム側の明かり取りの窓です。ステンドグラスがあったところと同じようなデザインです。

これは、その反対側。2人掛けの造り付けの木製のベンチがつくられていました。ベンチの両端にある飾り柱がユニークです。

入口から見た駅舎の内部です。自動改札機と自動券売機が見えます。右側に、造り付けのベンチに座って電車を待つ人の足が見えています。この方はかなり長い間、ここに座っておいででした。自動券売機の向こうは駅事務所。駅員さんも勤務しておられました。券売機の下のデザインや天井から吊り下がっているランプシェードも、駅舎にマッチしています。ホームに上る階段も見えます。

駅舎の全景です。広さからいえば、乗客が10人も駅舎に入れば動きがとれなくなりそうです。それでも、東駅舎よりも、少し広いそうです。

駅舎外から西駅舎を撮影しました。歴史を感じさせる外観です。入口の上部の5枚の窓のところがステンドグラスになっています。駅舎の外の掲示物には「大正ロマンを象徴した外観と入口のステンドグラスが特徴的です」と書かれていました。

駅舎の前には、石津川8号踏切がありました。

踏切の手前は連続立体交差(高架化)事業の工事現場です。平成40(2028)年の完成をめざして工事が続けられています。

石津川8号踏切を渡ってから、西駅舎方面を撮影しました。駅舎の向かいには、ジャスコ諏訪ノ森店がありましたが、閉店してイオン諏訪ノ森ショッピングセンターに代わっています。壁面には「KOHWA」(イオングループの食品スーパー)の看板がありました。

石津川8号踏切の先は、”諏訪ノ森本通商店街”です。かつては、賑やかな商店街だったのだではないかと思いました。

踏切を渡ってすぐ左折します。先ほどまでいた諏訪ノ森駅の西駅舎が見えます。

正面に諏訪ノ森駅の東駅舎が見えました。昭和41(1966)年、和歌山方面行きの下りホームと東駅舎が、もとの場所から約60メートル難波駅寄りに移転して建設されました。このときから、現在の独立したホームと駅舎となりました。上り(西)駅のホームは拡幅できたのですが、下り(東)駅は拡幅する余地がなく、移設するしか方法がなかったからでした。

東駅舎の内部です。自動改札機と自動券売機が設置された現代の駅舎です。ただ、待合のスペースがなく、ホームに上がって上屋の下のベンチで列車を待つようになっていました。

堂々とした豪華な駅だった浜寺公園駅に比べ、同じように、登録有形文化財、”近畿の駅 百選”である諏訪ノ森駅は、構えも小さく地味な印象を受ける駅でした。しかし、駅舎のステンドグラスや造り付けのベンチや飾り柱は「大正ロマン」を今に伝えています。訪ねる価値のある、いい駅でした。

高架工事中の私鉄最古の駅、南海電鉄浜寺公園駅

2017年11月11日 | 日記

南海電鉄浜寺公園駅の現在の姿です。現在も使用されている私鉄の駅舎の中で、最も古いとされています。明治40(1907)年8月20日に、現在の「浜寺公園駅」と改称された時に建て替えられた、2代目駅舎です。それまでは「浜寺駅」と呼ばれており、明治30(1897)年10月1日に、南海鉄道(当時)が、堺駅と佐野(現在の和泉佐野)駅間を開業させたときに開業しました。

写真の浜寺公園駅は、明治時代から大正時代にかけて、日本銀行本店、日本銀行京都支店、中央停車場(東京駅)や大阪市中央公会堂(中之島公会堂)などの国の重要文化財に指定されている多くの建築物で知られる建築家、辰野金吾の設計によるものです。洋風の木造駅舎で、柱、梁、筋違(すじかい)などをそのまま外部に移し、その間に石材、れんが、土、壁などを入れたいわゆる”ハーフ・ティンバー工法”と呼ばれる様式です。1450年頃から100年ぐらいの期間、イギリスで流行した工法だそうです。なお、浜寺公園駅は、辰野が設計した駅舎の中で、最初に手がけたものだったそうです。現在、駅舎周辺は、南海本線の連続立体交差(高架化)工事が進行しています。工事終了後、この駅舎は、高架化に伴って新造される新駅舎の正面に移築されることになっています。

浜寺公園駅は平成10(1998)年、登録有形文化財に登録されました。また、平成12(2000)年には”第1回近畿の駅百選”に選定され、平成14(2002)年には都市景観賞(まち部門)を受賞している、花形駅として広く知られています。現在は、木造駅舎の右前方に設置された仮駅で、営業されていますが、計画では、平成40(2028)年3月末に、高架駅として開業することになっています。写真は、手前のマンションの向こう側に設置されている仮駅と浜寺公園駅の姿です。

浜寺公園駅の前には、白砂青松で知られた浜寺公園が広がっています。江戸時代に、地元5ヶ村の村人によって防潮のために植えられた松林が、この地を治めていた田安家によって、明治になって新田開発のために伐採されていきました。その伐採は、明治6(1873)年、松林の消滅を惜しんだ大久保利通の尽力で停止され、その年の12月に日本で最初の公立公園として開園したのが浜寺公園でした。今も、広々とした敷地に松林の姿を見ることができます。

浜寺公園周辺は、大正から昭和の初めにかけて別荘地として開発され、浜寺海水浴場も開かれ、レジャースポットとして発展しました。訪問客の足としての役割を担ったのが阪堺電軌阪堺線でした。南海電鉄浜寺公園駅から浜寺公園に向かって歩くと、浜寺公園の入口の信号交差点の右側に、阪堺電軌阪堺線の終点、浜寺駅前停留場がありました。

多くの観光客に愛されたのが「松露だんご」でした。浜寺公園駅前の通りが様変わりしている中、今も阪堺電軌の浜寺駅前停留場の向かいにありました。

阪堺電軌の浜寺駅前停留場では、電車が出発を待っていました。新型車両1001形車です。平成25(2013)年8月25日にデビューした新型車両です。まず目を奪われるのは、正面の傾斜した全面ガラスです。平成29(2017)年に「グッドデザイン賞」を受賞した車両です。「先頭部をスラント(傾斜)させて、プラットホームから見た圧迫感をなくしたデザインと、堺市の町並みに溶け込むカラーリングが評価された」そうです。

阪堺電軌にはカラフルな車両が揃っています(「あべのハルカスとカラフルな阪堺電車」2014年1月16日の日記)。どんな電車が来るのかと到着する車両を待ちます。青い電車が見えました。すると、1001形の電車が出発して行き、少し先ですれ違いました。左が1001形車両、右がやって来た607号車です。

引き返して、南海浜寺公園駅に戻ります。仮駅の改札口です。駅員の方が勤務されていました。改札口の右側に駅事務所、正面にトイレがあります。入ってから左に向かって進むとホームへの階段があります。

改札を入ったすぐ右側には、時刻表、運賃表が掲示され、自動券売機が設置されていました。

同じ所に掲示されていたJR連絡運賃の掲示です。南海電車からJR環状線に乗り換えて、JRの各駅に向かう運賃が示してありました。

写真の右側からホームに出ました。難波方面に行く電車が停車する、改修中の3番ホームです。かつての改札口も、このあたりにありました。

駅名標です。諏訪ノ森駅から1.0km、羽衣駅へ0.7kmのところにあります。浜寺公園はこの両駅の間に広がっています。また、1日平均乗車人員は4,246人(2015年度)で、南海全線で、57番目の駅だそうです。

木造駅舎のある部分を超えたところのホームの状況です。線路の先は和歌山方面です。

難波方面行きのホームです。ホームの先が切り欠きになっています。線路は、右側から2番線、3番線、4番線になっています。4番線は、3番線から切り欠き部分に入っていくような構造になっています。4番線のある4番ホームから発車する列車の発時刻を見ると、朝と夕方に集中しており、日中にこのホームから出て行く列車はありませんでした。

ベンチの前から難波方面を撮影しました。和歌山方面行きのホームは難波方面りにつくられています。難波方面から来た下車客は、ホームから下って、手前からもう一つ右側にある線路(1番線)を渡って、写真の右端にある改札口に向かう構造になっています。

難波方面側の線路とホームの状況です。浜寺公園駅のホームは2面4線になっています。1番線は右側のホームの先から2番線に合流しています。両端の1番線と4番線は、優等列車の待避線として使用されていて、日中は、2番線と3番線が主に使用されています。

ホームから階段を下りて、向かい側の和歌山方面行きのホームに上がりました。難波方面行きのホームの上に、洋風木造駅舎の屋根が見えます。手前に3番ホームの切り欠き部分が見えています。

和歌山方面行きのホームです。こちらは1番ホームです。ホームのほぼ中央部にあった木造の待合室です。これも、開業時の面影を色濃く残しています。
 
待合室の内部です。木造の仕切りのついたベンチ、天井の格子と天窓のデザイン。
 
腰板とドアの取っ手、取っ手は長年遣い込んだことがわかります。

ドアの下にはレールがありません。ドアは吊り下げ式になっていました。

1番ホームを改札口の方に向かって歩きます。その先に、改札口に向かう構内踏切があります。

1番ホームから構内踏切を歩いて改札口へ向かいます。踏切には遮断機がついていました。

和歌山方面側の駅舎です。自動改札機、自動券売機も設置されています。こちらの駅舎には、駅員さんはいらっしゃいませんでした。駅舎の後方には自転車の駐輪場がありました。そこには、職員の方が勤務されていました。

浜寺公園駅を訪ねました。東京駅とともに辰野金吾の設計による駅舎であり、国の登録有形文化財にも登録されています。現在、高架化工事の進行中であり、近くで見ることはできませんでした。物足りない、消化不良みたいな旅になってしまいました。

次に、駅舎としての機能を回復するのは、平成40(2028)年。11年も先のことです。改修工事の終わった暁には、ハーフティンバー様式のむき出しになった柱、梁、筋違などの特色ある駅舎の姿を、もう一度見に来ようと思った、浜寺公園の旅でした。