トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

重要文化財・登録有形文化財の建物が続く宿場町、智頭町(1)

2018年01月03日 | 日記
鳥取県八頭(やづ)郡智頭(ちづ)町は、因幡(いなば)街道(智頭往来)と備前街道(備前往来)が合流する宿場町として栄えました。前回は智頭町内を備前街道に沿って、二つの街道の合流点まで歩きました(「備前街道と因幡街道が合流する宿場町、智頭」2017年12月30日の日記)。今回は、もう一つの街道、智頭往来に沿って歩くことにしました。
 
これは、JR智頭駅前にある智頭町観光協会でいただいた観光マップです。マップの上側が北方向になります。マップの一番上(北)に左右(東西)に描かれているのが智頭往来で、左側が鳥取方面です。マップの右上の智頭宿無料駐車場(「P」)からスタートすることにして、智頭駅から土師川を渡り旧備前街道を横切って、さらに東に進み、千代川と国道53号線を渡って、駐車場に着きました。

駐車場に着きました。写真は駐車場の出入口に近いところの光景です。

観光マップでは、駐車場の上(北)には智頭小学校がありました。マップにはないのですが、駐車場の右(東)には、智頭町唯一の高等学校である県立智頭農林高校が、さらにその東には智頭中学校のモダンな校舎がありました。

駐車場から智頭小学校の前の道に上り、鳥取方面を撮影しました。歩道からまっすぐに続く道が旧智頭往来です。

駐車場と小学校の間の道が旧智頭往来だと思っていましたが、観光マップには「江戸時代の道(智頭往来)」と書かれていた道がありました。現在、駐車場になっている辺りから、現在の駐車場の出口につながっている道のようです。

マップのルートにあたる「江戸時代の道」を探して見ましたが、墓地から続くこの道しか見当たりませんでした。

多くの観光客と一緒に、駐車場からの出口からまっすぐ歩いていきます。途中で右折して、上町公民館の鳥取寄りで、旧智頭往来に出る道でした。

智津往来に出ると、左折して進んでいきます。しばらくは、建て替えが終わっている新しい家並みの間を歩きます。江戸時代に、姫路城下から智頭往来を歩いて来た旅人は、飾西宿、嘴崎(はしさき)宿、千本宿、三日月宿・平福宿・大原宿・坂根宿・駒帰宿を経て、ここまで来ておりました。

旧街道の左側に、赤い釉薬瓦で葺かれた邸宅や土蔵が見えてきました。伊藤家の邸宅ですが、非公開になっていました。伊藤家の邸宅から先は、旧街道の雰囲気を残す通りになっています。

街道の右側に、智頭町出身の国米泰石(こくまいたいせき)の墓地へ続く道があります。明治時代から大正時代にかけて多くの国宝や重要文化財の修復を手がけ、全国的に知られた人でした。

これも進行方向右側にあった曹洞宗興雲寺の参道です。国米泰石が製作した弘法大師の座像があることで知られています。もとは後方にある牛臥山(うせぶせやま)の山裾にあった臨済宗の寺院でしたが、文禄2(1593)年に大洪水によって崩壊し荒廃していました。それを、寛永2(1625)年に由山(ゆうざん)大和尚が曹洞宗寺院として再興したそうです。その後、新藩主、池田光仲が鳥取に入ったとき、父忠雄(ただたか)の位牌を安置し宿泊したことで寺領が安堵され、発展してきたといわれています。

続いて、右側にあった諏訪神社の参道と鳥居です。名前の通り信州の諏訪大社の分霊を祀るために、弘安元(1278)年に建てられた神社で、江戸時代の天明2(1782)年から柱祭り(諏訪大社の御柱祭りに倣った祭り)が始まったそうです。観光マップによれば、現在も6年ごと(次回は平成34年)に、開催されることになっています。

智頭を代表する邸宅であり文化財でもある石谷家住宅です。平成21(2009)年12月8日に国の重要文化財に指定されました。江戸時代から地主、山林経営で財を成し、石谷伝四郎(1866~1923)の代には、明治28(1895)年から大正12(1923)年まで国政に携わり、政治家としても活躍しました。この石谷家住宅は、大正8(1919)年から10年の年月をかけて、大規模な改修が行われました。以前は、主屋が智頭往来に面した町屋づくりでしたが、奥に移った主屋を屋敷や土蔵、塀などで囲んだ武家屋敷風の現在の構えに変わったといわれています。

美しい書院造りの客間です。明かり取りのための障子のデザインがすばらしい美しさです。昭和16(1941)年に整備された部屋のようです。3000坪を超える敷地に、40を超える部屋をもつ大邸宅である石谷家の中で、最も美しい部屋だと感じました。たくさんの訪問客で賑わっていました。

40余あるすべての部屋から見えるという池泉式の庭園も美しく、平成20(2008)年に「石谷家庭園」は国の名勝地に登録されています。

石谷家住宅の向かい(旧街道の左側)にあった、智頭消防団本町分団屯所です。昭和16(1941)年の建築で、洋風の建物でした。木造2階建て、切り妻づくりで瓦葺きの屋根になっています。消防団の屯所らしく火の見櫓が設置されています。平成12(2000)年12月4日、国の登録有形文化財に登録されています。

智頭往来は、鳥取藩の参勤交代にも使われた街道でした。鳥取を出発したときの最初の宿として家臣がお見送りをした場、江戸から帰着するときの最後の宿でお出迎えをした場として、本陣が設けられました。いただいたマップには、本陣のあった場所が薄い青色で描かれています。消防団の屯所の先から奥に広がっていたようです。

旧街道から左に細い路地を入って行きました。奥には広い空間がありました。写真は通ってきた路地を撮影したものです。

広場を撮影しました。智頭の本陣は、他の藩と異なり、宿場の有力者の邸宅を使用するのではなく、藩の施設としてつくられ奉行所も併設されていました。屋敷の内部には藩の役人の役宅や門番の小屋、厩なども設けれていたそうです。車の向こうに「御本陣跡」の説明が設置されていました。それによると「初代藩主の池田光仲公が入国した慶安元(1648)年から、最後の文久2(1862)年の池田慶徳公までの214年間に、178往復使用された」と書かれていました。

現在、本陣跡の広場には中町公民館が置かれています。大正11(1922)年から幼稚園として使われるようになりました。それ以前は個人病院として使用されていたようです。建築年代は明確ではありませんが、大正期の建物だとされています。外観は洋風で、木造2階建て、屋根は鉄板張り(その内部は桟瓦葺き)、正面玄関の屋根は切妻、壁は白い下見板張りになっています。外観は洋風ですが、内部は和風のつくりになっているそうです。平成14(2002)年、国の登録有形文化財に登録されています。

智頭往来に戻りました。消防団屯所の先が、米原(よねはら)家住宅です。前回歩いた備前街道と智頭往来の合流点にあります。平成26(2014)年、国の登録有形文化財に登録されています。登録の対象のうち、「上門及び塀」は智頭往来に沿って建設されています。明治39(1906)年頃の建設で外見は黒漆喰塗り、近代豪商の邸宅の特徴が評価されての登録でした。前回も書きましたが、米原家住宅の建設当時の当主、米原章三は、山林地主だった米原家の長女と結婚して智頭にやって来ました。そして、山林事業の近代化をめざして八頭木材会社の経営に参加し、大正鳥取銀行の創設にも参画しました。政界にも進出し、智頭村議会議員、鳥取県議会議員を経て、貴族院議員も経験しました。さらに、、昭和5(1930)には、県東部のバス・タクシー会社を統合して日ノ丸自動車株式会社を発足させるとともに、昭和13(1938)年には、鳥取駅前に丸由百貨店(現在の鳥取大丸)を設立しました。また、その翌年には日本海新聞も創立し、智頭町だけでなく、鳥取県の政財界で活躍した人でした。

智頭往来の右側にあった道標です。米原家のそば、備前街道と智頭往来の合流点にありました。「南 飛だり(左) 鳥とり  み起(右) ひめじ 大坂」「東 飛だり つや満 飛ぜん  み起 鳥と里」 と刻まれていました。

この日は、智頭往来を、備前街道との合流点まで歩きました。ここまで、国指定重要文化財の石谷家住宅と国指定名勝の石谷家庭園、国の登録文化財である智頭消防団本町屯所と中町公民館、米原家住宅(主屋・土蔵・上門)を見てきました。それ他、前回歩いた備前街道に沿った塩屋出店(主屋・西洋館・外塀)と米原家住宅の下門と塀の6つの文化財を見てきました。総人口6,967人という小さな町の智頭は、文化財に囲まれた町といっていいぐらい魅力的な町でした。
次回は、合流点の道標から鳥取方面に向かって、智頭の町を歩こうと思っています。



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