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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

多度津街道を歩く(2) 善通寺に向かって

2018年07月20日 | 日記
前回は、多度津から金毘羅宮をめざす参拝客が歩いた多度津街道を、多度津本町通りや鶴橋を経て、多度津中学校のあたりまで歩きました(「多度津街道を歩く(1) 多度津の町並み」2018年6月26日の日記)。

多度津中学校の先にあったJR予讃線の中学踏切です。この日は、前回に引き続き、多度津町立資料館と善通寺市立郷土館でいただいた資料を手に、多度津街道を善通寺まで歩くことにしていました。

善通寺市立郷土館でいただいたルートマップです。マップの左側の太線が多度津街道のルートを表しています。多度津街道の右側の太線は、多度津港に陸揚げされた魚を運搬するための道(「魚街道」などと呼ばれています)を表しています。また、多度津街道の左側を並行して走る道路がありますが、琴平参宮電鉄多度津線(多度津桟橋通駅~善通寺赤門前駅間)の線路跡に整備された県道212号(多度津・善通寺線)を表しています。マップの左隅の上から左下(南西)に向かって進んでいるのがJR予讃線で、多度津街道と交わるとところに「中学踏切」があります。多度津街道は、この踏切から、南にまっすぐに延びていました。

ぎらぎらと照りつける日射しの中をゆっくりと20分ほど歩くと、旧街道の左側に常夜灯(金毘羅灯籠)がありました。「庄の灯籠」と呼ばれている常夜灯です。

庄の灯籠は宝珠の部分が個性的なつくりになっています。「文化14(1817)年丁丑7月吉日」と刻まれていました。多度津資料館でいただいた資料には、「一対の灯籠で、もう一つは八尺荒神社にある」と書かれていました。何しろ、暑さが半端ないので、八尺荒神社が気になりましたが、先に進むことにしました。

庄の地域は住宅地になっています。幅4メートルぐらいの旧街道が続いています。

「庄の灯籠」から20分ぐらい歩くと、三井(みい)の集落に入ります。農村の雰囲気が残る家並みになりました。この先の四つ角を左折しました。

前方、右側に自然石でつくられた常夜灯が見えました。左側に三井八幡宮が鎮座しています。鳥居の脇にあった説明板には「平安時代後期の延久5(1072)年、多度津にある道隆寺(現・四国八十八ヶ所霊場77番札所)の祐善が近在の五ヶ所に八幡宮をお迎えし社をつくった。三井八幡宮もその一つであると伝えられている」と書かれていました。また、「多度津からの金毘羅街道が、古くからの伊予街道とこの神社の馬場先で交差していた」(多度津町教育委員会)そうです。そのため、昭和51(1976)年3月31日に、多度津町の史跡に指定されています。

鳥居の前から見た三井八幡宮です。長い参道が続いています。多度津街道には、丸亀街道(丸亀~金比羅宮)と同じように、1丁(約108メートル)ごとに丁石が設置されていました。いただいた資料によれば「三井の町内には、4つの丁石(22丁石・24丁石・27丁石・28丁石)があり、これらの丁石から推測すると、丁石の起点は船番所があったところ(現・多度津商工会議所)付近だったと考えられる」そうです。中には、民家の敷地内にある丁石もあるとのことでしたが、どこにあるのか、見つけることはできませんでした。

多度津街道に戻ります。ルートマップでは、旧街道はこの集落を抜けた先で、左にカーブしているようです。

資料をいただいた善通寺市立郷土館では、「斜めに進む道の分岐点で左折するように」と教えていただきました。この先を左折します。

このあたりは、仲多度郡多度津町と善通寺市の境界になっていますが、境界線は入り組んでいるようです。まっすぐ進むとその先でため池の脇を進む道になりますが、旧街道は、住宅の前を右折して南に向かっていました。

三井から先のルートマップでは、ここからまっすぐ南に進んでいたようです。

両側に水田が広がる田園風景の中を進んでいきます。永井地区に入りました。「金毘羅詣り」は、江戸時代後期の文化文政期(1804年~1829年)から流行が始まったといわれています。 天保9(1838)年に多度津藩が多度津湛甫(たんぽ・港)を整備してからは、多度津に上陸し、多度津街道を利用する参詣客が増えていったそうです。江戸時代の参詣客も、この季節には美しい田園風景を楽しんでいたことでしょう。

左側にある「ケアハウス かがや木」の建物を過ぎると、愛媛県に向かって延びる国道11号を渡ることになります。

国道11号を渡ります。写真は、松山・観音寺方面の光景です。画面の右に、多度津町内のJR予讃線中学踏切で見えた天霧山が、少し異なった姿で写り込んでいます。

国道11号を渡り、左側にある西山生々堂病院を過ぎると小さい交差点に入ります。いただいた資料に「永井の目印」と書かれているところでした。前の左右(東西)の通りはかつての伊予街道、高松城下から伊予に向かう街道でした。多度津街道と伊予街道が交わる交差点です。通ってきた三井の八幡宮にあった「案内」に、「多度津からの金毘羅街道が、古くからの伊予街道とこの先の神社の馬場先で交差していた」と書かれていたのを思い出しました。

交差点の先から歩いてきた国道11号方面を撮影しました。左右の円形の石柱は、「永井の鳥居」の柱基部のようです。右側の柱基部には「天下泰平」と刻まれているのが見えます。左の柱基部には「中村の發起施主」として、「松嶋屋惣兵衛 米屋喜三右衛門 福山屋平右衛門 湊屋儀助」など多くの名前が周囲に残っています。地元、中村の人が寄進した鳥居だったようです。お近くの人にお聞きすると「地震で倒れた」とのこと。昭和21(1946)年四国・中国地方に大きな被害をもたらした南海地震のときに倒壊したようです。地元の人にとっては、とりわけ残念な出来事だったと思います。

進行方向の左手前にあった金毘羅灯籠です。上部が欠けているようです。その隣の石柱に刻まれている文字は読むことができませんでした。丁石でしょうか。多度津資料館でいただいた丁石の配置図によれば、この地は「多度津から38丁」というところになるはずです。38丁石が置かれていた正確な位置は、この交差点を左折して少し進んだあたりだったようです。隣は先ほど「天下泰平」と刻まれていた「永井の鳥居」の柱基部です。こちら側には「左 こん」と刻まれています。「こんぴら」の下の部分が埋もれています。道標にもなっていたようです。

これは、交差点の向こうの右側にあった道標です。「左 金ぴら道」「右 多ど津道」、「弘化2(1845)年6月吉日」と刻まれています。向かいにあった金毘羅灯籠には「右 多ど津道」「文化7(1810)年12月」とありました。

永井の目印から先のルートです。ここから左折して進み、その先で右折して善通寺の中心部に向かっていたようです。地元の人に確認すると「お詣りの人は、いろいろだよ。ここで左折しないでまっすぐ進んでいた人もいたよ」とのこと。その通りだと思います。参詣客は「多度津街道を通らなければならない」ということはありませんから・・。大回りしても大丈夫。見たいものがあれば迂回しても大丈夫ですよね。

この交差点を左折します。かつての伊予街道を高松方面に向かって歩きます。地元の人のお話では「現在の道ができるまでは、この通りが国道11号だった」とのこと。建て替えたお宅もありましたが、広い敷地に建つ豪壮なお宅もかなり残っていました。この道をまっすぐ進むとJR金蔵寺駅、さらに四国八十八ヶ所霊場の76番札所金倉寺(こんぞうじ)にも行くことができます。

10分ほどで、広い交差点に出ました。向こう側の民家の敷地の中に大きな道標がありました。

「はし久ら道」とあります。左側面には「往来安全」。庭木に覆われていてそれ以上はわかりませんでした。いただいた資料には「下吉田の道標」と書かれていました。「歌碑と道標を兼ねた灯籠(破損)がある」と資料には書かれていましたが、見つけることはできませんでした。ルートマップでは、多度津街道は、ここで右折してまっすぐ善通寺市内に向かっていたようです。

右折して拡幅された広い通りを南に向かいます。前方に高松自動車道の高架が見えました。ますます強くなった日射しの中をひたすら歩きます。

高松自動車道の下をくぐると、右側に中村墓地がありました。その先から、道路の両側に街路樹がある通りになりました。暑さが少し和らいだように感じました。

進行方向の左側に石柱がありました。四国八十八ヶ所霊場を巡る人のための「へんろ道」を示す石柱でした。

「へんろミち」以外は、読むことができませんでした。

その先で、香川県道212号と合流しました。冒頭にも書きましたが、県道212号は、琴平参宮電鉄の線路跡を道路に転換した道でした。金毘羅参詣も、明治時代になってからは、列車による参詣が多くなりました。最盛期には、現在のJR土讃線、高松からの参詣客を輸送した琴平電鉄、坂出からの参詣客を輸送した琴平急行電鉄、丸亀・坂出・多度津からの参詣客を輸送した琴平参宮電鉄がしのぎを削っていました。琴平参宮電鉄は、丸亀線(丸亀通町~善通寺赤門前・軌道線)、坂出線(坂出駅前~丸亀通町・鉄道線)、琴平線(善通寺赤門前~琴参琴平・軌道線)と多度津線(多度津桟橋通~善通寺赤門前・鉄道線)の4路線を有し、路面電車型の車両で、坂出・丸亀・多度津からの参詣客を琴参琴平駅(現在の琴平温泉琴参閣のところにありました)まで輸送していました。このような輸送体制が完成したのは、昭和3(1928)年のことでした。その後、琴平急行電鉄(琴急琴平駅は現在の琴平郵便局のところにありました)を合併しましたが、モータリゼーションの進展により、昭和38(1963)年、鉄道線・軌道線の全線を廃止しました。

広々とした聖母幼稚園を左側に見ながら歩いていきます。善通寺グランドホテルの前に交通標識がありました。この先、右側に進めば弘法大師空海の誕生地で四国八十八ヶ所霊場75番札所善通寺に、左側に進めばJR善通寺駅に行くことができます。

この写真は振り返って撮影しました。多度津街道の進行方向の右側に2階建ての建物がありました。これは、琴平参宮電鉄の善通寺赤門前駅の駅舎だった建物です。ここで下車した参詣客は、駅舎跡の手前の道を左(西)方向に進んで善通寺赤門に向かっていました。郷土館で、「手前の5階建ての建物があるところには当時本屋があり、道路に面したところで切符を販売していた」と、教えていただきました。

歩道を覆う庇の着いた本通り商店街を進んでいきます。この日は木曜日でしたが、シャッターを下ろしたままのお店や、陳列ケースに商品を置いていないお店もあり、営業しているお店はほとんどありませんでした。休業日だったのでしょうか。右側にあった百十四銀行の先の交差点の向こうには市営駐車場がありました。

市営駐車場の向かい、本通り商店街の先にあった善通寺簡易裁判所です。多度津街道はここで途切れます。この先は裁判所やその先の四国学院大学の敷地内を通っていたようです。

酷暑の中を、JR予讃線の中学踏切から、多度津街道に沿って善通寺まで歩いてきました。
街道の脇に残る鳥居や金比羅灯籠、道標などを巡る旅になりました。
次回は、四国学院大学の先、生野(いかの)本町二丁目から仲多度郡琴平町の金刀比羅神社の参道まで歩いてみようと思っています。





多度津街道を歩く(1) 多度津の町並み

2018年06月26日 | 日記
久しぶりに香川県の多度津町(香川県仲多度郡多度津町)を訪ねました。今年の4月に何回か(「JR多度津駅に残るSL全盛期の面影」2018年4月9日の日記・「四国鉄道発祥の地を歩く」2018年4月13日の日記・「JR四国工場への引き込み線を歩く」2018年4月26日の日記)訪ねていますが、今回は、多度津から金毘羅宮に向かう参拝客が歩いた多度津街道を歩いてみようと思ったのです。
多度津町にあった道標です。「すく 金刀ひら道」、「右 はしくら道」、見えない裏面には「すく ふなハ」と書かれた石標(明治14年辛巳5月吉日 石工 当地 吉田歌吉)と、もう一つ「手形 きしゃば」(大正10年4月3日)」と書かれた二つの石標がありました。古代から水上交通の要衝として知られた多度津の町は、江戸時代後期の天保9(1838)年に多度津藩によって多度津湛甫(たんぽ・港)が整備されました。その結果、北前船や地元の廻船問屋によって各地の様々な産品が陸上げされ、多度津からは地元産品の砂糖や綿が積み出されて、ものの行き来が一層活発に行われるようになりました。ものだけではなく、文化文政期(1804~1829年)からさかんになった金毘羅詣りでも、多度津から金毘羅宮をめざす参拝者が増えていきました。道標の「ふなハ(船着場)」や「金刀ひら道(金毘羅道)」は、多くの参拝客の役に立っていたはずです。
現在のJR多度津駅です。現在地に多度津駅が移設されたのは、大正2(1913)年のことでした。それ以前の多度津駅は、現在の多度津町民会館のところにありました。明治22(1889)年、讃岐鉄道によって、丸亀・多度津・琴平を結ぶ鉄道が開業したときからでした。当時は、丸亀駅から多度津駅に着いた列車は、琴平駅に向かってスイッチバックで出て行くようになっていました。讃岐鉄道は経営が盤石とはいえず、山陽鉄道に買収され、後に国有化されることになります。国有化された後、スイッチバックの必要のない現在地に移設されたといわれています。先ほどの「きしゃば(汽車場)」の道標は、現在の駅舎への案内のためにつくられているようです。
多度津駅前の風景です。道路の右側に多度津交番、香川県立多度津高等学校、多度津町役場が並んでいます。
今回の旅のスタート地点とした多度津商工会議所をめざします。JR多度津駅から駅前通りをまっすぐ歩きます。多度津町役場を過ぎ、桜川に架かる豊津橋を渡って多聞院など寺が並ぶ通りを進むと、交差点の手前に先ほどの道標がありました。交差点を右折し、極楽橋を渡って進むとJR四国工場。そこは、江戸時代後期、多度津陣屋があったところです。左折して町民会館(かつての多度津駅跡)の先の金刀比羅橋を渡って多度津交差点に出ます。そして交差点を右折して、港に向かって進みます。
東浜地区にある多度津町商工会議所の建物です。江戸時代には船番所が置かれていたところです。ここをスタート地点にしたのは、多度津町立資料館でいただいた資料では、「丁石(ちょうせき)」から推定した多度津街道の「起点推定地」が商工会議所になっていたからです。「丁石」は、多度津街道に一丁ごとに建てられた石標のこと、以前歩いた「丸亀街道」(「金刀比羅宮まで3里 丸亀街道を歩く」2013年12月30日の日記)にも設置されていました。
多度津から金毘羅宮に向かう参拝客は、ここから、東浜商店街に沿ってほぼまっすぐ南東方向に向かっていました。商工会議所前をスタートします。東浜商店街を進みます。多度津交差点の付近には、百十四銀行や高松信用金庫など金融機関の建物が並んでいます。
多度津交差点の手前にあった合田酒店の建物です。屋号は柳井屋、山口県柳井の出身。「創業、元禄年間(1688~1703年)、310年を超える歴史をもつ多度津最古の酒屋。現在の建物は江戸末期の建築、黒塗りの虫籠窓(むしこまど)など往事の雰囲気を残す」と店内にあった「案内」には書かれていましたが、多度津港で讃岐三白(砂糖・塩・綿)を扱う廻船問屋だったともいわれています。屋根は改装されていましたが、黒漆喰のなまこ壁や虫籠窓など重厚なつくりの商家建築でした。
須賀金刀比羅神社です。この先の交差点の左を流れる桜川の対岸に鎮座しています。境内の左側に灯籠が並んでいますが、資料によれば、多度津港の沿岸にあった、信者から寄進された灯籠(常夜灯)が移されているそうです。
多度津交差点です。左に行けば大通りで、須賀金刀比羅神社の方に向かいます。右に進めば、多度津山に整備された桃陵公園に向かいます。この交差点の付近に、かつて、多度津から琴平に向かっていた琴平参宮電鉄の起点、多度津桟橋通駅がありました。町の人にお聞きすると「化粧品を扱っているお店のあたりにあった」というご返事でした。右側のビルの1階に化粧品のお店がありました。
この写真は交差点から桃陵公園に向かう道を撮影しました。琴平参宮電鉄の多度津駅は白いビルからその先(かつてタクシー会社の営業所があったといわれます)にかけての場所にあったようです。琴平参宮電鉄は、金毘羅宮への参拝客の輸送のため、大正14(1925)年、善通寺赤門前駅・多度津桟橋通駅間が開通し、多度津と琴平が繋がりました。路面電車風の電車が運行されていましたが、昭和38(1963)年に全線が廃止されました。
多度津交差点に戻ります。交差点をまっすぐに横断し、本町通(ほんまちどおり)一丁目に入ります。かつては、多度津随一の商店街でした。
現在の本町通商店街です。江戸時代から古い歴史を誇る多度津街道が通り、多くの人でにぎわっていました。しかし、この日は金曜日でしたが、お店をたたんだ商家やシャッターの閉められたお店もありました。右側に、多度津町立中央公民館本通分館を見ながら進みます。
ここからは、かつての雰囲気を残す建物をたどって歩くことにします。「合田 方圓堂」という屋号が残っています。中2階を設けた厨子2階建て。本瓦葺きの平入りで黒漆喰塗りの商家です。本町通の商家に共通する特色です。
両側に切妻づくり平入り、広い敷地の商家が並んでいます。右の手前が「備前屋」、小国家の建物です。ご先祖は、屋号からわかるように、備前国(岡山県)の出身で、岡山藩の武士だった方だそうです。「江戸時代から明治中期まで、『餅』『まんじゅう』の製造販売店。『傳五餅(でんごもち)』の名で親しまれおみやげとして購入された。明治中期以降は肥料の販売業に、昭和初期からは住宅になっている」と「案内」には書かれていました。
これは、備前屋さんのかつての写真です。玄関前に掲示されていました。のれんの形などから、傳五餅を販売していた頃の建物ではないでしょうか。
ガラスや額縁を扱っていた「小国ガラス店」があったところです。現在は、「まちの博物館よっていってやー」に改装され、多度津商店街やイベントの写真を展示しています。多度津町では、賑わいを取り戻す活動をおこなっており、空き家を改装して居住する場合には助成があるそうです。
その先、「ゆ」ののれんが見えました。銭湯の「清水温泉」だったところです。「説明」には、「大正末期から営業を始め、昭和50年頃まで営業した、一時期『日の出湯』と改名したこともあった」と書かれていました。現在は「喫茶店になっている」と、町の人からお聞きしました。
路地に入って上を見上げると、レンガ造りの煙突が見えました。銭湯らしい風景が残っています。
備前屋の向かいにあった「てつや」です。「代々、多度津の商人。幕末まで鉄の原料問屋として刀鍛冶を営んでいた。明治になってからは昭和初期まで、舶来用品や雑貨の卸売りとアメリカのスタンダード石油の特約店になっていた」そうです。
このマークは通り沿いのお宅の軒下にかざってあったものです。町の活性化のためにつくられたものなのでしょう。
その先にあった、洋風建築も含む大邸宅です。合田邸です。屋号「島屋」。「貴族院議員を務めた合田健吉氏が建造した大正末期から昭和初期の建物」だそうです。洋風の建物は応接間で、ステンドグラスもついています。前からは見えないのですが、レンガつくりの蔵もあるそうです。合田家は「多度津七福神」の一つです。「多度津七福神」は、北前船の寄港地になっていた多度津で廻船問屋として財をなした七つの家。景山家、塩田家(2家)武田家(3家)と合田家のことです。讃岐鉄道を開業に導いた景山甚右衛門も、七福神の一人でした。
その先で桜川に出ます。本町橋が架かっています。その手前を右折します。護岸工事をしている桜川に沿って歩きます。出発地点に近い須賀金刀比羅宮のあたりは、豊かな水量がありましたが、上流部分のこのあたりの桜川は小さな流れになっていました。
右折して100メートルぐらい進んだところにあった橋のたもとに、道標が見えました。「左 古んひら道」「右 いやだに道」、見えてはいませんが「ふなハ」。嘉永元(1848)年に建立された道標です。 この橋は鶴橋。「大正5(1916)年7月修」と欄干にありました。「多度津街道は鶴橋が起点だった」と、いただいた資料には書かれていました。ここで左折します。対岸に金毘羅灯籠がありました。正面に「周防岩国」、「文化12(1815)年」の銘のある灯籠でした。信者が寄進したものです。
鶴橋の先の写真です。多度津町教育委員会の資料には「この先に、多度津街道の一の鳥居があった」と書かれています。「こんぴら一の鳥居跡」と書かれた碑が地上に埋め込まれているといわれていましたが、見つけることができませんでした。
これが「一の鳥居」です。寛政6(1794)年、出雲国松江の信者によって寄進された鳥居で、多度津交差点から見た桃陵公園への道の先、桃陵公園の登り口に移設されていました。
鳥居の足下にあった「こんひら一の鳥居」の碑です。
鳥居の足に「雷電為右衛門」の名前も刻まれています。江戸時代の相撲の横綱、雷電も寄進に協力していたようです。雷電の名前があることから「雷電鳥居」とも呼ばれています。
鶴橋から先の多度津街道は、まっすぐ南東方向に向かっていました。多度津中学校の東側の脇を進みます。
その先で、JR予讃線の「中学踏切」(33k625M)を渡ります。多度津街道は、この先もまっすぐ金毘羅宮に向かっていました。
予讃線の松山方面に向かう線路です。線路の先に見えるのは天霧山(あまぎりやま)。金刀比羅宮に向かう参拝客を、街道の右側から見守り続けてきた山です。

この日は、多度津街道を、その起点推定地とされる多度津商工会議所前からJR予讃線の中学踏切まで歩きました。多くの参拝客を迎えた本通のかつての面影をたどる旅になりました。この先、いつのことになるか自信がありませんが、終点の金刀比羅宮まで歩きたいと思っています。



妖怪の駅長がいる駅 JR大歩危駅

2018年06月12日 | 日記
”四国三郎”の愛称をもつ吉野川の右岸の深い渓谷を見下ろす位置につくられたJR土讃線の大歩危(おおぼけ)駅です。徳島県三好市西祖谷村徳善西にあります。写真の左下にホームの上屋と駅舎が見えます。駅舎の背後には四国山地の山々が連なっています。そそり立つ急斜面にしがみつくように民家の屋根が点在しています。
大歩危駅前からは、祖谷のかずら橋に向かう四国交通のシャトルバスが発着しています。
ホームで下車した訪問客を駅舎への入口で迎えているのは、平成23(2011)年4月から駅長に就任している妖怪の「子泣き爺(こなきじじい)」のモデルになった「児啼爺(こなきじじい)」の木像です。かつて、ここには、帽子を被ってきちんと正座して駅長の「児啼爺」とともに観光客を出迎えていた柴犬の「虎太朗(こたろう)」の姿もありました。虎太朗は、児啼爺の駅長就任から3ヶ月後の平成23(2011)年7月、2歳のときに、助役に就任し、毎週日曜日の午前9時から1時間、勤務していました。しかし、残念ながら、平成25(2013)年11月に「ストレスのため」(案内所スタッフのお話)に退任しています。
この写真は、木像の「児啼爺」の前から見た吉野川の対岸に連なる山々です。駅事務所を改装してできた観光案内所(「ほっと案内所」)の女性スタッフのお話では、「中央の山の右側のあたりが児啼爺の故郷で、そこにあるあざみ峠(あざみのたわ)には、児啼爺の石像と妖怪研究家である直木賞作家、京極夏彦氏の書かれた石碑がつくられています」とのことでした。
ホーム側から見た駅舎です。児啼爺の右側、「ほっと案内所」の入口のドア付近に樹木がありました。コンクリートのたたきと駅舎との間の狭い空間にカエデの木がありました。女性スタッフのお話では「最初は、1枚のもみじの葉ぐらいの大きさで、ほんとうに小さかったんです」。少し大きくなってから、大歩危駅を管理する兵藤文市阿波池田駅長が命名された「ど根性もみじ」でした。エアコンの排水で育ったといわれています。なお、兵藤駅長は、今も現役の阿波池田駅長で「この日も、朝は大歩危駅に来られていたよ」とのことでした。
地元の人々に見守られて来た「ど根性もみじ」ですが、最近、心配な状況に陥っています。写真は「ど根性もみじ」の根元の部分です。見ると、大きな穴が空いており、そこから蟻が出て来ていました。女性スタッフは「ど根性もみじが危機的状況です」とおっしゃって、この穴から、蟻除剤をスプレーしておられました。「2週間ぐらいで枯れてしまうのではないか」と言われる方もいて、危機感を募らせておられました。
岡山駅から乗車したJR高知駅行きの「特急南風1号」(右側)は、途中の宇多津駅で高松駅から来た「特急しまんと3号」を併結して、8時50分頃、大歩危駅2番ホームに到着しました。アンパンマン列車の岡山行き「南風6号」の到着を待って出発していきました。2面3線の大歩危駅ですが、発着ホームは特に一定していないようです。多くの特急列車は1番ホームから発着していました。上に見えるのは、吉野川に架かる大歩危橋です。
2番ホームに、かずらでつくった橋のオブジェが展示されています。その向こうには、ホームの上屋と「らぶらぶベンチ」があり、待合いのスペースになっていました。土讃線は、明治22(1889)年、讃岐鉄道によって丸亀駅・多度津駅・琴平駅間が開通したことに始まります。その後、国有化され高知側からも工事が行われて、昭和10(1935)年に多度津駅・須崎駅間が開業、そして、昭和26(1951)年には窪川駅までが開通して、全線開業となりました。大歩危駅は、昭和10(1935)年に三縄駅と豊永駅間が開業したとき、阿波赤野駅として開業しました。大歩危駅になったのは、15年後の昭和25(1950)年のことでした。大歩危駅は、祖谷地方への入口の役割も果たしています。ちなみに、「大歩危駅」は珍名として知られています。大歩危の「歩危(ぼけ)」は「切り立った崖」を表しており、付近の地形から名づけられたといわれています(「おもしろ地名・駅名歩き事典」村石利夫著 みやび出版)。
駅名標です。小歩危駅から5.7km、次の土佐岩原駅まで7.2kmのところにあります。次の土佐岩原駅への途中で、全長4,179mの大歩危トンネルで県境を越えて高知県に入ります。また、土讃本線(当時)の沿線は土砂崩れなどの災害の多発地帯で、土讃本線ならぬ「土惨(ドサン)本線」と言われていました。そのため、国鉄は、川に近いところを通っていた路線から、トンネルを抜けるルートへの転換を図って来ました。大歩危トンネルは、昭和61(1986)年犬伏トンネル(6,012m)を抜けるコースに変更されるまで、四国の鉄道で最長のトンネルでした。
2番ホームにある「祖谷のかずら橋 ここで下車して下さい」と書かれた案内板です。ホームのオブジェやこの案内から、かずら橋など祖谷地方を訪ねる観光客がたくさんいらっしゃることがわかります。ちなみに、大歩危駅の1日平均乗車人員は、73人(2014年)だそうです。
構内踏切を渡った3番ホームの吉野川側に「展望台」がつくられていました。吉野川の渓谷が見えました。白い岩肌に映える木々の緑のコントラストがすばらしかったです。
展望台への入口付近から見た駅舎です。現在は上屋を金属で覆っていますが、木造平屋建ての駅舎です。ホーム寄りの屋根に「大歩危駅」と大きく書かれているのが見えました。
駅舎に入ります。まず、目に止まったのが、上敷を張った1畳ぐらいの台でした。少年の頃やっていた縁台将棋を思い出しました。縁台に座って世間話をするという雰囲気の待合いスペースでした。 大歩危駅は平成22(2010)年から無人駅になっていて、近距離の乗車券と自由席特急券を販売する自動券売機が設置されていました。
駅事務所を改装した「ほっと案内所」です。待合室側の右側にあるのが自動券売機です。駅が無人化されたとき、地元の人たちは「JR大歩危駅活性化協議会」を結成し、平成23(2011)年から、72人の住民によって案内所への改装が行われました。また、児啼爺駅長や虎太朗助役の任命も行われました。住民の方々がこのような行動を起こしたのは、「特急が停車する駅に、迎える人がいない!」という状況に危機感をもったからだったそうです。平成27(2015)年からは、三好市観光協会が運営するようになっています。
駅前広場からから見た駅舎です。右の建物はトイレです。
駅舎の横から始まる側線に駐車していた保線工事用車両です。車両の側面には、「Plasser & Theurer 」と書かれています。1953(昭和28)年に設立されたオーストリアの線路工事用重機メーカーの企業名(「プラッサー & トイラー」)でした。大歩危駅に常駐している訳ではないそうで、いつ移動するかなど「詳しいことは阿波池田の保線支区に問い合わせてみないとわからない」とのことでした。
この日、もう一つ、道の駅大歩危(ラピス大歩危」)にある「妖怪屋敷」を訪ねたいと思っていました。駅舎から坂道を上ります。「歩危(ぼけ)マート2号店」の店舗が両側に並んでいます。食料品や土産物を扱い、そばも食べることができる旨の案内も書かれていました。
上り坂の途中からみた駅前のロータリーです。さほど広くはない駅前広場でしたが、駅に向かう車は大きく右カーブして入っていました。
上りきったところが大歩危大橋。祖谷地区に向かうため、右側から大歩危大橋を渡ってやって来た車は、この三差路で右にカーブして、この道をまっすぐ向こうに進んでいきます。徳島県道45号西祖谷山山城線です。
大歩危大橋です。大歩危駅に到着したとき、ホームの上を跨ぐように架かっていた橋でした。駅で助役をつとめていた柴犬の虎太朗は助役を引退した後、この橋を渡った付近のお宅で元気に過ごしているそうです。
大歩危橋の上から見たJR大歩危駅の全景です。2面3線のホームと阿波池田駅方面の光景です。保線工事車両は、右側の駅舎の手前側にある側線に駐車しています。
橋のこちら側が、三好市西祖谷村徳善西、橋を渡った向こう側、吉野川の対岸が三好市山城町です。山城町は県境の町で、西は愛媛県、南は高知県と接しています。四国山地の山深いところにある町でした。大歩危橋を渡ると、国道32号に出ます。右折して阿波池田方面に向かって歩きます。
道の左側に「大歩危診療所」と書かれた案内標識があるところに「赤野台 山岳武士 木地師の里 国境武士の道 登り口」と書かれた看板が見えました。約700年前から、国境を守る武士たちは、徳島県最西端に位置し、土佐国、伊予国と国境を接するこの地域に、急斜面を開墾して村をつくって来ました。全国有数の地滑り地帯の急峻な斜面にある村で、身を守るのが難しく一歩あやまれば命を落としてしまう危険なところでした。平地が少ない土地のため、生活を続けていくにも厳しいところでした。
大歩危峡です。源流を愛媛県の瓶が森(かめがもり)に発する吉野川のつくったV字谷が、小歩危峡まで6kmに渡って続き、奇岩が連なっています。山城町は「児啼爺」だけではなく多くの妖怪伝承が残っているところです。厳しい地理的な条件の下で生きてきたことによります。崖や淵など事故や災害の多いところには、必ず妖怪伝承が残っています。これは、危険から子どもを守るために、この地に生きた人たちが、妖怪伝承を子どもの教育に利用してきたからでした。
山城町は、昭和30年代には1万5,000人であった人口が、現在では3,000人を切るような状況になっています。町の活性化をめざし、平成10(1998)年、地元のボランティアグループ「藤川会」の人たちを中心に、町の魅力を再発見する活動を始めました。その時に着目したのが妖怪伝承でした。
地元の人たちは、平成13(2001)年、全国に呼びかけ「児啼爺」の石像を建てました。それが、駅の観光案内所のスタッフの方からお聞きした、あざみ峠の石像でした。児啼爺は、「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる「子泣き爺」のモデルで、「爺さんみたいな顔をしているが、赤ちゃんみたいな声で泣く。山の中で泣いているのでかわいそうだと思って抱いたらどんどん重くなってくる」のだそうです。
大歩危橋から徒歩20分ぐらいで、道の駅大歩危の駐車場に着きました。大きな「妖怪屋敷」の看板がありました。看板の下で、突き出た大きな鼻をもった妖怪、オオテングの木像が立って訪問客を迎えています
道の駅大歩危への入口です。地元の人々の活動はさらに続きます。地元の諸団体が結集する形で、平成20(2008)年に「四国の秘境 山城・大歩危妖怪村」を結成しました。そして、その年、世界妖怪協会(水木しげる会長)から「怪遺産」に認定されました。山城町の妖怪は50種、妖怪伝承のある場所は110ヶ所以上という妖怪の多さが、認定の大きな理由でした。また、民俗学者、柳田国男の著書である「妖怪名彙(ようかいめいい)」(昭和13年発行)の中に、山城町の妖怪4種類が掲載されていることも影響したといわれています。
道の駅の内部です。道の駅の「妖怪屋敷」がつくられたのは、平成22(2010)年のことでした。地元の人々の活動の賜物で、道の駅の利用者は着実に増加しているとお聞きしました。500円で入場料を購入して入場しました。
入口にいたのは、予想通り「児啼爺」でした。さて、柳田国男の「妖怪名彙」に掲載された山城町の4種類の妖怪は、「コナキジジイ」、「タカニュウドウ」、「ヤギュウサン」と「クビキレウマ」でした。「タカニュウドウ」は「下から見れば段々背が高くなり、上から見下ろせば、しだいに小さくなる」といわれ、地元にある大日如来像の前で山伏が供養を行ってからは出現しなくなったそうです。「ヤギュウサン」は、「クビキレウマ」という首のない馬に乗って現れる妖怪で、「これに会うと蹴り殺されるので親の言葉を守って、わがままを言ってはいけない」と教えられて来たそうです。

JR土讃線の大歩危駅周辺を歩いてきました。
雄大な自然の中を歩き、愛媛県や高知県の県境に近い厳しい環境の中を生きてきた人たちが、子どもの安全や命を守るために伝承してきた妖怪に触れた旅でした。地域の活性化のために尽力する人々の工夫と努力に触れる旅にもなりました。





国鉄の最短路線だった小松島線の跡地を歩く(2)

2018年06月04日 | 日記

小松島市が整備した「小松島ステーションパーク」の一角にある「SL記念広場」に展示されているC12280号機とオハフ50272客車です。ここは、かつて小松島港と徳島駅を結んでいた国鉄小松島線の小松島駅の操車場があったところでした。大正2(1913)年、阿波国共同汽船(あわのくにきょうどうきせん)が小松島港と徳島駅間に敷設した鉄道は、開業当初から国が借り上げて小松島軽便線として営業を始め、その翌年の大正6(1917)年には国有化されました。一方、阿南鉄道が、大正5(1916)年、軽便線の途中にあった中田(ちゅうでん)駅を起点に開業させた鉄道は、その後、昭和11(1936)年に国有化され牟岐線となりました。そして、昭和36(1961)年に小松島線と牟岐線の起点が変更され、小松島線の起点は中田駅となりました。こうして、小松島線は、全長1.9kmの国鉄の最短路線となりました。そして、民営化される前の昭和60(1985)年に廃止されました。

前回は、JR中田駅から小松島駅跡に整備されている「小松島ステーションパーク」まで歩きました(「国鉄の最短路線だった小松島線の跡地を歩く(1)」平成30年5月31日の日記)。写真は、小松島みなと合同庁舎(以下「合同庁舎」)です。小松島駅の駅舎とホームは、この敷地内に設置されていました。今回は、小松島駅跡から小松島港仮乗降場の周辺を歩きました。「仮乗降場」というのは、国鉄時代に、各鉄道管理局が利用者の便宜を図るため独自の判断で設置した乗降場でした。営業キロの設定がなく、全国規模の時刻表に記載されていない、いわゆる「幻の駅」でした。国鉄の赤字ローカル線が廃止されたときに、消滅したものが多かったそうです。

前回、SL記念広場、たぬき広場、合同庁舎と進んできました。写真の左側に一部写っている白い建物は、道路をはさんで向かいにあるミリカホール(小松島市保健センター)です。その先、港に向かって撮影しました。左側に切妻屋根の倉庫がありました。

交差点の手前左側、切妻倉庫のあるバスセンターの一角に、「国鉄」と書かれたコンテナが置いてありました。

コンテナがあったところの交差点の中央から見た左(北)側の風景です。錆がついているのか、茶色をした倉庫が見えました。このあたりに、小松島港仮乗降場の駅舎やホームがあったといわれています。

その先にある岸壁の向こうにデッキ広場がありました。

デッキ広場から見た南海フェリーの乗り場の跡です。現在は海上保安庁の巡視船が停泊していました。また、左側に、かつて、南海フェリーの乗船場であった、現在の小松島みなと交流センター(Kocolo)の建物が見えました。小松島港と和歌山港を結ぶ航路は、昭和31(1951)年に南海観光汽船(後に南海汽船)によって開設されましたが、昭和50(1975)年からは南海フェリーが運航するようになりました。

平成11(1999)年に、南海フェリーの航路が徳島港・和歌山港間に変更され、小松島港から撤退することになりました。小松島みなと交流センターは、デッキ広場の手前を左折して海に沿って北に向かって進んだところにありました。内部は、市民が制作された作品などを展示・販売するお店が並んでいます。お店の方にお聞きするとフェリーには「2階から乗車するようになっていた」とのことでした。

階段を上がって2階から撮影したフェリー埠頭の写真です。"JAPAN COAST GUARD" と側面に書かれた巡視船の「よしの」(左側)と「びさん」(右側)が停泊していました。埠頭にあった施設は、乗船のときに使用されていたものだそうです。

来た道を引き返して、合同庁舎の脇に戻りました。今度は小松島港仮乗降場の跡地をめざして、合同庁舎の脇の通路からミリカホールの手前を左折して北にむかって歩きました。左側に合同庁舎、右側にミリカホールを見ながら進むと、すぐに、右側に4階建ての集合住宅が見えました。

これが4階建ての集合住宅です。その先に、三角形のような形をした白色の建物がありました。壁面に「南海鶏飯(チキンライス)」と書かれています。

ちょうど、作業車が横付けされて樹木の伐採作業の最中でした。作業車や雑草で見えなかったのですが、ここが、小松島駅から小松島港仮乗降場へ向かう鉄道の線路があったところです。前回訪ねた小松島駅は、単式ホーム2面2線でした。その内の1線は中田駅側に寄ったところ、現在のたぬき広場があるあたりで分岐して小松島港仮乗降場へと向かっていたようです。その線路がここにつながっていたそうです。

この写真は、三角形のような形をしたお宅の前を抜けたところから振り返って撮影したものです。雑草に覆われていて地面がどうなっているか確認することはできませんでした。

その先を撮影しました。右側に先ほどの集合住宅、道路の先には南海フェリーの乗船場だった小松島みなと交流センターがあります。左側には、小松島港仮乗降場跡がありました。小松島港仮乗降場は、昭和15(1940)年、小松島駅構内に小松島港に上陸した貨物や旅客の輸送のために設置されました。昭和31(1956)年に、南海汽船が小松島港・和歌山港間に南海四国ラインを開設しました。南海フェリーが就航したのは、南海汽船から業務を引き継いだ昭和50(1975)年のことでした。

この道をまっすぐ進んだ先に、南海フェリー乗船場(小松島みなと交流センター)がありました。乗船場の手前に南海フェリーの看板が残っています。かつては「ちっか」(ちくわ)を売る女性の声がにぎやかだったといわれています。

小松島港仮乗降場に向かう線路は、道路を斜めに横断して中央の樹木の左側に向かっていました。車止めの手前の地面に線路跡を思わせる2本の亀裂が見えました。不思議なことに線路跡と位置が同じなのだそうです。線路の右側にはワシントンヤシの並木がありました。道路と線路を区別するために植えられたそうです。左の建物は手前がベルモニー会館小松島新港、その後ろに、バスセンターの交差点から見えた切妻屋根の茶色の倉庫がありました。このあたりに、小松島港仮乗降場があったそうです。その左側には道路をはさんで港がありました。

かつての写真をみると、切妻造りの駅舎には「和歌山、大阪なんば方面 南海フェリーのりば」と書かれた看板がありました。降車した乗客はフェリー乗り場に向かって、そのまま進行方向に歩いていたそうです。仮乗降場は「全国規模の時刻表には記載がない」と冒頭に書きましたが、小松島港仮乗降場は「臨時駅」と表記されて、時刻表にも掲載されていたそうです。小松島港仮乗降場跡の裏に回ります。あちらこちらに、釣りをしている人の姿が見えました。港と対岸の倉庫群です。

そこから東側を撮影しました。右側の切妻倉庫の左に停泊している船舶が見えています。南海フェリーは、就航から24年間後の平成11(1999)年、航路を和歌山港・徳島港間に変更するまで、輸送を続けました。

右側に小松島みなと交流センターの一部が、そして、中央に巡視船「よしの」が見えました。正面左に見えるのは徳島県内航海運組合の建物ですが、釣りをしておられた方のお話では「昔はもっと岸壁が近くて、この先には建物はなく、ホームの先端からすぐ先はもう岸壁だった」そうです。

小松島みなと交流センター付近から見た仮乗降場跡です。倉庫の近くの一段高くなっているところがホーム跡、その左側の部分が線路が敷設されていたところのようです。小松島仮乗降場は、小松島駅から300mのところに設置されましたが、構内駅としての扱いでした。出札口もあり、切符の販売もしていましたが、販売していた乗車券には「小松島駅発行」と書かれていたそうです。単式ホーム1面1線のホームでしたが、「機回し」のためにもう1線、線路が敷設されていたそうです。

国鉄の最短路線であった小松島線の跡地、1.9kmを歩いてきました。しかし、かつての面影を残す遺産はほとんどなく、当時のようすをイメージすることは難しいことでした。線路跡を歩かれた先人の記録と地元の人々の記憶が頼りでした。それでも、まだ、わからないところがたくさんあり、すっきりしない気持ちが残っています。




国鉄の最短路線だった小松島線の跡地を歩く(1)

2018年05月31日 | 日記

JR牟岐(むぎ)線の中田(ちゅうでん)駅です。徳島県小松島(こまつしま)市にあり、かつて、この駅と小松島駅を結ぶ鉄道がありました。全長1.9km。国鉄の最短路線として知られていた小松島線でした。しかし、国鉄の分割民営化を前に「第一次特定地方交通線」に指定され、昭和60(1985)年に廃止されてしまいました。この日は、その小松島線の線路跡を終点の小松島駅跡に向かって歩きました。

徳島駅から、JR阿南駅行きの牟岐線の普通列車(単行気動車の1007号車)に乗車して中田駅をめざしました。牟岐線は徳島駅から南下して、高知県境に近い海部(かいふ)駅とを結ぶ全長79.3kmの路線です。

徳島駅から20分ぐらい(徳島駅から9.2km)で中田駅の1番ホームに着きました。地蔵橋駅から3.2km、次の南小松島駅まで1.7kmのところにありました。中田駅も小松島市内にありますが、南小松島駅周辺が小松島市の行政や経済の中心地になっています。

中田駅は、島式、1面2線のホームになっていますが、昭和60(1985)年の小松島線の廃止までは、駅舎寄りにもう一つホームがあり2面3線のホームになっていました。JR四国には、いわゆる「1線スルー」になっている駅が多いのですが、この駅は1番ホームには阿南・海部駅方面の列車が発着し、2番ホームには徳島方面行きの列車が発着しています。写真はホームから見た徳島駅方面です。右側に側線が設けられていました。

ホームから駅舎に向かいます、遮断機のついた構内踏切の先に駅舎がありました。小松島線は、小松島港と徳島市を結ぶために、阿波国共同汽船(あわのくにきょうどうきせん)によって、大正2(1913)年に敷設されました。開業時から国鉄が借り上げ、小松島軽便線として営業していましたが、大正6(1917)年に国有化されました。そして、大正11(1922)年の軽便鉄道法の廃止を機に、徳島駅・小松島駅間が小松島線となりました。
一方、牟岐線は、阿南鉄道によって、大正5(1916)年、この中田駅を起点にして開業されました。そして、昭和11(1936)年、阿南鉄道が国有化され牟岐線となり、昭和36(1961)年の小松島線と牟岐線の起点変更によって、中田駅が小松島線の起点となりました。こうして、小松島線は小松島駅までの1.9kmの最短路線となりました。
もとは徳島駅・小松島駅間11.1kmだった路線は、起点を変更されたことによって、路線の大部分を牟岐線にとられて最短路線になったわけで、小松島線の地元の人々からからみると、「最短路線にさせられた小松島線」ということになるのでしょうね。

駅舎の左側にあった手作りの駅名標です。なぜか「みなみこまつしま」だけが二重に書かれています。中田駅は、大正5(1916)年、阿南鉄道(後の牟岐線)との接続駅として、阿波国共同汽船軽便線の地蔵橋駅・小松島駅間に開業しました。その後、昭和36(1961)年の起点変更により、国鉄小松島線の起点駅になったのです。

構内踏切から見た阿南駅方面です。正面の線路が牟岐線の列車が到着した1番ホームです。最初に見た側線が左側から合流しています。これを見て、左から来た側線がかつての小松島線の線路だったと思ったのですが、駅舎内外の点検作業をされていたJR関係者の方にお聞きしたら、「小松島線は、今の1番ホームから出発していたよ」とのことでした。ちなみに、この方は「若い頃に6年間ほど小松島線の運転士をしていた」そうです。「この先に踏切が見えますよね。あの近くで牟岐線と分岐していました。」ともおっしゃっていました。この写真では見えにくいのですが、線路が合流した先に踏切が見えました。

駅舎を出ました。目の前にあったのが、高層の集合住宅です。静かな住宅地といった雰囲気を感じました。駅舎の前を右折して牟岐線の線路に沿って歩きます。

この駅からJRを利用しておられる方が置いている自転車の間を通って進みます。中田駅の1日平均乗車人員は466人(2014年)だそうです。利用者の多くが通学の高校生のようです。

自転車の間を過ぎると、歩行者・自転車専用道路になっています。歩行者専用道路(左側)と自転車専用道路(右側)が、その間にある緑地帯で分離されていて安全に通行できる配慮がなされていました。

歩行者・自転車専用道路には、清水が流れるせせらぎも整備されていました。途中にあった石碑には「中田駅新港線街路事業 竣工 平成6年」と刻まれていました。進行方向の右側には牟岐線の線路が見えます。

小松島線と牟岐線の分岐点がこの付近にあったといわれた長手(ながて)踏切です。「9K398M」とありました。駅から約200mぐらい歩いたことになります。

長手踏切から先は小松島線の線路跡を進むことになります。右側に整備されていた休憩のスペースです。東屋風の屋根の下に石のベンチが並んでます。

休憩スペースから30mぐらい進んだ右側に、牟岐線の踏切がありました。中央の白い建物の手前です。「県前(あがたまえ)踏切 9K556M」。この間にあるお宅の人は、列車が通過する音を両側から聞いていたのでしょうね。

その先にあった距離標です。「中田駅より400M」 「日峰通りより1000M」です。 昼過ぎの時間でしたが、買い物帰りの女性の方など行き交う人も結構おられました。目の前を歩いておられるのはウオーキングをされていた高齢者の方でした。

新堀川にかかる瓠橋(ひさごばし)に来ました。瓠橋はかつては鉄橋があったところのようですが、完全に改造がなされていて、かつての面影はまったく残っていませんでした。鉄道跡地を訪ねるというよりは、ウオーキングをしているような気分になってきました。

瓠橋から200mぐらいで県道120号徳島小松島線を渡ります。

県道を渡ると歩行者・自転車専用道路が鮮やかになりました。左の赤い部分が歩行者専用道路、右側の緑の部分が自転車専用道路です。ここまで、塗装がかなり剥げていたのですが・・。 右前に、スーパーの「KyOEI(キョーエー)」が見えました。

右前方に、徳島赤十字病院が見え始めました。左側にある千歳産業の白い工場と並んで歩くようになったところに、水飲場と休憩所、トイレが並んで設けられていました。

千歳産業の並びにあった「徳島ロイヤル病院 ケアハウス ロイヤル ローズ ガーデン」の建物です。その前に残っていたのが中継信号機でした。小松島線で唯一現在まで残ってきた鉄道時代の遺産です。うっかり見過ごして通り過ぎてしまうような、周囲の風景に溶け込んでいる中継信号機でした。

白色灯が水平に点灯していれば「停止」、斜めの点灯なら「注意」、垂直に点灯していたら「進行」を示す「白色3位式の信号機」でした。もちろん、使用されているわけではありませんが、きれいに塗装されていて、現役の信号機といってもいいぐらいでした。徳島赤十字病院の建物が少しずつ近づいてきました。

県道33号小松島佐那河内線の交差点に着きました。交差点の手前に「中田駅より1200M」の標識が見えました。交差点の左方向には徳島ロイヤル病院、右側には徳島赤十字病院がありました。交差点の向かいには徳島赤十字病院の駐車場になっている広い敷地がありました。この右方向には「SL記念広場」と「たぬき広場」、そして国の合同庁舎(「小松島みなと合同庁舎」)の建物が並んでいました。この広い敷地が、小松島線の小松島駅があったところです。かつては、小松島客貨車区や徳島気動車区小松島支所などの国鉄の施設も置かれていました。現在、駅跡は小松島市が整備した「小松島ステーションパーク」になっています。駐車場の入口に機関車を模したオブジェがありました。中田駅で出会ったJRの関係者の方は、このオブジェの向こうに転車台があったといわれていました。

こちらのオブジェは、この先にある「小松島みなと合同庁舎」の脇に置かれていたものですが、「SL記念広場」や「たぬき広場」を含む「小松島ステーションパーク」の説明板になっていました。駐車場前のオブジェは破損していましたが、もとはこのようなものだったのではないでしょうか。

県道33号を渡ったところから振り返って撮影しました。歩いて来た小松島線の線路跡です。ここからは小松島駅跡を歩きます。

徳島赤十字病院の駐車場を過ぎると、車輪の形をした車止めがありました。「SL記念広場」に入ります。このあたりは、小松島線の操車場があったところだったそうです。

広場に静態保存されていたC12形蒸気機関車(SL)と50系客車です。ホームに横づけした形で展示されています。ただ、かつてのホームはこの向きではなく、これと直行する向きになっていたようです。C12形SLは、C11形SLを小型化したSLで、昭和7(1932)年から昭和22(1947)年までに製造された、洗練されたデザインで知られていたSLでした。「説明」によれば、このC12280号機は昭和11(1936)年に製造され、徳島駅から牟岐線を走っていたSLで、昭和48(1973)年に国鉄から譲り受けたといわれています。

これは、50系客車、オハフ50272です。50系客車は、昭和53(1978)年のダイヤ改正でデビューした当時新形式のローカル列車用客車。乗降口が自動化したり、車両のデッキから入る引き戸を大型化したり、通勤・通学客の輸送の改善に対応した客車でした。小松島線で使われていた頃は赤い塗装になっていたそうです。

SL記念広場の全景です。当時は操車場になっていたところだそうです。

たぬき広場です。赤い提灯をもった世界最大のたぬきがつくられています。このたぬきはジブリアニメの「平成狸合戦ぽんぽん」のモデルになった金長たぬきです。たぬきのうしろに見えるのは、たぬき広場に隣接している小松島みなと合同庁舎の建物です。

小松島みなと合同庁舎です。海上保安部、検疫所、入国管理局、税関など小松島港にかかわる政府機関が入居しています。かつての小松島駅の駅舎やホームは、この合同庁舎の建っている付近にあったといわれています。

合同庁舎の先、道路を隔てた向かい側にあったミリカホール(小松島市保健センター)付近からその先の港側を撮影しました。この先、駅舎から行き止まりの線路が港に向かって延びていたそうです。
  
国鉄の最短路線として知られていた小松島線を、JR中田駅から小松島駅まで歩きました。
きれいに整備された線路跡は、市民の生活道やウオーキングロードとして今も使用されていましたが、かつての小松島線を思い出させるものは中継信号だけだったのが、少し残念でした。
次回は、小松島駅から分岐して小松島港に設置されていた小松島港仮乗降場を訪ねることにしています。




ホームの「うちぬき」が無くなっていた! JR伊予西条駅

2018年05月21日 | 日記

四国の霊峰、石鎚山の北麓に広がる愛媛県西条市は、飲用水としても使用されている清水が、「うちぬき」と呼ばれる「自噴井」から湧き出ている「水の都」です。前回、町の中を流れる水路に沿って整備された散策路に沿って、藩政時代に陣屋が置かれていた愛媛県立西条高校まで歩いてきました(「うちぬきのある陣屋町、西条市を歩く」2018年5月9日の日記)。写真は、市役所付近にあった「うちぬき広場」です。平成7(1995)年の全国利き水大会で、この水が日本一を獲得しています。

コンクリ-ト造り3階建てのJR西条駅です。ずいぶん前のことになりますが、この駅で下車したことがありました。そのとき、ホームに「うちぬき」があったことをかすかに覚えていました。前回、「うちぬき」に沿って歩いたとき、十分確認していませんでしたので、再度、この駅を訪ねることにしました。駅舎に隣接した鉄塔は、鉄道電話の中継用に設置されて、本州との交信に使用されていました。現在は、携帯電話の基地局になっているそうです。

JR観音寺駅から乗車してきた7309号車(先頭車)と7209号車(観音寺駅側)の電車が、駅舎に近い1番ホームに到着しました。7200形の車両は、国鉄分割民営化の直前に、旧国鉄によって、2両編成(クモハ121形+クモハ120形)の19本が製造された、旧国鉄の置き土産と言ってもいい車両です。平成28(2016)年から始まった、老朽化による改造の終了後に、7200形+7300形に改番されました。

伊予西条駅は2面3線の駅になっています。この駅は予讃線の普通列車の中継点という機能も有しており、松山駅や高松駅方面に向かう普通列車の始発駅、終着駅にもなっています。そのため、この駅での入れ換え作業は1日40回を越えるともいわれています。また、早朝や深夜に発着する列車もあり、構内の引き込み線に留置されます。その列車に乗務する乗務員は、写真の左側の駅舎の3階にある宿泊施設で宿泊しているそうです。

この駅が普通列車の中継点になっていることがよくわかる3番ホームの風景です。手前の列車が、高松方面に向かう観音寺駅行き、向こう側の列車が松山駅行き。ここで、接続しています。

駅名標です。中萩駅から6.4km、次の石鎚山駅まで3.5kmのところにあります。さて、予讃線は、明治22(1889)年、讃岐鉄道によって丸亀駅・多度津駅間が開通したことに始まります。その後、高松駅・丸亀駅間が開通しました。しかし、経営は盤石ではなく、山陽鉄道に買収されることになりました。その後、国有化され、多度津駅から西への延伸が始まりました。伊予西条駅まで延伸・開業したのは、大正10(1921)年のことでした。開業当時の駅舎は木造だったようですが、現在の駅舎は、昭和43(1968)年に改築されたものです。

ホームを高松方面に向かって進みます。2番・3番ホームに移動する旅客のための横断用の跨線橋です。

ホームの中央に、駅スタッフが使用されている構内踏切がありました。

跨線橋の裏(高松駅寄り)にあったエレベーターです。平成29(2017)年9月に完成したバリアフリー工事で新設されました。

2番3番ホームのある島式ホームの駅名標のところにエレベーターの出入口が設置されています。以前、この駅に降りたとき、「うちぬき」を見たのはこの島式ホームだったと思いましたが、正確なところは、やはり思い出せませんでした。エレベーターの左の白い陸橋は「ぽっぽ橋」です。駅の南北を結ぶ跨線橋です。これも、バリアフリー工事が行われた平成29(2017)年に設置されたそうです。

改札を通り駅舎内に入ります。右側の駅事務所にきっぷを渡して出ました。自動改札機はまだ導入されていませんでした。

駅舎内にあった時刻表です。都市間輸送を担う「特急しおかぜ(岡山駅行き)」と「特急いしづち」が1時間に1本、地域間輸送を担う普通列車も1時間に1本程度運行されています。

駅舎内です。改札口に向かって撮影しました。左側に「みどりの窓口」その手前に自動券売機が設置されています。右側には、セブン・イレブンの店舗がありました。近年まで、改札口で操作する「行燈(あんどん)式改札案内」が使われていたそうですが、現在はLEDの行先表示に替わっていました。

駅前広場から見た駅舎の風景です。トイレの前に「噴水」がありました。「下り列車の到着時に吹き上げる」(杉崎行恭著「駅旅入門」)のだそうです。このときは吹き上げていました。

吹き上げている噴水です。駅舎に向かって左右の2ヶ所設置されていました。湧水を利用したオブジェは「水の都 西条」でよく目にする光景です。

駅舎に沿って観音寺・高松(東)方面に向かって歩きます。駅舎に隣接して「鉄道歴史パーク in SAIJO」 がありました。右の手前の「十河信二記念館」、その先の「四国鉄道文化館」、そして、鉄道文化館の向かいに「観光交流センター」が設置されています。いずれも、西条市が一体的に管理運営している施設です。四国鉄道文化館はJR四国が保管していた車両等を展示しており、十河信二記念館は地元、愛媛県立西条高校の出身で第4代国鉄総裁として新幹線の導入に尽力した十河信二氏の足跡を紹介しています。駅舎と十河信二記念館の間には、先ほどホームから見えた「ぽっぽ橋」が設置されていました。

観光交流センターです。観光案内所と西条市でつくられた物産の販売等を行っている施設です。中にうちぬきの湧水があり、飲用にも使用されていました。

「ぽっぽ橋」の階段を上ります。「ぽっぽ橋」は、四国鉄道文化館(平成19=2007年に開設した北館)の南館がオープンしたときに、2つの鉄道文化館をつなぐ通路として、旧跨線橋を撤去して、平成26(2014)年に新たに架橋された跨線橋です。駅の南北を結ぶ生活道としても使用されており、バリアフリーに配慮してエレベーターも併設されています。全長80mといわれています。

「ぽっぽ橋」の上から見た観音寺方面です。伊予西条駅は2面3線のホームといわれていますが、構内にはたくさんの引き込み線が設けられています。一番左側の線路から分岐して左に向かっている引込線は、その先の四国鉄道文化館の北館につながっています。現在、DF50形ディーゼル機関車(DF501号機)がこの線路の上に展示されています。昭和32(1957)年に製造され、最初に高松機関区に配属され、敦賀、長野、米子機関区を経た昭和42(1967)年高松に戻ってきたディーゼル機関車です。現在、唯一、動態保存されているディーゼル機関車です。正面に島式のホームが見えますが、その右の2本目の線路から引き込み線になっています。

「ぽっぽ橋」を少し進んだところから見た引き込み線です。正面に留置されている車両は、観音寺から乗車してきた7200形車両の7309号車と7209号車の2両編成です。写真の右端に煉瓦づくりの円形の給水塔が見えます。大正10(1921)年の開業以来、足下にある湧水池からポンプで汲み上げて、蒸気機関車への給水のために使用されてきた給水塔です。「現在もポンプで汲み上げ構内に供給している」(杉崎行恭著「駅旅入門」)そうです。

これは、「ぽっぽ橋」の上から撮影した給水塔です。西側から見た姿です。上部の貯水槽から地上に下る水管が見えました。

これは、伊予西条駅前を東西に走る通り(駅東通り)を右折して進み、右側にあったホテルの駐車場から予讃線の線路越しに撮影した給水塔です。これは北側から撮影した給水塔です。下に倉庫風の建物があるのがわかります。上部の貯水槽からの水管が地上までつながっているのが見えました。

これは、給水塔の南側の市営住宅から見た給水塔です。左側に点検用の梯子がついています。右側は、湧水池から汲み上げた水を上部から注入するパイプなのでしょうか? 下部はブッシュに覆われていてよくわかりませんでした。様々な角度から挑戦しましたが、残念ながら、下部にあったはずの湧水池は見つけることができませんでした。

さらに南に進んだところから見た南館につながる引き込み線です。写真の右側の建物が四国鉄道文化館の南館です。その前に展示されているのは、フリーゲージトレインのGCT01-201号車です。

フリーゲージトレインは新幹線の軌間(ゲージ)1435ミリと在来線の軌間1067ミリの異なる軌間に車輪の幅を変換して直通運転ができる電車です。四国鉄道文化館の「説明」では、「平成21(2007)年にJR九州の小倉工場で完成し、九州での試験走行を経て、平成23(2011)年からは予讃線の多度津駅~坂出駅間を試験走行した車両です。平成25(2013)年に試験走行を終えて、西条市に無償譲渡されたもの」と書かれていました。

南館前の広場から見た煉瓦づくりのカーバイト倉庫です。幼い頃、祭礼の屋台で使用されていた灯りを思い出します。炭化カルシウムの塊に水を加えると発生するアセチレンガスに火をつけると燃え出すという性質を利用して、伊予西条駅では、夜間作業の照明として使用されていました。その炭化カルシウムを保存する倉庫として使われていたそうです。大正10(1921)年の開業時に給水塔とともに建てられたとも、それより遅れてつくられたともいわれています。水をかけるとガスが発生して燃えるという性質があるため、煉瓦の上の看板には「注水厳禁」と、正面のドアには「立入禁止」「火気厳禁」と書かれた表示がありました。

この日、JR伊予西条駅を訪ねたのは、かつてホームにあったはずの「うちぬき」がどこにあったのかを確かめるのが目的でした。南館でスタッフの方におうかがいすると、「島式ホームにエレベーターを設置したとき、それまでそこにあった『うちぬき』を撤去した」とのことでした。また、「ホームの「うちぬき」を撤去した替わりに駅前に噴水をつくったというわけではなく、二つが並行して存在した時期もありました」とのことでした。伊予西条駅でバリアフリーの工事が行われたのは、平成29(2017)年でした。ホームの「うちぬき」はそのときまでこの地にあったということでした。

この日は、自分の記憶の中にあったホームの「うちぬき」を確認するため、JR伊予西条駅にやって来ました。
しかし、四国鉄道文化館に展示されていた多くの展示物を通して四国の鉄道の歴史にふれる旅になりました。
ホームに「うちぬき」がある風景も伊予西条駅にはふさわしいのではないかとも感じた旅でした。

「うちぬき」のある陣屋町、西条市を歩く

2018年05月09日 | 日記

「うちぬき」と呼ばれる「自噴井」から湧く清水が、小川やせせらぎになって街を流れ水辺の散策が楽しめる街、そして、その清水が飲用水としても使われている街があります。愛媛県の東部(東予地域)にある西条市です。写真のうちぬきは西条市総合文化会館の近くにあった飲料用のうちぬきです。

この町にある愛媛県立西条高校は、藩政時代にこの地を領した西条藩主の陣屋があったところに設置されています。藩政時代と同じように、周囲を豊かに水をたたえた堀に囲まれた環境の中にあります。

せせらぎの脇にあった「アクアトピア」の案内図です。水を意味する「アクア(Aqua)」と桃源郷を意味する「ユートピア(Utopia)」の合成語で、国土交通省が推進している親水整備事業です。西条市もこの事業によって整備を進めてきました。市街地を流れる水路は西条高校のある堀につながっているようです。気になったのは、この地図の水路が、突如地図の右側に出現しているように描かれていたことでした。この水はどこからきたのか不思議でした。この日は、地図の右側、水路が突如現れる辺りから、水辺の散策をしながら陣屋跡の堀まで歩くことにしました。

JR予讃線の伊予西条駅からスタートしました。この駅は、大正10(1921)年に開業しました。多度津駅から西に向かって延伸してきた予讃線がここまで開業したときでした。現在の駅舎は、昭和43(1968)年6月に改築されたものです。

駅前を予讃線と並行して走る駅西通り(市道西条駅前干拓地線)を松山方面に向かって歩きます。

歩道の脇に置かれていた「うちぬき」の白いモニュメントです。「平成7 8年 連年 おいしい水 日本一に選出」、「うちぬき 昭和60年1月 名水百選に認定」と書かれていました。 通りの右側にあった西条市立図書館を過ぎると、左側に西条市総合文化会館の建物が見えてきました。その先を左折して石鎚山山系が聳える方向に歩きます。冒頭の「アクアトピア」の案内図の右端の地点に向かいます。

県道西条港線の向こうの池にその場がありました。見渡してもこの池に注ぐ水路はありません。

池の向こう岸に近いところにあった井戸状の構造物です。観光交流館でいただいた「イラストマップ」には「観音水」と書かれていました。近くの駐車場の整備をしておられた方にお聞きすると「下から湧き出ているんですよ」とのこと。続いて「ここでは、飲み水には湧き出る水を使っています」とのことでした。観音水はここから流れるせせらぎの源流になっていたのです。それにしても、すごい量の湧き水でした。

県道西条港線を左に向かって歩いていくと小さな公園があり、そこに「観音水の泉」と刻まれた石碑がありました。「説明」には、県天然記念物になっているふじで知られる観音堂(禎祥寺)の近くにあったので「観音水(観音泉)」と呼ばれていると書かれていました。西条建設の白いビルが見えました。

禎祥寺観音堂に寄ることにしました。西条建設の右側の道を右カーブしたらすぐに禎祥寺でした。

禎祥寺の山門です。入口に、大きな藤棚がありました。愛媛県の天然記念物に指定されています。「観音水」は、アクアトピアのシンボルになっているだけでなく「水の都 西条」のシンボルにもなっているようです。

整備された散策の道を水路に沿って歩くことにしました。少女像のオブジェです。脇には「夕暮れて落葉明りの水辺かな」の句の石碑もありました。この先、句が書かれている背の低い石碑にたびたび出会うことになりました。

西条市総合文化会館に向かって引き返します。

総合文化会館の交差点の近くにあった「湧水モニュメント」です。西条市の資料によれば、四国の名峰石鎚山の麓のこの地域は、石鎚山からの伏流水の貯水池になっていて、日本有数の自噴地帯といわれています。自噴井は2000ヶ所、9万立方メートルに達するといわれ、場所によっては水管を差すだけで簡単に水を得ることができたそうです。打ち込めば湧水が出てくるということから「うちぬき」ということばが使われるようになりました。

総合文化会館を背景にしてつくられた「湧水モニュメント」の碑です。平成3(1991)年の旧西条市(平成の大合併以前の西条市)の調査によれば、1万9千戸のうち75%が飲料水として「うちぬき」を利用しているということでした。現在も、公共の上水道の整備はなされていないのだそうです。まさに”水の都”です。

散策の道を瀬戸内海の方に向かって、アクアトピア水系のアクアルートを歩きます。「水舞台」と名づけられた石の構造物がせせらぎの中に見えます。その先に、墓地が見えました。
 
墓地の先に大通寺の山門がありました。僧行基の開基と伝えられる真言宗御室派の寺院です。天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国征伐の兵火で焼失したことがあったそうです。江戸時代には西条藩主松平氏の庇護を受けていた寺院です。現在の山門は、「元の西条陣屋のお庭門(中敷門)であった」と説明に書かれていました。

「ほたるの泉」と名づけられた一角です。

梛木橋(なぎのきはし)を渡ります。「説明」によれば、藩政時代にはこの近くに大きな梛木があったそうです。手前には西条市立図書館の裏口がありました。

左側にあった、切妻造りの屋根が印象的な市総合福祉センターの建物です。ここは、藩政時代「伊予柾」(いよまさ・西条奉書)の紙蔵が置かれていたところです。

福祉センターの北側の植え込みの中にあった石碑です。正面に「西条藩紙方役所 紙蔵跡」。 右側面には「西条奉書(伊予柾生産の地)」。 左側面には、「江戸時代西条藩の手すき和紙、奉書紙は伊予柾とよばれ浮世絵用として高い評価を受けていた。西条藩は良質の水に恵まれていたため、ここ古屋敷の紙すき場を直営として、和紙の専売制を布いた」と書かれていました。

新町橋の付近から振り返って撮影した市総合福祉センターです。この先、せせらぎは暗渠の流れになります。

突然、水路が顔を出しました。石製の樋が見えました。いただいた「西条水めぐりマップ」を見たら「掛樋(かけひ)」と書かれていました。そして、「水をまっすぐ流したり、堰(せき)とめて流す道を変えたり、幾通りもの使い方をします」と説明されています。流れの調節のために使用された樋でした。その先の交差点の右側の建物の手前を右折しました。

やがて、通りの左側にJA西条の事務所がありました。その向かいにあった「うちぬき」です。

その先に防球ネットが見えました。西条高校、そして、陣屋跡にやって来ました。

その手前の御殿前通りを右折します。西条高校といえば、プロ野球の読売ジャイアンツの元監督藤田元司さんを、そして、今は、阪神タイガースで活躍している秋山拓巳投手を思い出します。お二人が高校生活を送った髙校として知られています。この日は連休中の土曜日でしたが、練習中の野球部員の元気な声が聞こえていました。

西条高校の校舎が見えました。その前に堀が広がっていました。

そのまま進んで行きます。左側にあった裁判所の建物です。その向かい(道路の右側)に「うちぬき広場」がつくられていました。

「うちぬき広場」です。奥の方に水を噴出している「うちぬき」が見えました。平成7(1995)年に行われた「全国利(き)き水大会」で日本一になったのが、ここの「うちぬき」の水でした。石碑には「名水百選 うちぬき 昭和60年1月 環境庁選定」と、当時の西条市長 桑原富雄氏の手で刻まれていました。

「うちぬき広場」から引き返し、西条高校の正門側の通りを進みます。先に書きましたが、西条高校のあるところには、藩政時代、西条藩の政庁である陣屋が置かれていました。ゆったりと水を湛えた堀の対岸に、陣屋の面影を伝える北御門が見えました。北御門は陣屋の北口を護っていた門でした。西条藩は、寛永13(1636)年に、外様大名であった一柳直盛(ひとつやなぎなおもり)が、6万8千石で、伊勢神戸藩から転封されたことに始まります。しかし、当時73歳と高齢だった直盛は、西条へ赴任する途中の大坂で病没してしまいます。その遺領は3人の子が相続し、長男の一柳直重(なおしげ)が3万石で西条の地に入り、陣屋の建築に取りかかりました。陣屋は、加茂川の三角州の1万坪以上の敷地に築かれ、周囲を水堀で囲まれており、寛永17(1640)年ごろに完成したといわれています。しかし、一柳家3代目の藩主直興(なおおき)は不行跡の咎めを受け改易(御家断絶・領地没収)となり、「加賀前田家にお預け」になってしまいました。

一柳家の後、天領(幕府領)となっていた西条藩でしたが、5年後の寛文10(1670)年、御三家の一つ紀州徳川家の分家筋の松平頼純(よりずみ)が3万石で入封しました。松平家は参勤交代のない江戸定府の大名で、この後、明治維新まで10代に渡り西条藩主をつとめました。写真は西条高校の正門ですが、かつては陣屋の大手門(表門)でした。現在の正門(大手門)は、寛政(1789ー1808)年間の建築といわれ、当時のままの場所に現存しています。

西条高校の正門の前に来ました。左側の藩政時代の土塁の上に「西條藩陣屋跡」の石碑が建っています。また門柱には木製の「愛媛縣立西條高等学校」の校名標が掲げられていました。

正門の右側にも藩政時代の土塁が残っています。右側の土塁にあった「𦾔(旧)西條藩邸址」の石碑です。

正門から左方向に向かって歩くと北御門があります。近くの石碑には、「寛政年間に大手門を建て替えたとき、古い門は北側に移設されていました。その後、天保6(1835)年、松平家9代藩主松平頼学(よりさと)が初めてお国入りをしたとき(松平家は江戸定府の大名だったため)、現在の様式に変わったといわれています。明治時代以降は転々と設置場所を替えられて傷みが目立っていたため、平成25(2013)年にそれを修復したとき、この地に移されました」と説明されていました。かつては通り抜けが可能であった両側のくぐり門も、このときに固定されたそうです。

引き返します。大手門の前を今度はまっすぐ北に向かって歩きます。西条栄光保育園の脇を通って、陣屋跡から出ます。左折して、堀から流れ出てきた本陣川に架かる赤い欄干(らんかん)橋を渡って、西に向かいます。欄干橋のあるところには、藩政時代にも欄干のある橋が架けられていたそうです。

石造りの北御門橋がありました。先ほど訪ねた北御門はこのあたりに設置されていたのでしょう。

北御門橋から引き返します。堀の脇にある四番町郵便局のところには、かつて西条藩の藩校「擇善堂(たくぜんどう)」がありました。松平家8代藩主松平頼啓(よりゆき)によって、文化2(1805)年に開校しました。

観音水から水路に沿って「うちぬき」を訪ねて歩いてきましたが、ここでゴールにしました。
「水の都 西条」の豊かな水がつくる美しい風景にふれる、そして、「陣屋町西条」の歴史にふれる旅になりました。



JR四国工場への引き込み線を歩く

2018年04月26日 | 日記

JR四国予讃線の多度津駅です。このところ、多度津駅を起点に歩いています。多度津駅に残る給水塔や転車台(「JR多度津駅に残るSL全盛期の面影(2018年4月9日の日記)」)を見てきました。

駅前に設置されている「四国鉄道発祥之地」のモニュメントです。モニュメントにかかわる、琴平と讃岐鉄道多度津駅も訪ねて来ました(『四国鉄道発祥之地』を歩く(2018年4月13日の日記)」)。

JR予讃線の高松駅やJR丸亀駅方面からJR多度津駅に入る手前で多度津跨線橋の下をくぐりますが、その多度津跨線橋の上から見た予讃線の丸亀方面です。向こう側がJR予讃線の線路です。手前に、左カーブをしてJR四国唯一の整備工場である四国旅客鉄道株式会社四国工場(以下「JR工場」)へ向かう引き込み線が見えます。この日は、この引き込み線を歩いてみることにしました。

駅方面から跨線橋に上がり、左折して西に向かいました。JR四国は、明治22(1889)年、讃岐鉄道によって多度津駅を起点に丸亀駅、琴平駅間が開業されたことが、JR四国の発祥であったとしています。この讃岐鉄道を設立したのは、多度津の廻船問屋、大隅屋の5代目当主、景山甚右衛門を中心とした廻船問屋の人たちでした。多度津からの金毘羅宮への参拝客を輸送することが目的だったといわれています。その後、高松駅まで延伸させましたが、経営は盤石とはいえず、明治37(1904)年には、山陽本線を開業させ、後に宇高連絡船を開業させることになる山陽鉄道に吸収され、明治39(1906)年には国有化されました。

いつも情報をいただいている多度津町立資料館に15分ぐらいで着きました。

これは、資料館でいただいた讃岐鉄道の路線図です。地図の右上(北東方向)が丸亀駅方面で、ほぼ直線状に左(西)側の多度津駅につながっていました。琴平方面へは、来た線路を引き返し(スイッチバック)て、右下(南東)方向に向かっていました。この時の多度津駅は、現在の多度津町民会館の場所にあり、駅に隣接して整備工場も併設されていました。

多度津駅が、スイッチバックの必要のない現在の地に移設されたのは、国有化後の大正2(1913)年のことでした。それに伴い、旧多度津駅は貨物駅の「浜多度津駅」と改称され、新しい多度津駅と浜多度津駅間は貨物支線として使用されることになりました。しかし、モータリゼーションの発展により、昭和54(1979)年、浜多度津への貨物線は廃止され、併設されていた国鉄多度津工場への引き込み線(構内側線)として使用されるようになります。そして、国鉄の分割民営化により、昭和62(1987)年にJR四国になってからも、JR工場への引き込み線として引き続き使用されています。

これは、多度津町民会館です。北に向かって流れる桜川の東岸にあります。この地にかつての浜多度津駅(初代多度津駅)がありました。資料館でいただいた情報で、もう一つ印象に残ったことがありました。貨物駅の浜多度津駅は、昭和5(1930)年に完工した西浜地区の埋め立てに伴い、桜川を越えてさらに西に延伸していたのです。この埋め立てにより多度津港が整備されたため、荷揚場に近いところの方が利便性が高かったことによります。

資料館に掲示されていた「多度津町住宅明細地図 多度津町商店会編纂 昭和9(1934)年調整」と書かれた住宅地図には、延伸した貨物支線の路線が描かれていました。スタッフの方にお聞きしますと「現在の禅林学園(西浜町)と商工会議所(東浜町)の間を走っていました」とのことでした。この写真は、町内の桃陵公園(多度津山上)からみた東浜・西浜地区です。右の高層ビルが禅林学園です。その手前側をまっすぐ左(西)に向かって延びていたようです。まずは、延伸した後の浜多度津駅跡に行ってみることにしました。

資料館からまっすぐ西に向かって進み、町民会館の先で桜川を渡ります。写真は桜川に架かる金刀比羅橋から見た港方面です。右側の敷地が駅跡があった町民会館、その向こう側から右側にかけてJR工場が広がっています。

桜川の西岸を海側に向かって歩き、禅林学園の建物が見えるところに来ました。禅林学園の左側のブラウンの建物が商工会議所です。商工会議所は東浜商店街にあり、禅林学園は西浜町にありました。

後ろを振り返って撮影しました。左側がJR工場、右側が町民会館。この間を、延伸した貨物支線が走っていました。禅林学園の前を、さらに西方にまっすぐ進みます。

道路の右側を、貨物支線が走っていたようですが、痕跡はまったく残っていませんでした。線路の海寄りのところは荷揚場になっていたようです。

多度津山が迫って来るようになりました。このお宅のあたりが駅の先端だったそうです。町民会館方面に向かって撮影しました。ここから引き込み線を歩く旅のスタートです。来た道を引き返します。桜川に出て、多度津の大通り(金刀比羅橋から資料館に向かう通り)を進み、資料館の近くまで引き返すことにしました。

JR工場を左に見ながら進み、右側の中国銀行、左側の山本医院を過ぎ、資料館の手前の交差点を左折します。道路の右側に「旧多度津陣屋蓮堀跡」の石碑がありました。裏には「是従北 幅五間 長さ百間」とあります。江戸時代後期の文政10(1827)年に多度津藩の陣屋が完成したとき、ここには、幅約9m、長さ約1.8kmの堀がつくられ、中央部に大手門がつくられました。そして、左側のJR工場の敷地のところには多度津藩主の御殿が置かれていました。また、堀の右側には家臣の邸宅が並んでいました。多度津藩京極家は丸亀藩の支藩で、陣屋ができる前には、藩主は丸亀城内で藩政を執っていました。

通りの右側を進んでいくと、引き込み線の線路に出ました。そこはJR工場の多度津駅側からの入口にあたり、通行する町民のために「工場踏切」が設けられていました。遮断機も警報機もない第4種踏切で、列車の通過時は係員が無線機と手旗を以て待機しているのだそうです。

JR工場の内部です。この日はDE101139号機が停車していました。

踏切表示には「多度津工場線 915m」と書かれています。起点となるJR多度津駅から915mの距離にあることを示しています。

JR多度津駅方面の光景です。踏切に入る手前で分岐して、工場に入って来る構造になっています。ポイントの切り替えは、手動で行われているようです。

工場踏切から多度津駅に向かって、線路の右側の通りを歩いて行きます。右側は家中(かちゅう)と呼ばれる地域。江戸時代後期には、藩主を守護する武士が居住していたところです。

かつての雰囲気が伝わって来るような家並みが続いています。白壁の土蔵の先に二つ目の踏切がありました。

測候所踏切です。踏切表示には「多度津工場線 750m 測候所踏切」と書かれていました。踏切の向こうに「多度津特別地域気象観測所」という看板が架かった敷地がありました。資料館にあった「測候所」の説明には、「明治24(1891)年に、内務省告示20号で、新町栴檀(せんだん)の海岸に地方測候所の新設の指定がなされ、明治25(1892)年に香川県議会で可決された」とあり、その後に、「香川県立多度津測候所が設立された」と書かれていました。

説明の最後に「昭和39年3月30日 新庁舎(現庁舎)が完成した」とも書かれていましたので、この地は、かつて測候所が設けられていたところだったということになります。また、資料館にあった「多度津町住宅明細地図」には、測候所の先には「海水浴場」と書かれていました。この測候所の敷地の少し先は海岸で、海水浴場として親しまれていたようです。

引き込み線をたどる旅は、どうやら踏切を訪ねて歩く旅になりそうです。踏切以外にはこれといって特色のない道でした。測候所踏切のすぐ先に、美しい芝桜が見えました。付近のお宅の方がお世話をされているもののようです。

線路に沿って進みます。すぐに、次の踏切に着きました。3つ目のこの踏切も、踏切表示だけの第4種踏切でした。「多度津工場線 653m 新町第2踏切」でした。測候所踏切から、97mのところにありました。

踏切から10mぐらいのところに天満宮の本殿がありました。文化8(1811)年、多度津藩主京極高道が灯籠1対を奉納したという記録が残っています。

新町第2踏切から天満宮の山門に向かって、天満宮の玉垣に沿って歩きます。左側に蛭子宮がありましたので、踏切方面に向かって撮影しました。ここで、高齢の男性お二人が、置かれていた椅子に座って、歓談されていました。「小さい頃は、ここから裸で踏切を渡って海水浴場に行ったものだよ」というお話が印象に残りました。測候所の裏にあった海水浴場へ行かれていたのでしょう。天満宮にお詣りした後、引き返し、今度はお堂の右側の道を向こう側に向かって歩きます。

その先にあった新町第1踏切です。これも第4種踏切でした。多度津駅から603m、新町第2踏切から50mのところにありました。

次の踏切がすぐ先に見えていました。天神堀江踏切で、「多度津工場線 579m」と書かれていました。新町第1踏切から、わずかに24mのところにありました。

天神堀江踏切の近くには、昔懐かしい、枕木でつくられた柵が残されていました。柵の向こうに見えるのが、旧香川県立多度津水産高校の校舎です。平成19(2007)年、同じ多度津町内にあった県立多度津工業高校と統合して、香川県立多度津高校になりました。

旧多度津水産高校の校舎の先で、引き込み線は大きく右にカーブして、JR多度津駅に向かって行きます。線路の左前方の道路上に白い乗用車が見えますが、この乗用車のいる道はかつての讃岐鉄道の線路跡です。丸亀からやって来た列車は、ここから現在の引き込み線に入り、旧多度津駅に向かっていました。

旧多度津水産高校の校舎を過ぎると、右側に、最後の踏切、掛浦(かけうら)踏切が見えました。JR多度津駅から318mのところ、天神堀江踏切から261mのところにありました。掛浦踏切を渡って進むと、その先に旧水産高校のグランドや旧正門にいくことができます。

校舎に沿った道路の先、先ほど乗用車が止まっていた道路です。かつての讃岐鉄道は、ここから丸亀に向かっていました。この先の「止まれ」と書かれている交差点を右折して、多度津跨線橋に向かって歩いていきました。

資料館でいただいた讃岐鉄道の路線を示した地図です。この地図を見ると、讃岐鉄道はここで右にカーブした後、その先にある「幸町自動車学校」の敷地に向かって、ほぼまっすぐに進んでいました。

これは、跨線橋から見た現在の自動車学校です。讃岐鉄道はこの下を自動車学校に向かっていました。一方、引き込み線は大きくカーブしてJR多度津駅に入って行きます。

JR四国は、多度津駅を起点にして丸亀駅と琴平駅を結んで開業した讃岐鉄道に始まるといわれています。現在も使用されているJR工場への引き込み線の一部は、讃岐鉄道の時代に敷設された線路を引き継いでいます。由緒ある鉄道を歩き、多度津の歴史を振り返ることのできた旅でした。



<追記>  讃岐鉄道とJR予讃線の合流点をめざして  

JR四国工場への引き込み線は、かつての讃岐鉄道の一部の路線を引き継いでいます。かつて、旧多度津駅から丸亀駅方面に向かう讃岐鉄道の列車は、旧多度津水産高校の裏付近で引き込み線から分岐して、現在のJR予讃線に合流していました。今回は、水産高校の跡地から合流点付近までの1kmぐらいの区間を歩きました。

JR多度津駅にあった現在の市街地図です。左下(南西)から出た引き込み線は、大きく右にカーブしてJR多度津駅に向かっています。讃岐鉄道の列車はまっすぐ地図の中央上部で、現在のJR予讃線と合流していました。この道は、現在、堀江三丁目から堀江四丁目に向かっています。

旧多度津水産高校の校舎の先で、引き込み線は右カーブして進みます。一方、電柱の間に見える道路は、この先まっすぐJR予讃線に向かっています。この道を進みます。

すぐ、小さな交差点になります。右折すると、「春日天満両宮」と扁額に記された神社を経て、予讃線の豊原踏切を渡り多度津跨線橋に行くことができます。このあたりは堀江三丁目になります。

比較的新しい住宅やいちじく畑などの農地が続く道を歩いていきます。

その先に交差点がありました。注意喚起のためか「止まれ」の周囲は赤く塗られていました。左側には、しおかぜ病院が見えました。

交差点から右側100mほどのところに、鴨(かも)踏切(高松から31k679m)とその先のユニコムの工場が見えました。予讃線の線路は右後方から斜めに近づいて来ています。

交差点の先からは堀江四丁目になります。

その先、5分ほどで、右に新開踏切(高松から31k543m)が見えました。予讃線がずいぶん近づいて来たようです。歩いて来た道は、その先で畑地になりました。行き止まりです。新開踏切を抜けた予讃線の列車は通りの正面に進んで行きました。この先が合流点のようです。

交差点を左に迂回して、合流点近くに行って見ることにしました。幸い、農業用の車両が入る道があったので線路近くまで行くことができました。歩いて来た道を振り返ってみました。正面の電柱の下にかすかに道路が見えます。讃岐鉄道の列車は、そこからここに向かっていたのではないでしょうか。
                                           (2018年8月18日)

 

「四国鉄道発祥之地」を歩く

2018年04月13日 | 日記

JR予讃線の駅、多度津駅です。香川県仲多度郡多度津町にあります。前回、多度津駅を訪ねたとき(「JR多度津駅に残るSL全盛期の面影」2018年4月9日の日記)、駅前にあるJR四国が設置した「四国鉄道発祥之地」のモニュメントを見てきました。近くにあった説明には、JR四国は、「明治22(1889)年に讃岐鉄道株式会社(以下「讃岐鉄道」)によって、多度津駅を起点として丸亀駅と琴平駅間15.5kmで営業が始まったのが当社の始まり」だと書かれていました。この讃岐鉄道による開業は四国で2番目のことで、明治21(1889)年、伊予鉄道が松山駅(現在の松山市駅)と三津駅間を開業させたのが最初だといわれています。

これが、そのモニュメントです。説明には、続けて「その頃の多度津駅は、この地点より西へ1kmの、多度津町大通り(JR多度津工場の西側)にあった」と書かれていました。他に2ヶ所に設置されている「四国鉄道発祥之地」があるとのことでしたので、それを確かめたいと思いました。

最初に、讃岐鉄道が開業したときの多度津駅を訪ねようと思いました。現在の多度津駅からまっすぐ駅前通りを進みます。この通りは公的機関が集中しているところでした。交番、香川県立多度津高校、多度津町役場が並んでいます。

香川県立多度津高校です。多度津町にあった、旧多度津工業高校と旧多度津水産高校が統合されて、旧多度津工業高校のあった場所に、新たに設立されました。

多度津町役場は桜川にかかる豊津橋のたもとにあります。まず、多度津町立資料館に寄って情報をいただこうと思いました。橋の手前を右折して進みます。この先で桜川は左に大きく湾曲しています。

右折しました。桜川に沿った、灯籠が並んでいる通りをまっすぐ歩いて行きます。

左に湾曲している桜川が見えなくなると、交差点に入りました。資料館の案内標識が見えました。その下に、二つの石標があります。手前の石標には「多度津町道路元標」と書かれていました。町の道路の起点となる地点を示しているものです。その向こうの石標には「旧多度津陣屋蓮堀(はすぼり)跡」。裏には、「是従 北 幅5間 長さ 百間」と書かれていました。信号の向こうには、江戸時代には多度津藩の蓮堀があり、堀の左側は、陣屋の御殿が広がっていたところです。道路の起点になるのにふさわしいところだと思いました。

信号を右折します。2軒目に多度津藩主京極家の家紋である(多度津町章でもある)「菱四つ目定紋」がついているお宅がありました。ここが元多度津藩士浅見家の邸宅を改造した資料館でした。スタッフの方から多くの情報をいただきました。さて、讃岐鉄道を開業させたのは、景山甚右衛門を中心にした多度津の廻船問屋の人々でした。所有する千石船で行った東京で蒸気機関車を見た甚右衛門は、これからは、天候に左右されず、安全に多数の人を1度に輸送ができる鉄道の時代だと考えたのです。多度津で財力を持っていた経済人とともに讃岐鉄道株式会社を設立し、明治22(1889)年に、多度津を起点に丸亀と琴平とを結ぶ鉄道を開業させました。四国では、冒頭で書いたように、伊予鉄道に次ぐ2番目、全国では9番目の開業でした。

浅見家は、多度津藩では中級武士の家柄だったそうですが、豪壮な武家屋敷の土塀が続く立派な邸宅でした。さて、開業した讃岐鉄道は、上等、中等、下等の3ランクに分かれており、貨車と客車をあわせて4両編成で運行していました。それを、牽引していたのは、ドイツのホーエンツォレル社の蒸気機関車でした。明治30(1897)年には、高松駅まで延伸しましたが、高松方面は営業的には苦しい状況が続いたため、景山甚右衛門は、食堂車をつくり女性を列車ボーイとして配置したといわれています。しかし、苦しい状況は改善されず、明治37(1904)年には山陽鉄道に買収され、さらに2年後の明治39(1906)年には国有化されました。

来た道を引き返します。道路元標があった交差点を過ぎて進みます。左側に極楽橋があるところの右側に、中村医院の建物がありました。大正15(1926)年に建てられた木造2階建てモルタル塗りの洋風の医院建築で、国の登録有形文化財に登録されています。写真の山本医院の建物の左側は、JR多度津工場の敷地になっていました。

通りの右側に機関車の動輪が見えました。「四国旅客鉄道株式会社 多度津工場」と書かれています。JR四国唯一の車両工場で、JR四国の全車両の点検整備や改造を行っているところです。

正門から見た内部の状況です。讃岐鉄道の時代から、初代の多度津駅に隣接してつくられていた整備工場です。平成21(2009)年に「近代化産業遺産」(経済産業省)に認定され、平成24(2012)年に登録有形文化財(文化庁)に登録された7つの建物が今も使用されています。最古のものは、明治21(1888)年に建設された、開業時の建物だそうです。

その先、左側にあった須賀金刀比羅神社です。「昔、金毘羅汐川の神事、此の地にて執り行へり 因ってこの社を建つ(「西讃府志」)と誌された由緒ある古社であり、海水と海藻を琴平の本宮に奉仕する儀式を伝承し、現在に至る」と「説明」に書かれていました。また、裏を流れる桜川の岸には「金毘羅大権現 御上陸された場と伝えられる」と書かれた石標が建っていました。資料館でいただいた「江戸末期の陣屋」という屋敷割図には、現在の多度津町民会館があるあたりまで、道路を越えて神域が広がっていました。明治23(1890)年に道路が開通したときに、現在のようになったそうです。讃岐鉄道は、江戸時代に藩によって整備された多度津港に上陸した参拝客や物資の輸送のために開業された鉄道でした。

金毘羅宮の向かい側、そして、JR多度津工場の並びに、「多度津町民会館」が広々とした敷地の中にありました。ここに、讃岐鉄道の初代の多度津駅がありました。丸亀駅からやって来た列車は、琴平駅に向かってスイッチバック(引き返し)で進み、旧多度津水産高校の校舎跡付近で右にカーブして琴平駅方面に向かっていました。資料館に展示されていた駅舎の模型から、2階建てで、1階に多度津駅、2階に讃岐鉄道の本社が置かれていたことがわかります。1階部分には、駅舎の中央から入り、右側に「上・中等待合室」その先に「貨物取扱室」が、左側には「下等待合室」とその先に「駅長室」が置かれていました。入口からまっすぐ進むと改札がありその先がホームになっていました。2階の本社のエリアには、社長室、応接室、事務室、技術室、宿直室、トイレなどが置かれていたようです。

2つ目の「四國鐵道発祥之地 讃岐鐵道多度津驛趾」の石標が、広い駐車場の右側の芝生の上にありました。平成2(1990)年に町政施行百周年を記念して建立したそうです。裏には「明治22年5月23日 多度津を起点に丸亀・琴平間に鉄道が開業された」と刻まれていました。

隣には、「母がいる港」の石碑がありました。「星野哲郎作詞 船村徹作曲」とありました。これも町政施行百年の記念事業の一環だったようです。


3つ目の「四国鉄道発祥之地」の碑を確認するため、JR多度駅にもどり、土讃線の列車で同じ香川県仲多度郡にある琴平駅に向かうつもりでした。土讃線は、起点である多度津駅と琴平駅の間だけが電化区間になっています。高松駅から来た電車、”サンポート高松号”に乗車しました。琴平では、金毘羅宮に参拝する人々の輸送を目的に、戦前の昭和5(1930)年から昭和19(1944)年までは、4社の鉄道の琴平駅が競合していました。

多度津駅から15分ちょっとでJR琴平駅に着きました。琴平の町は、日本最古の芝居小屋である金丸座で開かれる金毘羅大芝居で盛り上がっていました。駅前にもたくさんの幟(のぼり)が立っています。琴平は江戸時代には寺社領、隣の榎内村は天領(幕府領)であったため、芝居の興行も比較的やりやすかったといわれ、年3回の興行のたびに「仮り小屋」をつくっていました。天保6(1835)年に、金丸座が建てられてからは、江戸や大坂の千両役者が舞台を踏むなど全国に知られる芝居小屋になっていました。金丸座は、昭和45(1970)年、国の重要文化財に指定されています。

駅舎を出て駅前通りを撮影しました。この道をまっすぐ進み、正面の道を左折して進むのが、金毘羅宮への参拝客のルートです。横断歩道の先に灯籠が並んでいます。

灯籠の間に蒸気機関車(SL)の動輪が見えました。

その動輪の下に、「四国鉄道発祥之地」のプレートがありました。3つ目の「四国鉄道発祥之地」の碑です。

このモニュメントは、昭和47(1972)年に設置されました。「シゴハチの動輪」というテーマで、讃岐鉄道が開業させたこと、昭和45(1970)年にSLが廃止され、四国の鉄道無煙化が達成されたことが、琴平町長と駅長の連名で記されていました。展示されていたのは、「シゴハチ」の愛称で知られるC58形蒸気機関車(SL)の動輪でした。

駅前の通りをまっすぐに歩いていきます。右側の高灯籠のある公園に、高松琴平電鉄の琴平駅がありました。昭和2(1927)年の開業時には、2階建ての大規模駅舎で2階はレストランになっていたようですが、レストランは太平洋戦争中に閉店したそうです。写真の駅舎が使用され始めたのは、昭和63(1988)年5月26日のことでした。

高松琴平電鉄の琴平駅を過ぎてすぐ、琴平の町の中心を流れる金倉川に架かる大宮橋を渡ります。

大宮橋を渡ったところで、琴平電鉄の琴平駅方面を振り返って撮影しました。左に高灯籠が、右側に高松琴平電鉄の琴平駅が見えました。

その先にある左右の通りとの交差点の手前にある琴平郵便局です。ここにもかつて鉄道の駅舎が置かれていました。戦前から、四国に上陸した参拝客の輸送のため、4社の鉄道会社がしのぎを削っていましたが、琴平郵便局の敷地には、坂出からの参拝客を輸送した琴平急行電鉄の琴平駅がありました。

正面左右を走る通りの先に、”ことひら温泉琴参閣”の建物が見えました。右側の青い建物は琴平郵便局です。JR四国が「本社の始まり」とした讃岐鉄道の琴平駅は、この観光旅館の場所にありました。明治37(1904)年、山陽鉄道が讃岐鉄道を買収してからは同社の駅となり、明治39(1906)年に国有化されてからは国有鉄道の駅になりました。そして、その国有鉄道が、大正11(1922)年11月、土讃線を阿波池田駅まで延伸させたとき、琴平駅は現在のJR琴平駅のある場所に移設されたのです。旧駅舎があったところには、新たに丸亀と多度津からの参拝客を輸送した琴平参宮電鉄の琴平駅が設けられました。そして、琴平参宮電鉄が、昭和38(1963)年に鉄道事業を廃止した後、駅跡地には”ことひら温泉琴参閣”が建設されたのです。

これは、10年ほど前に撮影したJR琴平駅の写真です。前面には「琴平駅」という駅名標がついていました。

こちらは、現在のJR琴平駅です。駅名標は撤去され、駅舎の塗装も新しくなっています。耐震補強工事が平成28(2016)年に完工し、翌年の平成29(2017)年には、琴平駅がこの地に移ってきたとき(大正11=1922年)の外観に復元されました。美しく、品格のある駅に生まれ変わっています。


多度津駅と多度津町民会館(旧多度津駅跡)、琴平駅にあった、3つの「四国鉄道発祥之地」を訪ねてきました。
明治22(1889)年の讃岐鉄道の開業時に始まる鉄道発祥の時期を彩る由緒ある3つの駅。その後の発展はそれぞれ違いましたが、いずれも長い歴史を誇る、訪ねて楽しいところでした。



















JR多度津駅に残るSL全盛期の面影

2018年04月09日 | 日記

JR予讃線のJR多度津駅です。香川県仲多度郡多度津町にあります。この駅からJR高知駅を経由して、JR窪川駅(高知県高岡郡四万十町)に至る、全長198.7kmのJR土讃線の起点となる駅でもあります。

多度津駅前に展示してあった蒸気機関車(以下「SL」)の動輪のモニュメントです。四国に全国で活躍している本格的なSLがやって来たのは昭和10(1936)年のことでした。それ以後、四国で鉄道の完全無煙化(SLの廃止)が達成された昭和45(1970)年4月1日までの35年間にわたって、四国の産業や文化の発展のために働いた功労者でした。

動輪の脇につけられていたプレートには「四国鉄道発祥之地」と書かれていました。近くにあったJR四国の「説明板」には、「明治22(1889)年に讃岐鉄道株式会社によって、多度津駅を起点にして丸亀駅と琴平駅間、15.5kmで営業が始まったのが当社の始まりです。」と書かれています。そして「そのころの多度津駅は、この地点より西へ1km、多度津町大通り(JR多度津工場の西側)にありました。その後、大正2(1913)年12月、現在地に移転されました」と書かれていました。

開業当時は多度津駅から琴平駅方面に行くときスイッチバック(折り返し)で出て行く構造になっていましたが、大正2(1913)年、多度津駅が現在地に移設されて、スイッチバックが解消されました。「説明板」によれば、この動輪のモニュメントは、8620形のSLのもので、鉄道開通80周年(昭和44=1969年)を記念して、旧讃岐鉄道の多度津駅の跡地に設置していたものを、平成元(1989)年に、現在地に移転し永久保存している」ということでした。その後、讃岐鉄道は、山陽鉄道に買収され、その山陽鉄道は、明治39(1906)年に国有化されました。その後、延伸し、予讃線、土讃線へと発展していきました。

しかし、実際には、四国で最初に鉄道を開業させたのは伊予鉄道会社で、全国で2番目の開業でした。伊予鉄道が、讃岐鉄道よりも1年早い明治21(1888)年に、松山駅(現松山市駅)と三津駅間を開通させたのが、四国で最初の鉄道の開業でした。伊予鉄道が、民間鉄道のままであったのに対し、讃岐鉄道は後に国有化されて、その後に四国の鉄道は飛躍的に整備が進んでいくことになりました。現在のJR四国の始まりは、そもそも讃岐鉄道であり、丸亀駅・多度津駅・琴平駅間の開業であったということから、「四国鉄道発祥の地」といわれているようです。


この日は、JR多度津駅に残るSL全盛時代の面影を訪ねるため、岡山駅から”快速マリンライナー”に乗車して、香川県に入って最初の駅である坂出(さかいで)駅にやってきました。

坂出駅・多度津駅間の予讃線は、複線電化区間になっています。琴平行きの7200系電車の7319号車(多度津側)と7219号車(高松側)の2両編成の列車で多度津駅に向かいました。7200形電車は、国鉄分割民営化直前に、旧国鉄によって2両編成(クモハ121形+クハ120形)の19本が製造された車両。2両の固定編成で運用されています。平成28(2016)年からの老朽化による改造後には、7200形+7300形に改番されています。

坂出駅から15分ぐらいで、多度津駅に着きました。

動輪のモニュメントがある駅前広場。今は、鉄道を跨ぐ新しい横断陸橋(栄町地区緊急避難路)が完成していました。平成30年3月26日の正午に開通したそうです。

駅前から延びる通りの交差点です。まっすぐ行くと、右側に多度津交番や香川県立多度津高校の建物が並んでいます。駅前の交差点を右折すると、展示されているSLの姿が見えてきます。

展示されていたSL58685号機です。「説明板」によれば、「大正11(1922)年10月30日、汽車製造会社で製造されたテンダー機関車で、製造費は96,500円。最高速度は時速80km。大正11年から昭和45(1970)年までの48年間の走行距離は、2,643,771.5kmで、地球を約66周分ぐらいの距離を走った」SLだそうです。

「多度津町制施行80周年にあたり保存することにした」と、当時の信濃勇町長の名で刻まれていました。

駅舎に引き返して駅舎に沿って松山方面に向かって歩きます。駅舎の並びにあったパン屋さんの前を通って進むと、すぐに鉄道を跨ぐ横断陸橋がありました。写真は振り返って駅舎やパン屋さんを撮影しました。駅舎の向こうに見えているのは、栄町地区緊急避難路です。

横断陸橋に上り口にあった案内です。「平成30年3月26日の栄町地区緊急避難路の開通後に閉鎖します」と書かれていました。この横断陸橋はすでに役割を終えていました。 右側にあるのが煉瓦づくりの給水塔。 その奥にある鉄骨製の給水塔とともに、平成24(1012)年に、国の登録有形文化財に登録されています。窓の上部には、花こう岩の切石の装飾が見えます。装飾部分の下の窓が破損しており応急的な修理が施されていました。

この写真は、以前多度津駅を訪ねたときに横断陸橋の上から撮影したものです。陸橋の右側にある擬宝珠のデザインが魅力的でした。擬宝珠の下は信号機を支える柱になっていました。白く見えるのは時計です。そして、正面にあるのが煉瓦造りの給水塔の上部、コンクリート製の貯水槽です。左側は鉄骨製の脚部をもっている給水塔です。SLにとって燃料となる石炭と並ぶ必需品である水を、補給するための施設でした。

閉鎖された横断陸橋の上から見た新しい横断陸橋、栄町緊急避難路、そして駅舎とホームです。

二つの給水塔の近くに来ました。煉瓦造りの給水塔です。高さは10.6mあります。大正2(1913)年、讃岐鉄道の多度津駅が以前の場所から現在地に移設されたときにつくられた給水塔でした。煉瓦を直径4.8mの円形に組み、上部にコンクリート製の貯水槽を載せています。頂の部分には傘石を巡らせていること、煉瓦造りの円筒形の部分の窓と出入口には花こう岩製の切石をはめて、装飾を施していることに特色があります。

見えにくいのですが、出入口につくられていた切石でできた装飾です。裏側にも同じ装飾があり、先ほど見た窓になっています。

右側が鉄骨製の給水塔です。正確な製造年は明確ではありませんが、昭和初期に設置されたといわれています。古レールを組み合わせてつくった脚部の上に鋼板をつないで貯水槽を据えて、その上に、木造鉄板葺きの八角形の屋根を載せています。直径4.5mで高さは11.5mの施設だそうです。こちらの給水塔はシンプルな構造で、装飾はいっさいなく実用第一でつくられています。時代の流れを感じさせてくれています。それぞれの給水塔が当時のまま残っており、「再現することが容易ではもの」ことを理由として登録有形文化財に登録されているのも理解できます。

多度津駅の構内には、もう一つ、給水塔と同じ平成24(2012)年に8月13日に登録有形文化財に登録されたものがありました。転車台です。SLが主力だった時代に方向転換するために使われた施設です。多度津駅には戦前から続く機関区が置かれていましたので、頻繁に使用されていたはずです。ホームを通りかかった乗務員さんにお聞きしますと「あの車庫の向こうにありますよ」とのこと。写真がその車庫です。ホームからは松山方面に向かって右側に見えました。このときは、ディーゼル機関車が入庫しているようでした。

近くに行ってみようと思い、給水塔の先に行って見ましたが、見ることができません。JR社員以外入れないところに入っていくことはマナーに反します。道路に出て、その先にある線路を跨ぐ跨線橋の上に向かいました。写真が跨線橋の上から見た転車台です。運転台と円形の石積みの一部が見えました。でも、全景は見ることができませんでした。
 
転車台を地上から見ようとしたのですが、これが精いっぱいのようです。登録有形文化財の転車台は、直径18.5m。地上から0.8m掘り下げて、側面に花こう岩の切石を積んでつくられているようです。全国的にもめずらしい石造のピットの転車台だといわれています。


JR多度津駅は、明治22(1889)年に設置された「四国鉄道発祥の地」で、現在の地に移ってきたのは、大正2(1913)年、観音寺駅まで延伸したときでした。SL時代を彷彿させる、登録有形文化財に登録された給水塔と転車台が残る駅でした。