トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR智頭駅を訪ねる

2017年12月16日 | 日記
JR山陽本線の上郡(かみごおり)駅と鳥取県の鳥取駅を結ぶ、全長56.1kmの、第三セクターの鉄道があります。智頭急行智頭線です。
写真は、前回訪ねた(「訪問客を待つピンク色の駅、智頭鉄道恋山形駅」2017年11月3日の日記)智頭急行智頭線にある恋山形(こいやまがた)駅です。

ハートの形をした「恋山形駅」の駅名標です。日本には「恋」の字がつく鉄道駅が4駅あるそうです。母恋駅(ぼこいえき・JR室蘭本線)、恋し浜駅(こいしはまえき・三陸鉄道南リアス線)、恋窪駅(こいくぼえき・西武鉄道国分寺線)と、この恋山形駅の4つです。この4つの駅は連携して、駅や駅の所在する地域の活性化に努めています。

恋山形駅の特徴は、「恋」から連想されるピンク色に、駅全体が塗装されていることです。そのほかにも恋にまつわる様々な仕掛けをつくって、多くの訪問客を待っています。恋山形駅は、鳥取県八頭(やず)郡智頭町大内にあります。

この日は、鳥取駅に向かって、恋山形駅の次にある智頭駅を訪ねることにしていました。早朝に起き出して岡山駅の3番ホームに向かいました。鳥取駅行きの特急”スーパーいなば”が入ってきました。キハ1871504(自由席)とキハ187504号車(指定席)の2両編成でした。

自由席に乗車しました。時間が早いせいか、乗客の出足は遅く、半分に満たない乗車率でした。途中のJR上郡駅で進行方向が反対になり、クロスシートを方向転換させて進んで行きました。さて、智頭急行智頭線は、明治25(1892)年に始まった鉄道敷設運動が、敷設に向けてのスタートでした。江戸時代に鳥取藩主池田家が参勤交代に使っていた因幡街道に沿ったルートで、明治時代の鉄道敷設法には「兵庫県姫路から鳥取県鳥取に至る鉄道」と定められていました。その後、山陰へ向かう鉄道は和田山から建設されることになり、姫路からの敷設は白紙に戻ってしまいました。

岡山駅から1時間20分。JR智頭駅までやってきました。智頭急行智頭線とJR因美線の合流点になっています。40kmの制限速度の標識の脇をまっすぐ進むと、行き止まりの頭端式、1面2線の智頭急行智頭線のホームに向かいます。”スーパーいなば”は鳥取駅行きですので、左の線路に進み、JR智頭駅の2番ホームに向かって進んで行きます。智頭急行智頭線の敷設に向けては、大正11(1922)年に、改正された鉄道敷設法で「上郡から佐用を経て智頭に至る鉄道」と規定されましたが、太平洋戦争のため実現には至りませんでした。

戦前から始まっていた鉄道の敷設を求める運動は戦後も引き継がれ、昭和44(1966)年になって、当時の運輸大臣から、上郡・智頭間の「工事実施計画」の許可を受けることができました。その年には工事に着手されましたが、昭和55(1980)年、国鉄末期に成立した「国鉄再建法」によって、またもや中止に追い込まれてしまいました。敷設のために残された道は、地方自治体による第三セクター方式での開業だけでした。そして、昭和58(1983)年に就任した西尾邑次鳥取県知事によって第三セクターによる建設への道筋がつき、同年6月に工事が再開されました。こうした、地元の人々の熱意と粘り強い努力によって、平成6(1944)年、第三セクター鉄道として開業したのが智頭急行智頭線でした。
さて、写真のように、JR智頭駅は2面3線のホームになっています。上郡駅から、高架上に敷設されたルートを、時速120kmで疾走してきた”スーパーいなば”は、右側にある駅舎側から二つ目の島式ホームに、定時の8時09分に到着しました。

智頭駅の駅名標です。鳥取県八頭郡智頭町大字智頭字六地蔵にあります。駅名の「智頭」は「ちず」と表記されています。駅名は「ちず」なのですが、町名の「智頭」は「ちづ」と表記されるそうです。JR因美線の土師(はじ)駅から3.7km、次の因幡社(いなばやしろ)駅まで7.0kmのところにあります。

下車しました。2番ホームに停車中の”スーパーいなば”です。”いなば”の向こうに見えるのは、8時30分発の鳥取駅行きのJRの普通列車です。駅舎に面した1番ホームに停車していました。

”スーパーいなば”の停車している2番ホームの向かいにある3番ホームには、8時15分発の因美線津山駅行きの列車が出発を待っていました。

この写真は、列車が出発していった後に撮影した2番、3番ホームです。上郡方面には木造の待合室が設けられています。このJR智頭駅は、大正12(1923)年に、国有鉄道因美線の用瀬(もちがせ)駅・智頭駅間が延伸開業したときに開業しました。ホームの上屋を支える美しい木組みの梁が当時も面影を伝えています。

駅舎へは、跨線橋を渡って行きます。トンネルのような通路が続く、冬季の風と雪を想定したつくりになっていました。

階段を上りきったところの両側に、1ヶ所だけ設けられた窓がありました、もちろん、ガラスがあって外気が遮断されています。木造の弧線橋の通路です。

跨線橋の窓から見た鳥取駅方面の光景です。このとき、ここまで、乗車してきた特急”スーパーいなば”が、次の停車駅である郡家(こおげ)駅に向かって出発して行きました。

跨線橋から降りて、1番ホームに出ました。8時30分発の鳥取駅行きのJRの普通列車が停車していました。このまま、ホームのさきにある智頭急行智頭線のホームに向かいます。

JR智頭駅の改札口を過ぎてから、鳥取駅方面を撮影しました。渡ってきた跨線橋の堂々とした姿に見とれてしまいました。

その先にあった智頭急行の改札口です。出入口に木造の駅名標がありました。墨で手書きされた「智頭駅 智頭急行株式会社」の一枚板の駅名標でした。

頭端式のホームです。車止めもありました。上郡から智頭までの駅名と主な見処が描かれていました。

もう少し進んでから、振り返って鳥取駅方面を撮影しました。右側の白いビルは、智頭急行智頭駅の入るビルです。1番ホームは、JRと智頭急行の共用になっています。

1番ホームから見た因美線の土師駅、智頭急行の恋山形駅方面です。線路を跨いで、駅の両側を結ぶ連絡通路がありました。

智頭急行かJRか迷ったのですが、JR智頭駅舎に、乗車券と特急券をお渡しして入りました。JR智頭駅は大正12(1923)年の開業以来、今年で94年目を迎えています。内部も改修されていて、すっきりとした雰囲気になっています。正面左がホームへの出口。出口の脇には「1番 岡山駅(赤色で表示) 2番 鳥取駅(赤色で表示) 3番 津山駅(黒色で表示)」と次の列車の到着ホームが案内されています。赤色で書かれているのが特急列車で、黒色が普通列車のようです。その手前の左側が駅事務所。JR智頭駅は鳥取鉄道部が管理する直営駅で、駅員さんが勤務されています。されに手前には自動券売機と運賃表が見えます。床面には点字ブロックも設置されています。

駅舎の右側の部分です。ベンチが並んでいます。全面の壁に時刻表が掲示されています。特急列車(赤色)と普通列車がほぼ拮抗しています。他に、智頭駅が終点になる列車もあります。

智頭急行は、”第三セクターの優等生”といわれるほど経営が安定した鉄道で知られています。その原動力が、二つの特急列車だといわれています。JR京都駅からJR大阪駅・山陽本線を経由して智頭急行に入りJR鳥取駅に向かう”スーパーはくと”と、JR岡山駅から智頭急行に入りJR鳥取駅に向かう”スーパーいなば”の二つです。

駅舎の隅につくられていた「やすらぎの庭」です。平成29年11月、智頭町唯一の高校、鳥取県立智頭農林高校の生活環境科住環境コースの生徒がつくられたものです。智頭の町を代表する千代川の流れや、牛臥山(うしふせやま)、名産の智頭杉などを表現しているそうです。駅舎内での潤いの空間になっています。なお、智頭農林高校は、昭和14(1939)年に開校された智頭実業専修学校を前身とする、70年以上の歴史を有する高等学校です。

駅舎から外へ出ました。木造平屋建ての駅舎です。切り妻の屋根に赤色の桟瓦葺き、壁面は白い下見板張り、駅舎入口の「智頭駅」の赤色が印象的です。駅舎の右側のトイレの向こうには跨線橋が見えます。

駅舎前にある庭園。樹木の手入れも行き届いています。「智頭駅開業70周年」の碑もつくられていました。ここにも潤いの空間がありました。

JR智頭駅舎に隣接している白い建物が、智頭急行の智頭駅です。

智頭急行の駅舎の入口です。こちら側にも、墨書きの「智頭駅」の駅名標が架かっていました。

駅前広場です。現在は右側の白い建物に、智頭急行の本社が入居しているそうです。その向こうに智頭町役場の白い建物が見えました。

駅前にある観光案内所。智頭町観光協会も入居しています。

JR智頭駅と智頭急行智頭線の智頭駅を訪ねました。智頭の町は、江戸時代、鳥取藩の参勤交代の道であった智頭街道と美作国の津山藩からの備前街道が合流する宿場町、商業町として栄えたところです。次は、これら旧街道を歩いてみようと思っています。





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