トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR板東駅から霊山寺、ドイツ橋を訪ねる

2018年03月24日 | 日記

JR高徳線の板東駅の駅舎です。板東駅の近くには、「四国八十八ヶ所霊場」の1番札所、霊山寺(りょうぜんじ)があります。また、第一次世界大戦中に、日本軍の捕虜になったドイツ兵を収容した板東ドイツ軍俘虜(ふりょ)収容所の跡も近くにあります。ドイツ兵の捕虜約1,000人が収容された板東俘虜収容所では、所長である松江豊寿(とよひさ)陸軍中佐(1917年以後大佐)のリーダーシップにより、捕虜に対して公正で寛大、人道的で友好的な対応が行われました。ドイツ兵たちは、村人にドイツの進んだ技術を伝えるとともに、音楽やスポーツなどを通して交流しました。ドイツ兵捕虜は地元の人たちへの感謝の気持ちを込めて、すぐれた土木技術を活かして、10の橋を建設しました。現在も、その時につくられた ”ドイツ橋”と”めがね橋”が当時の姿のまま残っています。この日は、JR高徳線の板東駅とその周辺を歩くことにしました。

高松駅を10時02分に出発した徳島駅行きの普通列車は、1500形車両の2両編成でしたが、後ろ側の車両は「回送扱い」になっており、実質1両での運用でした。列車は、11時30分過ぎに、JR板東駅の構内に入りました。板東駅は2面2線のホームをもった駅で、駅舎は徳島方面に向かって左側に設置されています。列車は目の前のポイントを左に進み、やがて駅舎前のホーム(1番ホーム)に停車しました。1番ホームは、行き違いがあるときだけ使用されるようです。上り列車も下り列車も、そして通過する特急列車も、基本的に2番ホームを使用する、いわゆる「一線スルー」になっています。

乗車してきた1500形車両です。排気ガス中のチッ素化合物を60%削減したという環境に優しい、JR四国が誇るエコ車両です。平成18(2006)年から平成26(2014)年まで、合計34両が製造されました。先頭の1507号車は、平成18(2006)年に第1次車として製造された車両です。

後ろ側、「回送扱い」になっていた1566号車です。こちらは、第7次車として、平成25(2013)年に1567号車とともに近畿車輛で製造されました。ちなみに、1500形車両は第7次車の2両以外はすべて新潟トランシス(新潟鉄工)で製造されています。花満開のホームと春の日射しにマッチした美しい車両です。

行き違いのため停車している列車の前に戻りました。2つのホームは跨線橋でつながっています。その先は、前回訪ねたJR池谷(いけのたに)駅方面の光景です。池谷駅は線路の間に駅舎が設けられているユニークな構造の駅として知られています(「ホームの間に駅舎と祠のある駅、JR池谷駅」2018年3月9日の日記)。

板東駅は、高松駅側の阿波川端(あわかわばた)駅から2.3km、次の池谷駅まで2.1kmのところ、鳴門市大麻(おおあさ)町辻見堂にあります。大正12(1923)年2月15日、当時の阿波電軌軌道(後の阿波鉄道)が、池谷駅と、高松駅方面の板野駅を経由して鍛冶屋原駅までを開通させたときに開業しました。その後、昭和8(1933)年の阿波鉄道の国有化に伴い、鉄道省阿波線の駅となり、昭和10(1935)年、高松・徳島線が全通したことで、名称が変更され高徳本線の駅になりました。乗車してきた徳島駅行きの普通列車は、乗車される方のいないまま出発して行きました。

ホームにあった「大麻比古(おおあさひこ)神社」の鳥居です。二つのホームにそれぞれ設置されていました。平安時代の「延喜式神名帳」にもその名がある阿波国一宮で、阿波、淡路両国の総鎮守として、この地域の人々の崇敬されてきた神社です。”ドイツ橋”と”めがね橋”は、この大麻比古神社の境内にあります。

駅舎の一角にあったトイレです。入口には暖簾が掛かっていました。地元の皆さんがかけられたものなのでしょう。

駅舎に接して置かれていた木製の庇とベンチです。

駅舎の内部です。板東駅は四国八十八ヶ所の1番札所である霊山寺の最寄り駅ですが、列車を使ってお詣りされる方は、「歩き遍路」の方だけなのでしょうか、1日当たりの乗車人員は182人(2014年)で、無人駅になっていました。ごみ一つない清潔感あふれる駅舎です。ベンチの上に置かれた真っ白な座布団。これにも、地元の方々のお心遣いを感じます。

こちらは、駅事務所があったところです。現在は、一面すべてが掲示板になっています。地元の人が書かれたお遍路に関する情報がたくさん掲載されています。無人駅のため、自動券売機が設置されていました。

自動券売機の脇にあった時刻表です。1時間に1、2本の割で運行されていますが、停車する特急列車はありませんでした。ただ、大麻比古神社への参拝客の輸送のため、正月3ヶ日だけは、特急列車が停車することになっているそうです。

これは、跨線橋から見た駅舎です。屋根に箱棟が乗っています。どっしりとした、堂々たる駅舎になっています。切妻の壁の部分の白さが目に染みます。

駅前の広場から見た駅舎です。高松駅寄りには自転車が並んでいます。

駅舎の壁に掲示されている観光案内の地図と説明です。霊山寺、大麻比古神社、”ドイツ橋”も掲載されていました。

駅への取付道路を進みます。突きあたりの商家のシャッターに、左から「四国霊場八十八箇所 祈願 世界文化遺産登録」と書かれています。1番札所霊山寺への道であることを確認することができます。世界文化遺産登録をめざした動きを支援しておられるようです。

街灯のポールに「ばんどう門前通り」と記されています。板東駅前から霊山寺に向かう道をこのように呼んでいます。

突きあたりのお宅の前で左折します。左側の食堂(元木屋旅館)の看板には「うどん 寿し 中華そば 定食」と書かれています。八十八ヶ所を巡るお遍路さんのための食事処のようです。

左側奥にあった板東小学校を越えて、「ばんどう門前通り」をさらに進みます。「昭和の香りがする通り」だといわれていますが、建て替えられているお宅も多く、新興住宅地のような雰囲気を感じながら歩きました。その中で、最も印象に残ったのが、三差路の手前右側にあった「昭和の香りが漂う」このお宅でした。玄関には「寄り合いお接待 一番さんの縁どころ」の看板がありました。今はコミュニティハウスのように使用されているようです。入口には、国の「登録有形文化財」の登録証が掲示されていました。

三差路の右側に、「大麻比古神社」と刻まれた石柱が見えました。裏には、「明治十八乙酉年七月建立」と刻まれていました。

右折します。通りの両側の石柱がありました。右側に「四国第一番」(裏側には「昭和三戊辰三月吉日」 現住 智全代)、左側に「霊場 霊山寺」(裏側には、4人の発起人・12人の世話人の名前の下に「板東町 石工 森下盈雄 作」)と刻まれています。昭和3年3月、当時の住職智全さんの代に、建立されたもののようです。 霊山寺への参道になります。正面に霊山寺の山門(仁王門)が見えました。霊山寺は、天平年間(729年~749年)の創建で本尊は釈迦如来。竺和(じくわ)山一乗院霊山寺というそうです。弘仁6(815)年、空海(弘法大師)がこの地を訪れ、21日間滞在して修行したとき、天竺(インド)の霊山である霊鷲山を和(日本)に移すという意味で竺和山霊山寺と名づけたといわれています。

10分ぐらいで、霊山寺の入母屋造りの山門前に着きました。山門の入口にお遍路さんのオブジェ、左の土塀の上に多宝塔が見えました。多宝塔は応永年間(1394年~1428年)の創建といわれています。

1番札所である霊山寺には、お遍路を始める人のために「総合案内所」が設置されています。山門の右側の広い駐車場の脇にあり、お遍路に関する相談に応じるとともに、お遍路の衣装や杖、御朱印帳・掛け軸など札所で使用する物品の販売を行っています。

大麻比古神社に向かいます。板東駅のホームにも鳥居が設けられていたように、「大麻さん」と呼ばれて、地元の人たちの崇敬を受けている神社です。霊山寺の山門前から左に進んで行きます。

霊山寺から5分。高速道路(高松道)の下の通路の先に赤い鳥居の足が見えてきました。

高松道の下をくぐって向こう側に出ました。大麻比古神社の大鳥居がありました。大麻比古神社は天太玉命(あめのふとだまのみこと・大麻比古神)を祭神としています。「説明」には「大麻比古神社御由緒」には、神武天皇の時代、「天太玉命の孫の天冨命(あめのとみのみこと)が阿波国に移り住み、麻や楮(こうぞ)の種を播いてこの地を開拓し、麻布や木綿を生産し民の生活を豊かにしたため、祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波の守護神として祀ったのが始まり」だと書かれていました。

その先は、寄進された灯籠が両側に並ぶ参道になります。歩いても歩いても続いている灯籠の参道。大麻比古神社は正月三日間で、23万人の人々が参拝されるそうです。その時には、この道もずいぶん賑わうことでしょう。

灯籠の並ぶ参道を歩くこと10分。板東谷川に架かる祓川(はらいかわ)橋に着きました。この先に見える鳥居の向こうからが神域となります。

樹齢1,000年以上といわれる大麻比古神社のシンボル、「大楠」です。「目通り8.3m、樹高、22m」といわれる大きな楠の木の先に本殿がありました。

本殿です。大麻比古神社は、江戸時代には、徳島藩主、蜂須賀氏の庇護を受けてきましたが、現在の本殿は、その後、明治13(1880)年に国費で造営されたときのものです。本堂は改修中のようでした。

お詣りを終えてから、もう一つ訪ねることにしていた”ドイツ橋”に向かいます。お守りやおみくじの授与所(右側)と社務所(左側)の間を通り、すぐに右折して授与所の裏を進みます。

授与所を越えたあたりに2つの案内板がありました。左にあった「ドイツ橋」の案内板、右側にあった「めがね橋」の案内板です。手前にあった「めがね橋」を先に見学することにしました。

「めがね橋」はその名前どおりの二重橋(2連アーチ橋)でした。大正8(1919)年4月に、小さな谷の上に、捕虜であったドイツ兵によってつくられた石橋です。モルタルなどの接着用材を一切使わずにつくられた本格的な二重橋でした。長さ4.3m、幅1.2m、近くで採石された撫養石(むやいし・和泉砂岩)を積んで築いた二重橋でした。現在も上部を歩くことができるそうです。

板東俘虜収容所長の松江豊寿(とよひさ)大佐は、戊辰(ぼしん)戦争で敗れた会津藩士の子として生まれました。そのため、戦争で降伏した人たちの苦しみや悲しみをよく知っていました。捕虜となったドイツ兵を、「祖国を遠く離れた中国の青島(チンタオ)で最後まで闘った戦士」と称え、人道的で友好的な措置を行った人でした。人口約500人の村にやって来た約1,000人のドイツ兵捕虜は、村人に西欧の技術を伝えるとともに、音楽やスポーツを通して交流しました。友好的に接してくれた収容所のスタッフや村人への感謝の気持ちを込めて、卓越した土木技術を活かして4つの石橋と6つの木の橋を建造しました。「めがね橋」もその一つでした。大麻比古神社では、そんなドイツ兵の気持ちを称え、平成4(1992)年3月「神域を拡大し周辺の整備を行い、この池を『心願の鏡池』と名づけた」(説明分)といわれています。「めがね橋」は、その時に、現在の地に移設されたそうです。

先程の道に戻り、さらに進みましたが、柵が設けられていて前に進むことができなくなりました。柵の先が”ドイツ橋”でした。保存のために通行禁止になっているのです。左側にある迂回路に入ります。

迂回路から見た”ドイツ橋”です。大正8(1919)年6月28日、各国がベルサイユ条約に調印し第一次世界大戦は終結しました。捕虜は解放されることになりました。ドイツ兵は、木の橋が架かっていた大麻比古神社境内の丸山公園に、内面に180個、全体で3000個の撫養石(和泉砂岩)を積み上げ、大正8年(1919)年7月27日にアーチ橋である”ドイツ橋”を完成させました。「全長9m、横幅2.1m、高さ3.2mで総重量195トン」と説明板には書かれていました。結果的に、”ドイツ橋”はドイツ兵捕虜が築いた最後の橋になりました。そして、現在では建設から100年を経て、現存する唯一のアーチ橋になっています。

橋の脇にあった石標です。「独逸橋」「どい津橋」と読めます。石標の姿に、時の経過を感じることができます。

大正8(1919)年12月25日、正午の最終点呼の後、板東俘虜収容所に収容されていたドイツ兵は解放され、13時に収容所を行進しながら出て行ったそうです。その姿を、板東の村人たちは総出で見送ったといわれています。

次回は、板東俘虜収容所の跡地と、ドイツ兵捕虜と板東村の人々との交流のようすを伝える「ドイツ館」を訪ねてみようと思っています。







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