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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

訪問客を待つピンク色の駅、智頭鉄道恋山形駅

2017年11月03日 | 日記

中国山地の山間(やまあい)に、すべての構造物がピンク色に塗装され、ハートマークに溢れている駅があります。智頭(ちず)急行株式会社(以下「智頭急行」といいます)智頭線の恋山形(こいやまがた)駅です。写真は駅を見下ろす丘から見たその恋山形駅の全景です。平素は、どちらかといえば、山間にひっそりと建っている駅に魅力を感じているのですが、今回は、山間にある明るい駅を訪ねてきました。

JR岡山駅から早朝に出発する、ディーゼル特急”スーパーいなば”に乗車しました。この列車は、自由席1両(キハ1871502号車)と指定席1両(キハ187502号車)の2両編成で、岡山駅からJR山陽本線を大阪方面に向かいます。そして、兵庫県に入って最初の駅であるJR上郡(かみごおり)駅で、第三セクター鉄道である智頭急行智頭線に入って智頭駅に、その後、JR因美線を通ってJR鳥取駅に向かって進みます。この智頭急行と因美線を通って鳥取駅に向かうルートは、江戸時代、鳥取藩が参勤交代のときに通ったルートでもありました。これから訪ねる恋山形駅は、途中の鳥取県八頭郡智頭町大内にあります。上郡駅で、運転士と車掌がそれぞれ反対側に移動して、”スーパーいなば”は、ここまでと反対方向に向かって走ることになります。

智頭急行は、平成6(1994)年12月3日に開業した新しい鉄道で、最近の鉄道らしく、”スーパーいなば”も高架上に設けられた線路を、時速120kmで疾走しています。しかし、恋山形駅には特急列車は停車しません。そのため、大原駅で、智頭駅行きのディーゼルカーの普通列車(HOT3507号車)に乗り継ぎました。この車両は、智頭急行が保有する車両で、形式記号の”HOT”は、英語の”hot”と沿線の兵庫県、岡山県、鳥取県の頭文字を取ってつけられているそうです。

岡山駅を出発してから約1時間20分、杉の大木の前にピンク色をしたホームが見えてきました。恋山形駅です。列車は、そのまままっすぐ進み、右側の2番ホームに停車しました。2面2線の駅でしたが、2番ホームに接した線路がまっすぐ智頭方面に向かっており、通過する特急列車もこちら側の線路を疾走しています。反対側の1番ホームは、行き違いがあるときだけに使用されているようです。

下車した2番ホームです。待合スペースの壁には、ピンク色の壁面に赤いハートのマークが踊っています。ホームの標識もハートの形です。ピンク色が目立つホームですが、これは白色でした。

恋山形駅は、平成6(1994)年の智頭急行の開業時に設置されました。当初は「因幡山形駅」と命名する予定だったそうですが、たくさんの方に来てほしいという意味で「来い山形」、そこから「恋山形駅」にと変わっていったそうです。その後、平成25(2013)年6月に、駅の活性化をめざす「恋えきプロジェクト」の一環として、待合スペースなど地上施設をリニューアルして、ピンクに塗り替えたそうです。ここの駅名標示も白色でした。

大きなハート型の駅名標示です。ローマ字のほか、中国語(繁体字)とハングルの表示もありました。やまさと(山郷)駅から2.8km、次のちず(智頭)駅まで6.1kmのところにあります。ちなみに、「智頭」のかな表記は、会社名と駅名は「ちず」、地名(町名)は「ちづ」を使用しているそうです。

向かいの1番ホームの待合いのスペースです。2番ホームと同じようなつくりです。さて、智頭急行智頭線は、明治25(1892)年に始まった鉄道敷設運動に始まります。明治時代につくられた鉄道敷設法には「兵庫県姫路から鳥取県鳥取に至る鉄道」が定められていましたが、その後、山陰への鉄道は和田山から建設されることになり、姫路からの敷設は白紙になってしまいます。大正11(1922)年に改正された鉄道敷設法では「兵庫県上郡から佐用を経て鳥取県智頭に至る鉄道」が規定されました。しかし、太平洋線戦争によって実現にはいたりませんでした。

ホームからの出口は、大原駅側にある階段を下り、構内踏切を渡った先の1番ホームの脇にあります。恋山形駅はメディアでもよく採り上げられているためか、訪ねる人も比較的多い駅です。しかし、列車でこの駅まで来られる人は多くはないようです。この日も、駅前の広場に若いカップルが来られていて、写真を撮影しておられましたが、車で出発して行かれました。さて、戦前から始まっていた智頭線の敷設を求める運動は、戦後も続けられ、昭和41(1966)年に運輸大臣(当時)から上郡・智頭間の「工事実施計画」の認可を受け、昭和41(1966)年に着工しました。しかし、順調には進まず、昭和55(1980)年に成立した国鉄再建法によって、進んでいた工事は中止となってしまいました。残された道は、地方自治体による第三セクター方式による開業だけでした。昭和58(1983)年に就任した西尾邑次鳥取県知事によって第三セクターによる建設への道筋がつき、同年6月に工事が再開されました。こうした地元の人々の熱意と粘り強い努力によって開業したのが、智頭急行智頭線でした。

踏切の中央部分から見た智頭駅方面です。まさに、ピンク色の駅だと感じます。青い空、緑の杉林、ピンクの駅施設。見て楽しい駅になっていました。

こちらは1番ホームです。階段の手すり、フェンス、ホームの上屋、柱、壁面も、ホームミラーもゴミ箱も、すべてピンク色でした。階段を利用して1番ホームに上がると、たくさんのハート形の絵馬が吊り下げられている一角がありました。

正面の「恋」と書かれたハート形の上に鐘があります。「恋がかなう鐘」だそうです。大きなハートマークの「恋」の字の上に、赤色のハートの部分が見えます。願い事を書いた絵馬をその赤い部分にはめてから、「恋がかなう鐘」をならしてお祈りをした後、絵馬を吊り下げると願いがかなうそうです。「早朝や夕方以降と、列車が到着しているときは、ご遠慮ください」とのこと。「恋がかなう鐘」は、この駅がピンクの塗装でリニューアルされた翌年の、平成26(2014)年3月15日に設置されたそうです。ハートマークの下の扉の中には「恋山形ノート」が置かれています。「思いを残してほしい」という願いから置かれているもののようです。

1番ホームにいたとき、6両編成の特急列車”スーパーはくと”が通過していきました。「はくと」は「白兎」です。東海道本線から智頭急行に入るルートで、京都駅と鳥取駅・倉吉駅間を結んでいます。智頭急行が所有するHOT7000系車両で運行されています。JR西日本の鳥取鉄道部西鳥取車両支部に常駐し車輌の管理がなされているそうです。智頭急行は「第三セクターの優等生」と称賛されるほど、経営が順調であることで知られています。好調な経営を支えているのが、この”スーパーはくと”なのだそうです。

待合いスペースに書かれていた「鉄道むすめ」の”宮本えりお”です。智頭急行の”スーパーはくと”の車掌で、上郡駅から鳥取・倉吉駅間に乗務しています。「落ち着いた性格、ていねいな対応が好印象。利き手は両手で、学生時代には剣道部に所属していたそうです。趣味は天体観測で、さじアストロパークや西はりま天文台にもよく通っているそうです。「みやもとえりお」という名前は、智頭急行の宮本武蔵駅と、上郡駅の反対読み(きえりおごみか)から名づけられたといわれています。

1番ホームの脇から駅前広場に出るところにあった「恋ポスト」です。平成28(2016)年に設置されました。このポストは智頭急行が設置したものです。そのため、週一回、毎月曜日だけに回収され、地元の山形郵便局に届けられます。そこで、ハート型をした風景印で消印をつけることになっています。「切手を貼るのを忘れないように」と書かれていました。

広場の塀につくられていたハートのマーク。この駅に到着したとき、若いカップルが「インスタ映え」するようなポーズで、何回も何回も撮影をされていたところです。

1番ホームの待合いスペースの裏側にあたるところです。「恋がかなう駅 恋山形駅」の掲示と、その先に大きなハートのマークがありました。

ハートのマークの前方の地面に、ハート形のマークが描かれています。そこに足を置いて、こちら向きに立って・・・

その前にあった、構造物の上にカメラをおいて、セルフタイマーで撮影ができます。一人旅の人も記念撮影をすることができるようになっていました。

1番ホームの裏の道を下っていきます。線路の法面(のりめん)には、芝桜が植えてありました。春先には、おそらく、ピンクの花が咲いてピンク色の駅に色を添えることになるのでしょう。

駅への取り付け道路の入口から、幅1メートルのピンクに塗装された道がつくられています。平成29(2017)年4月1日に設置された「恋ロード」です。法面につくられていた芝桜のハートマークも見えます。

日本には、「恋」の字がつく駅は、恋山形駅以外に3ヶ所あります。JR北海道室蘭本線の「母恋(ぼこい)駅」、三陸鉄道南リアス線の「恋し浜(こいしはま)駅」、西武鉄道国分寺線の「恋ヶ窪(こいがくぼ)駅」です。「恋えきプロジェクト」は、「この4駅が連携して地域の活性化を図ることを目的として」行っている活動です。ここ恋山形駅が行っている駅施設のピンク塗装、「恋がかなう鐘」、「恋ポスト」と「恋ロード」などは、この「恋えきプロジェクト」の一環として行われているものでした。

恋山形駅の楽しみ方も掲示されていました。 「①ハート絵馬はお持ちですか?  ②絵馬に願いごとは書きましたか?  ③絵馬をハートのモニュメントにはめましょう  ④恋山ノートにコメントしましょう ⑤写真スポットで写真を撮りましょう  ⑥ホームのベンチでゆっくりお過ごしください」と書かれていました。

ピンク色の駅、恋山形駅は、JR上郡駅とJR鳥取駅を結ぶ第三セクターの智頭急行の駅で、中国山地の奥深いところにあります。
智頭急行は総延長56.1kmの鉄道ですが、京都駅と鳥取駅・倉吉駅を結ぶ”スーパーはくと”と、岡山駅と鳥取駅を結ぶ”スーパーいなば”の運行により、第三セクターの優等生といわれるぐらい好調な経営で知られています。しかし、普通列車の利用は快調とはいえず、特色ある駅をつくることによって活性化を図っています。恋山形駅も、「恋」をテーマにした新しい駅づくりに努力しています。
恋山形駅は、「恋がかなう鐘」「恋ポスト」「恋ロード」と、次々に新しい企画を打ち出していています。次はどんな企画が出てくるのか楽しみでもあります。せめて、この駅だけでも、列車で訪ねる人が増えていけば・・と願いながら、歩いた旅でした。  






改札口から続く急な階段のある駅、JR那岐駅

2017年10月27日 | 日記

長い歴史を感じる木製の改札口の向こうに、急な階段が見えます。

階段には屋根がついています。JR因美線で、岡山県から鳥取県に入って最初の駅。豪雪地帯にあるため、冬の降雪に備えて設置されたもののようです。神社や寺院の回廊のような印象を受けました。でも、ここは、神社でも寺院でもありません。改札口の先にはホームがあるはずです。ここは、ホームに向かう回廊のような階段のある駅でした。

これは、外から見た階段部分です。かなりの傾斜があります。この駅は、因美線の那岐駅。秋の一日、JR西日本岡山支社管内の乗り放題キップである「吉備之国くまなくおでかけパス」を利用して、那岐駅を訪ねてきました。

因美線のスタートとなるJR津山駅です。津山駅は雰囲気が一新していました。平成26(2014)年から始まった「津山駅前整備計画」によって、駅前広場に路線バス乗り場が移され、JRとの乗り換えの安全性と利便性が向上しました。駅舎の壁面やバス乗り場の上屋の柱は、城下町津山らしく蔵屋敷風のツートンカラーに塗装されていました。

津山駅の駅前広場には、幕末、蘭学者として活躍した津山藩の藩医であった箕作阮甫(げんぽ)の像と共に蒸気機関車(SL)が展示されていました。平成29(2017)年8月10日に、津山市立南小学校に静態保存されていたSL、C1180号機が駅前に移設されてきました。昭和37(1962)年の第17回岡山国体のときには、お召し列車を牽引した(単機運転ではなくC1186号機との重連運転だったそうですが・・)SLとして、また、昭和46(1971)年3月には、津山線のディーゼル化のときの「さよならSL」号を牽引したSLとして広く知られています。

C1180号機は、昭和10(1935)年、山口県下松市の日立製作所笠戸工場で製造、国鉄松山機関区に配属され、予讃本線(現予讃線)で活躍した後、芸備線、津山線で活躍しました。その後、国鉄只見線、会津線での活躍を最後に、昭和50(1975)年1月24日廃車となりました。津山市は、輝かしい足跡を残したC1180号機を、国鉄から無償譲渡を受け、津山市立南小学校で静態保存していました。C1180号機は廃車までの実働40年間のうち25年間を津山線で過ごしいますので、懐かしいふるさと津山駅に里帰りしたことになります。

津山駅舎に入り、因美線のホームに向かいます。ホームに向かう階段に掲示されていた、現在の那岐駅の写真です。因美線は、JR鳥取駅と岡山県のJR東津山駅を結ぶ鉄道です。鳥取駅・智頭駅間が開通したのが大正12(1924)年、智頭駅・美作河井駅間が開通したのは、昭和7(1932)年7月1日のことでした。津山駅から北に向かって進んだ延伸工事が、昭和6(1931)年に美作河井駅まで完成していましたので、昭和7(1932)年に、因美線は全線が開業することになりました。

実際の運用は、ここ津山駅が起点になっています。11時35分発の智頭行きの上り列車に乗るつもりでした。津山駅から発車する那岐駅方面に向かう列車は、智頭駅行きが7本運行されています。他に、岡山県側の美作加茂行きの列車も3本運行されています。ただ、6時42分発の列車が出た後は、11時35分発の列車まで運行がありません。利便性に優れているとはお世辞にも言えない状態です。

ホームに上がったとき、智頭行きの因美線の列車が入線してきました。ワンマン運転の単行気動車です。キハ120330号車。入線のため後方の運転席におられた運転士さんが、前方にやって来られました。JR因美線の駅を訪ねるのは久しぶりです。すでに、JR美作滝尾駅(「JR因美線の登録有形文化財、JR美作滝尾駅」2011年5月14日の日記)、美作河井駅(「転写台が出てきた岡山県境の駅、JR美作河井駅」2012年7月13日の日記)、知和駅(「JR因美線の”秘境駅、知和駅」2014年4月24日の日記)を訪ねて来ました。

キハ120系気動車の内部です。トイレ付き、座席は一部クロスシートで、10人ぐらいの方が乗車されていました。因美線は落石防止のため、時速30キロ程度の速度制限があるところがかなりあります。雨天時はさらに厳しい制限があるようです。平成23(2001)年9月に台風12号の大雨による土砂崩れが発生し、美作河井駅・那岐駅間が不通になったことを思い出しました。

那岐駅は、岡山県と鳥取県の県境にある3,077mの物見トンネルの先にありました。因美線で最後に開通した美作河井駅・那岐駅間は、最大の難工事だったといわれています。25パーミル(‰)の急勾配が続くこの区間は、ここを越える列車にとっても最大の難所になっていました。しかし、キハ120330号車は順調な走行を続け、津山駅から1時間ぐらいで那岐駅に着きました。那岐駅は、美作河井駅から10.0km(その3分の1が物見トンネルでした!)、次の土師(はじ)駅までが2,9kmのところにありました。ちなみに、次の土師駅までがJR岡山支社管内であり、この日使用した「吉備之国 くまなくおでかけパス」も、次の土師駅までが乗り放題区間になっていました。

相対式2面2線のホームでした。駅舎は右側にあり、列車が停車したのは、駅舎から離れた山側の2番ホームでした。駅舎側の1番ホームには木造の待合室があり、そこから駅舎に向かって通路が続いています。列車は、次の土師駅に向かって出発していきました。

津山駅方面です。山深い山里の風景が広がっています。駅舎側のホームの左側に向かって、かつての貨物の引き込み線が残っていました。現在は、保線用の測線になっているようです。下車したホームの目の前に、待合室がありました。列車が到着したとき、二人連れの女性が、ここから出て来られ乗車されました。

待合室の入口に、かつての手書きの駅名標がありました。かなりの年月を経ているように見えます。国鉄では、昭和21(1946)年に「鉄道掲示規程」を更新したそうです。「書字の方向が左から右」、「ヘボン式ローマ字で大文字のみ使用」することに、変更されました。また、昭和29(1954)年には「平がな書体に丸ゴシック体を採用した」ということです(「大阪の『駅』の謎」米屋こうじ著)。昭和21年以後につくられたものだと思いますが、「丸ゴシック体」であるかどうか、私には正しく判断することができません。

待合室の内部です。壁につくり付けのベンチがあるだけで、他には何も置かれていませんでした。

2番ホームから駅舎に向かって歩きます。2番ホームから階段を使って下りるとその前に構内踏切がありました。

落ちた栗の「イガ」を避けるようにして進みます。

1番ホームから見えた駅舎です。赤い屋根が鮮やかです。駅舎に向かう急傾斜の階段がある通路です。

駅舎前に広がる集落です。那岐駅は、鳥取県八頭郡智頭町大字大背字中河原にあります。智頭町は、平成16(2004)年に、鳥取市との合併をの是非を問う住民投票で「合併賛成」が多数になっているそうです。それから、10年以上が経過していますが、合併はまだ実現していません。

1番ホームの待合室です。2番線にあったと同じ駅名標が見えました。「ワンマン列車 乗車位置 津山方面」と書かれた乗車位置の表示がありました。那岐駅は、平成11(1999)年まで米子支社鳥取鉄道部の管轄であったため、米子支社管内で見かけるタイプの乗車位置標識が立てられているといわれていますが、これがそれなのでしょう。

「屋根からの落雪に注意」を促す掲示です。通路に面した待合室のガラスに掲示されています。中国山地の豪雪地帯にある駅であることを再確認しました。

待合室から駅舎に向かう手すりのついた階段です。上部から見ると急傾斜であることがよくわかります。両側の腰板には、この地域のようすや因美線に関する写真や説明が掲示されていました。約30段の階段を下ります。

改札口から、駅舎の待合いスペースに入ります。改札口の上に運賃表、右側のつくり付けのベンチの上に時刻表が見えました。

岡山駅から那岐駅までの運賃は1,850円です。「おでかけパス」は1,950円。ほぼ片道運賃で往復できます。ありがたいことです。

駅舎からの出口にあった図書コーナーです。駅事務所への入口(右側)付近に設置されています。

那岐駅舎です。那岐駅は、平成12(2000)年に無人駅になりました。

駅舎の正面にあった案内です。無人駅になってから、那岐駅舎は、平成18(2006)年からデイサービス事業の施設として使用されるようになりました。その後、平成20(2008)年には那岐診療所が開設され、第2・第4火曜日には14時から16時まで内科の医師による診療が行われています。待ち時間のために、図書コーナーが設置されたのでしょう。

駅舎の前に二つの記念碑がつくられていました。一つは、「因美線開通50周年」の記念碑です。因美線と那岐駅の開業は昭和7(1932)年7月1日でしたから、「五十周年」といえば、昭和57(1982)年、この時からすでに35年になりました。

もう一つは、「因美線開通八十周年」と「那岐駅舎開業八十周年」の碑です。80周年ですから、平成24(2012)年につくられたのでしょう。
駅舎の柱の上の赤いマークが気になりました。

建物財産標でした。「昭和7年7月1日」と書かれていました。因美線と那岐駅が開業した年です。

駅付近に「那岐のふるさと 史跡案内」という看板がありました。看板の上部の緑の部分に、那岐地区の集落ごとの世帯数と人口が書かれていました。それによると、平成14(2002)年には、333世帯 1,190人の人が、このあたりに住んでいらっしゃったようです。

駅前の道路から見えた那岐駅舎です。駅舎の裏側にホームの待合室の屋根が見えます。

那岐橋です。那岐駅に続く道路をまっすぐ行ったところにあります。渡ると一般県道295号にぶつかります。

津山駅に向けて引き返すことにしました。ホームに上がったときに、3人の人が列車を待っておられました。

津山駅から乗車してきたキハ120330号車が折り返して帰ってくる、13時06分発の津山駅行きの列車を待つことにしました。中国山地の奥深いところにある、静かな山里の雰囲気を十分感じることができました。冬場の豪雪を見るために、もう一度訪ねてみたいと思った旅でした。







JR糸崎駅から松浜町の町並みを訪ねる

2017年10月13日 | 日記

JR山陽本線のJR糸崎駅です。広島県三原市糸崎四丁目にあります。開業は、明治25(1890)年。山陽鉄道が、尾道駅からここまで延伸したとき、「三原駅」として開業しました。そして、2年後の明治27(1892)年、山陽鉄道は広島駅まで延伸し途中駅になりました。そのとき、「三原駅」の駅名をこのとき開業した現在の三原駅に譲り、糸崎駅になりました。

写真は、糸崎港に近いところにある旧松浜町(現・糸崎七丁目)の家並みです。現在でも、港に面した通りには、唐破風の玄関、格子づくり、2階に手すりのついた広間をもった民家が残っています。松浜港(現・糸崎港)が開かれたのは、この地が、広島県における洋学の発祥地だったことによるそうです。幕末の文久3(1863)年広島藩の支藩、三原藩主浅野忠英がイギリス人ブラックモール兄弟を招いて洋学館を設けたところなのです。そして、この地に、元治元(1864)年、浅野忠英が、船溜(ふなだまり)を築造したことに始まります。大きな岩の傍らに偕老(かいろう)の松があったことから、松浜港と名づけられたといわれています。

その後、松浜港は北前船による交易で繁栄しました。さらに、明治32(1900)年、糸崎港が特別輸出港とされてからは、神戸税関支所が置かれるなど、貿易港として発展しました。大正時代の初期には、全国第6位の貿易港になっていたといわれています。

港町として繁栄した旧松浜町には、一説には32軒ともいわれる遊郭があったそうです。港に船をつないで雁木(がんぎ)を上がれば、目の前には遊郭があるというつくりになっていました。その後、遊郭は、昭和33(1958)年、法律の完全施行により廃止されました。現在では、建て替えられた民家も多く、雰囲気も大きく変わっています。また、遊郭の規模や娼妓の数など、わからないこともたくさんありますが、この日は、かつての遊郭の雰囲気を残しているといわれる旧松浜町の家並みを訪ねることにしました。

岡山駅から糸崎駅行きの普通列車で、約1時間30分弱、糸崎駅に着きました。糸崎駅と次の三原駅の間に、JR西日本岡山支社と広島支社の境界があります。そのため、岡山駅から西に向かう山陽本線の列車には、糸崎までの区間運転になっているものが多くあります。この日は岡山支社管内乗り放題きっぷである「吉備之國 くまなくおでかけパス」で、ここまでやってきました。

糸崎駅からの出口は、北に向いて開かれています。駅前広場を通って国道185号に出て、右(東)の尾道・福山方面に向かって歩きました。しばらく進むと、左(北)側の丘の上に、三原市立糸崎小学校が見えました。そして、その先に国道185号を渡る横断陸橋が見えました。横断陸橋を右に進むと、山陽本線を渡ることになります。

横断陸橋に上り、右(南)側に向かって進みます。山陽本線を渡る陸橋になっています。

横断陸橋を降りたところの右手の民家に「糸崎七丁目4番」の住居表示がありました。正面の民家があるところが「糸崎七丁目4番」のブロックです。また、右側の民家のあるところは「糸崎七丁目3番」のブロックです。正面の民家の右側の通りを向こう側に向かって進みます。

これは、旧松浜町の中にあった糸崎七丁目の住居表示です。一番最初にお示しした旧松浜町の家並みの写真は、表示している「13番」から「16番」のブロックを、海の方から撮影したものです。そこをめざして、先ほどの「糸崎七丁目4番と3番」の間の道を右下(南)に向かって進みました。そして、「8番」の手前を左折して「13番」に向かうことにしました。

「9番」と「10番」の端まで来ました。写真の右前から正面にかけての民家は、「8番」にあたります。ここで、左折することにしていたのですが、正面の民家の先にある神社を、先に訪ねることにしました。

糸崎神社です。本殿は銅板葺きで、鳥居には「慶応4歳戊辰正月吉日」と、その奥の玉垣の柱には、「明治十四年巳年」「三月二十八日」と刻まれていました。旧松浜町から、国道185号を東に向かって進むと「糸崎神社」があります。そこから、勧請したのでしょうか?

「9番」と「10番」の端まで戻り、そこから左折して、「10番」を左に見ながら、改修、整備された通りを東に向かって進みます。

かつて、遊郭があったといわれる「13番」の港側の家並みです。格子づくりで、2階に広間をもつ間口の広いお宅がありました。このようなつくりは、瀬戸内地方の遊郭に共通する特色だったといわれています。今は、2階の窓は、サッシに替わっていましたが・・。また、土蔵も残っていました。

その先にあった、カフェ風の建物です。斜めに切られた、懐かしい玄関のデザインが印象に残りました。

カフェ風の建物の軒下にあった装飾です。

カフェ風の建物の横にある路地です。幅2mぐらいの細い路地が続いています。

路地から撮影しました。左側がカフェ風のお宅の奥の部分、右側が、その隣にあった、2階に手すりをつけたお宅です。かつての姿を伝えてくれています。

カフェ風のお宅からさらに南に進みます。路地の先は「16番」になります。格子で覆われており、2階に広間をもつ間口の広いお宅です。この建物もかつての雰囲気を伝えています。

その先から、歩いてきた通りを振り返って撮影しました。ブリキ製と思われる唐破風の玄関が残るお宅がありました。家並みの中で、最もインパクトがありました。
 
唐破風のある玄関です。右側は、唐破風の庇の木組みのデザインです。

その先で、左折して路地に入り、東に向かって進みます。右側の建物は「17番」のブロックにあります

1ブロック進みます。左の前方にあった雰囲気のある民家です。2階のガラスの奥に手すりが見えます。「15番」の角にあったお宅です。

再び、住居表示です。唐破風の玄関があった「16番」から、「17番」との間の路地を入り、次の「16番」と「15番」との間の路地、歩いてきた通りの一つ裏の路地を、北に向かって歩きます。

左側の民家が「16番」、右側の民家が「15番」になります。遊郭として多くの人で賑わっていた頃は人通りもさぞかし多かったことでしょう。

左側のお宅には、2階にあった手すりが残っていました。

「15番」のブロックにあったお宅です。格子で覆われており、雄壮な印象を受けます。突きあたりの民家の左側に、先ほど通って来たカフェ風のお宅があります。突きあたりの民家の手前を右折して、最初の路地を左折して、「13番」のブロックと「14番」のブロックの間の道に入っていきます。

この付近は建て替えられた民家が多く、別の町を歩いているように感じます。この写真は、「糸崎七丁目13番」のブロックで最初に見えた、土蔵をはさんだ2軒の民家を、裏側から撮影したものです。

かつて遊郭があった旧松浜町を歩きました。
かつての雰囲気を伝える建物は残っていましたが、現在は、静かな住宅地という印象でした。
糸崎というと鉄道にかかわる町という印象が強かったのですが、松浜港(現・糸崎港)での交易によって繁栄した、歴史に触れることができた楽しい旅になりました。




大山山麓に残る伝統的建造物群、大山町所子地区を歩く

2017年09月30日 | 日記
中国地方最高峰の霊峰、大山(だいせん)の北麓の農村地帯に、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている集落があります。鳥取県西伯郡大山町の所子(ところご)地区です。平成25(2013)年12月27日、伯耆(ほうき)地方における伝統的な農村の姿を伝える景観が評価され指定されました。ちなみに、鳥取県では、白壁に赤瓦葺きの商家が並ぶ、倉吉市打吹(うつぶき)玉川地区(平成10年指定)に続く指定でした。

所子の集落です。大山の山裾にある大山寺に参詣する人たちが利用した参詣道である坊領道(大山道)沿いに、江戸時代末期から明治時代初期にかけて建てられた建築物が残っています。漆喰の壁と黒板塀が続く静かで落ち着いた家並みは、かつての雰囲気を今に伝えています。

その中心にある門脇家住宅(本家です。以下、単に「門脇家」)です。広い敷地の中心にある茅葺きの主屋は、昭和49(1974)年に、国の重要文化財に指定されています。江戸時代の明和6(1769)年、この地の庄屋をつとめていた門脇家の3代本右衛門が、役宅を兼ねて建設した邸宅です。伯耆国特有の寄棟造りで、太い梁を縦横に高く組み上げた豪壮な造りで知られています。

こちらは美甘家住宅です。江戸時代末期に建てられた厨子2階建ての主屋です。屋根の上に安山岩の棟石がのせられています。美甘家住宅は、登録有形文化財に登録されています。この地の土豪で、戦国時代の元亀2(1571)年、尼子氏の残党と毛利氏の戦いのとき、毛利側の使者として尼子の残党と交渉し犠牲になった、美甘与市左衛門の子孫と伝えられるお宅です。所子の集落は、美甘家のある「カミ」(上の家屋群)と、門脇家のある「シモ」(下の家屋群)に分かれています。この日は、シモの門脇家から、カミの美甘家まで、坊領道を歩いてきました。

JR米子駅の1番ホームです。山陰本線の倉吉行き2両編成(キハ472006・キハ473012)、ワンマン運転の普通列車に乗車しました。

発車してから、30分弱。JR大山口駅に着きました。2面2線のホームでしたが、いわゆる”1線スルー”化されており、右側の1番ホームに停車しました。大正15(1926)年に新設開業されたといわれています。駅舎の改修等についてはよくわからないのですが、駅舎にあった「建物財産標」には、「昭和28年8月16日」と書かれていました。今は、近距離キップのみの自動券売機が設置された無人駅になっています。駅舎の右側に、「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市 日本遺産認定 大山町 伯耆町 江府町 米子市」の垂れ幕が張られていました。

「ようこそ 国立公園大山へ!」という看板を見ながら、駅前広場からまっすぐ延びる県道を歩きます。

駅から20分ぐらい歩きました。右側に大山町役場の建物が見えました。県道の左前、このあたりではめずらしい7階建てのマンションの手前に、「大山町所子」の標識がありました。左折します。

マンションの裏に大山中学校のグランドが見えました。中学校の敷地に沿って右折して進みます。左側の黄色に実った稲田の向こうに、茅葺き屋根のお宅がありました。門脇家の主屋に違いないと思って、これを目標に歩きました。

やがて、茅葺き屋根の門脇家を右側に見て進むようになりました。正面に見えるお宅の手前を右折します。

右折して、大山寺への参詣道である坊領道に入りました。いきなり、息を飲むような別世界に入りました。右側が門脇家、そして、左側が東門脇家の邸宅です。

門脇家の手前の水路に飼育されていた鯉です。所子では、水路は「ツカイガワ」と呼ばれていました。坊領道の脇を流れる清水の音が聞こえるような通りでした。

門脇家の邸宅です。門脇家は、江戸時代の延宝・天和年間(1673年~1683年)に、初代三右衛門が伯耆国汗入(あせり)郡平木村から、この地に移ってきたそうです。そして、明和6(1769)年、3代本右衛門のときから、伯耆国汗入郡の大庄屋をつとめた家柄でした。大山の北麓を流れる阿弥陀川流域の大地主として、米のほか、木綿や古着、紅花の販売にも携わり富を蓄えたといわれています。

これは、左側の水路(ツカイガワ)にあった洗い場です。水道が整備される以前は、この水路で野菜などを洗っていました。飲料水には、井戸の水が使われていたようです。

門脇家に隣接していた、南門脇家です。こちらも、広い敷地が広がっています。門脇家の3代本右衛門の次男が分家して興した家です。門脇家の南側にあったため、通称が南門脇家でした。

主屋は、安政7(1860)年頃に再建されたものだといわれています。一般公開されていませんので、門の外から撮影させていただきました。「近世末から近代にかけての屋敷構えが良好な状態で留められている」(大山町教育委員会資料)といわれています。

南門脇家の前に残っていた「駒繋ぎ石」です。物資を運んできた馬の轡(くつわ)をつないでいたところです。右奥の碑は「巡査駐在所」の跡を示していました。

南門脇家の遠景です。広い敷地にたくさんの建物が並んでいます。門脇家の財力を示しています。

坊領道に戻ります。先ほどの「洗い場」まで引き返しました。門脇家の先で、東門脇家方面を振り返って撮影しました。左側が門脇家、右側が東門脇家の邸宅です。写真の向こう側からこちらに向かって歩いてきた、かつての大山寺への参詣者は、右側の電柱のところで左折して進んでいました。

坊領道を進みます。左側が東門脇家です。入口はこの道沿いにありました。門脇家の東に位置することから、東門脇家と呼ばれています。門脇家の4代の次男が分家して興したそうです。

これが、東門脇家の正面入口です。門脇家、南門脇家と同じように、注連縄(しめなわ)が掛かっています。東門脇家は、国の登録有形文化財に登録されている建物です。ここからは見えにくいのですが、主屋は文政元(1818)年の建築です。「後に、酒造業や金融業を営んでいたため、酒蔵や長屋門内に銀行出張所の跡が残っている」(大山町教育委員会資料)そうです。一般公開しておられないので確認はできませんが・・。

これは、東門脇家の前から、門脇家方面を撮影したものです。右側に、東門脇家の板塀、板壁の建物が見えます。

東門脇家を過ぎると、坊領道は右にカーブします。そこが、江戸時代になって、門脇家周辺に形成された家屋群である「シモ」(下の集落)とそれ以前からの集落である「カミ」(上の集落)との境になっていました。前方左側にある建物は「農家民宿、珠心庵」です。その先で、坊領道は、緩やかな右カーブになります。

その先にあった集落は、「カミ」になります。「シモ」の集落が形成される以前からの集落があったところです。郵便ポストと郵便局の看板がある邸宅は、店門脇家です。「大正7(1918)年、自宅の一角に郵便局を開局した」と、大山町教育員会の資料には書かれていました。郵便局は、昭和27(1952)年に、大山口駅付近に移転したそうです。

店門脇家の斜め前にあった所子公民館。館の前に展示されているのは「力石」です。若者が力比べをした石で、米俵1俵(16貫=60kg)を基準としており、石には「16貫目」と「22貫目(約82.5kg)」と彫られているそうです。

煙草乾燥場跡です。昭和12(1937)年頃から、所子でタバコ栽培が始まり、昭和41(1966)年には10軒のタバコ農家があったそうです。現在は、廃業しておられますが、建物に、当時の乾燥場の写真が掲示してありました。

坊領道は、その先の車が駐車している手前で左折します。

坊領道は、左折した後、さらに右折して、大川寺に向かっていました。枡形のようになっていました。そこにあった「石造薬師さん」です。「柏屋」という屋号の門脇権兵衛が、寛政元(1789)年に、村人の無病息災を祈願して建立した薬師如来座像だそうです。残念ながら、柏屋門脇家がどこにあったのかよくわかりませんでした。

カーブした後、右側に、歴史を感じさせる邸宅がありました。その先の生け垣に沿って進みます。カミの集落には、塀のほかに屋敷林や生け垣が、風除け、目隠し、防火のためにつくられていました。

この邸宅が美甘家でした。門へ続く道も生け垣の間につくられていました。門の前に「パンフレット」が置かれています。美甘家は、「カミ」の集落の核になる邸宅です。いただいたパンフレットによれば、初代の弥左衛門は、慶長16(1611)年に亡くなったそうですが、17世紀の初め頃に、賀茂神社の社殿の再建を行ったそうです。また、6代九郎左衛門のときには、鳥取藩から庄屋を命ぜられた、この地域の有力者で、以来、美甘家は代々この屋敷地を守って来られたそうです。

美甘家の主屋です。江戸時代の末期から明治初頭に建てられたそうです。また、屋敷の北側や西側には土塁状の高まりが残っており、その上には屋敷林が植えられているそうです。

入口に「登録有形文化財」の登録証が掲示してありました。パンフレットを手に、中の見学をさせていただいているときにご当主さんが出てきてくださいました。「私は、美甘家の17代目です」「門脇家は、最近、代替わりして12代目になりました」。「最近は、ウチの庭を見に来られる方が増えています」とのこと。

ご当主さんの案内で、京都の石庭を連想させるような庭園を見学させていただきました。石に見えるのは、実は富士山の溶岩だそうで、ご当主さんが、ご自身でつくられた庭園だそうです。また、植木の手入れも自らなさっておられるそうです。多くの方が、全国から訪ねて来られるのも当然と思われる、見事な庭園でした。

美甘家の庭園の脇にある道を通って、賀茂神社に向かいます。賀茂神社は、創建の時期は明らかではありませんが、17世紀の初めに美甘家によって社殿が再建されたといわれています。また、江戸中期の明和5(1768)年には、21柱の神々が祀られていたようです。現在の社殿は、大正3(1914)年に再建されました。

「カミ」の集落の墓地の脇を通って、賀茂神社に着きました。賀茂神社は、北に向かって建てられていますが、その正面には、建物がなく、田畑が広がる空間になっていて、「神さんの通り道」といわれているそうです。また、二つの集落、左側の「カミ」と右側の「シモ」との境界にもなっているそうです。

所子は、鎌倉時代の貞永元(1232)年には、京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の社領の一つになっており、「伯耆国所子庄」と呼ばれていました。これが、「所子」という地名が文献に出てきた最初だそうです。
江戸時代から続く門脇家と、それ以前から続く美甘家を中心とする「シモ」と「カミ」の集落が残る所子は、地区の人々が一体になって、古い歴史をもつ町並みを守っていました。









山陰地方最古の駅舎、JR御来屋駅

2017年09月24日 | 日記
鳥取県には、かつて、廃止されたものも含めて、6つの鉄道が走っていました。境線、山陰本線、伯備線、倉吉線、因美(いんび)線、若桜(わかさ)線の6路線でした。その中で、最も早く開業したのが、境(現・境港)駅と、大篠津(おおしのづ)駅、後藤駅、米子駅、淀江駅を経由して、御来屋(みくりや)駅とを結ぶ山陰本線で、明治35(1902)年11月1日のことでした。その時に開業して、現在も、なお現役で使われている駅舎があります。

それが、このJR山陰本線御来屋駅です。鳥取県西伯郡大山(だいせん)町西坪にあります。実は、御来屋駅と同時に開業した大篠津駅も、当時の駅舎が残っていましたが、平成20(2008)年に、米子空港の拡張工事によって撤去され現存していません。そのため、御来屋駅が「山陰地方最古の駅舎」となっています。この日は、開業以来115年目を迎えて、今も現役駅舎として使用されている御来屋駅を訪ねてきました。

JR米子駅の改札口の前の1番ホームです。ワンマン運転の倉吉駅行きの列車が入線していました。キハ47形の2両編成(キハ471026・472006)の列車でした。

米子駅から30分余、御来屋駅に着きました。御来屋駅は、米子方面の名和駅から1.1キロメートル、次の下市駅へ5.9キロメートルのところにありました。

高校生を含む5,6人の乗客が下車すると、列車は、すぐに下市駅に向けて出発していきました。山陰本線は、その後、明治36(1903)年12月20日には上井(あげい)駅(現在の倉吉駅)まで開業しました。御来屋駅が終着駅だったのはわずかに1年ちょっとの期間だけ。かなりのスピードで山陰本線は延伸していき、明治37(1904)年には松崎駅まで、明治38(1905)年には青谷駅まで、明治40(1907)年4月28日には鳥取駅までが開業しました。跨線橋でつながった2面3線のホームが見えました。

こちらは、米子駅方面です。木造駅舎の旅客用上屋の向こうにまっすぐ線路が延びていました。2面3線のホームですが、駅舎に近い1番線に上り列車も下り列車も停車する、いわゆる”1線スルー化”工事が平成15(2003)年に行われました。1番線は、それ以来、まっすぐ米子方面に向かって延びていくことになりました。

2番・3番ホームのある島式ホームに、旅客列車のような形をした待合室がありました。見に行くことにしました。

跨線橋を上ります。冬の冷たい風や吹雪から身を守るためか、跨線橋は、1ヶ所ある窓の部分を除けば、完全なトンネルになっていました。

島式のホームに降りると、目の前に待合室がありました。かつての車掌車がそのまま置かれているような待合室です。手前はデッキがあったところのようです。

待合室の内部、片面にベンチが設置されザブトンも置かれていました。明るい日射しが差し込んでいます。

待合室の外部に、車掌車の痕跡を見つけました。塗装の下の「ヨ 4709」です。「ヨ」は車掌車を示す記号です。

2面3線のホームになっていましたが、名和駅方面には、3番線の左側に、もう1本の線路跡が残っていました。

たどってみると、線路跡は3番線の左側の柵の外に出ており、途中から線路跡は草に覆われた状態のままになっていました。車止めが草の中に残っていました。

跨線橋の窓から見た駅舎です。赤い桟瓦葺きの屋根の駅舎の前に、旅客用の上屋が接して建てられています。駅舎と旅客上屋は、平成28(2016)年11月29日に、国の登録有形文化財に登録されました。

跨線橋の階段から、駅舎に接したホームに下っていきます。1番ホームにあった旅客上屋です。開業当時のままで今も現役で使用されています。

「直売所みくりや市」の表示が見えました。駅舎は、昭和47(1972)年に、国鉄(当時)から地元の大山町に無償譲渡されたそうです。大山町では、平成14(2002)年に「直売所 みくりや市」をつくりました。

その先に、駅舎の横板張りや、木製のベンチと改札口の設備が見えました。長い歴史を感じさせてくれる風景です。

改札口から駅舎内に入ります。「ほっとする空間 山陰最古の駅舎」の看板が迎えてくれました。漆喰の白壁と柱、かつてはどの駅にもあった風景です。

駅舎の右側。多くの人々の手で磨かれた、出札口のキップの発券台、駅舎の窓枠、荷物の受渡台など、開業当時のものが残り、駅の歴史を今に伝えてくれています。

駅舎内の左側。駅舎に造り付けの椅子とベンチが並んでいます。

現在は無人駅になっており、近距離のキップを販売する自動発券機が設置されていました。明治35(1902)年11月1日の開業時から行われていた貨物の取扱いは、国鉄時代の昭和37(1962)年10月1日に廃止されました。

小荷物取扱いの窓口があったところにつくられていた「ミニ博物館」です。展示物の腕木式信号機のレンズ、釣銭入れの容器、行先表示標などがありました。その中で、ひときわ目を引くのが、「登録有形文化財」の登録証でした。

駅舎内には、たくさんの資料が展示されています。これは、その一つ「小荷物運賃表」です。「食料品運賃」や「行商品運賃」とともに「附随小荷物運賃」が表示されていました。「附随小荷物運賃」の中には、「自動自転車 1両 6銭 最低運賃200円」とか「犬 50粁迄(キロまで) 1頭ニ付 75」などの表示がありました。

鳥取県内の鉄道の開設時期の説明です。赤で書かれているのが、境駅と御来屋駅間です。開業は明治35(1902)年のことでした。この説明によれば、その後、鳥取駅までが明治40(1907)年4月25日に開業しました。続いて、伯備線の生山(しょうやま)駅までが大正12(1923)年12月28日に開業。次に開業した若桜線は、昭和5(1930)年12月1日。因美線は、昭和7(1932)年7月1日に那岐(なぎ)駅までが開業しました。そして、最後に、倉吉線が昭和33(1958)年12月20日に、山守(やまもり)駅までが開業したことがわかります。

これも駅舎内の展示物です。開通時の境(現、境港)駅と御来屋駅間の列車の時刻表と運賃表です。開通時の駅は発着駅も含めて6駅でした。境、大篠津、後藤、米子、淀江、御来屋の各駅です。午前6時15分に米子駅を出た列車は境駅に6時52分着。折り返し、7時00分に出発して御来屋駅着8時33分。折り返し、8時40分発で境駅に10時12分着。10時20分に出発して御来屋着11時57分着。その後、境駅と御来屋駅間を2往復して、最後に、御来屋駅を出るのが18時50分、米子駅着が19時32分。早朝6時15分から19時32分まで、1編成の列車が往復運転をしていたようです。また、運賃は、3等車で御来屋駅から淀江駅が10銭、米子駅までが20銭、後藤駅までが23銭、大篠津駅までが32銭、終点の境駅までが38銭でした。

その近くに、当時の物価も掲示されていました。比較されてはどうでしょう? なお、当時の山陰本線には1等車は連結されていませんでした。また、2等車は、3等車の2倍弱ぐらいの運賃に設定されていたようです。

駅舎から外へ出ました。駅舎の壁面は下見板張り(したみいたばり)になっています。

駅舎への入口です。手書きの駅名標です。ポストと公衆電話ボックスが開業当時と異なっているところです。

駅前の取付道路です。途中で、鳥取県道240号(旧奈和西坪線)と合流し、その先で国道9号と合流します。そして、その先に、日本海が見えました。

駅前から撮影したJR御来屋駅の駅舎です。駅舎の中央部から一段低くなっている、右側の屋根の下はベンチが置かれた待合いのスペースになっています。その右側の別棟の白い建物はトイレです。駐車している車は、「直売所 みくりや市」に行かれている人のものです。

「直売所 みくりや市」は、かつて、駅のスタッフが働いておられた、駅事務所の跡にありました。外からみた「みくりや市」です。

「直売所」ですから、地元の生産者がつくられた物産を販売しています。野菜を中心にした品揃えでした。せっかくお訪ねしたので、販売されていた「木ノ根饅頭」を買いました。包装してあったので、中身がわかりません。販売スタッフの方にお尋ねしますと「焼き饅頭です」とのことでした。

米子方面に引き返そうと駅舎に戻ると、出発時間よりずいぶん早く下り列車が到着していました。2番ホームに待機しています。1線スルー化の工事がなされていましたが、2番線は、下り(米子・松江方面行き)列車の専用線として使われています。キハ121-8号車が乗車を待っていました。

「山陰地方最古の駅」を訪ねてきました。
開業以来、115年を経て、今もなお、現役駅舎として使用されているJR御来屋駅。
博物館のような駅舎内には、駅舎を愛する地元の人たちの思いを感じる様々な展示物が溢れていました。また、地元の産品を販売する「みくりや市」も開かれ、多くの人が行き来する空間になっていました。
多くの人に愛される駅舎として、いつまでも利用される空間であってほしいと、心から願っています。

西国街道海田市宿跡を歩く

2017年09月17日 | 日記

JR呉線がJR山陽本線から分岐するJR海田市(かいたいち)駅です。3面5線のホームを持つ駅で、たった今、広島駅方面に向かう列車が出発して行きました。ここは、その3番ホームです。左側に見える島式ホームの4番線と5番線には呉線の電車が発着しています。

線路上の駅の改札口を出て、海田市駅の山(北)側の出口に出ました。海田市駅のある広島県安芸郡海田町は、江戸時代には西国街道(山陽道、以下「旧山陽道」と書きます)の海田市宿が置かれ、宿場町、商業町として発展してきたところでした。

駅前にあった観光案内図です。オレンジ色で描かれた旧山陽道を中心にして、それに関連する施設などが描かれています。

駅の上(北)側の水色で示されたところは、江戸時代に瀬野川が流れていたところです。瀬野川の流路を南に変えて、かつての瀬野川の跡地が商業地、住宅地になっています。この日、江戸時代の旧山陽道の海田市宿を歩いてきました。

ここは、先ほどの案内図の旧瀬野川の脇にあるグレーの道路の⑧のところにある、胡神社(左)と荒神社(右)です。左側の祠は、天保5(1834)年に勧請された胡神社。右側の祠は、明治6(1873)年、瀬野川の流れを変えたときに勧請されたと推定されている荒神社です。

さらに、北に向かい、次の東西の通りに出ます。これが、かつての旧山陽道です。写真は、道路脇にあった「安芸山陽道」の案内標識です。駅前の案内図の右側の部分、旧山陽道が山陽本線と交差する辺りから歩き始めました。

海田町畝二丁目にある大力(だいりき)第1踏切です。ここからスタートしました。

これは、踏切の少し先です。旧山陽道の東(大坂)方面です。街道は、新幹線の下をくぐって大力第1踏切に向かっていました。

旧山陽道を西(広島方面)に向かって進みます。しばらく行くと、左側に自然石でつくられた常夜灯が見えてきました。「文政8年乙酉参月」と読めました。文政8年は、江戸時代後期の1825年にあたります。右側に上っていく道は、春日神社の参道です。その上り口に、1対の常夜灯がありました。それには、「文化7庚午年」(1810年)と刻まれていました。

石垣の上に築かれた白い土塀のあるお宅が続いています。この地は、もともとは「包浦」、その後「開田」と呼ばれていたそうです。「海田」の名前が最初に文献に登場したのは、安元2(1176)年、「開田荘」という荘園としてでした。その後、海に面していたことから「海田」と呼ばれるようになったのだそうです(海田恵比須神社の案内碑より)。その後、交通の要衝にあったため、東の西条四日市、西の廿日市とともに市が開かれたことから、「海田市」と呼ばれるようになりました。こうして、海田市は、安芸郡の政治、経済の中心として発展してきました。

その先、旧山陽道沿いの民家の壁に「街道松」の案内が掲示されています。旧山陽道には並木として植えられていた街道松がありました。最後まで残ったのが「名残(なごり)の一本松」で、松くい虫の被害を受けたため、昭和61(1986)年に伐採されました。

掲示されていた「名残の一本松」の写真です。伐採される直前と言っていい昭和60(1985)年頃の姿だそうです。案内には、「掲示のあるところから25メートルぐらいのところにあった」と書かれていました。

左側にある民家の位置などから、松があった場所が推定できそうです。

その先にも、改修はなされていましたが、かつての雰囲気を感じるお宅が点在しています。江戸幕府の3代将軍、徳川家光のとき、五街道と脇往還(街道)が制定されました。旧山陽道は脇往還とされ、大坂から下関まで道幅2間半(約4.5メートル)の街道が整備されました。海田市宿では、寛永10(1633)年に行われた幕府巡検使の巡視に合わせて、画期的に整備が進んだといわれています。参勤交代の制度が始まった寛永12(1635)年からは、広島城下と西条四日市を結ぶ宿場町として、人馬15組、駕籠10挺が置かれ、人馬の継立が行われていました。

右側に、妻入りで奥行きの長い、宿場町に多い形式の民家がありました。

こちらは左側にあった、白壁の土蔵のあるお宅です。このあたりは上市地区。本陣(海田市宿では「御茶屋」と呼ばれていました)が置かれ、高札場も設けられていた宿場の中心地でした。ちなみに、海田市宿は、「東西6町27間、南北15町35間」といわれています。文化2(1814)年の「差出帳」には「家数563戸、人数2708人」と書かれているそうです

袖壁がつくられたお宅の先に、海田町役場の白い建物の一部が見えてきました。

海田町役場の向かいにあった熊野神社です。この神社にも、1対の常夜灯が残っていて、「文政8乙酉年九月」と刻まれていました。文政8年は1825年にあたります。承応3(1654)年に拝殿が再建された時の棟札が残っているそうで、それには、「庄屋猫屋次郎兵衛が願主となって再建された」ことが記されていたそうです。

その先、右側に上がっていく坂道のところに、「御茶屋跡(本陣)→」と書かれた案内がありました。参勤交代のとき、大名が宿泊する本陣があったところです。広島県には、海田市の他には、可部、吉田、八木、西条、本郷、吉舎(きさ)、甲山、尾道の8ヶ所に本陣が設置されていた(本陣跡の説明にあった「広島藩御覚書帳」から)そうです。

坂を登り切ったところに本陣(御茶屋)跡がありました。海田市宿の本陣(御茶屋)は広さ770坪で、広島県下9ヶ所の本陣の中で「4番目の広さだった」と書かれていました。ここは熊野神社の西にあたり、住宅になっている敷地のほぼ全域が、本陣跡に当たっているとお聞きしました。

旧街道に戻って進みます。右側に、海田恵比須神社がありました。延宝2(1674)年に勧請されたそうですが、享保14(1729)年、火災で焼失、その後、宝暦11(1762)年に再建されたそうです。ここにあった「海田恵比須神社由来記」(平成2年11月設立)には、海田市の歴史が詳しく説明されていました。このあたりは「中店」。江戸時代には「中市」の町が形成されていたところです。

海田恵比須神社の先の海田中店郵便局を過ぎたあたりで、「海田公民館」と書かれた看板が見えました。

海田公民館です。ここは、かつて、脇本陣があったところです。公民館にあった説明には、「安芸郡海田市国郡志御編集に付、下弾書出帳(したしらべかきだしちょう)」には「庄屋猫屋新太郎宅が、当時脇本陣と呼ばれていた」という記録が残っていると書かれていました。猫屋は広島城下町の猫屋町の出身で、海田市では「猫屋」を屋号としていました。海田市の庄屋と宿場業務の脇本陣をつとめていました。明治になってからは、ここに、安芸郡の郡役所が置かれました。先ほど通過してきた、熊野神社が、拝殿を再建した時の願主であった猫屋次郎兵衛も、この家の方だったのでしょう。

脇本陣の先にあった千葉家の邸宅です。平成3(1991)年、広島県の重要文化財に指定されました。この日は一般公開になっていました。江戸時代中期の建築様式を伝えていることで知られており、座敷棟は安永3(1774)年の建築で、寛政元(1789)年の建築略図が残っています。玄関は入母屋づくり、座敷は数寄屋風書院造り。また、庭園は、平成3年に、広島県の名勝に指定されています。邸宅は、本陣や脇本陣に準ずる施設として使用され、大名や幕府の役人の宿泊施設としても使われていました。

邸宅の内部を見学させていただきましたが、写真撮影ははばかられましたので、いただいたパンフレットの写真を撮影しました。千葉家は、江戸時代を通して「天下送り役」(幕府の書状や荷物を扱う任務)、「宿送り役」(広島藩の書状や荷物を扱う任務)、宿場町の年寄、組頭などの要職をつとめていました。写真の道具はその時に使用したものです。表面に「天下於(お)くり」、裏面に「宿送役」「海田町」、側面に「御用」と書かれていました。

千葉家の先祖は、中世前期に房総で勢力を張っていた千葉氏の一族で、下野国(栃木県)真壁に住んでいましたが、後に信州伊那に移り「神保」と号したといいます。永正年間(1504~1507年)に安芸国賀茂郡西条付近に移り、大内氏に属しました。大内氏の滅亡後には、毛利氏に属し、小早川氏の配下になっていました。そして、関ヶ原の戦いの後、毛利氏が長州に移ったとき、この地に残って住みつき、酒造業で財をなしたといわれています。

稲荷町に入りました。浄土真宗の寺院、明顕寺(みょうけんじ)です。天文10(1541)年の開基という古い歴史をもつ寺院です。幕末の第2次長州戦争で戦死した高田藩士の墓が設けられているそうです。

境内の西の端にあった鐘楼です。振り返って撮影しました。江戸時代中期の享保年間(1716~35年)、海田市の嶋屋浄祐、奥田屋善六、金屋源兵衛の寄進により、安芸国鋳物師(いもじ)の筆頭総代の名工、植木屋(金屋)源兵衛が制作した銅製梵鐘が納められています。

明顕寺の斜め向かいにあった三宅家の住宅です。江戸時代から明治時代にかけての豪農のお宅です。屋号は”新宅屋”だそうです。両替商で財をなしたお宅です。向かって左側が平入り、右側が妻入りの住宅が合体したような造りになっています。寛政元(1789)年に建設された土蔵が残っており、江戸時代の面影を今に伝えています。

旧山陽道から右に入る通りの角、黒い車のバンパーの向こう側に、一里塚跡の石碑が建っていました。道路の右側を歩いていましたので、見逃さずにすみました。

安芸ライオンズクラブが、昭和56(1981)年3月に建立した「旧山陽道海田市の一里塚跡」の石碑です。裏面には「古塚 大正10年撤去」と書かれていました。一里塚は、一里ごとに、通りの両側に直径、約6メートルの塚を設け、2本ずつ松の木が植えられたそうです。東(京・大阪方面)の次は、「鳥上の一里塚」で現在の安芸中野駅付近に、西(広島方面)の次は、「矢賀の一里塚」でイオンモール広島府中ソレイユ付近にあったそうです。

その先の山陽道も、かつての雰囲気を残す家並みが続いていました。

広かった通りが狭くなるところに、「広島市船越町」の標識がありました。ここが、安芸郡海田町の町境です。

その右側の路地です。そこには、広島市安芸区船越6丁目1番の住居表示がされていました。

江戸時代、大坂と下関を結んだ旧山陽道の海田市宿を歩いてきました。
広島藩の城下町から、東に向かって最初の宿場町、海田市宿は、広島城下へ物資を送るための中継点としての役割をもつ町でした。城下へ向かう人や物資の送迎に、忙しく、賑やかな町であったと伝えられています。






加古川線開業時の駅舎が残る駅、JR比延駅

2017年09月08日 | 日記
JR加古川線の比延(ひえ)駅です。西脇市鹿野町にあります。
比延駅の駅舎にあった建物財産標です。そこには、「鉄 本屋1号 大正13年12月」と書かれています。比延駅は、大正13(1924)年12月27日に開業しました。この年、野村駅(現在の西脇市駅)・谷川(たにかわ)駅間が開業して福知山線に接続し、現在の加古川線の全線が開業することになりました。この日は、加古川線の開業時からの駅、比延駅を訪ねました。
JR加古川駅です。現在の加古川線は、大正2(1913)年に、加古川町駅(現在の加古川駅)・国包駅(くにかねえき・現在の厄神駅)間が開業したことに始まります。この加古川町駅は、山陽鉄道の加古川駅とは異なる駅で、山陽鉄道とは接続していませんでした、山陽鉄道の加古川駅に統合されたのは、大正4(1915)年のことでした。
9時17分に加古川駅を出発する加古川線の車両です。西脇市駅行きの、クモハ102ー3553 クモハ103ー3553の2両編成、ワンマン運転の電車でした。加古川線の沿線は、「西脇、三木、北条など、古くからの都市や集落が点在し、播州米や西脇の播州織、三木の金物などの産業が盛んで、・・これら物資の輸送には加古川水系の水運が利用されていた」(「福知山線 播但線 加古川線 姫新線」朝日新聞社)が、その水運に代わる鉄道として、播州鉄道によって建設されました。
10時06分、定時に西脇市駅の駅舎に接した3番ホーム(駅舎から遠い方から1、2、3番ホームとなっています)に到着しました。ここから、右に見える谷川駅行き、1両編成、ワンマン運転の電車(クモハ125ー10)に乗り継ぎます。現在の加古川線は、当初、播州鉄道によって開業していましたが、播州鉄道の経営状態は厳しく、大正11(1922)年に経営破綻してしまいます。その後、後を継いだ播丹鉄道(ご指摘をいただき修正しました。ご指摘ありがとうございました)が、野村駅から谷川駅までを開業させたのです。
西脇市駅を10時12分に出発した電車(クモハ125ー10号車)の内部です。進行方向の左側に2人用、右側には1人用の座席が設置されています。この日は平日でしたが、10人程度の人が乗車されていました。 播州鉄道、播丹鉄道によって開業した加古川線は、太平洋戦争中の昭和18(1943)年、国に買収されて日本国有鉄道加古川線となりましたが、非電化区間のままでした。
第2比延踏切を越えると、比延駅の木造駅舎が見えてきました。谷川駅に向かって右側にホームがある、1面1線の棒状駅でした。線路の左側に架線が見えました。加古川線が電化されたのは、平成16(2004)年のことでした。山陽本線のダイヤがずたずたになった阪神淡路大震災(平成7年=1995年)のとき、迂回路線としての加古川線の重要性が認識されたからでした。当時、1日平均8,500人ともいわれる人たちが、加古川線経由で大阪方面に向かったと言われています。乗車した125形車両は、加古川線の電化完成に合わせて投入され、車両番号9-12までの4両が運行されています。また、加古川線のほか、JR西日本の小浜線や舞鶴線でも運行されており、平成14(2002)年から平成18年(2006)年にかけて18両が製造されたそうです。
駅名標です。新西脇駅から2.3km、次の日本のへそ公園駅まで1.5kmのところにありました。ちなみに、日本のへそ公園駅は東経135度、北緯35度のところにあり、日本の中央部に当たることから名づけられたということです。
西脇市駅で乗り継いだ谷川駅行きの電車は、10時18分に比延駅に着きました。電車の隣に、雑草に覆われた、かつてのホームの跡が見えました。電車とホーム跡の間は、舗装されていましたが、かつての線路跡と思われるスペースが見えます。
これは、駅舎前のホームの状況です。向こうのホームの中央に、駅員が構内踏切を歩いて対面するホームに移動するための石段が残っていました。もとは、2面2線のホームだったのでしょう。
これは谷川駅方面から見た比延駅のホームです。木造駅舎に隣接したホームに、鉄製の上屋(うわや)が、設置されていました。
上屋の柱を探していると、柱の中に、上屋の建物財産標が貼ってありました。
「旅客上屋1号 鉄 昭和41年1月」と書かれています。その下には「塗装管理標」が貼り付けてありました。昭和41(1966)年につくられたもののようです。そして、JRになってから、塗装がなされているようですね。写真には入っていないのですが、「平成8年3月18日」の日付が見えました。
ホームの谷川駅方面に残っていた枕木の垣根です。私の少年時代にはホームの後ろには必ずこの垣根がありました。駅と言えば、思い出す重要なパーツです。緑の塗装がなされているのでしょうか。
ホームから2段の階段を下り、かつて改札口があった所を通って駅舎内に入ります。駅舎には、自動改札機も、自動券売機も設置されていませんでした。ホームへは、バリアフリーの通路を通っていくこともできます。障害のある人にも、高齢者にも優しい駅になっていました。
駅舎内から改札口方面を撮影しました。左側には8人が座れるベンチ。右側には、かつて駅事務所があったのでしょう。現在は待合いのスペースだけの駅舎に変わっていました。
手前には、地元の人がつくられたらしい造花が彩りを添えているところがありました。
駅舎内にあった時刻表です。加古川線は、厄神駅までの列車は1日40本を超えていますが、厄神駅から先では半減し、さらに、西脇市駅から谷川駅に向かう列車は、1日9本しかありません。日中は3時間に1本の運行です。そのため、西脇市駅から谷川駅の間は、クモハ125ー10が1両でカバーしているようです。
駅舎から駅前に出ました。入口の右側の柱に、建物財産標がありました。駅舎の中で使われているのは写真のこの部分だけになっています。他の部分はどうような状態になっているのでしょうか?
上は冒頭で書いた、「大正13年12月」の開業時の年号が書かれていました。下側の「塗装管理表標」には、「平成8年3月18日」と記録されていました。
入口にあった駅名表示です。墨で書かれた「比延驛」の額が、今も残されています。
駅への取付道路です。広々とした道が、まっすぐ続いています。静かな住宅地の雰囲気です。両側の民家も建て直されたものが多く、今も居住されているお宅ばかりのようでした。一番先の茶色の建物は、現在は、西脇市コミュニティセンターになっています。もとは、JAの建物だったようです。
駅前の広場です。駅舎の左側には、自転車置き場。4台ほど、列車を利用されている人が駐車しておられるもののようです。右側は、庭園になっていましたが、樹木の間にはかなりの雑草もありました。待合いのスペース以外は建物の中に入ることができない構造になっています。
駅の周辺を見ようと歩き始めましたが、途中から雨が落ちてきましたので、駅に引き返すことにしました。取付道路から見た駅舎です。
駅舎で雨宿りをしていたとき、駅に高齢の女性の方が来られました。比延駅で出会った最初の方でした。「西脇市駅からの加古川方面行きの電車の出発時刻がわからない」とのことでした。幸い、「時刻表」を持っていましたので、発時間をメモしてお渡しすることができました。比延駅では、この駅以外の情報を得ることはできません。ネットを利用すれば、簡単に情報が得られるのでしょうが、せっかく、鉄道を利用しようとされた方を支援する有効な方法があればいいのですが・・。 
谷川駅からの列車が比延駅に到着しました。西脇市駅に向けて引き返すことにします。

JR加古川線の比延駅を訪ねてきました。
大正13(1924)年12月の加古川線の全通時に建てられた比延駅は、93年目を迎える今も、駅舎としての役割を果たしています。ただ、他の古い駅舎、(「明治27年開業のJR播但線の2つの駅(1)JR鶴居駅舎」2017年3月17日の日記・「明治27年開業のJR播但線の2つの駅(2)JR香呂駅」2017年3月24日の日記・「明治29年の建物財産票のある駅 JR木幡駅」2017年3月31日の日記)と同じように、多くの部分が改修されていました。時代の変化に伴って、変わっていかなければならないことは理解しているつもりですが、やはり残念でした。

商品の移動を舟運から鉄道輸送に代えるために建設された鉄道でしたが、貨物輸送は廃止されて久しく、旅客輸送も多くはありません。比延駅はそんな加古川線の象徴のような駅でした。「開業時から残る貴重な駅」として、これからも加古川線の活性化に一役買ってほしいと願っています。









瀬戸内地域で「最古の商家」木原家のある町、白市

2017年09月01日 | 日記

広島空港のある東広島市の丘陵地帯に、江戸時代前期に建てられた「瀬戸内地域で最古」といわれる町家が残っています。これが、東広島市の白市にある木原家住宅です。今回は、木原家住宅のある白市の町並みを訪ねてきました。

真夏の日射しで、漆喰の白さが目に染みます。入口にあったブザーを押して、出てこられた管理者の方に入場料150円を支払って、見学させていただきました。「説明しましょうか」とお尋ねでしたので「はい」とお答えしました。管理者の方は、木原家と白市の町について、ていねいな説明をしてくださいました。木原家は平入りの切妻造り、厨子2階建て、間口6間半、奥行5間の建物でした。江戸時代には、南側の歯科医院の部分も含む広い敷地を有していました。

内部に展示されていた「鬼瓦」です。「寛文五年五月廿七日」と篦(へら)で書かれた銘がついていました。寛文5年は1665年。江戸時代前期の建物です。 戦後の経済環境の激変によって衰え、主家(おもや)も放置されていましたが、木原家住宅は、創建以来300年という商家であるとして、昭和41(1966)年6月11日、国の重要文化財に指定されました。そして、2年後の、昭和43(1968)年に保存修理が行われ、現在の姿に復元されました。管理者の方がつくられた資料の中に「創建が江戸初期の重要文化財の町家」を古い順に並べた資料がありました。それによると、「①栗山家住宅:慶長12(1607)年奈良県五條市 ②山口家住宅:元和年間(1615~1624)堺市錦之町 ③中村家住宅:寛永9(1632)年奈良県御所市名柄 ④今西家住宅:慶安3(1650)年奈良県橿原市今井町 ⑤豊田家住宅:寛文2(1662)年奈良県橿原市今井町 ⑥旧木原家住宅:寛文5(1665)年」と書かれていました。国指定の重要文化財の町家に限れば、「瀬戸内地域で最古」というのも肯かれます。

江戸時代、木原家はここで酒造業を営んでいたほか、瀬戸内海沿岸で製塩業も営み、財をなした豪商でした。土間が奥まで続き、主家の左側は板間になっていました。厨子2階建ての2階部分は、従業員の寝室や納屋として使われていたそうです。

主家の裏です。酒造業を営んでいた頃の作業場があったところです。広い敷地の向こう側は、江戸時代から、歌舞伎を上演する劇場の「長栄座(ちょうえいざ)」があったところです。

酒造業に使われていた井戸がありました。管理者の方のお話では「すごく深いですよ」とのこと。木原家は、財をなした後、白市やその周辺の寺社への寄進を積極的に行っています。白市で町年寄をつとめた木原保満が寄進した供養塔や石灯籠が、光政寺(こうしょうじ)、西福寺(さいふくじ)、養国寺(ようこくじ)、土宮神社など、現在も白市に残る寺社の中に残されています。

主家の中にあった、木原保満の肖像画です。元禄元(1688)年に白市屋伊左衛門の長男として生まれ、4歳のときに父が死去したため、祖父母の木原七郎左衛門に育てられました。18歳のとき、木原家を継いでいた孫六が興した、大原屋(管理者の方のお話では木原家は親族の家も含めて3家あったようです)の養子となりました。享保10(1725)年には白市の町年寄となり、町の振興にも貢献した方でした。

晴れ渡った夏の1日、山陽本線のJR糸崎駅でJR大野浦駅行きの普通列車に乗り継ぎ、白市駅に着きました。

JR白市駅です。ここから白市の町まで、歩いて30分ぐらいかかりました。

駅前からは、広島空港へ向かうバスが出発していて、白市駅は広島空港への玄関口になっています。

駅から左方向(広島方面)に向かって歩き、山陽本線と並行して走る主要地方道59号(本郷忠海線)に出ます。

国道59号を、右側に食品スーパーの建物を見ながら、さらに進みます。前方に交通標識が見えてきました。「重要文化財木原家住宅」と書かれています。標識の先を右折して、広島県道351号造賀田万里(ぞうかたまり)線を進んで行きます。

県道造賀田万里線はそこから大きくS字にカーブして丘陵地帯を上っていきます。その後、広い住宅団地を左側に見ながらさらに上りました。

道路の左側に、「木原家住宅」と書かれた標識が道路の左側にありました。標識の矢印にしたがって右折します。集落に近づいて緩い左カーブを回ると、駐車場がありました。

駐車場にあった案内図です。少し見づらいのですが、駐車場(右から2本目の縦の道)からまっすぐ北に進むと、木原家住宅の前に出ます。しかし、私は、ここから、駐車場の一本右の道(東町)を北に進むことにしました。

駐車場から50mぐらい進み、Uターンして、西福寺に向かって石段を上って行きます。さて、ここ白市が発展したきっかけは、戦国時代の文亀3(1503)年、平賀弘保(ひろやす)が、防御を固めるため白山城を築いたことでした。平賀氏は、もともと出羽国平賀郡(現・秋田県横手市付近)の御家人の一族でしたが、いわゆる東国武士の西遷によってこの付近に移り、弘安(1278~88)年間に、現在のJR西高屋駅の北4kmぐらいのところにある御園宇城(みそのうじょう)を築き、長い間本拠地にしていました。白山城は、白市の東にある城山(標高314.1m)にありました。

城山の西麓にある西福寺(浄土宗)の境内に入りました。左側の建物が本堂です。もとは、安芸国賀茂郡溝口村にあった大福寺で、当時の住職、西蓮法師が、天正12(1585)年にこの地に移し、自身の名から1字取って「西福寺」と改名したそうです。

「元文5年」(1740年)の銘が刻まれた供養塔です。木原保満の寄進によるものです。

本堂の左側を通って進みます。その先にある光政寺に向かうつもりでした。

突きあたりを右折します。左側に「東町ふれあい公園」がありました。

東町ふれあい公園です。白市の町の説明板がつくられ、展望台にもなっていました。

東町ふれあい公園から見た白市の町並みです。建て替わっているお宅もありますが、赤い釉薬瓦の伝統的な民家がかなり残っています。この町のかつての繁栄のようすがしのばれます。一番高いところにあるのが、養国寺(浄土真宗)です。

東町ふれあい公園の脇にある光政寺の参道の石段を上ります。光政寺は白山城を居城とした平賀氏の菩提寺で、永正2(1505)年に建立された真言宗の寺院です。 さて16世紀、大内氏と、毛利氏と結んだ尼子(あまこ)氏の抗争の影響で、平賀氏一族も分裂、抗争を続け、大内氏の滅亡後は、毛利氏に従うことになりました。そして、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後は、毛利氏とともに周防・長門の国に移って行きました。城下町として発展してきた白市は、それ以後、平賀氏の旧家臣が商業を営みながら町政を担っていたといわれています。

平賀氏は去りましたが、白市の町は、養国寺や西福寺などの寺院が残ったこともあり、安芸の国東部の交通の要衝、地域経済の中心地として、繁栄が続くことになりました。江戸時代になってからは、牛馬市が開かれたり、長栄座での歌舞伎興行も行われていました。 写真の左側の石像は、木原保満が寄進した宝篋印塔です。この寺にも、木原家の足跡が残っていました。

光政寺の本堂の脇には、木原家の墓地がありました。現在の光政寺は無住の寺になっています。「安芸門徒」といわれるように、安芸の国は浄土真宗の信徒が多いところです。「真言宗の寺院では、城主が去って支援者を失うと維持するのが難しかったと思う」と町の人はいわれていました。木原家の墓地のある付近には雑草が生い茂っており、近づくのが辛い状態になっていました。


ここからは、町並みを見て歩くことにしました。木原家だけではなく、かつての繁栄の跡を残す商家がたくさん残っており、町並みの美しさもすばらしい町でした。

東町ふれあい公園の道に戻り、東町を北に向かって上ります。

I氏邸付近です。このあたりに、歌舞伎の興行も行われた長栄座があったそうです。今は、静かな住宅地になっていました。

その近くから木原家が見えました。主家から突き出して造られた、三角形の別棟の角屋(つのや)が見えています。その先で、左折(西行)します。

左折して西に進むと、右側に「白瀧山養国寺」と書かれた石製の門がありました。その先に、本堂が見えます。先ほど、東町ふれあい公園から見えていた養国寺です。元暦元(1184)年に真言宗の寺院として創建されましたが、天正年間(1573年~1591年)に改宗して、現在の浄土真宗白滝山養国寺となりました。

長い参道を歩いて、石段で鐘楼門をくぐります。本堂に着きました。ここにも、木原保満の寄進になるものが残っていました。右側に石灯籠が見えますが、左側にもあって、右側が「寛延4(1751)年=宝暦元年」に、左側が「宝暦11(1761)年に寄進したものでした。

これは、この先にある稲荷神社の玉垣です。「矢野曲馬團」(矢野サーカス)「木下曲馬團」(木下サーカス)の銘のある玉垣が寄進されていました。サーカスの興行は、養国寺の前の広場にテントを張って行われていたそうです。

通りに戻って、再度、西に向かって進みます。左側から上ってくる通りと合流します。その通りの左側、恵美須神社の隣に、白漆喰がまぶしい木原家の主家が見えました。このあたりは本町です。

さらに、西に向って栄町を歩きます。右側にあった伊原惣十郎家です。出雲出身の鋳物師の頭で、邸宅の裏(現在、竹林になっているところ)に作業場があったそうです。喚鐘の製造で財を成した家柄で、京都御所の灯籠や宮島大灯籠を鋳造し寄進したことで知られています。建物は明治時代の建築になるもので、御成門や石垣など、力強く美しい邸宅です。

地元の方から、「かつてTVで放映された時には、この鋳物の装飾が取り上げられていました」というお話をお聞きしました。

左側の伊原八郎家です。大正時代に数寄屋造で建てられ、すでに100年が経過しています。上品な印象を受ける建物です。こちらの伊原家も出雲の出身で、金融業で財を成したといわれています。

特に、この門が印象に残りました。

その先の稲荷神社の前から、来た道を振り返って見た風景です。電柱が気になりましたが、左が伊原惣十郎家、右が伊原八郎家、そして、ゆるやかに下っていく坂道、白市で最も美しい風景でした。

坂を登り切ったところにあった稲荷神社の前から、伊原惣十郎家の方向を撮影しました。稲荷神社の東の向かいにあった「栄町いなり坂公園」です。江戸時代には西条郡役所が、明治になってからは白市村役場がここに置かれていました。白市村は、その後、東高屋町、高屋町となり、現在は東広島市になっています。

稲荷神社からさらに西に向かって、坂を今度は下っていきます。白市交流会館を過ぎると、左側に、明治期に建てられたという舛井家が見えてきました。ここも御成門や格子造りで、袖壁もついている重厚な感じがする邸宅でした。

白市は、牛馬市が開かれていた町です。木原家でいただいた観光マップを見ながら、牛馬市跡をめざします。さらに西に進み、福村建設の手前を右折して北へ進みます。

お好み焼きのお店を過ぎると、石垣のあるお宅が見えました。このあたりから、牛馬市が行われていただろうと思い、すぐに引き返してしまいました。しかし、帰ってから見直すと、「牛馬市跡」の碑があると書かれていました。この先、もう少し歩いていたらと後悔しました。



スタート地点の駐車場へ戻ります。白市の町歩きの最後に、下市から本町を通って、木原家まで行くことにしました。

北に向かって右側にあった勝田家です。その先から、右に向かう小路が出ています。通り過ぎて、その小路付近を撮影しました。勝田家は、江戸時代後期から末期に建造されたお宅で、白市では木原家に次いで古い建築と考えられています。醤油の醸造を生業とされていたそうです。

勝田家の先、左側にあった重満家です。江戸末期から明治にかけて建造された建物のようです。酒造業を営んでおられたお宅です。現在は重満家になっていますが、ここも、木原家の一族のお宅だったとお聞きしました。

木原家の向かいにあったお宅です。現代の名建築といった建物です。お話によれば、木原家の番頭さんのような役割を果たしておられた方のお宅だということです。

「瀬戸内地方で最古の町家建築」といわれている木原家と、美しい白市の町を歩いてきました。JR白市駅を降りたときには、山の中にほんとうにそんな町があるのだろうかと思っていましたが、実際に訪ねてみると、余りのすばらしさに感動してしまいました。一つ一つの建物がすばらしいだけでなく、町全体の雰囲気もすばらしく、これからも、この美しい町並みを残してほしいと心の底から思いました。



うだつの家並み、三次市の栄町・上市を歩く

2017年08月25日 | 日記
広島県の北東部の中心都市である三次市の三次町地区の石畳が敷かれた本通りには、袖壁(そでかべ)や卯建(うだつ)のある商家の家並が続いています。袖壁や卯建はもともとは火災の時の延焼防止のためにつくられたものでしたが、商人の格式のために競ってつくられるようになっていったといわれています。西城(さいじょう)川、馬洗(ばせん)川と江(ごう)の川に囲まれた三次市三次町地区は、明治時代以降、舟運による物資の集散地として栄えてきたところです。前回、三次地区の本通りの本町地区を、ゑびす神社の枡形(ますがた)まで歩いてきました。

本通りの突きあたりにあったゑびす神社です。ゑびす神社の並びには、プロ野球広島カープのスター選手である梵英心選手のご実家、専法寺があります。さらに、右に進むと旭橋で西城川を渡って、三次市十日市地区に向かっていきます。十日市地区には、JR三次駅や市役所を中心とした新しい市街地が広がっています。

この日は、ここから三次町の本通りを栄町、上市、太歳町に向かって歩きました。ゑびす神社の前を左折して、50メートルほど進み、荒瀬外科の看板があるところを右折します。

栄町地区に入ります。石畳の両側には袖壁のついた伝統的な町並みが、夏の日射しの下に広がっていました。

多くの商家は改修されていて、新築のような雰囲気が漂っています。袖壁には鏝絵(こてえ)が描かれています。左官職人が使用する道具である「鏝(こて)で、漆喰(しっくい)の塗装材料を塗ってレリーフを描いた作品のこと」で、家内安全などの願いを込めて飾られました。

右側にあったお宅に描かれていた鏝絵です。漆喰は「消石灰を主な原料として、それに糊(のり)としてのツノマタ(海草の一種)と、繊維材料としてのすさ(麻の繊維を短く切ったもの)を加えたもの」だといわれています。

歩行者専用道路ではないので、往来する車がかなりあります。枡形付近にはお店がありましたが、このあたりには静かな住宅地という雰囲気の漂う通りになっています。

右側にあった「和久長醤油醸造場」の看板のあるお宅です。かつての商家の雰囲気を感じることができました。

その先にあった建物は、3階建てのような大きな構造でした。看板には「木綿兎(もめんと)」と書かれています。本町の「三次市歴史民俗資料館」の建物にあった辻村寿三郎人形館でいただいた町並みの観光パンフには、「辻村寿三郎工房」と書かれていました。

工房に隣接した右側の部分には「三次地域交流館」という看板が掛かっていました。

本町と同じように本通りから左右に小路が分岐しています。美しいこの路地は正庵(せいあん)小路です。横の壁板が印象的です。道路の幅から往事の小路の面影を感じることができました。

その先に、また、枡形がありました。石畳の通りはここで鍵型に曲がっています。正面にあるのが、三勝寺(浄土宗)です。開山は、戦国時代の天文5(1536)年。当時、現在の三次市三若(みわか)町にあった旗返(はたかえし)城主の菩提寺として創建されました。寛永9(1632)年、三次藩主として、浅野長治が入封したとき、この地に移されたと伝えられています。浅野長治は、広島藩主浅野家の2代目藩主、浅野光晟(みつあきら)の異母兄にあたる方でした。

三勝寺の本堂です。三勝寺は、県指定文化財の「銅鐘」(高さ87cm)で知られています。「広島県の歴史散歩(広島県の歴史散歩編集委員会編 山川出版社)」には、「永和2(1376)年、播磨国永良(ながら)荘(現在の兵庫県市川町)の護聖寺(ごしょうじ)のために鋳造されたもの」だと書かれています。しかし、「長享元(1487)年に、守護大名、大内政弘によって、周防大島三浦庄志駄岸(しだぎし)八幡宮に奉納された」そうです。八幡宮は現在の山口県周防大島町にあるそうです。その後、「どのような経緯で三勝寺に納められたのかは不明」だそうです。

左側に、三次藩主浅野家の菩提寺である鳳源寺(ほうげんじ)へ向かう道路があります。その先に杉田薬局の白壁の建物が見えました。赤い「処方箋」と書かれた看板の右側に石の道標が建っていました。

道標です。正面には「右ハたかの山道 左ハいづも大社道」右側の側面には「左ハひろしま道 右ハいづも大社道」と書かれています。杉田薬局の手前を左折して進むと、出雲街道(石見銀山街道)へ向かう道になります。そして、歩いてきた通りは、広島に向かう道でした。

袖壁のついたお宅が並んでいます。袖壁に書かれていた屋号(「カ」「イ」)も見えました。

少し進むと、赤い壁の建物が見えました。正面から見るとほぼ黒一色でした。建物の入口の看板には「卑弥呼蔵 たべもの屋」と書かれています。観光パンフを見ると、「たべもの屋 赤猫」「寝床と学び舎 青猫」と書かれていました。ここは、酒蔵の卑弥呼蔵でした。現在は、レストランと宿泊施設になっているようです。

「卑弥呼蔵」の前には広い敷地が残り、奥には”万寿の井”の看板のついた醸造場が残っていました。この長い建物は、文化庁の登録有形文化財に登録されています。

その先で、商家の家並みが途切れます。町の出口でした。太歳神社がありました。

通りの右側には、馬洗川に合流する前の西城川が流れています。下流方向を撮影しました。

通りの出口から左折して進みます。この先に、三次藩主浅野家の菩提寺、鳳源寺(ほうげんじ)があります。そこをめざして進みます。

前方にあった交通標識です。右側から来た国道375号はこの道に合流し南に向かうことを示しています。国道375号は出雲街道(石見銀山街道)で、鳳源寺へは右折して国道375号を進むことになります。また、歩いてきた石畳の通りにあった杉田薬局の脇の道標から西に向かえば、まっすぐ鳳源寺に行くことができます。

以前、JR三江線の尾関山駅を訪ねたときに歩いた出雲街道(石見銀山街道)は、三次市立三次小学校の脇を通って南に向かっていました。

右折して国道375号を進むと、右側にすぐお寺がありました。鳳源寺ではないようだと思って確認すると、寿正山妙栄寺でした。慶安元(1648)年、三次藩初代藩主の浅野長治が建立した日蓮宗の寺院でした。案内板の説明によれば、山号の寿正院は、この寺の施主であった浅野長治の母(寿正院)の名前をとってつけられたようです。

国道375号を進むと、石垣の上に寺院が見えました。三次藩主浅野家の菩提寺の鳳源寺(臨済宗)です。寛永10(1633)年、三次藩主浅野長治(鳳源院)が比熊山の南山麓に、浅野家の先祖の菩提を弔うために建立したそうです。

鳳源寺の手前側から石段を上ります。寺内にあった「説明」によれば、浅野長治は水害対策のための河川の堤防の造成、たたら製鉄や麻、製紙などの産業振興、牛馬市の開設など民政の振興に功績を挙げた藩主で、62歳で亡くなるまで、藩政の基礎づくりに力を尽くした名君だそうです。

鳳源寺の本堂です。境内には藩主の墓や約300基の藩士の墓も残っています。初代藩主の浅野長治も、参勤交代による江戸在任中に死去しましたが、遺言によりこの寺に葬られています。

本堂の脇にあった、初代藩主、浅野長治の像です。

こちらは、浅野長治像の近くにあった阿久里(あぐり)姫像です。阿久里は浅野長治の側室お石の方の息女で、7歳まで三次で生活しました。後に、播州赤穂藩主浅野長矩(ながのり)の正室になりました。長矩が江戸城内で刃傷治事件を起こして切腹してからは、落飾して瑶泉院と称し、切腹した藩主を弔いながら45歳で亡くなりました。

境内にあった大石良雄お手植えの桜です。大石は、播州赤穂藩の家老で、阿久里が浅野長矩に輿入れしたときに三次を訪れました。その時に手植えをしたといわれている桜です。大石は、後に、播州赤穂藩士47人と共に吉良上野介義央を討って、主君の仇をとったことで広く知られています。


三次市の三次町地区を歩いてきました。石畳が敷かれた本通りを歩き、三次藩主浅野家にかかわる歴史を訪ねてきました。
猛暑の中を歩きましたが、見どころがたくさんあったすばらしい街でした。


うだつの家並み、三次市の本通りを歩く

2017年08月11日 | 日記

三次市三次町地区の「本通り」に残る商家です。三次町地区には袖壁(そでかべ)も含めた卯建(うだつ)のある商家の家並みが残っています。三次市の中の西城(さいじょう)川、馬洗(ばせん)川、江(ごう)の川に囲まれた三次市三次町地区は、古くから、舟運による物資の集散地として発展してきたところです。

これは、JR三次町地区にあった観光案内です。図の中央の南に張り出したように見えるところが三次町地区です。三次町地区の東側を北から南に流れているのが西城川。地図の東側から南西に向かって流れているのが馬洗川。西城川と合流した馬洗川は、三次町の南西部で南から北に向かって流れる可愛(えの)川に合流し、江の川と名前を変えて、北西に向かって流れていきます。JR三次駅から三次町地区に行くには、西城川に架かる旭橋を渡る、南部の馬洗川に架かる巴(ともえ)橋を渡る、そして、JR三江線の尾関山駅から歩くという3つのルートが考えられました。

この日は、JR三次駅前の観光協会でいただいたマップを手に、緑で引かれたルートに沿って、三次駅から巴橋を渡って三次町地区に入ることにしました。

平成27(2015)年2月28日から利用が開始された、三次市の十日市町地区にあるJR三次駅です。三次駅からまっすぐ駅前通りを進みました。三次駅は、芸備線の駅として、昭和5(1930)年に「十日市駅」として開業しました。その後、昭和29(1954)年に三次市に移行したことにより、その玄関口として、同年12月に「三次駅」と改称されました。それまでの芸備線の「三次駅」は、「西三次駅」と改称されることになりました。

三次日出郵便局を過ぎると、右前に「出会いのひろば」という公園がありました。その手前を左折して進みます。

JR三次駅から20分ぐらいで、巴橋の東詰にやってきました。

巴橋の上から見えた「三次のうかい(鵜飼)」のぼんぼりです。西城川(左側)と馬洗川(右側)の合流点が背景に見えます。合流してからは馬洗川となりますが、そこでうかいは行われています。江戸時代の寛永9(1632)年、当時の広島藩の2代目藩主浅野光晟(みつあきら)の異母兄であった浅野因幡守長治(ながはる)が5万石で三次藩を立藩しました。「広島県の歴史散歩」(広島県の歴史散歩編集委員会編 山川出版社)によれば、馬洗川でのうかいは戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)の尼子氏の落武者(おちむしゃ)が始めたといわれます。藩主長治が鵜匠制度を確立し、手厚い保護を与えたことによって」発展することになりました。

巴橋を渡って、三次町地区に入りました。馬洗川の右岸の堤防上にあった国土交通省の「一級河川 江の川」の案内です。下に、うかいの絵が描かれています。

堤防の下の道です。三次町本通の商家は、西城川の自然堤防上に発展した細長い家並みだったそうです。住吉神社の手前に「本通り」の案内がありました。三次町の起源は、室町時代の末期頃だといわれています。寛永9(1632)年に、浅野長治に始まった三次藩は、5代目藩主が急逝し跡継ぎもいなかったため、享保5(1720)年に広島藩に還付されることになりました。それ以降、宿場町、在郷の商業町として発展することになりました。

町に掲示されていた「卯建の似合う町」です。三次町の本通り商店街では、「卯建の似合う町」をスローガンに、街づくりを進めています。本通りは「歴みち石畳通り」と名づけられ、道路上には石畳が整備されています。住吉神社の脇から本通りに入りました。

住吉神社のすぐ先にあった、浄土真宗本願寺派の寺院、照林坊です。鎌倉期に広島県の鞆の浦に建立された寺院で、安芸高田市を経て、関ヶ原の戦いから2年後の慶長7(1602)年にこの地に建立されました。正面にある山門は、寛文5(1665)年につくられ、昭和中期に改修されたもの、また、奥に見える本堂は、嘉永5(1852)に建てられ、昭和33年(1958)年に改修されたものです。こうした建築物によって、平成23(2011)年に登録有形文化財に登録されました。

その先の袖壁がついた薬店には、歴史を感じる看板が掲げられたいました。そこには「池田六神丸 長崎古代名薬 清国蘇州雷氏直製 本舗池田愛命堂 代理店 浅田薬店」と書かれていました。

浅田薬店のすぐ先に、卯建のあるお宅がありました。うだつは、もともとは火事の時に類焼を防ぐ目的でつくられたものでしたが、後には、商人の格式を示すため、競ってつくられるようになったといわれています。この地の商人の財力がしのばれます。

三次市の本通りが紹介されるとき、必ずと言っていいほど出てくるお宅です。袖壁には屋号が書かれています。商いはもうなさっておられないようで、表には「みよし国際平和美術館」と書かれていて、たくさんの美術品が展示されていました。

みよし国際平和美術館の展示が行われていた二つの建物の間に、法音寺の参道が設けられていました。先ほどの照林坊もそうでしたが、境内にかなりのスペースが必要なため、表通りを避けてつくられたのでしょう。

その先の右側にあった、人形作家の辻村寿三郎人形館の建物です。入口には「三次市歴史民俗資料館」とあります。この建物は、鉄筋コンクリート造り洋風の石積みの建物で、もとは、昭和2(1927)年に建造された三次銀行の本店でした。三次銀行は、昭和20(1945)年に芸備銀行と合併し、昭和25(1950)年までその中町支店として使われていました。その後、昭和26(1951)年からは三次郵便局として使用されたそうです。昭和56(1981)年からは歴史民俗資料館として使われていました。国の登録有形文化財に登録されています。

「れとリーと みよし 本通り」ののれんです。「レトロ」な「ストリート」なんですね。本通りの人たちは「歴史的まちなみ協定地区 三次町歴みち協議会」を結成し、卯建の町並みを守る活動と町の活性化に取り組んでおられます。

通りの右側にあったお宅の屋根の上で、改修工事をしておられた職人さんです。こうして、美しい町並みは守られているのですね。

通りの左側にあった「銘菓 泡雪」のお店、「創菓庵 わたなべ精進堂」です。「上品な甘さととろけるような食感が人気の銘菓」として広く知られています。

その先は交差点になります。手間の左側は食品スーパー、手前の右側には商店街の駐車場がありました。右方向に進むと西城川の堤防に行くことができます。

交差点の一角にあった「御蔵小路」の標識。三次藩時代、陣屋とそこにあった藩の米蔵に続く通りです。三次町では、本通りから左右に延びる通りを小路と呼んでいます。

交差点を左折して、御蔵小路だった通りを1ブロック進みます。交差点の向こうの右側の白い建物は、三次ふれあい会館(コミュニティセンター)です。左側は三次商工会議所。その先に三次小学校の4階建ての校舎があります。商工会議所の手間に小公園がつくられていました。

小公園にあったモニュメントです。左側の岩石は、藩主の居宅と藩政を執った陣屋だった「御館(おやかた)」の堀の石垣に使われていたものだそうです。真ん中は御館の絵図。右側は御館の説明板です。それによると、三次ふれあい会館を中心に、南北159m余、東西159m余の敷地内に御館があったそうです。

これが、真ん中の御館の図面です。図の上が北を示しています。下側が南側で商工会議所や小学校の前の通りに面していたようです。図の一番東側にあった「外御米蔵」(図の最も右側にある長方形の建物)は「表御門」の北側の方にありました。

外御米蔵は、先程の交差点の北東にある「白蘭酒造株式会社」の工場の付近にあったようです。

案内板にあった御館の想像図です。絵図が残っていないので、上の図面から復元したそうです。東(右側)に「表御門」がありますので、東に向いていたようです。説明では、書院の南前にある黄色の建物が米蔵でした。図面を見ると、米蔵は敷地内にこの3棟と外御米蔵の合わせて4棟あったようです

これは、三次ふれあい会館の東側につくられていた「三次藩館跡」の石碑です。

広い御館の敷地であったところには、他にも、当時の歴史を伝えてくれるものが残っています。一つは、小学校の向かいにあった社倉です。社倉とは飢饉に備えて麦を蓄えていた倉庫のことです。広島藩では、安永8(1779)年藩内全体に命じられました。説明板書かれていたものによれば、「三次藩では、安永年間(1772~1780年)から天明年間(1781~1788年)の初期に設けられ、明治初期まで続いたと伝えられていますが、天明6(1786)年には、救麦(すくいむぎ)永代麦(えいたいむぎ)として約113石(20.4キロリットル)の麦を貯蔵していた」ということです。なお、写真の建物は創建当時のものといわれています。

もう一つは、三次ふれあい会館の西側にあった、頼杏坪(らいきょうへい)の役宅(やくたく)である運甓居(うんぺききょ)です。樹木のために撮影が難しかったので、建物の裏側からの撮影になりました。杏坪は、郡代官や郡回りとして、備北4郡(三次郡、恵蘇郡、三上郡、奴可郡)の民政に尽くし、文政11(1828)年から2年間、三次町奉行をつとめ、郡民から厚い信望を得た人でした。茅葺きに葺き直されたばかりのような運甓居でした。運甓居は、中国の東晋時代、荊州の役人だった陶侃(とうかん)が、毎朝夕100枚の敷瓦を運んで他日の労に備えたという故事に因んで名づけられたといわれています。

御蔵小路を引き返して、食品スーパーのある交差点に戻って来ました。再度、本通りを北に向かって進みます。改修されているためか、白漆喰がまぶしいぐらいの明るい通りになっていました。

交差点から、4、5軒目、左側にあった白蘭酒造株式会社です。今度は正面からの写真です。広い敷地に煙突も残っていました。

右側にあった畠中(はたなか)小路です。写真の左下に、郵便ポストの頭が入ってしまいましたが、かつての小路はこのくらいの広さだったのかと思えるような通りです。雰囲気のある通りになっていました。

左側にあった中野歯科医院の看板があるお宅です。今は医院はなさっていないようでした。袖壁の美しいお宅でした。

石畳が敷かれた万光(まんこう)小路。名前の通り、光あふれる洗練された通りです。奥に寺院のような屋根をもったお宅が見えました。

三次人形が並んだお店です。三次人形も、三次藩の初代藩主、浅野長治の支援で発展したものだといわれています。

ゑびす神社の前で行き止まりになりました。街道筋によく見られる枡形になっています。いただいたマップには「ゑびす神社」と書かれていますが、つり下げられていた提灯には「胡子」と書かれていました。商業町に多い商売繁盛の神様です。

右折すると、西城川に架かる旭橋を渡ることになります。

ゑびす神社の右側にあった浄土真宗本願寺派の梵行山専法寺。広島カープの梵(そよぎ)英心選手のご実家の寺院です。

「2006 セントラルリーグ新人王  2010 セントラルリーグ盗塁王 GG賞  2014 チームリーダー  2015 選手会長」と梵選手の華々しい活躍の跡が紹介されていました。

「歴まち石畳通り」はここで左折し、その先の「荒瀬外科」の看板のあるところで右折して進んで行きます。三次町本通りはここで終わりになりました。

西城川と馬洗川、江の川とその源流の可愛(えの)川の舟運によって、様々な物資の集散地として栄えた三次町本通りには、繁栄を物語る卯建のある商家が並んでいました。そして、今はそんな町並みを活かした町づくりを進めています。まぶしいぐらい美しい漆喰の町並みが印象に残りました。

次回は、枡形から先、栄町の通りを歩いてみようと思っています。